『クロコダイル』
――あちら側の灯――
まえがき
原宿から渋谷へと続く明治通り。そこは私にとって、青春の青臭さと憧れ、そして今はなき懐かしい顔ぶれが刻み込まれた特別な場所だ。
歳月を重ねるほどに、ふとした夜の風や匂いに乗って、かつての記憶が鮮やかによみがえってくることがある。誰にでもひとつはあるだろう「戻れないけれど、確かにそこにあった時間」に思いを馳せながら、この静かな再会の物語を開いていただければ幸いである。
一、明治通り
原宿から渋谷へ、明治通りをぶらりと歩くのが、近頃の癖になっている。
用があるわけではない。ただ、無性に歩きたくなる夜があるのだ。
街は驚くほど変わった。あの頃あった店の半分以上は跡形もなく消え去り、真新しいガラス張りのビルが立ち並び、すれ違う若い連中の声も、店先から聞こえてくる音楽も、何もかもが当時とは違う。それでも時折、記憶の底にすっと触れるような角がある。ここに何があったか、体が明確に覚えている角が。
毎日のように通っていたセレクトショップは、もう無い。
酔って殴り合いのケンカをしたスナックも、もう無い。
けれど――ここだけは、今もまだ、そこにある。
小さな看板。色褪せた緑の庇。〈クロコダイル〉という文字は、四十年以上前と同じ書体で、同じ場所に掲げられている。塗り直した形跡もないのに、その文字だけが妙に鮮やかに浮かび上がって見える夜がある。今夜も、そうだった。
二、扉
店の前に立つと、いつも一瞬の迷いが生じる。
記憶の中では、もう少し奥まった路地にあったような気がするのだ。いや、やはりここだったと思い直す。何十年という歳月の中で、道そのものが動いたはずもないのに。
自分の記憶を辿るのは、いつも心もとない作業だ。輪郭ははっきりしているのに、置かれている場所が少しずつずれている。まるで、記憶という地図の上で、この店だけが意思を持って位置を変えているようだった。
意を決して扉を押す。
いつもと同じ、重い木の扉の感触。蝶番の軋む音まで、耳に染みついた音そのものだ。
だが、今夜は何かが違っていた。
中に一歩足を踏み入れた瞬間、懐かしい煙草の匂いが鼻腔を突いた。今どき、店内で煙草を吸わせる店など、そうそうない。それなのに、濃厚な紫煙が天井の低い照明の下でゆっくりと渦を巻いている。
カウンターの向こうで、誰かが低く笑った。
聞き覚えのある声だった。もう何十年も、耳にしていないはずの声だった。
三、あちら側の店
「おう、ゲンさん、久しぶりじゃねえか」
カウンターの奥から声をかけてきたのは、タカさんだった。革ジャンを着て、煙草を指に挟んだまま、こちらに気安く笑いかけている。二十歳の頃、いつもこの店でたむろしていた、あの若々しいタカさんの姿そのままだった。
――タカさんは、十五年前に死んだはずだ。
その事実が、頭の芯でひやりと鳴った。だが不思議と、恐怖は一切湧いてこなかった。ただ溢れるような懐かしさだけが、じわりと胸の奥に染み渡っていく。
店の中を見渡す。カウンターの端にはヒロさんがいて、いつものように安いウイスキーの水割りを傾けている。奥のボックス席では、マコさんが誰かとギターの弦を張り替えながら軽口を叩いている。全員、あの頃のままの若さで、あの頃のままの服を着て、あの頃のままの声で笑っていた。
全員、もうこの世にはいない人たちだった。
「まあ座れよ」とタカさんが言う。「今夜はやけに、あんたの匂いが強くてよ。すぐに分かったぜ」
匂い、という言葉に一瞬引っかかりを覚えながらも、私は促されるままカウンターの丸椅子に腰を下ろす。カチャンと音を立ててグラスが置かれ、見覚えのある安酒が注がれる。口に含むと、その味わいまで昔のままだった。
「ここは……どこなんです」
思わず尋ねると、タカさんは可笑しそうに笑って煙を吐き出した。
「どこも何も、クロコダイルだよ。変わらねえだろ」
「でも、あんたらは――」
「死んでる、って言いたいのか」タカさんは事もなげに言った。「まあ、そういうことになるんだろうな、あっちの理屈じゃ。だがここじゃ、そんなことは大した問題じゃねえんだよ」
四、先輩たち
あとで分かったことを、整理して書いておこうと思う。もっとも、こんな話を誰かに信じてもらえるとは最初から思っていないが。
都市というのは、人々の思い出が積もりすぎた場所に、ごく稀に「澱み」のようなものを作るのだという。人が繰り返し同じ感情や情熱を注ぎ込んだ場所――誰かにとって特別でありすぎた店、通りの角、小さな部屋。そこには時間が均等に流れず、古い層がそのまま残ってしまうことがあるのだと、ヒロさんは煙草をふかしながら教えてくれた。
「明治通りは、特にひでえ通りでな」とヒロさんは静かに言った。「戦後からこっち、何もかもが変わり続けてきた通りだ。変わりすぎた場所ってのは、変わらなかった場所の記憶を、逆に濃く残しちまうのさ」
