九月の結び目
〜September, A Knot in Time〜
まえがき
誰にでも、カレンダーの数字以上に「特別なしるし」がついた月があるのではないでしょうか。
私にとって、それは九月です。
夏の鮮やかな熱気が引いていき、どこか静けさと寂しさが混じり始めるこの季節は、過ぎ去った時間や、かつて交わした言葉の残像をふと思い出させます。
この物語の主人公・深澤亮介は、日々を慌ただしく生きる四十代の男性です。彼がふとしたきっかけで足を踏み入れる「時間の結び目」を通して、私たちが日常で抱える「あと、どのくらい残されているのだろう」という小さな問いや、時が経つにつれてかたちを変えていく記憶の優しさについて描きました。
序章 ラジオが鳴る
深澤亮介がその曲に気づいたのは、いつものように環状線の渋滞にはまっていたときだった。カーラジオから、少し切なさを孕んだピアノのイントロが流れ出す。竹内まりやの「SEPTEMBER」。何百回、何千回と耳にしてきたはずのその曲が、今年もまた、律儀に九月の入り口を告げにやってきた。
——ああ、また秋か。
亮介は四十二歳になった。この曲がラジオから流れ出すたびに、決まって同じことを思う。もう夏休みは終わり、二学期が始まり、鮮やかだった色彩は辛子色のシャツに、青々とした山は紅葉がかった影に変わっていくはずの季節。少なくとも、彼が子どもだった頃はそうだった。
けれど大人になった今の九月は、ただの月曜日の続きでしかない。カレンダーをめくる指先に、季節の匂いは残っていない。空調の効いたオフィスと、同じく空調の効いた車の中を往復するだけの毎日には、暑さも涼しさも、ずいぶん薄められて届く。
信号が変わり、車が少し進む。渋滞は一向に解消する気配がなく、亮介はハンドルに肘をついて、窓の外を眺めた。歩道を歩く人々は、まだ半袖のシャツを着ている者が多い。だが、よく見ると、鞄の中にカーディガンを覗かせている女性もいる。誰もが少しずつ、季節の変わり目を身にまとう準備を始めているのだった。
ラジオのボリュームを少し上げたところで、亮介はふと妙な感覚に襲われた。耳の奥で、曲の音像がわずかに歪む。透き通った歌声が、コンマ数秒だけずれて二重に響くように感じた。
目眩だろうか。それとも、単に疲れているだけか。
編集者という仕事は、締め切りに追われ続ける仕事だ。ここのところ、亮介は睡眠時間を切り詰めて、ある作家の遅れに遅れた原稿を待ち続けていた。
信号が青に変わる。前の車に続いてアクセルを踏んだ瞬間、視界の端で、フロントガラスに映る自分の顔が、一瞬だけ若く見えた気がした。
錯覚だ、と亮介は思う。
その夜、マンションに帰り着いた亮介は、郵便受けの中に見慣れない葉書を見つけた。差出人の名前はない。消印もにじんでいて読み取れない。表には、彼の名前と住所だけが、几帳面な、どこか古風な万年筆の文字で書かれている。
裏返すと、たった一行。
「あと、どのくらい?」
亮介は葉書を持ったまま、しばらく玄関先で立ち尽くした。
あと、どのくらい。
何が、どのくらいなのか。自分でもよく分からない。
葉書をリビングのテーブルに置き、亮介はいつものように缶ビールを開けた。テレビをつけると、天気予報が、明日は晴れ、最高気温二十九度と告げている。九月なのに、まだ夏の名残が居座っている。
翌日、亮介は寝不足のまま出社した。隣の席の後輩編集者、田村が声をかけてきた。
「深澤さん、なんか顔色悪いですけど、大丈夫ですか」
「ああ、ちょっと変な夢見てさ」
「変な夢って?」
「昔の彼女の夢。もう二十年も前のことなのに、やけに鮮明でね」
「二十年前ですか。深澤さん、そんな昔のこと覚えてるんですね」
「自分でも意外だよ。普段は忘れてるのに、こういう季節になると、急に思い出すことがある」
その日、亮介は一日中、あの葉書のことが頭から離れなかった。
その晩、亮介は夢を見た。
夢の中で、彼はもっと若かった。二十二歳くらいだろうか。夏の終わりの、蒸し暑い夕方。誰かの手を握っている。その誰かの顔は、はっきりとは見えない。ただ、耳元でラジオが鳴っていた。あの曲だ。竹内まりやのSEPTEMBERだった。夜店の匂い、太鼓の遠い音、汗ばんだ手のひらの感触。
