為替の楼閣 二部作
まえがき
お金とは何なのか。
そして、為替とは、いったい誰が決めているのか。
スマートフォンの画面に表示される、
「一ドル=〇〇円」
という数字。
私たちは、その数字を経済の現実として受け入れています。
円が安くなれば、輸入品の価格が上がる。
円が高くなれば、海外旅行が少し身近になる。
給料も、物価も、企業の利益も、そして私たちの暮らしも、いつの間にか為替という数字に左右されています。
けれど、その数字の向こう側には、本当に何もないのでしょうか。
もし、その数字を意図的に動かそうとする人間がいたとしたら。
もし、その数字の揺らぎが、私たちの知らない「何か」を映しているのだとしたら。
そしてもし――。
私たちが生きている歴史とは別に、「選ばれなかったもう一つの歴史」が存在していたとしたら。
『為替の楼閣』は、元商社の為替ディーラー、佐伯健二を主人公にした二つの物語です。
第一楼閣では、現代の金融市場に潜む不正と利権を追います。
第二楼閣では、その同じ人物と過去を起点に、現実そのものの意味を問い直します。
二つの物語は、同じ場所から始まります。
しかし、その先にある世界は違います。
第一楼閣
「円を売った男たち」
政官財に広がる利権と、市場を揺るがす謎の異常値。
佐伯健二は、かつての恩師・黒沢誠一と再会し、為替の裏側に隠された巨大な仕組みに迫ります。
第二楼閣
「一ドル、百六十円の亡霊」
消えたはずの黒沢から届いた招待状。
地下に存在する謎の評議会。
そして、「選ばれなかった日本」という、もう一つの歴史。
同じ「円」という数字を見つめながら、二つの物語は、それぞれ別の問いへ向かいます。
私たちは、数字に人生を決めてもらうのか。
それとも、その数字に自分自身の意味を与えるのか。
そんなことを考えながら、二つの「楼閣」をお楽しみいただければ幸いです。
第一楼閣
― 円を売った男たち ―
プロローグ 閉店セール
午前三時。
東京外国為替市場が、もっとも薄くなる時間帯だった。
画面の数字が、突然跳ねた。
一ドル=一六三円。
それが、一秒、二秒と進むたびに上がっていく。
一六五。
一六八。
一七二。
一七五。
そして四十七秒後。
一七八円。
誰も、理由を説明できなかった。
ニュース速報は、
「アルゴリズム取引の異常」
と報じた。
金融当局は、
「現在、原因を調査中」
とだけ発表した。
しかし、その一時間後には、為替は何事もなかったように一六三円へ戻った。
市場は眠り、世界は朝を迎えた。
ただ一人、その数字を眠らずに見つめている男がいた。
佐伯健二、六十八歳。
元商社の為替ディーラーだった。
健二はチャートを三度、巻き戻した。
四十七秒。
同じだった。
値動きの形も、速度も、異常なほど正確だった。
「……これは、人間の売買じゃない」
そう呟いた瞬間、スマートフォンが鳴った。
知らない番号だった。
「もしもし」
返事は、若い女の声だった。
「佐伯健二さんですね」
「誰ですか」
「四十七秒間の値動き、あなたも見ましたね」
健二は黙った。
「今すぐ家を出てください」
「理由を聞かせてもらえますか」
女は一拍置いた。
「もう誰かが、あなたの住所を調べています」
その瞬間だった。
窓の外を、一台の黒い車がゆっくり通り過ぎた。
健二はカーテンを閉めた。
そして初めて気づいた。
テレビのニュース画面に表示された現在の為替レートが、
一六三円ではなく、
一六四円になっていた。
たった一円。
だが、何かが確実に動き始めていた。
第一章 尾行者
女の名前は、水城アヤといった。
二十九歳。
中央銀行系のシンクタンクに勤務していたが、二年前に退職。
現在は個人で、世界各国の金融市場に現れる「説明できない値動き」を追っているという。
指定された渋谷の裏路地。
古びたカフェの奥で、水城はノートパソコンを開いていた。
「これを見てください」
画面には、過去四十五年分の円ドルレートが表示されていた。
その上に、奇妙な波形が重なっている。
「この波形は?」
