波聞き又兵衛、最後のうねりを待つ
まえがき
本作は、重力の狂った近未来の海と、時代遅れな波乗りじじいたちの「ただ待つだけの時間」を描いたちょっと変で、少し愛おしい物語です。効率とリトライ(やり直し)が約束された現代において、「取り返しのつかない一瞬」を待つことの豊かさを、滑稽なSFの味わいとともに感じていただければ幸いです。
序章 コード崎にて
西暦二〇六一年。太平洋のとある入江、通称コード崎には、もう何年も前から奇妙な噂が立っていた。
三年前、静止軌道上で任務にあたっていた重力レンズ観測衛星「テラフォーマー三号」が、原因不明の制御不能に陥った。衛星はそのまま軌道上をふらふらと漂い続け、地上に向けてときおり、意味のわからない重力の揺らぎを撒き散らすようになった。おかげでこの入江の海面だけが、他所の海とは似ても似つかぬ挙動を見せるようになったのである。
波が、来る。ただの水の盛り上がりではない。うっすらと虹色に光り、間近で見ると水面の向こうに、ほんの一瞬だけ「ここではないどこか」が透けて見えることがある――と、地元の年寄りたちは口を揃えて言う。国の波動庁はこれを「時空境界性異常波浪」と呼び、危険因子に指定し、遊泳も禁止にしようとした。だが、それでもなお、毎朝暗いうちからボードを抱えて浜に降りてくる年寄りたちがいた。
世間はとうにこの浜を見限っていた。若者たちは家庭用の全天周没入装置「ナミーモ」で、危険もベタつく潮も日焼けもない「波」を好きなだけ味わえる時代である。わざわざ潮風に吹かれて、冷たい水に浸かって、本物の――しかも時空の裂け目つきの――波を待つ酔狂は、この国では絶滅危惧種に指定されてもおかしくなかった。
第一章 オヤジと又兵衛
宮田又兵衛、六十五歳。かつては大手電機メーカーでシステム管理者として三十年勤め上げ、定年と同時に妻に「もう好きにしていいよ」と背中を押されてこの海に戻ってきた。学生時代からの相棒であるボード――両面テープだらけで継ぎ接ぎされた年代物、本人いわく「白鯨号」――を担ぎ、毎朝四時半に折りたたみ椅子と魔法瓶を持って波打ち際に陣取るのが日課だった。
「波乗りっていうのはな」と又兵衛は、隣で同じく椅子に座る幼馴染の茂さんに、もう三百回は語った持論をまた語る。「華やかに見えて、じつのところ九割九分は、ただ座って待ってるだけの遊びなんだよ」
「知っとるがな、又兵衛。お前それ、毎朝言うとる」
「待って、待って、これだと思う波が来たときにだけ、勝負をかける。それだけの遊びだ。しかもその一瞬の判断は、誰も代わってくれん。全部、自分ひとりの責任でな」
茂さんはあくびをしながら、魔法瓶の蓋にコーヒーを注いだ。沖には虹色にきらめく朝もやが立ちこめ、まだ「これだ」という波は来ない。今日も、ただ待つだけの一日になりそうだった。
第二章 草食系の弟子、ユウト
その日の昼過ぎ、茂さんの孫だという少年が、渋々といった様子で浜に降ろされてきた。名前をユウト、十七歳。祖母に「たまには外の空気を吸ってきなさい」と強制的に連れてこられたらしく、両手にはナミーモ用のゴーグルをしっかり握りしめていた。
「潮風、髪に悪いんですよね……あと、日焼け止めSPFいくつ塗ればいいとか、わかんないし」
「SPFな」と又兵衛は苦笑した。「ナミーモとやらの波は、失敗してもリトライボタンがあるんだろう」
「そうですよ。ワイプアウトしても、ワンボタンで巻き戻せるし、痛くもないし。なんでわざわざ本物でやるのか、意味わかんないっす」
又兵衛はしばらく黙って沖を見つめ、それからぽつりと言った。
「巻き戻せる波にはな、乗った実感ってもんが残らんのだよ。転んで塩水を吸って、悔しくて、また沖まで漕いで戻って――その全部込みでしか、味わえんものがある」
