仮退院の惑星
―― 宇宙保健機構・地球支部からの報告書 ――


まえがき あるいは診断書のかわりに
人はみな、どこかの病院で生まれる。
そして、ほとんどの人は、どこかの病院で死ぬ。
これは別に驚くことではない。驚くべきは、その「あいだ」である。生まれてから死ぬまでの、平均すれば八十年ほどの、あの長い「あいだ」のことを、われわれはふつう「人生」と呼んでいる。
だが、この報告書が明らかにするのは、まったく別の見方である。
すなわち――
その「あいだ」は、退院ではない。仮退院である。
生まれた瞬間、人はこの世という名の療養施設から、条件付きで外出を許可された患者になる。無期限の外泊、いや、正確には「経過観察付きの社会復帰」。定期的な検診があり、時に体調を崩せば、オレンジ色の車がサイレンを鳴らし、あなたを迎えに来る。ピーポー、ピーポーと。
そして六十年に一度、人は「還暦」と呼ばれる大規模な再審査を受ける。干支がひと回りし、振り出しに戻る。もう一度、生まれ直すつもりで診断を受け直すのだ。
これは、そんな仮退院患者のひとり、半田治(はんだ・おさむ)、六十歳。還暦にして男の大厄という、まことに間の悪いタイミングで「本院」からの呼び出し状を受け取った男の、まことに間の抜けた記録である。
滑稽で、少し不思議で、たぶん最後は笑って終わる話だ。
なにしろ、笑うことこそが、この惑星でいちばん効く薬なのだから。




一 検診通知
半田治のポストに、その封筒が届いたのは、九月にしては妙に肌寒い火曜日の朝だった。
封筒は水色で、隅に小さく「宇宙保健機構 地球支部 第七病棟管理課」という判が押してある。差出人の欄には、判読しにくい丸っこい字で「地球担当・受持医」とだけ書かれていた。
「またこれか」
治はため息をついた。この手の封筒が来るのは、これで三度目だった。一度目は三十九年前、二十一歳のとき。二度目は――思い出したくもない、バイクで転倒して救急車に運ばれた、あの二回のうちのどちらか。
だが今回は、様子がちがった。封筒の右上に、赤いスタンプで大きくこう押されていたのだ。
「還暦前・全身再査定 対象者」
そしてその下に、もう一つ、さらに小さく、しかし治の心臓には十分すぎるほど大きく響く一文が添えられていた。
「本人、大厄該当につき、優先審査扱いとなります」
治は封筒を持ったまま、しばらく玄関先に立ち尽くした。近所の柴犬が吠えた。空はやけに青かった。こういうときに限って空が青いのは、この惑星の意地の悪いところだと治は思った。
封を切ると、中には一枚の呼び出し状と、地図と、それから――どういうわけか――飴玉が一つ入っていた。ハッカ味だった。
呼び出し状にはこう書かれていた。
「拝啓 貴殿におかれましては、これまで三十九年にわたり、良好な仮退院状態を継続してこられたこと、当機構としても大変喜ばしく存じます。つきましては、還暦を機に、貴殿の心身の状態、社会的機能、および幸福指数について、総合的な再査定を行いたく存じます。つきましては、来る十月一日、第七病棟管理課窓口までご出頭くださいますよう、お願い申し上げます。なお、審査結果によっては、仮退院の継続、条件変更、あるいは――」
そこから先は、なぜか印字がかすれていて読めなかった。
治は封筒をテーブルに置き、コーヒーを淹れた。手が少し震えていた。震えているくせに、口元はどういうわけか、笑いたがっていた。
三十九年前、彼はまさにこの手の呼び出しを受けて、オレンジ色の車に乗せられたのだった。あのときも、こんなふうに、妙に晴れた日だった。



