風待ち峠
― 来る者、去る者 ―
まえがき
人生には、手放さなければならない瞬間が、何度か訪れます。
長年連れ添った愛車。
かつて共に時を過ごした友人たち。
住み慣れた家や仕事。
そして、いつの間にか遠ざかっていた、若い日の自分。
歳を重ねるにつれ、私たちは「失うこと」や「去っていくもの」に、寂しさを覚えるようになります。
けれど、誰かが去ったあとにできた空白は、決して寂しさだけのために残されるものではないのかもしれません。
空いた席があるからこそ、そこへ新しい誰かが座る。
手の中に握りしめていたものを放すからこそ、新しいものを受け取ることができる。
本作は、還暦を目前に控え、長年連れ添ったバイクを手放すことになった一人の男の物語です。
記憶の底に眠っていた旧道「風待ち峠」。
そこで彼が出会うのは、過去なのか、未来なのか、それとも、そのどちらでもないものなのか。
人生の途中で立ち止まったとき、人は時として、自分が歩いてきた道を振り返ります。
そして振り返った先に、もう一度だけ吹いてくる風があるのかもしれません。
読み終えたあと、皆様の心にも、静かで温かな風が吹きますように。
序章 峠へ
還暦という言葉を、悠介はずっと他人事だと思っていた。
六十歳になったからといって、何かが突然変わるわけではない。
そう高を括っていた。
けれど、六十歳の誕生日を三か月後に控えたある朝、鏡に映った自分の顔を見て、悠介はふいに息を止めた。
白髪が増えたからではない。
そこに映っている男が、もう随分長いこと、心から笑っていないことに気づいたからだった。
その日の午前、整形外科の待合室で、悠介は医師からやんわりと言われた。
「長年使ってきた腰と膝ですからね。無理はしない方がいいでしょう」
医師は大型バイクに乗っていることを知っていた。
「もう少し軽いものに替えるとか、乗る距離を短くするとか……そういうことも考えてみてください」
はっきりとは言わなかった。
だが、悠介には十分伝わった。
二十歳の頃から四十年近く跨り続けてきた鉄の塊を、そろそろ手放す時期が来たのだ。
その晩、悠介はガレージのシャッターを上げた。
埃を被ったカバーを外す。
黒く艶めいた車体が、蛍光灯の下で鈍い光を返した。
二十年連れ添った相棒だった。
タンクに手を置く。
冷たい。
けれど、掌の下に積み重なった時間まで冷たいわけではなかった。
すでに買い取り業者にも連絡を入れている。
売るなら、まだ価値のあるうちがいい。
頭では分かっていた。
それでも、その前に一度だけ。
誰にも告げずに走っておきたい道があった。
北へ延びる、名もない峠道。
二十歳の頃、まだ何もかもが手探りだった時代に、一人の友人と走ったことがある。
それ以来、なぜか忘れられなかった。
道の途中には茶屋があった。
赤い毛氈の敷かれた縁台。
そこで飲んだ甘酒。
そして、遠くまで見渡せる崖の上。
そんな断片だけが、記憶の底に残っている。
だが、四十年近い歳月が流れた今となっては、それが本当にあったことなのか、それとも時間が記憶を勝手に作り替えたのか、悠介にも分からなかった。
それでもいい。
見つからなければ、それだけの道だったということだ。
見つかれば――そのときは、そのときで考えればいい。
荷物を最小限にまとめた。
着替え、雨具、地図。
それから、連絡先を書いた小さなメモ用紙。
鍵を差し込み、エンジンをかける。
腹の底に響く低い音を聞くと、不思議と気持ちが落ち着いた。
――来る者は拒まず、去る者は追わず。
そんな言葉が頭をよぎった。
誰から聞いたのかも思い出せない。
ずっと昔から知っていたような言葉だった。
今の自分には、妙に身に沁みた。
思えば、若い頃はその逆だった。
離れていこうとする人がいれば、必死で引き止めた。
新しい人間関係には臆病で、慣れ親しんだ仲間の輪の中にいることに安心していた。
それが、いつ頃から変わったのだろう。
妻を早くに亡くし、一人息子は海外へ赴任して遠くにいる。
