三・五次元の隠居録
――還暦から始まる、ちょっと不思議な物語――
まえがき
人生百歳時代と言われる現代、定年退職という節目は「終わりの始まり」ではなく、「まったく新しい人生の開幕」であると言えます。それまでの三十年間、あるいは四十年間を会社や家族のために誠心誠意捧げてきた方々にとって、肩の荷を下ろした後に訪れる自由な時間は、どこか手持ち無沙汰で、少しだけ寂しさを伴うものかもしれません。
本作の主人公・平田継男もまた、真面目一筋で経理マンとしての務めを上げ、定年を迎えたどこにでもいる六十一歳の男性です。特別な大金も、並外れた容姿も与えられなかった彼が、人生の後半戦で出会ったのは「目に見えない不思議な光」でした。
私たちが歳を重ね、見栄や我慢、義理や体裁といった重荷を一つずつ手放したとき、世界の景色は少しだけ姿を変えるのかもしれません。本作は、そんな隠居生活の日常を、ユーモアと温かな眼差し、そしてほんの少しの「三・五次元」の不思議を交えて描いた物語です。肩の力を抜いて、継男さんの歩むちょっとおかしな日常をお楽しみいただければ幸いです。
一 還暦の贈り物
平田継男(ひらたつぐお)、六十一歳。
元は、真面目を絵に描いたような経理マンだった。
三十八年間、数字と領収書と上司の機嫌に人生を捧げた。朝は決まった時間に起き、決まった電車に乗り、決まった席で弁当を食べ、決まった時間に会社を出る。
会社では「平田さんなら間違いない」と言われていた。褒められているようでいて、実は「面白みがない」という意味だったのかもしれない。それでも継男は気にしなかった。経理に面白みなど必要ない。数字が合っていれば、それでいい。むしろ数字が合っているのに面白い人間の方が怖いのだ。
そんな人生を三十八年続け、六十一歳の春、定年退職の日を迎えた。
最後の日、部長から花束を渡された。
「これからは、ゆっくりしてください」
「はい、ありがとうございます」
ゆっくりしてください――その言葉を聞いたとき、継男は少しだけ困ってしまった。何をして、どうやって「ゆっくり」すればいいのか、さっぱり分からなかったからだ。
退職金の振込額を確認して、継男は静かに笑った。決して大金ではない。「老後は豪華客船で世界一周だ」などという夢は、口座の数字を見た瞬間に消えてなくなった。
妻に見せると、「まあ、こんなもんでしょ」と一言。妻は強かった。
鏡を見た。髪は減った。腹は出た。妻には以前「地味だけど飽きない顔ね」と言われたことがある。継男は、それを最高の褒め言葉だと思うことにしていた。
健康診断はどこも問題なし。息子は真っ当な会社員になり、娘は保育士として働きながら孫を二人育てている。妻は相変わらず口うるさいが、四十年連れ添って一度も大きな病気をしていない。
退職して三日目の朝、縁側で緑茶をすすりながらふと思った。
――神様は、僕にカネと美しさをくれなかった。その代わり、健康と家族はくれたらしい。
還暦を過ぎて、ようやくそのことに気づいた。そしてもう一つ、どうやら妙なものまでくれたらしい。それが何なのか、この時の継男にはまだ分かっていなかった。
二 鏡の中の敗者たち
学生時代からの友人に、鏡味(かがみ)という男がいた。名前まで出来すぎている。本人も名前に負けない美貌の持ち主で、廊下を歩くだけで女子生徒が振り返った。継男が隣を歩くと、女子は鏡味を見て、継男を見て、もう一度鏡味を見た。継男は完全に背景の一部だった。
若い頃の鏡味は、何もかもを持っているように見えた。容姿も背丈も、恋愛も仕事も。継男にないものを、ことごとく持っていた。
ところが人生とは不思議なものだった。
鏡味は三十代で大病をし、四十代で経営者に騙されて多額の金を失い、五十を前に糖尿病で片足を失った。同窓会のたびに近況が更新された。「今度は腎臓らしい」「いや、透析に通っているらしい」
