忘れ潮
わすれしお


まえがき

人生には、どうしても手放さざるを得なかったものや、記憶の底に置き忘れてきた風景があります。
あの日、谷底の川の流れに呑み込まれていった幼い頃の帽子。かつて夢中になって鳴らしたギターの拙いコード。そして、いつの間にか疎遠になり、二度と会えなくなってしまった懐かしい人々。
けれど、歳月を重ねるにつれて思うのです。それらは本当に「消えてしまった」のだろうかと。
この物語は、時の流れに取り残されたひとつの街と、そこに生きた人々、そして記憶の寄せる波を描いた小さな小説です。忙しない日常のほんのひととき、足を止めて、ご自身の「あの日」に思いを馳せるきっかけとなれば幸いです。




序章 麦わらの行方

母がまだ元気で、僕がまだ何も失っていなかった頃の話をする。
夏の終わりに、家族で山へ行った。雨籠峠から霧筋川へ下る道は、地図で見るよりずっと細く、ずっと心もとなかった。川沿いの道は霧に巻かれていて、母は僕の手をしっかりと握っていた。
そのときだ。風が強く吹いて、僕がかぶっていた麦わら帽子が持ち上がり、くるりと宙を舞って、谷底の川へ落ちていった。
「あ」
と声を上げただけで、僕にはどうすることもできなかった。帽子は白い腹を見せて水面に浮かび、あっという間に流れに乗って、霧の向こうへ消えていった。
母は少しの間、黙って谷底を見下ろしていた。それから僕の頭を軽く撫でて、「いいのよ、また買えばいい」と笑った。けれど、その声には、笑い方とは少し違う何かが混じっていたのを、子供の僕でも感じ取っていた。
あの帽子のことを、母は時々思い出したように口にした。「あの帽子、好きだったのにねえ」と。
不思議なもので、あの日交わした言葉の大半は、もうほとんど覚えていない。夏休みの計画も、車内で歌った歌も、宿で食べた夕飯の味も、記憶の底に沈んで、輪郭さえおぼろげだ。
なのに、谷底へ吸い込まれていく麦わら帽子の白い裏地と、母の少しだけ湿った声だけは、今でも鮮明に残っている。
なぜ、これだけを覚えているのだろう。
長い時間をかけて、僕はその答えらしきものに、ひとつだけ行き当たることになる。それは、この話の一番最後に、ようやく書けることだ。
今はまだ、谷底へ落ちていく帽子と、それを見送る子供の僕の姿だけを、ここに置いておく。
すべては、そこから始まった。



第一章 谷戸町、あの夏

谷戸町という土地の名は、地図の上ではただの繁華街の一角に過ぎない。けれど、そこで育った者にとっては、もっと違う意味を持っていた。
谷戸(やと)というのは、本来、丘と丘のあいだに刻まれた小さな谷のことを指す言葉だ。谷戸町も、かつては本当にそういう地形をしていたのだと、誰かから聞いたことがある。今ではビルとビルの隙間になった坂道や、地下へ降りていく階段のあちこちに、その谷の記憶が、まだうっすらと残っているように思えた。
僕らはその谷底で、ぷらぷらしていた。
十代の終わりから二十代の初めにかけて、目的もなく、それでいて妙に真剣に、毎晩のように谷戸町の路地を歩き回っていた。仲間は五、六人。誰かのバイト先のスタジオに入り浸ってはギターを鳴らし、朝まで開いている店でくだらない話をして、始発が動く時間になるとそれぞれの家へ散っていく。そんな毎日だった。
将来のことなど、真面目に考えたことはなかった。いや、考えないようにしていた、というほうが近いかもしれない。谷底にいる間は、坂の上の世界のことを見なくて済んだ。谷戸町は、そういう意味で、ちょうどいい避難所だった。
その夏、仲間のひとりが「モンスーンでライブをやることになった」と言い出した。
モンスーンというのは、谷戸町の外れにある小さなライブハウスの名前だ。入り口は、一見しただけでは店だとわからないほど目立たない。錆びついた鉄の扉の脇に、蒸気を思わせる渦巻き模様のネオン管が、消えかけの息のようにぼんやりと灯っているだけだった。
「行ってみようぜ」
誰かがそう言い、僕らはその夜、連れ立ってモンスーンへ向かった。
地下へ続く階段を降りていくと、音が身体に響いてくる。煙草の煙と、安いアルコールの匂いと、若い連中の熱気が入り混じった空気を吸い込みながら、僕らは一番奥の壁際に陣取った。
その夜、何が起こるかなど、僕はまだ何も知らなかった。
谷戸町には、僕らのような若者が、他にも大勢いた。
昼間は適当なアルバイトでしのぎ、夜になると申し合わせたように、あの錆びた鉄の扉の周りに集まってくる。ミュージシャンを名乗る者、絵を描いている者、何をしているのかよくわからない者。肩書きなど、誰も気にしていなかった。
僕のバンド仲間は五人だった。ドラムの克(かつ)、ベースの淳(じゅん)、ボーカルの光一(こういち)、キーボードの美咲(みさき)、そして僕がギターを担当していた。名前ばかりのバンドで、まだライブすらまともにやったことがなかった。
練習といっても、大したことはしていなかった。誰かの家の防音のあやしい一室に押し込まれ、既存のバンドの曲を、耳コピでなぞるだけの日々だった。それでも、その時間だけは、他の何にも代えがたく思えた。
モンスーンには、店主の他に、いつも同じ顔ぶれの常連がいた。カウンターの隅で静かに酒を飲む初老の男、いつも一番前で頷きながら演奏を聴いている女性、そして、誰よりも異彩を放っていたのが、九十九さんだった。
初めてモンスーンに足を踏み入れたとき、実のところ僕は、九十九さんの存在に気づいてすらいなかった。ステージ脇の暗がりに、いつからそこにいたのか、誰も気にとめていないようだった。
後から思えば、それこそが、九十九さんらしさだったのかもしれない。いるのが当たり前すぎて、誰もその存在の輪郭を、はっきりと捉えられていなかった。
その夜、僕らはただの観客として、モンスーンの熱気に酔いしれるつもりだった。まさか自分がステージに立たされることになるとは、夢にも思っていなかった。



