通り過ぎる刹那
―そのとき、光の切れ端が肩をかすめた―


まえがき
 ふと振り返ったとき、「あのとき、別の道を選んでいたらどうなっていただろう」と考えたことはありませんか。
 告白できなかったあの日の夕暮れ。理由をつけて見送った転職や挑戦の話。疎遠になってしまった大切な人との連絡。
 私たちの人生は、後になってから「あれが決定的な瞬間だったのだ」と気づく出来事で満ちています。その多くは鐘も鳴らさず、稲光も走らせず、ただ静かに私たちの肩を掠めて、知らぬ間に通り過ぎていってしまいます。
 この物語は、そんな「通り過ぎていく機会」が、もしも目に見える光の膜となって現れたら……という一つの問いから始まりました。
 選択肢が見えすぎるがゆえに足がすくんでしまう主人公・周平の姿は、もしかすると、慎重に生きる現代の私たち自身の姿かもしれません。
 かつて何かを取りこぼしたことのあるすべての人へ、この静かな物語を贈ります。




プロローグ
 人は誰でも、一生のうちに何度か、決定的な瞬間を通り過ぎる。
 それは目覚まし時計のようには鳴らない。稲光のように空を裂きもしない。ただ、静かに、こちらの肩のあたりをかすめて、何食わぬ顔で歩み去っていくだけだ。
 多くの場合、人はそれと気づかない。「また機会があるさ」と、心のどこかで呟きながら見送ってしまう。だが、実際にはそれが最初で最後だったということが、この世にはいくらでもある。
 そのことに気づいたときにはもう、それは遥か遠くまで行ってしまっていて、二度と手の届くところには戻ってこない。
 多くは、それきりのことで終わる。人生に一度きりのチャンスというのは、案外そんなふうに、後になってから、そうと知れるものらしい。
 そして、それは恋愛においても、まったく同じことだ。目の前にいる誰かを、「もっと他にいい人がいるかもしれない」と思って疎かにしていると、その人はある日、さらりと、まるで最初からそうなる運命だったかのように、誰か別の人に攫われてしまう。あとに残るのは、一生分の後悔だけだ。
 ――これは、その「通り過ぎていくもの」が、ほんとうに目に視えてしまった、ある平凡な男の話である。



一章 視えない街で
 佐伯周平は、二十九歳になっても、自分の人生に決定的な瞬間などまだ一度も訪れていないと思っていた。
 朝は七時十五分の準急に揺られ、夕方はまた同じ路線を逆向きに揺られて帰る。勤め先は神田にある中堅の印刷会社で、周平は営業部の窓際に近い席で、来る日も来る日も、代わり映えのしない見積書を作っていた。上司からは「悪くはないが、可もなく不可もなく」と評され、同期からは「安定志向」と評され、周平自身も、そうした評価に特に異論はなかった。
 実家は埼玉の郊外にあり、両親は今も健在で、盆と正月には帰省する。父は定年退職した元公務員で、母はパートで近所のスーパーに勤めている。ごく普通の家庭に育った、ごく普通の男。それが、周平の自己認識だった。
 特別に不幸というわけではない。給料はそこそこあるし、身体も健康だ。ただ、何かが起こる予感というものが、まるでなかった。目を覚まし、電車に乗り、働き、帰って眠る。その繰り返しの中で、周平はいつからか、自分の人生を「まだ助走の段階にある」と思うようになっていた。本番はこれからだ、と。だが、その「これから」がいつ来るのかは、周平自身にもわからなかった。
 周平には、昔からの癖がある。何か心を動かされることがあっても、「まあ、また機会があるだろう」と自分に言い聞かせて、その場をやり過ごしてしまう癖だ。
 高校三年生のとき、隣のクラスにいた女子生徒に、卒業式の日に告白しようと決めていた。名前は確か、木下といった。図書委員が一緒で、返却期限の過ぎた本の督促状を作りながら、たわいもない話をする仲だった。卒業式の朝、周平はポケットに、前の晩に何度も書き直した便箋を忍ばせていた。式が終わり、教室で最後のホームルームが解散になったとき、木下は少し目を潤ませながら、周平に「今までありがとう、佐伯くん」と声をかけてきた。まさにそのとき、周平の中で、あの馴染みの声が囁いた。――まだ気持ちの整理がついていないかもしれない。今言うより、卒業後に、ちゃんとした手紙で伝えたほうが誠実なんじゃないか。周平はポケットの便箋に触れただけで、結局それを取り出すことはなかった。「こちらこそ、ありがとう」とだけ返して、その場は笑って別れた。手紙は、結局一度も投函されないまま、周平の机の引き出しの奥で、いつしか行方が分からなくなった。二人は別々の大学へ進み、そのまま音信不通になった。
 大学時代、サークルの先輩に誘われた海外インターンの話も、「準備が整ってから」と先延ばしにして、結局立ち消えになった。あとで聞けば、そのインターン先は、今では業界でも有名なベンチャー企業になっていたという。
 社会人になってからも、その癖は変わらなかった。転職エージェントから持ちかけられた、面白そうなベンチャーへの誘いを、二度、丁重に断ったこともある。「今の会社にもう少し慣れてから」という、自分でもよくわからない理由でだ。そのたびに周平は、来るはずのない「次の機会」を、漠然と、しかし確かに信じていた。次はもっとちゃんとした形で、もっと確実なタイミングで、それはやってくるはずだ、と。
 だが実際のところ、次の機会というのは、たいてい前回とは似ても似つかない、まったく別の顔をしてやってくる。あるいは、二度と来ない。周平はまだ、そのことに気づいていなかった。
 その夜、いつものように残業を終えて、駅までの十五分の道を歩いていたとき、周平は初めてそれを見た。
 十一月の終わりの、冷え込む夜だった。夜道に人影はまばらで、コンビニの灯りだけが、やけに眩しく感じられた。前方から、スーツ姿の中年男がひとり、うつむき加減に歩いてくる。ごく普通の、疲れた顔のサラリーマンだった。書類鞄を片手に提げ、もう片方の手をコートのポケットに突っ込んでいる。
 ところが、その男の右肩のあたりに、周平は奇妙なものを見た。
 薄い、水面に張った膜のような、淡く光る何か。人の形をしているようで、していない。輪郭は絶えず揺らめき、街灯の明かりを吸い込んでは、青白く滲むように光っていた。大きさは、成人の頭ふたつ分ほどだろうか。それは、風に流されるでもなく、意思を持ったもののように、ゆっくりと男の歩調に合わせて漂っていた。
 それは男の右肩を、ふわりと、掠めるように通り過ぎた。
 すれ違いざま、周平は思わず振り返った。だが、光の切れ端のようなものは、もうどこにもなかった。ただ、通り過ぎられた男が、ほんの一瞬、足を止め、何かを探すように後ろを振り向いたのが見えた。まるで、耳元で誰かに名前を呼ばれたような、そんな仕草だった。男は結局、辺りを見回した末に、小さく首を振って、また歩き出した。何かを諦めたときの、あの独特の肩の落とし方だった。
