銀河電話帳整理局
―六十五歳、縁を選び直す―


はじめに
年齢を重ねるにつれ、手元に残る「名刺の山」や「スマートフォンの連絡先」の数に、ふと重苦しさを覚えることがあります。若き日は繋がりの多さこそが人間味や成果の証のように思えても、人生の後半戦においては、そのひとつひとつが知らず知らずのうちに心を縛る枷(かせ)になっているのかもしれません。
「もしも、スマホの連絡先を適当に消したら、その相手が目の前に実体化して現れてしまったら……?」
そんな少し奇妙で滑稽な思いつきから、この物語は生まれました。断捨離とは単に捨てることではなく、これまで出逢った人々の顔や時間をひとつずつ愛おしく振り返り、感謝とともに整えていく作業なのかもしれません。どうぞ、健二と一緒に深夜の不思議な対話のひとときをお楽しみください。




第一章 深夜の断捨離
田村健二、六十五歳。深夜二時、リビングのソファに座り、スマートフォンの画面を睨んでいた。
正確には六十五歳と三ヶ月なのだが、この際どうでもいい。大事なのは、彼が今まさに人生の大掃除を始めようとしているということだった。
きっかけは単純だった。定年退職から三年、健二は「これからは自由に生きる」と決めていた。だが自由とは何かと考えたとき、真っ先に浮かんだのは「ストレスの正体」だった。
――人間関係だ。
朝起きれば同窓会の幹事から催促のLINE。昼には保険の勧誘、投資セミナーの誘い、元同僚からの「ちょっと相談が」というメッセージ。かつて仕事で名刺交換しただけの相手からも、なぜか年賀状が届く。
「もう、いらんのだ。こんなもの」
健二は電話帳アプリを開いた。連絡先の数、一〇二三件。長い会社員生活の澱(おり)のような数字だった。
彼は指を滑らせ、上から順に「削除」ボタンを押し始めた。
最初の一人は、二十年前に一度だけ名刺交換した保険会社の営業マンだった。名前すら思い出せない。躊躇なく削除。
次はマルチ商法に誘ってきた元同期。これも即削除。
三人目、四人目、五人目――健二は次第にリズムに乗ってきた。削除、削除、削除。まるで長年溜め込んだ埃を掃除機で吸い取るような、痛快な快感があった。
そうして一時間が経った頃、彼はふと気づいた。
リビングの隅、テレビの横あたりに、うっすらと白い靄(もや)のようなものが立ち込めている。
「……換気扇、消し忘れたか?」
健二は台所を振り返ったが、換気扇はとうに止まっていた。もう一度リビングを見ると、靄は少しずつ、人の形に近づいているように見えた。
まさか、と思う間もなく、靄は輪郭を持ち、色を持ち、やがて――スーツ姿の、脂ぎった中年男の姿になった。
「いやあ田村さん、ご無沙汰しております!」
満面の笑みで名刺を差し出してくる。健二は思わず叫んだ。
「お、お前、さっき消した保険の……!」
「はい、鈴木でございます! いやあ懐かしいですねえ、あの節はどうも!」
鈴木と名乗る男は、まるで昨日会ったばかりのような馴れ馴れしさで、健二の隣にどっかりと腰を下ろした。ソファが軋んだ。幻ではない。重さがある。
健二は震える手でスマートフォンを確認した。電話帳から鈴木の名前は、確かに消えている。
だが、目の前の鈴木は、確かにいる。



