順不動
―カミさんより長生きしない方法―



まえがき
「五十を越したら順不動」――昔から、人の生き死にや人生の順番を表すそんな言葉があります。若い者も老いた者も、命の順番ばかりは神様の胸三寸、あるいは運命のいたずらと言わんばかりの慣用表現です。
もしも、その「命の順番」や「人の願い」が、神様ではなく宇宙の役所の事務システムによって一元管理されていたとしたら。そして、ふと漏らした軽口が正式な申請として「受理」されてしまったとしたら――。
本作は、還暦を目前にしたどこにでもいる男・宗吉と、その妻・千代、そして地方の神社に左遷された宇宙役所の中間管理職が繰り広げる、少し不思議で温かいSF物語です。夫婦の愛おしい距離感と、人生の「順番」をめぐる騒動を、どうぞ最後までお楽しみください。




序章 賽銭箱の前で
還暦を目前にして、宗吉は初めて誰かの健康を本気で願うようになった。理由は単純だった。三か月前、娘の由美に子供が生まれたのだ。名前は陽向。よく笑う子だ。
しかし今日、宗吉が三段しかない石段をわざわざ登っているのは、孫のためだけではない。
「健康、安全、安定。それだけでいいんだ」
賽銭箱の前で、もう二十年近く唱え続けている三つの言葉。今日はそこに、もうひとつだけ付け足すことにした。
「あと……カミさんより、長生きしませんように」
笑い話のつもりだった。先に逝かれて、あたふたと一人で洗濯機の使い方を覚える自分の姿が、あまりに容易く想像できてしまったからだ。
賽銭を投げ入れた瞬間、賽銭箱の底が、ごとんと聞いたことのない音を立てた。まるで何かの機械が「受理」のボタンを押したような、やけに事務的な音だった。



1章 空に浮かんだ数字
翌朝、村中が同じものを見て、同じように叫んだ。
空というより、視界のすぐ端、ちょうど人の頭の上あたりに、うっすら光る数字が浮かんでいたのだ。米屋のフミさんの頭上には「3」。電気屋のカズさんには「47」。宗吉が恐る恐る鏡を覗き込むと、自分の頭上にも確かにそれはあった。
「2」
背筋を冷たいものと生暖かいものが同時に走った。これは死ぬ順番か、という恐怖と、ならば先に逝ける、という口には出せない安堵だった。
「あんた、額に2って浮いてるけど、それ何?」
台所から出てきた妻の千代が、寝ぼけ眼のままそう聞いた。千代の頭上には「312」という数字が浮かんでいる。千代はまだずっと遠いところにいる。それだけで、宗吉は少しだけ胸が軽くなるのを感じた。
「いや……何でもない。気にするな」
村役場の防災無線が、朝から要領を得ないアナウンスを繰り返していた。「皆様の頭上の数字につきまして、現在、村では原因を調査中であります。むやみに他人の数字を覗き込まないようお願いします」
覗くなと言われて覗かない村人など、この村には一人もいなかった。



2章 古い願いが叶いはじめる
数字がただの飾りでないと村中が知ったのは、その日の昼過ぎのことだった。
米屋のフミさんの家の前に、覚えのない赤いスポーツカーが一台、忽然と停まっていた。フミさんは腰を抜かしながらも、二十三年前、まだ独身だった頃に神社で「いつか赤いオープンカーに乗りたい」と願ったことを、震える声で思い出した。
「番号が3の人から順番に、願いが叶っていくらしいぞ」
噂は瞬く間に広がった。何十年も前に、この神社の賽銭箱に投げ込まれた小さな願いごとの数々が、いま律儀に順番通りに処理されているのだ。
郵便局長の息子は、中学生の頃に書いた「テストで居眠りしても怒られませんように」が叶い、その日だけ担任がまるごと記憶喪失になった。担任は定年退職して十五年経つのに、律儀に村役場まで「私は誰でしょう」と聞きに来た。
電気屋のカズさんは、若い頃「モテたい」と願った代償として、飼い猫にだけ異様にモテるようになった。猫は迷惑そうに逃げ回り、カズさんは猫に振られ続けた。
宗吉だけは笑えなかった。自分の番は、2番目だった。
農協の常務は、高校生の頃「授業をサボってもバレませんように」と願っていたらしく、その日一日だけ、なぜか役場の会議室から忽然と姿を消し、後で「学校の裏の土手にいた」と証言して、誰よりも本人が青ざめていた。
郵便局長本人に至っては、若い頃「毎日うまい飯が食いたい」と願ったせいで、その日から彼の茶碗の白飯だけが異様に美味くなり、家族全員から本気で恨まれるという、地味に一番厄介な珍事が起きた。
「宇宙って、そんなに融通利かないのかね」
「融通利かないっていうか……人間の『ニュアンス』ってやつを、まるっと無視してくるんだよ」
千代がそう言いながら、宗吉の頭上の「2」をじろりと見た。
「あんたも、変な願い方したから、こんなことになってんじゃないの」
「いや、あれは、その、言葉の綾で……」
「綾も何も、宇宙は言葉の綾を知らないんでしょうが」
滑稽で、少しずつ不穏で、そして誰も彼もが、次は自分の番かと頭上の数字をちらちら見上げるようになった。



