ブレンダ・リーが聴こえる夜

―地球が見た、最後から二番目のクリスマス―



まえがき

人は、ときどき不思議な記憶を思い出します。

何十年も忘れていたはずなのに、ある曲を聴いた瞬間、匂いまで蘇ってくる。

あの日の空。

誰かの笑い声。

着ていた服。

そして、自分でも忘れていたはずの約束。

もし、その記憶が単なる過去ではなかったとしたら。

もし、人間が大きな災害や環境の変化に直面したとき、なぜか「いちばん幸せだった記憶」を思い出すのだとしたら。

それは、地球が人間に何かを問いかけているのかもしれません。

もちろん、科学的に証明された話ではありません。

けれど、もし地球そのものがひとつの巨大な生命システムなのだとしたら。

人間が何を失い、何を守ろうとしているのかを、地球が見ている可能性はないのでしょうか。

この物語の主人公、慧一は六十五歳。

四十五年前、アメリカで出会った九歳の少女、

タミーから突然メールを受け取ります。

そこには、たった一つの問いがありました。

――覚えていますか?

四十五年前のクリスマス。

一緒に聴いた曲。

子供の頃に交わした、小さな約束。

そして現在。

世界では、これまでとは少し違う現象が起き始めていました。

人々が、災害のあとに「人生でいちばん幸せだった記憶」を次々と思い出しているのです。

それは偶然なのか。

それとも――。

本作は、地球を救う英雄の物語ではありません。

世界の運命を変える大発見の物語でもありません。

ただ一人の男が、四十五年前に出会った女性に会いに行く物語です。

世界が変わってしまう前に。

もう一度、同じ曲を聴くために。

そして、自分の人生に残された時間の中で、まだ間に合うことがあるのだと知るために。




プロローグ

夏の匂いが残る秋

その年の秋は、いつまでも夏の匂いがした。

十月に入っているというのに、朝の空気は妙に生ぬるい。

慧一は、ベランダに出て空を見上げた。

雲の動きが速かった。

天気予報では、南の海で発生した台風が、例年とは違う進路を取っていると言っている。

最近、こういうことが増えた。

雨の降り方も。

風の強さも。

季節の境目も。

六十五年も生きていれば、空の変化くらい分かる。

……そんなふうに思っていた。

しかし最近は、自分の記憶のほうが、空より当てにならない。

冷蔵庫を開けて、何を取りに来たのか忘れる。

昔の友人の名前が出てこない。

逆に、何十年も忘れていたことが、突然鮮明に蘇ることがある。

その日の朝もそうだった。

スマートフォンにメールが一通届いた。

差出人を見た瞬間、慧一は動けなくなった。

Tammy Whitfield

その名前を、四十五年間、見ていなかった。

いや。

忘れていたわけではない。

忘れようとしていたわけでもない。

ただ、人生の奥のほうにしまっていた。

そこから出てくることがないように。

メールを開く。

短い英文だった。

慧一は何度も読み返した。

そして最後の一行で、息を止めた。

――Can we talk?

話せますか?

慧一は椅子に座った。

窓の外では、十月の風が電線を揺らしていた。

四十五年前。

ロサンゼルス。

クリスマス。

そして、一人の少女。

慧一は、まだ自分の名前を呼ぶ彼女の声を覚えていた。



第一章

四十五年後のメール

「タミー……」

声に出してみると、ひどく懐かしかった。

慧一は、もう一度メールを読んだ。

動画通話をしたい。

それだけの内容だった。

仕事の話なのか。

昔話なのか。

それとも、別の何かなのか。

分からない。

ただ、名前を見た瞬間、四十五年前の風景が戻ってきた。

ロサンゼルスの乾いた空気。

英語の聞き取れない自分。

ホームステイ先の家。

クリスマスの飾り。

そして、教会のホール。

慧一はパソコンを開いた。

返信を書く。

Hello, Tammy.

