人間、三部作
あなたは、人間、何度目ですか?
第一部
人間、一回目です
――玉響課・魂配属係の、とんでもない事務ミス――
まえがき
人間は、何回目なのだろう。
そんなことを考えたことはありませんか。
初めて会ったはずなのに、なぜか懐かしい人。
行ったこともない場所なのに、なぜか知っている景色。
初めてなのに、妙に手際のいい人。
反対に、何をやっても不器用で、何度やっても上手くならない人。
もし本当に、魂が何度も生まれ変わっているのだとしたら、人間には「経験者」と「初心者」がいるのかもしれません。
けれど、もしそうだとして――。
何度も人間を経験している魂と、初めて人間になった魂では、どちらが立派なのでしょう。
本作は、そんな少し真面目で、少し馬鹿馬鹿しい疑問から生まれました。
宇宙のどこかには、魂を次の人生へ送り出す役所がある。
そこでは、虫も魚も獣も人間も、きちんと整理券を持って順番を待っている。
ところがある日、その役所で、とんでもない事務ミスが起きてしまう。
画像や数字の羅列ではなく、たった一つの押し間違いによって。
そして一人の青年が、本来なら何度も経験を積んでから挑むはずだった「人間」という難しい生き物に、いきなり放り込まれてしまう。
彼は不器用です。
要領もよくありません。
鳩に敬語を使い、エレベーターの定員を心配し、就職面接で「人間一回目です」と言ってしまいます。
でも――。
もしかすると、人間というものは、本来そういうものなのかもしれません。
何度目であろうと、一回目であろうと。
今日という日は、誰にとっても一回きりです。
そんなことを、少し笑いながら考えていただけたら幸いです。
序章 玉響課の憂鬱
宇宙のどこか。
座標も名前も持たない場所に、それでも「課」は存在する。
魂配属課。
通称――玉響課。
宇宙ができてから、いつできたのか誰も知らない。
ただ、そこには役所があり、窓口があり、受付番号があり、そして長い長い行列がある。
窓口は、いつも混んでいた。
虫。
魚。
鳥。
獣。
そして人間。
肉体を脱いだばかりの魂たちが、ぼんやりと光る球体の姿で、整理券を握りしめて並んでいる。
「次の方、どうぞ」
窓口に座っているのは、課長のタマユラ子だった。
三千年この仕事をしている。
三千年もやっているのだから、さぞ立派な人物かと思えば、そうでもない。
制服のサイズが、いまだに合っていなかった。
本人は「魂に体型の概念はない」と主張しているが、制服担当からは毎年、
「それなら、なぜ去年と同じサイズを注文するんですか」
と言われている。
タマユラ子は、今日も判子を押していた。
「はい。次の方」
一つの魂が、ふわふわと窓口まで進んできた。
「あのう……」
「はい」
「私、正しく生きたと思うのですが」
「それは結構なことです。では記録を確認しますね」
タマユラ子が端末を覗き込む。
「ええと……虫」
魂が少し誇らしげに光った。
「虫としては模範的ですね」
さらに画面を送る。
「魚」
魂がまた光った。
「魚としても問題なし」
さらに。
「獣」
「はい」
「こちらも真面目です」
「ありがとうございます」
「では、次は人間コースへ」
魂が嬉しそうに揺れた。
「いよいよですか」
「はい。ただいまの待ち人数は――」
タマユラ子が画面を確認する。
「約二千八百年です」
「二千八百年!?」
「早い方ですよ」
「……早い?」
「前回は四千三百年でした」
「それと比べているんですか!?」
「列を乱さず、静かにお待ちください」
魂は肩を落とした。
「はい……」
タマユラ子は判子を押した。
ぽん。
「次の方」
彼女は、三千年間ずっと同じ仕事をしている。
そして、三千年間ずっと思っている。
この宇宙で一番大変なのは、戦争でも災害でもない。
窓口業務だ。
なにしろ、魂というものは、みんな自分だけは早く生まれ変わりたいと思っている。
順番を守ることが、何より苦手なのだ。
そんな玉響課で、ある日。
誰も予想しなかった事務ミスが起きた。
それは宇宙の歴史上、もっとも小さなミスでありながら、地上の一人の青年の人生を、大きく狂わせることになる。
第一章 キャンセル待ちの孫息子
タマオは、生まれたときから少し変わった子供だった。
祖父の修一は、生まれたときからそんな孫の不思議な言動をずっと間近で見守ってきた。
赤ん坊のころ。
泣きもせず、笑いもせず、蛍光灯を見つめていた。
そして突然、深々と頭を下げた。
両親は驚いた。
「タマオ?」
赤ん坊は何も答えない。
ただ、もう一度蛍光灯に向かって頭を下げた。
三歳になると、もっと変わった。
公園で蟻の行列を見つけると、その横にしゃがみ込んだ。
「お疲れ様です」
母親が振り向く。
「誰に言ってるの?」
「先輩たちに」
「……先輩?」
タマオは蟻を指差した。
「僕より先に生まれて、ちゃんと働いています」
そして、ぺこりと頭を下げた。
「先を越してしまって、すみません」
母親は何も言えなかった。
小学校の運動会では、リレーの選手になった。
ところが、バトンを受け取った瞬間、タマオは審判のところへ走っていった。
「すみません」
「どうした?」
「このバトン、本当に僕が受け取ってよろしいのでしょうか」
「え?」
「正式な手続きを経ていますか?」
「……君、走って」
「確認してからでもよろしいでしょうか」
その間に、チームは全員、遠くへ行ってしまった。
修一は、そんな孫を見るたびに、複雑な気持ちになった。
「タマオ」
「はい、おじいちゃん」
「お前、もしかして――」
「はい?」
「いや……何でもない」
修一には、若いころから一つの奇妙な考えがあった。
魂は何度も生まれ変わるのではないか。
虫になり。
魚になり。
獣になり。
そして、ようやく人間になる。
修一はそれを「玉響」と呼んで、昔、一篇の詩にしたことがある。
もちろん誰にも相手にされなかった。
本人も半分は冗談だった。
ただ、タマオを見ていると、ときどき思う。
もしかしたら――。
大学生になったタマオは、さらに磨きがかかっていた。
エレベーターに乗ると、
「私、このエレベーターの定員に入る資格があるでしょうか」
と呟く。
コンビニでレジに並べば、後ろの客に、
「本当に私が先でよろしいでしょうか」
と聞く。
就職面接では、
「御社に採用していただく前に、一つ確認したいことがあります」
面接官が身構える。
「何でしょう」
「私、人間としての採用面接が初めてなのですが、これは通常の手順でしょうか」
面接官は三人とも黙った。
そして一人が、小さな声で言った。
「……初めてじゃない人も、いるのかな」
そんなタマオが、ある夜、修一の家を訪ねてきた。
「おじいちゃん、相談があります」
「珍しいな」
「最近、背中がむずむずするんです」
「病院へ行け」
「いえ、そういう感じではなくて」
タマオは窓の外を見た。
「気づくと空を見ています」
「……」
「飛べそうな気がするんです」
修一は、湯呑みを落としそうになった。
第二章 視察官、参上
そのころ。
宇宙の彼方、玉響課では大騒ぎになっていた。
「課長!」
新人職員のヒヨコ丸が、書類の束を抱えて走ってきた。
走り方は、いまだにぎこちない。
前世が本物のひよこだったからだ。
「何ですか、ヒヨコ丸さん」
「大変です!」
「また整理券の紙詰まりですか?」
「違います!」
「では何です?」
「二重配属です!」
タマユラ子の手が止まった。
「……何ですって?」
「タマオという人間の魂配属記録に、二つの魂番号が存在しています」
「二つ?」
「はい」
ヒヨコ丸が震える手で画面を見せる。
「一つは、正規の順番待ちをしていた魂」
「もう一つは?」
