侵略する気、ゼロです
――UFOからの最後通牒――


まえがき

いつの時代も、世の中には「強い声」があふれている。

「今すぐ叩くべきだ」

「弱腰になるな」

「迷っている場合じゃない」

そんな威勢のいい言葉は、ときに人を勇気づける。

けれど、ときには――人から「ちょっと待て」と言う権利まで奪ってしまう。

もし、そんな息苦しい世界に、はるか未来の役所から、

「すみません。ちょっと、やりすぎです」

とストップをかけに来る人たちがいたら。

しかも、その人たちが宇宙人で、乗ってきたのが巨大な銀色の球体で、戦争を止める方法が「特別有給休暇」だったら。

これは、地球を救うヒーローの物語ではない。

世界を変える力もなければ、強大な武器も持たない、しがない天文台職員。

そして、未来からやって来た、妙に礼儀正しい侵略者(?)。

二人が出会ってしまったことで、世界はほんの少しだけ、変な方向へ動き始める。

人類は争う。

未来人も困る。

大将は畑を耕す。

そして、宇宙人は有給休暇を勧める。

そんな話です。

肩の力を抜いて、お茶でも飲みながらお読みください。




第一章 まんまるが降りてきた日

その日、世界中の空に、直径三十メートルほどの銀色の球体が、まるで示し合わせたように一斉に現れた。

ニューヨークに一つ。

北京に一つ。

モスクワに一つ。

ロンドンに一つ。

そして東京――霞が関の真上に、これ見よがしに一つ。

球体は光らなかった。

音もしなかった。

ビームも撃たなかった。

ただ、静かにぷかぷかと浮かんでいた。

まるで、

「こんにちは」

と挨拶でもしているようだった。

テレビ局は大騒ぎした。

専門家は首をひねった。

軍は戦闘機を飛ばした。

戦闘機が近づくと、球体は三十センチほど横へ移動した。

戦闘機がまた近づく。

球体もまた、三十センチ動く。

その繰り返しだった。

「……逃げてる?」

「いや、あれは逃げているというより……」

「?」

「避けてる」

「同じじゃないのか?」

「人類側から見ると、まあ、ほぼ同じです」

各国の緊急対策本部では、似たような会話が同時多発していた。

「攻撃してこないぞ」

「攻撃……してこないな」

「……攻撃、しないんですかね」

人類は「侵略される」という筋書きに慣れすぎていた。

宇宙船が来た。



光線が出る。



建物が吹き飛ぶ。



軍隊が出動する。



誰かが叫ぶ。



世界が終わる。

それが、これまでの映画のお約束だった。

ところが今回は違う。

何も起きない。

ただ浮いている。

これが、かえって怖かった。

「未知の兵器では?」

「可能性はあります」

「では攻撃を?」

「攻撃されていません」

「しかし、攻撃能力を持っている可能性は?」

「あります」

「では攻撃を?」

「だから攻撃されていません」

会議は、この三つの台詞を何度も繰り返した。

そんな世界的騒動のニュースを、宮下ソラは天文台の休憩室で、コンビニのおにぎりを食べながら眺めていた。

三十六歳。

天文台の非常勤職員。

望遠鏡の清掃。

来館者への説明。

子どもたちの質問への対応。

たまに機材の運搬。

それが仕事だった。

宇宙が好きだった。

UFOも好きだった。

だから天文台に就職した。

しかし上司からは、初日にこう言われた。

「ロマンは業務時間外で」

以来、宮下は勤務中に「宇宙人」という言葉を口にするとき、妙に小声になった。

その日の午後、彼は来館した小学生に聞かれた。

「お兄さん、あれ宇宙人?」

宮下は窓の外を見た。

銀色の球体が浮いている。

「……可能性はあるね」

「宇宙人、何しに来たの?」

「それはまだ分からない」

「地球を征服するの?」

宮下は少し考えた。

「だったら、もうちょっと派手に登場すると思うよ」

「じゃあ何?」

「……観光?」

「宇宙人が?」

「いや、俺も今思いつきで言っただけ」

小学生は納得した顔で帰っていった。

宮下は窓の外を見た。

「観光か……」

その夜。

午前二時十三分。

宮下の携帯電話が鳴った。

知らない番号だった。

「もしもし……」

『はじめまして。突然のご連絡、失礼いたします』

