あと3日

――世界線のシャッター――




まえがき

写真とは、光の記憶であると同時に、「選ばれなかった時間」の記録でもあるのかもしれません。

人生には、どれほど切望しても、手からこぼれ落ちてしまう「三日間」があります。

もう少しだけ時間があれば。
もう少しだけ素直になれていれば。

そんな思いを抱えたまま、私たちは大人になり、いつしか諦めることを覚えていきます。

この物語は、過去の影を追いかけ続けた一人の男が、閉ざされたシャッターの向こう側にあった「温かな光」に気づくまでの、ささやかな旅路です。

あなたの押し入れの奥にも、まだ現像されていない「あの日のフィルム」が眠っていませんか。

この物語が、あなたの止まっていた時間を、ほんの少しだけ動かすきっかけになれば幸いです。




序章 現像されない写真

写真には、写ってしまうものと、写らないものがある。

涼介は、いつもそう思っていた。

カメラは光を写す機械のはずなのに、ときどき、光ではない何かまで一緒に写り込む。

たとえば、もう二度と会えない誰かの、まだ何も知らない笑顔とか。

彼のアパートの押し入れには、現像していないフィルムが三本、封も切らずに眠っていた。

それぞれに、小さなラベルが貼ってある。

「新島」
「奥志賀」
「北アルプス」

もう十年以上前のものだ。

今さら現像しても、きっと色褪せているだろう。

それでも涼介は、そのフィルムを捨てられずにいた。

捨ててしまえば、あの三日間が――いや、正確には、あの三度の「三日間」が――本当になかったことになる気がした。

その夜、涼介は珍しく、押し入れの奥から三本のフィルムを取り出した。

窓は少し開いていた。

夜の街から、遠く工事現場の音が聞こえてくる。

金属と金属が触れ合うような、高く乾いた音だった。

カシャ。

カシャ。

カシャ。

三回。

まるで、何かの扉が重く閉まる合図のようだった。

涼介は、フィルムを握ったまま動けなかった。



第一話 新島、あの夏

二十二歳の夏。

涼介は、写真部の合宿で新島にいた。

出会ったのは、民宿の食堂だった。

彼女は美咲といった。

隣の女子大のサークルで来ていたらしい。

日焼けした健康的な肩。
笑うと少しだけ覗く八重歯。

初めて会った夜、二人は食堂の隅で、なぜか長い時間話をした。

好きな写真のこと。

大学のこと。

東京に戻ったら何をするか。

そして、波の音が聞こえる浜辺まで歩いた。

美咲は、寄せては返す白い泡を見つめながら言った。

「あと三日しかいないんだよね、私たち」

涼介は、

「そうだね」

としか言えなかった。

まだ何も始まっていないのに、終わりの数字だけが先に決まっている。

それが妙に息苦しくて、でも同時に、その限られた時間が二人を近づけているようでもあった。

二日目。

二人は誰にも言わずに岬まで歩いた。

太平洋の水平線に夕日が沈んでいく。

何かを言おうとして、涼介は何度も口を開きかけた。

けれど、そのたびに言葉を飲み込んだ。

――あと二日ある。

まだ焦る必要はない。

そう自分に言い聞かせていた。

三日目の朝。

涼介はファインダーを覗いた。

美咲が振り返った。

その瞬間、指に力を込めた。

カシャ。

シャッター音が、潮風の中でやけに大きく、硬く響いた。

涼介は、その音を聞いて一瞬だけ顔を上げた。

どこかで、何かが閉じたような気がした。

けれど、それが何なのか、そのときの彼には分からなかった。

その日の午後、台風の接近によって、美咲のサークルが乗る船の出航が早まった。

慌ただしい桟橋。

荷物を抱えた人々。

風に煽られる髪。

美咲は船に乗る直前、涼介に大きく手を振った。

「東京に戻ったら、連絡先交換すればよかったね!」

笑って言った。

涼介も手を振った。

けれど、その場で追いかけることはできなかった。

船が離れていく。

白い航跡が、夕方の海に伸びていく。

名字も。

大学も。

連絡先も。

何も知らないままだった。

あと三日あれば。

いや――正確には。

あと、半日あれば。

涼介は、その夏以来、ずっとそう思い続けている。



第二話 奥志賀、あの冬

二十六歳の冬。

涼介は、日常の忙しない仕事の疲れを癒すため、一人で奥志賀のスキー場へ来ていた。

宿で同じ部屋になったのが、由紀だった。

