『あの夏へのシグナル』
二十四年目の周波数
まえがき
人は誰しも、過去のどこかに「言えなかった言葉」を置き忘れて生きているのかもしれません。
どれほど年月が過ぎ去ろうとも、夏の陽炎の向こう側からふと立ち上ってくるのは、かつて共に風を切った友の姿であり、あの時切り出せなかった胸のつかえです。
本作『あの夏へのシグナル』は、あるサーキットの記憶と、二十四年という長い星霜を隔てて交信される二人の男の絆を描いた物語です。アスファルトに刻まれたタイヤ痕と、夏の墓地に漂う線香の煙。その二つを結ぶ不可思議な周波数の波線に、しばし耳を澄ませていただければ幸いです。
一章 二十四回目
墓地に着くと、蝉の声がいっせいに止んだ。止んだのではなく、僕がその中に踏み込んだだけかもしれない。毎年この時期になると、蝉たちは僕の足音を覚えているような気さえする。
花を替え、線香に火をつけ、いつものように缶を二本、墓石の前に置く。モンスター・エナジー、緑のパッケージ。隆が存命だった当時に彼が愛飲していた外国製ドリンクに倣い、最近はこの缶を置いている。中身が炭酸で満ちているそれを、隆はいつも呑まなかった酒の代わりのように呑んでいた。呑まなかったのではなく、呑めなかったのだ。彼はいつも、次のレースのために体を仕上げていた。
二十四回目。数えてしまってから、僕は少し笑った。一年に一度、欠かさず。振り返ることばかりが増えていくのに、月日はまるで僕を置いて先に行くように過ぎていく。
墓誌に彫られた文字を、また目で追う。享年三十六。何度見てもその数字は、僕の記憶の中の隆より若い。もし彼が生きていたら、今年で還暦だ。還暦の隆を想像しようとして、けれど僕の頭の中にいる隆は、いつまでも革のツナギを着た三十六の男のままだった。
「今年もまた暑いな」と、僕は墓石に向かって呟いた。「あの日も暑かったが、今はもっと暑いぞ」
そのとき、背後に立てられた塔婆が、カタッ、と小さく音を立てて揺れた。風はなかった。
二章 モンスターと呼ばれた男
隆と知り合ったのは、僕がまだサーキットの取材でカメラを担いでいた頃だ。彼は僕より五つ若く、けれどコーナーの奥への進入だけは、誰よりも老獪だった。ブレーキを引きずるようにして奥まで突っ込み、誰も真似できない深いバンク角で車体をねじ込む。周りはみな彼のライディングを見て「化け物だ」と言った。
彼が乗っていたのは、ドゥカティのモンスターだった。だから誰かが「あいつはモンスターに乗ったモンスターだ」とからかい、それがそのままあだ名になった。本人はまんざらでもない顔をしていたのを覚えている。
レースの世界では他人を信用しないライダーも多い中、隆は違った。ピットに戻るたび、僕のような部外者にまで平気でヘルメットを預け、タイヤの空気圧を聞いてきた。頼れる男、というのが、あのチームにいた誰もが口にする評だった。
けれど彼は同時に、誰の言葉も簡単には聞かない男でもあった。危ないと言われれば言われるほど、次のレースでは危ういラインを攻めた。まるでモンスターという名前に、自分から追いつこうとしているようだった。
三章 街の夜、リハビリの日々
サーキットで逝く五年前、隆は三十一の年に街中で事故を起こした。信号待ちで止まっていたところに、脇見をしたトラックが突っ込んで来たのだと聞いた。彼のバイクのせいではなかった。ただの、理不尽な事故だった。
長い入院と、それに輪をかけて長いリハビリが続いた。僕は幾度となく病室に足を運んだ。松葉杖をついてリハビリ室の廊下を歩く隆は、コーナーを攻める彼とは別人のように見えた。
見舞いに行くたび、僕はあることを言おうとして、いつも喉の手前で止めていた。——そろそろ潮時ではないか、と。
レースをやめろ、という意味ではなかった。ただ、これ以上、体を壊してまで攻め続けなくてもいいのではないか、と。誰かがそれを言うべきだと思っていた。そして、その誰かは、他の誰でもなく僕であるべきだと、心のどこかで感じていた。
けれど僕は、結局その言葉を口にしなかった。もし言ったところで、隆がそれを聞く男ではないことを、僕自身がいちばんよく知っていたからだ。彼は僕の言葉に頷きながら、それでも次のレースのエントリー用紙にサインをするような男だった。
だから僕は、代わりに「早く治せよ」とだけ言った。それは今も、僕の中に小さな棘として残っている。
四章 茂木、あの夏
長いリハビリを経て、三十六歳になった隆が復帰戦に選んだのは、茂木でのバイク耐久レースだった。復帰戦にしては大きすぎる舞台だと誰もが思ったが、隆は迷わずエントリーした。
僕はその日、都合がつかず現地には行けなかった。テレビの中継もない、地方局のローカルニュースにすら載らないような草の根の耐久レースだったから、僕は自宅で結果を待つつもりでいた。
夕方、チームメイトから電話が入った。事故だという。詳しいことは誰にもわからなかった。油断だったのか、マシントラブルだったのか。目撃した者の話もまちまちで、今でも本当のところはわからないままだ。
隆だけが、帰って来なかった。
最後に彼が跨っていたのも、やはりドゥカティのモンスターだった。葬儀の日、誰が持ってきたのかは今もわからないが、そのモンスターのミニチュア模型が一つ、祭壇に供えられていた。それは今も、墓前に置かれたままだ。