男の声だった。

妙に落ち着いている。

そして、妙に事務的だった。

『わたくし、あの球体の広報を担当しております、ハラダと申します』

宮下の指が止まった。

「……ハラダ?」

『はい』

「宇宙人?」

『厳密には、未来人です』

「……」

『ただ、地球の方に発音しやすいよう、こちらで勝手に名乗らせていただいております』

宮下はしばらく黙った。

そして言った。

「……区役所の人みたいですね」

電話の向こうで、ほんの一瞬だけ沈黙があった。

『よく言われます』

宮下は電話を切らなかった。



第二章 バカな大将たちの会議

一方その頃。

国連では、かつてない規模の緊急会議が開かれていた。

各国の首脳。

軍のトップ。

外交官。

専門家。

そして、

「なんとなく偉そうな人」

たちがずらりと並んでいた。

議題は一つ。

「未確認飛行物体への対応方針」

議長が口を開く。

「まず、冷静な対応を――」

「断固たる態度を示すべきだ!」

即座に誰かが叫んだ。

「舐められてはならん!」

「しかし刺激すれば全面戦争だ」

「静観など悠長すぎる!」

「では、どうする!」

「先にミサイルを向けた国が主導権を握れる」

「それは脅しではなく脅迫だろう!」

「似たようなものだ!」

会議は紛糾した。

宇宙人そっちのけだった。

その頃、東京の球体内部では、その会議がリアルタイムで映し出されていた。

銀色の壁。

丸い窓。

大量のモニター。

そして、人間より少し目が大きく、耳が長く、何より疲れた表情が妙に板についている者たち。

その一人が言った。

「……相変わらずですね」

隣の男が答える。

「ああ」

「未来から来ても、人類は変わりませんね」

「変わっていたら、我々はここに来ていない」

「それもそうですね」

別の職員が資料をめくった。

「対象候補、現在四百三十二名」

「多いな」

「昨日から百二十七名増えました」

「SNS?」

「はい」

「SNSは未来でも残ってるのか?」

「残っています」

「進歩してないな」

「むしろ発達しています」

「悪化してるじゃないか」

職員たちは深いため息をついた。

そこへハラダが入ってきた。

「皆さん、宮下さんとの接触に成功しました」

「どうでした?」

「普通の方でした」

「それは重要ですか?」

「非常に重要です」

ハラダはモニターを見た。

地球では、まだ議論が続いている。

「攻撃すべきだ」

「いや、待つべきだ」

「いや、攻撃だ」

「いや、待て」

ハラダは静かに言った。

「問題は、どちらが正しいかではありません」

「では?」

「誰か一人の声が大きすぎて、他の選択肢が聞こえなくなっていることです」



第三章 ハラダさんの正体

宮下は深夜の天文台に一人残っていた。

望遠鏡の横に座り、携帯電話を耳に当てている。

「もう一度確認します」

『はい』

「あなたたちは、侵略に来たわけではない?」

『はい』

「地球征服でもない?」

『はい』

「人類を滅ぼす気も?」

『ございません』

「資源目的でも?」

『違います』

「じゃあ何なんですか」

電話の向こうで、ハラダが小さく息を吐いた。

『未来から参りました』

宮下は天井を見た。

「そこからもう一回お願いします」

『未来から参りました』

「聞き間違いじゃなかった」

『残念ながら』

「何年後?」

『約二百四十年後です』

宮下は立ち上がった。

望遠鏡にぶつかった。

「痛っ!」

『大丈夫ですか?』

「未来人に心配されたくないです」

『申し訳ありません』

「で、何しに来たんです?」

ハラダの声が少しだけ低くなった。

『警告です』

「何の?」

『地球についてです』

宮下は窓の外を見た。

夜空。

星。

そして、遠くに浮かぶ銀色の球体。

『二百四十年後の地球では、人口は大きく減っています』

「少子化?」

『それもあります』

「環境?」

『それもあります』

「隕石?」

『違います』

「太陽?」

『違います』

「宇宙人?」

『私どもですか?』

「はい」

『違います』

宮下はため息をついた。

「じゃあ何なんです?」

ハラダは答えた。