「亮介、暑いね」
声だけが、やけに鮮明に耳に残った。
目が覚めたとき、亮介はしばらく自分がどこにいるのか分からなかった。
夏帆。
その名前が、二十年ぶりに、亮介の頭の中で音を立てて像を結んだ。
一章 子どもの九月
その週、亮介はもう一つ、奇妙な夢を見た。
夢の中で、彼はまだ十歳かそこらの子どもだった。実家の台所、母親が夕飯の支度をしながら、小さなラジオをつけている。そこから流れてくるのも、やはりあの曲だった。竹内まりやのSEPTEMBERだった。当時は歌詞の意味もよく分からず、ただサビの高いところだけを、意味もなく口ずさんでいたのを覚えている。
「もう九月ねえ」
母親が、フライパンを振りながらつぶやいた声を、亮介ははっきりと覚えている。当時の亮介にとって、九月というのは、何よりもまず「夏休みが終わる」ということを意味していた。
「二学期、いやだなあ」
子どもの亮介が漏らすと、母親は笑いながら言った。
「大人になったら、九月なんて、ただの月の名前になるわよ。学校もお休みも関係なくなるんだから」
その言葉を、亮介は長いこと忘れていた。だが今、四十二歳になった自分が、まさにその言葉通りの九月を生きていることに気づいて、亮介は苦笑いを漏らした。
夢の中の台所の窓からは、隣の家の庭にある金木犀が見えた。まだ蕾も固く、香りはしていない。
「ねえ、母さん」
夢の中の亮介が尋ねる。
「大人になったら、時間って、どんな感じになるの」
母親は少し考えてから、こう答えた。
「そうねえ。子どもの頃は、一日がすごく長いでしょう。夏休みなんて、永遠に続くみたいに感じるものよ。でも大人になると、一年があっという間に過ぎるようになる。不思議なものよね」
「なんで?」
「さあ、なんでかしらね。きっと、毎日が同じことの繰り返しになるからじゃないかしら。新しいことが少なくなると、時間って、記憶の中で薄くなっていくものなの」
夢の中で、亮介はふと、台所の隅に置かれた小さなラジオに目をやった。よく見ると、そのラジオのつまみのあたりに、見覚えのある文字が刻まれている。「柊製作所」。
亮介が近づこうとしたところで、視界がふっと暗転し、目が覚めた。
二章 二十二の夏の終わり
夏帆と付き合っていたのは、大学四年の夏から翌年の春先までの、ほんの数ヶ月だった。
夏帆は、亮介と同じサークルの後輩だった。写真部に所属していて、いつも古いフィルムカメラを首から下げていた。
その日曜日の記憶を、亮介は久しく思い出していなかった。
けれど、その週末、たまたま担当していた作家の原稿が奇跡的に間に合い、亮介に二日間の休みができたその週末、彼は、二十年前と同じ商店街を歩いていた。
商店街は、当時とほとんど変わっていなかった。
古びたレコード店の軒先から、スピーカーの音が漏れていた。竹内まりやのSEPTEMBERだった。九月の雨の気配をまとった、あのイントロだった。亮介は思わず足を止めた。奇妙な符合だと思いながらも、その場を離れがたく、店先に立ち尽くしていた。レコード店の店主らしき初老の男性が、店の奥でぼんやりと本を読んでいる。その横顔にも、見覚えがある気がした。すると、視界がふっと歪んだ。まるで、古いブラウン管テレビの走査線が乱れるときのように、目の前の景色が縦に引き伸ばされ、色が滲んだ。
耳鳴りのような音が一瞬だけ大きくなり、それからすっと静まった。
次に瞬きをしたとき、亮介は同じ商店街の、同じ場所に立っていた。
けれど、何かが違う。道行く人々の服装が、微妙に古い。誰かが開いている携帯電話は、画面が小さく、分厚い折りたたみ式だった。そして何より、ガラスに映った自分の姿は、明らかに、四十二歳のものではなかった。
「亮介、待たせてごめん!」
背後から声がした。振り返ると、そこに夏帆がいた。辛子色のシャツを着て、少し息を切らしながら、彼女は笑っていた。
「ぼんやりしてどうしたの? もしかしてまだ寝ぼけてる?」
亮介は自分の口から、考えるより先に言葉が出るのを感じた。
「いや……なんでもない。行こうか」
二人は、駅前の商店街を抜けて、小さな神社の夏祭りに向かった。
記憶の中では、この夏祭りの帰り道、二人は些細なことで少し気まずくなったはずだった。