 周平はしばらくその場に立ち尽くしていた。酒に酔ってもいないし、寝不足でもない。眼精疲労だろうか、と思い、目を強く瞬かせてみたが、視界は普段通りクリアだった。だが、確かに視た。何かが、あの見知らぬ男の人生の傍らを、静かに通り過ぎていったのを。
 その夜、周平はなかなか寝つけなかった。天井を見つめながら、何度もあの光景を反芻した。あれは一体、何だったのだろう。



二章 視える者
 最初のうち、周平はそれを疲労か、視神経の異常だと思っていた。眼科にも一度行ってみたが、「特に異常は見当たりません」とだけ言われて終わった。心療内科の看板を見て、少し立ち止まったこともあったが、結局、扉をくぐる勇気は出なかった。
 だが、それは電車の中でも、会社の廊下でも、コンビニのレジ待ちの列でも、ふいに現れた。
 淡く光る、人影とも霧ともつかないもの。ほとんどの場合、それはすれ違う誰かの肩のあたりを、ふわりと掠めて、そのまま雑踏に紛れて消えていく。掠められた本人は、たいてい気づかない。談笑しながら歩いていたり、スマートフォンに目を落としていたり、それぞれの日常に忙しく、肩に何かが触れたことにすら気づかない様子だった。ごくまれに、何かを察知したように振り返る者もいたが、それだけだった。彼らはすぐに、また元の歩調に戻っていく。
 周平はその現象に、勝手に「あれ」という呼び名をつけていた。誰かに話せば、頭がおかしくなったと思われるに決まっている。だから周平は、それを胸の内だけに秘めていた。
 ある晩、周平は思い切って、ひとつの実験をしてみた。駅前のロータリーで、若い女性の肩を、あの光がゆっくりと掠めていくのを見たとき、周平は思わず声をかけたのだ。
「あの、すみません」
 女性は怪訝そうに振り向いた。
「何か、忘れ物とか、探し物とか、ありませんか」
 女性はますます怪訝な顔になり、「いえ、特に」と言って、足早に去っていった。周平は、自分の間の抜けた行動に、しばらく赤面していた。光が視えたところで、それが具体的に何を意味するのか、周平自身にもわかっていなかったのだ。ただ、何かを取りこぼそうとしている人に、声をかけずにはいられなかった。
 その一件があってから、周平は「あれ」について、もう少しきちんと知りたいと思うようになった。夜、パソコンに向かって、思いつく限りの言葉で検索してみた。「肩 光 通り過ぎる」「機会 実体 視える」「決定的瞬間 前兆」。ヒットするのは、スピリチュアル系のブログや、占いサイト、あるいは都市伝説をまとめた掲示板ばかりだった。その中に、ごくまれに、周平と似たような体験を語る書き込みがあった。だが、どれも匿名で、真偽の確かめようもなかった。
 面白いことに気づいたのは、二週間ほど経った頃だった。「あれ」が現れる頻度は、人によって明らかに違っていた。ある人の周りには、一度も現れない。またある人の周りには、まるで蝶のように、ひらひらと何度も現れては消えていく。
 たとえば周平の直属の上司、営業課長の田村の周りには、周平が観察する限り、一度もあの光が現れなかった。田村は毎日同じ時間に出社し、同じ喫茶店でコーヒーを飲み、同じ愚痴をこぼす、判で押したような生活を送っている男だった。もしかしたら、そういう人間には、そもそも「あれ」が近寄らないのかもしれない、と周平は考えた。あるいは、田村にはとうの昔に、大きな光が一度だけ巡ってきて、それをきちんと掴んだ結果、今の平穏な生活があるのかもしれない――そんな想像もしてみた。
 逆に、営業部のエース格である関根という同僚の周りには、ほとんど毎日のように光が現れた。それも、周平がこれまで見たどの光よりも、ひときわ大きく、鮮やかだった。
 ある夜、周平は駅裏の路地にある、小さな古書店に迷い込んだ。看板もろくに読めないほど古びた店で、急な雨に降られ、雨宿りのつもりで暖簾をくぐったのだった。店内には、古い紙とかすかな線香の匂いが漂っていた。棚には、タイトルの読めない外国語の本や、絶版になって久しい文庫本が、隙間なく詰め込まれていた。
 店の奥、埃をかぶった文庫本の山の向こうに、白髪を無造作にまとめた老女が座っていた。齢のわからない顔だった。皺は深いのに、目だけが妙に若々しく、こちらの内側を見透かすように光っていた。
「あんた、視えてるね」
 周平が何も言わないうちに、老女はそう言った。
「……何がですか」
「肩をかすめて通り過ぎていくやつだよ。ここ最近、視えるようになったんだろう。顔に書いてあるよ、戸惑いながら世界を見てますって顔だ」
 周平は言葉に詰まった。誰にも話していないことを、なぜこの老女が知っているのか。だが、否定する気にはなれなかった。
「……はい。最近、変なものが視えるようになりました。人の肩を、光みたいなものが通り過ぎていくのが」
 老女は満足げに頷いた。
「やっぱりね。座りな。茶でも淹れてやる」



三章 古書店の老女
 老女は名乗らなかった。周平が尋ねても、「そんなものはとうに忘れた」と、はぐらかされるばかりだった。以来、周平は心の中で、ただ「老女」とだけ呼ぶことにした。
 渋茶をすすりながら、老女は続けた。
「あれには、いろんな呼び方がある。土地によっては『縁(えにし)の霊(たま)』、また別のところでは『刹那』と呼ぶ。学者はそれをオカルトだと笑うし、多くの人間は一生視ないまま死んでいく。だが、まれに視える者が出る。たいてい、何かを一度、目の前で取りこぼした経験がある人間だよ」
「取りこぼした……」
「決定的な瞬間を、な。人生には、そういう瞬間が数えるほどしかない。あんたにも心当たりがあるんじゃないのかい」
 周平の脳裏に、いくつかの顔が浮かんでは消えた。高校時代の彼女になりかけた人、断ったベンチャーの誘い、行きそびれたインターン。答える代わりに、周平は俯いた。
 老女は小さく笑って、湯呑みに渋茶を注いだ。
「あれはね、あんたたちが『機会』と呼ぶものの、正体そのものなんだよ。この世界には、決定的な選択の瞬間というものが、確かに一つの実体としてふわふわと漂っている。それは人から人へ、まるで風に乗る種のようにさまよい歩いて、時々、誰かの肩に触れる。触れられた者は、その瞬間、選択を迫られる。手を伸ばすか、伸ばさないか」
「伸ばさなかったら、どうなるんです」
「そのまま、行っちまうのさ。二度と、同じ形では戻ってこない。似たようなものが、また巡ってくることはあるだろう。だが、まったく同じ『あれ』は、二度とこの世に現れない。一期一会というのは、思っているよりずっと、文字通りの話なんだよ」