彼女はスキーのインストラクターで、三日間だけこの宿に詰める契約だという。

「代打なんです。本当は別の人が来るはずだったんですけど」

由紀は、そう言って屈託なく笑った。

新島の夏から、四年が経っていた。

涼介はもう、あの頃の不器用な焦りを忘れたつもりでいた。

一日目。

由紀は涼介に、初心者向けのきれいなフォームを教えてくれた。

何度も雪に突っ込む涼介を見て、彼女は声を上げて笑った。

二日目。

二人はナイター営業のゲレンデを並んで滑った。

人の少ない斜面。

静かな雪。

頭上には、驚くほど近く感じられる星空。

吐く息は、どこまでも白かった。

その夜。

部屋の窓から外を眺めていた涼介は、ゲレンデの点検用照明が一定の間隔で明滅していることに気づいた。

その直後だった。

カシャ。

カシャ。

カシャ。

雪を踏みしめるような、金属が噛み合うような音が三度響いた。

「何の音?」

涼介が尋ねると、由紀は湯飲みを両手で包みながら笑った。

「昔からあるんです、あの音」

「知ってるの?」

「この辺の人は、みんな一度くらい聞いたことがあるって言います。でも、誰も気にしてないみたい」

由紀は窓の外を見た。

「不思議ですよね」

その横顔を見て、涼介は胸の奥に小さな違和感を覚えた。

三日目。

涼介は、ようやく決心した。

新島のときとは違う。

今度こそ言おう。

「東京に戻ったら、また会えないかな」

その言葉を、口に出そうとした。

しかし、その瞬間だった。

由紀の携帯電話が鳴った。

他県のスキー場からだった。

インストラクターの本採用が、急遽繰り上がったという。

今日中に移動してほしい。

由紀は電話を切ると、しばらく黙っていた。

「……行かなきゃ」

「今日?」

「うん」

ロビーで荷物をまとめる由紀の瞳は、少し潤んでいた。

涼介は何度も言葉を探した。

けれど、結局、

「気をつけて」

としか言えなかった。

タクシーに乗り込む直前、由紀が振り返った。

「涼介さん」

「ん?」

「また、どこかで会えたらいいですね」

涼介は頷いた。

車が雪道を走り去る。

その瞬間、四年前の新島の桟橋が、脳裏に重なった。

そして、遠くで――

カシャ。

音がした。

あと三日あれば。

いや。

あと数時間あれば。

二度目だった。



第三話 北アルプスの山小屋

三十歳を過ぎた頃、涼介は、誰かと深く関わることに臆病になっていた。

仕事は落ち着き、写真は単なる静かな趣味になっていた。

その年の夏、北アルプスを縦走しようと決めたのは、ただ純粋に、雄大な山々をフレームに収めたかったからだ。

人との出会いなど、かけらも期待していなかった。

山小屋で相部屋になったのが、彼女だった。

名前は、最後まで聞かなかった。

彼女は単独行だった。

涼介と同じ稜線を三日かけて歩く予定だったらしい。

ところが、突然の悪天候で山は閉ざされた。

二人は、山小屋の中で三日間を過ごすことになった。

一日目の夜。

ランプの仄かな光の下で、彼女は涼介のカメラを見た。

「写真、好きなんですね」

「昔から」

「何を撮るんですか?」

「人より、風景が多いかな」

「どうして?」

涼介は少し考えた。

「風景は、逃げないから」

彼女は笑った。

「でも、人が写っている写真もありますよね」

そう言われて、涼介は押し入れに眠る三本のフィルムのことを話した。

新島。

奥志賀。

そして、この山。

「どうして現像しないんですか?」

「怖いんだと思います」

「何が?」

「現像してしまったら、何かが完全に終わってしまう気がして」

彼女は、しばらく黙っていた。

やがて、雨音に混じるような声で言った。

「私にもありますよ」

「何が?」

「開けられないままの手紙とか。そのまま消せない録音とか」

彼女は笑わなかった。

二日目。

雨は降り続いた。

二人は軒先に並んで座り、山のこと、カメラのこと、そして過去のことを少しずつ話した。

涼介は、新島の美咲のことを話した。

奥志賀の由紀のことも話した。

今まで誰にも話したことのなかった記憶だった。

彼女は一度も口を挟まずに聞いていた。

そして、しばらくして言った。

「そのシャッターの音……」

涼介は顔を上げた。

「私にも、聞こえたことがあります」

「どこで?」

彼女は答えなかった。