クロコダイルは、そういう時間の澱みのひとつだった。表側では、ただの古いライヴハウスとして、今も現役の看板を掲げている。だが夜のある瞬間、ある角度から扉を押した者だけが、澱みの奥――時間が止まった「あちら側」の店に迷い込むことができるのだという。
「みんな、ここにいるのか。ずっと」
私が尋ねると、マコさんがギターを爪弾きながら答えた。
「ずっとってわけでもねえよ。俺たちも、それぞれの場所がある。ただ、誰かがこっちを強く思い出す夜は、ここに集まってくるんだ。灯りみたいなもんだな。呼ばれて、点く」
呼ばれて、点く。
その言葉が、妙に胸に刺さった。私が明治通りを歩きたくなる夜、この店の前で足を止める夜――それは私自身が、無意識のうちに彼らを呼んでいたということなのか。
十代の終わり、右も左も分からなかった青二才の私に、この人たちは容赦なく絡み、可愛がり、殴り、奢り、そして最後にはこの街から一人また一人と消えていった。病気で。事故で。あるいは誰も理由を知らないまま。
気づけば、あの世代の先輩たちは、誰一人としてこの世に残っていなかった。
五、歌う約束
夜が更けるにつれ、店の中の時間の流れ方が、少しずつ奇妙になっていくのを感じた。時計の針は確かに刻んでいるのに、外の喧騒だけがすっかり途絶えていく。まるで、この空間だけが世界から静かに切り離されていくようだった。
「なあ、ゲンさん」
タカさんが、ふいに真顔になって言った。
「あんた、まだ歌ってるんだろ。あの頃みたいに」
「もう長いこと、人前じゃ歌ってませんよ」
「もったいねえな。あんたの声、俺は好きだったんだぜ」
タカさんはグラスを指で優しく回しながら、深く煙草を吸い込み、紫煙の向こうへ視線を投げた。その沈黙には、言葉以上の重みがあった。
「もし次の世ってやつがあるんならよ、今度はこっち側で――俺たちのいるこっち側で、歌ってみりゃいいじゃねえか。ここにゃ、うるさい客もいねえし、店賃も要らねえ」
冗談めかした言い方だったが、その目の奥には、決して冗談では片付けられない静かな凄みがあった。誘われている、と直感した。ここに、彼らのいる側に、来ないか、と。
一瞬、心が大きく揺れたことを、正直に告白しておかなければならない。あの頃の仲間たちと、また声を合わせられるなら。もう一度、あの安い酒場の空気の中で、下手な歌を笑い飛ばしてもらえるなら――そう思わなかったと言えば、嘘になる。
だが、その代償が何であるかも、なんとなく理解していた。
「そのためには……何かを、差し出さなきゃならないんですかね」
タカさんは答えず、ただ静かに煙草の灰を落とした。代わりに、ヒロさんが静かに言った。
「灯りは、いつか消えるもんだ。それを早めるかどうかは、あんた次第だよ、ゲンさん」
重い沈黙が落ちた。奥でマコさんが、ギターを爪弾く儚い音だけが、ゆっくりと店の中に広がっていった。
六、朝
どれくらい、そこにいただろうか。
気がつくと、私はクロコダイルの前の歩道に、ひとり立っていた。手にはグラスの感触も酒の味も残っていない。ただ、煙草の仄かな匂いだけが、コートの襟元にうっすらと染みついていた。
空は薄らと白み始めていて、明治通りには始発を待つ人影がちらほらと見え始めている。看板の緑の庇は、色褪せた、いつものくたびれた色に戻っていた。
あの誘いを、断ったのか。それとも、まだ答えを出していないだけなのか。自分でもよく分からない。ただ一つだけ、はっきりと分かったことがある。
あの人たちは、消えてなくなったのではない。ただ、この街のどこか――明治通りの澱みの中に、あの日のままの姿で、今も灯り続けているのだ。そして私が強くこの街を思い出す夜には、また呼ばれて点る。
命短しとなるのを恐れて、私は今夜、あちら側に残らなかった。だが、いつかまた、この扉を押す夜が来るだろう。そのときに、自分がどちらの答えを選ぶのか――正直、あまり自信がない。
けれど、ひとつだけ確かなことがある。
兄貴より上で、親父より下な、あの世代の人たちは、本当にカッコ良かった。
その事実だけは、どれほどの時が流れても、少しも色褪せることはない。
(了)
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あとがき
時代とともに街の風景は変わり、人の営みもまた姿を変えていく。特に渋谷や原宿といった変化の激しい街では、数年前の記憶すら簡単に押し流されてしまう。それでも、若かりし頃に過ごした熱い空気感や、自分を引き上げてくれた不器用で破天荒な先輩たちの面影は、決して消えることがない。
本作で描いた「あちら側」は、幻想であり、同時に誰の胸の中にも存在する懐かしい時代そのものである。ふと夜風に誘われて古い街角に立ったとき、あの頃の灯りがどこかで点っているような心地がしたなら、本作のささやかな役割は果ませたと言えるだろう。最後までお付き合いいただいた読者の皆様に、心より感謝を申し上げる。