 周平は、雨の音を聞きながら、しばらく黙っていた。
「なんで、僕にだけ視えるんですか」
 老女は少し困ったように笑った。
「あんただけじゃないよ。世界中に、ぽつぽつといる。たいてい、臆病な人間だ。手を伸ばすことを恐れて、何かを取りこぼしたことのある人間ほど、よく視える。皮肉なもんだね。取りこぼした痛みが、目を開かせるんだ」
「見えたところで、何がいいんです。掴めなかったものが、視えるだけじゃないですか」
 老女は湯呑みを両手で包み、ふっと目を細めた。
「視えるということはね、佐伯さん――あんた名乗ってなかったが、まあいいさ、顔を見りゃ大体わかる――視えるということは、今度こそ、手を伸ばす機会を、あんたに与えているということだよ。多くの人間は、それが自分の肩を掠めていったことにすら、気づかない。あんたには、それが視える。ただ、視えたからといって、掴めるとは限らない。それがまた、厄介なところなんだがね」
 周平は、なぜ自分の名前を言っていないのに老女が知っているのか、聞きそびれた。後になって、それを聞くべきだったと思うのだが、そのときはただ、目の前の話に気を取られていた。
「一つ、聞いてもいいですか」
「なんだい」
「あなたも、視えるんですか」
 老女は、その問いにだけは、しばらく答えなかった。湯気の向こうで、その目がわずかに遠くを見るような色を帯びた。やがて、ぽつりと言った。
「あたしはね、昔、視えすぎたんだよ。あんまり視えすぎて、どれに手を伸ばせばいいのか、わからなくなっちまった」
「視えすぎる、ということがあるんですか」
「あるとも。あたしの若い頃は、道を歩けば、そこらじゅうにあの光が漂っていた。どれもこれも、輝いて見えてね。ある人と所帯を持つ光、遠い異国で暮らす光、まったく違う生き方をする光。どれも本物に見えて、あたしはどれにも手を伸ばせなかった。全部が惜しくて、結局、一つも掴めなかったんだよ」
「それで……」
「今は、こうして視える連中に、茶を淹れてやることにしてる。それが、あたしなりの、手の伸ばし方なのさ。あんたたちの話を聞いて、時々、余計な一言を挟む。それだけが、今のあたしにできることだからね」
 その言葉の意味を、周平はまだ十分には理解できなかった。だが、なぜかその夜はよく眠れた。
 雨がやんだ帰り道、周平はふと、老女にもう一つだけ尋ねてみたいことがあったのを思い出した。次の週、周平は再び暖簾をくぐった。
「あの、前から気になっていたんですが」
「なんだい」
「これは、いつから、誰が決めたルールなんですか。誰かが、機会というものに、あんな形を与えたんでしょうか」
 老女は、その質問に、珍しく声を上げて笑った。
「あんた、真面目だねえ。誰が決めたかなんて、あたしにわかるわけがないだろう。ただ、こういう話は昔からある。西の国では、それを『扉の番人』と呼んで、扉の前を通り過ぎる旅人の運命を握っていると信じられていた。北の国じゃ、雪原に舞う淡い光がそれだと言われて、狩人たちは、その光を見た日は決して大きな決断をしないようにしていたそうだ」
「文化が違っても、似たような話があるんですね」
「似たようなものが視える人間が、世界中にぽつぽついる、ってだけの話さ。誰が決めたか、なんて詮索するより、目の前を通り過ぎるものに、どう向き合うか。あたしらに考えられるのは、そのくらいのことだよ」
 周平は、その答えに、完全には納得できなかった。だが、それ以上尋ねても、答えが出るものではないということも、なんとなく理解していた。



四章 可南子
 会社の同僚に、宮田可南子という女性がいた。周平よりふたつ年下で、経理部にいる。物静かで、笑うと目尻に小さな皺ができる人だった。派手さはないが、いつも丁寧に仕事をこなす、社内でも評判のいい女性だった。
 周平は、可南子のことを一年ほど前から、なんとなく気にかけていた。「なんとなく」というのが周平らしいところで、それ以上、踏み込んだことは一度もない。給湯室で顔を合わせれば世間話をする程度、社内の飲み会で隣に座ればビールの銘柄について語り合う程度、その繰り返しだった。
 半年ほど前、営業部と経理部の合同で、大口顧客の請求トラブルを処理することになったことがあった。周平と可南子は、たまたま同じ案件を担当することになり、二週間ほど、毎日のように顔を合わせて資料をすり合わせた。可南子は、細かい数字のミスにもすぐ気づく、几帳面なほど丁寧な仕事ぶりで、周平はその集中力に、素直に感心していた。トラブルが無事に片付いた日、二人で近くの喫茶店に入り、遅い昼食をとった。
「佐伯さんと組めてよかったです。適当に流さないで、ちゃんと付き合ってくれる人だから」
 可南子はそう言って、コーヒーカップを両手で包みながら笑った。周平は、その一言を、その後もずっと覚えていた。何気ない一言のはずなのに、なぜか、周平の中で特別な重みを持って残った。
 去年の忘年会で、周平と可南子はたまたま隣同士の席になった。そのとき可南子は、少し酔った勢いで、「佐伯さんって、話しやすいですよね。関根さんとかは、なんかキラキラしすぎてて、こっちが疲れちゃうんですけど」と言ったことがあった。周平はそれを、社交辞令だと思って聞き流していた。だが後になって、あの一言こそが、可南子なりの、小さなサインだったのではないかと、何度も思い返すことになる。
 古書店の一件があってから、周平の中で何かが変わりつつあった。「あれ」が視えるようになったことで、周平は自分の周りにも、無数の「取りこぼされた瞬間」が漂っていることに気づき始めていた。同僚たちの肩を、上司の肩を、通りすがりの学生の肩を、それは絶えず掠めては通り過ぎていく。ほとんどの人間は、気づかない。
 そのことに気づいてから、周平は少しだけ、世界の見え方が変わった気がしていた。誰もが、気づかぬうちに、何かを取りこぼしながら生きている。だとすれば、自分だけが特別に不運なわけではないのかもしれない。そう思うと、少しだけ肩の力が抜けた。
 そして同時に、周平の中には、ある種の焦りも芽生え始めていた。もし本当に、機会というものが二度と同じ形で戻らないのだとしたら、自分は今まで、一体いくつのものを、気づかぬうちに取りこぼしてきたのだろうか。
 年が明けて間もない頃、部署の懇親会で、周平は久しぶりに可南子とゆっくり話す機会を得た。居酒屋の隅の席で、二人はビールを片手に、たわいもない話をした。可南子が最近ハマっている韓国ドラマの話、周平が最近読んだミステリー小説の話。会話は途切れず、時間はあっという間に過ぎた。
「佐伯さんって、意外と話すと面白いですよね。会社だと、あんまり自分から喋らないから、もったいないです」
 可南子はそう言って、少し悪戯っぽく笑った。周平は、その言葉に、柄にもなく胸が高鳴るのを感じた。