第二章 モンスーンの夜

「悪いんだけど、お前、確かエレキ弾けたよな」
肩を叩かれて振り向くと、そこにいたのは、その日の主催者らしい、見覚えのある顔だった。ステージ袖から出てきたばかりで、まだ息が上がっている。
「少しは、まあ」
適当に返した僕の言葉に、相手はほっとしたような、それでいて申し訳なさそうな顔をした。
「実は、サイドギターの奴が急に来れなくなってさ。悪いんだけど、少しだけ、コードだけでいいから弾いてくれないか」
「えっ、今から?」
「今からしかない」
「無理だって、そんな」
「頼む。マジで頼む。下手でもいいから。間違えても、誰も怒らないから」
そう畳みかけられて、断りきれる気の弱さを、僕は持っていなかった。気づけば、渡された簡単な譜面を小脇に抱えて、ステージの端に立たされていた。
二曲、いや三曲だったか。飛び入りで演奏することになった曲のうち一曲に、面倒なコードが混じっていた。ちゃんと押さえようとすると、指が四本とも忙しく動く、あの厄介な形のコードだ。
――どうせ、そこまで聴いてる奴なんていないだろう。
軽い気持ちで、僕はそのコードを、もっと押さえやすい簡単な形に崩して弾いた。誰にもばれないだろうと、高を括っていた。
演奏を終えて、ほっとした気持ちで裏に引っ込もうとしたとき、
「おい、そこの兄ちゃん」
低く、けれどよく通る声に呼び止められた。振り返ると、ステージ脇の暗がりに、ひとりの男が立っていた。
歳の頃は、四十を過ぎているのか、それとももっと上なのか、はっきりしない。使い込まれたギターケースを肩に提げ、煙草を一本、火もつけずに指に挟んでいる。目つきは鋭いのに、口元には笑いが浮かんでいた。
「さっきのあのコード。ちゃんと押さえなきゃ、駄目じゃないか」
図星をさされて、僕は言葉に詰まった。
「え、バレてたんですか」
「バレるも何も、聴きゃわかるよ」
そう言って、男は喉の奥で笑った。それが、九十九さんとの最初のやりとりだった。
ステージの上から見る景色は、客席から見るのとはまるで違っていた。
照明が眩しく、客の顔はほとんど見えない。ただ、熱気だけが、波のように押し寄せてくる。手渡された譜面には、走り書きのコード進行が並んでいるだけで、リハーサルらしいリハーサルもないまま、いきなり本番が始まった。
一曲目は、なんとかごまかしながら弾き切った。指が思うように動かず、何度か音を外したが、爆音にかき消されて、誰も気づいていないようだった。
二曲目に入ったところで、あの厄介なコードが出てきた。押さえるのに指が四本とも忙しく動く、いわゆるフォームの難しいコードだ。
一瞬、頭が真っ白になりかけたが、とっさに、もっと簡単な形に崩して弾いた。誰にも聴かれていないだろう、という甘い計算があった。
演奏を終えたときには、全身汗だくだった。それでも、ステージから降りると、仲間たちが「よくやった」というように、肩を叩いてくれた。その瞬間だけは、素直に嬉しかった。
自分の適当な演奏が、暗がりの奥から、ひとりの男にしっかりと聴かれていたことなど、そのときの僕は、まだ知る由もなかった。



第三章 コードひとつ

それから、九十九さんは、僕らのことを時折気にかけてくれるようになった。
モンスーンの前でたむろしていると、「おう」と片手を上げて通りかかり、そのまま近くの定食屋に連れていかれて、飯を奢られたことも一度や二度ではなかった。
「お前らみたいなのが、一番めんどくさいんだよな」
丼をつつきながら、九十九さんはそんなことを言った。
「なんでですか」
「斜に構えてるくせに、目だけは本気なんだもの。本気で音楽やる気があるのかないのか、自分でもわかってないだろう」
図星だった。僕らは誰も、そのことに正面から答えられなかった。九十九さんは、それ以上追及することもなく、黙って肉を口に運んだ。
九十九さんの弾くギターは、うまいとかへただとか、そういう物差しでは測れないところがあった。速く弾こうと思えばいくらでも速く弾けるはずなのに、あえてそうしない。音と音のあいだに、妙に長い間を置く。その間が、聴いている側の胸のどこかを、じわりと締めつけてくるのだ。
「なんであんな弾き方するんですか」
一度、思い切って尋ねたことがある。九十九さんは、少し考えるような顔をして、それから言った。
「音を出す前に、もう聴こえてるんだよ。次に鳴る音が」
「はあ」
「だから、待ってやらなきゃいけない。自分の指が、追いつくまで」
意味がわかるようで、わからない答えだった。けれど、その言葉の響きだけは、なぜか記憶にこびりついて離れなかった。
後になって思えば、あれは九十九さんという人を理解するための、最初の、そして最後まで解けなかった手がかりだったのかもしれない。
その頃の僕には、そんなことを深く考える余裕はなかった。ただ、谷戸町の片隅で、少し怖くて、少し優しい大人に構ってもらえることが、単純に嬉しかっただけだ。
九十九さんは、僕らのバンド練習にも、気まぐれに顔を出すようになった。狭いスタジオの隅に座り、何も言わずに煙草をふかしながら、僕らの下手な演奏を最後まで聴いている。演奏が終わると、たいてい一言だけ、感想らしきものを口にした。
「淳、お前、走りすぎ」
「克、そこもうちょい溜めろ」
「美咲、それでいい。変えるな」
短く、けれど的確な言葉だった。誰も反論できなかった。実際、その一言を意識して弾き直すと、驚くほど音がまとまることが多かったからだ。
「九十九さんって、昔バンドやってたんですか」
ボーカルの光一が、あるとき尋ねたことがある。九十九さんは、少し遠い目をして、「まあな」とだけ答えた。それ以上、詳しいことは何も語らなかった。
「有名だったりします?」
「さあな。有名っていうのが、何を指すのかにもよるだろ」
はぐらかされているのはわかっていたが、それ以上踏み込む勇気は、誰にもなかった。九十九さんの周りには、いつも、それ以上は近づいてはいけないような、薄い膜のようなものが張られている気がした。
それでも、九十九さんが練習に顔を出してくれる日は、僕らにとって、ちょっとした特別な日だった。上手くなりたい、認められたい――そんな単純な気持ちを、九十九さんは、確かに引き出してくれていたのだと思う。