「ノイズです」
「ただのノイズじゃないだろ」
水城は頷いた。
「二十年に一度。ほぼ同じ形で現れます」
画面が切り替わった。
過去の為替チャート。
その上に、同じ波形。
「プラザ合意の前後」
次。
「バブル崩壊」
次。
「リーマンショック」
そして最後に、
「今回です」
健二は眉を寄せた。
「偶然じゃないのか」
「私も最初はそう思いました」
水城は検索画面を開いた。
古い商社の社員名簿が表示される。
そこには、四十五年前の健二の名前があった。
そして、その隣。
黒沢誠一。
健二の指が止まった。
「……黒沢さん」
「ご存じですね」
「私の上司だった。為替を教えてくれた人だ」
「その人が、今もこの波形の中心にいる」
「どういう意味だ」
水城は声を落とした。
「〈運用会〉という組織を知っていますか」
健二は首を振った。
「表向きは、退官した官僚や金融関係者、企業関係者による勉強会です」
「裏では?」
「為替を動かしている」
健二は笑った。
「そんな馬鹿な」
「なら、これを見てください」
画面に、複数の海外口座と日本国内の企業口座が表示された。
異常な取引。
不可解な資金移動。
そして、その中心に、
〈運用会〉
という文字。
「彼らは円を意図的に安くしている」
「目的は?」
「利益です」
そのとき、カフェの窓の外に二人の男が立った。
黒いスーツ。
こちらを見ている。
水城がパソコンを閉じた。
「もう見つかった」
「何が?」
「私たちです」
水城は立ち上がった。
「裏口から」
第二章 運用会
二人は路地を三本抜けた。
古い雑居ビルの非常階段に入り、水城がようやく足を止めた。
「ここまで来れば大丈夫です」
「説明してくれ」
健二は息を整えながら言った。
水城は周囲を確認した。
「〈運用会〉は、四十五年前に始まった研究成果を独占しています」
「研究?」
「金融市場に現れる、説明できない周期的な波形についてです」
「それが何だというんだ」
「彼らは、その波形を『境界現象』と呼んでいます」
健二は眉をひそめた。
「境界?」
水城は一枚の古い資料を見せた。
そこには、同じ日付なのに異なる為替レートが記録されていた。
一ドル=八十円。
一ドル=二百十円。
一ドル=一百十円。
「黒沢たちは、これを『選ばれなかった歴史』と呼んでいた」
「別の世界の話か?」
「私には、まだ断定できません」
水城は答えた。
「ただ、彼らは、別の可能性の歴史が現実の市場に影響を与えると考えていた」
健二は資料を見つめた。
「そんな話を信じろというのか」
「私だって信じたくありません」
水城は静かに続けた。
「でも、昨夜の四十七秒を説明するには、今のところ、それが一番近い」
健二の背筋に冷たいものが走った。
「四十七秒……」
「そうです」
「じゃあ、あの値動きは?」
「送金だけでは説明できません」
水城は首を振った。
「市場そのものが、何かに引っ張られていた」
健二は壁にもたれた。
そして、ふと疑問が浮かんだ。
「なぜ私なんだ」
水城は答えなかった。
「黒沢さんは、あなたを知っている」
「それだけか?」
「違います」
水城は静かに言った。
「黒沢さんは、四十五年前から、あなたを探していた」
第三章 地下四十五階
皇居にほど近い場所に、その建物はあった。
古い。
目立たない。
しかし地下には、地上からは想像もつかない施設が広がっていた。
エレベーターの表示が降下していく。
B10。
B20。
B30。
そして、
B45。
で止まった。
扉が開く。
巨大なサーバールームだった。
無数のラック。
低い機械音。
壁一面に並ぶ為替チャート。
その中央に、一人の老人がいた。
車椅子に座っている。
「健二」
声を聞いた瞬間、健二は立ち止まった。
「……黒沢さん」
四十五年ぶりだった。
しかし、その声だけは覚えていた。
「久しぶりだな」
健二は近づいた。
「全部、あんたの仕業か」
黒沢は笑った。
「違う」
「じゃあ誰がやっている」
「私が始めた」
健二は眉をひそめた。
「だが、今は私の手を離れている」