 懇親会がお開きになったあと、周平と可南子は、たまたま最寄り駅までの帰り道が同じ方向だった。夜道を並んで歩きながら、可南子はふと、空を見上げて言った。
「今日、月がきれいですね」
「本当だ」
「佐伯さんって、こういうとき、あんまり気の利いたこと言わないタイプですよね」
「……すみません」
「謝らなくていいですよ。むしろ、そういうところが、なんか安心するっていうか」
 可南子はそう言って、少し早足になった。周平はその背中を追いかけながら、何か言葉を返したいと思ったが、結局、当たり障りのない相槌を打つだけで、駅に着いてしまった。「また月曜日に」と手を振る可南子を見送りながら、周平は、今この瞬間にも、何かが自分の肩のすぐそばを漂っているのではないかと、ふと辺りを見回した。だが、その夜は、何も視えなかった。
 ある金曜日の夕方、残業帰りにエレベーターホールで、周平は可南子とふたりきりになった。
「佐伯さん、今日も遅いんですね」
「宮田さんも」
「月末なので……経理はこの時期、地獄です」
 そう言って可南子は、小さく笑った。エレベーターを待つ間、二人の間には、心地よい沈黙があった。窓の外には、夜のオフィス街の灯りが、ぽつぽつと灯っていた。
「佐伯さんって、休みの日は何してるんですか」
「特に何も。本屋に行ったり、散歩したり」
「なんか、意外と絵になりますね、それ」
 可南子がそう言って笑ったとき、周平は視た。
 可南子の右肩の少し上に、あの淡い光の膜が、ふわりと漂っているのを。それはこれまで見たどの「あれ」よりも、はっきりとした輪郭を持っていた。まるで、こちらの視線に応えるように、ゆらゆらと形を変えている。心臓が、一瞬、大きく跳ねた。
 周平は、生まれて初めて、それに向かって手を伸ばしかけた。
 だが、伸ばしかけた指先が止まった。
 ――もし、これを掴んだとして、僕でいいんだろうか。宮田さんには、もっとふさわしい相手がいるんじゃないだろうか。関根さんみたいな、もっと堂々とした男のほうが、宮田さんには似合うんじゃないだろうか。それに、忘年会でのあの一言だって、ただの酔った勢いだったかもしれないし……。
 そんな考えが、次から次へと頭をよぎった。周平の手は、宙で止まったまま、結局、下ろされた。代わりに周平は、少し照れたように、鞄の持ち手を握り直した。
 エレベーターの扉が開き、二人は乗り込んだ。可南子の肩の光は、まだそこにあった。周平が見ている間、それは辛抱強く漂い続けていた。まるで、周平が本当に手を伸ばすかどうかを、試すように。
 一階に着き、扉が開いた瞬間、光はふっと薄れて消えた。可南子は「お先に失礼します」と会釈をして、雨の降り始めた夜の中へと歩いていった。
 その夜、周平は古書店を訪ねた。老女はまだ起きていて、当然のように周平を迎え入れた。
「今日、視た」
 周平がそう言うと、老女は驚きもせずに頷いた。
「掴めなかったんだろう。その顔でわかるよ」
「……なんでですか」
「あれが視える者には、もうひとつ、厄介な性質がある。視えるということは、選択肢がいくつも視えてしまうということでもあるんだよ。あんたには、宮田可南子という女性の肩だけじゃなく、この先、彼女の周りに漂うだろう、もっと別の可能性まで、うっすらと予感できてしまう。視えない人間なら迷わず手を伸ばすところを、視える人間はつい、立ち止まって考えてしまうのさ。『もっと良いものが、まだどこかにあるんじゃないか』とね」
 周平は黙り込んだ。老女の言葉は、あまりに正確に周平の胸の内を言い当てていた。
「それは、呪いなんですか」
「贈り物でもあり、呪いでもある。多くを視える者ほど、多くを取りこぼす。因果な話さ」
 老女はそこで、少し声を落として付け加えた。
「だがね、佐伯さん。覚えておきな。『もっと良いもの』というのはね、たいてい、ただの幻さ。実際には存在しない、視える者だけが見る蜃気楼のようなもんだ。目の前の光より良い光なんて、探している間は、いつまでたっても見つからない」



五章 関根の影
 宮田可南子の周りには、関根という男がいた。
 営業部のエースで、背が高く、話術も巧みで、誰からも好かれる質の男だった。周平とは正反対のタイプだ。関根が可南子に興味を持っていることは、部内でも半ば公然の秘密だった。飲み会の席で、関根がさりげなく可南子の隣に座るのを、周平は何度も目にしていた。
 周平は、その事実を知っていながら、なぜか動けずにいた。「あれ」が視えるようになってから、周平の逡巡は、以前にも増して深くなっていた。視えるということは、考える材料が増えるということでもあった。そして考える材料が増えれば増えるほど、周平は決断から遠ざかっていった。
 ある日、周平は関根の肩のあたりにも、あの光が漂っているのを見た。関根の場合、それは周平が見たどの「あれ」よりも、大きく、輝きが強かった。おそらく関根には、無数の選択肢が絶えず巡ってきているのだろう。だからこそ関根は、迷わない。迷う前に、次から次へと手を伸ばしていく。掴めなかったものがあっても、また別の光が、すぐにやってくることを、関根は本能的に知っているのだ。
 ――そこそこモテる男というのは、きっとこういうことなんだ。
 周平は、古書店の老女にそのことを話した。
「関根みたいな男には、いつも次の光がやってくる。だから、一つや二つ、取りこぼしても平気なんだ。でも、僕みたいな人間には、光そのものが、めったに巡ってこない」
 老女は、少し呆れたように周平を見た。
「それは思い違いだね、佐伯さん」
「違うんですか」
「光の数は、みんなにそう変わらないよ。ただ、視えない人間は、それを取りこぼしたことにすら気づかないから、平気で次に進める。関根とかいう男も、きっといくつも取りこぼしているはずだ。ただ、視えないから、悔やまずに済んでいるだけのことさ。あんたは視えるぶん、取りこぼした痛みを、いちいち覚えていなくちゃならない。それだけの違いだよ」
「それなら、視えないほうが、幸せだったんじゃないですか」
 老女はそれには答えず、ただ渋茶をすすった。しばらくして、ぽつりと言った。
「幸せかどうかは知らないよ。だがね、視えるということは、少なくとも、選ぶ機会が残されているということだ。視えない人間は、選ぶことすらできずに、ただ流されていくだけなんだよ」
 その頃、会社では、来期の展示会に向けた合同プロジェクトが立ち上がり、営業部と経理部の一部が、二泊三日で大阪への出張に出向くことになった。周平と可南子、そして関根も、そのメンバーに含まれていた。