第四章 九十九さんという人

九十九さんについて、僕らが知っていることは、驚くほど少なかった。
苗字は九十九。下の名前は一(はじめ)。西灘の出身らしい、ということ。若い頃からギター一本で各地を渡り歩き、モンスーンには、店ができたときからずっと出入りしているらしい、ということ。それくらいだった。
歳を尋ねても、はぐらかされた。
「さあな。忘れた」
「そんなわけないでしょう」
「本当に忘れたんだよ。歳を数えるのをやめると、案外どうにでもなる」
冗談だと思って、皆で笑った。だが、今にして思うと、あの言い方には、冗談では片付けられない何かが混じっていたような気もする。
不思議なことは、他にもあった。
ある晩、九十九さんが、まだ結成もしていない僕らのバンドの音を、まるで聴いたことがあるかのように評したことがあった。
「お前ら、そのうちベースの奴と喧嘩して、一回バンド解散するだろ」
半年後、本当にそうなった。ベースの担当だった友人と、些細なことから仲違いし、僕らのバンドはあっけなく空中分解した。あのとき九十九さんに言われたことを思い出して、背筋が冷えたのを覚えている。
「なんで、わかったんですか」
後日、そう尋ねると、九十九さんは肩をすくめた。
「わかったっていうか、思い出しただけだよ」
「思い出す? まだ起きてないことをですか」
「時々、順番がわからなくなるんだよ、俺は」
その言い方が、あまりに軽く、あまりに当たり前のことのように口にされたので、僕はそれ以上、追及する気になれなかった。冗談めかした変わり者の口癖として、聞き流してしまった。
今ならわかる。あれは冗談などではなかったのだと。
九十九さんは、僕らとは違う速さで――あるいは、違う向きで――時間というものを生きていたのかもしれない。少なくとも、まっすぐ前だけを向いて流れていく僕らの時間の感覚とは、どこか噛み合わないところのある人だった。
けれど、その頃の僕らにとって、九十九さんはただ、少し変わった、頼りになる兄貴分でしかなかった。
モンスーンの店主は、時折、店の歴史を語りたがる人だった。
ある晩、酔った勢いで、店の奥から古びたアルバムを引っ張り出してきたことがあった。開店当初の写真だという。色褪せた紙焼きの写真には、今よりずっと若い店主と、当時の常連たちが、楽しそうに肩を組んで写っていた。
その中の一枚に、僕は目を留めた。
隅のほうに、ギターケースを提げた男が写っている。顔立ちも、着ているものの雰囲気も、九十九さんによく似ていた。
「これ、九十九さんですか」
そう尋ねると、店主は少し驚いた顔をして、写真をのぞき込んだ。
「ああ、そういえば似てるな。でもこれ、俺がこの店を始めた頃の写真だぞ。もう二十年以上前だ」
「じゃあ、九十九さんのお父さんとか、そういう……」
「さあな。俺も詳しくは知らねえよ。九十九さん自身に聞いたことがあるけど、はぐらかされるだけだったし」
写真の中の男と、目の前で酒を飲んでいる九十九さんとを、僕は何度も見比べた。二十年以上の隔たりがあるはずなのに、老けた様子はまるで感じられない。もちろん、他人の空似という可能性のほうが、よほど筋が通っている。
けれど、あの日感じた小さな違和感は、ずっと僕の記憶の隅に、消えずに残り続けることになった。
九十九さんに直接尋ねる勇気は、結局、出せなかった。もし本当のことを教えてもらえたとしても、僕にその答えを受け止められる自信がなかったからだ。
今にして思えば、あれもまた、九十九さんという人が、僕らの知っている「時間の流れ」とは、どこか違う場所に立っていたことを示す、小さな痕跡だったのかもしれない。
もうひとつ、忘れられない出来事がある。
まだ僕に恋人らしい恋人もいなかった頃、九十九さんが、唐突にこんなことを言ったことがあった。
「お前、そのうち、髪の長い、よく笑う子と一緒になるぞ」
「はあ? 何ですかそれ」
「知らん。ただ、そんな気がするだけだ」
その場にいた皆で、それを冷やかしのネタにして、しばらく笑い合った。九十九さんも、いつものように、はぐらかすような笑みを浮かべているだけだった。
それから数年後、今の妻と出会った。
初めて紹介されたとき、髪が長く、よく笑う人だった。挨拶を交わしながら、僕はふと、あの夜の九十九さんの言葉を思い出し、背筋がぞくりとするのを感じた。
偶然だと言われれば、それまでのことだ。世の中には、髪の長い、よく笑う女性など、いくらでもいる。そう自分に言い聞かせて、その記憶には、あえて深く触れないようにしてきた。
けれど、九十九さんが口にした「予感めいた一言」は、それだけではなかった。バンドの解散のこと、僕が音楽から離れていくだろうということ、そしてこの、妻とのことも――どれも、後から振り返れば、驚くほど正確に、僕の歩む道筋をなぞっていた。
まるで、僕がこれから歩む道のりを、九十九さんはすでにどこかで見てきたことがあるかのようだった。
「時々、順番がわからなくなるんだよ、俺は」
あの言葉が、今になって、また違う重みを持って、胸の奥に響いてくる。
九十九さんにとって、時間というものは、僕らが思っているような、一方通行の川の流れではなかったのかもしれない。むしろ、潮の満ち引きのように、寄せては返す、そういうものだったのかもしれない。
そこまで考えて、僕はいつも、自分の想像力の飛躍に苦笑いをして、思考を打ち切ってしまうのが常だった。九十九さんが亡くなるまでは。