「キャンセル待ちの魂です」
「キャンセル待ち?」
「はい」
「どうしてそんな魂が、人間コースに?」
「三日前、人間コースで急なキャンセルが出ました」
「ええ」
「そのとき、システムが自動的に『次の候補』を検索したんですが……」
「はい」
「候補が多すぎて、一瞬だけ処理が止まりました」
「……」
「その直後、たまたま一番近くにいた魂が、受付画面に入り込みました」
「入り込んだ?」
「はい」
「どうやって?」
「本人もよくわかっていません」
タマユラ子は頭を抱えた。
「つまり……」
「はい」
「虫、魚、獣という準備期間をすべて飛ばして」
「はい」
「いきなり人間に?」
「はい」
「……人間コースを?」
「はい」
タマユラ子は椅子から立ち上がった。
三千年間、一度もしたことのない勢いで。
「これは由々しき事態です」
「課長、どうされるんですか?」
「私が地上へ行きます」
「課長自ら?」
「当然です」
タマユラ子は制服の襟を整えた。
「窓口業務は誰にでもできます」
「課長……」
「しかし、事務ミスの責任は」
判子を机に置く。
「判子を押した者が取らねばなりません」
「課長、判子を押したのはシステムです」
「……」
「課長?」
「今の発言は聞かなかったことにします」
こうしてタマユラ子は地上へ降りることになった。
仮の肉体。
名前は、田村由紀子。
二十代。
どこにでもいそうな女性。
ただし中身は、三千年間、魂しか相手にしてこなかった役所の課長である。
人間生活については、ほぼ素人だった。
第三章 人間、にわか仕込み
タマオが働く小さな印刷会社に、一人の中途採用社員が入った。
「本日よりお世話になります。田村由紀子と申します」
「よろしくお願いします」
社員たちが頭を下げる。
タマユラ子も頭を下げる。
ただし、角度が深すぎた。
「……田村さん?」
「はい」
「そこまで頭を下げなくても」
「礼は深いほどよいと記録されています」
「誰の記録ですか?」
「三千年分です」
「……?」
タマオは隣の席から、その様子を見ていた。
昼前。
上司が言った。
「田村さん、コピー機の紙、補充しておいて」
「補充とは、何をどのように補充すればよろしいのでしょうか」
「紙を入れるだけ」
「前例を確認したいのですが」
「前例?」
「失敗すると問題が発生しますので」
「コピー用紙ですよ」
「それでもです」
タマオが立ち上がった。
「田村さん、僕がやります」
「ありがとうございます」
タマオがトレイを引き出す。
「ここに紙を入れます」
「なるほど」
「こうです」
「手際がいいですね」
タマユラ子は、ふと尋ねた。
「あなたは、人間何年目ですか?」
タマオは真顔で答えた。
「一回目です」
タマユラ子の手から、紙が一枚落ちた。
「……今、何と?」
「一回目です」
「人間が?」
「はい」
「本当に?」
「はい」
「前世は?」
「……?」
「虫とか、魚とか、獣とか」
「ありません」
タマユラ子は確信した。
この青年だ。
キャンセル待ちの魂。
そしてその日の昼休み。
タマオは屋上で鳩に向かって頭を下げていた。
「先輩、いつもお疲れ様です」
鳩がパンくずを食べる。
「僕はまだまだ未熟者ですが、どうかご指導ください」
タマユラ子は呆れて声をかけた。
「鳩に敬語を使う必要はないと思います」
タマオは振り返った。
「そうでしょうか」
「ええ」
「でも、彼らは僕よりずっと長く空を飛んでいます」
「それは……」
「人生の先輩です」
「鳩生です」
「そうです」
タマユラ子は黙った。
この青年は、どうやら本当に人間一回目らしい。
そして彼女は、初めて思った。
人間という生き物は――。
もしかすると、何回やっても難しいのではないか。
第四章 虫たちの抗議デモ
玉響課では、別の問題が発生していた。
「課長!」
ヒヨコ丸が、また走ってきた。
「今度は何ですか」
「抗議です!」
「誰から?」
「昆虫連合です!」
「……」
机の上に、山のような書類が積まれた。
差出人。
蟻。
蝶。
カブトムシ。
クワガタ。
その他、大量の昆虫。
一枚目を開く。
『我々は正規の手順を守っております』
二枚目。
『虫としての人生を真面目に生きました』
三枚目。
『魚への昇格も待ちました』
四枚目。
『獣への昇格も待ちました』
五枚目。
『それなのに、いきなり人間へ行くとは何事ですか』
六枚目。
『順番を守れない魂が、人間になれるのでしょうか』
タマユラ子は黙って書類を読んだ。
「……もっともです」
「課長」
「何です?」
「人間になったタマオさんは、順番を守ることに関しては、かなり優秀です」
「それはそうですね」
「なのに、どうして怒っているんでしょう」
「順番を守ったからこそ、怒っているんですよ」
「……難しいですね」
「輪廻とは、そういうものです」
タマユラ子は窓の外を見た。
地上ではタマオが生きている。
不器用に。
一つ一つ確認しながら。
誰かを追い越すこともなく。
誰かを押しのけることもなく。
何をするにも、
「これでよろしいでしょうか」
と尋ねる。
それは確かに、何度も人間を経験した魂とは違っていた。
だが。
タマユラ子は思った。
経験が少ないからこそ、見えるものもあるのではないか。
「課長?」
「はい」
「どうします?」
「規則は変えません」
「はい」
「ただし――」
タマユラ子は一枚の書類を取り出した。
「救済措置を申請します」
第五章 もう一人の「僕」
ある夜。
タマオは鏡を見ていた。
いつもの自分。
いつもの顔。
なのに。
鏡の中の自分が、ほんの一瞬だけ違う表情をした。
タマオは目をこすった。
「……今の、何?」
もう一度見る。
普通の自分がいる。
だが、その夜から妙なことが起き始めた。
知らない景色を夢に見る。
草むら。
水の中。
暗い土の中。
そして空。
どれも、自分には経験がないはずの景色だった。
ある朝。
タマオは修一の家を訪ねた。
「おじいちゃん」
「なんだ」
「僕、変なんです」
「今さらだな」
「……」
「冗談だ」
タマオは笑わなかった。
「僕の中に、もう一人いるような気がするんです」
修一は黙って聞いた。
「虫だったような記憶があります」
「……」
「魚だったような感じもする」
「……」
「でも、それは僕じゃない」
修一は、長い間しまっていた古いノートを取り出した。
「これを見ろ」
「何ですか?」
「昔、俺が書いた詩だ」
ページを開く。そこには『玉響たち』と題された古い詩があり、直筆の柔らかい字で、最後にこう添えられていた。
『人間、何度目ですか』
タマオは、その言葉を見つめた。
そして、なぜか涙がこぼれた。
「おじいちゃん」
「なんだ」
「僕……」
声が震える。
「僕、本当の順番じゃなかったのかもしれません」
そのときだった。
玄関のチャイムが鳴った。
修一が開ける。
そこに立っていたのは、田村由紀子だった。
「どうして……」
タマオが驚く。
由紀子は、静かに頭を下げた。
「タマオさん」
「はい」
「あなたに、お話ししなければならないことがあります」
「何でしょう」
「私は、田村由紀子ではありません」
修一が眉をひそめる。
「では、誰なんです?」
由紀子は姿勢を正した。
「魂配属課――玉響課、課長のタマユラ子です」
沈黙。
タマオが言った。
「……会社、辞めますか?」
「その必要はありません」
「そうですか」
「まず、あなたの魂について説明します」
タマユラ子は、すべてを話した。
本来なら別の魂が入るはずだったこと。
キャンセル待ちの魂が、誤って配属されたこと。
そして、今のタマオが、宇宙の手続き上は「予定外」の存在であること。
話し終えたとき。
タマオは俯いていた。
