サナトリウム・パラドックス 外伝
―壬生、善次郎の見た時代―


まえがき
本書は、拙作『サナトリウム・パラドックス』の世界観を別の角度から紡いだ外伝にあたります。
本編では現代の病院という閉ざされた空間において、時間の歪みや因果の結びつきを描きましたが、本作で光を当てたのは幕末の京都――壬生浪士組(のちの新選組)の末端に身を置いた、一人の名もなき隊士・善次郎です。
歴史の表舞台に名を残すことのなかった男が、なぜ京都に残り、何を思いながら激動の時代を駆け抜けたのか。そしてその記憶が、時を超えてどのように現代へと繋がっていくのか。
歴史の細隙に沈んだ男たちの息遣いと、時空を超えて重なり合う因果のドラマをお楽しみいただければ幸いです。




序章 文久三年、壬生
文久三年二月、京は底冷えのする寒さに包まれていた。
江戸から将軍上洛の警護という名目で集められた浪士組、その末端に、善次郎という名の若者がいた。剣の腕はさほどでもない。ただ、身体だけは丈夫で、腹一つ壊したことがない——それが本人の、ささやかな自慢だった。
「善次郎、お前、また飯を三杯もお代わりしたのか」
同郷の仲間にからかわれても、善次郎はどこ吹く風だった。
「腹が丈夫なのが取り柄でしてね。これでも、家系には代々、腹の弱い者が多いと聞いてますが、私はどうも、外れくじを引いたようで」
軽口を叩く善次郎だったが、その夜、彼は妙な夢を見た。白い壁の部屋、見たこともない管のようなものが腕に刺さった若者、そしてその若者に「大丈夫かい」と声をかける、自分によく似た老人の姿。
「なんだ、あれは……」
目が覚めても、夢の余韻はしばらく消えなかった。だが、そんな夢のことを気にかけている暇は、この時代にはなかった。
「善次郎、飯はもう終わりか。なら、次はお前の当番だぞ」
声をかけてきたのは、江戸からの道中でいつも隣を歩いていた、源治郎という男だった。年は善次郎より少し上、物静かだが、妙に肝の据わった男である。
「源治郎さんは、こういう時代がどうなると思いますか」
「さあな。ただ、私とお前は、たぶんこの先、同じ道は歩まんだろうよ」
軽口のようでいて、どこか予言めいたその言葉を、この時の善次郎はまだ、深く受け止めてはいなかった。


第一章 新徳寺の夜
壬生の新徳寺に、浪士組の面々が集められたのは、上洛から間もない夜のことだった。
「我らの目的は、将軍家の警護にあらず。尊皇攘夷の魁とならん」
首謀者格の清河八郎が、そう演説するのを、善次郎は本堂の隅で聞いていた。
隣にいた仲間が、小声で囁く。
「善次郎、お前はどう思う」
「さあ。私は難しいことは分かりません。ただ——」
善次郎は、少し離れた場所に立つ、屈強な体つきの男たちを見やった。近藤勇、土方歳三、そして芹沢鴨という、腕利きとして知られる面々である。
「あの人たちは、江戸には戻らない気がしますね」
その予感は、的中することになる。
清河の演説に同意できないとした近藤たちは、袂を分かち、京都守護職・松平容保のもとで新たな組織を立ち上げることとなった。やがて彼らは、「新選組」と呼ばれるようになる。
一方、清河に従って江戸へ戻る者たちは、後に新徴組として再編されることになる。
「善次郎、お前はどちらに残る」
仲間の一人に問われ、善次郎はしばらく考えた。故郷には、老いた両親がいる。江戸に戻れば、それなりに落ち着いた暮らしが待っているだろう。
すぐ隣では、源治郎が静かに荷をまとめていた。江戸へ戻る側に、迷いなく身を置いているのが分かった。
「源治郎さんは、江戸に戻るんですか」
「ああ。私は、性に合わん。腕っぷしで名を上げるより、生きて帰って、伝えるべきことを伝える方が、私には向いている」
「伝えるべきこと、ですか」
「さあな。それも、その時にならんと分からんよ」
まるで、いつかどこかで聞いたことのあるような言い回しだった。
だが、あの夢に出てきた、白い部屋の若者の顔が、なぜか頭から離れなかった。まるで、まだ見ぬ誰かに、何かを託さねばならないような、そんな奇妙な使命感があった。
「私は、京都に残ります」
自分でも、なぜそう答えたのか、うまく説明できなかった。
「そうか」
源治郎は、それだけ言うと、小さく頷いた。
「なら、達者でな、善次郎。もう会うこともないかもしれんが」
その言葉は、思いのほか重く、善次郎の胸に残った。