第五章 譲さんの手

その男を初めて見たとき、正直、僕は身構えた。
九十九さんと連れ立って、モンスーンの外の路地に立っていたその人は、とにかく体が大きかった。肩幅も、背丈も、僕らの誰よりもひとまわり以上大きい。革のジャケットを着崩し、腕にはよくわからない図柄の刺青がのぞいている。目つきも鋭く、正直、関わらないほうがいい種類の人だと、勝手に決めつけていた。
九十九さんに促されて、僕はおそるおそる近づき、頭を下げた。
「あの、いつもお世話になってます」
声が、少し震えていたと思う。
その人は、僕の顔をじっと見つめた。数秒だったのか、もっと長かったのか、よく覚えていない。やがて、その厳つい顔が、驚くほど柔らかくほどけた。
「よろしく」
差し出された手は、見た目に違わず大きく、そして意外なほど温かかった。握手を交わしながら、僕は自分の緊張が、みるみる解けていくのを感じた。
その人が、譲(ゆずる)さんだった。周りからは、なぜか「ジョーさん」と呼ばれていた。理由を尋ねたことはあるが、「さあな」と九十九さんに笑って流されただけで、結局わからずじまいだった。
譲さんは、口数の多い人ではなかった。けれど、その場にいるだけで、空気がどこか落ち着くような、そんな種類の人だった。九十九さんの隣にいることが多く、二人でいるときの譲さんは、まるで長年連れ添った兄弟のような、気安い雰囲気を漂わせていた。
それからというもの、モンスーンの周りで顔を合わせるたびに、譲さんは軽く手を上げて挨拶をしてくれるようになった。それだけのことが、当時の僕には、ひどく誇らしいことに思えた。
見た目で判断してはいけない、という当たり前のことを、僕は譲さんとの出会いで、身をもって学んだ。もっとも、それを本当の意味で思い知るのは、もっと後になってからのことなのだが。
それから半年ほど経った頃、僕らのバンドは、ようやくモンスーンで自分たちの名義のライブをやらせてもらえることになった。
対バン形式の、小さな枠だった。それでも、僕らにとっては一大事で、練習にも自然と熱が入った。九十九さんは、当日、いつもの暗がりの定位置で、腕を組んで見守っていた。
本番、僕は緊張のあまり、序盤のフレーズをひとつ弾き飛ばした。一瞬、頭の中が真っ白になったが、隣で光一が声を張り上げ、克のドラムが強引にリズムを引っ張ってくれたおかげで、なんとか持ち直すことができた。
演奏を終え、袖に引っ込むと、そこに譲さんが立っていた。
「よかったぞ」
短く、それだけ言うと、大きな手で僕の頭をわしわしと撫でた。子供扱いされているようで、少し悔しかったが、それ以上に嬉しかったのを覚えている。
九十九さんは、その夜、珍しく多くを語った。
「音を外したところ、あったろ」
「……はい、すみません」
「謝ることじゃない。外した後、どう戻すかが大事なんだ。お前ら、あそこでちゃんと戻した。あれでいい」
その言葉に、バンドの皆で顔を見合わせて笑った。うまくいかなかったことさえ、九十九さんにかかると、意味のあることのように思えてくるから不思議だった。
その夜遅く、モンスーンが閉店した後の路地で、九十九さんと譲さんと僕らとで、缶ビールを片手に、他愛のない話を交わした。将来の夢とも呼べないような、ぼんやりとした願望を、皆それぞれに口にした。
「お前らがどうなっても」九十九さんは、夜空を見上げながら言った。「今日みたいな夜があったってことだけは、消えない。それだけは、覚えておけ」
そのときは、ただの酒の席の言葉として、軽く聞き流していた。
まさかそれが、五人揃って九十九さんと過ごす、最後の夜になるとは、誰も思っていなかった。



第六章 卒業、そして遠ざかる日々

谷底での日々にも、いつか終わりが来る。
僕らはそれぞれ、なんとか学校を出て、社会というものの中に押し出されていった。就職し、引っ越し、谷戸町からは自然と足が遠のいた。
遊び方が変わった。夜通し音楽の話をすることもなくなり、着るものも、髪型も、少しずつ「らしく」なっていった。結婚をして、家族を持った者もいた。僕もその一人だった。
守るべきものができると、人は自然と、危うい場所から遠ざかるようになる。谷戸町の湿った空気や、モンスーンの煙たい地下室は、いつしか僕の日常から、静かに姿を消していった。
九十九さんや譲さんのことを思い出すことも、めっきり減った。忘れたわけではない。ただ、日々の暮らしの重みに押されて、記憶の奥のほうへ、少しずつ沈んでいっただけだ。
たまに、ふとした瞬間――電車の中で聴いた誰かのギターの音や、路地裏に漂う煙草の匂いなどに――あの頃の空気を思い出すことはあった。そんなとき、九十九さんの、あの独特な間の取り方をするギターの音が、耳の奥で微かに蘇ることもあった。
けれど、それも一瞬のことだ。すぐに現実の用事が押し寄せてきて、僕は思い出を、また記憶の底へ押しやってしまう。
そうやって、何年もの月日が流れた。
かつて夢中になっていたはずの音楽への熱も、いつしかとうに冷めきっていた。ギターを弾かなくなって、もう何年も経っていた。谷戸町という土地の名前さえ、意識に上ることは滅多になくなっていた。
会社員として働き、住宅ローンを組み、子供の学費や、日々の細々とした用事に追われる。そうした暮らしの中では、かつて谷底で過ごした夜のことなど、遠い異国の記憶のように感じられた。
克はいつのまにか地元に戻って家業を継いだと聞いたし、淳は結婚を機に音信不通になった。光一とだけは、年に一度、年賀状をやり取りする程度の縁が、細く続いていた。美咲がどうしているかは、誰も知らなかった。
バンドという形は、とうの昔に消えてなくなっていた。それでも、あの頃、確かに何かに本気で夢中になっていたという事実だけは、心のどこかに、埋み火のように、かすかに残り続けていたのかもしれない。
もう、あの頃には戻れない。戻る必要もない。そう自分に言い聞かせながら、僕は坂の上の、ごく普通の暮らしを送っていた。
あの日、突然の知らせが届くまでは。
一度だけ、谷戸町の近くまで行く用事があった。
子供が生まれて数年経った頃だ。取引先との打ち合わせが、たまたま谷戸町の隣駅であった。仕事を終え、駅の案内板を見ていると、ふと、モンスーンのことを思い出した。
まだ、あの店はあるだろうか。九十九さんは、今も出入りしているだろうか。
スマートフォンで地図を開き、道順を確かめるところまではした。歩けば、十五分もかからない距離だった。
けれど、僕は結局、そちらへ足を向けなかった。
もし店がもうなくなっていたら。もし九十九さんに会えても、すっかり変わってしまった自分を見て、がっかりされたら。もし、そもそも自分のことなど、覚えていなかったら。
いくつもの「もし」が頭をよぎり、そのたびに、面倒だから、疲れているから、今度でいいから、と、自分に言い訳を重ねた。結局、僕は駅の反対側の出口から、まっすぐ家路についた。
あの時、あと十五分だけ、歩く勇気があれば。
そうすれば、九十九さんとも、譲さんとも、もう一度顔を合わせることができたかもしれない。飯を奢ってもらいながら、たわいもない話をすることができたかもしれない。
そんな「もしも」を、僕は訃報を受け取った日から、何度も何度も、頭の中で繰り返すことになった。
後悔というものは、いつだって、ほんの小さな選択の積み重ねから生まれるのだと、そのとき初めて、身にしみて理解した。



