玉響たちの見ている場所
―還暦のフリダシ―
まえがき
歳を重ねるということは、引き算の連続のように思える瞬間があります。体力の衰え、あちこちの不調、健康診断の数値に一喜一憂する日々。還暦という大きな区切りを前にして、ふと「自分はどこまで歩いてこられたのだろう」と立ち止まる方も多いのではないでしょうか。
この物語の主人公・宗一もまた、そんな人生の節目で己の『星取表』と向き合う一人です。
誰も見ていない場所でのほんの小さな選択、自分自身に対するささやかな誠実さ。私たちは普段、そうしたものを意識せずに通り過ぎてしまいます。しかし、もしもその一つ一つを、静かに見守り、温かく記録してくれている「何か」が存在していたとしたら――。
老いと向き合いながらも背筋を伸ばして生きるすべての大人たちへ、くすっと笑えて心がすっと軽くなるような物語をお届けできれば幸いです。
序章 三対七の朝
目が覚める。
それだけのことが、実はとんでもない僥倖なのだと知ったのは、いつ頃からだったろう。宗一はこの数年、朝の一分間をそんな確認作業に費やすようになっていた。天井を見て、指を動かし、深呼吸をひとつ。ああ、今日も起きられた。それだけで、もう一日分の運を使い果たしたような気さえする。
五十九歳。還暦まであと一年を切った。
布団から出て、寝室の隅にある姿見の前に立つ。パジャマの上から腹をさすり、肩を回し、膝の裏をとんとんと叩く。若い頃は意識したこともなかった関節という関節が、今では律儀に「本日の調子」を報告してくる。今朝の判定は――右膝がやや不服、腰は概ね平常、目の霞みは相変わらず。
主治医からもらった数値の紙を思い出す。先週の健康診断の結果だ。良好な項目が三つ、要注意が七つ。三勝七敗。星取表にすればそういうことになる。若い頃なら笑い飛ばせた数字が、この歳になると妙に生々しく体に刺さってくる。
「三対七か」
鏡の中の自分に向かって呟くと、鏡の中の自分も同じ渋い顔で頷き返してきた。当然である。
それでも、と宗一は思う。それでもまだ何とかなるのではないか。背筋を伸ばし、姿勢を正し、鏡の中の自分の目を正面から見据える。老いた体と格闘するにしても、せめて姿勢だけは崩したくない。そういう意地のようなものが、還暦を前にした今、妙にはっきりと形を持ち始めていた。
と、そのとき。
鏡の端、寝室の隅の暗がりに、小さな光がひとつ浮かんでいるのに気づいた。
大きさは一円玉ほど。色は説明しがたい。白でもなく金でもなく、強いて言うなら朝露が朝日を弾いた瞬間の色。ふわりと、それはまるで宗一の姿勢を確認するかのように、少し上下に揺れている。
驚きはしなかった。もう見慣れたものだったからだ。
宗一はそれを、心の中でひそかに「玉響(たまゆら)」と呼んでいた。万葉の昔、露や玉が触れ合ってかすかに音を立てる、そのわずかな時間を指す言葉だという。誰に教わったわけでもない。ただそう呼ぶのが、しっくりきたのだ。
いつからいるのか、正確には思い出せない。気づけば、朝、姿勢を正すたびに、部屋の隅にふっと現れているようになっていた。害があるわけでもなく、話しかけてくるわけでもない。ただ、じっと、こちらを見ているような気がする。
誤魔化しは通用しない。そんな気がした。
根拠はない。ただ、この小さな光の粒を前にすると、昨夜こっそり食べた深夜のカップ麺のことや、健診の数値を見なかったことにしようとした自分の弱さのことが、なぜか一つも隠せない気分になるのだった。
「おはよう」
誰にともなく、鏡と、その隅の光の両方に向けて、宗一は小さく声をかけた。
玉響は、応えるように、ふわりと一度大きく揺れた。
第一章 玉響、現る
その日の午後、宗一は近所の内科で再検査を受けた。結果は変わらず三対七。医師は画面のグラフを指しながら、「加齢によるものが大半ですが、生活習慣で改善できる部分もありますよ」と、この十年で何度も聞いた台詞を繰り返した。