黒沢は自分の車椅子を見た。
「十年前、私は切り捨てられた」
「誰に?」
「政治家。官僚。企業。二世、三世……」
黒沢は苦笑した。
「仕組みだけを欲しがる人間は、どこにでもいる」
健二は詰め寄った。
「なら、なぜ俺を呼んだ」
黒沢はしばらく黙った。
そして、
「呼んだのは私だ」
と言った。
「だが、私が呼びたかったわけではない」
「どういう意味だ」
黒沢は壁のモニターを指した。
そこには、
一九八一年。
という数字が表示されていた。
「この施設は、お前がアメリカへ渡った一九八一年に着工された」
黒沢は続けた。
「四十五年後の今日、この場所でお前と再会するために作られた――そう記録されている」
健二は言葉を失った。
「そんな馬鹿な」
「私も、そう思っていた」
黒沢は笑った。
「だが、ここでは『馬鹿なこと』ほど、記録として残る」
画面に古い映像が映った。
若い健二。
四十五年前の自分だった。
ニューヨークのバー。
笑っている。
酒を飲んでいる。
そして、何かを口にしていた。
「……何だ、これ」
健二は呟いた。
黒沢が言った。
「お前が忘れていることだ」
第四章 二百円の壁
モニターの隅で、数字が赤く点滅した。
一ドル=一九四円。
水城が息を呑んだ。
「急に動きすぎです」
黒沢は答えた。
「彼らが焦っている」
「二百円を超えたら?」
黒沢は黙った。
「超えたら、何が起こる」
「境界が破れる」
サーバールームの空気が変わった。
「二つの可能性が重なり始める」
「具体的には?」
「街の名前が変わる。存在しなかった人間が現れる。存在していた人間が消える。企業の歴史が変わる。家族の記憶が変わる」
健二の頭に、妙な記憶が蘇った。
何度も見たことがあるはずの街。
なのに、店の名前が違っていた。
ハワイで感じた奇妙な違和感。
知らないはずの場所なのに、懐かしい。
「もう始まっているのか」
黒沢は答えなかった。
その沈黙が答えだった。
突然、警報が鳴った。
エレベーターの表示が動き始める。
B44。
B43。
「来る」
水城が言った。
黒沢はUSBメモリを健二に渡した。
「全部入っている」
取引記録。
関係者名簿。
資金の流れ。
そして、〈境界現象〉に関する記録。
「これを公開しろ」
「公開したら?」
「円は暴落する」
「どれくらい?」
黒沢は健二を見た。
「二百円を超える可能性もある」
健二は息を呑んだ。
「それじゃ、境界が……」
「そうだ」
黒沢は静かに言った。
「真実を公開すれば、混乱する」
「隠せば?」
「奴らの支配が続く」
「どっちを選べというんだ」
黒沢は答えなかった。
ただ、
「四十五年前にも、お前は同じ選択を迫られた」
と言った。
第五章 四十七秒
エレベーターの表示が、
B40。
B39。
と降りてくる。
水城がノートパソコンを開いた。
「送信できます」
健二はUSBを見つめた。
黒沢は言った。
「私はここに残る」
「なぜだ」
「四十五年間、私は逃げ続けた」
黒沢は自分の手を見た。
「仕組みを作った責任も取らず、後継者たちに利用されるのを黙って見ていた」
「黒沢さん」
「最後くらい、逃げたくない」
健二は首を振った。
「俺も残る」
「馬鹿を言うな」
「四十五年前、あんたに教わったんだ」
「何を?」
「相場は数字じゃない。そこに人間がいるってことを」
黒沢は微笑んだ。
その瞬間、
エレベーターの扉が開いた。
黒いスーツの男たちが一斉に飛び出してくる。
水城が送信ボタンを押した。
同時に、世界中へデータが流れ始めた。
金融監督機関。
報道機関。
市場監視システム。
そして、
無数の個人端末。
スマートフォンが鳴り始めた。
男たちの動きが止まった。
もう、遅かった。
四十七秒。
また四十七秒だった。
第六章 一九四円のまま
その日を境に、為替はおかしくなった。
一ドル=一九四円。
上がらない。
下がらない。
まるで巨大な見えない手に固定されたようだった。
国会は紛糾した。
〈運用会〉に関係した政治家、官僚、企業関係者の名前が次々に報じられた。