会社を定年で退いてからは、長く付き合ってきた人たちも、一人、また一人と悠介の周りから消えていった。
寂しくないと言えば嘘になる。
けれど、不思議なこともあった。
誰かが去ったあとにできた空白には、いつの間にか別の誰かが入り込んでくることがあった。
近所の人。
陶芸教室の仲間。
散歩の途中で顔を合わせる人。
行きつけの店の主人。
若い頃なら見向きもしなかったような、小さな縁だった。
夜明け前の道路へ出る。
街灯はまばらだった。
残暑の残り香がある空気の奥には、かすかな秋の気配が混じっている。
悠介はヘルメットの中で小さく息を吐いた。
そしてアクセルを開けた。
バイクは、ゆっくりと夜明けの街へ走り出した。
⸻
一章 風の匂い
国道を三時間ほど走ると、景色は次第に山深くなった。
コンビニの灯りも途絶え、代わりに杉林の匂いが濃くなる。
悠介は小さなガソリンスタンドに立ち寄った。
給油を済ませ、缶コーヒーを一本買う。
店番をしていた老人が、珍しそうにバイクを眺めていた。
「ずいぶん古いバイクだね」
「ええ。長い付き合いです」
「大事にしてるのが分かるよ」
老人は笑った。
悠介も笑い返した。
「この先に、峠へ抜ける道ってありますか」
そう尋ねると、老人は少し首を傾げた。
「峠って言っても、いくつもあるからな。どこを目指してるんだね」
悠介は記憶の中の景色を言葉にした。
茶屋がある。
赤い毛氈の縁台がある。
崖の上から遠くが見渡せる。
そこまで話すと、老人の顔から笑みが消えた。
「ああ……」
しばらく黙ったあと、老人が言った。
「それなら、風待ち峠かもしれんな」
「風待ち峠?」
「ああ。もうずいぶん前に廃道になったはずだが……」
老人は山の方へ目を向けた。
「今でも通れるのかどうかは、知らん」
その名を聞いた瞬間、悠介の胸の奥で何かが小さく鳴った。
風待ち峠。
そうだ。
あの日、茶屋の縁台に座っていたとき、友人が笑いながら言ったのだ。
『風待ちの茶屋だってさ』
突然、記憶が鮮明になった。
だが、友人の名前が出てこない。
顔は覚えている。
笑い方も覚えている。
バイクに跨るときの癖も。
なのに、名前だけが記憶の底に沈んでいた。
特に喧嘩をしたわけではない。
互いに家庭を持ち、仕事に追われ、いつしか連絡を取らなくなった。
気がつけば、年賀状すら来なくなっていた。
去る者は追わず。
当時の自分は、そうやって済ませてしまった。
「気をつけて行きなよ」
老人の声に、悠介は我に返った。
「ありがとうございます」
再びバイクに跨る。
教えられた分岐を目印に、舗装の荒れた旧道へ入った。
道はすぐに細くなった。
やがて一車線になり、両脇から伸びた木々が空を覆い始める。
エンジン音だけが谷間に大きく響いた。
不思議なことに、走るほど記憶が鮮明になっていった。
あの日も、こんな風に木漏れ日が路面にまだら模様を描いていた。
あの日も、山肌を伝う冷たい風と沢の水の匂いが漂っていた。
四十年前の記憶とは思えなかった。
三十分ほど登ったところで、道が突然開けた。
眼下に雲海が広がっていた。
その向こうに、幾重にも連なる稜線。
悠介はバイクを停め、ヘルメットを外した。
そして、息を呑んだ。
崖沿いのカーブの先に、一軒の木造家屋が建っていた。
古びた暖簾が、風に揺れている。
⸻
二章 峠の茶屋と老女
近づいてみる。
間違いなかった。
茶屋だった。
色褪せた暖簾。
軒先の縁台。
そこには、赤い座布団まで置かれている。
廃道のはずの峠に、なぜこんな場所が残っているのか。
悠介はエンジンを切り、ゆっくりと歩み寄った。
「いらっしゃい」
暖簾の隙間から、老女が顔を覗かせた。
年齢は分からない。
八十にも見えれば、百歳を越えているようにも見える。
深く刻まれた皺とは対照的に、その目だけが驚くほど澄んでいた。
「ここ……営業してるんですか」
「見ての通りだよ。座りな。疲れただろう」
悠介が縁台に腰を下ろすと、老女は奥へ引っ込んだ。