二 支部事務所
第七病棟管理課は、駅前の、ごくふつうの雑居ビルの三階にあった。一階は美容室、二階は行政書士事務所、三階だけが、なぜか「宇宙保健機構」だった。表札は小さく、見落としそうなほど地味だった。
エレベーターを降りると、待合室には、治と同じような年格好の男女が十人ほど、所在なげに座っていた。壁には「健康長寿県ランキング」というポスターが貼られており、堂々の一位には「長野県」と書かれていた。
「あそこは別格ですからねえ」
隣に座っていた老婦人が、治の視線に気づいて話しかけてきた。
「別格、というと?」
「支部長がとにかく厳しいんですよ。塩分、運動、笑い、生きがい――全部揃わないと合格点をくれない。でもそのぶん、みんな長生きするから、文句も言えなくてねえ」
老婦人はそう言うと、静かに笑った。笑うと、頬にたくさんの皺が寄った。健康そうな皺だった。
「治さん、半田治さん、どうぞ」
呼ばれて、治は立ち上がった。案内された部屋の扉には「受持医:宇野井(うのい)」という名札があった。
中に入ると、白衣を着た、丸眼鏡の小柄な男が、机の向こうでにこにこと待っていた。年齢は五十代半ばくらいだろうか。机の上には、湯気の立つ緑茶と、なぜか将棋盤が置かれていた。
「やあ、半田さん。いや、三十九年ぶりですなあ」
「……お会いしたこと、ありましたっけ」
「二十一のとき、あなたはタバコをやめる代わりに、カミさんをくださいと願ったでしょう。あれ、私が処理したんですよ」
治は目を丸くした。
「あの願いを、処理、って……」
「この惑星は、交換でできています。何かをやめれば、何かが届く。何かを差し出せば、何かが返ってくる。あなたはタバコという習慣を返上し、代わりに伴侶という処方を受けた。悪くない取引でしたな。奥さんの登美子さん、お元気ですか」
「元気です。口うるさいですが」
「結構、結構。口うるさいのは、健康な証拠です」
宇野井医師はそう言って、カルテらしきものを開いた。それは紙のカルテではなく、薄いガラス板のようなもので、触れると光の文字がふわふわと浮かび上がった。
「さて。あなたは今年、還暦を迎える。干支がひと回りして、振り出しに戻る年です。同時に、男の大厄。この二つが重なるのは、六十年に一度の非常に重要なケースでしてね。当機構としても、慎重に審査させていただくことになります」
「審査……というのは、つまり」
宇野井医師は、湯気の立つ茶をひとくち飲んでから、静かに言った。
「簡単に言えば、こういうことです。半田さん、あなたはこの先も、仮退院を続けたいですか? それとも――」
言葉を濁したまま、宇野井医師はにっこりと笑った。笑うと、丸眼鏡の奥の目がほとんど見えなくなった。
治は、思わず息を呑んだ。ポケットの中にあるハッカ飴の包み紙を、指先でぎゅっと握りしめた。



三 オレンジ色の相棒
「まあ、そう硬くならんでください」
宇野井医師は将棋盤を治のほうへ押し出した。
「審査の前に、まず面談です。今日のところは雑談だと思ってください。ところで半田さん、あなたはこれまでに二度、緊急搬送を受けていますね」
「はい……あれは、正直、思い出したくない」
「一度目は二十一歳、バイクで転倒。二度目は五十歳、同じくバイクで転倒。二度とも、オレンジ色の車が、ピーポーピーポーと迎えに来た」
「その節は、お世話になりました」
「あの車の運転手、覚えていますか」
治は記憶をたどった。薄れゆく意識と消毒液の匂いの中で、妙に落ち着いた声で「大丈夫ですよ、ゆっくり行きましょう」と話しかけてくれた男の顔が、かすかに浮かんだ。
「なんとなく、ですが……妙に落ち着いた人だった気がします」
「それ、私の同期です。名前は檜山(ひやま)といいましてね。今はもう、こちら側の人間ですが」
「こちら側、というと」
「本院送還済み、ということです。つまり、亡くなった。もう十年前になりますか」
治は言葉を失った。宇野井医師は、しかし、ちっとも湿っぽい顔をせずに続けた。
「檜山は、生前、いい迎え屋でした。彼のモットーは『急いで来て、ゆっくり運ぶ』。サイレンは急いでいるように聞こえるが、実際に患者を運ぶときは、驚くほど丁寧だった。あなたを二度とも無事にこちらへ届けたのは、彼の腕です」
「今は、その檜山さんは……」
「本院の、案内係です。今度あなたが本院に――いや、これは失言でした。まだ決まったわけではない」
宇野井医師は慌てて茶を飲んだ。治は、なんだかおかしくなって、思わず小さく笑ってしまった。
「先生、それ、フォローになってませんよ」
「これは失礼」
宇野井医師も笑った。二人でしばらく笑っていると、ふと、窓の外を救急車が通り過ぎていった。ピーポーピーポーという音が、部屋の中まで響いてきた。
「ああ、いい音だ」と宇野井医師がつぶやいた。
「いい音、ですか」
「あれは、この惑星でいちばん正直な音です。誰かの人生に、ちゃんと『まだ続きがある』と告げている音ですから」
治は、その音が遠ざかっていくのを、しばらく黙って聞いていた。