バス停のベンチに座って薬局からの帰りを待つ間、宗一はふと空を見上げた。八月の終わりの、まだ夏の名残を引きずった強い日差し。目を細めたその視界の隅に、また見えた。
玉響が、二つ。
一つは家の隅で見たものと同じくらいの大きさ。もう一つは心持ち小さい。二つは寄り添うように、宗一の頭上、街路樹の葉の間を漂っている。
「……お前ら、ついてきたのか」
思わず声に出してから、宗一は周りを見回した。幸い、バス停に他の人影はなかった。もし誰かに見られていたら、還暦間近の男が街路樹に向かって話しかけている、なかなかに危うい絵面だったろう。
玉響たちは答えない。ただ、宗一の視線に応じるように、心なしか輝きを強めた。
このところ、玉響は数を増やしている気がする。最初は一つだけだったのに、今では多いときで五つ、六つと連なって漂っていることもある。それが何かの前触れなのか、ただの経過観察なのか、宗一には見当もつかなかった。
ただ、はっきりしていることが一つだけある。
玉響が現れるのは、決まって宗一が「誰も見ていない」と思っている瞬間だということだ。
深夜、家族が寝静まった後、こっそり菓子パンに手を伸ばそうとしたとき。健診の結果を見なかったふりをして、書類を引き出しの奥に押し込もうとしたとき。スーパーのレジで、小銭が一円足りないのに気づかないふりをしようとしたとき――そんな、誰の目もない、ほんの小さな不正直の瞬間に限って、視界の隅にあの光がふっと現れるのだ。
そして不思議なことに、宗一がその小さな誘惑を振り払い、正直な選択をすると、玉響はまるでご褒美をくれるように、ひときわ美しく瞬いてみせる。
最初は偶然だと思っていた。目の疲れか、加齢による飛蚊症の一種だろうと笑い飛ばそうとした。しかし積み重なるにつれ、これは偶然というには、あまりにも律儀すぎるパターンだった。
まるで採点している。まるで、誰かがどこかで、宗一という一人の人間の「今日の行い」を、この小さな光の粒を通して見守り、静かに記録しているかのように。
バスが来た。玉響たちはバスのドアが開くと同時に、ふっと姿を消した。まるで宗一の乗車を見届けて、任務完了とばかりに解散したかのように。
シートに腰を下ろしながら、宗一は自分の膝の上で両手を組んだ。
(監視、なのか。それとも、応援、なのか)
どちらにしても、悪い気はしなかった。むしろ、誰にも見せない自分の背筋を、誰かがちゃんと見ていてくれる。そのことに、宗一は還暦を前にして初めて、ある種の安堵に似た感情を覚えていた。
第二章 血の系譜
その週末、一冊の本が宗一のもとに届いた。差出人は稲葉という、幕末史を専門に研究している郷土史家だった。以前、宗一の実家の墓所について問い合わせを受けたことがあり、その返礼という形で、稲葉家の墓所を含む地域の由緒をまとめた私家版の書籍を送ってくれたのだ。
宗一はページをめくりながら、思わず唸った。そこには、宗一の実家――曾祖父の代から続く家系の断片が、丁寧な聞き取りと古い戸籍調査によって再構成されていた。
曾祖父には、実は三人の妻がいた。
最初の妻との間に、二人の娘が生まれた。しかし、その妻と娘たちは、時代の病により若くして相次いで世を去った。次に迎えた妻もまた、若くして亡くなっている。三人目の妻との間に生まれたのが、宗一の伯父にあたる人物だった。
つまり、宗一という一人の人間がこの世に生を受けるまでに、少なくとも三人の女性が、若くしてこの世を去るという不幸を経ていたことになる。
本を閉じ、宗一はしばらく天井を見上げていた。
(もし、最初の妻が亡くならなかったら)
(もし、二番目の妻が長生きしていたら)