けれど今、隣を歩く夏帆は、まだその話を始めていない。
「ねえ、亮介」
夏帆が横から覗き込むようにして言った。屋台の光が、彼女の頬をオレンジ色に照らしている。
「内定先、決まったって言ったよね。どんな会社だったっけ」
来た、と亮介は思った。あの夜と同じ問いかけ。
今度は、違う言葉を選んでみようと、亮介は思った。
「小さいところだけど、本を作る仕事なんだ。夏帆の卒論、もうすぐ終わりそうなんだろ。落ち着いたら、その本、僕が編集する本の第一号にしてあげようか」
冗談めかして言ったつもりだった。夏帆は一瞬きょとんとしてから、声をあげて笑った。
「なにそれ。じゃあ、印税ちょうだいね」
そんな他愛のないやりとりが続いた。その笑い声に、亮介は妙な安堵と、それ以上に大きな戸惑いを覚えた。
三章 ずれていく色
夜店の光が滲む頃、遠くのやぐらの上から、盆踊りの音頭とは違う音楽が漏れ聞こえてきた。よく耳を澄ますと、それはラジオの音だった。
「——皆さん、今夜も『九月だけのラジオ』の時間がやって参りました」
古びたトランジスタラジオのような、少しくぐもった声。亮介はその声に、なぜか強く引き寄せられた。夏帆に「ちょっとトイレ」と断って、声のする方へと歩いていく。神社の裏手、人気のない木立の陰に、小さな屋台のようなものがあった。ラジオブースを模した粗末な作りで、木製のカウンターの上に、真空管のような部品がむき出しになった古いラジオ機材が置かれている。そこに一人の老人が座っていた。
「よう、お客さん」
老人はマイクから顔を上げ、亮介の方を見た。
「ここのラジオは、九月にしか電波が届かないんだ。それも、誰かが強く『あと、どのくらいだろう』と思った時に限ってね」
「……あなたが、あの葉書を?」
「葉書は、まあ、きっかけみたいなものだ。私はただの案内人だよ。柊、と呼んでくれればいい」
柊は、傍らに置かれた古いラジオのつまみを、意味もなく右に左に回しながら続けた。
「あんたは今、九月の結び目の中にいる。ここでは時間がまっすぐに流れていない。過去のある一点に、今のあんたの意識が重なり込んでいるんだ」
「これは……夢じゃないんですか」
「夢と呼びたければ、そう呼んでもいい。だが、今あんたが触れているものは、少なくとも一度は本当にあったことの続きだ。ただし——」
柊は人差し指を立てた。
「そっくりそのままの再現ではない。あんたの記憶というやつは、優秀な編集者でね。都合の悪いところを削って、心地よいところを少し盛って、きれいな一本の話に仕立て直してしまう。だから、ここで起きていることと、二十年前に本当に起きたことの間には、いくつもの『ずれ』がある」
亮介は、さっきの夏祭りでの、辛子色のシャツのことを思い出した。記憶の中では、あれは確か、もっと鮮やかな黄色のシャツだったはずだ。
「色まで、変わるんですか」
「色も、台詞も、天気さえもね。あんたが思い出すたびに、記憶は少しずつ塗り直される」
亮介は柊の言葉を、半分も理解できないまま、それでも妙に納得している自分に気づいた。
「さっき、僕は言葉を変えました。夏帆への返事を」
「ほう」
「これで、何かが変わるんでしょうか。未来が」
柊は少し困ったように眉を寄せ、それから静かに首を振った。
「あんたが思っているような意味では、変わらんよ。ここでどれだけ台詞を変えたところで、あんたが今生きている『本当の現在』には、何一つ上書きされない。過去は変えられない。それがこの結び目の、たった一つの、動かせない規則だ」
「じゃあ、何のために……こんな場所があるんですか」
「それを見つけるのは、あんた自身の仕事だ」
柊はカウンターの下から、埃をかぶった古いレコードを一枚取り出した。
「この曲を知っているか」
ジャケットには、聞き覚えのないバンド名が印刷されていた。
「いえ、知りません」
「これは、私が現役の頃、ある歌手のためにディレクションした曲でね。結局、当時は誰の耳にも届かず、そのまま廃盤になった。だが、私にとっては、今でも大事な一曲だ。誰も覚えていなくても、私が覚えている限り、この曲は確かに存在したことになる」
柊はそのレコードを、そっとカウンターの上に置いた。