四 長野出張所
一週間後、治は「長野出張所への任意訪問」という、奇妙な指示書を受け取った。
「任意」と書いてあるくせに、封筒の隅には小さく「訪問を推奨します(強く)」と添えられていた。この機構の日本語は、いつもこういう具合に、遠慮がちに強制してくる。
長野出張所は、駅から少し歩いた、りんご畑のそばの一軒家だった。表には「健康長寿の里・出張診療所」という木の看板が下がっている。
出迎えたのは、日に焼けた、がっしりとした体格の女性医師だった。名札には「支部長・戸隠(とがくし)」とあった。
「よく来た。半田さんだね」
「はい。あの、私、審査対象者でして」
「知ってる。あんたの資料はもう全部見た」戸隠支部長は、治の頭からつま先までをじろりと眺めた。「歩き方が悪い。膝を庇っとる。座り方も悪い。猫背だ。それから――」
「あの、それから?」
「顔が疲れとる。笑いが浅い」
治は思わず自分の頬を触った。
「笑いに、深い浅いなんて、あるんですか」
「あるとも。浅い笑いは、口先だけで作った愛想笑い。深い笑いは、腹の底から、思わず漏れてしまう笑い。うちの県が長寿なのは、塩分がどうとか、標高がどうとか、いろいろ言われとるが、本当の理由はな、深い笑いの回数が多いからだ」
戸隠支部長は、そう言って、治を診療所の奥の畑へ連れていった。畑では、老人たちが何人も、楽しそうに土をいじっていた。九十歳は超えているだろう、腰の曲がった男性が、大声で冗談を言い、周りがどっと笑っている。
「見てみろ。あの笑いだ。あれが、深い笑いだ」
治は、その光景をしばらく眺めていた。なんだか、羨ましいような、恥ずかしいような気持ちになった。
「支部長、正直に言うと、私、最近あんなふうに笑ったこと、あったかどうか……」
「だろうな。都会の患者は、みんなそう言う」戸隠支部長は腕を組んだ。「都会の連中は、いつもストレスとやらを抱えて、病との境目をふらふら彷徨っとる。それじゃあ、仮退院とは名ばかりの、半分入院しとるようなもんだ」
「半分、入院……」
「そうとも。この惑星の都会人は、生涯、仮退院中というより、生涯、外泊中の重症患者に近い。笑いなさい、半田さん。深く、腹の底から。それが、いちばんの治療だ」
治は、その言葉を、なぜか胸の奥にしまい込んだ。ポケットの中の飴玉のように、少しずつ溶けていくように。



