片道タイムマシン
―渋谷、あの燃える虫たちへ―
まえがき
技術が進歩するにつれ、私たちの思い出は便利に、そして驚くほど軽くなりました。写真はクラウドへ自動で保存され、悲しい出来事や不快な感情はAIが優しくぼかしてくれる。痛みや理不尽を極力排除した世界は、きっととても快適なはずです。
ですが、もしも「編集されていない生の痛み」こそが、私たちがこの世界に確かに存在したという唯一の証拠だとしたらどうでしょうか。
傷痕を誇る古い世代の男と、効率と快適さの中で育った未来の世代。噛み合わないふたりが時空の歪みの中で出会うのは、かつて熱狂の中に存在した「あの頃の渋谷」です。
今夜は、不器用で、痛くて、けれどどうしようもなく愛おしかった時代へ、少しだけ付き合っていただければ幸いです。
序章 スナックバー「残骸」
渋谷の裏路地、雑居ビルの三階。
「スナックバー残骸(ざんがい)」という、縁起でもない名前の店がある。
マスターの火野一馬(ひの・かずま)、六十八歳。
若い頃の火傷の痕が右腕に、バイクで転げた古傷が左膝に、そして人には見せられない傷がいくつか、体のあちこちに勲章のように残っている。
「痛い思いをした数だけ、酒がうまくなるんだよ」
というのが一馬の口癖だったが、正直なところ、それを聞いて笑ってくれる客は最近めっきり減った。
今どきの若い連中は、痛みの話をすると、ちょっと引く。
リアルに殴られたことも、リアルに火傷したことも、リアルに骨を折ったこともない世代だ。彼らの「やばい体験」は、たいていヘッドセットの中で起きている。
その夜、店に場違いな客が来た。
二十四歳くらいの女。妙に古めかしいレザージャケットを着て、しかし目だけが異様に忙しなく動いている――視界の端に何か情報を表示させている人間の癖だ、と一馬にはすぐわかった。
「火野一馬さんですね。1979年、渋谷生まれ渋谷育ち。当時の交友関係についてお聞きしたいことがあります」
女は名刺を出した。
『株式会社クロノスラボ 主任研究員 黒沢未来(くろさわ・みらい)』
「クロノス……時の神様か。ずいぶん大きく出たもんだ」
一馬はグラスを拭きながら鼻で笑った。
「時間旅行の研究をしています」
「はいはい。それで、うちみたいな寂れたスナックに何の用だ」
「あなたの脳が――目当てなんです」
一馬はグラスを拭く手を止めた。
一章 スカウト
ミライという名の女は、あまり冗談が上手ではないタイプらしく、真顔でとんでもないことを言い続けた。
「うちのラボは三年前、タイムマシンの実用化に成功しました」
「へえ」
「ただし――過去には行けません。未来にしか進めない」
一馬は思わず吹き出した。
「そりゃタイムマシンって言うのか? ただの……気の長いエレベーターじゃねえか」
「業界でも似たようなことを散々言われました。おかげで投資は引き上げられ、社員は私含めて三人まで減りました」
ミライは悔しそうでもなく、淡々と告げた。
「量子論的にはですね、時間軸を逆行させるには、莫大な情報密度を持った"錨(いかり)"が必要なんです。未来へは慣性で誰でも進めるけど、過去へ戻るには、それだけ濃い記憶――情報のかたまりが要る」
「で、俺の頭にそれがあると?」
「はい。今どきの人間は生まれたときから脳にログイン履歴が付いてます。感情も記憶も、常時クラウドに同期されて、圧縮されて、フィルターがかかってる。悲しい思い出も、AIが自動でぼかしてくれる時代です。おかげで人類の"記憶密度"はこの五十年でどんどん薄くなってる」
「つまり?」
「あなたの世代は違う。ネットもスマホもない。全部、自分の体で、リアルタイムで、圧縮なしで経験してる。痛みも、火傷も、なくした友達のことも」
ミライは一馬の右腕の火傷跡をじっと見た。
「あなたの記憶は、化石燃料並みに情報密度が高い。うちの機械を動かすには、うってつけの燃料なんです」
「俺を燃料扱いか」
「悪い話じゃないですよ。成功すれば謝礼も出ますし――何より」
ミライは一瞬、目を伏せた。