あの日、もし僕も現地に行っていたら。もしかしたら、わずかでも何かが変わっていたかもしれない——そんなことを、二十四年経った今でも、ふと考えてしまう。考えたところで、何も変わりはしないとわかっているのに。
五章 震えた塔婆
現在に戻る。塔婆が揺れた、その一瞬に、僕は思わず息を止めていた。
風はなかった、と言った。だが正確に言うなら、風がないことに気づくだけの静けさが、あの瞬間にはあった。蝉の声も止み、線香の煙だけがまっすぐに立ちのぼっていた。
耳の奥で、かすかな高い音が鳴った気がした。耳鳴りだと片付けるには、あまりにリズムがあった。トン、ツー、トン、トン——まるで、モールス符号のような。
隆は無線が好きな男だった。ピットとの通信で、決められた符丁以外にも、彼だけがわかるような癖のある打ち方をしていた。長く一緒にレースを回っていた僕には、その癖に聞き覚えがあった。
まさか、と思う。だが二十四年もの間、毎年同じ場所で同じことを繰り返してきた僕の耳は、その日だけ、いつもと違う何かを拾い上げていた。
六章 ガレージの受信機
家に帰ってから、僕はガレージの奥にしまい込んでいた古い段ボール箱を引っ張り出した。隆の遺品の中から、彼の両親が「お前が持っていてくれ」と譲ってくれた品々が入っている。
その中に、彼が愛用していたピット用の携帯受信機があった。当時のレースでは珍しい、少し特殊な周波数帯を使う小型の無線機だ。隆はこれを肌身離さず持ち歩いていて、レースのない日にも、悪戯のように僕に向けて短いメッセージを送ってきたものだった。
電池を入れ替え、スイッチを入れる。二十四年分の埃を被った機械が、思いのほかあっさりと息を吹き返した。スピーカーからは、砂嵐のようなノイズだけが流れてくる。
僕は苦笑した。当たり前だ。こんな古い機械が、二十四年前に死んだ男の声を拾うはずがない。それでも、なぜか電源を切る気にはなれなかった。
ノイズの向こうに、また、あのリズムが混じった気がした。空耳だと思いながらも、僕はその夜、受信機を枕元に置いたまま眠った。
七章 二十四年越しの周波数
翌日、僕は当時のチームでエンジニアをしていた北原に連絡を取った。彼は今も茂木の近くで、小さな無線通信の会社を営んでいる。
受信機を見せ、あの夜のことを話すと、北原は笑い飛ばすでもなく、意外なほど真剣な顔でそれを手に取った。
「この周波数帯はな、当時のピット無線特有のクセがあるんだ。今の機材とは違って、金属質の反射に弱い。もし近くに強い磁性を持つ構造物があると、微弱な残留信号を妙な形で拾っちまうことがある」
彼が言うには、隆の墓に使われている石材と塔婆の金具には、地元でしか採れない特殊な鉄鉱石由来の合金が使われているという。茂木のサーキット周辺の地層にも、同じ鉱脈が走っているらしい。
「命日のあの時間、あの場所でだけ、大気の状態と地磁気がある種のアンテナを作ることがあるのかもしれない。科学的にちゃんと説明できるかどうかは、正直、俺にもわからん。だがな、電波ってのは、案外、律儀に同じ場所を回り続けるもんなんだよ」
北原の言葉は、半分は慰めで、半分は本気だったように思う。真偽のほどはどうでもよかった。僕はただ、もう一度あの場所へ、あの受信機を持って行きたいと思った。
八章 また、その世で
命日の夜、僕は再び墓の前に立った。缶はすでに供えてある。線香の煙も、まだ細く立ちのぼっていた。
受信機のスイッチを入れる。ノイズの中に、また、あのリズムが混じった。今度ははっきりとわかった。トン、ツー、トン、トン。それは隆の癖そのものだった。
ノイズの隙間から、掠れた声のようなものが聞こえた気がした。「らしくねえこと言うなよ」——僕がかつて言えなかった言葉を、まるで見透かしたように。
空耳かもしれない。願望が形を作っただけかもしれない。それでも僕は、笑いながら答えた。「悪いな。今更だけどよ、そろそろ潮時ってやつを言いそびれたままだったからさ」
ノイズがひときわ大きくなり、また静まった。最後に、短く、こう聞こえた気がした。「先に、行って待ってる」
それが本当に隆の声だったのか、二十四年分の想いが作り出した幻だったのか、僕にはわからない。わかる必要もないと思った。
受信機の電源を切り、ドゥカティ・モンスターの小さな模型にそっと触れる。誰が持ってきたのかもわからないその模型は、二十四年間、雨にも雪にも負けず、ここに在り続けた。
「また、次の世でも、友達でいような」
塔婆が、また、カタッ、と小さく揺れた。
風は、今夜もなかった。
了
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あとがき
本作は、歳月を重ねる中で誰もが抱く「あの時こうしていれば」「あの言葉を伝えていれば」という割り切れない思いをモチーフに執筆いたしました。
二十四年という時間は、青春の残り香を遠ざけるには十分すぎる年月ですが、人の思いや記憶というものは、時として科学では割り切れない奇跡のような周波数を生み出すのではないか——そんな願いを込めています。
作中に登場するドゥカティやサーキットの熱気が、読者の皆様の胸の中に少しでもリアルな情景として浮かんだのであれば、とても嬉しく思います。
季節が巡り、また新しい夏が訪れるたびに、この物語と隆の笑顔を少しでも思い出していただければ幸いです。

