夢在庫、稀少につき

―― I was made for loving you ――



【まえがき】

若い頃に思い描いていた未来と、いま自分が立っている場所。

その二つの間に横たわる距離に、ふと眩暈を覚えることがあります。

私たちは歳を重ねるなかで、いくつもの「夢」や「憧れ」を手放してきました。

なりたかった職業。

行きたかった場所。

一緒にいたかった人。

あの頃は確かに本気だったのに、いつの間にか「若かったから」と片づけてしまったもの。

では、そうして手放した夢たちは、一体どこへ消えていくのでしょうか。

単なる記憶の塵として風化してしまうのか。

それとも、どこか遠い場所で、私たちが思い残した熱を、ひっそりと保ち続けているのか。

もしも――

叶わなかった夢が、どこかに「在庫」として保管されていたら。

そして、ある日突然、

「保管期限が切れましたので、処分します」

などという通知が届いたら。

本作は、そんな小さな妄想から始まりました。

人生の折り返し地点を過ぎた大人たちが、かつての自分に優しく別れを告げる。

そして、空いた場所に、まだ名前のついていない新しい何かを置いていく。

夢を手放すことは、敗北ではないのかもしれません。

むしろ、手放したからこそ、次の夢が入ってくる余地が生まれるのかもしれない。

ラジオから流れる古い洋楽のように。

少し可笑しくて、少し切なくて、最後にはほんの少し温かい。

そんな物語として、楽しんでいただければ幸いです。




第一章 通知書は火曜日に届く

田中裕太、三十八歳。

生命保険会社の契約管理部で、毎日せっせと「解約リスク顧客リスト」を作っている。

数字を見て、数字を入力し、数字を並べる。

若い頃には、まさか自分の人生が、こんなにも無機質な数字だらけになるとは思っていなかった。

中学から高校にかけて、裕太は右投げの野球少年だった。

本気で甲子園を目指し、毎日泥だらけになってボールを投げた。

肩や肘が悲鳴を上げても投げ続けた。

雨の日には、雨が上がるまで校舎の軒下で、じっと空を睨んでいた。

自分がいつかプロ野球選手になることを、疑ったことさえなかった。

高校三年の夏。

右肘の酷使が祟り、甲子園予選の途中でマウンドを降りた。

それが、裕太の野球人生の終わりだった。

十八歳の夏から二十年。

三十八歳になった今、右手に握っているのは硬球ではなく、ただの黒いボールペンである。

そんな裕太のもとに、ある火曜日、一通の茶封筒が届いた。

郵便受けから取り出した瞬間、妙な違和感があった。

普通の封筒より、ずっしりと重い。

差出人の欄には、風変わりな活字で、こう刻まれていた。

銀河未達成夢在庫管理機構 第七支局

「……なんだ、これ」

裕太は封筒をひっくり返した。

消印がない。

いや、よく見ると、封筒の隅で小さな光が明滅している。

どうやら消印らしい。

そして、その横には、

本状は焼却厳禁

と表示されていた。

「宗教の勧誘か、新手の投資詐欺か」

裕太は眉をひそめながら封を切った。

中には、やけに格式ばった書式の通知書が一枚入っていた。

拝啓

貴殿名義にて保管しております未達成夢在庫
「プロ野球選手(右投手・防御率2点台希望)」につきまして、
保管期限を経過したため、下記の通り処分(競売)にかけさせていただく運びとなりました。

保管期限――思春期終了時点+二十年。

つきましては、七十二時間以内に第七支局窓口までご来局のうえ、
引き取り・破棄・買い戻しのいずれかをお選びください。

ご来局なき場合、自動的に競売へ回されますことをご了承ください。

銀河未達成夢在庫管理機構
窓口担当 ピトー・パナリス
(人間換算・見た目年齢いろいろ)