第二章 銀河電話帳整理局
「ちょ、ちょっと待て。お前、何なんだ」
健二が後ずさりすると、鈴木は不思議そうに首を傾げた。
「何なんだと言われましても……田村さんが私を、削除なさったので」
「だから何なんだそれは!」
そのとき、玄関のチャイムが鳴った。こんな深夜に、と健二が身構える間もなく、鍵をかけていないはずのドアがひとりでに開き、小柄な人影が入ってきた。
作業着のようなものを着た、性別不詳の、やや半透明の存在だった。頭には旧式のヘッドセットのようなものをつけ、手には古めかしいクリップボードを持っている。
「夜分に失礼いたします。銀河電話帳整理局、地球支部、担当のピポと申します」
「ぎ、銀河……?」
「ご説明いたします」ピポと名乗る存在は、慣れた様子でクリップボードをめくった。「地球の皆様がお使いのスマートフォン、あれは実は、宇宙規模の『縁の管理システム』の末端端末なんです」
「は?」
「人と人との繋がりというのは、実は物理的なエネルギーの糸でして。皆様の電話帳は、その糸を可視化し、管理するための帳簿なんですね。ところが」ピポは鈴木をちらりと見た。「その糸をプツンと切ってしまうと、切られた側のエネルギーが行き場を失い、こうして局所的に実体化してしまうことがあるんです」
健二は頭を抱えた。「つまり、俺が電話帳から消した奴が、片っ端から家に現れるということか」
「その通りです。すでに二十七名、実体化しております」
「二十七……」
リビングを見渡せば、いつの間にか、見覚えのある――だが二度と会いたくなかった――顔ぶれが、所狭しと座り込んでいた。マルチ商法の元同期は名刺の束を配り歩き、上から目線で説教してきた元上司はソファの上座を占領し、ゴルフ接待でしか話したことのない取引先はゴルフクラブを素振りしている。
「なんだこれは、地獄か」
「いえ、あくまで一時的な現象です」ピポは涼しい顔で言った。「正式な手続きを踏まずに『削除』だけなさいますと、こういうことが起こります。本来、縁を切るには『一期一会の清算』という手続きが必要なんですよ」
「清算……?」
「はい。一度きちんと向き合い、感謝すべきは感謝し、言うべきことは言い、それで初めて、糸はきれいに解けるんです。ただ消すだけでは、糸が絡まったまま千切れて、こうして残留してしまう」
健二はソファに座り込む二十七人の元・知人たちを見渡した。それぞれが、それぞれの調子で、健二に絡んでこようとしている。
「……全員と、向き合えというのか。この歳になって」
「はい」ピポは事務的にうなずいた。「ちなみに、まだ九百七十六件、残っております」
健二は天を仰いだ。



第三章 厄介な連中との一期一会
結論から言えば、健二はそれから三日三晩、玄関に鍵をかけたまま、リビングに現れた「元・知人たち」と一人ずつ対面する羽目になった。
最初の相手は、鈴木という保険営業マンだった。
「鈴木さん、正直に言うが、俺はあんたの顔も名前も覚えていなかった」
「ええ、存じております」鈴木はあっさり言った。「私も、正直、田村さんのお顔なんて覚えておりません。ノルマで名刺を配っていただけですから」
「じゃあなぜ、あんたはそんなに嬉しそうに現れたんだ」
鈴木は少し照れたように笑った。
「実体化すると、なぜか嬉しくなるんですよ。誰かに『存在していた』と認識してもらえる、それだけで」
健二は虚を突かれた。この意味のない、営業だけの縁ですら、鈴木にとっては「存在の証」だったのか。
「……お疲れさん、鈴木さん。あんたとの縁は、ここまでにしよう」
「はい、ありがとうございました!」
鈴木はぺこりと頭を下げると、光の粒になって消えていった。ピポがクリップボードにチェックを入れる。「一件、清算完了です」
次に現れたのは、マルチ商法に誘ってきた元同期・大原だった。この男は現れるなり、健二に化粧品のパンフレットを突きつけてきた。
「田村ぁ、聞いてくれよ、これがまた儲かる話でよぉ」
「大原、お前とは金輪際、関わらん。俺はもう、そういうのに疲れたんだ」
「いやいや、そう言わずに――」
「いい加減にしろ!」
健二が怒鳴ると、大原はキョトンとした顔になり、それから急にしゅんとして、床に座り込んだ。
「……お前、俺のこと、鬱陶しいと思ってたのか」
「思ってたよ。ずっと」
「そうか……」大原はしばらく黙っていたが、やがて呟いた。「実は俺も、あの商売、心のどこかで嫌だったんだよな。誰かと繋がってないと不安で、それでつい、変なもんに手ぇ出しちまって」
健二は少し驚いた。厄介者だとばかり思っていた大原にも、そんな胸の内があったのか。
「大原、達者でな」
「おう……悪かったな、田村」
大原もまた、光の粒になって消えた。
こうして、健二は一人また一人と向き合っていった。上から目線の元上司には「あんたのおかげで多くを学んだが、もう説教は結構だ」と告げ、意味もなく怒鳴ってばかりいた取引先には「お互い、仕事だからで済ませていた仲だったな」と苦笑いで別れを告げた。
厄介な連中ばかりだと思っていた。だが向き合ってみれば、そのほとんどが、健二と同じように、ただ「繋がっていたい」というだけの、寂しい生き物だった。
もちろん、そう簡単にはいかない相手もいた。
たとえば、かつて健二の部下だった沢田という男は、実体化するなり床に土下座した。
「田村さん! お久しぶりです、沢田です! いやあ、あの節は本当にお世話になりました、覚えてらっしゃいますよね、あの、飲み会の席で!」
「……お前、俺のこと課長って呼んでたよな。何度も奢らせただろう」
「そそそそんなことは! いや、あったかもしれませんが、それもこれも田村さんとの絆があってこそというか!」
健二はため息をついた。沢田は実体化してもなお、ぺらぺらとおべっかを並べ立ててくる。ピポが小声で耳打ちした。
「田村さん、この方、生前の登録データ……もとい、現在もご存命ですが、田村さんに近づく人全員に同じ調子で取り入っているタイプです。局のデータベースにも『八方美人型』と分類されております」
「なるほどな」
健二は沢田をまっすぐ見揃えた。
「沢田、正直に言う。お前のその調子のいい態度、ずっと苦手だった。だが同時に、お前が本当に困った時、ちゃんと動いてくれたことも、俺は覚えている。それだけは、ありがとうと言わせてくれ」
沢田は一瞬きょとんとし、それから、いつもの愛想笑いとは違う、ぎこちない、けれど本物の照れ笑いを浮かべた。
「……そんな風に言われたの、初めてです。いつも上っ面だけって、みんなに思われてるんで」
「上っ面じゃない部分も、少しはあったんだろう。それで十分だ」
沢田は深々と頭を下げ、今度は媚びた様子もなく、静かに光になって消えていった。
かと思えば、まったく手強い相手も現れた。かつてマンションの隣人で、些細な騒音トラブルから絶縁状態になった老婦人・皆川である。彼女は実体化するなり、腕組みをして健二を睨みつけた。
「田村さん、あなた、まだ根に持ってるのね。私を消すなんて」
「いや、皆川さん、それはお互い様というか……」
「あの時、あなたのお孫さんが廊下でうるさくしていたのを、私注意しただけじゃないの」
「注意の仕方が、その、少々厳しかったというか」
売り言葉に買い言葉で、二人は三十分近く言い合いを続けた。ピポは止めるでもなく、クリップボードを手に、じっと二人のやり取りを見守っている。
やがて皆川は、ふうっと息をつき、急に肩の力を抜いた。
「……ごめんなさいね、田村さん。本当は、私も意固地になってただけなの。あなたのお孫さん、可愛い盛りだって、分かってたのに」
「いや、俺も、大人げなく怒鳴り返したりして、悪かった」
「もう、いいのよ。これで、すっきりした」
皆川はそう言うと、初めて柔らかい笑顔を見せ、光の中へ消えていった。健二は妙にすっきりした気分で、ソファに深く座り直した。
「ピポ、こういうのも、ありなんだな。憎まれ口叩き合って、それで終わる縁も」
「はい」ピポは頷いた。「清算の形は、人それぞれです。感謝で終わる縁もあれば、喧嘩別れで、それでもすっきりする縁もあります。大事なのは、うやむやにしたまま消さないことです」
三日目の夜、健二はソファに突っ伏していた。清算した数、五十三件。まだ九百件以上、残っている。
「ピポ、正直、心が折れそうだ」
「よく頑張っていらっしゃいます」ピポはねぎらうように言った。「ですが田村さん、実はこの後、少し毛色の違う来訪者がございます」
「毛色の違う?」
ピポの声が、心なしか、優しくなった。
「はい。田村さんが、まだ電話帳から消していない番号です」



