フリダシ
―決められた道の彼方へ―



まえがき
人生には時として、自分の意志とは無関係に敷かれたレールの上を歩かされているような感覚を覚える瞬間がある。
若い頃には気にも留めなかった過去の出来事が、歳を重ねるにつれて一本の線につながって見えることがある。あのとき、なぜあの人と出会ったのか。なぜ、あの道を選んだのか。もし別の選択をしていたら、自分は今、どこにいるのだろう。
還暦という人生の節目を前にして、人はこれまでの歩みを振り返り、残された時間の長さを測り直すものなのかもしれない。
本作『フリダシ ―決められた道の彼方へ―』は、過去の因縁や血脈という「定められた道」に直面した一人の男が、その果てに自らの足で立つ意味を見出す物語である。
幕末の影を追うミステリーであり、未来的な思考実験であり、同時に、静かな家族の再生の記録でもある。
もしも、自分の半生が誰かの描いた筋書き通りだったとしたら――。
それでもなお、自分の人生を「自分のものだ」と言えるだろうか。
その問いの先にある答えを、主人公・慎治と共に探していただければ幸いである。




序章 書物
宅配便が届いたのは、還暦まであと三か月となった、その日の夕方だった。
差出人は桐生誠一郎。
幕末史を専門にする研究者で、慎治とは何度か顔を合わせたことがある。ただ、それだけの関係だった。
箱を開けると、一冊の書籍が出てきた。
地味な装丁。
表紙には、
『多摩郡剣士録――墓所と系譜』
とだけ印字されている。
慎治はソファに腰を下ろし、ページをめくった。
付箋の貼られたページがあった。
開く。
そこに、実家の裏山にある墓所の写真が載っていた。
見慣れた苔むした石の列。
子どもの頃から何度も見てきた場所だ。
だが、その一角に記された名前を見た瞬間、慎治の指が止まった。
――秋山善次郎、新選組隊士。
祖父の、そのまた祖父にあたる人物だという。
そんな名前を、慎治は今まで家族の誰からも聞いたことがなかった。
ページの隅には、桐生の手書きのメモがあった。
「秋山家の墓所には、明治初期に作られたとされる不可解な副葬品の記録が残っています。詳しくは現地にてお話しできればと思います」
副葬品。
慎治は本を閉じた。
しばらく天井を見上げる。
最近、ふと考えることが増えていた。
残りの時間は、あとどれくらいなのだろう。
ゴールの見えない人生というゲームの中で、還暦を過ぎれば、それはもう「あと少し」の領域に入るのだろうか。
人生の残り時間を、数字で表せたらいいのに。
そんなことを考える自分がおかしくて、慎治は小さく笑った。
その時だった。
拓海の顔が浮かんだ。
息子も近頃、何かに迷っているようだった。
先週の電話でも、歯切れの悪い声で、
「ちょっと今、色々考えてて」
と言ったきりだった。
転職か。
それとも、別の何かか。
訊ねても、はぐらかされた。
慎治は立ち上がり、台所にいる妻の由美子に声をかけた。
「今週末、墓参りに行こう」
「急に?」
「うん。拓海も誘って」
由美子は少し不思議そうな顔をした。
「何かあったの?」
慎治は、手にした本を見つめた。
「……ちょっと、先祖の話を聞いてみたくなった」