ユウトは半信半疑のままボードを借り、恐る恐る水に入った。最初の小さな波で見事にすっ転び、塩水を派手に吸い込み、「げほっ、これ、リトライボタンどこですか!」と叫んで年寄りたちの爆笑をかった。だが不思議なことに、浜に這い上がってきたユウトの目には、それまでになかった妙な輝きが宿っていた。
第三章 ケンタの横入り
この浜にはもう一人、若い顔があった。名を村上ケンタ、二十四歳。都会からわざわざ通ってくる自称「波動フリーク」で、腕は確かに立つのだが、いかんせん行儀が悪い。誰かが「これだ」と狙いを定めた波にも、我先にとパドルをかけてかっさらっていくのが常だった。
その朝も、又兵衛が半刻かけて見極めた「これぞ」という一本を、ケンタが横合いから鮮やかにテイクオフして持っていった。茂さんが悔しがって舌打ちをするが、又兵衛はにやりと笑っただけだった。
「往生際が悪いぞ、又兵衛。あれ絶対、お前が先に目ぇつけとった波じゃろ」
「競って奪い合うほどのもんでもなかろう」又兵衛は水を掻きながら涼しい顔で言う。「あいつがどうしても欲しいなら、微笑んで譲ってやりゃあいい。こっちはまた次を待つだけの話だ」
そのやりとりを浜から眺めていたユウトが、思わず口を挟んだ。
「悔しくないんですか? ナミーモだったら絶対キレてるとこですよ」
「悔しいさ」又兵衛は笑った。「だが海はな、誰の持ち物でもない。次のやつを、ちゃんと自分の力で見極めて、自分の判断で乗る。それでいいんだ」
去り際にケンタは吐き捨てるように言った。「ハッ、譲り合いごっこすか? 平行世界(向こう)の俺だって、こんなイイ波全部かっさらって無敵に決まってますから!」
いつしか浜の年寄りたちは、又兵衛のことを親しみをこめて「譲りジジイ」と呼ぶようになっていた。
第四章 ワイプアウトと復元
翌週、又兵衛はついに「これだ」の波に恵まれた。だが技量が肉体に追いつかない齢というのは残酷なもので、テイクオフの瞬間にボードの鼻先が波に刺さり、盛大にワイプアウトした。
水中で真っ逆さまに揉まれながら、又兵衛の視界がふっと虹色に滲んだ。テラフォーマー三号がもたらす、あの噂の「裂け目」だった。ほんの二秒ほどのことだったが、彼は確かに見た。――全身ネオンタイツを着てDJ卓の前で波に乗る自分や、なぜか歌舞伎の隈取りをして見得を切り、観客からやんやの喝采を浴びている自分そっくりの男の姿を。
水面に顔を出した又兵衛は、げほげほと咳き込みながらも大笑いしていた。
「どうしたんです、大丈夫ですか」慌てて駆け寄るユウトに、又兵衛は答えた。
「いや、なに、どこかの俺が隈取りで見得を切っておったよ。あの世界の俺の方が、よっぽど男前だったな」
そして又兵衛は、ふらつく体でボードを手繰り寄せ、また黙々と沖へパドルを漕ぎ出した。何度転んでも、また沖へ戻る。それだけが、この遊びの掟だった。
第五章 根源波
その年の初め、波動庁からコード崎に一枚の告知が貼り出された。テラフォーマー三号の軌道がついに限界を迎え、来月末をもって入江全域に「波動ダンパー」――異常波浪を完全に封じ込める巨大な防波堤――が設置されるという。つまり、あの虹色に光る本物の波が、この世から消えるということだった。
年寄りたちの間では、封鎖前の最後の大潮の日に、伝説の「根源波」が現れるという噂がまことしやかに囁かれていた。テラフォーマーの揺らぎが極大に達したとき、ただ一度だけ現れるという、すべての裂け目の中でもっとも深い、もっとも根源的な波――というのである。