裕太は、しばらく通知書を眺めていた。

「……なんなんだよ、これ」

子供の頃の夢。

プロ野球選手。

そんなものは、とっくに捨てたと思っていた。

いや。

正確には、捨てたつもりになっていただけなのかもしれない。

三十八歳にもなって、まだそんなものを「保管」されていたと言われても困る。

裕太は通知書を丸めてゴミ箱に入れようとした。

だが、寸前で手が止まった。

もし本当に、あの頃の自分がどこかに残っているのだとしたら。

それを何も知らない宇宙の誰かに売り飛ばされるのは――

ほんの少しだけ、嫌だった。

「……行くしかないか」

こういう時、真面目な人間ほど無視できない。

そして裕太は、まだ知らなかった。

その判断が、止まっていた自分の人生を、もう一度動かすことになるとは。



第二章 第七支局は駅ビルの裏にあった

指定された住所は、なんの変哲もない駅ビルの裏手だった。

シャッターには、

テナント募集中

という褪せた貼り紙が一枚。

裕太は通知書の住所と交互に見比べた。

「ここ……だよな」

どう見ても、ただの湿っぽい空き店舗である。

念のため、シャッターを三回叩いた。

コン。

コン。

コン。

「開いてますよ〜」

中から、ひどく気の抜けた声が返ってきた。

裕太は恐る恐るシャッターを少し持ち上げた。

その瞬間、向こう側に広がる光景を見て、言葉を失った。

広い。

広すぎる。

倉庫というより、ひとつの巨大な都市だった。

天井は見えない。

無数のスチール棚が地平線の彼方まで並んでいる。

その一つ一つに小箱がぎっしりと詰め込まれ、棚には多様なラベルが貼られていた。

『プロ野球選手』

『ミュージシャン(ギターボーカル・武道館経験希望)』

『大学教授(専門は未定だが尊敬されたい)』

『宇宙飛行士(火星希望・月は妥協ライン)』

『漫画家(単行本十巻以上希望)』

『パン屋(自分の店・駅から徒歩五分以内)』

『世界一周(できれば仕事を辞めてから)』

裕太は呆然と立ち尽くした。

「ようこそ、田中裕太さま」

カウンターの向こうに、小太りの中年男が立っていた。

緑色のタイツ。

見事な禿頭。

そして背中には、申し訳程度の小さな羽がついている。

「担当のピトー・パナリスです」

男は恭しく頭を下げた。

「ネバーランド出身で、かつては永遠の少年でした」

「……ピーターパン?」

「その末路、とお呼びください」

ピトーは寂しそうに笑った。

「ちなみに、永遠という言葉には、かなり個人差がございます」

「そういうものなんですか」

「そういうものです」

ピトーはカウンターの下から厚いファイルを取り出した。

表紙には、

田中裕太

と印字されている。

その名前を見た瞬間、裕太の胸が小さくざわついた。



第三章 夢は宇宙船の燃料になる

「そもそものお話をしますとね」

ピトーは手袋をした指でファイルをめくった。

「人間が若い頃に本気で見た夢というのは、非常に高濃度の純エネルギーなんです」

「エネルギー?」

「ええ。我々の銀河では、恒星間航行船の推進燃料に使われております」

「夢が、宇宙船のガソリンになるんですか?」

「正確には、叶わなかった夢に残る『未練成分』です」

ピトーは得意げに眼鏡を押し上げた。

「叶った夢というのは、ただの心地よい思い出になります。時間とともに揮発してしまう」

