言霊引っ越し便
まえがき
世の中には、一度口から飛び出したら二度と取り戻せないものがたくさんあります。
溢したお茶、送信してしまったメッセージ、そして――「言葉」です。
では、私たちが日々つぶやき、叫び、あるいは心の中で呟いて飲み込んだ無数の言葉たちは、空気に溶けて消えたあと、一体どこへ行くのでしょうか。
優しい言葉はふわふわと漂い、冷たい言葉はチクチクと角を立て、そして誰にも回収されなかった悪態や溜め息は、人知れずどこかの倉庫に積もっているのかもしれません。
このお話は、そんな「言葉の行き場」を片付ける、少し変わった引っ越し屋さんと、口の悪さでちょっと人生をこじらせた一人の男の物語です。
どうぞ、肩の力を抜いて、温かいお茶でも飲みながらお付き合いください。
あ、読み終わったあとに「あと五分だけ寝たい」と思っても、それは決してあなたのせいではありません。
第一話 求人票は宙に浮いていた
三軒茶屋の商店街に、鈴木ハジメが目を疑うような貼り紙があった。
「言霊引っ越し便、パート募集。経験不問。ただし口は災いの元、という言葉の意味が分かる方。時給、応相談(前世の徳による)」
貼り紙は電柱の、ちょうど目の高さより十センチほど高いところに、画鋲もなしに浮いていた。風もないのに端がぱたぱたと揺れている。
ハジメは三十四歳、独身、便利屋。仕事といえば蛍光灯の交換と犬の散歩代行くらいで、この半年、口座残高は減る一方だった。
減ったのは口座残高だけではない。ハジメの周りから、人も少しずつ減っていた。依頼主に軽口のつもりで嫌味を言い、二度と呼ばれなくなったことは一度や二度ではない。「別に、間違ったことは言ってない」が口癖だったが、間違っていなくても、人は離れていくものらしい。三年前に別れた妻にも、似たようなことを繰り返した挙句、愛想を尽かされた。口が悪い――それが、履歴書には書けない、ハジメの一番の特技だった。
だから、浮いている貼り紙にも「まあ、ときどきこういうこともあるか」という程度の感想しか持たなかった。人は追い詰められると、奇妙なものへの警戒心を失う。
電話番号の代わりに書かれていたのは、住所ではなく「今、目を閉じて『はい』と言ってください」という指示だった。
ハジメは言った。「はい」
次の瞬間、彼は三軒茶屋ではない場所に立っていた。
第二話 ネギオという上司
そこは薄暗い、古い八百屋のような店だった。木箱が積まれ、土の匂いがする。だが天井を見上げると、そこには空はなく、代わりに無数の小さな光る粒が、まるで金魚のようにゆらゆらと泳いでいた。
「いらっしゃい。面接ですね」
声のした方を見ると、白いひげのような根を生やした、ネギに似た背丈一メートルほどの生き物が、木箱の上に行儀よく座っていた。
「ネギオと申します。この店の店長です。正確には、私はネギではなく、太古の昔に言葉を失った植物の末裔でしてね。ネギに擬態しているだけです。似てるでしょう」
「似てますね……というか、しゃべる野菜に驚くべきなんでしょうけど、今週すでに喋る犬とすれ違ったので、あんまり驚けないんです」
「それは幻覚か疲労だと思いますよ。ともあれ」ネギオは細い葉先で天井を指した。「あの光る粒、あれが言霊です。人間が口にした言葉は、消えるわけじゃない。行き場を失って、あそこに浮かんでいるんです」
ハジメは天井を見上げた。よく見ると、粒にはそれぞれ色と形があった。桃色でふわふわしたもの、灰色で角ばったもの、時折、黒く尖ったものが不機嫌そうに他の粒を突いて回っている。
「優しい言葉は丸くなる。冷たい言葉は尖る。単純な仕組みです」ネギオは言った。「そして、この店の仕事は——迷子になった言霊を、本来あるべき場所へ届けること。つまり、引っ越し屋です」
「植物が、言葉を失ったって、どういうことですか」
「大昔、植物にも言葉があったんですよ。風にそよぐ葉、根を伝う震え、みんな会話でした。それを人間たちが、うっかり全部奪ってしまった。だから今、植物は喋れない代わりに、あなた方の言葉をとてもよく聞いています。優しく話しかけられた鉢植えが元気になるのは、気のせいじゃない。むしろ、あれが本来の会話の名残なんです」
