ボトルは還る
──還暦男と着替えマジシャンの一夜──
まえがき
歳を重ねるにつれ、ふとした瞬間に昔の景色が鮮明に蘇ることがあります。それは街角の匂いだったり、昔流行った洋楽のメロディだったり、あるいは酒場の片隅で交わした何気ない約束だったりします。
昭和という時代は、今思えばずいぶんと大雑把で、愚かしくて、けれどどこか熱気に満ちていました。誰もが明日を信じ、少し背伸びをして夜の街に繰り出し、守れるかも分からない約束をしてはグラスを傾けていたものです。
「あの頃の自分たちは騙されていたのだろうか。それとも、本気で楽しんでいたのだろうか」
そんな問いに対する答えは、きっと一つではありません。けれど、あの夜に流した汗や涙、そして不器用な笑顔のすべてが、今の私達を作っていることもまた確かです。本作は、そんな昭和の熱気と哀愁を胸に抱いた一人の還暦男が体験する、少し不思議で温かい一夜の物語です。どうかグラスを片手に、のんびりとお付き合いいただければ幸いです。
プロローグ 還暦のオヤジ
田村哲男、六十二歳。定年退職してからというもの、これといった予定もない穏やかな日々を送っている。息子夫婦はすでに独立し、妻の靖子とは休日も互いに干渉し合わない、静かで心地よい距離感を保っていた。
哲男の唯一の楽しみといえば、週に二、三度、駅前の立ち呑み屋「くろべえ」に顔を出すことだった。安いコップ酒を片手に、若い常連客をつかまえては昭和の武勇伝を語る。もう何十回も繰り返してきた話だが、哲男にとってそれは、色褪せることのない人生の勲章のようなものだった。
「昭和のキャバクラってのはな、そりゃあもう戦場だったんだぞ」
それが彼の決まり文句だった。今夜もまた、いつものようにあの長い夜の話が始まろうとしていた。だが哲男自身、この夜が単なる思い出話では済まない、生涯忘れ得ぬ一夜になるとは、この時はまだ夢にも思っていなかった。
第一章 自慢話は美しく
「呼び込みの兄ちゃんがよ、『可愛い子ばっかりですよ、お願い、二時間だけ!』って言うわけよ。で、その気になって暖簾をくぐるだろ。そしたらもう、フルーツが食べたいだの、一杯呑んでいいだの言われて、断れねえの。男の性ってやつだな」
隣に座った若い会社員二人組、須藤と岡本は、半分呆れ、半分面白がりながらスマホをいじっている。
「田村さん、その話、この前も聞きましたよ」須藤が苦笑した。
「そうだったか? まあいいから聞け。最後にはボトルを入れてって言われてよ。指切りまでしてな。『また来るね』って約束して……次の日にはそのボトルが勿体なくて、また行っちまう。バカだよなあ、俺たちは」
「でもそれ、結局上手く乗せられて騙されてただけじゃないですか」岡本が半笑いで言う。
「騙されてたって言えばそうなんだが……あの頃はな、そんな痛みも含めて、なんつうか『生きてる実感』があったんだよ。お前らみたいにスマホの画面ばかり眺めて満足してる方が、俺にはよっぽど寂しく見えるけどな」
哲男は自分の言葉に、いつになく熱がこもっているのを感じていた。若い世代への説教くさい物言いは自分でも好きではないが、つい口をついて出てしまう。
「まあまあ。田村さんの若い頃の話、俺は嫌いじゃないですよ」須藤がとりなすように言い、スマホの画面をこちらに向けた。「それより見てくださいよ、これ。今、ネットでバズってるんです」
画面には、舞台の上で一瞬にして衣装が入れ替わる「着替えマジシャン」の動画が流れていた。黒いマントをふわりとかぶせた瞬間、漆黒の燕尾服が鮮やかなドレスに変わる。観客の歓声とともに、BGMが流れてきた。
聞き覚えのある洋楽だった。八十年代、バブルの匂いを強烈に引きずったあの一曲――物質的な豊かさを軽やかに歌い上げた名曲だった。
その瞬間、哲男の頭の奥で、何かがカチリと音を立てた。まるで長らく閉ざされていた引き出しの鍵が、静かに外れたような感覚だった。
「……この曲、久しぶりに聞いたな」