第二章 壬生浪士組
京都に残った善次郎たちは、壬生浪士組と名乗り、会津藩お預かりという形で、市中警護の任に就くこととなった。
芹沢鴨は豪胆な性格で、時に周囲を困らせる乱暴者でもあった。近藤勇は生真面目な男で、規律を重んじた。土方歳三は、その規律を隊のすみずみまで徹底させる、冷徹なまでの実務家だった。
「おい、善次郎とやら」
ある日、土方に呼び止められた善次郎は、思わず背筋を伸ばした。
「お前、腹の具合はどうだ」
「え? 腹、ですか」
「隊士名簿に、お前の身元書きがあってな。家系に腹の弱い者が多いと、自分で書いていただろう。そんな妙なことを真面目に書き残す奇特な奴は、お前くらいなものだ」
土方は、珍しく口の端をわずかに緩めた。
「まあいい。丈夫な腹は、この隊では貴重だ。斬り合いより、腹を壊して音を上げる奴の方が多いのでな」
「はあ、恐縮です……」
恐縮しつつも、善次郎はふと気になって、思い切って言葉を継いだ。
「妙な話ですが、私の家系には、腹を壊して命を落とした者が代々多くおりまして。私だけが、なぜか丈夫に生まれついた。よくできた冗談のようで、少し気味が悪くもあります」
「気味が悪い、か」
土方はそれ以上追及しなかったが、その目には、ただの世間話とは思えない何かを感じ取ったような色が、一瞬だけよぎった。
この荒々しい集団の中にも、こうした人間味のあるやり取りがあるのだと、善次郎は少しだけ安堵した。


第三章 池田屋への道
文久三年から翌年にかけて、京都の情勢は緊迫の一途をたどっていった。
芹沢鴨は、隊内の粛清によってその生涯を終えた。近藤を局長とする新たな体制のもと、隊はより厳格な規律で統率されるようになっていく。
そして元治元年六月、池田屋事件が起こる。
善次郎は直接の斬り込みには加わらず、周辺の警戒にあたる役目を任されていた。だが、事件の後、隊士たちの興奮と、同時に漂う異様な空気を、はっきりと覚えている。
「勝ったには、勝ったのだろうがな」
同僚の一人が、ぽつりと呟いた。
「これで、また敵が増えるだけかもしれん」
その言葉通り、池田屋事件以降、新選組は「人斬り集団」としての悪名と、「治安維持の功労者」としての名声を、同時に背負っていくことになる。
その夜、善次郎はまた、あの夢を見た。
白い部屋。窓の外には、見たこともない形をした建物が並んでいる。天井から、細い管が垂れ下がっている。
そして、老人の声がした。
「大丈夫かい」
善次郎は、その老人の顔を見た。
なぜか、自分自身の顔に見えた。


第四章 油小路、崩れゆく理想
慶応三年、御陵衛士との対立から、油小路事件が起こる。時代は、大政奉還、そして戊辰戦争へと、急速に転がり落ちていった。
善次郎は、この頃にはすでに、隊内でも古参の一人となっていた。かつての仲間の多くが、すでにこの世を去っていた。
「善次郎、お前はまだ生きているのか」
古い知人に皮肉交じりにそう言われるたび、善次郎は苦笑いを浮かべた。
「腹が丈夫なだけが取り柄でしてね。刀は、正直、あまり得意ではないので」
戦の最前線に立つことは少なく、むしろ後方での連絡や、負傷者の手当てを手伝うことが多かった。それが、皮肉にも善次郎の命を長らえさせることになった。
ある夜、負傷した若い隊士の看病をしながら、善次郎はふと、彼に問うた。
「お前、故郷に、家族はいるのか」
「兄が一人。もう長いこと会っていませんが」
「そうか。もし生き延びたら、ちゃんと伝えるんだぞ。伝えたいことがあるなら、今のうちに、な」
「なぜ、そんなことを」
善次郎は、少し寂しそうに笑った。
「私にも、江戸に帰った友がいてな。源治郎という男だ。もう何年も会っていない。伝えそびれたことが、山ほどある」