「祖父の名前、亮(りょう)っていうんですけど。1979年、渋谷で……」
一馬の手から、拭いていたグラスが滑り落ちた。
二章 ラボ、あるいは記憶の値段
道玄坂の奥、寂れた雑居ビルの地下。看板もない扉の向こうが「クロノスラボ」だった。
出迎えたのは所長の常盤(ときわ)という白髪の老人と、もう一人、寡黙な青年エンジニアの三人だけの、こぢんまりとした研究所だ。中央に鎮座するのは、家庭用給湯器くらいの大きさの、配線だらけの装置。
「これが……タイムマシン?」
「正式名称は『片道時間遷移装置・試作三号機』です。愛称はまだありません」
常盤所長が誇らしげに言う。誰も愛称をつけていない時点で、あまり自信がないことが一馬にもわかった。
「亮さんは、あなたと一緒にいた時に事故で亡くなったと聞いています。1979年、渋谷。詳しい経緯は……記録がほとんど残っていない」
ミライが言った。
「私は祖父の顔すら、白黒写真でしか知りません。でも、あなたの頭の中には、あの日の渋谷が――色付きで、匂い付きで、丸ごと残っている」
一馬は黙って煙草に火をつけた。このラボでは特別に許可されていた。「古い記憶を引き出すには、当時の感覚刺激を再現したほうがいい」という実験的な理屈からだった。ハイテクな装置に囲まれながら昭和の煙を吐き出す己の姿に、一馬はどこか可笑しさを感じていた。
「協力してくれるなら、あなたの記憶をスキャンして、亮さんとの最後の日を再構成できます。それを"錨"にして、機械を逆行モードで起動させる」
「うまくいく保証は?」
常盤所長が首を横に振った。
「正直、ゼロに近いです。理論上、記憶密度が閾値を超えれば逆行の可能性が生まれる、というだけで」
「それでもいいなら」
ミライが一馬をまっすぐ見た。
「あなたの持ってる"あの渋谷"を、貸してください」
一馬は煙を吐いて、しばらく天井を見上げていた。
「――いいだろう。ただし条件がある」
「なんでしょう」
「亮のことは、俺の口から話す。お前らのAIとやらに、勝手に美化させたり、変な日本語にされたりするのはごめんだ」
ミライは初めて、少しだけ笑った。
三章 蘇る渋谷、バグだらけの友人たち
記憶採取用ヘルメットは、想像していたよりずっと安っぽく、水泳帽にセンサーを縫い付けたような代物だった。
「痛くないですからね」
「タイムマシンの会社が、水泳帽で人の脳みそ覗くのか」
「予算の都合です」
一馬が目を閉じると、四十七年前の渋谷が、モニターの中に立ち上がった。
――のだが。
「なんだこりゃ」
モニターに映った1979年の渋谷交差点を、なぜかスマートグラスをかけた若者が歩いている。ハチ公像の足元ではドローンが宅配便を配達している。
「バグです。あなたの記憶データと、AIが持っている一般的な"渋谷"のイメージデータが混線してます」
青年エンジニアが慌ててキーボードを叩く。
さらに問題は、再現された「友人たち」だった。
一馬の親友だったはずの亮が、モニターの中で妙に丁寧なカスタマーサポートのような言葉遣いで喋りだした。
「大変恐縮ですが一馬さん、本日のご予定についてご確認をお願いいたします」
「お前、そんな丁寧な喋り方する奴じゃなかっただろうが!」
一馬が思わずモニターに怒鳴ると、亮(のAI)はにこやかに一礼した。
「申し訳ございません。カスタマー対応パラメータを再学習いたします」
隣にいたはずのもう一人の友人――サーフィンでいつも日焼けしていた哲(てつ)は、現代の若者言葉と丁寧語が不自然に混ざった怪しい言葉遣いになっていた。
「マジっすかマスター。今日の波、エグいんで自分そろそろ失礼してよろしいでしょうか」
「時代考証のデータベースが古すぎるんです、すみません……」
ミライが頭を抱えた。
一馬は思わず吹き出してしまった。
四十七年ぶりに"会えた"友人たちは、揃いも揃って、見事なまでにポンコツだった。
それでも――画面の向こうで下手くそに再現された笑い方の癖の中に、確かに亮の面影があった。