継男は複雑な気持ちになった。鏡味のことが嫌いだったわけではない。むしろ友人だったからこそ、考えてしまうのだ。
――美しさとは、呪いなのだろうか。
継男の観察範囲では、美形であればあるほど、なぜか人生の幸福の総量が薄い者が多い気がした。もちろん完全に思い込みで、統計学的な意味はゼロの「知人を思い出しただけ」の身勝手なデータである。だが元経理マンは、一度数字らしきものを頭に並べると信じたくなる性分だった。
ある夜、風呂上がりに鏡を見ながら呟いた。
「美しさなんて、もう要らんな」
鏡の中の自分が、少しだけ寂しそうに見えた。
「お金は欲しいけどな。ギリギリやなくて、ちょっとだけ余裕があるくらい。安定いうんは、結局その『ちょっと』から生まれるんやから」
誰も聞いていなかった。だから少しだけ得意気になった。
「さすが元経理やな」
不思議なことが起き始めたのは、まさにその夜のことだった。
三 節分の夜、扉が開く
還暦を過ぎて最初の節分。妻に急かされ、玄関先で豆をまいた。
「鬼は外!」
「声が小さい!」
「鬼は外ォ!」
近所の犬が吠え、隣の家の窓がピシャリと閉まった。
「歳の数だけ食べなさいよ」
六十一粒の炒り豆と格闘した。だが途中で五粒ほど、どこかへ転がっていってしまった。
「足りん」
「探して食べなさい」
「もうええやろ」
「ダメ」
経理の監査より厳しい。腹がいっぱいになって布団に入った。
午前二時ごろ、ふと目が覚めた。天井近くに、ほのかな光が浮かんでいた。一つ、二つ、三つ。ピンポン玉ほどの大きさで、淡い橙色に発光し、水中を泳ぐ金魚のようにゆらゆらと動いている。
目をこすっても消えない。一つがゆっくり壁へ近づき、すっと壁を通り抜けて隣の部屋へ消えていった。
脳の病気か、泥棒か、あるいは豆の食べすぎか。どれも違う気がした。
妻を起こそうとして、ふと手を止めた。
――起こしたら「あんた、ついにボケたん?」と言われるのがオチだ。
布団を頭までかぶったが、どうしても眠れない。怖いはずなのに、胸の奥がなぜか少しだけ高鳴っていた。六十一年生きてきて、初めて目にするものだった。会社の予定表にも、自分の老後計画にも、どこにも書いていなかったもの。
「……人生、まだ何か隠しとったんか」
四 見えない客人たち
翌晩も三つ。その翌晩も三つ。実に律儀な客人たちだった。
いつしか話しかけるようになった。
「おはよう」
「今日は寒かったな」
「年金、もうちょっと増えんかなあ」
返事はない。ただ光がゆらりと揺れる。継男はそれを彼らの相槌だと思うことにした。
図書館に通って調べ、彼らを「玉響(たまゆら)」と呼ぶことに決めた。かすかな光や、一瞬のきらめきを表す古い言葉らしい。
「ええ名前やろ?」
三つの光が嬉しそうに揺れた。
妻は怪しんだ。
「最近、誰と話してるの?」
「玉響や」
「人?」
「光や」
翌日、ダイニングテーブルの上に心療内科のパンフレットが静かに置かれていた。「念のため」と付箋が貼ってあった。継男は丁寧に二つ折りにして、資源ごみに出した。
夜、家じゅうが寝静まってから天井を見上げた。
「お前ら、わしが変になったと思うか?」
一つが少しだけ近づいてきた。
「そうか。なら、ええんや」
壁もドアもすり抜けるくせに、継男の身体だけは器用に避けていく。まるで継男を自分たちと同じ「生き物」として認識しているかのようだった。
五 スーパーの惣菜売り場事件
毎日話しかけていると、それが癖になってしまう。半年もすると独り言が完全に板についてしまった。問題は、玉響が見えるのが自宅の中だけだということだった。
ある夕方、近所のスーパーの惣菜売り場で、コロッケと唐揚げパックを見比べながらつい口に出てしまった。
「お前ら、どう思う?」