「じゃあ僕は……」
静かに言った。
「ここに、いてはいけないんですか?」
タマユラ子はすぐには答えなかった。
やがて、静かに言った。
「規則だけを見れば、そうなります」
修一が立ち上がった。
「なら、聞きたい」
「はい」
「この子がここからいなくなったら、今までの人生はどうなる?」
「……」
「蟻に謝ったことも」
「……」
「鳩に敬語を使ったことも」
「……」
「エレベーターの定員を気にしたことも」
「……」
「面接で『人間一回目です』と言ってしまったことも」
タマユラ子の口元が少し緩んだ。
「記録としては、すべて残ります」
「記録の話じゃない」
修一は言った。
「この子が生きてきた時間そのものだ」
タマユラ子は、しばらく黙っていた。
そして、初めて課長ではなく、一人の魂として答えた。
「……無駄にはなりません」
「本当か?」
「はい」
「なぜ?」
「私は三千年、窓口に座っていました」
「それで?」
「数え切れないほどの魂を見ました」
タマユラ子はタマオを見る。
「何度も人間になった魂は、人生の要領を知っています」
「……」
「どこで笑い、どこで怒り、どこで得をすればいいのか」
「……」
「でも、あなたは違う」
タマオは黙っている。
「あなたは、毎日を初めて見るように生きている」
タマユラ子は微笑んだ。
「だから、よく立ち止まる」
「……」
「よく考える」
「……」
「よく謝る」
「……」
「そして、よくお辞儀をする」
修一が笑った。
「そこは余計だな」
「申し訳ありません」
「ほら」
修一が笑う。
タマオも少し笑った。
タマユラ子は言った。
「規則は守ります」
「はい」
「本来の順番待ちだった魂には、私から直接お詫びします」
「……」
「そして、次の空き枠を最優先で用意します」
「そんなことができるんですか?」
「課長権限です」
「三千年分の権限ですか?」
「三千年分です」
「……結構強いんですね」
「普段は使わないだけです」
第六章 正しく生きる、ということ
数日後。
玉響課の窓口に、一つの魂が呼ばれた。
「大変申し訳ございませんでした」
タマユラ子が深々と頭を下げる。
「事務手続きの不備により、あなた様の人間配属枠が、一時的に別の魂に使用されました」
魂は、ふわりと揺れた。
「そうですか」
「本当に申し訳ありません」
「まあ」
魂は笑った。
「長く生きていると、いろいろありますよ」
「長く生きている……」
「正確には、長く待っています」
「……そうでした」
タマユラ子も笑った。
「次の空き枠を最優先でご案内します」
「どんな人生ですか?」
「それが――」
タマユラ子は画面を見る。
「なかなか感じのよい家庭です」
「それは楽しみですね」
「何か希望はありますか?」
「ありません」
魂は言った。
「初めてなら、何でも初めてでしょうから」
タマユラ子は、その言葉を聞いて少し驚いた。
そして思った。
案外。
この魂も、タマオと似ているのかもしれない。
一方、地上では。
タマオが会社の屋上で鳩を見ていた。
「先輩」
鳩が振り向く。
「今日もよろしくお願いします」
隣に立った田村由紀子が言った。
「まだ鳩に敬語を使っているんですね」
「はい」
「もう、人間一回目ではないかもしれませんよ」
タマオは少し考えた。
「でも、今日の僕は今日が初めてです」
タマユラ子は黙った。
「だから、一回目でいいと思います」
「……なるほど」
タマオは鳩に向かって頭を下げた。
「では、仕事に行ってきます」
鳩は飛んでいった。
タマユラ子が言った。
「タマオさん」
「はい」
「あなたのような魂が増えると、玉響課の窓口業務も少し楽になるかもしれません」
「それは褒め言葉ですか?」
「もちろんです」
「では、ありがたく受け取ります」
二人は笑った。
終章 持ち時間
夕暮れ。
修一は縁側に座っていた。
空が赤く染まっている。
風が庭の木を揺らしている。
昔、自分が書いた詩。
『玉響たち』
あれは本当に、ただの妄想だったのだろうか。
修一には、もうわからない。
ただ一つだけ、わかったことがある。
人間が何回目なのか。
そんなことは、案外どうでもいい。
十回目でも。
百回目でも。
あるいは――。
一回目でも。
今日という日は、一度しかない。
タマオは今日も、失敗するだろう。
間違えるだろう。
何かを確認しすぎて、人を待たせるだろう。
鳩にも敬語を使うだろう。
それでも。
それは、タマオにしか使えない時間だ。
修一は空を見上げた。
「一回目か……」
小さく笑った。
「俺だって、そうだったんだよな」
そのとき。
空の向こうで、何かが光った。
小さな玉響。
ふわり。
ふわり。
そして、夕暮れの空へ消えていった。
宇宙のどこかでは、今日も玉響課の窓口が開いている。
「次の方、どうぞ」
長い列が続いている。
虫も。
魚も。
鳥も。
獣も。
そして、人間も。
みんな順番を待っている。
けれど。
列の先に何があるのかは、誰にもわからない。
だからこそ。
今ここにいる一回を、大切にすればいい。
何度目の人生かではなく。
何回目の人間かでもなく。
今日という一日を、
自分の一回目として。
生きていけばいい。
――人間、一回目です。
(了)
あとがき
「人間、一回目です」という言葉を思いついたとき、最初に浮かんだのは、少し変な人間でした。
何をするにも確認する。
誰に対しても礼儀正しい。
蟻に謝り、鳩を先輩と呼び、エレベーターに乗るだけでも資格を気にする。
そんな人がいたら、たぶん周囲は少し困るでしょう。
でも、よく考えてみると、私たちも似たようなものかもしれません。
仕事も。
人間関係も。
家族も。
老いることも。
別れも。
本当は、誰だって初めてです。
経験があるように見えても、今日という日は初めて。
昨日と同じ一日が来たように見えても、昨日とは違う一日です。
だから本作では、輪廻転生という大きなテーマを、あえて宇宙の「役所」にしてみました。
魂にも整理券があり。
順番があり。
キャンセル待ちがあり。
そして、たまには事務ミスもある。
ずいぶんいい加減な宇宙ですが、もしかすると、そのくらいのほうが人間にはちょうどいいのかもしれません。
完璧な人生などありません。
予定通りの人生も, たぶんありません。
それでも、自分に与えられた持ち時間を、自分なりに生きていく。
それだけで、人生は十分に価値があるのではないでしょうか。
もし読み終えたあと、
「自分も、今日だけは一回目のつもりでやってみようかな」
と思っていただけたなら、とても嬉しく思います。
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第二部
人間、二回目です
―玉響課・経験者窓口の憂鬱―
まえがき
人生には、経験がものを言うことがあります。
一度やったことなら、二度目は上手くできる。
一度失敗したことなら、次は避けられる。
一度別れたことがあるなら、次は別れ方もわかる。
……本当に、そうでしょうか。
もし人間が何度も生まれ変わるのだとしたら、二回目の人生は、一回目より楽なのでしょうか。
前世の記憶があれば。
人間関係のコツを知っていれば。
仕事の仕方を知っていれば。
恋愛の失敗も、ある程度は避けられる。
そんな「経験者」がいたとしたら、きっと人生など簡単に生きられるはずです。
ところが。
宇宙のどこかにある魂配属課――通称・玉響課では、どうやらそうは考えていないようです。
「人間二回目です」
そう胸を張って地上へ降りた魂が、なぜか一回目の魂よりも苦労する。
前回の人生と比べてしまう。
前回ならこうした。
前回はこうだった。
前回は、もっと上手くできた。