 出張先のホテルの近くで、夕食のあと、有志で近くの居酒屋に立ち寄る流れになった。周平は、末席のほうで、あまり喋らずにグラスを傾けていた。ふと視線を上げると、少し離れたテーブルで、関根が可南子に何やら熱心に話しかけているのが見えた。可南子は、時折頷きながら、楽しそうに笑っていた。
 周平の隣に座っていた同僚が、からかうように言った。
「佐伯、宮田さんのこと気になってんだろ。見てりゃわかるよ」
「そんなんじゃないよ」
「なら、いいけどさ。関根、あの調子だと、そのうち本気出すぞ」
 周平は苦笑いで誤魔化したが、内心では、その言葉が棘のように残った。その夜、ホテルの部屋に戻ってから、周平は窓の外の見知らぬ街の灯りを、しばらく眺めていた。行動すべきだ、という思いと、まだ何も確定していない、という言い訳が、頭の中で交互に浮かんでは消えた。結局、周平はその夜も、何も行動を起こさなかった。
 出張から戻ってしばらく経った、ある残業帰りのことだった。周平は、可南子と関根が連れ立って会社を出ていくのを見た。二人は笑いながら、駅の方向へ歩いていった。可南子の右肩のあたりで、あの光が、揺れながらついていくのが見えた。
 周平は、追いかけなかった。
「まだ、決まったわけじゃない」と、心の中で呟いた。いつもの癖だった。「また機会があるさ」――そう自分に言い聞かせて、周平はその場に立ち尽くしたまま、二人の背中が雑踏に紛れて見えなくなるのを、ただ見送った。



六章 通り過ぎるもの
 それから一ヶ月ほどが過ぎた。
 周平と可南子との間に、これといった変化はなかった。相変わらず、廊下ですれ違えば挨拶を交わし、たまに給湯室で二言三言、言葉を交わす程度の関係だった。周平はそれを、まだ猶予があることの証だと思い込んでいた。
 だが、その裏で、可南子と関根の距離は、着実に縮まっていた。社内の噂では、二人は何度か二人きりで食事に行っているらしい、という話も耳に入るようになった。周平はそのたびに、胸の奥がざわつくのを感じながらも、「まだ、噂に過ぎない」と自分に言い聞かせていた。
 ある雨の夕方、周平は会社のロビーで、可南子と関根が並んで傘の下に入るのを見た。二人の距離は、以前よりも明らかに近かった。関根が何か言い、可南子が顔を赤らめて笑う。その仕草には、これまで周平が見たことのない親密さがあった。
 そのとき、周平は視た。
 可南子の肩の光が、これまでにない強さで輝きながら、ゆっくりと、関根の肩の方へ、流れるように動いていくのを。まるで二つの光が、互いに引き寄せられるように溶け合っていく。それは、周平がこれまで目にしてきたどの光景よりも、静かで、そして残酷なほど美しかった。
 周平は、その光景から目を離せなかった。足が竦んで、動けなかった。声をかけようにも、かける言葉が見つからなかった。頭の中では、無数の言い訳が渦を巻いていた。今ここで声をかけたところで、何になる。今さら「実は自分も」などと言い出せば、二人の間に気まずい空気を作るだけではないか。可南子はもう、関根のことを選びかけているのではないか。そもそも、自分にそんな資格があるのか――。
 そうしているうちに、関根は可南子の肩を軽く抱くようにして、二人で傘の下、雨の中へと歩き出した。周平は、ロビーのガラス越しに、その後ろ姿が遠ざかっていくのを、ただ見ていることしかできなかった。手を伸ばす、という選択肢は、もはや自分の中に存在しないことを、周平ははっきりと悟った。もう遅い。今さら間に入る資格など、自分にはない。
 ――ああ、これが、最初で最後だったんだ。
 古書店の老女の言葉が、頭の中でこだました。「同じ形では、二度と戻ってこない」。
 その夜、周平は無我夢中で古書店へ向かった。雨に濡れながら、暖簾をくぐる。老女はいつものように、店の奥に座っていた。
「取りこぼしたね」
 周平が何も言わないうちに、老女はそう言った。周平は崩れるように、店先の古い木の椅子に座り込んだ。傘から滴る雨水が、古い床板に小さな染みを作った。
「僕は、一体何を見誤ったんでしょう」
「あんたはね、佐伯さん。目の前にある光よりも、まだどこかにあるかもしれない、もっと大きな光ばかりを探していた。だが、あれは追いかけて探すものじゃない。向こうから、肩を掠めていくものなんだよ。目の前を通り過ぎるときに、手を伸ばすかどうか――それだけの話さ」
「じゃあ、僕はもう」
「宮田可南子という一つの光は、もう戻らない。それは事実だ。あんたはそれを、目の前で取りこぼした。悔やんでいい。悲しんでいい。それは、あんたが本当に、あの光を大切に思っていたということの証でもあるんだから」
 老女は湯呑みを置き、初めて、少し優しい声で言った。
「だがね、佐伯さん。あんたは思い違いをしている」
「何をです」
「光は、彼女一人じゃない。あんたの周りには、まだいくつも、これから巡ってくる光がある。ただ、次に巡ってきたときも、あんたが同じように『もっと良いものがあるかもしれない』と考えて立ち止まるなら――結局、同じことの繰り返しになるだろうね」
 周平は、その言葉を、その夜はまだ、うまく飲み込むことができなかった。ただ、雨の音を聞きながら、可南子の肩から関根の肩へと流れていった、あの光の残像だけを、いつまでも思い出していた。



七章 視えすぎる代償
 それから周平は、しばらく仕事にも身が入らなかった。見積書の数字を何度も打ち間違え、上司の田村に「らしくないな、佐伯」と声をかけられる始末だった。
 そんなある夜、周平は再び古書店を訪ねた。今度は、何か答えを求めてというよりも、ただ誰かと話がしたかっただけかもしれない。
 店には、先客がいた。周平と同年代らしき、冴えない身なりの男だった。カウンターの隅で、老女相手に、ぼそぼそと何かを話し込んでいる。
「――だから、あのときはっきり言ってりゃよかったんです。でも、なんとなく、まだ早いかなって」
「そういうのを、世間じゃ後悔って言うんだよ」
 老女がそう言うと、男は力なく笑った。周平は、なんとなく、彼にどこか自分と似たものを感じた。
 その夜、老女は珍しく、周平にひとつの話を聞かせてくれた。
「あんたにはまだ話してなかったが、『あれ』にはもう一つ、面白い性質がある。あれは、通り過ぎたあとも、完全に消えてなくなるわけじゃない。ただ、この世からは視えなくなるだけだ。行き場を失った機会は、どこか遠いところに溜まっていく。そういう場所があるらしい、というのが、視える者たちの間の言い伝えだよ」
「溜まって、どうなるんです」
「知らないよ、あたしにも視えないところだからね。ただ、こういう話をする者もいる。取りこぼされた機会は、いつか、また少しだけ形を変えて、別の誰かの肩を掠めることがある、と。同じものじゃない。でも、どこか似た手触りをした、別の光としてね」
