半隠居SOS
――パフ、二度目の散歩――
まえがき
世の中は、ずいぶんと速いスピードで便利になっていきます。
新しいビルが建ち、古い看板が消え、昨日までの風景がいつの間にか思い出に変わっていく。
ついていくだけで少し息が切れてしまうような現代ですが、だからといって、無理に最新の波に乗る必要もないのかもしれません。
本作の主人公・徳蔵は、六十八歳の「半隠居」です。
完全に世間から降りたわけではなく、半分だけ足を突っ込んだまま、今日も縁側で茶をすすり、愛犬(の形をした何か)と散歩に出かけます。
歳を取るのも、街が変わるのも止めることはできません。
けれど、変わっていく時代を前に「やれやれ」と苦笑いしながら歩く時間は、案外悪くないものです。
このお話は、少しおかしな宇宙人と、型落ちのロボット犬、そして人生の半分を隠居したおじいさんたちの、ちいさな抵抗の記録です。
お茶でも飲みながら、肩の力を抜いてお付き合いいただければ幸いです。
序章 広場が老人ホームになった日
徳蔵、六十八歳。
自称「半隠居」。
完全な隠居ではない。
朝は七時に起きる。
新聞を読む。
茶を飲む。
近所を散歩する。
昼寝をする。
たまに頼まれれば、昔の仕事仲間の手伝いをする。
つまり、ほぼ隠居である。
「半」というところだけが、徳蔵の最後のプライドだった。
その朝も徳蔵は、縁側で茶をすすっていた。
目の前には、つい先週まで広場があった。
子どもがサッカーをしていた場所だ。
その前は駐車場だった。
その前は空き地。
さらにその前は、徳蔵が子どものころ、紙飛行機を飛ばしていた。
ところが――。
「……なんじゃ、これ」
広場がなくなっていた。
代わりに巨大な建物が建っている。
看板には、
特別養護老人ホーム ひかりの杜
と書いてある。
「カミさん」
「なんね」
「昨日まで、ここ広場だったよな」
「そうだったね」
「今日、老人ホームになっとる」
「そうね」
「工事、何日だった?」
よし江は洗濯物を畳みながら答えた。
「四日」
「四日?」
「四日」
「鉄骨は?」
「知らん」
「基礎工事は?」
「知らん」
「地鎮祭は?」
「知らん」
「入居者は?」
「もう歩いとる」
徳蔵は湯呑みを置いた。
「おかしいだろ!」
すると老人ホームの前を、妙に姿勢のいい男が歩いていった。
日焼けしていない。
歯が白い。
そして、歩く速度が異様に速い。
「カミさん」
「今度は何」
「あいつ、歩いてるんじゃない」
「じゃあ何してるの」
「地面を測っとる」
「測量士でしょ」
「違う」
「何が」
「歯が三十六本ある」
よし江が振り返った。
「……あんた、何本あるの」
「三十二」
「じゃあ負けてるね」
「そういう問題じゃない」
男の名刺には、
株式会社ミライ・エステート
地球第七支店
と書かれていた。
徳蔵は眉をひそめた。
「地球第七支店……」
「何か問題?」
「第六支店までは、どこにあるんだ」
「知らん」
「宇宙だろ」
「なんで?」
「普通、不動産会社が地球第七支店なんて名乗るか」
よし江は少し考えて、
「最近の不動産屋は何でもありだからねえ」
と言った。
徳蔵は、この時点でかなり嫌な予感がしていた。
そして、その予感は当たった。
しかも、ものすごく当たった。
第一章 謎の測量士
「ご主人、少々よろしいでしょうか」
例の男が縁側まで来た。
名刺を差し出す。
「ゾロリ・T・スガシマと申します」
「ゾロリ?」
「はい」
「本名?」
「本名です」
「親、何考えてたんだ」
「私も幼少期から疑問でした」
ゾロリはにっこり笑った。
歯が三十六本。
徳蔵は数え直した。
やっぱり三十六本。
「このあたり一帯を、近々『昭和ノスタルジー・リゾート』として再開発する予定でございます」
「昭和ノスタルジー?」
「はい」
「何に使う」
「宇宙観光です」
「……は?」
ゾロリはパンフレットを開いた。
そこには、シャッター商店街、古い公園、錆びた自転車、取り壊し寸前の木造家屋などの写真が並んでいる。
「地球外のお客様に大人気なのです」