しかし、逮捕者は少なかった。
「立証が困難」
「事実と異なる」
「個人的な取引だった」
使い古された言葉が並んだ。
そして黒沢誠一は、
消えた。
施設から運び出されたのか。
逃げたのか。
それとも――。
誰にもわからなかった。
水城は言った。
「全部は壊せませんでした」
健二は一九四円の表示を見つめた。
「でも?」
「蛇口は閉じた」
「それだけか」
「それだけです」
水城は少し笑った。
「でも、十分じゃありませんか」
健二は答えなかった。
その数字を見ながら、
ふと、
別の場所から誰かに見られているような気がした。
エピローグ 責任者は、まだいる
半年後。
健二はハワイにいた。
ワイキキの浜辺。
以前より少しだけ観光客が戻っていた。
波の音を聞いていると、スマートフォンが震えた。
水城からだった。
「新しいノイズを見つけました」
添付されたチャートには、見覚えのない波形があった。
「〈運用会〉の残党でしょうか」
続けて、
「それとも、別の誰かでしょうか」
とあった。
健二は海を見た。
四十五年前。
若い自分が、酒に酔って口にした言葉。
「いつか、この国がドルなんぞ気にせず生きていける日が来ますように」
ただの酔い言葉だった。
そう思っていた。
しかし、その言葉が世界のどこかに届いていたとしたら。
健二はスマートフォンを握った。
返信は短かった。
「行こう」
少し考えてから、もう一行加えた。
「今度は、逃げも隠れもさせない」
海の向こうで、
一瞬だけ、
陽光が奇妙に揺らいだ。
その瞬間、スマートフォンに新しい通知が届いた。
差出人――不明。
件名――
「為替評議会へようこそ」
第二楼閣
― 一ドル、百六十円の亡霊 ―
プロローグ ガラガラのハワイ
ワイキキの浜は、驚くほど静かだった。
波の音が、やけにはっきり聞こえる。
かつては日本語の看板が並び、寿司店には行列ができ、着物姿の花嫁が記念写真を撮っていた。
今は、老人が数人いるだけだった。
健二は砂浜に座り、遠くの両替所を見た。
表示板が明滅している。
一ドル=一六三円。
数字が、
一六四円。
一六二円。
一六三円。
と揺れた。
妙だった。
単なる数字のはずなのに、
誰かがこちらを見ている。
そんな感覚があった。
スマートフォンが震えた。
差出人不明。
件名。
「為替評議会へようこそ、佐伯さん」
健二は眉をひそめた。
その言葉を、
四十五年前に一度だけ聞いたことがある。
そして、その言葉を最後に口にした男は、
消えた。
黒沢誠一。
健二は立ち上がった。
第一章 消えた男の招待状
一九八一年。
健二が為替の世界に入った年だった。
当時、一ドルは二百五十円前後。
海外へ行くことは、今よりずっと大きな出来事だった。
上司の黒沢誠一は、いつも言っていた。
「健二。相場というのは、誰かが動かしているんじゃない」
若い健二が振り向く。
「じゃあ、誰が?」
黒沢は笑った。
「誰かが動かしていることにされているだけだ」
それから四十五年。
黒沢は消えた。
ところが今、
健二のスマートフォンには、黒沢しか知らない文章が届いている。
――新橋の、あの喫茶店を覚えているか。
――壁の時計は、今も十二時四十五分で止まっている。
健二は帰国した。
第二章 地下の評議会
新橋の喫茶店は、まだ存在していた。
店内は昔のままだった。
古いテーブル。
古い時計。
そして、
十二時四十五分で止まった時計。
店員に聞くと、
「昔から動かないんですよ」
と言われた。
奥へ進む。
そこには、見覚えのない扉があった。
扉の向こうにはエレベーター。
地下へ降りる。
表示は地下のはずなのに、数字だけが不気味に増えていく。
B1。
B2。
B3。
そして、
B45。
扉が開いた。
そこには、円形の広間があった。
壁一面に数字が浮かんでいる。
三六〇。
二五〇。
一六〇。
一〇〇。
七五。
そして、
ゼロ。
中央には七人の人間が座っていた。
その一人が立ち上がった。
フードを外す。
健二は息を呑んだ。
「……黒沢?」
そこにいたのは、