 その帰り道、周平はふと、以前見つけたあの匿名掲示板のことを思い出し、家に帰ってからもう一度、検索をかけてみた。すると、以前は見つからなかった、比較的新しい書き込みが一つ、目に留まった。
「肩の光について、知っている人はいますか。自分は数年前から視えるようになりました。海外にも似たような話があるようです。フランスでは『通り過ぎる恋人(アマン・ドゥ・パサージュ)』、南米のある地域では『二度目のない鳥』と呼ぶ地方もあるとか。誰か詳しい人がいたら、情報交換したいです」
 投稿には、いくつかの返信がついていたが、どれも噂の域を出ないものばかりだった。それでも周平は、自分と同じものを視ている人間が、この国だけでなく、世界のあちこちにいるのだという事実に、不思議な安堵を覚えた。自分は決して、頭がおかしくなったわけではない。ただ、多くの人間が気づかずに生きている何かに、たまたま気づいてしまっただけなのだ。
 翌日、周平はそのことを老女に話してみた。老女は、興味深そうに耳を傾けたあと、静かに言った。
「そういう話は、あたしも昔、旅の商人から聞いたことがあるよ。世界のどこでも、似たようなものが視える人間が、一定数いるらしい。おそらく、これは、この国だけの話じゃないんだろうね」
「なぜ、そんなものが、世界中に存在するんでしょうか」
「さあね。あたしにわかるのは、それが確かに『在る』ということだけだ。理由を知ったところで、あんたが手を伸ばす勇気を持てるようになるわけじゃない。それより、目の前のことを考えな」
 周平は、その話に、かすかな希望を見出そうとした。だが老女は、それを見透かしたように、釘を刺した。
「勘違いするんじゃないよ。それは、宮田可南子という一つの光が、あんたのところに戻ってくるという意味じゃない。あの光は、もう関根とかいう男の隣で、別の形に変わろうとしている。あんたに巡ってくるとしたら、それはまったく別の、新しい光だ。過去の焼き直しを期待している限り、あんたはまた同じ失敗を繰り返すよ」
 周平は俯いた。頭ではわかっていても、心のどこかで、まだ可南子を諦めきれずにいる自分がいた。
「一つ、教えてください。あなたが昔、掴めなかった光というのは、どんなものだったんですか」
 老女は、しばらく黙っていた。店の隅の古時計が、こつり、こつりと音を立てていた。
「昔、ある男がいてね。あたしと同じ村の出で、幼馴染だった。あたしにその男の肩の光が視えたとき、あたしにはもう一つ、別の男の肩にも、負けないくらいの光が視えていた。町から来た、羽振りのいい商人の息子でね。あたしは、どっちがより幸せになれるか、何年もかけて考え続けた。考えているうちに、幼馴染のほうは、隣村の娘と所帯を持った。商人の息子のほうも、結局、別の家の娘を娶った。あたしのところには、どちらの光も、二度と戻らなかったよ」
「それから、どうしたんですか」
「一人で生きることにした。それだけの話さ。後悔していないと言えば嘘になる。だが、後悔しながらでも、生きていくことはできる。あんたにも、それはできるはずだよ」
「じゃあ、僕はどうすればいいんですか」
 老女は、湯呑みの底に残った渋茶を見つめながら、静かに言った。
「視えることを、恨むのはおよし。あんたは、多くの人間が気づかずに終わる大切なものに、気づくことができる。それは決して、悪いことじゃない。ただ、視えたものに手を伸ばす勇気だけは、あんた自身が持たなくちゃいけない。それだけは、あたしにも、誰にも、代わってやることができないのさ」
 先客の男が、ふと口を挟んだ。
「僕も、最近ようやく、その意味がわかってきた気がします。視えることを言い訳にして、動かないことを正当化してただけなんじゃないかって」
 周平は、その言葉に、思わず顔を上げた。
 先客の男――柏木は、その日、店を出たあと、珍しく周平を近くの居酒屋に誘った。カウンターだけの小さな店で、二人はビールを片手に、少しずつ、互いの身の上話をした。
 柏木は、地方の小さな町の出身だった。高校時代に付き合っていた彼女がいたが、大学進学を機に、東京と地元とで遠距離になった。「そのうち、どっちかが折れて、一緒に暮らせるようになるだろう」と、柏木は漠然と考えていたという。だが、彼女のほうが先に、地元に残る決断をし、地元の幼馴染と結婚した。柏木がそのことを知ったのは、共通の友人の結婚式の二次会でだった。
「あのとき、彼女の肩に、光みたいなものが視えたんですよね、実は。まだ『あれ』が何なのか、よくわかってなかった頃なんですけど。今にして思えば、あれが、僕にできた最後のチャンスだったんだと思います」
「柏木さんは、それから、何か変わりましたか」
 柏木は、少し考えてから答えた。
「変わった、と言えるかどうか。ただ、この間、会社の後輩の女の子に、思い切って食事に誘ってみたんです。前だったら、絶対に『まだ早いかな』って先延ばしにしてたと思うんですけど」
「どうなったんですか」
「あっさり、いいですよって言われました。拍子抜けするくらい」
 柏木はそう言って、照れくさそうに笑った。周平は、その話に、小さな驚きと共に、かすかな希望のようなものを感じた。視えるということは、必ずしも取りこぼすことだけを意味するわけではないのかもしれない。ほんの少し、勇気を出して手を伸ばしてみれば、案外あっさりと、光を掴めることもあるのかもしれない。



八章 ご同輩
 周平は、それから半年ほど、古書店に通い続けた。
 老女から聞いた話によれば、「あれ」が視える者は、世界中に、ぽつぽつと、しかし確かに存在するという。多くは周平と同じように、一度大きなものを取りこぼした経験を持つ、ごく平凡な人間たちだった。
 古書店には、時折、そうした「視える者」たちが立ち寄った。会社帰りのサラリーマン、大学を出たばかりの若者、定年を迎えたばかりの老人。年齢も立場もばらばらだったが、彼らにはどこか共通する空気があった。控えめで、優しくて、そして少しだけ、諦めが早い。
 例の、先に古書店で出会った男とは、その後も何度か顔を合わせるようになった。名前は柏木といった。周平よりひとつ年上で、地方から出てきて、小さな不動産会社で働いているという。
 柏木もまた、かつて一つの光を、同じように取りこぼしていた。理由も、周平とよく似ていた。「もっと良い人が、まだどこかにいるんじゃないか」――そう思って、目の前の光をないがしろにしてしまったのだと、柏木は笑いながら話した。自嘲するような、それでいてどこか安堵したような笑い方だった。
「僕らみたいなのは、たぶん、これからも同じ失敗をするんでしょうね」と、柏木が言った。
「かもしれませんね」