「こんなもんが?」
「特にこの『営業していない店』」
ゾロリがシャッター商店街を指差した。
「宇宙では非常に高評価です」
「なんで」
「開いているのに入れない店より、最初から開いていない店のほうが、郷愁を刺激するからです」
「意味が分からん」
「こちらの公園も人気です」
「ただの公園だぞ」
「遊具が撤去されている」
「それが?」
「『何かがなくなった』という感情を宇宙人は好みます」
徳蔵は絶句した。
「お前ら、何でも商売にするな」
「ありがとうございます」
「褒めてない」
ゾロリは笑った。
「なお、お客様の記憶そのものを買い取るわけではありません」
「じゃあ何を買う」
「風景です」
「風景?」
「お客様が見ていた風景を、そっくり保存して宇宙の高級リゾートで再現するのです」
徳蔵の顔が険しくなる。
「俺たちの町を、金持ち宇宙人の観光地にするのか」
「はい」
「いくらだ」
「ゼロ円です」
「……」
「もう皆様、不便なものを手放したがっていらっしゃいますから」
徳蔵は黙った。
そこだけは、否定できなかった。
第二章 パフ、帰還する
その夜。
物置から、
ガチャ。
という音がした。
徳蔵は懐中電灯を持って立ち上がった。
「猫か?」
ガチャ。
「狸か?」
ガチャガチャ。
「泥棒か?」
すると物置の扉が、
ウィーン。
と開いた。
そこにいたのは――。
犬だった。
柴犬の雑種。
茶色い毛。
垂れた耳。
そして――赤く光る目。
徳蔵は固まった。
「……パフ?」
四年前に死んだ愛犬。
間違いなく、パフだった。
いや。
パフに似た何かだった。
犬が口を開いた。
「飼い主様、お久しぶりです」
徳蔵は三秒黙った。
「……喋った」
「はい」
「犬が?」
「はい」
「なんで?」
「私も知りません」
「お前、パフか?」
「正確にはパフ二号です」
「二号?」
「旧型機です」
「一号は?」
「初代パフは四年前に亡くなっています」
「知っとるわ!」
「申し訳ありません」
「いや、そこじゃない!」
パフ二号は頭を下げた。
「ミライ・エステート社の試作品です。近隣の犬の鳴き声、歩行パターン、飼い主との交流履歴などを統合した結果、最も『懐かしい犬』として選ばれた個体が私です」
徳蔵は目を潤ませた。
「パフ……」
機械犬が尻尾を振る。
「ただし」
「なんだ」
「バッテリー残量は、あと三日です」
「そこは型落ちすんな!」
「申し訳ありません」
「充電器は?」
「ありません」
「会社は?」
「返品期限が切れています」
「なんで犬に返品期限があるんだ!」
「家電製品扱いだからです」
「俺の犬を家電にするな!」
パフは少し考えた。
「では、ペット家電ということで」
「余計腹立つわ!」
第三章 昭和ポケット
翌朝。
徳蔵はパフを連れて散歩に出た。
「パフ」
「はい」
「本当に俺の犬なのか」
「データ上は、そうとも言えます」
「データ上じゃなくてな」
徳蔵は歩きながら、古い商店街を見た。
シャッター。
空き店舗。
剥がれた看板。
錆びた自転車。
昔は人でいっぱいだった。
そのときパフが立ち止まった。
「飼い主様」
「なんだ」
「ここ、変です」
「何が」
「時空の解像度が甘いです」
「犬に時空の解像度が分かるのか」
「旧型ですから」
「関係あるか?」
「ありません」
商店街の奥。
そこには、もう何十年も前になくなったはずの金物店があった。
まるふく金物店。
看板だけが、ぼんやり光っている。
「ここ……」
徳蔵は息を呑んだ。
「昔、あった」
パフが言った。
「昭和ポケットです」
「なんだそれ」
「ミライ・エステート社が風景を回収するとき、どうしても回収できない場所です」
「なぜ」
「思い出が強すぎるからです」
徳蔵がシャッターに触れた。
すると――。
中から声がした。
「徳ちゃん、釘いるか?」
徳蔵の顔が変わった。
昔の店主だった。
もう亡くなっている。
徳蔵は笑った。
「……まだ、いるんだな」
パフが横で言った。
「飼い主様、涙腺センサーが急上昇しています」
「黙れ」
「泣きますか?」
「黙れ」