「思い出も同じだ。誰かに証明してもらう必要はない。あんたの中に確かにあったのなら、それでいい。ただし、その形は、思い出すたびに少しずつ変わっていく。それを恐れることはない」
柊はそう言うと、ラジオのつまみを一段階、右に回した。すると、あたりの光景がまた、あの走査線の乱れのような歪みを見せ始めた。
「もう一度会おう、亮介さん。九月の、また別の場所で」
四章 大人になったはずだった
次に目を開けたとき、亮介はまったく違う場所に立っていた。
見覚えのある、大学近くのアパートの部屋。壁に貼られたポスター、床に積まれたレコード、開けっ放しの窓から入る、少し湿った夜風。
鏡に映る自分は、さっきよりも少しだけ年をとっている。おそらく、あの夏祭りから半年ほど経った頃だろう。
部屋の隅、電気をつけない薄暗がりの中に、夏帆が体育座りで座っていた。
「夏帆」
声をかけると、彼女はゆっくりと顔を上げた。
「ああ、亮介」
その声には、あの夏祭りの日の弾んだ響きはなかった。
「もう決めたことだから、いいの。私、向こうの大学院、行くことにした」
亮介は、この会話も覚えていた。
「なあ、夏帆」
亮介は、今度こそ、と口を開いた。
「行かないでくれ、とは言わない。でも、行く前に、ちゃんと話したい。僕らのこと」
夏帆は、少し驚いたように目を見開いた。
「珍しいね、亮介がそんなこと言うの」
言いながら、亮介は自分の言葉が、二十年前の自分のものなのか、今の自分のものなのか、次第に分からなくなっていくのを感じた。
夏帆はしばらく黙っていたが、やがて小さく笑った。
「別に、亮介のせいだけじゃないよ。私も、ちゃんと言葉にしてなかったし」
窓の外で、虫の声がしていた。網戸の向こうから、隣の部屋のラジオの音が漏れ聞こえてくる。あの曲だ。竹内まりやのSEPTEMBERだった。夏の終わりをまだ引きずるような、あの声だった。
「この曲、聞くたびに思い出しそうだね、私たちのこと」
「うん」
「それでいいのかな」
亮介は、少し考えてから頷いた。
「いいと思う。忘れるより、ずっといい」
二人はそれ以上、何も言わなかった。ただ、しばらくの間、同じ窓の外を見ていた。
視界がまた歪み始める。今度は、水面に石を投げ込んだときのような、優しい波紋だった。
五章 未来からの声
次に亮介が立っていたのは、見知らぬ部屋だった。
いや、正確には、見知った部屋だ。ただし、まだ亮介自身が見たことのない、未来の部屋だった。日当たりの良いリビングには、大きな出窓があり、そこから柔らかな午後の光が差し込んでいる。
壁には、亮介が長年勤めている出版社の、退職記念に贈られるような時計が掛かっている。
ソファに、一人の老人が座っていた。
背中を丸め、膝の上に文庫本を置いたまま、うたた寝をしている。
「……僕、ですか」
亮介がつぶやくと、老人がゆっくりと目を開けた。
「ああ、来たか」
老人は、驚いた様子もなく、亮介を見た。
「あんたが、僕の……」
「未来のあんただ、と言えば分かりやすいだろう。だが、あんまり深く考えなくていい。ここも、九月の結び目の中の、一つの光景に過ぎない」
老いた亮介は、ゆっくりと立ち上がり、窓辺のラジオに近づいた。古びた、けれど大切に手入れされているらしいラジオのスイッチを入れると、案の定、あの曲が流れ出した。少しノイズの混じったFMの音の向こうから、色褪せないピアノと、あの透き通った歌声が流れてきた。夏の終わりを惜しむような、あのメロディだった。
「毎年、律儀にこの曲がかかるとな、思うんだよ。今年もまた、一年が過ぎたのかって」
「僕もです。今も、ずっと」
「だろうな。歳を取れば取るほど、その一年が、どんどん短く感じられるようになる」
老いた亮介は、窓の外の、色づき始めた木々を見つめた。
「時間ってのは、相変わらず、一瞬たりとも止まらずに、先へ先へと急いでいる。あんたも、いずれ分かるようになる。年を追うごとに、そのスピードは増していくんだ。そして、ある日ふと気づく。あと、どのくらいだろう、ってな」
「その問いに、答えは見つかりましたか」
亮介が尋ねると、老いた亮介はしばらく黙り込んだ。それから、静かに、けれど確かな声で言った。