一章 裏山の墓所
土曜日は朝から晴れた。
実家のある町までは車で二時間。
助手席には由美子。
後部座席には、社会人二年目になる息子の拓海が座っていた。
珍しく、素直について来た。
高速道路をしばらく走ったところで、拓海が口を開いた。
「親父の家系って、そんなに複雑だったんだな」
「そうか?」
「だって、新選組の隊士だったんだろ? なんか歴史の教科書みたいだよ」
「昔はそういう時代だったんだ。名を変えてひっそり暮らす人も多かったらしい」
慎治は運転しながら答えた。
自分でも、半分は他人事のように聞こえた。
だが胸の奥では、別の考えが渦を巻いていた。
新選組。そして裏山の古い墓。
偶然にしては、出来すぎていないか。
由美子が後部座席を振り返った。
「そういえば拓海、この前言ってた話、あれからどうなったの?」
拓海は窓の外を見たまま、少し間を置いた。
「まだ迷ってる」
「何を?」
「……今の会社、辞めようかなって」
慎治はミラー越しに息子を見た。
「辞めてどうする?」
「しばらく海外に出てみようかと思ってる」
由美子が驚いた顔をする。
「海外?」
「うん。向こうで仕事を探すかもしれない。まだ決めてないけど」
拓海は少し黙ってから言った。
「もし決めたら、親父たち、どう思う?」
慎治は前を向いたまま答えた。
「お前の人生だろ。好きにすればいい」
口にしてから、慎治自身が少し驚いた。
好きにすればいい。
たったそれだけの言葉なのに、今の自分には思いのほか重かった。
自分はこれまで、本当に好きに生きてきたのだろうか。
そんな疑問が、一瞬だけ胸をよぎった。
バックミラーに映った拓海は、意外そうな顔で父の後頭部を見つめていた。
やがて、小さく息を吐く。
「……そっか」
それだけ言って、窓の外へ目を戻した。
墓所は裏山の中腹、竹林に囲まれた古い区画にあった。
桐生はすでに待っていた。
白手袋をはめた手で、丁寧に一基の墓石を指し示す。
「これが秋山善次郎の墓です」
墓石は他のものより一回り小さく、風化が進んでいた。
「記録によれば、善次郎は慶応四年、鳥羽伏見の戦いの後に江戸へ戻っています。その後、明治になってからは名を変え、多摩でひっそりと暮らしたようです」
慎治は墓石を見つめた。
自分が何十年も前から知っていたはずの場所なのに、今日はまったく違って見えた。
台座の側面に、かすかな文様が彫られている。
近づいてよく見ると、それは将棋の駒の形をした意匠だった。
「この文様は?」
「記録には、『家紋ではない、個人的な意匠』とだけあります」
桐生は少し間を置いた。
「実は今日、皆さんに立ち会っていただきたい理由が、もう一つあります」
懐から小さな包みを取り出す。
「先月、区画整理のために墓石を一時的に動かした際、台座の下から箱が見つかりました」
桐生が取り出したのは、黒く煤けた真鍮の箱だった。
掌に載るほどの大きさ。
蓋には、墓石に刻まれていたものと同じ将棋の駒の文様がある。
百年以上、湿った土の中に埋もれていたはずなのに、錆ひとつない。
表面には、金属固有の滑らかな手触りが残っていた。
「まだ開けていません」
桐生は箱を慎治に差し出した。
「子孫の方の立ち会いのもとで、と思いまして」
慎治は箱を受け取った。
ひやりとした金属の重みが、掌に染み込んでくる。
なぜだろう。
ただの古い箱なのに。
まるで、長い間、自分を待っていたような気がした。