五 厄年特別審査部
長野から戻った翌週、治は再び支部事務所に呼び出された。今度は三階ではなく、地下一階。案内板には「厄年特別審査部(男性厄年課)」とある。
エレベーターの扉が開くと、そこは薄暗い、迷路のような廊下だった。壁には古めかしい貼り紙が並んでいる。
「前厄・本厄・後厄――三年連続、油断は禁物」
「男の大厄、四十二歳にあらず。人生には、もう一つの大厄がある」
「還暦大厄、これぞ真の関門」
治は初めて知った。四十二の厄年は有名だが、還暦にもう一つの、いわば「隠れ大厄」があるということを。
窓口には、疲れた顔の中年男性職員が座っていた。名札には「担当・碓氷(うすい)」とある。
「半田さん、ですね。還暦大厄、初めてですか」
「はい、というか、そんな厄年があること自体、初耳です」
碓氷はため息をついた。
「無理もない。うちの部署、宣伝が下手くそでしてね。四十二の厄年ばかり有名になって、還暦大厄はいつも影が薄い。でも、実はこっちのほうが重要なんですよ。なにしろ、干支がひと回りして、振り出しに戻る年ですから」
「振り出しに戻る、というと」
「つまり、赤ちゃんに戻る、ということです。比喩ですけどね。還暦のお祝いに赤いちゃんちゃんこを着せるのは、その名残です。もう一度、生まれ直すつもりで、人生をリセットする。だからこそ、この年は、身体の検査だけじゃなく、『生き方』そのものの再査定が必要になる」
碓氷は、机の上に分厚いファイルを広げた。
「半田さんの資料を見ましたが、いくつか気になる点があります」
「どんな点でしょう」
「まず、趣味の欄が空欄です」
治は口ごもった。
「それから、『最近笑ったこと』の欄も空欄」
「……」
「それから、これは重要なんですが、『今後の願い』の欄も、空欄です」
碓氷は、ファイルを閉じて、治をまっすぐ見た。
「半田さん。あなたは三十九年前、タバコをやめる代わりに『カミさんをください』と願った。そのおかげで、いい奥さんを得た。十年前、五十歳でバイクを降りた。あのときも、何か願ったんじゃないですか」
治は記憶をたどった。そういえば――十年前、長年乗ったバイクを手放したとき、寂しさの反面で漠然と、何か新しいものが届くのかもしれないと思っただけで、はっきりと願ったわけではなかった。
「いえ、あのときは、特に何も」
「それがまずい」碓氷はぴしゃりと言った。「この惑星の交換システムは、明確な願いがないと発動しません。あなたは十年前、バイクという大きな存在を差し出したのに、何も受け取っていない。つまり、あなたの口座には、未使用の『交換ポイント』が、たまったままになっている」
治は目を丸くした。
「交換ポイントって、そんなものが」
「あります。健康長寿県のポイントカードみたいなものです、ええ」碓氷はにやりと笑った。「還暦大厄の審査に通るには、その未使用ポイントを、きちんと使い切ることが条件です。さもないと――」
「さもないと?」
「未練が残ったまま、審査に臨むことになる。それは、あまり、よろしくない」
碓氷はそう言うと、一枚の申請用紙を差し出した。「今後の願い」という欄が、大きく空いていた。



六 交換の理論
家に帰った治は、その申請用紙をテーブルに置いたまま、しばらく動けずにいた。
妻の登美子(とみこ)が、夕飯の支度をしながら聞いてきた。
「何、その難しい顔」
「いや、実はさ」
治は、これまでの経緯を、かいつまんで話した。仮退院という概念、宇野井医師、長野の戸隠支部長、そして今日の碓氷の話。登美子は、菜箸を持ったまま、しばらく黙って聞いていた。
「――で、あなた、未使用のポイントがあるって言われたわけね」
「そうなんだ。十年前、バイクを降りたとき、何も願わなかったから」
登美子はくすりと笑った。
「あなたらしいわ。タバコをやめたときは、若かったから、素直に『妻をください』なんて言えたのに。バイクを降りたときは、もう五十だったから、恥ずかしくて何も言えなかったんでしょう」
図星だった。治は黙ってビールを飲んだ。
「でもさ」登美子が続けた。「今なら、何か、願いたいことがあるんじゃない?」
治は考えた。健康、長生き、それとも、もっと具体的な何か。
そのとき、隣の部屋から、息子の陽一(よういち)の声が聞こえてきた。三十二歳、いまだ独身。仕事は真面目にやっているが、浮いた話の一つも聞かない。
「陽一のこと、心配なんだよな、実は」
治がぽつりと言うと、登美子はうなずいた。
「私も。あの子、仕事仕事で、出会いなんてどこにもないでしょう」
治の頭の中で、三十九年前の記憶と、いまの願いが、するりと重なった。
――二十一でタバコを辞めたとき、代わりにカミさんを下さいと願った。
――今度は、バイクを降りたから、何かが届くのかもしれない。
そうだ。今度は、自分のためじゃない。
「息子に、嫁を、って願おう」
治がそうつぶやくと、登美子は目を丸くしてから、ふっと笑った。
「あなたって人は。自分の還暦の審査だっていうのに、息子の嫁の心配ですか」
「だって、俺はもう十分もらったからな。登美子も、三十九年分の人生も。今度は、俺のぶんの未使用ポイントを、あいつに回してやりたい」
登美子は何も言わず、ただ、治の背中を軽く叩いた。その手が、少し湿っていた。