「でも、不思議なもんです。こうして誰かと、その話ができるだけでも、少し救われる気がします。周りを見渡してみれば、見た目のいい男ほど、堂々と手を伸ばしていく。そうじゃない男ほど、僕らみたいに、あとになって後悔してる。そういうもんなんですかね」
 周平は、何と答えていいかわからず、ただ頷いた。だが、その夜、家に帰る道すがら、周平はふと思った。
 ――同じ失敗をするかどうかは、まだわからない。少なくとも今は、自分が何を見誤りやすいか、知っている。柏木さんも、僕も、そしておそらく世界中にいる名も知らぬ「ご同輩」たちも。
 それは慰めにはならなかったが、かすかな灯りのようなものだった。
 宮田可南子は、それからしばらくして、関根と正式に付き合い始めたと、部内の噂で聞いた。周平は、その報せを、思っていたよりも静かな気持ちで受け止めた。悲しくないわけではなかった。胸の奥に、鈍い痛みは確かにあった。だが、それはもう、覆しようのない、確かな過去になっていた。
 周平はその晩、久しぶりに、可南子に対する気持ちに、きちんと区切りをつけようと決めた。未練を断ち切る、というよりも、あの光を、大切な思い出として、自分の中にそっとしまっておくことにした。



九章 新しい部署
 年度が変わり、周平に思いがけない辞令が下りた。営業部から、新設された企画開発部への異動だった。田村は「もったいないな」と言いながらも、どこか嬉しそうに送り出してくれた。
 新しい部署は、社内でもまだ数人しかいない、小さなチームだった。周平はそこで、これまでとはまったく違う仕事――若い世代向けの新しい印刷サービスの企画――に携わることになった。慣れない業務に戸惑いながらも、周平は不思議と、以前よりも前向きな気持ちで日々を過ごしていた。
 企画開発部のオフィスは、本社ビルの五階の隅にあり、他の部署に比べて、どこか自由な空気が漂っていた。デスクの配置も固定されておらず、壁には過去の企画のポスターや、若手社員が持ち寄ったという観葉植物が並んでいた。周平は最初、その雰囲気に馴染めず、居心地の悪さを感じていた。だが、日が経つにつれて、少しずつ、その空気に慣れていった。
 新しい部署には、中途採用で入ってきたばかりの女性がいた。名前は野々村といい、以前はデザイン事務所で働いていたという。物おじせず、はきはきとものを言うタイプで、周平とはまるで違う気質の持ち主だった。
 初めて顔を合わせた日、野々村は周平にこう言った。
「佐伯さんって、なんか、じっくり考えてから喋るタイプですね。嫌いじゃないです、そういうの」
 周平は、少し面食らいながらも、「そうですかね」とだけ返した。柏木や老女と過ごした日々のおかげか、周平は以前より、自分の胸の内を少しだけ、素直に言葉にできるようになっていた。
「野々村さんは、逆に、思ったことすぐ口に出すタイプですよね」
「バレました? よく言われます。考えすぎるより、まず動いちゃうタイプなんで」
 その会話は、ただの雑談として終わった。だが、その夜、周平は久しぶりに、あの淡い光を、遠くに感じるような気がしていた。まだ、はっきりと視えたわけではない。ただ、何かが、少しずつ近づいてきているような、そんな予感だった。
 周平は、その予感に、すぐに「恋愛の光だ」と決めつけることはしなかった。老女の言葉を思い出したからだ。――光は、必ずしも恋の光とは限らないよ、佐伯さん。それは新しい仕事の縁かもしれないし、一生続く友情の始まりかもしれない。あるいは、まったく別の、名前のつかない何かかもしれない。光の色や形だけでは、それが何になるのか、視える者にすら判別できないのだと、老女は言っていた。だから周平は、それを焦って恋愛だと決めつけず、ただ、丁寧にその気配を見守ることにした。
 それから数週間、周平と野々村は、企画の打ち合わせを通じて、少しずつ言葉を交わす機会が増えていった。野々村は、周平が考えを言葉にするまでじっと待ってくれるところがあり、周平は、そんな野々村の隣だと、不思議と自分の意見を素直に口にできることに気づいた。
 ある日の昼休み、屋上の休憩スペースで、野々村がふと、少し声のトーンを落として言った。
「実は、前の職場のつながりで、来年、海外のデザインスタジオで働かないかって誘われてるんです。まだ迷ってるんですけど」
 周平は、思いがけない話に、言葉に詰まった。
「行くつもり、なんですか」
「わかりません。正直、心が半分くらい向いてます。でも、もう半分は、ここでの仕事も、なんか、悪くないなって思い始めてて」
 野々村はそう言って、少し困ったように笑った。周平は、その日一日、その話が頭から離れなかった。せっかく近づいてきたと思った光が、実はまったく別の場所へ流れていく途中の、通過点に過ぎないのかもしれない。そう思うと、以前の、可南子のときと同じ怯えが、胸の奥にちらついた。だが今度の周平は、その怯えに、すぐには屈しなかった。掴めるかどうかわからないからといって、手を伸ばさない理由にはならない――老女の言葉を、そう自分なりに読み替えていた。
 それから数日後の昼休み、同じ屋上で缶コーヒーを飲んでいたとき、野々村がふと尋ねた。
「佐伯さんって、彼女とか、いるんですか」
 唐突な質問に、周平は思わず言葉に詰まった。
「いや、今は……いません」
「そうなんですね。なんか、大事にしてる人がいそうな雰囲気あったから、聞いてみました」
 野々村はそう言って、あっさりと話題を変えた。周平は、その一言の意味を、その日一日、何度も考えることになった。だが今度ばかりは、「考えすぎて機会を逃す」といういつもの癖に、自分から気づくことができた。
 数日後、周平は思い切って、野々村を、企画の参考になりそうな展示会に誘ってみた。仕事の口実だったが、誘う瞬間、確かに手のひらに汗をかいていた。
「いいですね、行きましょう」
 野々村は、拍子抜けするほどあっさりと頷いた。周平はそのとき、視た。野々村の肩のあたりに、まだ小さいけれど確かな、淡い光が灯るのを。それは急いで掴むには早すぎる、これから育っていく光のようだった。周平は、今度はそれを、慌てて手繰り寄せようとはしなかった。ただ、丁寧に、少しずつ、その光との距離を縮めていこうと決めた。
 展示会の当日、二人は仕事の話もそこそこに、会場を巡りながら、いろいろな話をした。野々村は、以前のデザイン事務所での失敗談を、笑いながら話してくれた。周平も、珍しく自分から、学生時代の話を少しだけ打ち明けた。木下という同級生に手紙を渡せなかった話も、少しぼかしながら話した。
「なんか、佐伯さんらしいですね、それ」
 野々村は、笑いながらも、どこか優しい声でそう言った。
「今度は、ちゃんと渡せるといいですね。手紙かどうかは知りませんけど」