「なるほど」

「しかし、叶わなかった夢には、『もしもあの時』という強烈なエネルギーが残る」

ピトーは少し考え、

「まあ、言ってみれば、宇宙版のハイオクです」

と言った。

裕太は苦笑した。

「ずいぶん嫌なガソリンですね」

「燃費は最高です」

「そうですか」

「特に質が良いのは、本人が諦めたことを忘れたふりをしている夢です」

「……」

「長年寝かせた樽出しの古酒のようなものでしてね。高値で取引されます」

裕太は、自分の名前がついた棚へと案内された。

そこに、一つの小箱が置かれていた。

透明なケース。

その中で、一人の少年が動き続けている。

白いユニフォーム。

右手の硬球。

帽子のつばの下から、真剣な眼差しがこちらを見つめている。

「……俺だ」

少年の裕太は、箱の中で何度も同じ動作を繰り返していた。

セットポジション。

深呼吸。

そして鋭いフォームでの投球。

何度投げても、少年は疲れない。

「この子は、いつまでこうしてるんですか?」

「所有者が決断を下すまでです」

裕太はガラス越しに少年を見つめた。

「……恥ずかしいな」

「何がです?」

「こんなに本気だったんだ、俺」

「本気だったからこそ、こうして熱を保ち続けているのですよ」

ピトーの声が少し低くなった。

「ここに残されているのはみんな、『取りに来ることができなかった人たち』の熱量です」

裕太が倉庫の奥を見渡す。

棚の合間を、無数の影が歩いていた。

制服姿の少女。

ランドセルを背負った少年。

ギターを抱えた若者。

画材を抱えた少女。

誰もが自分の棚を探すように、あてもなく彷徨っている。

「彼らは?」

「夢の残像です」

「ずっと、ここに?」

「所有者が日常に埋もれて忘れても、夢の側は所有者を忘れられませんから」

裕太は背筋が伸びる思いがした。

時間に置き去りにされた情熱たち。

永遠の少年を名乗るピトーが、なぜこんな場所で働いているのか。

その理由が、少しだけ分かった気がした。

裕太は箱の中の少年を見つめた。

「でも……俺はもう、プロ野球選手にはなれませんよ」

「ええ」

ピトーは静かに答えた。

「だから、期限が来たのです」



第四章 競売会場のホシノさん

「引き取るか、買い戻すか、破棄するか」

ピトーが指を三本立てた。

「三択です」

「買い戻しの通貨は?」

「『残り人生の秒数』です」

「秒数?」

「プロ野球選手コースですと、約八千万秒――二年半分といったところですね」

裕太は絶句した。

「高すぎる」

「でしょうね」

「現実的じゃない」

「ええ。ですから、大抵の方は競売へ流されます」

ピトーは何でもないことのように続けた。

「今夜ちょうど開催されますので、見学されてはいかがです?」

案内された会場は、重厚なオペラハウス風の吹き抜けだった。

中央の壇上には、光る蝶ネクタイを締めたオークションロボットが立っている。

右手には、巨大な金色のスプーン。

「なんでスプーンなんです?」

「さあ」

ピトーは肩をすくめた。

「銀河の正式な作法としか」

カーン!

スプーンが鳴った。

競売が始まった。

「ミュージシャン! ギターボーカル、武道館経験希望!」

犬の姿をした異星商人が札を上げる。

「五十万秒!」

「六十万!」

「八十万!」

「落札!」

カーン!