3章 宮司の正体
村人たちが総出で社務所に押しかけたのは、その日の夕方だった。宮司は、先代から数えても村の誰も素性を深く知らない、やけに姿勢のいい老人だった。障子の向こうで一言だけ答えた。
「今は、まだお話しできる段階ではありません」
その言い草が、かえって村人たちの好奇心に火をつけた。
「隠すってことは、絶対なんかあるぞ」
「宮司さん、実は宇宙人なんじゃないか」
「馬鹿言え、あの人はうちの息子の七五三のとき、豚汁おかわりしてたぞ」
結局その夜のうちに、フミさんを筆頭とする村の女性陣が、懐中電灯片手に本殿の床下へ潜り込むという暴挙に出た。宗吉と千代も、成り行きで、というよりフミさんに腕を引かれて加わることになった。
賽銭箱の真下、苔むした床板を剥がすと、そこには古びた木箱に紛れて、明らかにこの村の技術水準を超えた、金属質の小さな端末が埋め込まれていた。表面には、うっすら文字が浮かんでいる。
「……なんて書いてある?」
「えっと……『願望処理 残り 百二十八件』だって」
その数字を見た瞬間、境内にいた村人全員が、無言で自分の頭上を見上げた。
翌朝、床下の端末を握りしめたフミさんたちに問い詰められ、宮司はとうとう観念したように深いため息をついた。それは、村の顔役というより、月曜の朝を迎えたどこかの会社員のようなため息だった。
「宇宙人、というのとは、少し違うのですがね」
宮司は懐から、村人が見たこともない形の身分証を取り出した。そこには「トワ・ダマ第七出張所 所長代理」と印字されている。
「私は、銀河公共願望処理センターという役所の、出張所職員です。この神社は、六十年前の事務手続きの誤りで、支店として二重登録されておりましてな」
「宇宙人かどうかより、まず聞きたいんですけど」
フミさんが端末を突き出しながら詰め寄った。
「残り128件って何なんですか。まだそんなに願いが溜まってるんですか」
「はい。何しろ六十年分、休眠していたものですから」
宮司、もはや所長代理と呼ぶべきかは、心底うんざりした顔で肩を落とした。
「正直に申し上げますと、私もこの出張所の担当になって四十年、一度もまともな異動願いが通ったことがありません。故郷の恒星系に帰りたいと、これまで何度、上に掛け合ったことか」
村人たちは、思わず顔を見合わせた。目の前にいるのは、脅威の異星人でも、神秘の神様でもなく、ただの報われない中間管理職だったのである。
「配達ミスです。本来は別の恒星系に届くはずだった願望処理装置の在庫が、荷札の誤植で、この賽銭箱に誤配されました。長らく休眠状態でしたが、先日、規定数を超える『強い願い』が投函されたことで、システムが再起動してしまったのです」
その「強い願い」が、宗吉の願いであることは、誰に言われずとも本人が一番よくわかっていた。
「つまり……あの、2番目に叶う願いというのは」
「はい。あなたのものです。『妻より長生きしない』。これは処理上、あなたの寿命を、奥様の寿命より一日短く再設定する処理として実行されます。実行予定は、明日の正午」
社務所が、しんと静まりかえった。