『争いです』

「戦争?」

『戦争だけではありません』

『国家間の対立』

『経済制裁』

『情報操作』

『報復』

『復讐』

『憎悪』

『そして、憎悪を煽る声』

宮下は黙った。

『積み重なった小さな争いが、取り返しのつかない規模になりました』

「それを止めに来た?」

『いいえ』

「え?」

『それができれば、わたくしどもも苦労しません』

ハラダの声に、疲れが滲んだ。

『我々には時間軸干渉に関する非干渉原則があります』

「つまり?」

『過去の歴史を、こちらの都合で書き換えてはいけない』

「じゃあ何もできないじゃないですか」

『原則としては』

「原則としては?」

『例外があります』

宮下は眉をひそめた。

『歴史そのものには干渉できません』

『しかし、歴史を極端な方向へ押し流している個人については、一時的に「保護預かり」とすることが認められています』

「保護預かり?」

『はい』

「悪人を連れていく?」

『違います』

ハラダは珍しく、少し強い声を出した。

『善悪の判定ではありません』

『声が大きすぎて、他の選択肢を潰してしまっている人を、一時的に議論の場から外すだけです』

「それ……拉致じゃ?」

『違います』

「でも連れていくんでしょう?」

『はい』

「本人の同意は?」

『いただきます』

「どうやって?」

『交渉します』

「拒否されたら?」

『交渉を続けます』

「何時間?」

『平均十一分です』

「短っ!」

『未来の行政は効率化されておりますので』

宮下は頭を抱えた。

「で、連れていった人はどうなるんです?」

『有給休暇です』

「……は?」

『特別有給休暇』

「何ですか、それ」

『本人の心身のリフレッシュを目的とした一時休暇です』

「戦争を煽ってる大将を?」

『はい』

「未来の高原で?」

『はい』

「畑仕事させて?」

『本人が希望すれば』

「本人が希望するわけないでしょう」

『最初は皆さんそうおっしゃいます』

ハラダは少しだけ笑った。

『三週間後には、だいたいじゃがいもの話をしています』

宮下は吹き出した。

「……なんですか、それ」

『未来でも人気のプログラムです』



第四章 非干渉の原則、そして一つだけの抜け道

翌朝。

宮下は出勤すると、上司に呼ばれた。

「宮下」

「はい」

「昨日、夜中に誰と電話してた?」

「……未来人です」

上司は黙った。

「……そうか」

「信じるんですか?」

「いや」

「ですよね」

「ただ、昨日から問い合わせが多すぎて、もう何でもいい」

上司は机の上の書類を指した。

「球体について説明できるか?」

「無理です」

「そうか」

「でも、広報担当なら知っています」

「誰だ?」

「ハラダさんです」

「何者?」

「未来人です」

上司は頭を抱えた。

「……今日は早退していいぞ」

「ありがとうございます」

「有給でな」

「はい?」

「今のは冗談だ」

その日の夜。

再びハラダから電話が来た。

『宮下さん』

「はい」

『お願いがあります』

「何です?」

『こちらの映像を見ていただけますか』

スマートフォンに一枚の画像が送られてきた。

そこには、未来の高原が映っていた。

青い空。

緑の畑。

風車。

そして、畑の真ん中で鍬を持つ男。

「……この人」

『はい』

「国防長官?」

『元、です』

「隣は?」

『隣国の元将軍です』

「仲悪かったんですよね?」

『非常に』

「何してるんです?」

『じゃがいもの植え付けについて議論しています』

宮下は笑った。

『殺し合いではありません』

「……」

『意見が合わなくても、人は隣にいられる』

「それを見せたい?」

『はい』

宮下は画像を見つめた。

妙に平和だった。

だからこそ、少しおかしかった。



第五章 大将、消える

一週間後。

世界は前代未聞のニュースに震撼した。

某大国の強硬派国防長官が、会議中に忽然と姿を消した。

最後に目撃されたとき、彼はこう叫んでいた。

「絶対に引かんぞ!」

その直後。

会議室の隅に、いつの間にか一人の男が立っていた。

スーツ姿。

笑顔。

名札。