四十五年前とほとんど変わらない黒沢だった。
健二は思わず一歩後ずさった。
第一楼閣で会った黒沢は、車椅子に座った老人だった。
目の前の男は違う。
年齢を重ねているはずなのに、あまりにも若かった。
黒沢は微笑んだ。
「驚いたか、健二」
「……あんたは誰だ」
黒沢は答えなかった。
ただ、
「私は、お前が知っている黒沢とは少し違う」
と言った。
第三章 選ばれなかった日本
「歳を取らないのか」
健二の問いに、黒沢は答えなかった。
代わりに壁へ手を伸ばした。
数字が一つ、光る。
三六〇。
「一九四九年」
黒沢が言った。
「この国には、一ドル=三六〇円という一本の杭が打ち込まれた」
「固定相場だろ」
「表向きはな」
黒沢は微笑んだ。
「だが、本当の役割は別だった」
壁が開く。
その向こうに、
別の東京が映った。
高層ビル。
知らない鉄道路線。
違う企業名。
そして、
日本人の顔。
しかし、健二は知っている。
誰一人として知らない。
「ここは?」
「選ばれなかった日本だ」
別の映像。
一ドル=七十五円。
さらに別の映像。
一ドル=三百六十円。
さらに、
一ドル=四十二円。
「歴史は一本じゃない」
黒沢が言った。
「この世界では、我々が生きてきた歴史だけが残った。しかし、選ばれなかった歴史も消えたわけじゃない」
「じゃあ、どこにある」
「隣にある」
健二は息を呑んだ。
「そして為替は、その世界との圧力差を測る」
「だから円が動く?」
「そうだ」
黒沢は一六〇という数字を指した。
「この数字は、単なる為替レートではない」
「何なんだ」
「世界と世界の境界にかかる圧力だ」
健二は言葉を失った。
第四章 百六十円の亡霊
「今の一六〇円は、こちら側だけの数字じゃない」
黒沢は言った。
「あちら側の日本が、こちらへ押している数字だ」
「強い円の日本?」
「そうだ」
そのとき、健二の頭に記憶が走った。
ハワイ。
妙に空いていた街。
知らない店。
見覚えのあるはずのホテル。
そして、
自分が何度も感じた既視感。
「まさか……」
黒沢が頷いた。
「お前はすでに、境界を何度か越えている」
「いつ?」
「気づいていないだけだ」
壁に映像が浮かぶ。
四十五年前のニューヨーク。
若い健二。
酒に酔い、
笑いながら言っている。
「いつか、この国がドルなんぞ気にせず生きていける日が来ますように」
健二は目を閉じた。
「……あれか」
「あの言葉が境界に触れた」
「馬鹿な」
「人間の願いは、時に歴史より強い」
黒沢は言った。
「お前は、選ばれなかった日本に願いを届けてしまった」
第五章 選択
七人の評議員が立ち上がった。
黒沢が中央の鍵を示した。
「選択肢は二つだ」
一つ。
凍結。
一ドル=百円前後に固定する。
市場を制御し、
境界を閉じる。
ただし、
変化も止まる。
もう一つ。
解放。
境界を開く。
為替を完全に市場へ委ねる。
混乱する。
円高になるかもしれない。
円安になるかもしれない。
日本そのものが変わるかもしれない。
「どちらかを選べ」
黒沢が言った。
健二は数字を見つめた。
三六〇。
二五〇。
一六〇。
一〇〇。
数字の一つ一つに、
人間の暮らしがある。
給料。
家賃。
食料。
旅行。
借金。
夢。
そして、
人生。
健二は鍵に手を伸ばした。
しかし、
回さなかった。
「……おかしい」
黒沢が見る。
「何が?」
「二択しかないことが、おかしい」
健二は鍵を握った。
「俺たちは、いつも誰かに二択を用意されてきた」
黒沢の表情が変わった。
健二は言った。
「円高か、円安か」
「成長か、停滞か」
「市場か、政府か」
「安定か、自由か」
そして、
「そのどちらかを選ばなきゃならないと思わされてきた」
健二は鍵を回した。
第六章 観測をやめる
光が広間を満たした。
数字が消える。
三六〇も。
二五〇も。
一六〇も。
一〇〇も。
すべて消えた。
「何をした?」
黒沢が問う。
健二は答えた。
「観測をやめた」
「……何?」
「誰も、この国の数字を決めない」
「それでは市場が混乱する」