けれど、今回の人生は、前回の続きではありません。
家族も違う。
時代も違う。
出会う人も違う。
そして何より――
今日という日は、今回が初めてです。
本作は、そんな少し面倒くさくて、少し可笑しい「人間二回目」の魂と、相変わらず宇宙の窓口業務に追われるタマユラ子たちの物語です。
一回目の人生も難しい。
二回目の人生も難しい。
もしかすると、人間というものは、何回目になっても新人なのかもしれません。
どうぞ、少し笑いながらお付き合いください。
序章 経験者窓口
宇宙のどこか。
座標も名前も持たない場所に、それでも役所は存在する。
魂配属課。
通称――玉響課。
今日も窓口は混んでいた。
虫。
魚。
鳥。
獣。
人間。
さまざまな魂が、整理券を握りしめて並んでいる。
「次の方、どうぞ」
窓口のタマユラ子が顔を上げる。
「人間コースを希望します」
「はい。では前世の経験を確認しますね」
魂の記録が画面に表示された。
「ええと……人間、一回」
「はい」
「今回は二回目ですね」
「はい」
魂が少し誇らしげに光った。
「経験者です」
タマユラ子は無表情で言った。
「経験者だからといって、優先されるわけではありません」
「はい」
「人間二回目だからといって、難易度が下がるわけでもありません」
「はい」
「前世の経験が、今回そのまま役立つとも限りません」
「……」
「それでも二回目ですか?」
「もちろんです」
魂は胸を張った。
「一回目よりは、ずっと上手く生きられると思います」
タマユラ子は、長年の経験から、こういう魂ほど心配になることを知っていた。
「では、こちらに署名を」
魂が書類に署名する。
「最後に一つだけ確認します」
「何でしょう?」
タマユラ子は静かに尋ねた。
「今回の人生を、前回の人生と比較しない自信はありますか?」
魂は即答した。
「もちろんです」
タマユラ子は判子を押した。
ぽん。
「では、行ってらっしゃいませ」
魂が光の階段を下りていく。
タマユラ子は、その背中を見送った。
「……たぶん、比較するでしょうね」
隣で新人職員のヒヨコ丸が言った。
「課長、なぜわかるんですか?」
「三千年、窓口をやっていますから」
「経験ですか」
「そうです」
タマユラ子は少し考えた。
「でも、三千年経験しても、人間のことはよくわかりません」
ヒヨコ丸が首を傾げた。
「課長は人間じゃないですよね」
「だから余計にわからないんです」
第一章 人間、二回目です
男の名前は、佐伯恒一。
三十七歳。
会社員。
妻なし。
子なし。
大きな特徴はない。
ただ一つだけ。
本人だけが知っていることがある。
自分は、人間二回目なのだ。
生まれた瞬間から、妙な感覚があった。
病院の天井を見上げたとき。
「……またここか」
赤ん坊の口から、そんな声が出た。
両親は驚いた。
医師はもっと驚いた。
ただ、赤ん坊本人は、それ以上何も覚えていなかった。
それでも成長するにつれ、断片的な感覚が戻ってきた。
前世。
仕事。
家。
駅。
知らない女。
そして、最後に見た夕焼け。
佐伯は自分の前世を「人生経験」と考えた。
だから今度は失敗しない。
学生時代から計画的だった。
前世では勉強を怠った。今回は勉強する。
前世では無駄遣いした。今回は貯金する。
前世では会社で人間関係に苦労した。今回は余計なことを言わない。
前世では結婚して失敗した。今回は慎重に相手を選ぶ。
完璧だった。
……はずだった。
就職して十年。
貯金は増えた。
仕事も順調。
上司とも揉めない。
同僚とも喧嘩しない。
恋愛も慎重にした。
ところが。
なぜか人生が、まったく楽しくない。
ある夜。
佐伯は一人で居酒屋に入った。
カウンターに座る。
「生ビールください」
店員が尋ねた。
「おつまみは?」
「結構です」
「本当に? おすすめの焼き鳥もありますよ」
「……大丈夫です」
佐伯はメニューを見ながら考えた。
前世では、ここで焼き鳥を頼んだ。そして調子に乗って食べすぎ、胃を壊して後悔したのだ。だから今回は頼まない。
無駄や失敗を回避できたはずだった。
店員が去る。
佐伯はビールを一口飲んだ。
「……」
美味しくない。
正確には、美味しい。
でも、前世のあの「失敗した夜」ほどの味わいがない。失敗を避ける代わりに、自分はいったい何を味わっているのだろうか。
佐伯は思った。
――前回のほうが良かった。
その瞬間。
自分で自分に嫌気が差した。
「俺は、何をやっているんだ」
二回目の人生。
失敗しないために生きている。
しかし。
失敗しない代わりに、何もしていない。
第二章 前世比較表
翌朝。
佐伯は会社へ向かった。
電車に乗る。
空いている席を見つけた。
座ろうとした瞬間、若い女性が走ってきた。
佐伯は譲った。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
女性が座る。
佐伯は満足した。
前世ではなりふり構わず席を取っていた。今回は譲った。大人になった。成長したのだ。
そう自分を誇った直後。
女性がスマートフォンを取り出した。
佐伯の前で大きな声で電話を始めた。
「もしもし? 今、電車なんだけど――」
佐伯は眉をひそめた。
前世の自分なら一言注意していたはずだ。だが今回は我慢する。波風を立てず、人間関係で揉めないのが今回のルールだ。我慢こそが大人なのだから。
しかし、五分。
十分。
十五分。
佐伯はついに耐えられなくなった。
「すみません」
女性が振り向く。
「何ですか?」
「……いえ」
「?」
「何でもありません」
佐伯は黙った。
前世なら怒っていた。
今回は我慢した。
我慢して波風を立てなかったはずなのに、なぜか前世で怒ったとき以上に腹が立つ。
会社に着く。
上司が言った。
「佐伯君、これ今日中にお願い」
「はい」
前世なら「無理です」と突っぱねて険悪になっていた。今回は引き受ける。
ところが昼休み。
同僚が言った。
「佐伯さんって、何でも引き受けますよね」
「そうかな」
「便利なんですよ」
佐伯は固まった。
便利。
その言葉が胸に刺さった。
前世なら怒っていた。
今回は――。
「……そうですか」
笑ってみせた。失敗を避けて大人な対応をしているはずなのに、心が少しずつすり減っていく。
その日の帰り道。
佐伯は駅前のベンチに座った。
「何なんだよ……」
そのとき。
隣から声がした。
「大丈夫ですか?」
若い男だった。
「顔が、とても難しい顔をしています」
「……」
佐伯は男を見た。
どこか見覚えがある。
「あなたは?」
「タマオです」
「タマオ……?」
「人間一回目です」
佐伯は目を丸くした。
「一回目?」
「はい」
タマオは笑った。
「佐伯さんは?」
佐伯は胸を張った。
「二回目です」
「すごいですね」
「だろう?」
「何が違うんですか?」
「経験があります」
「そうなんですか」
「前回の人生を知っている」
「便利ですね」
「そうだろう」
タマオは少し考えた。
「じゃあ、今回の人生は前回と同じなんですか?」
佐伯は答えられなかった。
第三章 経験者、迷子になる
それから佐伯は、タマオと時々会うようになった。
不思議な青年だった。
何をするにも初めて。
だからこそ、何でも新鮮に見える。
「佐伯さん、今日の夕焼け、きれいですね」
「前世でも見た」
「……」
「いや、悪い」
「そうですか」
タマオは笑った。
「僕は初めてです」
「毎日同じような夕焼けだろ」
「でも、今日の夕焼けは今日しか見られません」
佐伯は何も言えなかった。
ある日。
二人で食堂に入った。
タマオがメニューを眺めている。
「何にする?」
「迷っています」
「僕ならこれだ」