七 申請書と、息子
翌日、治は申請用紙の「今後の願い」の欄に、こう書いた。
「息子・陽一に、良き伴侶が与えられますように。私の未使用の交換ポイントを、すべて彼のために使ってください」
書き終えて、しばらく眺めていると、なんだかおかしくなってきた。役所の申請書に、こんなことを書く日が来るとは思わなかった。三十九年前の自分に見せてやりたい。
その晩、治は思い切って、陽一の部屋のドアをノックした。
「入っていいか」
「珍しいな、父さんが」
陽一は、パソコンの画面を閉じて振り返った。仕事の資料が、机の上に山積みになっている。
「実はな」治は、椅子に座りながら切り出した。「父さん、今年還暦でな。ついでに大厄でな。それで、いろいろと審査を受けることになってな」
「審査? 健康診断的な?」
「まあ、そんなようなもんだ。それでな、その審査の書類に、お前のことを書いた」
「俺の?」
「良き伴侶が与えられますように、って」
陽一は、しばらく呆気にとられた顔をしていたが、やがて、ぷっと吹き出した。
「父さん、それ、神社のお札とかに書くやつだろ。役所の書類に書くもんじゃないよ」
「いいんだよ、これも一種のお祈りみたいなもんだ。この惑星のシステムでは、これが結構、効くらしいんだ」
「意味わかんないけど」陽一は笑いながら首を振った。「でも、まあ、ありがたく受け取っとくよ」
「本当に、心配なんだよ、お前のこと」
陽一は少し表情を和らげた。
「父さんこそ、審査って、大丈夫なのか。何か、悪い結果が出たりしないだろうな」
治は、正直、その答えを持っていなかった。だが、こう言った。
「大丈夫だ。深く笑えば、大丈夫らしい」
「なんだよ、それ」
「長野の先生が言ってたんだ。深い笑いは、いちばんの薬だって」
陽一はまた笑った。今度は、さっきよりも深く、腹の底から出るような笑いだった。治は、その笑い声を聞きながら、ふと、戸隠支部長の言葉を思い出した。
(あれが、深い笑いだ)
治は、自分の胸の中に、何か温かいものが灯るのを感じた。