「有名な曲ですよね。マジシャンの鮮やかな早替え演出にぴったりだって話題ですよ」
哲男は生返事をしながら、胸の奥が妙にざわつくのを感じていた。まるで、遠い昔に忘れてきた誰かに名前を呼ばれたような、不思議な感覚だった。
第二章 名刺が降ってくる
「くろべえ」を出て家路につく途中、哲男の胸騒ぎは収まるどころか増す一方だった。あの曲を聞いてからというもの、視界の隅に白いものがチラチラと舞っている気がする。
「気のせいか……歳のせいかね」
そう呟いた瞬間、頭上からひらひらと何かが降ってきた。一枚、二枚、三枚。街灯の下で拾い上げると、それは色褪せた金の縁取りに、見覚えのある店舗名が印刷された名刺だった。
――クラブ・シャンパンローズ
三十五年前前に哲男が足繁く通い、文字通り有り金をむしり取られたあの店の名刺だった。とっくに閉店し、今はコインパーキングになっているはずの店の名刺が、なぜ今、夜空から降ってくるのか。
「いや、まさかな……」
哲男は名刺をポケットに突っ込み、足を早めた。だが角を曲がった瞬間、息を呑んだ。目の前に、見覚えのあるネオン看板が鮮やかに浮かび上がっていたのだ。駐車場だった場所に、煌々と輝く「シャンパンローズ」の文字。ピンク色のネオンが、湿った夜気の中でじりじりと音を立てて明滅している。
扉の前には、一人の女性が立っていた。派手なドレスに盛った髪型、昭和の残り香をまとった、当時のホステスそのものの立ち姿。二十代にも、四十代にも見えるミステリアスな雰囲気を漂わせている。
「……ミカさん?」
「あら、哲ちゃん。久しぶり。約束、覚えてる?」
女は妖しく微笑んだ。その微笑みは、記憶の中にあるミカのそれと寸分違わなかった。
「ミカさんって、あんた……そもそもこの店、とっくに潰れて……」
「細かいことはいいのよ。それより洋子ママにも怒られちゃうわ。約束、果たしてもらわなきゃね」
哲男の足は金縛りにあったように動かなかった。逃げなければと頭では理解しているのに、体は吸い寄せられるように扉へと向かっていった。
第三章 積み残しの精算
「約束って……何の話だよ」哲男は震える声で言った。
「指切りしたでしょ。『また来るね』って。それから――」ミカは指を一本立てた。「三十五年、経ってるのよ」
哲男の背筋に冷たいものが走った。ミカはあの店で一番人気だったホステスで、確かに最後の夜、指切りをして別れを惜しんだ記憶がある。だがその後、バブルが弾けて店は傾き、いつの間にか閉店していた。ミカの消息も「田舎に帰った」と聞いたきりだった。
「あんた、ボトルを入れっぱなしで来なかったでしょ。あのボトル、まだ棚にあるのよ。中身がね、飲まれないまま時間だけが経っていって……三十五年分の未練が詰まってるの」
「い、いや、それは……その後結婚して子供も生まれて……そもそもあんな高い店、そうそう通えるわけが……」
「言い訳はいらないわ。今夜、精算してもらうから」
そう言った瞬間、周囲の景色が一変した。気づけば哲男は、当時の内装そのままのクラブの中央、ふかふかのボックス席に座らされていた。シャンデリアの淡い光、心地よい絨毯の匂い、遠くで流れるムード音楽。すべてが三十五年前のあの夜そのものだった。
「なあ、ミカさん。教えてくれよ。あんたらは俺たち客のこと、本当はどう思ってたんだ? やっぱりただの金づるだったのか?」
ミカは少し黙り、グラスに酒を注ぎながらふっと苦笑した。
「半分は仕事よ。でもね、半分は……本当に楽しかったのよ。あんたたちがバカ丸出しで盛り上がって、笑って、また来るって約束してくれるの、実はすごく嬉しかった。守られなかった約束の方が圧倒的に多かったけどね」
その言葉に、哲男は思わず小さく吹き出してしまった。
「そうか。……悪かったな、来なくて」
「今更言っても遅いわよ。ほら、まずは乾杯」
グラスを合わせた瞬間、店の扉が勢いよく開いた。
第四章 幻の同窓会
「哲男! お前もここに呼ばれたのか!」