その先には、今の自分は存在しない。父も、自分も、そして今こうしてリビングでテレビを見ている息子の拓真(たくま)も、この世に生まれてはいなかったということになる。
偶然、と片付けるにはあまりに出来すぎている。まるで、誰かがあらかじめ「宗一という一人の人間をこの世に送り出す」という一点のゴールに向けて、幾つもの悲しい出来事を、駒を進めるように配置していったかのようだ。
その夜、風呂上がりに脱衣所の鏡の前に立つと、また玉響が現れた。今度は三つ。心なしか、いつもより明るく灯っているように見える。
「お前ら」
宗一は湯気の中で、鏡越しに玉響たちに問いかけた。
「うちの家系図のことも、知ってるのか」
もちろん返事はない。ただ、三つの光は、まるで頷くようにゆっくりと弧を描いて漂った。
ばかばかしい、と自分でも思う。五十九にもなって、光る玉に向かって家系の因縁を問いただしているのだ。だが、笑い飛ばそうとするそばから、背筋のあたりに冷たいものが走った。
もし本当に、この光たちが何かの「管理者」だとしたら。人がこの世に生まれ、恋をし、別れ、また出会い、子をなし――その一つ一つの分岐点に、こっそり手を貸している存在だとしたら。
宗一自身にも覚えがあった。若い頃、当時付き合っていた女性と別れた。理由は些細なすれ違いだった。今にして思えば、あの別れがなければ、今の妻とは出会わなかった。あの日の些細な喧嘩、あの日たまたま乗り遅れた電車、あの日ふと足を向けた店――どれか一つでも違っていたら、今この家に自分はいない。
偶然にしては、あまりにも都合よく積み重なっている。
まるで最初から、そうなると決まっていたかのように。
脱衣所の湯気の向こうで、三つの玉響がゆっくりと瞬いた。宗一には、それがどこか、悪戯っぽく笑っているように見えてならなかった。
第三章 将棋の駒
翌週、宗一は思い切って玉響に「取材」を試みることにした。
やり方は単純だ。深夜、家族が寝静まった台所で、こっそり冷蔵庫のプリンに手を伸ばす――ふりをする。これまでの経験上、こうした「誰も見ていない小さな不正直」の瞬間に、玉響は必ずと言っていいほど現れた。
案の定、冷蔵庫のドアを開けた瞬間、視界の隅にふわりと光が灯った。今回は一つだけ。心なしか、いつもより警戒しているような揺れ方をしている。
「よし」
宗一は小声で呟くと、プリンには手を触れず、代わりに用意しておいたメモ用紙とペンを取り出した。
「お前らが何なのか、聞かせてくれないか」
もちろん、返事などあるはずがない。宗一自身、半分は自分の正気を疑いながらの行動だった。しかし、次の瞬間――光がすっと動き、台所の壁に、ぼんやりとした模様を投影し始めたのだ。
それは文字のようであり、絵のようでもあった。無数の点が枝分かれし、広がっていく図。宗一にはすぐにピンときた。家系図だ。しかも、自分の家のものだけではない。見たこともない名前、見たこともない土地の名が、無数に連なっている。
図の中の一点が、ひときわ強く光った。そこには「宗一」と、たしかにそう読める文字があった。
その光る点から、何本もの細い線が過去へと遡っていく。先週読んだ本にあった、三人の妻の名前が浮かび上がる。さらにその先、江戸の終わり頃と思しき時代まで、線は途切れることなく続いていた。
そして線は、宗一のところで終わらない。未来へも、一本、細く伸びている。その先には「拓真」――息子の名があった。図の隅には、小さく『第七係』と読める印のようなものまで混じっている。
「……なるほどな」
宗一は思わず声を漏らした。
「お前らは、これの管理をしてるってわけか。系図の、継続の」
壁の光が、応えるようにひときわ強く瞬いた。まるで「その通り」と言っているかのようだった。