「答えは、見つからない。見つかったと思っても、次の年にはまた分からなくなる。それでいいんだと、今は思っている」
「どうしてですか」
「答えを探すことに使う時間があるなら、その分の時間を、今目の前にあるものに使った方がいい。振り返ったときに鮮やかに蘇る景色ってのは、案外、そういう積み重ねからできているもんだ」
老いた亮介は、窓辺の小さな写真立てに目をやった。そこには、若い頃の亮介と、見覚えのある女性——だが夏帆ではない、別の誰か——が並んで写っていた。
「一つだけ、覚えておくといい」
「なんですか」
「思い出は、都合よく美化される。それは、あんたを甘やかすためじゃない。この先を歩き続けるために、心が用意してくれる、小さな杖のようなものなんだ」
六章 もう戻れない場所
気づくと、亮介は再び、あの木立の陰のラジオブースの前に立っていた。柊が、変わらぬ様子でマイクの前に座っている。
「いろんな九月を見てきたようだね」
「はい。……夏帆とのこと、未来の僕のこと。全部、僕の頭の中にあったものなんでしょうか。それとも、本当にあった、あるいは、これから本当にあることなんでしょうか」
「その問いに、私は答えを持たない」
柊は静かに首を振った。
「だが、一つだけ教えてやれることがある。この九月の結び目に迷い込むのは、あんた一人じゃない。今この瞬間、あんたと同じように、夏帆もまた、どこかの九月で、あんたのことを思い出しているかもしれない」
「夏帆も、ここに?」
「同じ場所に、とは限らない。だが、誰かを強く思い出すという行為そのものが、九月という季節の持つ、ある種の緩みなんだ」
亮介は、それを確かめる術がないことを、もどかしく思った。
「もう一度、夏帆に会えますか。今の——四十二歳の姿で」
柊は、少し困ったように笑った。
「それは、この結び目の仕事じゃない。あんたが本当に会いたいなら、ラジオの中を彷徨うんじゃなくて、電話帳でも、昔の友人にでも、当たってみることだ。九月の結び目は、過去を訪ねる場所であって、今を動かす場所じゃない」
「じゃあ、僕がここで見てきたものは、一体何のためだったんですか」
柊はマイクのスイッチを、静かに切った。
「思い出させるためだ。あんたがどれだけの時間を、誰かと過ごし、どれだけの言葉を交わし損ねてきたか。それを、もう一度、体温を持って感じさせるためだ。過去は変えられない。だが、過去をどう抱えて、これからをどう生きるかは、いつだって、あんたの自由だ」
「そろそろ、あんたの九月へ帰る時間だ」
七章 思い出は美しく壊れている
目が覚めると、亮介はいつもの寝室のベッドの上にいた。カーテンの隙間から差し込む朝の光。壁の時計は、いつもと変わらない時刻を指している。
夢だったのだろうか。
亮介は起き上がり、リビングに向かった。テーブルの上には、あの差出人不明の葉書が、昨夜置いたままの場所に、そのまま残っていた。手に取ると、裏面の文字は、昨夜見たものと変わらない。
「あと、どのくらい?」
だが、よく見ると、葉書の隅に、小さな文字で追記があった。昨夜は、確かになかったはずのものだ。
「答えは、探さなくていい。——柊」
亮介は、しばらくその文字を見つめていた。それから、静かに笑った。
夏帆のことを、もう一度思い出してみる。あの夏祭りの日、辛子色のシャツを着ていた夏帆。いや、記憶の中では、あれはもっと鮮やかな黄色だったはずだ。神社の夏祭りだったか、それとも、別の年の花火大会だったか。もう、どちらが本当だったのかさえ、はっきりとは思い出せない。
けれど、それでいいのだと、亮介は思った。
亮介は、久しぶりに夏帆の名前を検索してみようかと思ったが、結局、指を止めた。今すぐ会いたい、というのとは、少し違う気がした。
その代わりに、亮介は古い名刺入れの奥から、一枚の色褪せた写真を見つけ出した。大学時代の友人たちと写った、なんでもない集合写真。隅の方に、少しだけ夏帆の横顔が写り込んでいる。
写真の中の夏帆は、辛子色でも、鮮やかな黄色でもない、ただの白いブラウスを着ていた。
亮介は声を出して笑った。
八章 秋の匂いのする原稿
九月の半ば、亮介がずっと待ち続けていた原稿が、ようやく編集部に届いた。著者は、七十を過ぎてから小説を書き始めたという、初老の女性だった。