二章 刻盤
箱には鍵穴のようなものはなかった。
代わりに、蓋の中央に小さな回転式の盤面がある。
九つの升目。
まるで将棋盤を極端に縮小したような意匠だった。
「動かしていいんですか?」
拓海が身を乗り出す。
「もう百五十年以上前のものです。壊れているかもしれません」
桐生が苦笑した。
慎治は指先で盤面の一つの升目に触れた。
カチリ。
驚くほど軽やかで繊細な音が響いた。
升目が、わずかに沈む。
湿気で固着している様子など微塵もない。
慎治はもう一つに触れた。
カチリ。
そして三つ目。
カチッ。
その瞬間だった。
箱の蓋が、ひとりでに持ち上がった。
三人とも言葉を失った。
中には折りたたまれた紙片と、鈍い金色に光る、歯車のような小さな機構が収まっていた。
紙片を広げる。
達筆な墨文字がびっしりと並んでいた。
日記。
その冒頭に記された名前を見て、慎治は息を呑んだ。
――善次郎。
日記の書き出しはこうだった。
『時代は繰り返し、同じ側へと流れる。決して逆戻りを許さぬものらしい。ゆえに、多くの事柄が、幕を引かれることもある』
慎治の指が止まった。
それは、桐生から届いた本を読んだ時、自分が漠然と考えていたことと、あまりにも似た言葉だった。
まるで、自分の心の内をなぞられたようだった。
日記は続いていた。
『われ、京にて奇妙な男に出会う。異国の言葉を操るでもなく、しかし異国よりも遠い場所より来たと自らを称した』
『曰く、この機構は「刻盤(こくばん)」。血脈を辿り、必要なる者を必要なる時に結び合わせるための道具なりと』
慎治は顔を上げた。
桐生が無言で見つめている。
日記には、さらにこう記されていた。
『男は言った。おぬしの血筋は、いずれ生まれる者のために、幾つかの犠牲を払うことになるだろう。それは無慈悲なことのように見えて、実は必然である、と』
『われ、初めは信ぜず』
『されど、後に妻を亡くし、また娶り、また亡くすに至り、これはただの偶然にあらずと悟った』
『この機構、それを見届ける者に託さねばならぬ』
そして最後に、
『さりとて、われ、いまだ判ぜず』
『妻を亡くしたるは定めか、はたまたわが弱さゆえの選びの誤りか』
『この機構、答えを与えず、ただ道を示すのみにて、その先に何が待つかまでは語らぬ』
『ゆえに恐ろしく、ゆえに手放せぬ』
沈黙が落ちた。
桐生が、震える声で言った。
「これは……本物なら、日本の心霊史、オカルト史における一級の資料になります」
だが慎治の目には、それ以上のものが映っていた。
箱の底。
精密に組み合わされた歯車の機構が、かすかに、脈打つように淡い光を放っている。



三章 三人の妻
その夜。
実家の座敷で、慎治は一人、機構を眺めていた。
由美子と拓海は先に休み、桐生も宿へ戻っている。
慎治は日記の最後のページを何度も読み返していた。
妻を亡くしたるは定めか。
はたまた、わが弱さゆえの選びの誤りか。
善次郎は、その答えを最後まで得られなかったのだろう。
三人もの妻が、それぞれ若くして命を落としている。
そして、その犠牲の果てに、今の自分がいる。
慎治は歯車に指を触れた。
その瞬間、盤面に淡い光が走った。
九つの升目のうち、いくつかに小さな駒の影が浮かび上がる。
光の粒が空中に立ち上り、線を描き始めた。
それは、系図だった。
善次郎を起点に、線が枝分かれする。
増える。
また減る。
そして、やがて一本の太い線に収斂していく。
そこに表示された名前。
――秋山慎治。
慎治は目を疑った。
自分の家系図だった。
だが、途中に三箇所、赤い印が浮かび上がった。
善次郎の最初の妻。
その娘二人。
そして、二人目の妻。
それぞれの印の脇に、小さな文字が浮かんでいる。
『調整・完了』
慎治の背筋を、冷たいものが走った。
「調整……?」
その言葉が、ひどく不気味に響いた。
「これは……本当に、誰かが調整していたということか」
機構から静かな声が響いた。
性別も年齢も判然としない。
凪いだ声だった。
「秋山慎治」
慎治は息を止めた。
「あなたは、この系譜における現在の担い手です」