ただ、雨の向こうを見ていた。

「たぶん、あれは音じゃないんですよ」

「じゃあ、何?」

「……分かりません」

その言い方が、妙に寂しかった。

三日目の朝。

嘘のように雲が切れ、眩しい朝日が山を照らした。

彼女は先に出発するという。

稜線の分岐点で、二人の道は分かれる。

涼介はザックのベルトを締め直した。

今度こそ。

今度こそ名前を聞こう。

今度こそ連絡先を交換しよう。

次の約束をしよう。

分岐点に立つ。

彼女が振り返った。

朝日を背にしたシルエットが、強い逆光の中に浮かんでいた。

その瞬間だった。

涼介の胸元に下げていた一眼レフが、誰にも触れられていないのに、小さくレンズを駆動させた。

カシャ。

シャッターが切れた。

涼介は凍りついた。

彼女も、足を止めた。

二人の間に、短い沈黙が落ちた。

彼女は涼介を見つめた。

そして、なぜか少しだけ寂しそうに笑った。

「……じゃあ、お元気で」

「待って!」

涼介が声を上げた。

彼女は立ち止まった。

けれど、振り返らなかった。

「名前――」

そこまで言ったとき、山から強い風が吹き抜けた。

声は風にさらわれた。

彼女は、そのまま別の稜線へ歩き出した。

涼介は追わなかった。

追えなかった。

やがて、その姿は岩陰に消えた。

残された涼介は、一人で立ち尽くしていた。

そして思った。

まただ。

また、間に合わなかった。



第四話 世界線のシャッター

その日の夕刻。

山小屋に戻った涼介は、囲炉裏の前に座っていた。

三度目だった。

新島。

奥志賀。

そして、今朝。

どれも三日間。

どれも最後に、シャッターの音がした。

「……あんた」

声に顔を上げると、山小屋の古参らしい老人がこちらを見ていた。

「今朝、あの音を聞いたな」

涼介の背中に、冷たいものが走った。

「知ってるんですか?」

老人は火箸で炭をつついた。

「知っているというほどのものじゃない。昔から、そういう話があるだけだ」

「どんな話です?」

老人はしばらく黙っていた。

やがて、静かに言った。

「世界線のシャッター」

聞き慣れない言葉だった。

「人と人が出会うと、いくつもの可能性が生まれる」

老人は炭を見つめたまま続けた。

「一緒に帰るかもしれない。別れるかもしれない。友達になるかもしれない。恋人になるかもしれない。二度と会わないかもしれない」

「……はい」

「その可能性が、ある瞬間に一つへ絞られることがある」

老人は指を軽く鳴らした。

ぱちん。

「それを昔の人は、シャッターが閉じる、と呼んだ」

涼介は息を呑んだ。

「じゃあ、あの音は……」

「境目だ」

「三日で閉じるんですか?」

老人は首を振った。

「三日である理由なんてない。一日の人間もいる。十年続く人間だっている」

「じゃあ、なぜ僕は……」

「お前が、三日目まで何もしなかったからだろう」

その言葉が、胸に刺さった。

老人は続けた。

「シャッターは運命じゃない」

「え?」

「警告みたいなものだ。閉じる前には、たいてい音がする。だが、聞いたからといって必ず閉じるわけじゃない」

涼介は黙っていた。

「自分で動けば、開いたままになることもある」

「……僕は、動かなかった」

「そういうことだ」

老人は笑った。

「人間は不思議なもんだ。失うのが怖くて、何もしない。何もしなかった結果、失ってしまう」

涼介は俯いた。

新島。

美咲。

奥志賀。

由紀。

そして今朝の彼女。

全部、自分だった。

何かが起こるのを待っていた。

相手が一歩踏み出してくれるのを待っていた。

傷つかずに済む方法を探しているうちに、時間だけが過ぎていた。

「後悔してるのか」

老人が聞いた。

涼介は胸に手を当てた。

「……後悔とは、少し違う気がします」

「ほう」

「何というか……まだ何かが終わっていないんです」

涼介は顔を上げた。

「閉ざされたシャッターの向こう側を、ずっと覗き込んでいるような」

老人は目を細めた。

「それでいい」

「え?」

「本当の後悔ってのは、過去に戻ろうとすることだ」

老人は静かに言った。

「だが、お前が今感じているものは違う。過去をやり直したいんじゃない。次はどうするかを考え始めている」

囲炉裏の炭が、小さく爆ぜた。

ぱちっ。

涼介は、その音を聞いていた。