ハジメは黙って頷いた。実家の母が、庭のトマトに毎朝「おはよう、今日も暑いね」と話しかけていたのを思い出した。あのトマトは、近所でも評判なほど甘かった。
「で、時給は前世の徳による、と貼り紙にありましたが」
「冗談です。日給八千円プラス、迷子の言霊一匹につき歩合。まずは倉庫を見てもらいましょうか」
ネギオが店の奥の扉を、細い葉で押し開けた。
第三話 呪い玉
扉の向こうは、倉庫というより廃棄物処理場だった。
うずたかく積もった黒い塊。近づくと、それは無数の小さな尖った粒——黒い言霊——が、団子のように寄り集まったものだと分かった。表面はぬらぬらと脈打ち、時折「チッ」「はあ?」「マジ無理」というくぐもった声が漏れる。
「これは、俗に言う『呪い玉』です」ネギオの声が心なしか小さくなった。「毎日ちょっとずつ吐き捨てられる、悪態、愚痴、陰口。一つ一つは小さくて害もない。でも、誰も回収に来ないから、何十年もここに積もり続けてる」
塊の頂上を見ると、それは倉庫の天井を突き破りそうなほど巨大だった。ビルほどの高さがある。
近づくと、微かに、コンビニの前にたむろする人々のような匂いがした。「これ、なんの匂いですか」とハジメが聞くと、ネギオは真顔で「舌打ちと、深いため息の匂いです」と答えた。匂いにまで説得力があるのが、逆に恐ろしかった。
「まさか、あれを引っ越しさせるんですか、僕たちで」
「いいえ。あれは放っておくと、月に一度、人類がもっとも悪態をつく日——満月の夜、選挙結果の翌朝、月曜の朝の満員電車あたりが有力候補ですが——に、自力で現世に戻ろうとします。戻ってきたらどうなるか、分かりますか」
「分かりません」
「言霊はね、鈴木さん。行き場を失うと、最終的に発した本人のところに帰ってくるんです。あの塊が丸ごと現世に戻れば、この四十年間、日本中の人間が吐いた悪態が、一斉に、当人たちのところへ十倍返しで襲いかかります」
ハジメは想像した。駅のホームで舌打ちしていたサラリーマンが、突然自分の舌打ちの津波に飲まれてうずくまる。SNSで誰かを叩いていた高校生が、自分の暴言に埋もれて動けなくなる。近所の犬に「うるさい」と怒鳴っていた隠居老人が、玄関先で膝から崩れ落ちる。
「地獄絵図じゃないですか」
「はい。しかも見た目がまぬけなんです、これがまた」ネギオはため息をついた。「先月、試しに一部を漏らしてしまいましてね。町内会長さんが、ご自身の『あの嫁は気に入らん』発言の呪い玉に追いかけられて、パジャマ姿で公園を三周する羽目になりました。幸い、誰も本気にしませんでしたが」
想像すると笑えてしまい、ハジメは慌てて口元を押さえた。
「今夜が、その『月に一度』の夜です」ネギオは静かに言った。「手伝ってもらえますか」
第四話 喋る亀、モグ
倉庫の隅、木箱の陰から、のそりと亀が這い出てきた。甲羅に「モグ」と油性ペンで書いてある。
「おい、新入り。遅いぞ」
亀が喋った。ハジメは今度こそ驚いた。
「モグは、小学生の飼い主から一度も悪い言葉をかけられたことがない亀です」ネギオが説明した。「十年間、毎日『おはよう、モグ』『今日も可愛いね』しか言われていない。優しい言霊を浴び続けた生き物は、まれに、自分の言葉を持つようになります」
「うるせえぞネギオ、恥ずかしいから紹介すんな」
「口は悪いですが、根は優しいですよ」
「うるせえっつってんだろ」
モグはそう言いながらも、のそのそとハジメの足元まで来て、丸い目でじっと見上げた。
「なあ新入り。あの黒い団子、どうやって片付けるか知ってるか」
「知りません」
「言葉でしか、崩せねえんだよ」モグは甲羅を軽く揺すった。「あれは悪意でできてる。悪意には悪意をぶつけても、育つだけだ。武器も炎も効かねえ。効くのは——本気の、良い言葉だけだ」
「本気で、あれを褒めろって言うんですか。あの、悪臭を放つ黒い塊を」