終章 江戸へ帰らなかった男
慶応四年、鳥羽・伏見の戦いを経て、新選組は各地を転戦しながら、次第にその数を減らしていった。
善次郎は、甲州、そして会津へと転戦する部隊からは外れ、京都に残る決断をした。理由は自分でもうまく説明できなかったが、強いて言うならば——あの夢の中で見た景色に、どこか縁を感じていたからかもしれない。
戦の終わり近く、善次郎は病を得て、床に伏す身となった。看病してくれた京都の家族に、彼はある日、こう語ったという。
「私は、大した手柄も立てられなんだ。ただ、腹だけは丈夫だった。それが、私にできる、精一杯の親孝行だったのかもしれん」
そして、こうも付け加えた。
「もし、いつか、私の血を引く者が現れたら、伝えてやってくれ。自分の目の前で見聞きしたことだけを信じろ、と。誰かが掲げた大きな『正しさ』に流されて、確かめることを忘れるな、と」
その言葉を最後に、善次郎は静かに息を引き取った。享年、四十過ぎであったという。
遠く江戸で新徴組の一員として生涯を終えた源治郎のもとにも、風の噂で、善次郎の最期が伝えられた。源治郎は、その知らせを受けて、ただ一言、こう漏らしたと伝えられている。
「あいつは、最後まで、律儀な男だったな」
時は流れ、明治、大正、昭和——そして平成、令和へ。
善次郎の血を引く者たちの中には、代々、原因不明の体調不良や、説明のつかない夢を見る者が、時折現れたという。
大正十二年、その血を引く孫の一人が、結核療養所として建設されることになった、ある病院の工事に、わずかながら関わることになった。
そして、それからさらに百年ほどが過ぎたある夜——その病棟の四人部屋で、腹を壊した一人の青年が、緊急手術を受けることになる。
隣のベッドには、一人の老人が横たわっていた。
「大丈夫かい、兄さん」
老人がそう言った。
青年は、苦しそうに目を開けた。
「……はい」
その声を聞いた瞬間、老人の胸に、見たことのない風景が浮かんだ。
壬生の雪。
新徳寺の暗い本堂。
そして、遠い昔に別れたはずの男が、こちらを見て笑っている。
――達者でな、善次郎。
老人は、なぜ自分がその声を知っているのか、分からなかった。
ただ一つだけ、確かなことがあった。
この病棟では、時間は、どうも一方向にしか流れない、というわけではないらしい。




Kindle



あとがき
最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。
物語の中で善次郎が語った「自分の目の前で見聞きしたものを信じる」という姿勢は、情報や「正しさ」があふれる現代において、私自身が大切にしたいと考えているテーマでもあります。大きな歴史の波に飲み込まれながらも、自らの身体感覚と実感を頼りに静かに生きた善次郎の姿が、少しでも読者の皆様の心に残れば幸いです。
歴史上の事実や背景を参考にしつつも、あくまでフィクションとして構築した物語ですが、本編『サナトリウム・パラドックス』とあわせてお楽しみいただけたなら、著者としてとても嬉しく思います。
物語の旅にお付き合いいただいたすべての読者様に、心より感謝申し上げます。


※本作はフィクションです。新選組・新徴組・浪士組にまつわる史実を参考にしていますが、登場人物「善次郎」「源治郎」およびその周辺の出来事は、すべて創作によるものであり、実在の人物・団体とは関係ありません。史実上の人物についての描写も、史料に基づく一般的な人物像を踏まえた創作的解釈です。