そこまで打って、止まった。

英語は、四十五年前から大して上達していない。

結局、日本語を一度打ってから、翻訳ソフトを使った。

送信。

数分後、返事が来た。

「Thank you, Kei.」

慧一は、その一文をしばらく眺めていた。

Kei。

その呼び方をしたのは、世界で彼女だけだった。



第二章

1981年のクリスマス

一九八一年。

慧一は二十歳だった。

語学留学という名目でロサンゼルスにいたが、英語はほとんど話せなかった。

ホームステイ先では、毎晩のように辞書を開いていた。

ある日、ホストファミリーに連れられて、近所の教会のクリスマス会へ行った。

大きなホール。

天井から吊るされた星。

小さな電飾。

人々の笑い声。

そして、クリスマスの音楽。

慧一は隅の椅子に座っていた。

英語が分からない。

誰が何を話しているのかも分からない。

ただ笑っているしかなかった。

そのときだった。

一人の少女が目の前に立った。

九歳くらい。

長い髪。

少し大きな赤いセーター。

「You are Japanese?」

慧一は頷いた。

「Yes」

少女は笑った。

「Your name?」

「……Keiichi」

少女は首を傾げた。

「Long」

慧一は苦笑した。

少女は少し考えてから言った。

「Kei」

「Kei?」

「Yes. Kei。」

それから少女は、慧一の手を引いた。

「Come on!」

音楽が始まった。

慧一は何をしていいのか分からなかった。

少女は笑いながら踊った。

周りの大人たちも笑っている。

そのとき流れていた曲を、慧一は後になって知った。

The End of the World。

世界の終わり。

ずいぶん大げさな題名だと思った。

でも、その夜はそんなことを考えなかった。

ただ、九歳の少女に引っ張られて、ぎこちなく踊った。

曲が終わる。

少女が慧一を見上げた。

そして、突然言った。

「私、大きくなったら、あなたのお嫁さんになってあげる」

意味を理解するまで、少し時間がかかった。

慧一は固まった。

周りの大人たちが笑った。

少女も笑った。

慧一も笑った。

それは、子供が口にした、かわいらしい冗談だった。

そのはずだった。



第三章

タミー

動画の画面に、女性が映った。

「Kei?」

「……タミー?」

「久しぶり」

四十五年ぶりの声だった。

顔つきは変わっている。

当然だ。

九歳だった少女が、今では五十代の女性になっている。

慧一も六十五歳になった。

二人とも、人生の半分以上を過ぎていた。

「あなた、変わったわね」

タミーが笑った。

「そりゃ、四十五年だから」

「でも、目は同じ」

「目?」

「そう。困ったときに、少しだけ細くなる」

慧一は笑った。

「そんなところまで覚えてるの?」

「覚えてる」

その言葉に、慧一は少し黙った。

タミーも黙った。

画面の向こうに、四十五年という時間がある。

「結婚は?」

タミーが聞いた。

「したよ。一度」

「今は?」

「一人」

「私も」

二人とも笑った。

恋愛の話をするには、二人とも少し年を取りすぎている。

いや。

もしかすると、ちょうどいい年齢なのかもしれない。



第四章

幸せだった記憶

「最近、変な現象が起きているの」

タミーの表情が変わった。

彼女は気候関連の研究機関で働いていた。

専門的な話をし始めると、英語が苦手な慧一には少し難しかった。

ただ、何度か出てきた言葉だけは理解できた。

災害。

記憶。

気候。

そして、幸福。

「災害のあと、多くの人が、昔の記憶を思い出すの」

「昔の記憶?」

「特に、人生で一番幸せだった瞬間」

タミーによれば、世界各地で似た報告が増えているという。

大きな災害を経験した人。

異常気象に巻き込まれた人。

あるいは、何も被害を受けていない人。

そうした人たちが、突然、何十年も前の記憶を鮮明に思い出す。

子供の頃に食べた料理。

父親の声。

母親の手。

昔の恋人。

友人。

古い家。

そして、聴いたことのある曲。

「脳の仕組みで説明できないの?」

慧一が聞く。

「もちろん、それが一番普通の説明」

「じゃあ……」

「でも、説明しきれない部分がある」

タミーは画面の向こうで、少しだけ間を置いた。

「私はね、地球そのものが一つの生命システムなんじゃないかと思っている」

「地球が?」

「人間を含めて、全部」

「それって……SF?」

「そう思ってくれていい」

タミーは笑った。

「まだ仮説だから」



第五章

地球からの質問

「地球は、人間を罰しているんじゃないのかもしれない」

タミーは言った。

「じゃあ、何をしているの?」

「質問している」

「質問?」

「あなたたちは、何を大切にしたいのですか、って」

慧一は黙って聞いていた。