飛び込んできたのは、高校時代からの腐れ縁である山口誠だった。作業着のまま、頭には工事現場のヘルメットを乗せている。
「山口! お前までかよ!」
「さっき急に呼び込みの兄ちゃんに腕を引っ張られてよ。気づいたらここだ。おい、これシャンパンローズだろ。俺もここで散々搾り取られたよなあ」
二人が顔を見合わせて笑っていると、店の奥からさらに数人の初老の男たちが、困惑した顔で現れた。会社の元同僚や近所の顔なじみなど、かつての常連客たちだった。
店内はあっという間に、還暦を過ぎた男たちの奇妙な同窓会のような様相を呈していった。誰もが一様に戸惑いながらも、どこか懐かしそうに店内を見回している。
「覚えてるか? あの時みんなで大枚はたいてドンペリ入れたよな」
「覚えてるも何も、あれのせいで俺は半年小遣い制になったんだぞ」
「俺なんか離婚寸前までいったんだからな」
苦い記憶のはずなのに、なぜか誰もが笑顔で語っている。哲男はふと、これは単なる悪夢や罰ゲームではなく、自分たちが置き去りにしてきた時間を引き取るための夜なのかもしれない、と思い始めていた。
第五章 路地裏の異変
哲男がふと窓の外を見ると、立ち呑み屋周辺の旧繁華街エリアが、怪しくも幻想的な光に包まれていた。
ビルやコインパーキングに変わっていた路地裏の一角から、次々と昭和のネオン看板が淡い光を放って蘇り、消えたはずの老舗店が幻のように浮かび上がっている。だが、その光景はこの路地裏だけの、静かで密やかな出来事のようだった。
「積み残されたボトルたちの想念が、一斉に目覚めさせたみたいなの」
ミカが静かに語った。あの着替えマジシャンの動画で使われていた80年代の洋楽。物質的な豊かさと切ない未練が交錯するあのメロディが引き金となり、昭和に置き去りにされた「未精算のボトル」たちの想いが呼び覚まされたのだという。
路地には、思い出のボトルを抱えた昔馴染みのホステスたちの幻影が佇み、かつての常連客たちを優しく店へと招き入れていた。路上でおいおいと泣き崩れる者、嬉々として当時の武勇伝を語り出す者、素直に頭を下げる者。誰もが自分の過去と向き合っていた。
第六章 着替えマジシャンの正体
「なあミカさん。なんであのマジシャンの動画が、こんなことのきっかけになったんだ?」
哲男が尋ねると、ミカは少し表情を曇らせた。
「実はね、あの着替えマジシャン――坂本蓮っていう青年のおばあちゃんが、この店で長く働いていたホステスの一人だったのよ」
「え……」
「名前は雪乃さん。腕のいい人だったわ。でも店が潰れた後は誰にも本音を話さず、独りで静かに生きてきた人だった。亡くなった後、遺品の中から当時のお客さんの名刺やボトルキープの伝票が大量に見つかったそうなの」
「そのお孫さんが、偶然あの動画にあの曲を使った……」
「偶然かどうかは分からないわ。でも、雪乃さんの想いが孫を通してあの曲と結びついたことだけは確かね。積み残された約束は、ちゃんと向き合わないと消えてくれないのよ」
哲男は言葉を失った。自分たちが軽い気持ちで交わした「また来るよ」という約束の裏に、それほど切ない人生があったとは思いもしなかった。
第七章 ボスママの登場
その時、クラブの奥の扉が重々しく開き、一人の恰幅の良い女性が姿を現した。かつてこの店を圧倒的な貫禄で仕切っていた伝説のママ、「クイーン洋子」だった。
「あら、随分と賑やかじゃないの。今夜はちゃんと利子まで含めて払ってもらうわよ」
「り、利子!?」哲男たちは一斉に青ざめた。
「当たり前でしょう。三十五年分の未払いよ」
洋子ママの気迫に店内は一瞬で凍りついたが、山口が意を決したように立ち上がった。
「洋子ママ、待ってくれ! 俺たちは確かにバカだった。でもよ、あの店で笑った時間は嘘じゃなかったはずだ。金は取られたが、俺たちも救われてたんだよ。そこはお互い様なんじゃねえのか」
洋子ママはしばらく山口を睨みつけていたが、やがてふっと笑みを浮かべた。
「……いいこと言うじゃないの。あんた、貢いでくれた山口誠でしょ。覚えてるわよ」