八 大審査
十月一日、その日はやはり、妙に晴れていた。
治はスーツを着て、支部事務所の最上階、これまで一度も足を踏み入れたことのない、七階の「大審査室」へと案内された。
部屋は、思っていたよりもずっと簡素だった。円卓が一つ、椅子が数脚、それだけだった。円卓の向こうには、三人が並んで座っていた。中央に宇野井医師、右に戸隠支部長、左に碓氷。
「揃いましたな」宇野井医師がにこやかに言った。「では、始めましょうか。半田治さん、還暦大厄・全身再査定、開始します」
治は椅子に腰かけた。手のひらに汗がにじんでいた。思わずポケットを探ると、あの日渡されたハッカ飴がコロンと指に触れた。
「まず、身体面の査定は問題なし。血圧やや高めですが、許容範囲内。次に、社会的機能。これも問題なし、家族関係、勤労状況、いずれも良好」
宇野井医師はガラス板を操作しながら、淡々と読み上げていく。治は少しずつ、緊張が緩んでいくのを感じた。
「問題は、次の項目です」戸隠支部長が身を乗り出した。「幸福指数、および、深い笑いの頻度」
「これが、うちの管轄なんだが」戸隠支部長は腕を組んだ。「半田さん、長野に来たとき、あんたは正直に言ったな。最近、深く笑ったことがあったかどうか、わからないと」
「はい……」
「その後、どうだ。何か、変化はあったか」
治は、昨晩の、陽一との会話を思い出した。
「息子と、話をしました。息子が、深く笑ったんです。それを見ていたら、なんだか、こっちまで温かい気持ちになりました」
「それは、あんたが笑ったことになるのか?」戸隠支部長が鋭く聞いた。
「いえ、正確には、私自身が大きな声を出して笑ったわけでは……」
碓氷が、ここで口を挟んだ。
「支部長、それについては、私の担当分野からも申し上げたいことがあります」
「なんだ」
「半田さんは、未使用の交換ポイントを、すべて息子さんのために使うと申請されました。これは、還暦大厄の審査において、非常に稀なケースです」
「稀、というと」
「通常、患者は自分のために願います。健康、長寿、あるいは金銭。しかし半田さんは、自分の分を、子どもに譲った。これは、いわば――」碓氷は少し言葉を選んだ。「笑いの、贈与、とでも言うべき現象です」
宇野井医師が、ここで初めて、ガラス板から顔を上げた。
「笑いの贈与、ですか。それは興味深い」
「深い笑いというのは、必ずしも自分の口から出るものだけを指すのではない、というのが、最近の機構内の研究でも指摘されておりましてね」碓氷は続けた。「誰かを笑わせること、誰かの笑いを見て自分も温かくなること、これもまた、深い笑いの一形態である、と」
戸隠支部長は、しばらく黙って考え込んでいたが、やがて、ふっと表情を緩めた。
「なるほどな。半田さん、あんた、案外、いいことをしたのかもしれんぞ」



九 判定
三人は、しばらく小声で話し合っていた。治は、円卓の前で、ただじっと待っていた。窓の外では、また救急車のサイレンが聞こえた。ピーポーピーポー。誰か、別の患者を迎えに行くのだろう。あの音は、いい音だ、と治は思った。宇野井医師の言葉を、今なら少しわかる気がした。
「まだ続きがある、と告げている音」
やがて、宇野井医師が顔を上げた。
「半田治さん。判定をお伝えします」
治は、思わず背筋を伸ばした。
「まず、身体面、社会面、いずれも良好。次に、幸福指数について。当初、単独での深い笑いの頻度は低いという評価でしたが、審査の過程で、贈与的な笑い――つまり、他者の笑いを介した幸福の共有が、良好に機能していることが確認されました。加えて」
宇野井医師は、ガラス板をくるりと治のほうへ向けた。そこには、光る文字でこう浮かんでいた。
「仮退院、継続を許可する」
治は、思わず大きな息を吐いた。全身の力が抜けるようだった。
「ただし」戸隠支部長が付け加えた。「条件がある」
「条件……ですか」
「一つ、月に一度は長野に来て、深い笑いのリハビリを受けること。二つ、息子の陽一くんの様子を、定期的に報告すること。三つ――」
戸隠支部長は、ここで少し表情を和らげた。
「三つ、あんた自身も、そろそろ何か、自分のための願いを、一つくらい持て」
治は、その言葉に、なぜか胸が熱くなった。
「自分のための願い、ですか」
「三十九年前は妻を願った。十年前は何も願わなかった。今度は息子のために願った。それはそれで、立派なことだ。だがな半田さん、還暦っていうのは、振り出しに戻る年だ。振り出しってのは、ゼロってことだ。ゼロってことは、また一から、好きに願っていいってことだ」
碓氷も、うなずきながら付け加えた。
「未使用ポイントは使い切っていただきましたが、還暦を機に、新しい口座が開設されます。これは、いわば、人生の第二クールの、初回ボーナスのようなものです」
治は、しばらく考えた。何を願おうか。健康か、長寿か、それとも――
「先生方、少し、考える時間をいただけますか」
「もちろん」宇野井医師は、にこやかにうなずいた。「なにしろ、これから、あと六十年ぶんの時間があるわけですから」
「六十年……」
「干支がひと回りするまで、ですよ。気長に、考えてください」
治は、深く頭を下げた。頭を上げたとき、なぜか、目の奥が少し熱かった。それが涙なのか、それとも別の何かなのか、治自身にもよくわからなかった。