「大きな災害が起きると、人は未来より過去を見ることがある」

「過去?」

「自分が一番大切にしていたものを思い出すの」

その後、タミーは興味深いデータを見せた。

昔の友人に連絡する人。

家族に電話する人。

長年謝れなかった相手に謝る人。

「ありがとう」を言う人。

中には、何十年も会っていなかった人に会いに行く人もいた。

「それが地球とどう関係するの?」

「分からない」

タミーは正直に答えた。

「でも、記憶を思い出した人たちの行動が変わっている」

慧一は考えた。

人間は、未来のために過去を持っているのかもしれない。

過去そのものを守るためではない。

過去から何かを思い出し、未来の行動を変えるために。

「だから、私もあなたに連絡した」

タミーが言った。

「どうして?」

「あなたとの記憶が、私にとって大切だったから」

慧一は返事ができなかった。



第六章

ブレンダ・リーが聴こえる夜

「覚えてる?」

タミーが聞いた。

「何を?」

「曲」

慧一は少し笑った。

「四十五年前の曲?」

「そう」

タミーがスマートフォンを操作した。

スピーカーから、古いクリスマスソングが流れ始めた。

ブレンダ・リー。

Rockin’ Around the Christmas Tree。

その瞬間だった。

慧一の胸の奥に、何かが落ちてきた。

ロサンゼルス。

教会。

赤いセーター。

笑い声。

そして九歳のタミー。

四十五年間、ほとんど思い出さなかった風景が、次々と蘇ってくる。

「覚えてる?」

「……覚えてる」

「私は、この曲を聴くたびに、あなたを思い出した」

「四十五年間?」

「ううん」

タミーは少し笑った。

「いつもじゃない」

そして、静かに続けた。

「でも、クリスマスになるとね」

慧一も笑った。

「俺は、あのときのもう一つの曲を覚えてる」

「The End of the World?」

「そう」

二人は少し黙った。

世界の終わり。

そして、クリスマス。

四十五年前には何の意味もなかった二つの曲が、今になって不思議な意味を持ち始めていた。



第七章

忘れたくなかった

「慧一」

タミーが、久しぶりに本名を呼んだ。

「はい」

「あなた、英語が下手だった」

「今もね」

「そうね」

二人で笑った。

「でも、私は好きだった」

「何が?」

「あなたの話し方」

「英語が?」

「違う」

タミーは笑った。

「伝えようとしていたこと」

慧一は黙った。

「言葉が通じなくても、あなたは何度も話そうとした。身振り手振りで」

「そんなこと、覚えてる?」

「覚えてる」

タミーは画面の向こうで、少し遠くを見るような顔をした。

「私、九歳だったから」

「うん」

「好きなものは、好き。それだけだったの」

慧一は笑った。

「じゃあ、あのお嫁さんになるっていうのも?」

「もちろん」

タミーも笑った。

「子供の約束よ」

そして、少し間を置いた。

「でも……」

「でも?」

「私は、あなたを待っていたというより……」

タミーは言葉を選んだ。

「忘れたくなかったのかもしれない」

その言葉は、妙に静かだった。

慧一は、何も言えなかった。

四十年間という時間は、誰かを待つには長すぎる。

でも。

誰かを忘れないためには、長すぎる時間ではないのかもしれない。



第八章

最後から二番目

タミーの顔から笑みが消えた。

「慧一。もう一つ、話さなければならないことがある」

「うん」

「これは、まだ公表していないデータなの」

画面にグラフが表示された。

気候システムの変化。

複数の要素が、ある一点に近づいている。

「ティッピングポイント」

慧一は、その言葉だけ理解した。

「すぐに人類が滅亡する、という話ではない」

タミーは念を押した。

「でも、今までの文明が、そのまま続くとは限らない」

気候。

海。

食料。

都市。

エネルギー。

複数のシステムが連鎖して変化する可能性。

「今年のクリスマスが、最後になるってこと?」

慧一は聞いた。

「違う」

タミーは首を振った。

「クリスマスそのものがなくなるわけじゃない」

「じゃあ?」

「今の私たちが知っている世界で迎えるクリスマスが、あと何度あるのか分からないということ」

慧一は画面のグラフを見つめた。

タミーは小さく息を吐いた。

「だから私は、こう呼んでいる」

少し間を置いて。

「地球が見た、最後から二番目のクリスマス」

その言葉が、慧一の胸に残った。

最後ではない。

最後から二番目。

だからこそ、まだ間に合う。



第九章

会いに来て

「慧一」

「うん」

「今年のクリスマス、ロサンゼルスに来ない?」

慧一は笑った。

「俺、六十五だよ」

「知ってる」

「飛行機、腰が痛い」

「知ってる」

「英語も相変わらず」

「それも知ってる」

「じゃあ、何で?」

タミーは少し笑った。