分厚い原稿の束を受け取り、亮介は自分のデスクで、それを読み始めた。タイトルは、『九月の店』。
物語は、ある地方の商店街で小さなレコード店を営む老人を主人公にしていた。その店には、九月になると、不思議な客が訪れる。かつて店の前を通り過ぎていった、若い頃の自分自身や、遠い記憶の中の恋人。老人は、その客たちと言葉を交わしながら、自分がこれまで生きてきた時間を、少しずつ振り返っていく。
読み進めるうちに、亮介の手は、いつしか止まっていた。
——これは、僕が見てきたものと、あまりにも似ている。
亮介は原稿の最後のページに書かれた、著者からの短いあとがきを読んだ。
「この物語を書きながら、私は何度も、若い頃の自分自身に会いに行くような気持ちになりました。過去は変えられません。けれど、過去を思い出すという行為そのものが、今を生きる私たちにとって、一つの小さな旅なのだと、今は思っています」
亮介は、そのページに、静かに赤鉛筆で丸をつけた。
終章 静かな余韻
その年の九月も、いつものように過ぎていった。仕事は相変わらず忙しく、締め切りに追われる日々は続いた。だが、亮介の中で、何かが少しだけ変わっていた。
ある夕方、いつもの帰り道、車のラジオからまた、あの曲が流れてきた。竹内まりやのSEPTEMBER。何百回目かの、律儀な九月の挨拶。
以前の亮介なら、ただ「ああ、また秋か」と思うだけだっただろう。だが今は、その旋律の向こうに、辛子色のシャツと、木立の陰のラジオブースと、未来の自分が座っていたソファの記憶が、静かに重なって見える。
信号待ちで車を止め、亮介は窓を少しだけ開けた。夕暮れの風には、まだ夏の名残の湿り気があったが、その奥に、かすかに秋の匂いが混じり始めていた。
信号が青に変わる。亮介はアクセルを踏み、ゆっくりと車を進めた。
家に着くと、郵便受けに、また一枚の葉書があった。今度は、差出人の名前がきちんと書かれている。大学時代の友人からの、同窓会の案内状だった。出席者の欄に、見覚えのある名前が一つ、記されている。
夏帆。
亮介はしばらくその名前を見つめてから、返信用のハガキに、丁寧に「出席」の文字を書き込んだ。
数週間後の同窓会の夜、会場のレストランに足を踏み入れると、見覚えのある顔がいくつも並んでいた。
夏帆は、少し遅れてやってきた。記憶の中の彼女よりも、当然ながら年を重ねていたが、笑ったときに目尻に寄る皺の形が、あの夏祭りの日と、不思議なほど変わっていなかった。
「久しぶり、亮介」
「久しぶり」
それ以上の気の利いた言葉は、結局、どちらの口からも出てこなかった。
会がお開きになった帰り道、駅までの短い時間、亮介は夏帆と並んで歩いた。
「あの頃さ」
夏帆がふと口を開いた。
「私たち、なんであんな中途半端な感じで終わっちゃったんだろうね」
「さあ。若かったから、かな」
「そうかもね」
夏帆は少し笑って、それ以上その話を掘り下げようとはしなかった。
駅の改札の前で、二人は簡単に別れの挨拶を交わした。
「また、何かの機会があったら」
「うん、また」
改札を抜けていく夏帆の後ろ姿を、亮介はしばらく見送った。
帰り道、車のラジオから、また例の曲が流れてきた。もう聞き飽きるほど聞いた旋律のはずなのに、今夜はなぜか、いつもより少しだけ、優しく耳に届いた。夏の恋の終わりを歌ったあの歌が、今は自分のことのように。
亮介はソファに腰を下ろし、目を閉じた。
きっと、それが本当だったのだろう。今はただ、静かに、その余韻を楽しんでみようと思った。
(了)
あとがき
歳を重ねるにつれ、一年の過ぎ去るスピードが加速度的に早くなっていくように感じられます。
この物語に登場する「柊老人」は、そんな私たちが過去を振り返り、優しく抱え直すためのナビゲーターのような存在として生まれました。
作中で描いたように、過去を変えることはできません。記憶の細部も、時とともに少しずつ薄れ、自分にとって都合の良いように塗り替えられていくものです。しかし、それは決して悪いことではなく、私たちが前を向いて「今」を歩み続けるために、心が用意してくれる小さなお守り(杖)なのだと信じています。