十 シャバの空気
審査室を出て、エレベーターで一階まで降りると、外はすっかり秋の陽気になっていた。風が、どこかりんごの匂いを運んでくるような気がしたが、たぶん気のせいだった。
治は、スマートフォンを取り出して、登美子にメッセージを送った。
「審査、通った。仮退院、継続だそうだ」
すぐに返信が来た。
「よかった。今夜は赤飯にしましょうか」
「還暦のお祝いはもう少し先だろう」
「いいじゃない、前祝いよ。それに、あなた、今日から新しい口座が開設されたんでしょう。それもお祝いしなきゃ」
治は、思わず笑った。腹の底から、久しぶりに、深く。
駅までの道を歩きながら、治は、ふと立ち止まって、空を見上げた。
三十九年前、二十一歳の治は、タバコをやめて、代わりに妻をもらった。
十年前、五十歳の治は、バイクを降りて、何も願わなかった。未使用のまま、それはずっと胸のポケットに入っていた。
そして今、六十歳の治は、その未使用のぶんを、息子のために使った。息子に、良き伴侶が与えられますようにと。
還暦とは、干支がひと回りして、また振り出しに戻ることだという。だとしたら、まだ何も始まっていないのと同じだ。おまけに、男の大厄にも当たっている。
だが、それでいい、と治は思った。振り出しに戻るということは、また一から、好きに願っていいということだから。
治は、ポケットに手を入れた。指先に、あの日もらったハッカ味の飴玉が、まだ一つ、包み紙のまま残っていた。治はそれを口に放り込んだ。冷たく、少し甘く、そして、どこか懐かしい味がした。
シャバの空気は、今日も、悪くない。



終章 振り出しにて
半年後、陽一が、職場の後輩だという女性を、家に連れてきた。
名前は、実桜(みお)といった。よく笑う人だった。腹の底から、深く。
治は、その笑い声を聞きながら、ふと、戸隠支部長の言葉を思い出していた。
(あれが、深い笑いだ)
夕食の席で、登美子が、実桜に治との馴れ初めを話していた。二十一歳のときにタバコをやめて、代わりに妻をもらったのだという、あの古い話を。実桜は、目を丸くして、それから、これまでで一番深く笑った。
治は、その様子を眺めながら、静かにビールを飲んだ。
翌月、治は長野に出向いた。戸隠支部長は、畑仕事をする老人たちの中に混じって、治を見つけると、片手を上げた。
「どうだ半田さん、その後」
「息子に、いい人ができました」
「そりゃよかった。願いが、ちゃんと届いたな」
「はい。それで、支部長」治は少し照れながら続けた。「自分の願いも、決まりました」
「ほう、何を願うんだ」
治は、しばらく口ごもったあと、こう言った。
「あの二人の子どもが、深く笑える子に育ちますように」
戸隠支部長は、しばらく治の顔をじっと見つめてから、大きな声で、腹の底から笑った。畑にいた老人たちも、つられて笑った。その笑い声が、りんご畑いっぱいに広がっていった。
治も、笑った。
三十九年前と同じように、心の底から。

了



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あとがき
ふと街中で救急車のサイレンを耳にしたとき、胸がざわついたり、どこか寂しい気持ちになったりすることはありませんか。
けれど、もしもあの音が「見放すための合図」ではなく、「あなたの人生には、まだ続きがありますよ」と告げる温かい知らせなのだとしたら――。そんな優しい仮定から、この『仮退院の惑星』は生まれました。
私たちは誰もが、どこかの病院で生まれ、日々の忙しさや不安の中で「外泊中の患者」のように肩をすぼめて生きているのかもしれません。ですが、還暦という「振り出し」は、歳をとることの終わりではなく、まっさらな自分に戻ってもう一度好きな未来を願い直せる、人生最大のボーナスステージでもあります。
もし今、少しだけ肩の荷が重いと感じているなら、どうかポケットの中のハッカ飴をなめるように、深呼吸をして、腹の底から笑ってみてください。
笑うこと。誰かの幸せをそっと願うこと。
それが、この「仮退院の惑星」で、私たちに与えられたいちばん効く薬なのですから。