第七章 訃報

その知らせは、古い友人からの、たった数行のメッセージで届いた。
〈九十九さんが亡くなったらしい。詳しいことはまだわからない〉
画面を見つめたまま、僕はしばらく動けなかった。
「らしい」という伝聞の頼りなさが、かえって現実感を奪っていた。信じられない、というより、うまく信じ方がわからない、という感覚に近かった。
ため息とも呻きともつかない声が、勝手に喉から漏れた。
それから、堰を切ったように、いろいろな記憶が蘇ってきた。飛び入りで弾いたあの下手なコード。「バレるも何も、聴きゃわかるよ」という笑い声。定食屋の煮魚の匂い。「時々、順番がわからなくなるんだよ」という、あの不思議な一言。譲さんの、大きくて温かい手。
忘れていたつもりの記憶は、少しも色褪せずに、僕の中にそのまま残っていた。それどころか、忘れていた分だけ、余計に鮮やかに感じられるほどだった。
情けないことに、涙よりも先に、後悔が来た。
なぜ、あれから一度も、連絡を取らなかったのだろう。なぜ、谷戸町に足を運ばなかったのだろう。忙しさを言い訳に、確かにそこにあった縁を、僕は自分から手放していたのだ。
数日後、詳しい事情がわかってきた。九十九さんは、ここしばらく体調を崩していたらしい。それでも、最後まで人前でギターを弾いていたという話を聞いて、いかにも九十九さんらしいと思うと同時に、胸が締めつけられた。
葬儀はすでに、近しい身内だけでひっそりと済ませたということだった。墓は、汐見浦の高台の霊園にあるらしい、とだけ聞かされた。
その夜、僕は久しぶりに、光一に電話をかけた。
「聞いたよ」
開口一番、光一はそう言った。声には、隠しきれない疲れがにじんでいた。あれから光一は、克や淳とは今も時々連絡を取り合っているらしい。僕だけが、いつの間にか、その輪から外れていたことを、そのとき初めて知った。
「お前、まだギター弾いてるのか」
「いや、全然」
「俺もだよ。皆、そんなもんだ」
短いやりとりの中に、それぞれが背負ってきた年月の重さが、透けて見える気がした。汐見浦の墓のことを話すと、光一は「行くなら教えてくれ」と言ったが、結局、都合がつかず、僕ひとりで向かうことになった。
電話を切った後、居間に戻ると、妻が怪訝そうな顔で僕を見た。
「大丈夫? なんか、顔色悪いよ」
「昔、お世話になった人が、亡くなったみたいで」
それだけ言うと、妻はそれ以上、根掘り葉掘り尋ねてはこなかった。ただ、隣に座り、黙って僕の背中に手を置いてくれた。その温もりに、少しだけ救われる思いがした。
「行ってきたら?」
妻がそう言ってくれたとき、僕の中で、ずっと迷っていた何かが、すっと決まった気がした。
行かなければならない。
そう思った。理由はうまく説明できなかった。ただ、行かなければ、僕は自分自身の、大事な何かに、二度と会えなくなる気がしたのだ。
汐見浦へ向かう前に、僕は一度、実家に立ち寄った。
母は、もうすっかり歳を取っていた。それでも、僕の顔を見ると、昔と変わらない笑顔を見せてくれた。
お茶を飲みながら、九十九さんのことを、かいつまんで話した。母は九十九さんのことを知らないはずなのに、なぜか懐かしそうな顔をして、僕の話に耳を傾けていた。
「その人、あんたにとって、大事な人だったのね」
「うん。今頃気づいたんだけどね」
しばらく黙っていた母が、ふと、思い出したように言った。
「そういえば、あんた、小さい頃、山で帽子をなくしたの、覚えてる?」
不意打ちのように、その話題が出てきて、僕は驚いた。
「覚えてるよ。谷底に、落としちゃったやつでしょ」
「あのとき、あんた、全然泣かなかったのよ。ちょっと『あ』って言っただけで、あとはじっと、川を見てただけ」
「そうだったっけ」
「私、内心すごく焦ってね。この子、ショックで固まっちゃったんじゃないかって。でも、後で聞いたら、『あの帽子、どこまで流れていくんだろうって考えてた』なんて言うから。子供らしくないなあって、少し可笑しかったのよ」
そんなやりとりがあったことを、僕自身はまったく覚えていなかった。覚えているのは、帽子が谷底へ消えていく光景と、母の少し湿った声だけだ。
けれど、母の話を聞いて、なぜだか、腑に落ちるものがあった。あの日の僕は、失うことそのものよりも、失ったものの行方のほうに、ずっと心を惹かれていたのかもしれない。
その性分は、大人になった今も、変わっていないのかもしれなかった。
「九十九さんっていう人のお墓、行くの?」
「うん。明日、行こうと思ってる」
「そう」母は、少し遠い目をして、湯呑みを両手で包んだ。「じゃあ、ちゃんと、いってらっしゃいって言ってあげなさい。会いに来た、じゃなくて」
その言い回しの意味を、僕はそのときはよくわからなかった。けれど、汐見浦の坂の上で九十九さんに再会した後、ようやく、その意味がわかるような気がした。