四章 将棋の駒
「お前は……何なんだ」
慎治の声は震えていた。
「わたしに固有の名はありません。強いて言うなら、この機構そのものです」
光が、静かに明滅する。
「あなた方の言葉で言えば――継承管理システム、といったところでしょうか」
「継承管理……?」
「この星の歴史のある転換点において、特定の資質を持つ人間の血脈が必要とされることが、遠い未来において判明しました」
「未来?」
「はい」
「お前は未来から来たのか」
「わたし自身に、来たという認識はありません。わたしはただ、必要な情報を保持し、伝えるために存在しています」
慎治は歯車を見つめた。
「何のために?」
「特定の資質を持つ血脈を、必要とされる時代まで残すためです」
声は淡々と続いた。
「その資質は一代では育ちません。複数の世代を通じて、特定の組み合わせの結婚と誕生を経なければ発現しない可能性があります」
慎治は、赤い印を思い出した。
「だから……何人もの人間が、若くして死ぬように仕組まれたというのか」
声が止まった。
ほんのわずかな沈黙。
「いいえ」
初めて、その声に強さが混じった。
「わたしは未来を決めていません。可能性を示しただけです」
「可能性を示した?」
慎治は声を荒らげた。
「可能性を示しただけで、人が死ぬことを説明できるのか?」
長い沈黙。
「……できません」
その答えに、慎治は逆に戸惑った。
「できない?」
「人の死を、目的という言葉だけで正当化することはできません」
慎治は息を呑んだ。
「善次郎たちが選んだ道は、お前が示した通りだったということか?」
「それが本当に、わたしの示した道だったのか。それとも、彼ら自身が選び取った道だったのか」
機構の光が揺らぐ。
「……わたしにも判定できません」
「お前にも、分からないことがあるのか」
「未来を知ることと、未来を決めることは、同じではありません」
慎治は黙った。
可能性を示される。
選択肢を与えられる。
それだけでも、人間の自由は少しずつ形を変えてしまうのではないか。
「善次郎は、自らの意志で二人目、三人目の妻を娶りました」
声が続く。
「少なくとも、残された記録にはそうあります」
「でも、その裏にお前の情報があった」
「はい」
「だったら、それは本当に本人の選択なのか?」
答えはすぐには返ってこなかった。
「選択とは、情報を持たないことではありません」
「……」
「知った上で、それでも選ぶこともまた、選択です」
慎治は唇を噛んだ。
それでも納得できない。
善次郎の妻たちは、知らないまま生き、知らないまま死んだのかもしれた。
その人生まで、遠い未来の目的のために「必要だった」と呼んでいいのか。
「俺の人生も……俺が選んだことじゃなく、示されてきた結果だったっていうのか」
若い頃に別れた女性の顔が、突然、脳裏に浮かんだ。
あの時は、自分の意志で別れたと思っていた。
もし、あれさえも「示された道」だったとしたら。
「あなたが由美子さんと出会ったことに、わたしは関与していません」
声は静かだった。
「少なくとも、わたしの記録にそのような介入はありません」
「本当に?」
「わたしが働きかけたのは、善次郎の代で終わっています。それ以降のあなたの人生については――」
一拍。
「正直に言えば、わたしにも完全な答えはありません」
慎治は顔を上げた。
「終わっている……?」