佐伯が指差した。
「前世で食べたことがある。美味しい」
「じゃあ、それにします」
料理が来る。
タマオが一口食べた。
「美味しいです」
「だろう」
「でも、佐伯さん」
「何?」
「前世で食べた味と、比べているんですか?」
「……」
「僕は、比べられません」
「一回目だから?」
「はい」
タマオは箸を置いた。
「だから、今の味が全部です」
佐伯は料理を見た。
同じ料理。
同じ店。
それなのに。
なぜか急に、自分の料理が違って見えた。
その夜。
佐伯は夢を見た。
前世の自分。
妻。
家。
仕事。
最後の夕焼け。
目が覚める。
汗をかいていた。
「……前回のほうが良かった」
口に出した。
だが、その言葉を言った瞬間。
違和感があった。
前回の人生が本当に良かったのなら。
なぜ自分は、もう一度生まれたのだろう。
第四章 玉響課、再調査
宇宙。
玉響課。
「課長!」
ヒヨコ丸が走ってきた。
「またですか?」
「今回は大変です!」
「何が?」
「人間二回目の佐伯恒一さんから、地上相談が来ています」
「相談内容は?」
ヒヨコ丸が書類を見る。
「『前世より人生がつまらない』」
タマユラ子はため息をついた。
「……典型的ですね」
「典型なんですか?」
「人間二回目には、よくあります」
「どんな症状です?」
「前世比較」
「はい」
「記憶依存」
「はい」
「成功体験への執着」
「はい」
「そして――」
タマユラ子は判子を持った。
「『前はもっと上手くできた』病」
「病気なんですか?」
「病名はありません」
「じゃあ?」
「人間です」
ヒヨコ丸は納得した。
「なるほど」
「納得するところではありません」
タマユラ子は立ち上がった。
「地上へ行きます」
「また課長自ら?」
「前回のタマオの件もあります」
「タマオさんも?」
「はい」
「では今回も?」
「もちろんです」
タマユラ子は仮の肉体を選んだ。
今回も名前は田村由紀子。
ただし前回とは違う服装にした。
「課長、その服は?」
「人間二回目の魂には、それらしい格好が必要です」
「それらしい?」
「経験者に見える服です」
「どんな服ですか?」
「少し落ち着いた服です」
「それで何が変わるんです?」
「気分です」
「……」
タマユラ子は地上へ降りた。
第五章 人間二回目の落とし穴
佐伯は、会社を辞めようとしていた。
前世と同じ仕事。
前世と似た毎日。
もう嫌だった。
「今度こそ違う人生にする」
そう思っていた。
ところが。
転職先を探しているうちに、どこも前世と比較してしまう。
給料。
通勤時間。
人間関係。
会社の雰囲気。
何を見ても、
「前の会社のほうが……」
となる。
佐伯は頭を抱えた。
そこへタマユラ子が現れた。
「佐伯さん」
「田村さん?」
「少しお話があります」
「何でしょう」
「あなた、前世の人生を知っていますね」
佐伯の顔色が変わった。
「……なぜ」
「玉響課の記録です」
「玉響課?」
「魂配属課です」
佐伯は固まった。
「まさか……」
「はい」
タマユラ子は言った。
「あなたは確かに人間二回目です」
佐伯は少し嬉しそうにした。
「やっぱりそうなんですね」
「ただし」
「はい」
「二回目だからといって、前回より上手く生きられるとは限りません」
「……」
「むしろ、あなたは前回の人生に引っ張られすぎています」
佐伯は黙った。
「前回はこうだった」
「……」
「前回はこうすれば成功した」
「……」
「前回のほうが幸せだった」
「……」
「あなたは、今の人生を生きていません」
その言葉が胸に刺さった。
「でも、経験があるんです」
「はい」
「それを使うのが悪いんですか?」
「いいえ。使って結構です。ですが――」
タマユラ子は淡々と言った。
「地図として使うのです」
「地図?」
「前回の人生は、今回の人生の答えではありません。せいぜい参考資料です」
「参考資料……」
「しかも、ずいぶん古い資料です」
「古い?」
「少なくとも十年以上前のものです」
「……」
「家族も違う。時代も違う。出会う人も違う。なのに、なぜ前回と同じ答えが出ると思うのです?」
佐伯は答えられなかった。
そこへタマオがやってきた。
「田村さん」
「タマオさん」
「佐伯さん、どうしたんですか?」
「人間二回目の先輩が、少し迷っているのです」
タマオは佐伯を見た。
「僕、一回目ですけど」
「知っている」
「一回目だから、前回がありません」
「……」
「だから、比べることもできません」
佐伯は笑った。
「君は、本当に得だな」
「そうでしょうか」
「何も知らない」
「はい」
「何も経験していない」
「はい」
「だから迷わない」
タマオは少し考えた。
「いえ」
「え?」
「僕も、迷います」
「……」
「毎日迷います」
「一回目なのに?」
「一回目だからです」
佐伯は、思わず笑った。
「そうか」
「はい」
「一回目だから迷うのか」
「二回目でも迷うんじゃないですか?」
「……」
「僕にはまだわかりません」
「そうだな」
佐伯は空を見上げた。
「俺にも、わからないのかもしれない」
第六章 前回の自分に謝る
その夜。
佐伯は一人で歩いた。
前世で暮らしていた町。
もう何も残っていない。
家もない。
店もない。
駅前の景色も変わっている。
それでも、記憶だけは残っている。
前世の自分。
妻。
喧嘩。
仕事。
失敗。
成功。
そして最後の日。
佐伯はベンチに座った。
「なあ」
誰もいないのに話しかける。
「俺、ずっとお前の人生をやり直そうとしてた」
風が吹いた。
「でも、無理なんだな」
返事はない。
「当たり前だよな」
佐伯は笑った。
「お前と俺は、同じ魂でも、同じ人生じゃない」
少しだけ、涙が出た。
「悪かったな」
前回の自分に謝った。
「お前の人生を失敗作みたいに扱って」
それから立ち上がった。
翌朝。
佐伯は会社へ行った。
上司の前に立つ。
「部長」
「何だ?」
「昨日お願いされた仕事ですが」
「うん」
「今日は無理です」
部長が驚く。
「え?」
「明日にしてください」
「珍しいな」
「はい」
佐伯は笑った。
「二回目なので、今回は少し練習してみます」
「何の練習だ?」
「断る練習です」
部長は困った顔をした。
「……まあ、いいけど」
その日の昼。
同僚に誘われた。
「佐伯さん、昼飯どうです?」
「行きます」
前世なら一人で食べていた。
今回は行ってみる。
午後。
帰り道。
雨が降ってきた。
前世なら嫌いだった。
今回は傘を買った。
コンビニの店員に、
「ありがとうございました」
と言われた。
佐伯も頭を下げた。
「こちらこそ」
それだけの一日。
何も特別なことはない。
けれど。
佐伯は思った。
――悪くない。
終章 何回目でも新人
数日後。
玉響課。
タマユラ子は、佐伯の記録を確認していた。
「どうやら、少し落ち着いたようですね」
ヒヨコ丸が覗き込む。
「人間二回目って、大変なんですね」
「ええ」
「一回目より?」
「一回目も大変です」
「じゃあ、三回目は?」
タマユラ子は黙った。
「……もっと大変でしょうね」
「なぜです?」
「経験が増えるからです」
「経験が増えたら、楽になるんじゃないですか?」
「人間は、経験が増えるほど」
タマユラ子は判子を置いた。
「『自分はわかっている』と思い始めます」
ヒヨコ丸は納得した。
「なるほど」
「だから、経験は便利ですが」
タマユラ子は微笑んだ。
「同時に、重たい荷物にもなります」
そのころ地上では。
佐伯がタマオに言っていた。
「タマオ君」
「はい」
「俺、人間二回目だけど」
「はい」
「たぶん、まだ何もわかってない」
タマオは笑った。
「僕もです」
「君は一回目だろ」
「はい」