当然、ここに玉響はいない。だが長年の習慣で視線を右上に向けると、「うんうん、唐揚げやな、わかった」と深く頷いた。
隣にいた主婦が、サッと一歩後ずさった。継男は素知らぬ顔で唐揚げを買った。
翌週には、町内に噂が駆け巡っていた。
「平田さん、誰もいないところに向かって話しかけてるらしいよ」
「惣菜売り場で揚げ物と会話してたって」
「唐揚げから返事をもらっていたらしいわ」
話は尾ひれがついてどんどん大きくなった。
それに追い打ちをかけたのが、孫の小学校の作文『わたしのおじいちゃん』だった。
『おじいちゃんは、いつも目に見えない誰かとお話ししています。でも、そのときのおじいちゃんはとても楽しそうです。だからわたしは、かっこいいと思います。』
この作文がなんと地域で金賞を取り、地元ケーブルテレビの取材が入ってしまった。
「見えないものが見えるんですか?」
「まあ、見えるな」
「幽霊ですか?」
「知らん」
「じゃあ、何なんですか?」
継男は少し考えてから答えた。
「友達や」
翌日から継男は「霊感じいちゃん」として夕方のローカルニュースに五分間バッチリ放送され、近所でそう呼ばれるようになってしまった。
「恥ずかしくないの!?」と妻に怒鳴られたが、「孫がかっこいい言うてくれたんや。それだけで十分や」と胸を張った。
六 骨董屋の佐伯
町の外れにある骨董屋の店主・佐伯は、七十を越えているはずだが年齢不詳の胡散臭さを漂わせている男だった。思い切って玉響の話を打ち明けると、佐伯は笑うこともせず、店の奥から埃をかぶった古い写真乾板を持ってきた。百年近く前の日本家屋の庭の隅に、小さな光が三つ写り込んでいる。
「こういうものを見る人間には共通点があるんじゃ。何かを大きな手放した直後なんじゃよ」
継男には思い当たることがあった。還暦を機に四十年来の晩酌を断ち、惰性で付き合っていた元同僚、愚痴ばかりの友人、金の無心を繰り返す遠縁の甥、断り切れずに続けていたゴルフ――この半年で、それらを一つずつ切り捨てていたのだ。
「身軽になったんじゃな。人間は歳を取るほど荷物が増える。物だけじゃない。付き合い、体裁、我慢、義理、見栄……そして荷物を捨てた人間だけが、今まで見えなかったものを見るようになる」
「それ、科学的な話なんか?」
「知らん。ワシは骨董屋じゃからな」
「関係あるか?」
「ないな」
二人は顔を見合わせて笑った。
七 三・五次元理論
正月に、姪の沙耶がやってきた。大学院で物理学を学んでいる理系女子だ。
「おじさん、それ、もしかして次元がずれてるのかもよ。理論上、私たちは三次元に時間を足した四次元時空にいるけど、超弦理論では十一次元の可能性だって議論されてるの。次元の隙間をふっと覗き込んじゃったんじゃない?」
「でもな、わしの身体だけ避けていくんやぞ?」
「面白いのはそこだよ! 向こうから見たら、おじさんの方があやしい異物なんじゃない? 三次元にどっぷり浸かったおじさんの身体が、向こうの座標軸からすると邪魔な障害物になってるんだよ」
継男は妙に納得した。自分が幽霊を見ているのではなく、自分の方こそ誰かにとっての幽霊なのかもしれない。そう考えると、なんだか愉快になってきた。
後日、沙耶から聞いた話を骨董屋の佐伯に打ち明けると、佐伯はしたり顔で言った。
「三・五次元やな。まだこの世におるけど、少しだけこの世から離れ始めた人間が住む場所じゃ」
継男はその言葉が妙に気に入った。科学的根拠はゼロだが、大マジメだった。ノートを買ってきて下手な図まで描き、誰彼構わず語って聞かせた。息子には「父さん、それただの老化現象やろ」と一蹴され、かかりつけ医には「血圧の薬、出しておきますね」とだけ言われた。
「わかる者にしかわからん高度な理論なんや」と、継男はむしろ誇らしげだった。
八 厄介者の追放、そして自由