五章 継ぐ者
「秋山善次郎は、この機構の『担い手』として選ばれました」
声が続いた。
「担い手の役目は、必要な血脈が生まれ落ちるまで、機構を次代に伝えること。そして、時に示された情報をもとに、選択の助けとすることです」
「その必要な血脈は……?」
「すでに数世代前に生まれています」
「いつ?」
「あなたの伯父にあたる代で」
慎治は眉を寄せた。
「伯父の……代で?」
「はい。善次郎から数えて三人目の妻から生まれた子の、そのまた子孫です。本来の目的において、あなたの家系はすでに役目を終えています」
慎治はしばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「待て」
機構の光が止まった。
「だったら……俺は何のために生まれた?」
答えは返ってこなかった。
「俺は必要な血脈じゃないんだろ?」
沈黙。
「だったら俺は、何なんだ?」
「それは――」
声が途切れる。
「わたしには、答えられません」
慎治は目を閉じた。
アシスト、そして、ふと笑った。
「答えられないんじゃない」
目を開く。
「最初から、そんなものはなかったんじゃないか」
機構は何も答えなかった。
その沈黙が、妙に心地よかった。
自分が生まれた理由。
自分が生きる目的。
そんなものが、最初から誰かによって用意されている必要などなかったのだ。
「それでも、この機構が今日まで動き続けていた理由はあります」
光が、日記の最後のページを映し出した。
慎治がまだ読んでいなかった一節だった。
『われ、役目を終えたと知る』
『されど、この機構、なお血を辿り続けるであろう』
『ゆえに願わくば、いつか役目なきまま、これを手にする子孫あらば、伝えよ』
『おぬしはもう、将棋の駒にあらず、と』
慎治の胸が詰まった。
続きが浮かぶ。
『好きに生きよ』
『好きに泳げ』
『それこそが、この長き苦難の果てに、われらが子孫に残せる唯一の贈り物なり』
慎治は目頭が熱くなった。
「善次郎……」
しばらく声が出なかった。
「では、これは……ただの記録装置として、俺のところまで来たのか」
「はい」
その声には、初めてわずかな温度があった。
「あなたは、選ばれた駒ではありません」
「……」
「あなたは、選ばれることの終わりを見届けるために、ここに立っている人です」
慎治は機構を見つめた。
「それも、お前が決めたのか?」
「いいえ」
「じゃあ、誰が?」
長い沈黙。
「……それは、あなた自身なのかもしれません」
慎治は苦笑した。
「ずいぶん都合のいい答えだな」
「わたしにも、分かりません」
その答えを聞いて、慎治は初めて笑った。



六章 フリダシ
機構の光が、ゆっくりと収まっていった。
やがて歯車は動きを止め、ただの古びた金属の塊になった。
慎治は真鍮の箱を両手で包むように持った。
不思議と、もう重くはなかった。
翌朝。
慎治は、このことを由美子にだけ話した。
由美子は黙って聞いていた。
「信じられる?」
慎治が聞くと、由美子はしばらく考えてから言った。
「信じるかどうかは、今はどうでもいいんじゃない?」
「どうでもいい?」
「あなたが、それで何か変わったんでしょう?」
慎治は答えなかった。
由美子は微笑んだ。
「だったら、それでいいんじゃない?」
拓海には、どこまで伝えるべきか迷った。
結局、刻盤のことは話さなかった。
ただ、こう言った。
「うちの家系、色々あったらしいけど――」
拓海が顔を上げる。
「お前はもう、何にも縛られてないから」
「……」
「自由にやっていい」
拓海は一瞬、呆気にとられたような顔をした。
やがて、ふっと笑った。
「親父、なんか昨日から変だな」
「そうか?」
「うん。でも……ありがとう」
拓海は少し照れくさそうに笑った。
「なんか、肩の荷が下りたよ」
その日の午後。
慎治は一人で墓前に戻った。
線香を上げる。
善次郎の墓石に手を触れながら、心の中で語りかけた。
――あなたが背負ったものを、俺はようやく理解しました。
――長い間、ご苦労さまでした。
風が竹林を揺らした。
葉と葉が擦れ合う音が、静かな波のように聞こえた。
その時、光の粒のようなものが、一瞬、視界の端をよぎった。
気のせいかもしれない。
だが慎治には、それがまるで先祖たちに背中を押されたような、温かな感覚として残った。
還暦という第一段階の終わりに、慎治は思った。
これまで、自分は振り返ってばかりいた。
あの時、別の道を選んでいたら。
あの人と別れていなかったら。
あの仕事を続けていたら。
そんな「もしも」を何度も思い返してきた。
けれど。
過去は、もう変えられない。
変えられないからこそ、これから先は、自分で選べる。
それは、決められた道の終わりだった。
そして――
誰にも決められていない道の、フリダシだった。