「じゃあ、俺と同じじゃないか」
「そうですね」
二人は並んで歩いた。
夕暮れだった。
タマオが空を見る。
「きれいですね」
佐伯も見上げた。
「……前にも見た」
タマオが笑う。
「また比べてますよ」
佐伯も笑った。
「悪い」
少し歩いてから、佐伯が言った。
「でも」
「はい」
「今日の夕焼けは、今日が初めてだな」
タマオは頷いた。
「はい」
二人はしばらく黙って歩いた。
その空のずっと向こう。
宇宙のどこか。
玉響課の窓口では、また一つの魂が順番を待っていた。
「次の方、どうぞ」
魂が窓口へ進む。
タマユラ子が記録を見る。
「前世、人間です」
「はい」
「人間経験、二回」
「はい」
「今回も人間を希望?」
「はい」
タマユラ子は尋ねた。
「前回の経験を活かしたいですか?」
魂は少し考えた。
「……できれば」
「そうですか」
タマユラ子は判子を持った。
そして、書類の一番下に、小さく注意書きを追加した。
『前世経験は参考資料であり、今回の人生の保証ではありません』
ぽん。
判子を押す。
「では、行ってらっしゃいませ」
魂が光の階段を降りていく。
ヒヨコ丸が尋ねた。
「課長」
「何です?」
「人間って、何回目になったら一人前になるんでしょう?」
タマユラ子は、少し考えた。
そして答えた。
「たぶん――」
窓口の向こうを見つめる。
「最後まで、なりません」
「え?」
「何回目でも、初めてのことが起きますから」
ヒヨコ丸は笑った。
「じゃあ、人間はずっと新人ですね」
「そういうことです」
タマユラ子は次の整理券を取った。
「次の方、どうぞ」
その声が、広い宇宙のどこかに響いていく。
一回目の魂も。
二回目の魂も。
何度目かわからない魂も。
みんな同じように、順番を待っている。
そして地上では。
人間二回目の佐伯が、今日という一日を生きている。
人間一回目のタマオも。
誰もが、今日を初めて生きている。
何回目の人生かは、もう関係ない。
昨日は昨日。
前世は前世。
そして今日という日は――
今日が一回目。
佐伯は空を見上げた。
「人間、二回目です」
小さく笑う。
「でも、今日は一回目だな」
空の向こうで、玉響が一つ。
ふわり。
ふわり。
そして静かに消えた。
(了)
あとがき
『人間、一回目です』に続いて、今回は「二回目」を書いてみました。
一回目のタマオは、何も知らないからこそ、何事にも丁寧でした。
では、二回目ならどうなるのか。
そんな疑問から生まれたのが、佐伯恒一という人物です。
彼は経験があります。
前世を知っています。
失敗も成功も覚えている。
だから、今度こそ上手く生きられると思っている。
ところが、人間というのは不思議なものです。
経験があるからこそ、
「前はこうだった」
「前はこうすればよかった」
「前より良くしたい」
と考えてしまう。
そして気がつくと、今の人生ではなく、前の人生を生き直そうとしている。
けれど、人生はコピーできません。
同じ魂だったとしても、家族が違う。
時代が違う。
出会う人が違う。
自分自身だって、少し違う。
だから、前回の人生の正解を今回に持ち込んでも、必ずしも同じ答えにはならない。
これは、輪廻転生の話であると同時に、私たちの日常の話でもあります。
昨日の経験。
昔の失敗。
若いころの成功。
「あのときはこうだった」という記憶。
それらは確かに大切です。
でも、今日という日は、昨日の続きであっても、昨日そのものではありません。
何歳になっても。
何度失敗しても。
何度経験しても。
今日初めて出会う人がいて、今日初めて見る景色があり、今日初めて決めることがあります。
だから、人間は何回目になっても新人なのかもしれません。
一回目の人も。
二回目の人も。
十回目の人も。
みんな同じように、今日を生きるしかない。
そんな少し可笑しくて、少し真面目な話として、この物語を楽しんでいただけたなら幸いです。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
第三部
人間、三回目です
――玉響課・最終面談――
まえがき
人は、経験から学びます。
一度失敗すれば、二度目は同じ失敗をしない。
二度失敗すれば、三度目はもっと上手くなる。
――普通なら、そう考えます。
では、もし人生そのものを三回経験していたら。
仕事も。
恋愛も。
結婚も。
別れも。
成功も失敗も。
一度ならず二度まで経験していたら。
三回目の人生は、きっと簡単なはずです。
けれど、本当にそうでしょうか。
一回目の人生は、何も知らない。
二回目の人生は、前回と比較してしまう。
そして三回目になると――
「もう失敗したくない」と思ってしまう。
だから今度は、人生を完璧に設計しようとする。
けれど、人生には予定表に書けないものがあります。
偶然出会う人。
突然訪れる別れ。
思いがけない出来事。
そして、自分でも予想していなかった自分自身。
『人間、一回目です』では、何も知らない魂が、人間として生きることの尊さに気づきました。
『人間、二回目です』では、経験のある魂が、過去と今を比べ続けることの愚かさに気づきました。
そして本作では、その先へ進みます。
三回目の人間は、何を知るのでしょうか。
もしかすると答えは、
「何回目であっても、今日という日は初めて」
という、ごく当たり前のことなのかもしれません。
宇宙のどこかにある魂配属課。
今日も、タマユラ子は判子を持っています。
三回目の人生を迎える魂を前にして、彼女は何を言うのでしょうか。
少し笑って。
少し考えて。
最後に、ほんの少しだけ、ご自身の人生を振り返っていただければ幸いです。
序章 最終面談
宇宙のどこか。
座標も名前も持たない場所に、それでも役所は存在する。
魂配属課。
通称――玉響課。
今日も窓口には長い行列ができていた。
虫。
魚。
鳥。
獣。
人間。
さまざまな魂が、整理券を握りしめて順番を待っている。
窓口の奥では、課長のタマユラ子が書類を整理していた。
「次の方、どうぞ」
一つの魂が進み出る。
タマユラ子が記録を確認した。
「前世、人間」
「はい」
「その前も人間」
「はい」
「さらにその前も……人間」
魂が胸を張った。
「三回目です」
タマユラ子は画面を見つめた。
「人間三回目……」
隣にいたヒヨコ丸が小声で言う。
「ベテランですね」
「そうでもありません」
「どうしてです?」
タマユラ子は書類をめくった。
「この魂、前回も『次こそ完璧に生きる』と言っています」
「……」
「前々回も」
「……」
「さらにその前も」
ヒヨコ丸が首を傾げた。
「では、学習していないんでしょうか?」
「いいえ」
タマユラ子は答えた。
「学習しすぎているんです」
「?」
「人間は、経験を積むほど、自分の経験を信じすぎることがあります」
タマユラ子は魂に尋ねた。
「今回の人生で、何をしたいですか?」
魂は即答した。
「失敗したくありません」
タマユラ子は、しばらく黙っていた。
そして判子を持つ。
「では、最終面談です」
「最終?」
「人間三回目ですから」
ぽん。
判子が押された。
第一章 三回目の男
男の名前は、黒田 恒一。
五十二歳。
会社経営者。
独身。
そして――人間三回目。
幼いころから、奇妙な既視感があった。
初めて訪れた場所なのに知っている。
初めて会った人なのに、何となく結末がわかる。
初めて聞く歌なのに、昔から知っている気がする。
そして、三十代を過ぎたころ。
記憶がはっきりとつながった。
前世。
さらに、その前の人生。
黒田は理解した。
自分は人間三回目なのだ。
だから今回は、絶対に失敗しない。
前々世では、貧乏だった。