4章 撤回できない願い
宗吉は膝から崩れ落ちそうになった。冗談のつもりだった。ただの、夫婦漫才のようなぼやきだった。それがまさか、宇宙のどこかの窓口で正式受理されているとは。
「取り消してくれ。あれは本気じゃなかった」
「規定により、受理済みの願望は本人の同意なしには撤回できません。ただし――」
トワ・ダマ所長代理は、老眼鏡の奥の目を、心なしか少し柔らかくした。
「より強い、新しい願いによる上書きは可能です。ただし、上書きできるのは『実行カウントダウンが始まる最後の一分間、そして賽銭箱の前で、心から発せられた本心の言葉』に限られます」
その日から、宗吉は人が変わったようになった。頭上の「2」を気にして、階段を下りるときは手すりを両手で握り、味噌汁をすするときすら「これで喉を詰まらせたら、規定より早く執行されてしまうのでは」と本気で怯えた。
「あんた、さっきから何、味噌汁と睨めっこしてんの」
「いや……この一口が、最後の一口だったらどうしようかと」
「大げさね。まだ処理まで一日あるでしょう」
「一日って言ったって、24時間だぞ。人間、24時間あれば大抵のことが起きる」
「じゃあ黙って味噌汁飲んだら。冷めるでしょうが」
千代はまるで動じていなかった。むしろ、そわそわする宗吉を見て、どこか楽しんでいるようにさえ見えた。
村人たちが、宗吉を取り囲んだ。米屋のフミさんも、電気屋のカズさんも、赤いスポーツカーやモテすぎる猫の余波でまだ興奮冷めやらぬ様子だったが、それでも真剣な顔で宗吉を見た。
「宗吉さん、本当に願いたいことを、もう一回、ちゃんと言いなさいよ」
フミさんの一言に、宗吉は言葉に詰まった。「長生きしたい」だろうか。「妻を守りたい」だろうか。どれも、なんだか違う気がした。
その夜、宗吉は一睡もできないまま、娘から送られてきた孫・陽向の動画を、何度も何度も見返した。生まれたばかりの、しわくちゃで、まだ何もわかっていないはずのその子が、なぜか画面の中で笑っていた。
「陽向にはさ、じいちゃんとばあちゃんが、順番なんか気にせず、ずっと笑ってた、って思ってほしいんだよな」
「今、思いっきり気にしてるじゃない」
「……うるさいな」



5章 正午の願い
翌日の正午、神社の境内には、村中の人間が集まっていた。まるで見世物のようで、実際そうだったのかもしれない。宗吉の頭上の「2」が、じりじりと点滅を始めている。
「実行まで、あと一分」
トワ・ダマ所長代理が、腕時計のような、しかし文字盤が渦を巻いている謎の機械を確認しながら告げた。
宗吉は賽銭箱の前に立った。妻の千代が、隣で不安げに彼の袖を握っている。何か気の利いたことを言わなければ、と思った。長生きの誓いとか、感謝の言葉とか、村中が納得するような立派な台詞を。
だが口から出たのは、そのどれでもなかった。
「――先に、行くなよ」
千代が顔を上げた。
「……私より?」
宗吉は笑った。少し情けなく、それでもはっきりと。
「一緒に、行こう」
賽銭箱が、ごとんと音を立てた。
「今の一言を、新規の願いとして受理してよろしいですか」
「頼む」
トワ・ダマ所長代理が、渦巻く文字盤を指先でくるりと撫でると、頭上の数字たちが、村中いっせいに、ふっと消えた。
「処理完了しました。……なお、これはあくまで個人の見解ですが」
所長代理は、めずらしく人間くさい、疲れたような笑みを浮かべた。
「そもそも、生き物の順番などというものは、我々のような役所仕事の都合で決めるべきものではなかったのかもしれません。地球の古い言葉に、命の順番というものは『順不同』、いや、『五十を越したら順不動』とでも言うべきでしょうか。なかなか、よくできた考え方だと思いますよ」



6章 陽向の産声、それから
装置は、その日のうちに神社から静かに姿を消した。赤いスポーツカーも、モテすぎる猫も、なぜか誰も気に留めなくなった。村の防災無線は、いつも通りの、ゴミの分別についてのアナウンスに戻った。
宗吉と千代は、それから毎週末、娘夫婦の家に通っては、陽向の顔を見に行くようになった。特に何をするでもない。ただ、笑っている赤ん坊を、二人で並んで眺めているだけだ。
「なあ、千代」
「何よ」
「順番のことなんだけどな。もう、どっちが先でもいいわ」
「あら、薄情ね」
「違う。……どっちが先でも、ちゃんと今日を、笑って生きるって決めたんだ」
千代は少し呆れたように笑って、それから宗吉の手を、いつもよりほんの少しだけ強く握った。
神社の賽銭箱は、今日もいつも通り、静かにそこにある。宗吉は相変わらず、月に一度は石段を登り、三つの願いを唱える。
健康。安全。安定。
ただそれだけを、ささやかに願いながら。




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あとがき
長年連れ添った夫婦の「どちらが先に逝くか」という問題は、現実では少し切なく、そして誰もが避けては通れないテーマです。「一人残されたくない」「相手に寂しい思いをさせたくない」という思いは、どちらも優しさゆえのエゴなのかもしれません。
本作では、そんな重くなりがちなテーマを、宇宙役所のミスという少しお間抜けなSF要素と、どこか愛くるしい村人たちの日常を通じて、軽やかに、そして温かく描くことを目指しました。
「五十を越したら順不動」――未来の心配や寿命の順番ばかりに囚われず、目の前にある「今日」という一日を大切な人と笑って過ごすこと。宗吉と千代の姿を通して、そんな小さな温もりが読者の皆様に届いていれば幸いです。