冗談のような話だが、妙に腑に落ちる部分もあった。歴史というものは、振り返れば振り返るほど、まるで最初から決まっていたレールの上を進んできたように見える。時代は繰り返し、同じ側へと流れ、決して逆戻りしない。多くの出来事が、まるで無理やり幕を引かれるように、都合よく収束していく。
人はよく「運命」という言葉を使うが、もしこれが本当に「管理」されているのだとしたら――自分たちは、盤の上を進む将棋の駒のようなものなのかもしれない。指し手の意図までは分からずとも、確かに誰かの手によって、一手ずつ前へ進まされている。
そこまで考えて、宗一はふと苦笑した。
「駒にしちゃ、ずいぶん寿命が長いけどな」
軽口のつもりだったが、壁の光の模様が、心なしかふるふると小刻みに揺れた。まるで笑っているかのように。
そのとき初めて宗一は、玉響という存在に、単なる「監視者」以上の――どこか間の抜けた、憎めない気配を感じ取った。
第四章 円環管理組合
翌朝、宗一が目を覚ますと、寝室の隅に、これまで見たこともない数の玉響が集まっていた。数えてみると、七つ。寄り集まり、まるで会議でも始めるかのように、円になって漂っている。
そのうちの一つが、するりと前に出た。他よりわずかに大きく、心なしか貫禄がある。壁に映る光の模様が、今度ははっきりとした文字を結び始めた。
『円環管理組合 地区担当 第七係』
「……組合」
宗一は思わず噴き出しそうになった。神秘的な光の粒だと思っていたら、まさかの労働組合めいた肩書きである。
文字はさらに続いた。
『われわれの職務は、系譜の継続監査、および誠実度の記録である』
『貴殿は、対象コード「宗一」として、生誕以来、継続的な観察対象となっている』
『本日をもって、還暦一年前の中間審査を行う』
中間審査。まるで会社の人事考課のような響きに、宗一は苦笑を禁じ得なかった。
「審査って、俺、何か落第でもするのか」
『継続の可否を判断する。落第の場合、当該系譜は打ち切られる』
『補足。「打ち切り」とは、血縁が途絶えることを意味しない。受け継がれてきたものが、そこで途絶えることを意味する』
その一文に、宗一の背筋がすっと冷えた。冗談で済ませられる話ではないらしい。
『ただし、これまでの記録によれば、貴殿の誠実度は良好である』
『とりわけ、他者の目のない場面における選択の一貫性が評価されている』
深夜のプリン。健診結果の隠蔽未遂。レジの一円。どれもこれも、宗一が「バレなければいい」と思いながらも、結局は自分に嘘をつけずに正直な側を選んできた、ささやかな瞬間ばかりだった。それが、まさかこんな形で「評価」されていたとは。
「待てよ。じゃあ、お前らはずっと、俺の――先祖代々、ずっとこうやって見張ってきたのか」
『見張る、ではなく、見守る、が正確な表現である』
『われわれの管掌領域は、貴殿一代に限らない。曾祖父の代より継続する案件である』
宗一は絶句した。三人の妻の悲劇も、若い頃の恋の破局も、すべてこの「組合」の管轄下にあったということなのか。
『補足。われわれに、個々の生死を操作する権限はない』
『われわれの職務は、あくまで継続すべき系譜が途絶えぬよう、選択の岐路において、当人の誠実な判断を後押しすることのみである』
『補足する。継続とは、血縁のみを意味しない』
『言葉、記憶、仕事、優しさ――誰かから受け取ったものを、次の誰かへ渡すこと。われわれは、それもまた「系譜」と呼んでいる』
その一文に、宗一は少し虚を突かれた。てっきり、血のつながりだけの話だと思っていたからだ。子を持たなかった友人の顔や、家族ではないのに何かを託されたと感じた恩師の顔が、ふっと頭をよぎった。
なるほど、と宗一は少し肩の力を抜いた。運命を操る強大な存在、というよりは、地味な現場監督のようなものらしい。悲劇そのものを起こしているわけではなく、起きてしまった出来事の後、その先の道を途切れさせないよう、細々と後押しをしているだけ――ということか。