 その言葉が、自分に対する遠回しな合図なのか、それとも単なる一般論なのか、周平にはまだ判断がつかなかった。だが、会場を出て、夕暮れの空の下を並んで歩きながら、周平は今度こそ、この時間を、ただ「また今度」で終わらせたくないと、強く思った。
 帰り道の途中、二人は小さな公園のベンチで、少し休憩することにした。空はちょうど、茜色から藍色へと変わりかけている時間だった。
「また、こういう機会あったら誘ってくださいね」野々村がそう言ったとき、周平はまた、あの光を視た。前よりも、はっきりと。
「あの、野々村さん」
「はい?」
「今度、仕事とは関係なく、食事にでも行きませんか」
 言い終えた瞬間、周平の心臓は、痛いくらいに脈打っていた。野々村は、一瞬きょとんとした顔をしたあと、ゆっくりと笑った。
「はい、喜んで」
 その返事を聞いた瞬間、周平の視界の中で、あの光が、ふわりと、まるで安悼するように揺れたのが見えた。それは、消えていくのではなく、むしろ、そこに根を張るように、静かに輝きを増していった。
 それでも、海外スタジオの話が消えたわけではなかった。野々村は、その後も時々、「まだ迷ってるんですよね」と、冗談まじりに口にした。光が視えたからといって、この先どうなるかまで、周平にはわからなかった。だが周平は、もうそのことに、以前のように怯えなかった。掴めるかどうかわからないまま、それでも手を伸ばし続けること。そのこと自体に、意味があるのだと、今の周平にはわかっていた。
 周平は、それを急いで追いかけようとは思わなかった。ただ、次にそれが本当に肩を掠めるときには、今度こそ、迷わずにいたいと思った。



エピローグ 陽はまた昇る
 冬が終わり、春が近づいたある朝、周平はいつもより少し早く目を覚ました。
 カーテンの隙間から、白い光が差し込んでいた。周平は珍しく、ベランダに出てみた。まだ空の低いところに雲が残っていたが、その向こうから、太陽が静かに顔を出そうとしていた。
 その瞬間、周平は視た。
 朝の光に紛れるようにして、あの淡い膜のようなものが、ベランダの手すりのあたりを、ゆっくりと漂っているのを。それは、これまで周平が視てきたどの光ともまた違う、静かで穏やかな輝きを放っていた。攻撃的でも、儚げでもない。ただ、そこに、静かに在るというような光だった。
 まだ、それが誰の――何の機会なのかは、周平にはわからなかった。もしかしたら、それは野々村という、新しく現れた人との、まったく新しい出会いの予兆かもしれない。あるいは、これまで見過ごしてきた、身近な何かに対する、もう一度のチャンスなのかもしれなかった。今日は、新しい部署での、初めての企画会議がある日だった。そこには、まだ知らない可能性が、いくつも待っているはずだった。
 周平は、もう「また機会があるさ」とは思わなかった。
 代わりに、ゆっくりと、手を伸ばしてみた。光はまだ、そこにあった。逃げもせず、急かしもせず、ただ周平の指先が届くのを待っているようだった。掴めるかどうかは、わからない。今度もまた、取りこぼしてしまうかもしれない。だが、少なくとも今度は、迷う前に、手を伸ばすことができた。
 昇りゆく朝日が、周平の伸ばした指先を、静かに照らしていた。
 まだ何も、始まってはいない。だが、何かが終わったわけでもなかった。
 周平は、ふと、古書店の老女のことを思い出した。この数ヶ月、足が遠のいていたが、今度、野々村との顛末を、報告がてら話しに行こうと思った。
 その週末、周平は久しぶりに、駅裏の路地を歩いた。だが、いつもの角を曲がっても、見慣れた暖簾が見当たらなかった。古書店があったはずの場所には、ただの空き店舗があるだけだった。埃をかぶった文庫本の山も、渋茶の匂いも、あの古びた看板も、まるで最初から存在しなかったかのように、跡形もなく消えていた。
 周平は、しばらくその場に立ち尽くした。近所の人に尋ねてみたが、「そんな店、この辺りにあったかねえ」と、要領を得ない返事が返ってくるだけだった。
 諦めて帰ろうとしたとき、周平は、店があったはずの場所の隅に、一冊だけ、古びた本が置かれているのに気づいた。表紙には何も書かれていない。周平は、吸い寄せられるようにそれを手に取り、開いてみた。
 中のページは、ほとんどが白紙だった。ただ、真ん中あたりのページに、一行だけ、細い字でこう書かれていた。
――今度は、見送らなかったね。
 周平は、その一文を、何度も読み返した。誰が書いたのか、いつ書かれたのか、確かめる術はなかった。だが、なぜかそれを疑う気にはなれなかった。周平は、その本をそっと鞄にしまい、来た道を引き返した。あの店が、これから先も現れることがあるのかどうか、周平にはわからなかった。ただ、あの老女が、どこかで、今の周平を見ていてくれたような気がして、それだけで、胸の奥が少しだけ、温かくなった。
 太陽は、ゆっくりと、雲の切れ間から顔を出しつつあった。街全体が、少しずつ、朝の色を取り戻していく。遠くの駅のほうから、始発電車の音がかすかに響いてきた。今日も、いつも通りの一日が始まる。だが、周平の中では、何かが確かに、昨日までとは違っていた。
――陽は、また昇る。
 その光は、また新しく、誰かの、あるいは周平自身の、肩のあたりを、そっと掠めていこうとしていた。そして今度こそ、周平はそれを、見送るだけでは終わらせないつもりだった。
 世界中の、どこかの街角でも、きっと今この瞬間、同じような光が、誰かの肩を掠めている。多くの人は気づかず、いつものように通り過ぎていくだろう。だが、ほんの少しだけ、手を伸ばす者がいる。それだけで、世界は、ほんの少しだけ、優しいものに変わるのかもしれない。
 周平は、そんなことを思いながら、朝日に向かって、大きく伸びをした。

(了)


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あとがき
 私たちは日々、仕事や人間関係、あるいは日常のふとした選択の中で、「今踏み出すべきか」「もう少し準備が整ってからのほうがいいのではないか」と迷いながら生きています。
 主人公の周平と同じように、「また次の機会があるはずだ」と自分に言い聞かせて通り過ぎた体験は、誰の胸の中にも一つや二つはあるのではないでしょうか。私自身、過去を振り返ったときに「あの時手を伸ばしていれば」と思う瞬間が何度もあります。
 作中で古書店の老女が言うように、過ぎ去ったまったく同じ機会は二度と戻りません。しかし、だからといって人生が終わるわけでもありません。学んだ後悔を抱えながら、次に肩を掠める新しい光に対して、不器用でも手を伸ばすこと――それこそが生きるということなのだと感じます。
 この物語が、いま何かを迷っている方の背中を、ほんの少しだけ優しく押すきっかけになれば幸いです。