それからというもの、継男は「我慢」を一切やめた。飲みたくもない酒の誘いは断り、愚痴しか言わない元同僚からの電話には出ず、金の無心を言ってきた甥には「もう一銭も出さん」とはっきり言った。
「叔父さん、昔はもっと優しかったじゃないか!」
「昔は暇がなかったんや。今は断る時間があるんや」
そう言ってガチャリと電話を切った。
「あんた、なんだか感じ悪くなったわね」と妻に呆れられたが、本人は少しも気にしなかった。不思議なことに血圧は下がり、食事は妻の手料理中心になり、毎朝爽やかに散歩をするようになった。
――我慢をやめたら身体が軽くなった。魂まで軽くなったんや。軽くなった魂は、別の次元の周波数と同調し始めるんと違うか。
それが継男の持論だった。
玉響の数も少しずつ増えていった。ある夜は四つになり、翌日には三つに戻る。
「気まぐれなやつらやな」
三・五次元とは年齢のことではない。手放した荷物の量なのだ。荷物を一つ捨てるたびに、こちらの世界の重力が少しずつ弱くなっていく。
九 社寺仏閣めぐりと写真判定
継男の新しい趣味は神社仏閣巡りになった。神様にお願いすることは三つだけ。健康、安全、安定。
若い頃なら「金持ちになりますように」とか「美人に好かれますように」と願っただろう。だが六十一を過ぎると、願い事はきわめて現実的になるのだった。
参拝を終え、境内の空気がゆらぐ瞬間を狙ってスマホのシャッターを切る。すると、たいてい何かが画面に写り込む。小さな光の玉だ。
「居るな。今日もおる」
境内で一人、スマホに向かって頭を下げる老人を、近所の人々は遠巻きに心配そうに見ていたが、継男は一向に気にしなかった。ある日、寺の住職に写真を見せると、住職は優しく微笑んで言った。
「あなたがそういうお名前で呼んでおられるなら……ええ、きっと玉響なのでしょう」
決して否定しなかった。それだけで継男は嬉しかった。
家に帰ると妻が言った。
「今日はどこ行ってたの?」
「お寺や」
「何お願いしてきたの?」
「健康、安全、安定や」
「私の分も入ってる?」
「当たり前やろ」
神様は遠い雲の上にいるとは限らない。毎日の台所の湯気の向こうや、朝飯の味噌汁の中や、天井近くを泳ぐ小さな光の中にも、ちゃんといる気がした。
十 鏡味、ふたたび
春、駅前を歩いていると声をかけられた。
「平田か?」
振り返ると鏡味だった。白髪が増え、片足は義足になっていたが、品のいい佇まいは昔のまま健在だった。
近くの喫茶店に入った。
「体調はどうや」
「まあまあだな。昔はもっといい人生になると思ってたよ。顔が良ければモテる、金があれば好きなことができる、成功すれば勝ちだと思ってた。でも全部違ったな。今は朝起きて飯が食えて、身体の痛みが少なければそれで嬉しいよ」
継男は笑った。
「わしも全く同じや」
「お前は幸せそうだな」
「何でやろな」
「知らんよ」
継男は例のノートを取り出し、得意げに三・五次元理論を説明した。鏡味はぽかんと口を開けて聞いていたが、やがて腹を抱えて笑い出した。
「なんやそれ! お前、とうとう頭沸いたんか!?」
「沸いとらん! これは高度な理論や!」
「一緒やろ、そんなもん!」
学生時代のように、いつまでも二人で笑い転げた。美しさも、カネも、若さも、どうでもよかった。こうしてバカな話をして笑い合える相手がいる。それだけで、人生は十分すぎるほど豊かだった。
十一 古希への予感
骨董屋の佐伯に会いに行くと、お茶をすすりながら言われた。
「継男さん、次は古希(七十歳)やな。還暦で片足を三・五次元に突っ込んだのなら、古希で両足が入ってしまうかもしれんな」
「そしたら、わしどうなるんです?」
「知らんよ、ワシもまだ古希は超えとらんからな」