なんだか急に、この光の粒たちが、遠い親戚のおじさん、おばさんのように思えてきた。
「お前らも、大変だな。何百年もこの家の面倒見てるわけだろ」
壁の文字が、少しの間を置いて、こう結ばれた。
『繁忙期である。貴殿の同期には、他にも継続困難な案件が多数存在する』
愚痴めいた一文に、宗一は今度こそ声を出して笑ってしまった。神秘の使者だと思っていた相手が、まさかの「繁忙期」を訴えてくるとは。
どうやら、この宇宙のどこかには、地味な残業を重ねながら、無数の家系図をせっせと守っている、名もなき「係」たちがいるらしい。
第五章 フリダシ
それから一年が経ち、宗一は還暦を迎えた。
家族に祝ってもらった夜、赤いちゃんちゃんこを着せられて、拓真にスマホで写真を撮られながら、宗一は妙な感慨に浸っていた。還暦とは、干支が一巡し、生まれた年の干支に還ることを言う。つまり、人生における最初の「フリダシ」に戻る日だ。
その夜、床についてすぐ、宗一は不思議な夢を見た。
夢の中で、宗一は真っ白な部屋にいた。窓もドアもない、ただ光に満ちた空間。目の前には、七つの玉響が、これまでで一番大きく、一番明るく輝きながら浮かんでいる。
『最終審査を開始する』
壁のない部屋に、文字が浮かぶ。
『対象コード「宗一」。継続監査、六十年分。総評――良好』
良好、という二文字に、宗一は思わず胸が熱くなった。三対七の健診結果を見せられ続けたこの数年、良好という言葉からずいぶん遠ざかっていた気がしたからだ。
『特記事項。他者の観測なき状況下における選択の一貫性、極めて高い水準を維持』
『深夜の菓子類、健診結果の一時的な逃避行動、レジでの一円――いずれも最終的に誠実な選択に帰結』
「……お前ら、そんな細かいことまで記録してたのか」
気恥ずかしさに頭を掻く宗一に構わず、文字は続いた。
『よって、本組合は貴殿の系譜継続を承認する』
『次期主任継承者「拓真」への引き継ぎも、良好に進行中と判断する』
『貴殿の役割は、第一章を終え、第二章へ移行する』
その一文の後、光の粒たちの動きが、これまでとは少し違って見えた。どこか、緊張が解けたような、柔らかな揺れ方だった。
『ここでご案内がある』
『第二章においては、監査頻度を大幅に緩和する』
『これまでのような、日々の細かな観察は行わない』
『貴殿には、これより先、これまでの誠実さを土台として、ご自由に生きていただいて構わない』
どうぞご自由に。
その言葉を、宗一は夢の中で、しばらく噛みしめていた。
これまで、玉響たちの視線を、どこか監視のように、あるいは重荷のように感じていた部分もあった。しかしそれは同時に、自分を見捨てず、律儀に見守り続けてくれる何かの存在でもあった。その視線が、これからは緩む。もう毎日の答え合わせをしなくてもいい。
それは解放であると同時に、少しの寂しさでもあった。
『以上をもって、対象コード「宗一」に対する第一章の監査を終了する』
『最後に一言、申し添える』
文字が、いつもの事務的な調子から、わずかに違う響きを帯びた気がした。
『ここまで、繋いでいただき、感謝する』
『ご苦労であった』
夢の中で、宗一は不覚にも涙ぐんだ。誰に見られているわけでもない、夢の中の出来事だというのに、それでも構わず、頬を伝うものがあった。
目が覚めると、朝だった。
寝室の隅を見る。そこにはもう、玉響の姿はなかった。
終章 墓参り
週末、宗一は拓真を連れて、実家の墓所へ向かった。稲葉から届いた本のことを話すと、拓真は意外にも興味を示し、「じいちゃんのそのまた前の話、俺も知りたい」と言って、休みの予定をずらしてまで付き合ってくれた。