「未来厚生局、特別休暇担当のハラダと申します」

「何者だ!」

「お疲れのようですね」

「誰が疲れている!」

「皆さま、そうおっしゃいます」

「警備兵!」

警備兵が入ってきた。

だが、なぜかハラダの隣に立った。

「こちら、特別有給休暇申請書です」

「ふざけるな!」

「申請者はご本人」

「私は申請していない!」

「署名はこちらです」

「……」

長官が紙を見た。

確かに自分の字だった。

「いつ書いた!」

「三秒前です」

「私は書いていない!」

「未来の筆記技術です」

「インチキだ!」

「その点については同意します」

「同意するな!」

ハラダはにこやかに言った。

「高原で三週間ほど、ゆっくりしていただきます」

「断る!」

「では、二週間」

「そういう問題じゃない!」

「一週間?」

「だから!」

「三日?」

「……」

長官は黙った。

ハラダは微笑んだ。

「いかがでしょう」

「……三日だけだぞ」

「ありがとうございます」

その瞬間、二人の姿が消えた。

残されたのは、

イヤホン。

飲みかけのコーヒー。

そして、

『特別有給休暇申請書』

一枚だった。

その後も同じことが続いた。

好戦的な将軍。

経済制裁合戦を煽っていた閣僚。

「今こそ叩くべきだ」と毎日叫んでいた議員。

さらには、テレビで一時間にわたって「強硬論」を語り続けていた評論家。

次々に消えた。

共通していたのは一つ。

暴力の痕跡がないこと。

そして目撃者の証言。

「なんだか、感じのいい人に案内されていました」

「嫌がっていたんですが、途中から普通に歩いていました」

「最後に『有給は消化できますか?』と聞いていました」

世界は混乱した。

しかし、奇妙な変化が起きた。

会議の空気が変わったのだ。

以前なら、

「攻撃だ!」

と叫んでいた人が、

「攻撃……という選択肢もありますが」

と言うようになった。

「報復すべきだ!」

だった人が、

「報復については……まあ、慎重に」

と言うようになった。

そして誰かが、小声で言った。

「……気をつけろよ」

「何が?」

「また有給取らされるぞ」

誰も笑わなかった。

いや。

二人ほど、笑った。

その二人を見て、周囲も少し笑った。

宮下はニュースを見ながら、思わず吹き出した。

「未来人、すげえな」



第六章 連れて行かれた先

読者にだけ、少しネタばらしをしておこう。

連れて行かれた大将たちは、殺されてもいなければ、拷問もされていなかった。

洗脳もされていない。

未来の、とある惑星。

「係争調停用居住区」

と呼ばれる、のどかな高原にいた。

広い畑。

澄んだ空。

無数の将棋盤。

そして、妙に親切な隣人たち。

元国防長官は、三日目の朝に言った。

「わし、いつまでここにおればいいんじゃ」

職員が答えた。

「三週間の予定です」

「会議に戻らねばならん」

「会議は閣下がいなくても進んでいます」

「わしがいなければ何も決まらん」

「昨日、三時間で決まりました」

「……」

隣の元将軍が笑った。

「俺の国でも同じだった」

「お前は黙れ」

「なぜ?」

「敵だからだ」

「ここでは隣人だ」

「……」

その日、二人は畑を耕した。

「この植え方は間違っている」

「貴様に農業が分かるのか」

「分からん」

「なら黙れ」

「お前も分からんだろ」

「……」

二人は顔を見合わせた。

そして、初めて笑った。

それから数日。

二人の争いは、

「じゃがいもは深く植えるべきだ」

「いや、浅くだ」

に変わった。

さらに一週間後。

「将棋をやらんか」

「負けるぞ」

「誰が?」

「お前が」

「……表に出ろ」

二人は将棋盤を挟んだ。

もちろん、殴り合いにはならなかった。

勝負が終わると、元将軍が言った。

「もう一局」

元長官は答えた。

「望むところだ」

高原の風が吹いた。

誰も傷つかなかった。

それでも、二人は激しく言い争っていた。

「そこに銀を打つのは素人だ!」

「素人で悪いか!」

「悪い!」

「じゃあ教えろ!」

「……仕方ない」

彼らにとってそれは、生まれて初めて経験する、

「殺し合いを伴わない対立」