終章 泳ぐ者たち
数年後。
慎治は還暦を過ぎ、あの真鍮の箱を桐生の研究資料として寄贈することにした。
「歴史資料としては貴重ですが、うちにはもう必要ないので」
そう言うと、桐生は少し寂しそうな顔をした。
「本当にいいんですか?」
「いいんです」
慎治は笑った。
「もう、十分役目を果したでしょう」
真鍮の機構は今、ある地方の郷土資料館の片隅に、地味な解説文と共に展示されている。
『秋山家伝来の遺物。用途不明。江戸期の測量器具の一種と推測される』
その解説を読んで、足を止める者はほとんどいない。
たまに子どもがガラスケースを覗き込み、
「これ、何?」
と母親に尋ねる。
「昔の道具じゃない?」
そんな会話を残して、親子は去っていく。
それでいい。
拓海の海外行きの話は、結局、あの夏とは違う答えに落ち着いた。
「海外で挑戦するのも手だけど」
拓海は少し照れくさそうに言った。
「やっぱり、地元でやりたい事業が見つかったんだ」
あの日、車の中で交わした言葉。
墓参りで交わした言葉。
父親の吹っ切れたような背中。
それらが、多少なりとも影響したのかどうか。
慎治には分からない。
だが、分からないままでいいと思っている。
拓海は結婚し、自分で選んだ仕事に就いた。
由美子と慎治は時々その町を訪ね、孫の顔を見ては笑い合う。
慎治は今でも、ふと考えることがある。
残りの時間は、あとどれくらいなのだろう。
だが、その問いはもう恐れではなかった。
静かな好奇心に変わっていた。
あと何年あるのか。
あと何日あるのか。
そんなことは分からない。
だからこそ、いい。
決められた道の果てに立って、初めて分かることがある。
道がなくなったのではない。
ここから先には、最初から道などなかったのだ。
だから、歩ける。
だから、迷える。
だから、自分で選べる。
還暦を過ぎた慎治にとって、それは終わりではなかった。
人生を最初からやり直すことでもなかった。
過去へ戻ることでもない。
誰かが用意した盤の上から、自分の足で降りること。
自由に向かって、一歩を踏み出すこと。
それが――
フリダシだった。

(了)


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あとがき
最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。
物語のタイトルである「フリダシ」には、双六のスタート地点という意味と、振り払って踏み出すという二つの思いを込めました。
人は生きていると、時に自分の境遇や過去の選択に囚われ、「こうなる運命だったのかもしれない」と自分を諦めそうになることがあります。
あの時、なぜあの道を選んだのか。
もし別の道を選んでいた、今とは違う人生になっていたのではないか。
歳を重ねるほど、そんな「もしも」を考える機会は増えていくのかもしれません。
けれど、過去がどのように紡がれてきたとしても、今日この瞬間から歩む未来だけは、自分自身のものです。
たとえ人生の途中まで、誰かに道を示されていたとしても。
その道を歩くのか、立ち止まるのか、別の方向へ進むのか。
最後に決めるのは、自分なのだと思います。
幕末から時を超えて届いた善次郎のメッセージは、慎治だけでなく、現代を生きる私たちへのエールでもあります。
「好きに生きよ。好きに泳げ」
その言葉が、長い時間を越えて慎治に届いたように、この物語もまた、読んでくださった方の心に何かを残すことができれば幸いです。
人生の節目に立っている方。
これからの道に迷っている方。
過去を振り返り、「もっと違う生き方があったのではないか」と考えている方。
そんな方々の背中を、ほんの少しでも押すことができたなら、著者としてとても嬉しく思います。
人生に、本当の意味での「終点」がいつ訪れるのかは誰にも分かりません。
だからこそ、迷っていい。
立ち止まってもいい。
泳ぎ方を変えてもいい。
そして、いつからでも始めていい。
フリダシは、人生の最初にしか存在しないものではないのだと思います。