「するだろうな」
「国が壊れるぞ」
「壊れるかもしれない」
健二は笑った。
「でも、誰かが正解を決めてくれる国よりはいい」
黒沢はしばらく黙っていた。
やがて、
「そうか」
と呟いた。
「それがお前の答えか」
「違う」
「何?」
「答えを出さないことを選んだ」
その瞬間、
評議会の七人が消えた。
部屋が消える。
壁が消える。
世界が消える。
健二が目を開けると、
そこは新橋の喫茶店だった。
壁の時計は、
十二時四十五分。
しかし、
秒針だけが、
カチッ。
と動いた。
エピローグ 誰のせいでもなく
その後、
円相場がどうなったのか。
健二は多くを語らない。
一ドル=一六〇円を超えた日もあった。
一四〇円台になった日もあった。
一〇〇円台になったこともある。
ニュースは毎日、
原因を探した。
政治。
金利。
戦争。
景気。
投資家心理。
アルゴリズム。
専門家たちは、それぞれの答えを語った。
しかし、
誰も本当の答えを知らなかった。
ハワイには、
少しずつ観光客が戻ってきた。
理由はわからない。
黒沢誠一の消息も、
わからない。
ただ、
健二のもとには年に一度、
差出人不明の葉書が届いた。
そこにはいつも、
同じ一行だけが書かれている。
「責任者は、もういない」
健二はその葉書を、
同じ抽斗にしまった。
その奥には、
四十五年前にニューヨークで買った、
色あせた一ドル紙幣が一枚。
健二はそれを取り出した。
紙幣を眺めながら、
小さく笑った。
一ドル。
ただの紙だ。
しかし人間は、
そこに価値を与え、
国境を作り、
人生を賭け、
時には戦争までした。
窓の外で、
朝の街が動き始めていた。
健二はコーヒーを飲んだ。
もう、
為替の数字を恐れることはなかった。
数字は、
未来を決めるものではない。
そこに生きる人間が、
後から意味を与えるものなのだ。
健二は一ドル紙幣を抽斗に戻した。
そして、
鍵をかけた。
了
あとがき
長年、世の中の動きや数字の揺らぎを見つめていると、時折、
「この数字は一体誰が、何のために動かしているのだろう」
という不思議な感覚にとらわれることがあります。
為替というものは、世界中の人々の欲望や安心、恐怖が交錯する、極めて現実的な指標です。
しかし同時に、実体のない「信用」というものによって成り立っている点では、どこかフィクションに似た性質も持っています。
一ドルが百円なのか、百六十円なのか、二百円なのか。
数字が変われば、私たちの生活は変わります。
けれど、その数字そのものに「人生の意味」まで決める力があるのでしょうか。
『為替の楼閣』では、元ディーラーである佐伯健二という一人の男を通して、人間が作ってきた社会の仕組みと、歴史の選択について考えてみました。
第一楼閣では、現実の金融市場に潜む欲望と利権を描きました。
第二楼閣では、その現実そのものを一度疑い、「もし別の歴史が存在していたら」というところまで物語を広げました。
けれど、二つの物語を通して描きたかったことは、実は一つです。
それは、
「誰かにあらかじめ用意された正解に頼らず、自分自身で未来に向き合うこと」
です。
人生には、ときどき二つの道しかないように見えることがあります。
進むか、戻るか。
続けるか、やめるか。
勝つか、負けるか。
しかし、本当にそうなのでしょうか。
もしかすると、三つ目の道を探すこと。
あるいは、
「今は答えを出さない」
と決めることも、一つの選択なのかもしれません。
年齢を重ね、ふと立ち止まったときに見える風景があります。
若い頃には気にも留めなかった言葉。
忘れたと思っていた願い。
あの日の小さな選択。
それらが長い年月を経て、思いもよらない形で自分の前に戻ってくることがあります。
佐伯健二の物語も、そんな一つの人生の余韻から生まれました。
もし本を閉じたあと、
スマートフォンに表示された為替の数字を見て、
ほんの少しだけ、
「この数字の向こうには、何があるのだろう」
と思っていただけたなら、とても嬉しく思います。