第八章 汐見浦へ

汐見浦の霊園がどこにあるのか、正確な場所がわかるまでには、しばらく時間がかかった。
古い友人づてに聞き回り、ようやく大まかな地名を知って、僕は電車に乗った。海沿いの小さな駅で降りると、潮の匂いが真っ先に鼻をついた。
地図アプリを頼りに歩き出したものの、目当ての霊園にはなかなかたどり着けなかった。案内板は古びてかすれ、道は何度も分かれ、そのたびに僕は同じような坂道を行ったり来たりする羽目になった。
「大きい霊園だとは聞いていたけど……」
独り言をつぶやきながら、僕は汐見ヶ浜へと続く道を、海のほうへ向かって歩いた。波の音が、少しずつ大きくなってくる。
浜の手前で左に折れると、急に視界が開けて、遥か先の高台に、それらしき緑地が見えた。ようやく見つけた、という安堵よりも、これから登るであろう長く急な坂道への億劫さのほうが、先に立った。
道に迷いかけていたとき、坂の下の小さな花屋の軒先で、腰の曲がった老婆が店番をしているのが目に入った。藁にもすがる思いで、霊園への道を尋ねてみた。
「九十九さんの……ああ、ギター弾きの」
老婆は、僕が名前を出す前から、なぜかそう呟いた。驚いて聞き返すと、老婆は皺だらけの顔をほころばせた。
「この時期になると、あの人を訪ねてくる人が、ぽつぽついるんだよ。皆、同じような顔をしてるからね。すぐわかる」
「同じような顔、ですか」
「忘れ物を、取りに来たような顔だよ」
そう言うと、老婆は坂の上を指差し、道順を教えてくれた。礼を言って歩き出そうとした僕の背中に、老婆の声が追いかけてきた。
「急がなくてもいいんだよ。あすこは、待っててくれるところだから」
その言葉の意味を、僕はそのときはうまく飲み込めないまま、教えられた道をたどって、坂を登り始めた。
坂は、想像していたよりずっと長く、ずっと急だった。息が上がり、額に汗がにじむ。それでも、足を止める気にはならなかった。
てくてくと、一歩ずつ、坂を登っていく。
不思議なことに、登れば登るほど、街の喧騒が遠のいていくように感じられた。潮騒と、風の音と、自分の足音だけが、やけにはっきりと耳に届く。まるで、現実の世界から少しずつ、剥がれていくような感覚だった。
歩きながら、脈絡もなく、いろいろな記憶が浮かんでは消えていった。
初めてモンスーンの暗がりで九十九さんに声をかけられたときの緊張。定食屋で奢ってもらった煮魚の味。「淳、お前、走りすぎ」という、あの短い指摘。譲さんの、大きくて温かい手。缶ビール片手に交わした、あの路地裏での夜。
どうして今頃になって、こんなにも鮮明に、あの日々のことを思い出せるのだろう。日常に追われていたあいだ、ずっと記憶の底に沈んでいたはずなのに、坂を登るこの足取りに合わせて、次々と浮かび上がってくる。
まるで、坂を登るという行為そのものが、記憶を引き上げるための、何かの手続きであるかのように。
坂の途中で、一度だけ振り返った。海が、驚くほど遠くまで見渡せた。光を反射して、白く霞んだように輝く水面が、どこまでも続いている。
その光景を見ながら、僕はふと、あの日、谷底へ落ちていった麦わら帽子のことを思い出した。
あの帽子は、あの後、どこへ流れ着いたのだろう。
なぜ今、そんなことを思い出すのか、自分でもよくわからなかった。ただ、なぜかそのとき、あの帽子と、これから会いに行く九十九さんとが、頭の中でぼんやりと重なって見えた気がした。
僕は坂を登りきり、霊園の入り口に立った。



第九章 忘れ潮

九十九家の墓は、霊園の一番奥、海を見下ろす一角にあった。
真新しい墓石は、まだ苔むす暇もなく、日差しの中で妙に白々としていた。僕はその前に立ち、遅れてきたことを詫びるように、深く頭を下げた。
「遅くなりました」
そう口にしてはみたものの、当然、返事などあるはずもなかった。墓石は、ただ静かに、そこにあるだけだった。
風が吹き、線香の灰がわずかに舞った。それだけのことだった。
周りを見渡すと、規則正しく並んだ墓石の群れの向こうに、海が広がっていた。高台からの眺めは、思っていた以上に開けていて、遠く水平線までが、はっきりと見渡せた。潮騒は、ここまで届くはずのない距離にあるのに、なぜか、すぐ近くで聞こえるような気がしていた。
僕は、ひとり勝手に感傷に浸っていることに、少し気恥ずかしさを覚えながら、「では、また」と、誰にともなく呟いて、踵を返した。
そのときだった。
視界の端で、光の加減がふっと変わった気がした。太陽はまだ高いはずなのに、あたり一帯が、夕暮れどきのような、橙とも灰色ともつかない色に染まっている。潮騒が、やけに近くに聞こえた。まるで、すぐそこまで海が迫ってきているかのように。
「――待ってやらなきゃいけない。自分の指が、追いつくまで」
聞き覚えのある声が、耳の奥ではなく、もっと近くから聞こえた気がして、僕は反射的に振り返った。
墓石の脇、ちょうど日陰になる場所に、ひとりの男が立っていた。
九十九さんだった。記憶の中の九十九さんと、寸分違わぬ姿で。ギターケースを肩に提げ、火のついていない煙草を指に挟んで、あの独特な笑みを浮かべている。
「……九十九さん?」
声が、うまく出なかった。
「よう」
短く返す声も、記憶にある通りだった。夢か、幻か、それとも本当にそこにいるのか、確かめる術はどこにもなかった。ただ、僕はその場に立ち尽くしたまま、九十九さんを見つめることしかできなかった。
「早すぎるんじゃないですか」
やっとの思いで、そんな言葉が口をついて出た。九十九さんは、喉の奥で小さく笑った。
「時々、順番がわからなくなるんだよ、俺は。前にも言っただろう」
「……」
「潮ってのはな」九十九さんは、海のほうへ視線をやりながら、ゆっくりと続けた。「一度沖に持っていったものを、忘れた頃にまた、こっちの岸へ戻してくることがあるんだ。誰も見てないところで、そっと」
「戻してくる……」
「お前が谷底に落とした帽子な。あれも、そのうち、どこかの岸に流れ着いてる。今頃、誰かが拾って、被ってるかもしれない。あるいは、誰にも拾われないまま、ずっと波間を漂ってるだけかもしれない」
なぜ、その話を九十九さんが知っているのか。尋ねる気力すら、僕にはなかった。ただ、その言葉を、まるで昔から知っていた真実のように、すんなりと受け止めている自分がいた。
「なくしたものは、なくなったわけじゃない。順番が、狂ってるだけだ」
九十九さんは、そう言って、ギターケースの持ち手を、少しだけ握り直した。
「九十九さん」
込み上げてくるものを堪えながら、僕は声を絞り出した。
「すみませんでした。あれから、一度も、会いに行かなくて」
九十九さんは、少しの間、黙って僕を見ていた。それから、静かに首を振った。
「謝ることじゃない。お前は、お前の潮の流れの中を、ちゃんと生きてただけだ」
「でも」
「それに」九十九さんは、口の端を少し上げて笑った。「今、ちゃんとここまで来ただろ。それで十分だよ」
写真で見た若い頃の姿と、目の前の姿とが、僕の中でようやく重なった。あの写真の男は、やはり九十九さん自身だったのだ。理屈で説明する気は、もう起きなかった。
「譲さんは」
「元気にやってるよ。お前も、いつかちゃんと会いに行け。あいつ、ああ見えて、寂しがり屋だからな」
その言葉に、僕は思わず笑ってしまった。九十九さんも、つられたように笑った。その笑い方は、記憶の中のそれと、寸分違わなかった。
「じゃあな」
その一言を最後に、輪郭が、潮が満ちるように、あるいは引くように、ゆっくりと薄れていった。声も、姿も、あたりの妙な橙色の光も、気づけば元の、ただの午後の霊園の景色に戻っていた。
僕はしばらく、その場から動けなかった。
夢だったのかもしれない。長旅の疲れと、悲しみが見せた、都合のいい幻だったのかもしれない。そう考えるほうが、よほど筋が通っている。
けれど、耳の奥に残った九十九さんの声の余韻だけは、どうしても、ただの幻だとは思えなかった。