だった。



第七章 最後通牒

球体が現れて百日目の夜。

宮下の携帯電話が鳴った。

「ハラダさん?」

『はい』

「そろそろ帰るんですか?」

『はい』

「もう?」

『予定通りです』

宮下は少し寂しくなった。

「また来るんですか?」

『必要があれば』

「できれば必要にならないでほしいですけど」

『わたくしも同感です』

二人は少し黙った。

「大将たちは?」

『元気です』

「まだ畑?」

『はい』

「帰りたがってません?」

『最初は』

「今は?」

『昨日、国防長官から申請がありました』

「何の?」

『休暇延長です』

宮下は笑った。

「……でしょうね」

『本人曰く、「じゃがいもの収穫が終わるまでは帰れない」と』

「もう立派な農家じゃないですか」

『本人は認めておりません』

宮下は空を見上げた。

銀色の球体が浮かんでいる。

最初に見たときと同じ姿だった。

ただ、もう怖くなかった。

「一つ聞いてもいいですか?」

『どうぞ』

「未来は、本当に変えられるんですか?」

少し長い沈黙があった。

『はい』

「確実に?」

『いいえ』

「……」

『だから、未来なのです』

宮下は笑った。

「なるほど」

『二百四十年後の地球が、緑豊かな星になる可能性もあります』

「はい」

『誰も住めない星になる可能性もあります』

「はい」

『どちらも、まだ決まっていません』

宮下は夜空を見た。

「それって、かなりプレッシャーですね」

『はい』

「未来人なのに、ずいぶん無責任ですね」

『未来人だからこそ、責任を押しつけることができないのです』

「……どういう意味です?」

『未来を決めるのは、未来の人間ではありません』

ハラダの声が少しだけ柔らかくなった。

『今を生きている人間です』

宮下は黙った。

『ですから、最後に一つだけお願いがあります』

「僕を連れていく?」

『いいえ』

「じゃあ何です?」

『残ってください』

「なぜ?」

『あなたは候補者ではありません』

「候補者?」

『戦争を止める力を持つ人間ではない、ということです』

「ですよね」

宮下は笑った。

「僕、望遠鏡を磨いてるだけですから」

『ですが』

ハラダは少し間を置いた。

『あなたには、戦争を止めようとしている人を笑わせる力があります』

「……それ、褒めてます?」

『未来では、かなり重要な能力です』

「笑わせるだけですよ?」

『笑いは、意見を変えることではありません』

「……」

『ただ、人を一秒だけ立ち止まらせることができます』

宮下は夜空を見上げた。

『その一秒に、人は別の選択肢を見ることがあります』

「……」

『わたくしたちが守りたいのは、その一秒です』

宮下はしばらく何も言わなかった。

やがて、

「じゃあ、僕にできることは」

『はい』

「誰かが本気で怒り出す前に、ちょっと笑わせる」

『それで十分です』

「ずいぶん地味な使命ですね」

『地味なものほど、長持ちします』

宮下は笑った。

「分かりました」

球体が、ゆっくり上昇した。

「ハラダさん」

『はい』

「次に来るときは、できれば仕事じゃなくて観光で来てください」

『承知しました』

「東京案内しますよ」

『ありがとうございます』

「ただし」

『はい?』

「有給休暇を取らせるのはなしで」

電話の向こうで、ハラダが初めて声を上げて笑った。

『努力します』

球体は夜空へ消えていった。



終章 それから

球体が去って一年。

世界は劇的に平和になったわけではない。

人間は、やはり人間だった。

小競り合いもあった。

罵り合いもあった。

政治家は相変わらず大声を出した。

テレビでは相変わらず誰かが怒鳴っていた。

SNSでは今日も誰かが誰かを叩いていた。

つまり、

それほど変わっていない。

ただ、一つだけ変わったことがある。

会議で誰かが、

「今すぐ叩くべきだ!」

と叫ぶと、

別の誰かが、

「まあ、ちょっと待とう」

と言うようになった。

以前なら、それだけだった。

けれど最近は、そのあとにもう一言つく。

「……有給、取りたくないし」

会議室に笑いが起きる。

笑ったあと。

ほんの数秒。