店内に緊張と苦笑いが混ざり合った温かい空気が流れた。
第八章 男たちの決断
「なあ、みんな」哲男は立ち上がり、周囲を見渡した。「ウジウジ言い訳するのはやめようぜ。俺たちが残してきた『未精算』ってやつに、気持ちでちゃんと向き合おう」
男たちは互いに顔を見合わせ、大きく頷き合った。
「よし、俺は自分のボトル、今夜で全部飲み干すぞ!」
「俺も付き合う!」
洋子ママは腕を組みながら満足そうに頷いた。
「いいわ。今夜は特別に利子はナシ。ただし、逃げずに最後まで飲み干して、みんなに『ありがとう』って言いなさいよね」
第九章 ミカの過去
男たちがそれぞれのボトルに向かう中、哲男はミカと二人、静かなカウンター席に座っていた。
「ミカさん、あんたはなんでここで働いてたんだ?」
「家が貧しくてね。でも、お客さんたちが笑ってくれるのが嬉しかったのよ。哲ちゃんたちみたいな若い男の子たちが馬鹿騒ぎしてくれると、こっちまで元気になれたの」
「そうだったのか……」
「約束を守ってもらえないのは寂しかったけど、恨んでなんかないわ。今夜こうしてまた会えたんだから、最高じゃない」
ミカは少女のような無邪気な笑顔を見せた。
第十章 ボトルキープの結末
「精算方法はシンプルよ」ミカは棚から埃をかぶったボトルを取り出した。ラベルには「田村哲男様」と記されている。「これを今夜、飲み干すこと」
哲男はグラスを受け取り、一口飲んだ。三十五年分の琥珀色の液体が喉を滑り落ちる。苦さの奥に、愛おしい懐かしさがあった。
一杯、また一杯。店中のあちこちで、大笑いしながら、時に感謝の涙を浮かべながら、男たちがそれぞれの未精算を飲み干していく。
やがて東の空が白み始める頃、ネオンは静かに消え、ボトルたちは光の粒となって空へ昇っていった。
「じゃあね、哲ちゃん。今度こそ本当のさよなら」
ミカの姿も朝日に溶けるように消えていった。その笑顔は安堵に満ちていた。
終章 還暦の朝に
気がつけば哲男は、いつもの立ち呑み屋のベンチで朝を迎えていた。手元には、あの色褪せた名刺だけが残されていた。
数日後、哲男は山口とともに坂本蓮の動画を改めて見返していた。概要欄にはこう記されていた。
――幼い頃、他界した祖母に育ててもらいました。この芸は、祖母が好きだった『変わり身の早さ』へのオマージュです。
「山口、俺たち、ちゃんと精算できたのかな」
「さあな。でも俺は今夜、妻に花でも買って帰るよ。あの日貢いだ分、今の妻を大事にしねえとな」
哲男は笑った。「還暦過ぎて学習したな」
エピローグ 昭和の残り香
それから数ヶ月後。「くろべえ」のカウンターで、哲男は須藤と岡本にコップ酒を奢っていた。
「田村さん、なんか最近スッキリした顔してますね」須藤が尋ねる。
哲男はポケットの中の色褪せた名刺をそっと指でなぞり、穏やかに微笑んだ。
「まあな。過去をちゃんと笑って話せるようになっただけさ」
言葉で野暮な説教をするのはもうやめた。手の中にある名刺の感触と、あの琥珀色の味わいがあれば十分だった。
窓の外では、今夜も街の灯りが静かに瞬いていた。
あとがき
本作『ボトルは還る』は、昭和という時代を生きてきた人間が抱く「哀愁」と「微かな後ろメタさ」、そしてそれを乗り越えた先にある「晴れやかさ」を描きたいという思いから執筆いたしました。
若者たちのスマートで合理的な生き方も素晴らしいものですが、かつての私たちが過ごした、泥臭く不器用で、けれど情熱に満ちていた時間もまた捨てがたい魅力を持っています。残されたボトルを飲み干すように、自らの過去と向き合い、感謝とともに手放していく哲男たちの姿に、どこか共感や愛おしさを感じていただけたなら幸いです。
物語の執筆にあたり、昭和の夜の街の熱気や、時に切なく時に温かい人間模様を思い起こす時間は、著者にとっても素晴らしいタイムスリップとなりました。
今夜、皆様の思い出のグラスにも、あたたかな灯りがともりますように。