第十章 波間浦の帰り道

同じ道を戻る気にはなれず、僕は霊園を通り抜けて、反対側から海沿いへ降りる細い路地を選んだ。
坂を下るごとに、潮の匂いが強くなっていく。やがて視界が開け、波間浦の浜に出た。
夕暮れには、まだ少し早い時間だった。海は穏やかに凪いでいて、沖のほうに、何人かのサーファーの姿が見えた。板の上に座り、次の波をじっと待っている、その静かな横顔を、僕はしばらく眺めていた。
――やっぱり、ここは変わらないな。
そんなことを思った。汐見浦の街並みは、記憶にある姿と違っている部分も多かったのに、波間浦のこの浜と、波を待つ人たちの佇まいだけは、いつまでも同じ表情をしているように見えた。
大きな波が来て、ひとりのサーファーが立ち上がった。バランスを崩し、すぐに波に呑まれて姿を消したが、しばらくすると何ごともなかったように顔を出し、また板の上に座り直していた。
その姿を見て、なぜだか、譲さんのことを思い出した。
見た目は厳ついのに、笑うと驚くほど柔らかくなる、あの大きな手。九十九さんの隣で、静かに、けれど確かにそこにいた人。譲さんは、今どうしているのだろう。九十九さんの訃報は、届いているのだろうか。
いつか、また会えるだろうか。
そう思いながら、僕は浜辺に立ち、遠回りをしながら、駅へと続く道をゆっくりと歩いた。
先ほどの、あの霊園での出来事は、結局、誰かに話すことはできそうになかった。話したところで、うまく伝わる自信もなかったし、何より、あれは自分ひとりだけの、大切な記憶にしておきたかった。
なくしたものは、なくなったわけじゃない。順番が、狂ってるだけだ。
その言葉だけを、僕は胸の中で、何度も繰り返しながら歩いた。



第十一章 モンスーン、ふたたび

汐見浦から戻って、二週間ほど経った頃、僕はようやく、谷戸町へ向かう決心をした。
今度こそ、あの十五分を惜しまなかった。駅を降り、記憶をたよりに路地を歩く。ビルの配置は変わり、知らない店が増えていたが、あの錆びた鉄の扉と、蒸気のようなネオン管だけは、驚くほど昔のまま、そこにあった。
階段を降りていくと、懐かしい匂いが鼻をついた。煙草と、安酒と、熱気の匂い。あの頃と、何ひとつ変わっていなかった。
カウンターの奥に、大きな背中が見えた。振り返ったその顔を見て、僕は思わず声を上げそうになった。
譲さんだった。歳を重ねて、髪には白いものが増えていたが、あの厳ついのに柔らかい面差しは、記憶のままだった。
「あの、ご無沙汰してます。昔、ここでよく……」
しどろもどろに名乗ると、譲さんは目を細めて、しばらく僕の顔を見つめていた。それから、ふっと相好を崩した。
「ああ……お前か。九十九のとこの、コード崩しの」
覚えていてくれた。それだけのことに、不覚にも目頭が熱くなった。
「九十九さんの、その、お葬式のこと、後から知って……行けなくて、すみませんでした」
「いいんだよ、そんなの」
譲さんは、大きな手で、僕の肩をぽんと叩いた。
「あいつは、そういうの、気にする奴じゃなかったろ」
「そうですね」
ふと思い出して、僕は昔から気になっていたことを尋ねてみた。
「そういえば、譲さんって、なんで『ジョーさん』って呼ばれてるんですか。ずっと気になってたんです」
譲さんは、少し照れくさそうに笑った。
「大したことじゃねえよ。若い頃、九十九によく『お前は態度だけは一人前だ』って、当時流行ってた漫画の主人公の名前で、からかい半分に呼ばれてたんだ。それがそのまま、周りにも広まっちまってな」
「そうだったんですね」
「あいつ、そういう、くだらないあだ名つけるの、妙にうまかったからな」
そう言って笑う譲さんの顔は、九十九さんの話をするときだけ、少しだけ、寂しさの色を帯びて見えた。
「それより、座れよ。一杯くらい、奢ってやる」
差し出された丸椅子に腰掛けながら、僕は、汐見浦での出来事を、話すべきかどうか、しばらく迷った。結局、その日は話さなかった。ただ、譲さんと九十九さんの思い出話を、夜が更けるまで、いくつも交わした。
閉店間際、客もまばらになった頃、譲さんが、店の隅に置いてあった一本のアコースティックギターを取り出して、僕に差し出した。
「弾いてみろよ」
「いや、もう長いこと触ってなくて……」
「いいから」
断りきれず、僕は久しぶりにギターを構えた。指先が、驚くほど何も覚えていない。それでも、簡単なコード進行を、たどたどしく鳴らしてみた。
あの厄介なコードのところで、案の定、指が思うように動かなかった。崩して弾こうとした瞬間、九十九さんの声が、耳の奥で蘇った。
――ちゃんと押さえなきゃ、駄目じゃないか。
僕は、もう一度指を組み直し、時間をかけて、正しい形でそのコードを押さえた。硬い、拙い音だったが、確かに鳴った。
譲さんは、何も言わず、ただ静かに聴いていた。演奏を終えると、大きな手で、ぱん、と一度だけ拍手をしてくれた。
「上出来だ」
その一言だけで、十分だった。
帰り際、譲さんが、ぽつりと言った。
「また来いよ。お前がここに来る間は、九十九のことも、忘れずにいられる気がするから」
その言葉を胸に抱えながら、僕は久しぶりに、谷戸町の夜の坂道を、ゆっくりと歩いて帰った。