今度は、シャッターの音には聞こえなかった。

「人間にはな」

老人が言った。

「何度でも、次の写真を撮ることができる」



終章 現像

東京に戻った涼介は、その夜、十年以上抱え続けてきた三本のフィルムを手に、街の古い写真店を訪れた。

「珍しいですね」

老店主がフィルムを受け取りながら言った。

「こんな古いフィルムを、一度に三本も」

涼介は笑った。

「ずっと現像できなかったんです」

「どうして?」

少しだけ考えてから、涼介は答えた。

「怖かったんだと思います」

店主は何も聞かなかった。

ただ、

「分かりました」

と言った。

一週間後。

涼介は、仕上がった写真の束を受け取った。

新島の青い海。

その海辺で笑う美咲。

奥志賀の濃密な雪景色。

その中で笑う由紀。

そして――

北アルプスの稜線。

涼介は、一枚ずつ写真をめくっていった。

最後の一枚。

そこには、あの朝の彼女が写っていた。

逆光の中に立つ、彼女のシルエット。

背景は強い光で霞んでいる。

それなのに、彼女の表情だけが、不思議なほど鮮明だった。

穏やかな笑顔。

涼介は息を呑んだ。

あの三日間の中で、彼女が見せたことのない表情だった。

そして、写真の端に目を留めた。

印画紙の縁。

そこに、光の滲みのようなものがあった。

最初は、現像の失敗だと思った。

しかし、よく見ると、それは文字のようにも見えた。

涼介は写真を傾けた。

光の角度が変わる。

文字が、かすかに浮かび上がった。

――また、どこかで。

そこで途切れていた。

その先には、何もなかった。

涼介は長い間、その写真を見つめていた。

彼女が書いたのか。

誰かの悪戯なのか。

現像の途中で偶然できた模様なのか。

それとも、本当に世界線の向こう側から届いたものなのか。

分からなかった。

分からなくてもいいと思った。

涼介は、初めてフィルムを現像したことを後悔しなかった。

むしろ、ようやく写真を見終えた気がした。

過去を確認するためではない。

過去を、過去にするために。

窓の外から、遠く工事現場の音が聞こえてきた。

カシャ。

涼介は顔を上げた。

以前なら、その音に胸が締めつけられていた。

けれど今は違った。

終わりを告げる断絶の音ではない。

新しいレンズのキャップを外すような音に聞こえた。

涼介は愛用のカメラを手に取った。

ストラップを首にかける。

三日間なんて。

次は、きっと足りなくていい。

足りないなら、四日目へ行けばいい。

五日目へ行けばいい。

その先の季節へ行けばいい。

写真は、過去だけを残すものではない。

これから撮る一枚も、いつか誰かの記憶になる。

涼介はカメラを持って、玄関へ向かった。

ドアを開ける。

外の空は、どこまでも澄み渡る秋晴れだった。

涼介は一歩、外へ出た。

その瞬間。

朝の光が、レンズの奥で小さく揺れた。

涼介はファインダーを覗いた。

そして、シャッターを切った。

カシャ。

今度は、自分の意志で。

(了)



Kindle



あとがき

人生における「選択」と「分岐」は、過ぎ去ってみなければ、その価値に気づけないことがあります。

「あの時、こうしていれば」

そんな思いは、ときに重い足枷になります。

けれど、過去を変えることができなくても、そこから先を変えることはできる。

そう考えることもできるのではないでしょうか。

本作で描いた「三日」という時間は、人が誰かと向き合い、踏み出すか、立ち止まるかを試される象徴として描きました。

涼介にとって、三日間は何度も「終わり」の時間でした。

しかし最後には、その三日間を「未来へ進むための時間」として受け入れます。

過去の写真を現像することは、失った時間を取り戻すことではありません。

そこに写っているものを、もう一度きちんと見つめることです。

そして、見終えたら、新しい一枚を撮りに行く。

それだけなのかもしれません。

もしあなたにも、まだ現像していない「あの日のフィルム」があるのなら。

いつか、それを取り出してみてください。

そこに何が写っているのかは、現像してみなければ分かりません。

そして、写真に写っていない未来は、自分で撮るしかありません。

季節の変わり目。

ふと聞こえる日常の音の中に、あなただけの新しい「始まりの合図」が見つかりますように。