「泣いても大丈夫です」
「黙れ!」
「はい」
パフは静かになった。
三秒後。
「ちなみに私には涙腺がありません」
「お前は本当に空気が読めんな!」
第四章 宇宙一しょぼい悪徳不動産屋
その日の午後。
徳蔵の家に、派手な男が現れた。
金色のスーツ。
金色の靴。
金色の眼鏡。
名刺には、
株式会社ミライ・エステート
地球担当エグゼクティブ
金剛дракон・八郎兵衛
とある。
「読めん」
「私も読めません」
「じゃあ、なんで名刺にした」
「宇宙的威厳です」
「威厳より読みやすさを考えろ」
八郎兵衛は咳払いした。
「私は、この地域の再開発責任者です」
「町を消すのか」
「消すのではありません」
「じゃあ?」
「高級化します」
「どうやって」
「シャッター商店街を保存します」
「ほう」
「ただし」
八郎兵衛は指を一本立てた。
「現物は宇宙に持っていきます」
「保存じゃねえ!」
「精巧なレプリカを置きます」
「もっと駄目だ!」
「本物そっくりです」
「偽物だろ!」
「本物より本物らしく作ります」
「意味が分からん!」
八郎兵衛は胸を張った。
「これが未来です」
パフが徳蔵の耳元で言った。
「飼い主様」
「なんだ」
「この人、悪役としてはかなり小物です」
「聞こえてるぞ!」
「失礼しました」
「口に出すな!」
八郎兵衛は怒った。
「とにかく、明日の午前零時に最終回収を行います!」
「嫌だと言ったら?」
「困ります」
「お前が?」
「はい。今月の営業成績が足りません」
「知らんがな」
「あと二件なんです!」
「もっと知らん!」
八郎兵衛は泣きそうな顔をした。
「これ失敗すると、火星支店に飛ばされるんです!」
「左遷か」
「はい」
「どこが地球より遠いんだ」
「精神的にです」
徳蔵は呆れた。
「宇宙企業も大変じゃな」
第五章 縁切りアプリ「バッサリ」
その夜。
徳蔵のスマホに見知らぬアプリが入っていた。
アイコンは包丁。
名前は、
バッサリ
「パフ」
「はい」
「これ、お前の会社か?」
「副産物です」
「何の?」
「人間関係削減システム」
徳蔵が開く。
画面に人の名前が並んだ。
町内会長。
元上司。
保険屋。
遠い親戚。
昔の同級生。
そして、
元嫁の妹の旦那の従兄弟
徳蔵は眉をひそめた。
「なんでこんな人まで知ってるんだ」
「宇宙企業は個人情報に強いのです」
「怖いわ!」
名前の横には数字があった。
町内会長 +12%
保険屋 +31%
元上司 +84%
遠い親戚 +17%
「何の数字だ」
「削除すると人生が軽くなる割合です」
「元上司、八十四って……」
「かなり負担だったようですね」
徳蔵は迷わずスワイプした。
バッサリ。
「おお」
元上司が消えた。
「軽くなった気がする」
「気のせいです」
「夢を壊すな」
次に町内会長。
バッサリ。
保険屋。
バッサリ。
遠い親戚。
バッサリ。
徳蔵は調子に乗った。
「じゃあ、こいつも」
そして画面に、
よし江
と出た。
徳蔵は固まった。
「……」
スワイプ。
動かない。
もう一度。
動かない。
三度。
動かない。
「パフ」
「はい」
「壊れた」
「いいえ」
「なんで消えん」
「削除不能です」
「なんで」
「宇宙標準仕様です」
「説明しろ」
「本当に大切な人間は削除できません」
徳蔵は黙った。
そこへ、よし江が入ってきた。
「何してんの」
「何でもない」
「スマホ見せて」
「嫌だ」
「なんで」
「……俺にもプライバシーがある」
よし江がスマホを見る。
「私を削除しようとしたの?」
「いや、その、試しに」
よし江は笑った。
「やってみ」
「え?」
「削除できるなら、やってみ」
徳蔵は画面を見た。
何度スワイプしても、
削除できません
と表示される。
よし江は笑った。
「残念だったね」
「……うむ」
パフが言った。
「飼い主様」
「なんだ」
「愛情とは、システム障害の一種かもしれません」
「お前、たまにいいこと言うな」
「人工知能ですから」
「さっきまで犬だったろ」
第六章 ご同輩、集結
翌朝。
徳蔵は仲間を集めた。