前世では、金はあったが人間関係を失った。
今回は両方を手に入れる。
前々世では、働きすぎた。
前世では、働かなさすぎた。
今回は適度に働く。
前々世では結婚した。
前世では独身だった。
今回は慎重に相手を選ぶ。
何もかも計画した。
そして、ほぼ完璧に人生を進めた。
会社は成功した。
金もある。
健康にも気をつけている。
人付き合いも慎重だ。
大きな失敗はない。
ところが。
五十二歳になったある夜。
黒田は、自宅の広いリビングで一人、ワインを飲みながら呟いた。
「……つまらない」
失敗していない。
だから、後悔も少ない。
けれど。
何かが足りない。
「こんなはずじゃなかった」
その言葉を口にした瞬間、黒田は思わず苦笑した。
「こんなはずじゃない、か……」
前世でも言った。
その前も言った。
三回目になっても、全く同じことを言っている。
黒田は頭を抱えた。
「俺は、何回やれば気が済むんだ」
第二章 人生設計書
黒田の机には、一冊のノートがあった。
表紙には、
『第三人生・完全攻略法』
と書かれている。
中身は実に細かい。
五十五歳までに会社を後継者へ譲る。
五十六歳で地方へ移住。
五十七歳で趣味を始める。
五十八歳で結婚。
六十歳で――。
人生が、精密な予定表になっていた。
ある日、黒田は喫茶店に入った。
窓際の席に座る。
すると、店員がコーヒーを運んできた。
「お待たせしました」
黒田がカップを口に含む。
「……少し、苦いですね」
店員が笑った。
「今日は豆が違うんです」
黒田は驚いた。
「いつも同じではないのですか?」
「毎日同じ味じゃ、つまらないでしょう?」
黒田は返事ができなかった。
店を出たあと。
道端で子どもが転んだ。
母親が駆け寄る。
黒田は一瞬、助けようとした。
だが、足を止めた。
自分には予定がある。
人助けをすると時間がずれる。
予定が狂う。
そのとき。
黒田の背後から声がした。
「大丈夫ですか?」
見ると、一人の青年が子どもを起こしていた。
タマオだった。
「ありがとうございます」
母親が頭を下げる。
タマオも頭を下げる。
そして黒田に気づいた。
「あ」
「君は……」
「以前お会いしましたね」
「タマオ君か」
「はい」
黒田は言った。
「君は相変わらずだな」
「何がです?」
「人間一回目」
「はい」
「何も知らない」
「はい」
「だから、予定もない」
「そうですね」
タマオは笑った。
「でも、予定がないと、誰かを助けられることもあります」
黒田は何も言えなかった。
第三章 玉響課、三回目を監視する
宇宙。
玉響課。
「課長!」
ヒヨコ丸が駆け込んできた。
「黒田恒一さんの人生設計が、また細かくなっています!」
「またですか」
「はい。六十歳以降の予定まで決まっています」
タマユラ子は記録を見る。
「典型的な三回目です」
「二回目とは違うんですか?」
「二回目は過去と比較します」
「はい」
「三回目は未来を管理しようとします」
「なるほど」
「でも、人間の未来ほど管理できないものはありません」
ヒヨコ丸が尋ねた。
「では、どうします?」
タマユラ子は立ち上がった。
「地上へ行きます」
「またですか?」
「三回目ですから」
「何か特別な対応が必要なんですか?」
「はい」
タマユラ子は少し考えてから言った。
「経験者ほど、初心者に会わせる必要があります」
第四章 予定外
黒田は、その日も予定通りに仕事を終えた。
十八時に退社。
十九時に食事。
二十時に読書。
二十一時に風呂。
二十二時に就寝。
完璧だった。
ところが、帰宅途中。
駅の階段で、老人が転んだ。
周囲の人が集まる。
黒田も立ち止まった。
予定では、ここをそのまま通過するはずだった。
だが老人が黒田を見上げた。
「すみません……」
黒田は手を差し出した。
「大丈夫ですか?」
老人を助ける。
救急車を呼ぶ。
病院まで付き添う。
気づけば、夜の二十三時だった。
予定はすべて崩れた。
翌朝。
黒田は寝不足だった。
会社でも珍しくミスをした。
昼食の時間も遅れた。
人生設計書を開く。
予定表は、昨日から完全にずれている。
「最悪だ……」
そこへ田村由紀子が現れた。
もちろん、タマユラ子である。
「黒田さん」
「田村さん?」
「昨日、予定外のことがありましたね」
「ええ」
「困りましたか?」
「当然です。予定がすべて狂いました」
タマユラ子は微笑んだ。
「でも」
「何です?」
「昨日の老人は、助かりました」
黒田は黙った。
「それは、予定表には書かれていません」
「……」
「でも、あなたの人生には刻まれました」
黒田は静かにノートを閉じた。
第五章 三回目の告白
黒田には、気になっている女性がいた。
会社の取引先に勤める、春子という女性だった。
しかし黒田は告白しなかった。
前々世では、早すぎる結婚で失敗した。
前世では、遅すぎて別れた。
だから今回は、慎重にする。
タイミングを計る。
場所を選ぶ。
言葉を吟味する。
そして――。
五年が過ぎた。
春子は別の男性と結婚した。
黒田は何も言えなかった。
「また、同じだ」
その夜、黒田は一人で酒を飲んだ。
そこへタマユラ子が現れた。
「どうして告白しなかったのです?」
「失敗したくなかったからです」
「失敗しましたね」
「……はい」
「では、次は?」
黒田は苦笑した。
「もう次はありませんよ」
「本当に?」
「人間三回目ですから」
タマユラ子は黙った。
そして静かに言った。
「黒田さん」
「はい」
「あなたは、三回目だから失敗したのではありません」
「……」
「三回目だから、失敗を怖がりすぎたのです」
黒田は目を閉じた。
第六章 人生の予定外
数年後。
黒田は会社を後継者に譲った。
予定より二年早かった。
地方へ移住した。
予定より三年早かった。
趣味を始めた。
予定より五年早かった。
そして、春子とは別の女性と出会った。
出会ったその日に、黒田は言った。
「私は人間三回目なんです」
女性は笑った。
「何ですか、それ」
「いや……」
黒田も笑った。
「何でもありません」
今度は、人生を説明しようとしなかった。
未来を決めようともしなかった。
ただ、一緒に食事をした。
途中で雨が降ってきた。
傘を一本しか持っていなかった。
二人で濡れながら歩いた。
黒田は笑った。
「予定外ですね」
女性も笑った。
「嫌ですか?」
黒田は空を見上げた。
「いいえ」
そのとき、初めて思った。
――予定外も、悪くない。
第七章 最終面談
黒田が亡くなった。
三回目の人生を終えた魂は、玉響課へ戻ってきた。
窓口にはタマユラ子。
隣にはヒヨコ丸。
「お帰りなさいませ」
黒田の魂が尋ねる。
「……終わったのですね」
「はい」
「三回目も、うまくはいきませんでした」
タマユラ子は頷いた。
「そうですね」
「会社も予定通りにはいかなかった」
「はい」
「恋愛も」
「はい」
「人生も」
「はい」
黒田は苦笑した。
「三回やっても、結局失敗ばかりでした」
タマユラ子は記録を閉じた。
「では、最終面談です」
「まだあるのですか?」
「あります」
「何を聞くのです?」
タマユラ子は尋ねた。
「もう一度、人間をやりますか?」
黒田は黙った。
長い沈黙があった。
そして言った。
「……もう十分です」
「そうですか」
「三回もやりましたから」
「はい」
「もう、失敗したくありません」
タマユラ子は微笑んだ。
「それは残念です」
「え?」
「あなた、三回目の人生で、ようやく失敗を怖がらなくなったところでしたのに」
黒田は目を丸くした。
第八章 人間一回目の言葉
そのとき。
窓口の向こうから声がした。
「黒田さん」
振り向く。
タマオだった。