墓地は山の中腹にあり、車を降りてからも少し歩く必要があった。夏の終わりの日差しの中、汗をかきながら石段を上る自分の足取りが、以前より少しだけ軽い気がした。三対七の星取表は、相変わらず健診のたびに宗一を悩ませているが、それでも今朝は、いつもより深く息が吸えている気がした。
三勝七敗。ずっとそう思っていた。良い項目が三つ、要注意が七つ。負け越しの人生だと、どこかで決めつけていた。
だが、と石段を踏みしめながら宗一は思う。人生というものは、どうやらそんな単純な星取表ではないらしい。勝った負けたで数えられるものの向こうに、誰にも採点されない、それでいて確かに積み上がっていくものがある。それは今のところ、三でも七でもない、うまく数えようのない何かだった。
曾祖父の墓の前に立ち、線香を上げる。三人の妻の名も、それぞれ小さな墓標に刻まれていた。宗一はしゃがみこみ、一つ一つの名前を指でなぞった。
「あんたらのおかげで、俺はここにいる」
声に出すと、隣で拓真が怪訝な顔をした。
「誰と喋ってんの、父さん」
「ん――まあ、いろいろだよ。ご先祖さんと、あと」
言いかけて、宗一は言葉を濁した。光る玉と会話していた、などと言えば、息子にどんな顔をされるか分かったものではない。
ふと視線を上げると、墓石の連なる向こう、木漏れ日の差す空間に、小さな光がひとつ、揺れているのが見えた気がした。
目を凝らす。木漏れ日が葉の隙間から零れているだけかもしれない。あるいは、単なる目の錯覚かもしれない。夢の中で「監査頻度を大幅に緩和する」と言われたばかりなのだ。もう頻繁には現れないはずだった。
それでも――と宗一は思う。
それでも、たまには、ふらりと様子を見にくることくらいは、あってもいいのではないか。ここまで繋いできた家系図の、その先の広がりを、ちょっとだけ確かめに来る。そんな、律儀な「係」らしい姿が、目に浮かぶようだった。
(監査頻度を緩和するって言ってたけど――抜き打ちは、あるのか?)
心の中でそう問いかけた瞬間、木漏れ日の光が、一度だけ、ぴくっと揺れた気がした。
(おい、あるのかよ)
思わず口の中で呟いて、宗一は一人で噴き出しそうになった。
「父さん、行くよ」
拓真の声に、宗一は我に返った。
「おう」
立ち上がり、膝の裏をとんとんと叩く。相変わらず右膝は不服そうだ。それでも、姿勢を正し、正面を向く。
誰も見ていないところでも、正しくあろうとすること。それは案外、誰かのためではなく、自分自身のための、ささやかな儀式だったのかもしれない――そんなことを思いながら、宗一は息子の背中を追って、山道を下り始めた。
振り返ると、木漏れ日の中の光は、もう見えなくなっていた。
だが、確かにそこにいた。それだけで、十分だった。
(了)
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あとがき
『玉響(たまゆら)』という言葉には、ほんのわずかな時間、かすかな響きという意味があります。慌ただしく過ぎ去る日常の中で、私たちは時として「自分は何を残せているのだろう」「これまでの歩みに意味はあったのだろうか」と、ふと孤独を感じることがあります。
けれど、誰も見ていないところで取った選択や、誰にも気づかれない小さな優しさ、崩さずにいた姿勢――そうした目に見えない些細な『誠実さ』こそが、自分自身を形作り、次の世代や周りの人々へ静かに受け継がれていくのかもしれません。
還暦という「フリダシ」は、決してゼロに戻るということではなく、これまでに積み上げてきたものを糧にして、新しく自由な旅を始めるためのスタートラインなのだと感じています。
今日を生きる皆様の日常にも、ふとした瞬間に温かな木漏れ日のような光が寄り添ってくれますように。
追伸
そうそう
こんな物語を書いていたら
昨晩は
沢山の玉響たちが
ゆらり姿見を見せてくれました