しばらくして、湯呑みを二つ持って戻ってくる。
一つを悠介の前に。
もう一つを、隣の空いた席に置いた。
「甘酒だよ。山は冷えるからね」
悠介は湯呑みを手に取った。
生姜の効いた温かい甘みが、体の芯まで染みていく。
初秋の峠を渡る風が、汗ばんだ首筋を撫でた。
「あの……この道、廃道になったと聞いたんですが」
「廃道、ねえ」
老女は笑った。
「人が来なくなった道を、勝手にそう呼んでるだけさ」
「じゃあ、まだ通れるんですか」
「来たい者が来て、通りたい者が通る。それでいいんだよ」
悠介は隣の席を見た。
「連れの方は、まだ来られてないんですか」
「さあてね」
老女は湯呑みに甘酒を注ぎながら答えた。
「来る日もあれば、来ない日もある。今日は、あんたが来た日だ」
禅問答のような答えだった。
けれど、この場所では、それ以上聞く気になれなかった。
時間の流れ方が、外とは違っている。
そんな気がした。
「昔、一度だけここに来たことがあるんです」
悠介は言った。
「四十年くらい前に。友人と二人で、バイクで」
「覚えてるよ」
老女はあっさりと言った。
「あんたたち、若かったねえ」
悠介の手が止まった。
「片方は威勢がよくて、片方は物静かだった」
老女は遠くを見るように目を細めた。
「威勢のいい方が、『この店はずっとあるのか』って聞いたんだよ」
悠介の胸がざわついた。
「あたしは答えた」
老女は微笑んだ。
「来たい者には、いつでもここにある、ってね」
風が吹いた。
暖簾が、ぱたんと揺れた。
「その友人が……今どこにいるか、分かりますか」
「それは、あたしの領分じゃない」
老女は首を横に振った。
そして少しだけ声を落とした。
「でもね。この峠道は、行きたい場所に繋がっている」
「行きたい場所……」
「あんたが本当に行きたいのがどこなのか」
老女は悠介を見た。
「それは、あんたが一番よく分かってるはずだよ」
風が吹き抜けた。
暖簾が大きく膨らむ。
その向こうで、老女の声がした。
「来る者は、まだ間に合う」
悠介は振り返った。
けれど、老女はもう何も言わなかった。
⸻
三章 名もない若者
茶屋を出て、峠道をさらに進んだ。
九十九折りのカーブが続く。
悠介は何度かバックミラーを見た。
そのたびに、何かが映っているような気がした。
気のせいだ。
そう思った。
だが、しばらくすると、一台のバイクが後ろについてきた。
路肩が広くなった場所で悠介が速度を落とすと、後ろのバイクも止まった。
ライダーがヘルメットを外す。
二十代だろうか。
汗ばんだ額に前髪が張りついている。
どこか懐かしい笑い方をする青年だった。
「すみません。後ろから失礼しました」
青年は笑った。
「この道で人とすれ違うの、久しぶりだったもので」
「この道、よく走るのかい」
「昔から好きなんです」
青年は山の方を見た。
「今日は、なんとなく呼ばれた気がして」
悠介は青年を見つめた。
話し方。
声。
バイクへの跨り方。
どれも、どこか見覚えがあった。
まるで四十年前の自分を、少し離れた場所から見ているようだった。
「君、名前は?」
青年は少し考えた。
「さあ……」
それから笑った。
「なんて名乗ればいいんでしょうね」
「変なことを言うね」
「ここでは、名前ってあまり大事じゃない気がします」
妙な答えだった。
それでも悠介は追及しなかった。
代わりに、若い頃に友人とここを走ったことを話した。
茶屋のこと。
甘酒のこと。
そして、今はその友人と疎遠になっていること。
青年は黙って聞いていた。
「その方は、後悔してると思いますか」
突然、青年が尋ねた。
「何を?」
「離れていく人を、無理に引き止めなかったこと」
悠介は答えに迷った。
「……分からない」
「薄情だったからじゃなく、その人の生き方を尊重しただけかもしれないですよ」
悠介は青年を見た。
「君は、誰かを見送ったことがあるのかい」
「たくさんあります」
青年は笑った。
「でも、そのぶん、たくさんの人に会いました。この道の途中で」