裕太は呆気に取られた。

「……あの夢、誰が使うんです?」

「さあ」

ホシノが隣で笑った。

「宇宙のどこかで、誰かがギターを弾くんじゃない?」

裕太は隣の女性を見た。

黒髪を後ろで一つに結んだ、スーツ姿の女性。

三十代後半ほどだろうか。

胸元には、

ホシノ

とだけ書かれたプレートがある。

「あなたも、見送りに?」

小声で声をかけられた。

「ええ。子供の頃の野球の夢です」

「あなたは?」

「私?」

ホシノは舞台を見たまま答えた。

「宇宙飛行士」

「宇宙飛行士?」

「火星希望。月は妥協ライン」

裕太は思わず吹き出した。

「棚のラベルと同じだ」

「笑っちゃうでしょ」

ホシノは苦笑した。

「高校生くらいまで本気で目指して、それからはすっかり現実的な大人になりました」

「僕もまったく同じです」

「今日は買い戻さないんですか?」

裕太が聞くと、ホシノは首を振った。

「まさか」

「どうして?」

「二年半分の人生を差し出す勇気なんてないわ」

彼女は少し間を置いた。

「ただ……」

「ただ?」

「ちゃんと、お別れを言いたくて来たの」

その横顔を見て、裕太は何も言えなかった。

不思議だった。

初対面なのに、その言葉だけは自分にも分かる気がした。



第五章 スプーンの音と、値がつかない夢

「大学教授! 専門未定、ただし尊敬されたい!」

競り人ロボットが叫んだ。

会場は沈黙した。

「三十万秒!」

誰も動かない。

「二十万!」

まだ動かない。

「十万!」

沈黙。

ピトーが小声でつぶやいた。

「……またウチの在庫か」

裕太は吹き出した。

「夢にも人気不人気があるんですね」

「厳しい世界です」

やがて、裕太の番が来た。

「出品番号四〇九二!」

ロボットが声を張り上げる。

「プロ野球選手! 右投手! 防御率二点台希望! 未練濃度、きわめて良好!」

会場がざわめく。

裕太の心臓が激しく脈打った。

「さあ、おいくらから――」

「待ってください!」

裕太は思わず立ち上がっていた。

会場の視線が一斉に注がれる。

ホシノも驚いたように見上げている。

「その夢……」

裕太は舞台上の箱を見た。

十八歳の自分がいる。

右手にボールを握っている。

「あの……買い戻すことはできません」

会場が静まり返った。

「でも、せめて」

裕太は言葉を探した。

「すぐ近くで、見送らせてもらえませんか」

競売ロボットが停止した。

数十秒の処理音が響く。

「規定外申請を受理します」

箱が裕太の前へ運ばれてきた。

裕太はしゃがみ込んだ。

ガラスの向こうで、少年がこちらを見ている。

「なあ」

少年は答えない。

「俺たち、頑張ったよな」

沈黙。

「甲子園には行けなかった」

裕太は笑った。

「プロにもなれなかった」

少年は何も言わない。

「……でも、めちゃくちゃ楽しかったよな」

その瞬間だった。

箱の中の少年が、ふっと柔らかく微笑んだ。

そして右手を掲げ、小さく敬礼した。

裕太も、照れくさそうに敬礼を返した。

「じゃあな」

箱が再び壇上へ戻される。

「五百万秒!」

犬の商人が札を上げた。

「落札!」

カーン!