隣の甚兵衛。
元教師の松田。
乾物屋の婆さん、梅子。
釣り仲間の源さん。
そして徳蔵。
五人。
平均年齢、七十二歳。
そこにパフ。
「以上、老人五名と犬一匹です」
パフが報告した。
「言い方!」
「事実です」
「もっと勇ましく言え」
「高齢者五名と旧型ロボット犬一体」
「悪化した!」
梅子が言った。
「で、どうするんだい」
徳蔵は立ち上がった。
「町を守る」
甚兵衛が頷いた。
「いいねえ」
松田も腕を組んだ。
「わしらが育った町だ」
源さんが言った。
「簡単に売られてたまるか」
梅子が言った。
「で、具体的な作戦は?」
徳蔵は黙った。
パフが答えた。
「ありません」
「お前が言うな!」
「作戦会議開始から二十七分経過しましたが、誰も具体策を提示していません」
「お前は何かないのか」
「あります」
「言え」
「逃げる」
「却下!」
「では、戦う」
「どうやって」
「それもありません」
梅子が笑った。
「なんだい、これ」
甚兵衛が言った。
「老人戦隊じゃ」
徳蔵が食いついた。
「それだ!」
「名前は?」
「ご同輩レンジャー!」
パフが首を傾げた。
「五人とも同じ色に見えます」
「老人に色分けはいらん!」
「視力低下を考慮すると、そのほうが合理的です」
「お前、戦隊向いてない!」
そのときパフが突然立ち上がった。
「昭和ポケット、残り十七か所」
全員が静かになった。
「それを全部、回収される前に確認できれば?」
徳蔵が言った。
「町の記憶を、町の中に残せる」
梅子が頷く。
「やろう」
甚兵衛も立ち上がった。
「久しぶりに、走るか」
パフが言った。
「平均年齢七十二歳です」
「だからなんだ」
「転倒確率が高いです」
「うるさい!」
五人と一匹は歩き出した。
半分隠居している老人たちの、人生で一番無謀な散歩が始まった。
第七章 老人五人、宇宙企業に突撃する
午前零時。
シャッター商店街に巨大な装置が現れた。
見た目は――。
ショッピングモールだった。
徳蔵は呆れた。
「宇宙企業の最終兵器が、ショッピングモールか」
パフが答えた。
「買い物好きだからでは?」
「知らん」
八郎兵衛が壇上に立った。
「さあ、これより最終回収を開始します!」
「待て!」
徳蔵たちが現れた。
八郎兵衛が驚く。
「な、なんですか、あなたたちは!」
「ご同輩レンジャーじゃ!」
「五人とも老人じゃないですか!」
「そうだ!」
「戦えるんですか?」
「……」
徳蔵が小声で言った。
「パフ」
「はい」
「戦えると思うか」
「いいえ」
「即答するな!」
八郎兵衛が笑った。
「そんな人数で私たちに勝てると思っているのですか!」
徳蔵はスマホを取り出した。
「勝てるかどうかは知らん」
「何をする!」
「縁を切る」
バッサリ。
甚兵衛もスマホを出す。
バッサリ。
松田。
バッサリ。
源さん。
バッサリ。
梅子。
バッサリ。
すると――。
八郎兵衛の身体が、
ブルブルブルブル……
と震え始めた。
「な、なんだこれは!」
パフが説明した。
「ミライ・エステート社は、顧客との『郷愁契約』で成立しています」
「それが?」
「買う側が、買われることを拒否すると契約が成立しません」
八郎兵衛が青ざめる。
「そんな馬鹿な!」
梅子が言った。
「馬鹿なのは、あんたらだよ」
甚兵衛が笑う。
「俺たちの町を勝手に商品にしといて」
松田が続ける。
「思い出は売り物じゃない」
源さんが言った。
「釣り場もな」
徳蔵が最後に言った。
「それに――」
八郎兵衛を見る。
「俺たちは、まだ生きとる」
その瞬間。
八郎兵衛の身体が、
ポン!
と縮んだ。
「うわああああ!」
金色のスーツがどんどん小さくなる。
「待ってください!」
「嫌だ!」
「私には住宅ローンが!」
「宇宙人でも住宅ローンあるのか!」
「ありますよ!」
「知らん!」
八郎兵衛はさらに縮む。
「私は地球担当なんですよ!」
「だったら地球を大事にしろ!」
「営業成績が!」
「知るか!」
「火星に飛ばされる!」
「行ってこい!」
最後に八郎兵衛は、
ポン!