「もういい。俺が直接教える。お前ら、亮の口調をちゃんと覚えとけ」
その日から一馬は、来る日も来る日もラボに通い、AIに「本物の渋谷」を叩き込む作業を始めた。死んだ友人の話し方、笑い方、悪態のつき方を、機械相手に何十回も再現して聞かせる。まるで供養のような、リハビリのような時間だった。
四章 実験、逆流の試み
三ヶ月後。ようやく「錨」となる記憶データの密度が閾値を超えた、と常盤所長が興奮気味に報告した日、実験は決行された。
「いいですか、装置は逆行モードで起動します。目標は1979年、渋谷」
ミライがコンソールに向かって叫ぶ。
「一馬さん、装置の中央に立ってください。ヘルメットは着けたまま」
一馬は妙に落ち着いていた。
――もし本当に戻れるなら、あの日、亮を引き止められるかもしれない。あの雨の夜、俺のバイクを貸さなければ。
装置が重低音を上げて唸り、部屋の照明が激しく明滅した。
「密度、上昇中……錨、安定……逆行シークエンス、起動!」
その瞬間、高圧電流のスパークに驚いたミライが足をもつれさせ、悲鳴をあげながら一馬の腕にしがみついた。衝撃で抜けかける太いケーブル。
「ちょ、危な――」
まばゆい光が二人を包み込んだ。
――そして、果てしない静寂。
五章 片道切符、未来渋谷
気がつくと、一馬とミライは、見知らぬ渋谷の交差点に立っていた。
いや、地形は渋谷だった。ハチ公像もある。スクランブル交差点の輪郭も残っている。
だが、そこを歩く人間が、一人もいなかった。
正確には――「歩いているように見える半透明の光の粒」が、無数に行き交っていた。
「……ここは、いつだ」
一馬が呆然とつぶやくと、ミライが自分の腕のデバイスを操作し、顔を極限まで引きつらせた。
「西暦2189年……過去どころか、210年も未来に来ちゃってます」
「逆行モードじゃなかったのか!?」
「私がケーブルを引っ掛けたせいで極性が反転して……その、思いっきり順方向に加速したみたいです」
「お前が原因かよ!」
一馬が叫んだところに、光の粒の一つがすっと近づいてきて、人型に像を結んだ。
『こんにちは。肉体をお持ちのようですね。大変珍しい』
驚くほど自然な、しかしどこか作り物めいた声だった。
「あんた……幽霊か?」
『いいえ、私たちはこの時代の住人です。人類の九十九パーセントは、二十二世紀初頭に肉体を手放し、恒久接続状態――通称「常在(じょうざい)」に移行しました。事故も病気も痛みもない、完全な仮想生活です』
「じゃあ……この街を歩いてる連中は、みんな……」
『実体はありません。渋谷という場所自体、今ではノスタルジー保存区画として、観光用にレンダリングされているだけです。実際にここに"存在"する人間は、あなた方お二人だけです』
六章 リアルという名の見世物
一馬とミライの噂は、光の粒たちのネットワークの中で瞬く間に広まった。
「本物の、傷のある、肉体を持った人間がいる」
それは未来の住人たちにとって、博物館の絶滅危惧種よりも珍しい存在だった。
一馬の腕の火傷跡を見て、光の粒たちは本気で怯え、驚嘆した。
『痛み……! それは本当に痛いんですか!? 消去も編集もできないんですか!?』
「あたりまえだろ。痛いから覚えてんだよ」
『信じられない……我々の"感情"はすべて快適度七十パーセント以上に自動調整されています。本物の悲しみを味わったことなど――』
一馬は、自分の店で聞いた若い客たちの顔を思い出した。
リアルに殴られたことのない世代。あの延長線に、こんな未来があったのか。
数日後には「本物人間・火野一馬」の見学ツアーまで組まれる騒ぎになった。光の粒たちは彼の周りに集まっては、恐る恐る囁き合う。
『触ってもいいですか』
『いいけど、優しくしろよ。俺はもう若くないんだ』
一馬は面倒くさがりながらも、そのたびに昔話をしてやった。
渋谷が「不便で、当たり前だった」時代の話。携帯電話もネットもなく、それでも誰も困っていなかった話。痛い目に遭った回数だけ、世の中の裏側が見えてくるという話。