「君は……」
「人間一回目です」
「知っているよ」
「僕、前にも言いましたよね」
「ああ」
タマオは笑った。
「今日という日は、今日が初めてなんです」
黒田は黙った。
「だから、僕は毎日、初めてです」
「……」
「怖いですけど」
「うん」
「面白いですよ」
黒田は微笑んだ。
「君は、何も知らないから強いな」
「そうでしょうか」
「いや」
黒田は首を振った。
「違うな」
そして、自分自身に言い聞かせるように呟いた。
「何も知らないんじゃない」
「?」
「知らないことを、知らないまま受け入れているんだ」
タマオは笑った。
「そうかもしれません」
黒田はタマユラ子を見る。
「もし、もう一度やるなら」
「はい」
「今度は、人生設計書はいりません」
「よろしいのですか?」
「はい」
「予定も?」
「いりません」
「前世の経験も?」
黒田は少し考えた。
「経験は持っていきます」
「結構ですね」
「でも」
黒田は笑った。
「答えは、持っていきません」
タマユラ子は、静かに頷いた。
終章 四回目の窓口
宇宙のどこか。
玉響課。
タマユラ子は新しい書類を手にしていた。
記録。
人間経験 三回。
今回――四回目。
ヒヨコ丸が尋ねる。
「課長」
「何です?」
「四回目って、ベテランですよね?」
「そうですね」
「じゃあ、人生も上手になりますか?」
タマユラ子は笑った。
「さあ」
「さあ?」
「人間ですから」
そこへ黒田の魂がやってきた。
「次の人生は?」
タマユラ子は書類を渡した。
「こちらです」
「希望は出せますか?」
「もちろん」
黒田は書類を見る。
職業。
家族。
住む場所。
時代。
さまざまな選択欄がある。
しかし黒田は、ほとんど空欄のまま返した。
「これだけでいいです」
「どれでしょう?」
黒田は一つだけ指差した。
『予期せぬ出来事を受け入れる』
タマユラ子は笑った。
「難しい項目です」
「知っています」
「三回目の経験から?」
「はい」
「では」
タマユラ子は判子を持った。
「行ってらっしゃいませ」
ぽん。
判子が押された。
黒田の魂が、光の階段を降りていく。
ヒヨコ丸が窓口から見送る。
「課長」
「はい」
「人間って、何回やれば一人前になるんでしょう?」
タマユラ子は答えた。
「なりません」
「三回やっても?」
「なりません」
「四回やっても?」
「たぶん」
「じゃあ、何回やっても?」
タマユラ子は笑った。
「何回やっても、人間は初めてです」
そのころ地上では。
タマオが夕焼けを見ていた。
佐伯もいた。
そして、いつの間にか黒田の新しい人生も、どこかで始まっている。
一回目の人間。
二回目の人間。
三回目の人間。
何回目かわからない人間。
それぞれが、それぞれの人生を歩いている。
過去は消えない。
経験も消えない。
失敗も、後悔も、思い出も。
全部、自分の中に残っている。
けれど。
今日という日は、誰にとっても一回目だ。
初めて会う人。
初めて見る景色。
初めて選ぶ道。
初めて聞く言葉。
そして――
初めて経験する今日。
だから、人生は何回目でもいい。
一回目でも。
二回目でも。
三回目でも。
何十回目でも。
大切なのは、
「何回目の人生か」ではなく、
「今日を何回目のつもりで生きるか」なのかもしれない。
夕暮れの空に、玉響が一つ浮かんだ。
ふわり。
ふわり。
そして、どこかへ消えていった。
その先で、また新しい魂が窓口に並んでいる。
タマユラ子が顔を上げる。
「次の方、どうぞ」
物語は、まだ終わらない。
けれど――
この三つの物語は、ここで一度、幕を閉じる。
一回目だから、知らない。
二回目だから、比べる。
三回目だから、選ぶ。
そして最後に残るのは、
ただ一つ。
今日という人生。
(了)
あとがき
『人間、一回目です』
『人間、二回目です』
そして、本作。
『人間、三回目です』
三つの物語を書き終えました。
最初のタマオは、人間一回目。
何も知らないから、何をするにも真剣でした。
蟻に謝り、鳩に敬語を使い、エレベーターの定員まで気にする。
普通なら「変な人」です。
でも、物語を書いているうちに、だんだんと思いました。
もしかすると、彼のほうが一番、人間らしいのではないか。
知らないから、ちゃんと見る。
知らないから、ちゃんと聞く。
知らないから、一つ一つを大切にする。
それが一作目でした。
二作目の佐伯は、人間二回目。
経験がある。
だから前回と比較する。
「前はこうだった」
「前より良くしたい」
「今度は失敗したくない」
経験は人生を助けてくれます。
けれど、経験があるからこそ、目の前の人生を見失うこともある。
それが二作目でした。
そして三作目の黒田は、人間三回目。
彼は、比較するだけでは足りなくなります。
今度こそ失敗しないために、人生そのものを設計しようとする。
けれど、人生には予定表に書けないものがある。
偶然。
出会い。
別れ。
失敗。
そして、予定外の幸福。
三回目になって黒田が最後に選んだのは、
「答えを持っていかない」
ということでした。
これは、三部作を書きながら私自身がたどり着いた答えでもあります。
人は経験から学びます。
過去を振り返ります。
失敗を反省します。
それは大切なことです。
でも、過去の答えをそのまま今日に持ち込む必要はない。
今日という日は、今日しかありません。
何歳になっても。
何回経験しても。
初めて出会うものがあります。
初めて感じることがあります。
初めて選ぶことがあります。
だから結局、人間は何回目になっても新人なのかもしれません。
私自身もまた、いくら歳を重ねて経験を積んでも、結局は毎日が「初めての今日」の手探りなのだと深く感じています。
そして、それでいいのだと思います。
一回目の人間も。
二回目の人間も。
三回目の人間も。
みんな、今日を生きるのは初めてなのですから。
最後まで三部作にお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
またどこかで、玉響課の窓口が開くかもしれません。
そのときは、また一人の魂が整理券を握って、列の最後尾に並んでいることでしょう。
「次の方、どうぞ」
その声が聞こえたら。
どうぞ、またお越しください。
紹介文
『人間、三回目です』
――玉響課・最終面談――
人間、三回目。
前世も人間。
その前も人間。
人生経験は十分。
だから今度こそ――失敗しない。
そう考えた男、黒田恒一。
前々世では貧乏だった。
前世では金を得たが、人間関係を失った。
ならば三回目は、その両方を手に入れればいい。
仕事も。
お金も。
恋愛も。
人生そのものを完璧に設計する。
ところが。
人生には、予定表に書けないことが起こる。
偶然の出会い。
予期せぬ別れ。
予定外の親切。
そして、自分でも知らなかった自分自身。
そんな黒田の前に現れたのは――
人間一回目の青年・タマオ。
何も知らない。
何も経験していない。
だからこそ、今日という一日を「今日が初めて」として生きている。
一方、宇宙の彼方にある魂配属課――通称・玉響課では、課長タマユラ子が三回目の人間を見守っていた。
「一回目は何も知らない」
「二回目は前回と比べる」
「では、三回目は?」
その答えを探すため、玉響課の「最終面談」が始まる。
笑えて、少し不思議で、最後には自分の人生を振り返りたくなる。
『人間、一回目です』
『人間、二回目です』
そして――
『人間、三回目です』
三部作、ここに完結。
一回目だから、知らない。
二回目だから、比べる。
三回目だから、選ぶ。
そして最後に残るのは――
何回目であっても、今日という人生は一回目。