二人はしばらく並んで雲海を眺めた。
風が山肌を渡っていく。
やがて青年がヘルメットを被った。
「先に行きます」
「そうか」
「あなたは、まだここで少し考える時間が必要みたいだから」
青年はエンジンをかけた。
そして、ふと思い出したように振り返った。
「そうだ」
「ん?」
「そのバイク、手放すんですか」
「ああ」
悠介はタンクに目をやった。
「もう、体がついていかなくてね」
「もしよかったら、譲っていただけませんか」
「君が?」
「はい。僕、こういう古いバイクにずっと乗りたかったんです」
青年は少し照れたように笑った。
「連絡先、教えてもらえますか」
悠介は胸ポケットからメモ用紙を取り出した。
そして、住所と電話番号を書いた。
紙を青年に渡す。
青年は両手で受け取ると、大事そうに胸ポケットへしまった。
「絶対、連絡します」
青年はバイクに跨った。
「あなたの相棒、大切にしますから」
エンジン音が峠に響く。
青年はカーブの向こうへ消えていった。
悠介はその背中を見送りながら、なぜだか胸の奥が温かくなるのを感じていた。
初めて会ったはずなのに。
ずっと前から知っていたような気がした。
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四章 霧の中の面影
青年を見送ったあと、悠介は再び走り始めた。
だが、数百メートルも進まないうちに、道は深い霧に包まれた。
視界は数メートル先までしかない。
悠介は速度を落とした。
霧の中を、ゆっくりと進む。
やがて、前方に人影が浮かび上がった。
道端にライダーウェアを着た男が立っている。
ヘルメットを脇に抱えていた。
悠介はバイクを停めた。
ゆっくりと歩み寄る。
そして、その顔を見た瞬間、息を呑んだ。
「……お前」
声が震えた。
「お前なのか」
そこに立っていたのは、三十年以上会っていない、あの友人だった。
最後に会った日のままの顔。
時間だけが、そこから先へ進んでいないようだった。
友人は笑った。
「久しぶりだな」
悠介の喉が詰まった。
「悪いな。連絡もせずに」
「いや……」
言葉が出てこない。
「こっちこそ、ずっと……」
謝りたいことはいくつもあった。
もっと連絡すればよかった。
一度くらい会いに行けばよかった。
あのとき、もう少しだけ話していればよかった。
けれど友人は、ゆっくり首を振った。
「謝らなくていい」
その声は、昔と変わらなかった。
「俺たちは、そういう縁だったんだよ」
「そういう縁?」
「誰が悪いわけでもない」
霧の向こうで、風が鳴った。
「それぞれ、自分の道を走ってただけだ」
悠介は黙った。
「どうして、この道に?」
「さあな」
友人は苦笑した。
「俺も、なんとなく呼ばれた気がしたんだ」
「呼ばれた?」
「ここなら、言えなかったことも言える気がしてな」
二人は昔の話をした。
若い頃のくだらない喧嘩。
旅先で迷ったこと。
バイクが故障して、二人で押したこと。
茶屋で飲んだ甘酒。
何時間話していたのか分からなかった。
けれど、その時間はどこか遠かった。
すでに終わった物語を、二人で読み返しているようだった。
「お前は今、幸せか」
友人が尋ねた。
悠介は少し考えた。
「分からない」
正直に答えた。
「ただ……この歳になって、いろんなものを手放し始めている実感はある」
友人は頷いた。
「それでいいんだよ」
「そうかな」
「手放すことは、失うことと同じじゃない」
その言葉が、悠介の胸に残った。
「俺たちは、それぞれの道を走っているだけだ。時々、こうしてすれ違う」
友人は笑った。
「それだけで、十分じゃないか」
霧が少し薄くなった。
「待ってくれ」
悠介が一歩近づいた。
「まだ話したいことが――」
「大丈夫だ」
友人の輪郭が、少しずつ淡くなっていく。
「お前はこれから、ちゃんと前を向いて走れる」
「……お前」
「俺は、それを見届けに来ただけだから」
次の瞬間、風が吹き抜けた。
霧が一気に晴れる。