箱が運ばれていく。

裕太は最後まで見届けた。

涙は出なかった。

むしろ、胸の奥につかえていた重い塊が、すうっと温かい空気に変わっていくようだった。

隣にホシノが立った。

「……いい顔で、お別れできたわね」

「そうですか?」

「ええ」

彼女は小さく笑った。

「私も、ちゃんと見送れそう」



第六章 新しい夢は在庫にならない

「見事なお見送りでした」

競売が終わった後、ピトーが感心したように頷いた。

「見送ったことで、あなたの心の中に一つ、『空き棚』ができました」

「空き棚?」

「ええ」

ピトーは裕太の胸を指した。

「そこにはまた、新しいものを置くことができます」

「新しい夢?」

「そうです」

ピトーは少し胸を張った。

「ここにある未達成の夢は、過去の遺物です」

「はい」

「しかし、“これから始めたいこと”は、絶対に当機構の在庫にはなりません」

「どうしてです?」

「値段のつけようがないからです」

ピトーは誇らしげに言った。

「競売にも出せない。燃料にもならない。機構としては、一番困る厄介物です」

「それは大変ですね」

「ええ」

ピトーは真顔で頷いた。

「ただし――」

「ただし?」

「当人だけが、やたらと幸せになる」

裕太は笑った。

「それなら、大歓迎ですね」

「私もそう思います」

裕太は、ふと振り返った。

ホシノの姿がない。

「……あれ?」

ピトーが出口を指した。

「見送りを終えた人間は、みんな急ぎ足になります」

「なぜ?」

「新しい人生へ帰りたいからでしょう」

裕太は考えるより先に走っていた。

三十八歳の重い体。

すぐに息が切れた。

それでも走った。

こんなふうに夢中で走ったのは、何年ぶりだろう。



第七章 シャッターの外は、いつもの駅前だった

「ホシノさん!」

シャッターの手前で、裕太はようやく追いついた。

ホシノが振り返る。

「裕太さん?」

「僕も……」

息を整えながら言った。

「あなたの『宇宙飛行士』を、見届けさせてもらえませんか」

ホシノは一瞬目を見開いた。

それから、嬉しそうに笑った。

「ええ」

二人は並んで、もう一度会場へ戻った。

ホシノの夢が壇上へ運ばれる。

ラベルには、

宇宙飛行士(火星希望・月は妥協ライン)

と書かれていた。

透明なケースの中には、少女時代のホシノがいた。

宇宙服を着ている。

ヘルメットの中から、真っ直ぐ前を見つめている。

ホシノは少女を見つめた。

「……私、こんな顔してたんだ」

「どんな顔?」

「絶対に火星へ行く人の顔」

裕太は笑った。

「今でも行けるんじゃないですか?」

ホシノは裕太を見る。

「……そういうこと、簡単に言うんですね」

「すみません」

「でも」

ホシノは少女に向かって、小さく手を振った。

「ありがとう」

少女は動かなかった。

けれど、その目が少しだけ柔らかくなったように見えた。

やがて競売が始まった。

「宇宙飛行士! 火星希望!」

札が上がる。

ホシノは最後まで目を逸らさなかった。

「落札!」

カーン!