ある日、光の粒の一つが、妙に懐かしい仕草で近づいてきた。
『よう、一馬』
その声と肩の揺らし方に、一馬は息を呑んだ。
「亮……なのか」
『この保存区画にはさ、昔の記憶データが残留現象を起こすことがあるらしい。俺もよくわかんねえけど』
亮の光は、あの日と同じ、少し困ったような苦笑いを浮かべた。
「悪かったな、亮。あの日……俺のバイク、お前に貸さなきゃよかった。雨の夜に、無理させて」
一馬が四十数年間、胸の奥に澱のように溜め込んできた言葉。亮(らしき光)は、呆れたように首を振った。
『バーカ。濡れたマンホールで滑ったのは俺の不注意だ。借りた俺の自業自得だろ。お前が気に病むことじゃねえよ』
「でも――」
『それにさ、お前の頭の中に俺がこんなに濃く残ってるおかげで、こうやってまた会えた。十分だろ』
そこにはもう、AIの作った丁寧なバグも、不自然な美化もなかった。
一馬は深く息を吐き出し、笑った。
『一馬、お前の記憶は重すぎるんだよ。未来の連中のペラペラなデータじゃ、時空を押し戻せねえ。でも、お前のそのどでかい記憶と、俺の残留シグナルを合わせれば――お前らを「現在」に押し戻せる』
「戻れるのか?」
『ああ。だが、片道だ。もう過去へ戻って俺を救うことはできないぞ』
「……それでいい。お前と話せた。それだけで十分だ」
終章 それでも、今を生きる
2189年の渋谷のネットワークリソースと、一馬の脳に残されたあまりにも高密度な「1979年の記憶」、そして亮の残留シグナルが共鳴し、反転した時間ベクトルを現在へと強力に押し戻した。
「……奇跡ですよ。一馬さんの記憶があまりにも頑丈で重かったから、未来の極性から弾かれて、ちょうど私たちの『現在』に正確に着地できたんです」
ラボに戻ったミライは、泣き笑いのような顔でそう言った。
「タイムマシンのくせに、結局未来に行って帰ってきただけじゃねえか」
「すみません……でも、祖父に会わせてくれて、ありがとうございました」
――その夜。
一馬は「残骸」のカウンターに、いつものように立っていた。
「未来がどうとか、過去がどうとか、結局俺には関係ない話だったよ」
常連客に、一馬はそう言ってグラスを傾けた。
「痛い思いをしなきゃわからないことが、この世にはあるんだ。それを誰かに消してもらったり、AIに肩代わりしてもらったら、それはもう俺の人生じゃなくなる」
若い客の一人が、グラスを見つめながら恐る恐る尋ねた。
「マスター、その火傷……痛かったんですか」
「痛かったよ。今でも雨の日はうずく」
「消せばいいのに。今の医療ならすぐ消せるでしょ」
「消したら、あいつのことも一緒に消えちまう」
一馬はグラスを丁寧に拭き上げながら、小さく笑った。
タイムマシンがあっても、過去には戻れない。
それでいいのだと、今の一馬は思っている。
戻れないから、こうして語り継ぐしかない。
戻れないから、今日という日を、痛む身体で愛おしく生きるしかない。
渋谷の裏路地、雑居ビルの三階。
「スナックバー残骸」の看板の明かりは、今夜も泥臭く、温かく灯っている。
― 了 ―
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あとがき
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
本作は「技術の進化によって私たちが失っていくかもしれないもの」をテーマに執筆しました。痛みや悲しみを排除し、快適さだけを追求した世界は一見すると理想郷のように思えます。しかし、忘れたくない記憶や絆は、往々にしてそうした「痛み」と表裏一体で結びついているのではないでしょうか。
1979年の熱気溢れる渋谷と、2189年の静寂な未来渋谷。そのふたつを繋いだのは、一風変わったタイムマシンではなく、一人の男が抱え続けた「友情と罪悪感の重み」でした。
便利な世の中だからこそ、自分だけの「傷」や「消せない思い出」を愛おしく思っていただけるような、そんな余韻が少しでも残れば幸いです。