「褒めるでも、詫びるでも、いい。要は本気かどうかだ」モグは前足で床をとんとんと叩いた。「本気の言葉は、噓の言葉より重い。重い言葉は、軽い悪意の粒をひとつずつ、ぽろぽろ剥がしていく」
ネギオが付け加えた。「植物が花を咲かせるのと同じ理屈です。褒め言葉、感謝の言葉——本気であれば、相手が黒い塊であっても、必ず何かが変わります」
ハジメは自分の手のひらを見た。便利屋を六年やって、感謝されたことより、舌打ちされたことの方が多かった気がする。人に本気で優しい言葉をかけたのは、いつが最後だっただろう。
「時給八千円で、そこまでやるんですか、僕」
「歩合、忘れないでくださいね」ネギオがにっこりした(ネギに表情筋があるのかは謎だった)。
モグがじろりとハジメを見上げた。「新入り、他人事みたいな顔してるけど、お前も無関係じゃねえぞ」
「なんでですか」
「さっきから軽口ばっかり叩いてるだろ、お前。皮肉とか、嫌味とか。ああいうのも、ちりも積もればあの団子の材料だ。お前の言葉も、あの中のどこかに紛れ込んでるかもしれねえってことだよ」
ハジメは何も言い返せなかった。図星というのは、こんなにも静かに刺さるものかと思った。
第五話 満月の夜、団子と対話する
夜十一時。倉庫の天井が音もなく開き、満月の光が差し込んだ。呪い玉が、ぶるりと震えた。
「来るぞ」モグが低く唸った。
黒い塊がゆっくりと形を変え始めた。丸かった団子が、人の顔のような凹凸を作り、無数の口——数えきれないほどの、悪態を吐いた口の記憶——が、いっせいに開いた。
「うるせえ」「使えねえな」「消えろ」「お前のせいだ」
無数の声が重なり合って、地響きのように倉庫を揺らした。ハジメは思わず後ずさった。
「逃げるな、新入り!」モグが叫んだ。「言え! なんでもいいから、本気の言葉を言え!」
ハジメは足がすくんだ。何を言えばいいのか分からない。褒めろと言われても、目の前にあるのは巨大な悪意の塊だ。かわいいところなど、どこにも見当たらない。
「なんでもいいから叫んでみろ! 褒めろ! ありがたがれ!」モグにせかされ、ハジメはとにかく口を動かした。
「あ、ありがとう! 助かった! ……愛してる!」
「おい新入り、それじゃ結婚式のスピーチだ!」モグが即座に突っ込んだ。「もっと言葉を変えてみろ!」
ハジメは慌てて言い直した。「夢は、叶う! 明日はきっと、良い日になる!」
「今度は自己啓発セミナーだ! お前、言葉の中身がスカスカなんだよ!」
「じゃあ何を言えばいいんですか!」
「具体的に言え、具体的に! 誰に、何を、なんでだよ!」
「具体的にって言われても——」
「誰に何を感謝してんのか、自分で分かってねえだろ、それ! テンプレの感謝を投げてるだけじゃ、あいつには効かねえ!」
言われてみればその通りだった。塊は一瞬ひるんだものの、すぐにまた勢いを取り戻し、口という口から「薄っぺらい」「嘘つけ」という野次が飛んできた。ハジメは自分の言葉のいい加減さを、よりによって呪いの塊本人に見抜かれるという、なんとも情けない状況に立たされた。
そのとき、ふと思い出した。
三年前に別れた妻に、最後に投げつけた言葉。「お前と暮らして、時間を無駄にした」。あの言葉は今、この塊のどこかに紛れ込んでいるかもしれない。自分が吐いた黒い粒が、この巨大な塊の、ほんの一部を作っているかもしれない。
ハジメは大きく息を吸った。
「悪かった!」
塊の動きが、一瞬止まった。
「あの時、本気でそう思ってなかった。ただ、悔しかっただけだ。本当は——一緒にいてくれて、助かってた。ありがとうって、本当は言いたかった」
黒い塊の表面から、ぱらぱらと粒がこぼれ落ちた。落ちた粒は地面に触れる前に、淡い桃色に変わり、小さな光になって消えていった。
「よし、それだ! さっきのスピーチよりよっぽどいい!」モグが叫んだ。
ネギオも葉を大きく広げ、塊に向かって語りかけた。「あなたたちは、誰かが本気で悔しかった時の言葉です。悔しさの裏には、たいてい、大事にしたかった何かがある。私たちは知っています」