箱が運ばれていく。

ホシノは静かに手を振った。

裕太も手を振った。

競り人ロボットがスプーンを振り下ろす。

その音が、今度は少しだけ優しく聞こえた。

すべてが終わった。

二人はシャッターの外へ出た。

そこは、いつもの駅前だった。

居酒屋の看板。

コンビニの明かり。

信号待ちの人々。

行き交う自転車。

さっきまで銀河規模の夢の競売を見ていたとは、とても思えない。

ホシノが空を見上げた。

「現実って、びっくりするほど普通ですね」

「そうですね」

裕太も空を見た。

「でも……」

「なに?」

「さっきより少しだけ、明るく見えません?」

ホシノは笑った。

「それは気のせい」

「そうですか」

二人は歩き出した。

駅の改札が見えてきたところで、ホシノが足を止めた。

「ねえ、裕太さん」

「はい」

「あそこの喫茶店」

彼女が駅前の小さな店を指差した。

「お茶でも、どうですか?」

裕太は一瞬だけ驚いた。

それから笑った。

「ぜひ」

二人は並んで歩き始めた。

まだ何も決まっていない。

それでよかった。



終章 値段のつかないもの

それから半年が過ぎた。

裕太は相変わらず、生命保険会社で「解約リスク顧客リスト」を作っている。

仕事の内容は何一つ変わっていない。

相変わらず数字を見て、数字を入力し、数字を並べている。

ただ、一つだけ変わった。

週末になると、ホシノと会うようになった。

喫茶店でコーヒーを飲む。

映画を見る。

どうでもいい話をする。

子供の頃の話もする。

これからの話もする。

そして時々、何も話さずに歩く。

ある夜。

街灯の灯る歩道を二人で歩いていた。

ホシノが、ふと思い出したように言った。

「ねえ」

「なに?」

「もし、あの時――」

「うん」

「人生の秒数を払って、野球選手の夢を買い戻していたら」

「うん」

「どうなってたと思う?」

裕太は夜空を見上げた。

もし買い戻していたら。

二年半の人生を差し出して、少年時代の夢を取り戻していたら。

どんな人生になっていたのだろう。

成功したかもしれない。

失敗したかもしれない。

もう一度、野球に夢中になれたかもしれない。

それは、それで悪くない人生だったのだろう。

「……たぶん」

裕太は言った。

「今こうして、ホシノさんの隣を歩いてなかったと思う」

ホシノは立ち止まった。

そして、少し照れたように笑った。

「そっか」

「うん」

「じゃあ、買い戻さなくてよかったのかもね」

「……そう思います」

二人はまた歩き始めた。

しばらくして、裕太はふと思い出した。

子供の頃、父親の古いラジオから流れていた洋楽。

意味もよく分からないのに、なぜかその一節だけが心に残った。

いつか大人になったら。

誰かを好きになったら。

こんな言葉を、格好よく言える人間になれたら。

そんなことを考えていた。

裕太は少し照れた。

けれど、今度は逃げなかった。

「ホシノさん」

「なに?」

裕太は笑った。

「――I was made for loving you」

ホシノは目を丸くした。

そして次の瞬間、

「なによ、それ!」

思いきり吹き出した。

「いきなり洋楽のサビみたいなキザなこと言わないでよ」

「いや……」

裕太は頭を掻いた。

「昔から、このフレーズが好きで」

「ふうん」

「いつか、笑って言える相手ができたらいいなって思ってたんだ」

ホシノは少し黙った。

それから、裕太の手をそっと握った。

「じゃあ」

彼女は笑った。

「言えてよかったね」

「うん」

二人は、そのまま歩いた。

銀河のどこかの倉庫では、今日も誰かの過去に値札が付けられているのだろう。

叶わなかった夢。

諦めた夢。

忘れたふりをした夢。

それらは、誰かの宇宙船を動かす燃料になる。

けれど。

今、二人の間に生まれている時間には、値札がない。

売れない。

買えない。

競売にもかけられない。

だからこそ――

二人だけのものだった。

裕太は、あの倉庫のことを思い出した。

棚に並んでいた無数の夢。

そこには、かつての自分もいた。

あの少年は、もういない。

けれど、それでいい。

夢を失ったのではない。

一つの夢を、ちゃんと終わらせたのだ。

終わった場所には、空き棚ができる。

そして、その棚には――

まだ名前のついていない未来を置くことができる。

人生は、夢の在庫処分ではない。

夢を手放したあとにこそ、

次の夢を置くための場所が、

ちゃんと残されている。

夜空の星が、一つ瞬いた。

裕太は隣のホシノを見る。

ホシノも、同じ星を見上げていた。

二人分の足音が、静かな夜道に続いていく。

その先に何があるのかは、まだ誰にも分からない。

だから、いい。

値段のついていない未来を、

二人で歩いていけばいい。

――完――


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【あとがき】

本作『夢在庫、稀少につき』は、

「もしも、諦めた夢がどこかで保管されていたら」

という小さな妄想から生まれた物語です。

若い頃の情熱や夢を手放すことは、ときに挫折や敗北のように感じられるかもしれません。

「夢を諦めた」

という言葉には、どこか寂しさがあります。

けれど、歳を重ねて振り返ってみると、夢を叶えられなかったことと、人生が失敗だったことは、必ずしも同じではないのだと思います。

叶わなかった夢にも、ちゃんと役割がある。

あの頃の自分が本気で生きた証として、心のどこかに残っている。

だからこそ、無理に否定する必要もない。

「ありがとう」

と一言告げて、静かに見送ってやればいい。

そうすれば、空いた場所に、新しい何かが入ってくる。

それは大きな夢ではないかもしれません。

新しい仕事かもしれない。

小さな趣味かもしれない。

誰かとの出会いかもしれない。

あるいは、ただ明日の朝を少し楽しみにする気持ちかもしれません。

本作の裕太とホシノが見つけたものも、きっとそんなものなのだと思います。

人生の棚には、古い夢も、新しい夢も並びます。

けれど、棚を全部埋めておく必要はありません。

少しくらい空いていた方が、新しいものを置く余地があります。

もし読者の皆様の心の中にも、まだ一つ、忘れたふりをしている夢があるのなら。

無理に取り戻す必要はありません。

ただ一度だけ、振り返って、

「ありがとう」

と言ってみる。

そして、その隣にできた空き棚を眺めてみる。

そこには、まだ誰にも値段をつけられていない、あなた自身の新しい物語が待っているかもしれません。