第十二章 西灘にて

結局、西灘を訪ねたのは、その年の冬になってからだった。
これといった当てがあったわけではない。九十九さんの生家がどこにあるのかも、正確にはわからないままだった。それでも、いつか行くと決めていた以上、行かない理由を探すのはやめようと思った。
西灘は、静かな港町だった。潮風が、汐見浦とはまた違う、少し冷たい匂いを運んでくる。駅前の食堂で昼食をとりながら、店の主人に何気なく「九十九」という名字に心当たりがないか尋ねてみた。
「九十九さんなら、昔、この先の坂の上に住んでたはずだよ」
思いがけない返事に、僕は箸を止めた。
「もう随分昔に、家族総出でどこかへ越してったけどね。ギター背負った、変わり者の息子がいたって話は聞いたことがあるな」
教えられた坂道を登っていくと、古い家が一軒、取り壊されずに残っていた。表札はすでになく、庭には枯れ草が伸び放題になっている。それでも、その場所に立つと、なぜか懐かしいような、妙に馴染む感覚があった。
家の脇の小さな祠に、色褪せた麦わら帽子がひとつ、ぽつんと置かれているのに気づいたのは、帰り際のことだった。
誰が、いつ、そこに置いたのかはわからない。近所の子供の忘れ物かもしれないし、ただの偶然かもしれない。
けれど、僕はしばらくの間、その場を動けなかった。
理屈で説明のつくことばかりが、この世に起きているわけではない。それを、僕はもう、素直に受け入れられるようになっていた。
「なくしたものは、なくなったわけじゃない。順番が、狂ってるだけだ」
九十九さんの声が、また耳の奥で蘇る。僕は祠に向かって小さく一礼すると、来た道を、ゆっくりと引き返した。
坂の下から見上げると、冬の弱い日差しを受けて、その古い家の屋根が、静かに光っていた。
いつか、また誰かが、何かを忘れ、何かを思い出す。そうやって、忘れ潮は、これからも、どこかの岸辺へ、静かに打ち寄せ続けるのだろう。
僕は、それを信じることにした。



終章 帽子の行方

西灘から帰ってきてしばらく経った頃、僕は久しぶりに、ギターを引っ張り出してみた。弦は錆び、チューニングもろくに合わなかったが、それでも一音、鳴らしてみた。
あの厄介なコードを、今度こそ、きちんと押さえてみようと思った。
指が思うように動かず、何度も失敗した。それでも、ゆっくりと、音と音のあいだに、少しだけ間を置くようにして、もう一度弾いてみる。
――音を出す前に、もう聴こえてるんだよ。次に鳴る音が。だから、待ってやらなきゃいけない。自分の指が、追いつくまで。
あの言葉の意味が、今になって、ほんの少しだけわかるような気がした。



序章に書いた、あの麦わら帽子のことを、もう一度だけ書いておきたい。

あの日交わした言葉の大半を、僕はもう覚えていない。なのに、谷底へ落ちていく帽子の白い裏地と、母の少し湿った声だけは、なぜか今でも鮮明に残っている。
長らく、その理由がわからないままだった。けれど、汐見浦の高台で九十九さんと交わした、あの短いやりとりを経た今なら、少しだけ、答えらしきものが見えてくる気がする。
なくしたものは、なくなったわけじゃない。順番が、狂っているだけだ。
もしそれが本当なら、あの日、谷底の霧の中へ消えていった帽子も、母の声も、九十九さんとの日々も、譲さんの温かい手も、そのすべてが、今もどこかで、静かに潮に揺られながら、こちらへ流れ着く順番を待っているのかもしれない。
だから僕は、忘れずにいる。
いつか、忘れ潮がそれを運んでくる、その日のために。
先日、幼い息子に、なぜ古いギターを大事にしているのかと尋ねられた。うまく説明できる自信はなかったが、それでも僕は、谷底に落ちた帽子の話から、ぽつりぽつりと語り始めた。
母のこと、谷戸町のこと、九十九さんのこと、譲さんのこと。息子がどこまで理解しているのかはわからなかったが、目を輝かせて、黙って聞いてくれていた。
話し終えると、息子は真剣な顔で言った。
「その帽子、いつか見つかるといいね」
「うん。そうだね」
そう答えながら、僕はふと、この子もまた、いつか何かを失い、いつか何かを取り戻す日が来るのだろうと思った。そのときに、この話が、ほんの少しでも支えになればいい。
忘れ潮は、きっと、そうやって、人から人へと、静かに受け渡されていくものなのだろう。



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あとがき

人は生きている中で、さまざまな別れを経験します。ですが、たとえ目の前からは姿を消したとしても、共に過ごした時間や交わした言葉の温もりまでが消えてなくなるわけではありません。
海の潮が沖へとさらったものを、忘れた頃にそっと岸辺へと戻してくれるように。私たちが失ったものたちもまた、形を変えていつか私たちの元へ還ってくる——そんな「忘れ潮」のような物語を書きたいと思い、筆を執りました。
この物語に登場する「九十九さん」や「譲さん」の佇まい、そして谷底へ消えていった帽子のゆくえが、読者の皆様の心に少しでも優しい余韻を残せたなら、著者としてとても嬉しく思います。

本作品はフィクションであり、登場する人物・団体・地名等は実在のものと関係ありません。