そこには誰もいなかった。
悠介は峠の真ん中に一人で立っていた。
しばらく動けなかった。
やがて、自分の右手が固く握られていることに気づいた。
ゆっくりと掌を開く。
そこには、小さな白い石があった。
丸く、滑らかな石。
かつて二人でこの道を走ったとき、友人が路傍で拾って、
『お守りだ』
そう言って手渡してくれた石と、よく似ていた。
悠介はその石を握りしめた。
不思議と温かかった。
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五章 空いた席
気がつくと、悠介は再び茶屋の前に立っていた。
老女は縁台に座っていた。
まるで、ずっと待っていたかのように。
「会えたようだね」
悠介は何も言わず、縁台に腰を下ろした。
掌の白い石を見る。
「……あの若者は」
悠介は尋ねた。
「誰だったんですか」
老女は笑った。
「さあねえ」
「僕の若い頃だったんでしょうか」
「そうかもしれない」
老女は山を眺めた。
「これから出会う誰かだったのかもしれない」
「じゃあ、あの友人は?」
「それも、あんたが決めればいい」
老女はそれ以上説明しなかった。
甘酒の湯気が、二人の間をゆっくりと上っていく。
「人は生きている間に、たくさんの人と出会う」
老女が言った。
「そばにいてくれる人もいれば、離れていく人もいる」
悠介は隣の席を見た。
赤い座布団だけが置かれている。
「若いうちは、空いた席ばかり気にするんだよ」
「空いた席……」
「誰がいなくなったか。誰が去っていったか」
老女は、隣の座布団を軽く撫でた。
「でもね」
悠介を見る。
「空いた席ばかり見つめていると、その隣に誰が座ってくれているのか、見えなくなる」
悠介は黙っていた。
そして手帳を取り出した。
古いページを開く。
黄ばんだ紙には、昔の友人の名前が並んでいた。
その隣には、近年になって書き加えた名前がある。
陶芸教室の仲間。
散歩仲間。
行きつけの店の主人。
近所で時々会う人。
いつの間にか、ページの余白はほとんどなくなっていた。
「……いつの間に、こんなに増えたんだろう」
悠介が呟く。
老女は答えなかった。
ただ、静かに笑っていた。
悠介は手帳を閉じた。
今まで、自分は何人が去っていったかばかり数えていたのかもしれない。
けれど、いつの間にか、同じくらい多くの人が自分の人生に入ってきていた。
誰かが去ったあとに残った空白。
その空白を埋めるように、別の誰かがやってきた。
そして、自分自身もまた、誰かの人生に現れては、いつか去っていく存在なのだろう。
老女が立ち上がった。
「そろそろ行きな」
「はい」
「風が変わってきた」
悠介は顔を上げた。
確かに、風向きが変わっていた。
老女は隣の空いた席を見た。
「席は、空けておくものさ」
「誰かが来るから?」
「そういうこと」
悠介は笑った。
白い石を握る。
長い間、胸の奥に引っかかっていたものが、静かにほどけていくようだった。
⸻
終章 光る方へ
夕陽が稜線を染める頃、悠介はバイクのエンジンをかけた。
振り返る。
そこには茶屋も、縁台もなかった。
ただ、
風待ち峠
と刻まれた古い木製の道標が、ぽつんと立っているだけだった。
悠介はしばらく道標を見つめた。
それからヘルメットを被った。
峠を下る。
来たときよりも、バイクが軽く感じられた。
麓の町に着く頃には、街灯が灯り始めていた。
スマートフォンが鳴る。
陶芸教室で知り合った仲間からだった。
「悠介さん、今度の週末、みんなで窯出し会をするんですけど、来ませんか」
悠介は少し笑った。
「うん。ぜひ行くよ」
「よかった。楽しみにしてます」
電話を切る。
悠介は信号待ちの交差点で、ふと空を見上げた。
自分を待ってくれている人がいる。
それは、特別なことではないのかもしれない。
けれど今の悠介には、それが以前とは違うものに思えた。
数日後。
自宅に一本の電話が入った。
「あの……悠介さんでしょうか」