もし七十歳の誕生日に両足を踏み入れて、この世から姿を消すことになったとしても、それはそれで悪くない終わり方かもしれない、と継男は思った。ただし、孫の小学校の入学式も運動会もまだ見ていない。来月には妻との温泉旅行も予約したばかりだ。あと九年、やるべきことは山ほどあった。
その夜、天井を泳ぐ三つの光に話しかけた。
「なあ、古希になったらわし、どっか行くんか? まだ行きたないんやけどな。孫の入学式も見たいし、運動会も、温泉も行きたいんや」
「急がんでもええよな?」
三つの光が、ゆっくりと優しく揺れた。継男はそれを、「当たり前だ」という返事だと受け取った。
十二 それでも、ここにいる
翌朝早くに起き、庭でラジオ体操を始めた。
一、二、三、四。「痛っ」腰が小さく鳴った。
「三・五次元に入る前に、腰が四次元になってしもたわ」
妻が縁側から顔を出した。
「朝から何ブツブツ言ってるの?」
「ラジオ体操や」
そのとき、頭上に小さな光が三つ浮かんでいた。朝の光に紛れるほど淡い光だった。
「お前らも来たんか」
「何?」
「友達や」
「朝から友達まで来てるの。じゃあ、その友達にも朝ご飯食べるか聞いといて」
「朝飯食うか?」
光がゆらりと揺れた。
「いらんらしいわ」
カネも美しさも若さも、結局のところ大したものではなかった。もちろん、少しは欲しい。ついでに腰痛もなくしてほしい。だが振り返ってみれば、健康な身体があり、妻がいて、息子も娘も孫もいて、朝飯が美味しく食えて、散歩ができて、よく分からない光の友達までいる。十分どころか、溢れるほどの贅沢だった。
「神様、もしお前らが神様からの相槌やったらな、わしまだここにおるで。まだどこにも行かんで。孫の運動会もあるし、温泉も行く。あと、唐揚げも食う」
三つの光がふわりと明るくなった。
「お前ら、唐揚げ好きなんか?」
見えないものを無理に見ようとはしなくなった。目に見えるものを、ただ大切にするようになった。妻の呆れた笑い声、孫からの電話、朝の澄んだ空気、味噌汁の温かい湯気、庭に咲く小さな花、探さずとも歩んでいける己の足根骨。
三・五次元とは、決して特別な世界のことではないのかもしれない。何かを手放したあとに初めて気づく、この世界のもう一つの素顔。失ったものではなく、手元に残っている宝物が見えてくる場所なのだ。
庭に立ち、空を見上げた。
「また明日な」
三つの光が、同時にふっと消えた。
台所から声がした。
「誰と話してるのー?」
継男は少し考えてから答えた。
「未来のわしや!」
「何それ!」
「三・五次元の住人や!」
「朝から変なこと言ってないで、ご飯よ!」
「はいはい」
継男は笑いながら家の中へ入った。その足取りは、驚くほど軽やかだった。まだどこへも行かない。まだこの世界にしっかりと生きている。
三・五次元の隠居生活は、今日もちゃんと続いていく。
少しだけ不思議に。少しだけ滑稽に。そして、思っていたよりもずっと豊かに。
(了)
あとがき
主人公の平田継男は、決して世間一般で言う「成功者」ではありません。退職金で豪遊できるわけでもなく、人目を惹くような華やかな経歴があるわけでもありません。しかし、彼が不要な意地や我慢を手放したことで手に入れた「三・五次元の視点」は、何物にも代えがたい豊かな人生の境地であったと感じます。
慌ただしい日常を送る現代において、私たちはつい「何を得るか」「何を足し算するか」ばかりに気を取られてしまいがちです。しかし、歳を重ねる中で不要な荷物を削ぎ落としていく「引き算の美学」の中にこそ、日常の小さな幸せを照らし出す光が隠されているのかもしれません。
あなたのすぐ側にも、もしかすると優しく揺れる「玉響」が漂っているかもしれません。この物語が、読者の皆様の日常にほんの少しの温もりとクスッと笑える癒やしを届けることができたなら、とても嬉しく思います。
平田継男と「玉響」たちのささやかな未来に幸多からんことを願って。