塊の口という口が、次第に閉じていった。悪態の代わりに、くぐもった、泣き声のようなものが漏れ始めた。
ハジメは続けた。今度は、思いつく限りの、誰かへの具体的な感謝を口にした。母のトマトへ、モグの飼い主の女の子へ、名前も知らないすれ違った人たちへ、そして自分自身へ。「今まで、よく頑張ったな、俺」。
塊はどんどん小さくなり、最後には、掌に乗るくらいの、小さな種のような塊になった。それは黒くも桃色でもない、透明な、澄んだ色をしていた。
三人(一人と一匹と一本)は、しばらく無言でその種を見つめた。倉庫にはようやく静けさが戻り、満月の光だけが柔らかく差し込んでいた。
――と、そのとき。
種の脇に、粒がひとつだけ、ぽつんと残っているのにハジメが気づいた。灰色の、なんとも締まりのない、丸まった粒だった。
「ネギオさん、これ、消え忘れてません?」
ネギオがその粒に顔(がどこかは不明だが、たぶん顔)を近づけた。粒は少し恥ずかしそうに震えると、小さな声を漏らした。
「……あと五分だけ寝たい」
三人は同時に黙った。
「……誰だよ、これ言ったの」モグが低く唸った。
「日本中の誰か、としか言えません」ネギオが真顔で答えた。「ただ、これに関しては、悪意も何もない、ただの本音ですね。回収の必要はなさそうです」
「片付けなくていいんですか、こんな緊張感のない言霊」
「むしろ、これがあるから人間は次の日も頑張れるんだと思いますよ」
灰色の粒は、誰にも回収されないまま、天井の光る粒の群れの中に、のんびりと泳いで戻っていった。張り詰めていた空気が、その瞬間、盛大に緩んだ。
第六話 種と、次の求人
「見事です」ネギオが小さな種をそっと拾い上げた。「これは、もう呪いではありません。ただの、たくさんの本音です」
「これ、どうするんですか」
「土に還します。植物にも言葉があった頃の話をしたでしょう。この種を蒔けば、来年の春、どこかで綺麗な花が咲きます。誰にも気づかれずに」
翌朝、三軒茶屋の商店街の隅、ひび割れたアスファルトの隙間に、誰も植えた覚えのない小さな双葉が芽吹いていた。通りかかった老婦人が「あら、こんなところに」と、思わず微笑んで水をやった。
ハジメは倉庫の前で、モグと並んで座っていた。
「なあ新入り。来月もまた満月は来るぞ」
「知ってます」ハジメはため息をつきながらも、少し笑った。「でも、今回みたいに大変なのは、たぶんもう起きないですよね」
「起きるさ、絶対」モグは即答した。「人間、毎日どこかで誰かに嫌なこと言ってるからな」
「そうだ、正式に契約を結びましょうか」ネギオが、艶々した一枚の葉を差し出した。「判子は、ヘタのところで押してください」
「葉っぱが契約書なんですか」
「土に還ればいいので、紙より合理的です。あと、印紙税もかかりません」
「それ、たぶん脱税では」
ネギオが電柱に、新しい貼り紙をふわりと浮かべた。
「言霊引っ越し便、正社員登用あり。経験者優遇。ただし、口から出す前に、笑顔で。できれば」
貼り紙の端が、風もないのに、少しだけ嬉しそうに揺れていた。
―― 了 ――
Kindle
あとがき
「言霊(ことだま)」という概念は昔からありますが、もしそれが目に見える物理的な物体だったら……と考えたのが、この物語の始まりでした。
私たちは毎日、たくさんの言葉を使って生きています。感謝や愛の言葉と同じくらい、不満や毒づき、情けない本音も吐き出します。それらをすべて「綺麗ごと」で上書きするのは難しいけれど、ほんの少しの「本気」を込めるだけで、言葉は誰かを傷つける刃から、誰かを救う光に変わるのではないか——そんな思いを、喋るネギと頑固な亀に託して描いてみました。
作中にも登場した「あと五分だけ寝たい」という言霊のように、完璧じゃない人間たちの不器用な本音を、少しだけ愛おしく感じていただけたなら幸いです。
今日、あなたが口にする言葉が、どこかで小さな綺麗な花を咲かせますように。