聞き覚えのある声だった。
「はい」
「峠でお会いした者です」
悠介は思わず笑った。
「ああ」
「例のバイク、本当に譲っていただけませんか」
「もちろん」
約束の日。
青年は悠介の家を訪れた。
ガレージの前に立った青年は、バイクを見るなり目を輝かせた。
「やっぱり、いいですね」
「古いぞ」
「それがいいんです」
青年は車体をゆっくり撫でた。
悠介は鍵を差し出した。
「大事にしてくれよ」
「はい」
青年は鍵を受け取った。
「大切に乗ります」
そして少し考えるように言った。
「いつか僕も、誰かにこれを譲る日が来るのかな」
悠介は笑った。
「そのときは……」
少しだけ間を置く。
「その人に、ちゃんと道を教えてやってくれ」
「道?」
「ああ」
悠介は山の方角を見た。
「風待ち峠への道をね」
青年は一瞬、驚いた顔をした。
それから、嬉しそうに頷いた。
「分かりました」
エンジンがかかる。
懐かしい低い音が、ガレージいっぱいに響いた。
青年はヘルメットを被り、バイクを走らせる。
その背中が、道の向こうへ小さくなっていく。
悠介は、しばらくその場に立っていた。
ポケットの中の白い石に触れる。
冷たいはずの石が、今日は不思議と温かかった。
手放す。
その言葉を、悠介は長い間、失うことと同じ意味だと思っていた。
けれど違った。
手放したからこそ、誰かの手に渡るものがある。
自分が走った道を、次の誰かが走っていく。
自分が大切にしてきたものが、誰かの新しい物語になる。
それは、失うことではない。
形を変えて、残っていくことなのかもしれなかった。
その夜、悠介は手帳を開いた。
新しいページに、青年の名前を書き加えた。
去っていった人。
新しく出会った人。
遠くにいる人。
もう会えない人。
そして、これから出会う人。
そのすべてが、自分の人生を形づくっている。
窓を開ける。
秋の澄んだ夜風が、部屋へ吹き込んできた。
悠介は目を閉じた。
どこか遠くで、バイクの音が聞こえた気がした。
――来る者は拒まず。
――去る者は追わず。
それでも、去っていく背中に手を振ることはできる。
そして、空いた席には、いつか新しい誰かが座る。
悠介は鏡の前に立った。
そこに映った自分を見て、少し驚いた。
笑っていた。
久しぶりに、心から笑っていた。
風は、止むのを待つものではない。
風が吹いてきたら、その風を感じて、自分の足で歩き出せばいい。
悠介は窓の外を見た。
夜の向こうには、まだ見えない明日がある。
そして、そのどこかにはきっと、新しい風が吹いている。
悠介は、静かに笑った。
もう、待つ必要はなかった。
了
Kindle
あとがき
人は年齢を重ねるにつれ、少しずつ「手放すこと」と向き合うようになります。
体力の変化。
生活環境の変化。
仕事との別れ。
住み慣れた場所との別れ。
そして、長く付き合ってきた人との別れ。
若い頃には、それらを「失うこと」だと思っていたのかもしれません。
けれど、歳月を重ねてみると、手放したもののあとには、いつの間にか別のものが残っていることに気づきます。
新しい友人。
新しい趣味。
新しい日常。
そして、思いがけない出会い。
本作に登場する「風待ち峠」は、地図には載っていない場所です。
けれど、人生の途中で立ち止まり、過去を振り返った人の心の中には、もしかすると誰にでも、そんな峠があるのではないでしょうか。
そこでは、もう会えない人と再び会えるかもしれない。
若かった頃の自分と出会うかもしれない。
そして、まだ見ぬ未来とすれ違うかもしれない。
大切なのは、過去を忘れることではないのでしょう。
過去を抱えたまま、それでも前へ進むこと。
手放すことは、忘れることではありません。
大切だったものを大切だったまま、次の誰かへ渡していくことなのかもしれません。
この物語が、人生のどこかで立ち止まった方の心に、ほんの少しでも温かな風を届けることができれば幸いです。
そして皆様のこれからの道にも、穏やかな風が吹きますように。