その噂を聞きつけたケンタも、めずらしく浜に泊まり込んで待つようになった。「伝説の波ってやつ、俺が一番に頂くんで」と、いつもの調子で不敵に笑いながら。
一方のユウトは、ゴーグルを持たずに毎朝浜に来るようになっていた。祖母に強制連行されるのではなく、自分の意志で。又兵衛は何も聞かず、ただ隣にもう一つ折りたたみ椅子を用意しておいた。
第六章 選択の朝
封鎖前夜、ついにその朝が来た。空はまだ暗く、海だけが虹色に脈打っていた。沖合の一点から、これまで見たどの波よりも巨大で美しい、ゆっくりとしたうねりが立ち上がってくる。
「あれだ」と誰かが呟いた。根源波だった。
案の定、真っ先にパドルをかけたのはケンタだった。誰よりも早くテイクオフを決め、勝ち誇った顔で振り返る。だがその瞬間、波の内側が虹色に大きく渦を巻き、ケンタの体をふわりと呑み込んだ。
一拍おいて水面に戻ってきたケンタは、なぜか目を丸くして、ぶるぶると震えていた。「み、見た……向こうの俺、めちゃくちゃ礼儀正しくて、誰にも横入りしない、いいやつだった……なんか、無性に恥ずかしい……」独り言のようにつぶやきながら、そのままふらふらと岸へ引き上げていった。根源波は、彼の望みどおりの「勝利」を、彼が一番痛いところで返してよこしたらしい。
波はそれで終わりではなかった。根源波は崩れる直前、後方にもう一段、優しく整った波を生み落とした。
又兵衛はその波を見て、パドルを止めた。そして隣で固まっているユウトの肩を叩いた。
「行け」
「え、俺、無理です、そんな……」
「いいから行け。これはお前の波だ。俺のじゃない」
ユウトは震える手でパドルを掻いた。何度も水を飲みそうになりながら、それでも波のスピードに体を合わせ、気づけば板の上に立っていた。虹色の飛沫を全身に浴びながら、ユウトは生まれて初めて、リトライボタンのない世界で、自分の力だけで波を乗り切っていた。
浜からは歓声が上がった。又兵衛は沖に浮かんだまま、自分では波を追わず、ただその背中を見つめて静かに笑っていた。
終章 波の彼方に
翌週、コード崎には約束どおり巨大な波動ダンパーが設置され、虹色に光る波はこの世から姿を消した。テラフォーマー三号は静かに軌道を離れ、どこか宇宙の彼方へ消えていったという。
それから幾月かが過ぎた。ユウトは今も毎朝、ダンパーの向こうに広がる、ごく普通のただの海に出ている。もう波に裂け目はない。それでも彼は飽きもせず、ボードを抱えて波打ち際に立ち続けている。
又兵衛はといえば、すっかり「先生」と呼ばれる立場に収まり、折りたたみ椅子に座ったまま、若い連中に講釈を垂れる日々である。
「いいか。波が小さかろうが、予想外に大きかろうが、うねりを伴っていようが、それを選ぶのはいつだって自分だ。誰にも譲れんし、誰にも代わってもらえん。――それを引き受けられるやつのことを、この浜じゃ昔から、ちゃんと一人前と呼ぶんだよ」
ユウトは半分聞き流しながら、それでも今日も波打ち際に立ち、沖を見つめている。かつて草食系と呼ばれた少年の背中は、いつのまにか、潮風にすっかり焼けていた。
――時空の裂け目が閉じようが、世界がどれほど便利になろうが関係ない。コード崎の朝もやの向こうでは、今日もただ、自分だけのうねりを待つ誰かがいる。それだけで、じゅうぶんなのかもしれない。
(了)
あとがき
本作は、デジタルとアナログ、そして人生における「選択」と「責任」をテーマに執筆しました。劇中の「ナミーモ」のように、失敗をワンボタンで帳消しにできる世界は一見魅力的ですが、傷つきながら波を待つ時間の中にこそ、人間らしい愛おしさが宿るのではないか――そんな思いを込めています。
どんなに世界が変わっても、自分の波を選び取り、待つことができるすべての人へ。