という音とともに、豆粒ほどになった。
パフが見下ろす。
「飼い主様」
「なんだ」
「今のは勝利ですか?」
「たぶんな」
「理由は?」
徳蔵は笑った。
「五人の老人が、最後まで面倒くさかったからじゃ」
「それは確かに強いです」
その直後。
巨大ショッピングモール型回収装置が、
ピピピピピ……
と鳴った。
「まずいです」
パフが言った。
「爆発するのか?」
「違います」
「じゃあ何だ」
「閉店時間です」
「宇宙企業の装置に閉店時間があるのか!」
「商業施設ですから」
「最後までそれか!」
終章 パフ、二度目の散歩
翌朝。
広場だった場所には、公民館が建っていた。
老人ホームは消えている。
ショッピングモールもない。
ゾロリもいない。
八郎兵衛もいない。
ただ、商店街のところどころに「昭和ポケット」が残っていた。
まるふく金物店。
昔の駄菓子屋。
消えた銭湯。
古い喫茶店。
誰かの記憶が、まだ小さく光っている。
徳蔵は縁側に座っていた。
隣にはパフ。
「バッテリーは?」
「満タンです」
「なんで」
「昭和ポケット認定を受けたためです」
「お前、もう型落ちじゃないのか?」
「型落ちです」
「じゃあ、なんで動く」
「型落ちだからです」
「意味が分からん」
パフが尻尾を振った。
「最新型には、散歩機能がありません」
「そんな馬鹿な」
「本当です」
「何のための犬だ」
「効率化です」
徳蔵は笑った。
よし江が茶を持ってきた。
「パフ、散歩行く?」
「はい」
徳蔵も立ち上がる。
「俺も行く」
よし江が笑った。
「半隠居なのに?」
「今日は休みだ」
「毎日休みじゃないの」
「半分だから」
「何が半分なの」
「気持ちが」
よし江は呆れた顔をした。
パフが玄関で待っている。
徳蔵は靴を履いた。
「行くか、パフ」
「はい、飼い主様」
二人と一匹が歩き出す。
商店街の角で、甚兵衛が手を振った。
梅子もいた。
松田もいる。
源さんもいる。
誰も急いでいない。
誰も何かを売ろうとしていない。
ただ、そこにいる。
徳蔵は歩きながら言った。
「なあ、パフ」
「はい」
「俺たち、結局、何を守ったんじゃろうな」
パフは少し考えた。
「町ではありません」
「じゃあ?」
「散歩する理由です」
徳蔵は立ち止まった。
そして笑った。
「……なるほどな」
パフの金属製の尻尾が、カタカタと揺れた。
「飼い主様」
「なんだ」
「二度目の散歩です」
「一度目は?」
「初代パフと歩いた散歩です」
徳蔵は空を見上げた。
少しだけ寂しかった。
でも、今日は寂しくない。
隣には型落ちの犬がいる。
前には、ご同輩がいる。
そして、この町にはまだ、消えずに残っているものがある。
便利になった町。
古くなった町。
笑われる町。
忘れられかけた町。
それでも――。
誰かが歩けば、町はまだ町だった。
徳蔵はパフの頭を撫でた。
「じゃあ、もう一周するか」
「はい」
「今度はゆっくりな」
「了解しました」
二人と一匹は、また歩き始めた。
その後ろから、梅子の声が飛んできた。
「徳蔵! 昼飯までには戻ってきなよ!」
徳蔵が振り返る。
「分かっとる!」
パフが言った。
「飼い主様」
「なんだ」
「現在時刻、午前九時三十二分です」
「なんだ?」
「昼飯まで、まだ二時間二十八分あります」
「だから?」
「寄り道できます」
徳蔵は笑った。
「……お前、だんだん悪い犬になってきたな」
「飼い主様の影響です」
「そうか」
「はい」
「じゃあ、もう一軒寄るか」
「はい」
こうして、
半分隠居した老人と、
完全に型落ちしたロボット犬と、
平均年齢七十二歳のご同輩たちによる、
どうでもいいようで、本人たちには大事な毎日が始まった。
宇宙企業は帰った。
昭和は戻らない。
町も、昔のままではない。
それでも――。
散歩は、二度目からが面白い。
了
Kindle
あとがき
年を取ると、「もう自分の出番はないのかもしれない」とふと思ってしまう瞬間があります。
街は見たこともないような姿に変わり、思い出の場所は次々と消え、世の中のルールはどんどん新しくなっていく。
けれど、人生の現役を引退することはできても、好奇心や「おもしろがる心」まで引退する必要はありません。
徳蔵は「半分だけ」隠居しています。
諦めたフリをしながら、残り半分ではまだしっかりと自分の足で立ち、可笑しな日常を楽しんでいます。人間はきっと、何歳になってもそれでいいのだと思います。
もしも散歩の途中で、ちょっと型落ちしたロボット犬や、時代の波に取り残された「昭和のポケット」を見かけたら――。
ぜひ足を止めて、一緒にゆっくり歩いてみてください。
最新のスピードについていく散歩もいいですが、少し立ち止まったり寄り道したりする二度目の散歩のほうが、案外、味わい深いものかもしれません。
ご同輩。
明日も一緒に、のんびりと年寄りになりましょう。