「会いたいから」

慧一は黙った。

四十年前。

九歳の少女が手を引いてくれた。

四十五年後。

五十代の女性が、もう一度手を差し出している。

「待ってたの?」

慧一が聞いた。

タミーは首を振った。

「ずっと待っていたわけじゃない」

そして笑った。

「いつか、もう一度会えたらいいなと思ってた」

「それだけ?」

「それだけで十分でしょう?」

慧一も笑った。

「そうだな」

通話が終わる前、タミーが言った。

「クリスマスに、あの曲を一緒に聴こう」

「どっち?」

「両方」

二人は笑った。

画面が暗くなった。

慧一は、しばらくそのまま座っていた。



第十章

古いジャケット

その夜、慧一は押し入れを開けた。

古い箱の中に、パスポートがあった。

一九八一年。

ロサンゼルス。

写真の自分は、二十歳だった。

若い。

細い。

髪も多い。

そして、その隣には、当時着ていたツイードのジャケットがあった。

取り出してみる。

袖を通そうとして、やめた。

入らない。

慧一は笑った。

「そりゃそうだ」

それでも、捨てなかった。

ハンガーに掛けた。

その夜、スマートフォンでブレンダ・リーの曲を聴いた。

四十五年前の音が、部屋の中に広がった。

不思議だった。

曲は変わっていない。

変わったのは、自分だった。

二十歳の自分は、この曲をただのクリスマスソングとして聴いていた。

六十五歳の自分には、そこに四十五年分の時間が重なって聞こえる。

曲が記憶を連れてくるのか。

記憶が曲を意味のあるものに変えるのか。

分からない。

ただ一つ分かったことがある。

自分は、もう一度あの場所へ行きたいと思っていた。



エピローグ

今年は、行くよ

クリスマスまで、二か月。

慧一はパソコンを開いた。

航空券を検索する。

東京からロサンゼルス。

日付を入力する。

予約画面が表示された。

しばらく、指が止まった。

六十五歳。

腰も痛い。

英語も上手くない。

地球の未来だって分からない。

タミーと会ったところで、何が始まるのかも分からない。

恋になるのか。

昔話だけで終わるのか。

それとも、ただ一晩、一緒にクリスマスソングを聴くだけなのか。

そんなことは、どうでもよかった。

人は、未来が分からないからこそ、誰かに会いに行くのかもしれない。

慧一は、予約ボタンを押した。

航空券の決済が完了した。

画面を閉じる。

窓の外を見る。

夜の雲の向こうに、地球がある。

宇宙から見れば、人間の一生などほんの一瞬だ。

四十五年も、きっと同じだ。

それでも、その一瞬の中に、

誰かと出会い。

誰かを覚えていて。

もう一度会いに行く。

それだけのことが、人生を変えることもある。

慧一は、窓の向こうの暗い空を見上げた。

そして、小さく言った。

「今年は、行くよ。タミー」

地球は、何も答えなかった。

ただ、青かった。

そしてその青い星は、

最後から二番目かもしれないクリスマスへ向かって、

静かに回り続けていた。




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あとがき

「もし、これが最後から二番目のクリスマスだったら」

そんなことを考えたら、人は何をするでしょうか。

大きなことをする人もいるかもしれません。

仕事を辞める人。

旅に出る人。

夢を追いかける人。

でも、たぶん多くの人がするのは、もっと小さなことではないでしょうか。

久しぶりの友人に電話する。

家族と食事をする。

昔の写真を見る。

「ありがとう」と言う。

「ごめん」と言う。

そして、

会いたい人に会いに行く。

この物語を書きながら、私は「最後から二番目」という言葉が好きになりました。

「最後」なら、もう何もできません。

でも、「最後から二番目」なら、まだ一度だけ残されています。

だから、間に合う。

もう一度、話せる。

もう一度、笑える。

もう一度、会える。

ブレンダ・リーのクリスマスソングも、四十年前と同じように鳴ります。

変わったのは、曲ではありません。

その曲を聴く人間のほうです。

人生の途中では、気づかなかったもの。

若い頃には大切だと思わなかったもの。

何十年も経ってから、ようやく分かることがあります。

もしかすると、記憶とは過去を保存するためだけにあるのではなく、

未来へ進むために、過去から手渡されるものなのかもしれません。

もし今年のクリスマスが、

あなたにとって「最後から二番目」だったとしたら。

あなたは誰に会いに行きますか。

誰に電話しますか。

誰に「ありがとう」と伝えますか。

そして、どんな曲を聴きますか。

その答えは、きっと人それぞれです。

でも一つだけ。

会えるうちに。

言えるうちに。

聴けるうちに。

今年のクリスマスを、大切に。




原詩


ブレンダリーを聴きながら