誰もしゃべらなくなる。

その数秒のあいだに、誰かが別の案を出す。

それが採用されることもある。

されないこともある。

でも、選択肢は残る。

宮下は今日も天文台で望遠鏡を磨いている。

ある日、小学生が尋ねた。

「ねえ、お兄さん」

「ん?」

「あのUFO、また来るかな」

宮下は窓の外を見た。

青空だった。

「さあ」

「宇宙人、怖くない?」

宮下は少し考えた。

「怖くないよ」

「なんで?」

宮下は笑った。

「宇宙人のほうが、人間より有給休暇を大切にしてるから」

「どういうこと?」

「大人になれば分かる」

小学生は首を傾げた。

そして走っていった。

宮下は一人になった。

窓の外。

どこまでも広い空。

球体は見えない。

けれど、あの声だけは覚えている。

――またいつか、必要があれば。

宮下は星空に向かって、小さく呟いた。

「できれば、もう必要にならないでほしいけどな」

少し考えてから、

「……まあ、観光なら歓迎するよ」

風が吹いた。

望遠鏡のレンズが、ほんの少しだけ揺れた。

宮下は布を持ち直した。

そして、また磨き始めた。

未来は、まだ決まっていない。

だから今日も、人類は選ぶ。

怒るか。

争うか。

黙るか。

話すか。

それとも――

一度だけ笑うか。

その選択が、二百四十年後のどこかにつながっている。

空の彼方で、

誰かがそれを見ているかもしれない。

けれど宮下は、もう気にしなかった。

望遠鏡を磨きながら、いつものように言った。

「さて。今日も仕事だ」

そして、その日の天文台には、

なぜかいつもより少しだけ、

笑い声が多かった。

(了)



Kindle



あとがき

この物語は、

「なぜUFOは現れるのに、何もしないのだろう?」

という、かなり素朴な疑問から始まりました。

SFに登場する宇宙人は、たいてい強い。

巨大な兵器を持っていたり、地球を征服しようとしたり、人類よりはるかに進んだ科学技術で私たちを圧倒したりする。

でも、もし未来の宇宙人が、

「もう勘弁してください」

という顔をしながら地球にやって来たら?

しかも、

「戦争をやめなさい」

ではなく、

「少し休んでください」

と言ったら?

そんなところから、この物語は生まれました。

この話に登場する「特別有給休暇」は、もちろん現実には存在しません。

けれど、私たちの身の回りには、ときどき「少し離れたほうがいい」と思う瞬間があります。

怒っているとき。

誰かを責めたくなったとき。

自分の正しさを証明したくなったとき。

そんなときに、一度だけ立ち止まる。

お茶を飲む。

深呼吸する。

誰かと話す。

あるいは、くだらない冗談を言ってみる。

それだけで、見えてくる選択肢が一つ増えることがあります。

この物語で未来人たちが守ろうとしていたのは、人類そのものではありません。

「人類が、自分で選ぶ余地」です。

正しい答えを未来から押しつけるのではなく、

「まだ決まっていませんよ」

と伝える。

それが、彼らにできる最大限の介入だったのだと思います。

そして宮下にできることは、もっと小さい。

誰かを説得することでもない。

世界を変えることでもない。

ただ、怒りでいっぱいになった人を、

ほんの一秒だけ笑わせること。

その一秒に、別の選択肢が生まれるかもしれない。

そんな小さな可能性を、この物語では「未来を変える力」として描いてみました。

世界は、たぶん明日も大騒ぎです。

誰かが怒り、

誰かが叫び、

誰かが「今すぐやれ」と言うでしょう。

そんなとき、

「まあまあ」

と笑える人が一人くらいいてもいい。

もしかすると、その人のおかげで、

誰かが一秒だけ立ち止まるかもしれません。

そして、その一秒が、

未来を少しだけ変えるかもしれません。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

どうか皆さまも、

必要以上に頑張りすぎず、

必要なときにはちゃんと休み、

そして、ときどき笑ってください。

未来の誰かが、

「その有給休暇、ちゃんと取ってくれて助かりました」

と言っているかもしれません。