第四章 齢を取らない友人たち
その夜、リビングに現れたのは、これまでの誰とも違う空気をまとった二人の男だった。
一人は白いTシャツにジーンズ、もう一人はよれよれの野球帽を被っている。どちらも、健二の記憶の中にいるままの姿――つまり、四十代の姿だった。
「……ヨシ、ノブ……?」
健二の声が震えた。ヨシとノブ、学生時代からの親友だった。ヨシは十五年前に病で、ノブは八年前に事故で、この世を去っている。
「よお健二、久しぶり」ヨシが軽く手を上げた。
「相変わらず辛気臭え顔してんなあ」ノブがからかうように笑う。
健二は言葉が出なかった。ピポがそっと説明する。
「本来、故人の情報は電話帳から自動的に消去されるはずですが……田村さんは、お二人の連絡先を、消さずに残していらっしゃいましたね」
「……消せるわけ、ないだろう」
健二の目に涙が滲んだ。電話帳の中に、もう二度と繋がらない番号が、それでも残っていた。それは健二にとって、唯一許された「未練」だった。
「なあ健二」ヨシが健二の隣に座った。ソファは沈まなかった。実体を持たない、けれど確かにそこにいる、そんな不思議な存在感だった。「お前、俺らのこと、いちいち思い出して悔やんでるだろ」
「……悪いか」
「悪くはねえけどよ」ノブが苦笑した。「俺ら、あの日から一切、歳取ってねえんだよ。ずっとこの若さのまま。だから健二がジジイになっていくの見て、正直、ちょっと面白れえんだよな」
「ふざけるな」
健二は笑いながら、同時に泣いていた。
「なあ、健二」ヨシが静かに言った。「お前が俺らのこと消さずにいてくれるの、嬉しいよ。でもな、いつまでも俺らに縛られて、新しい出会いを疎かにするのは、ちょっと違うと思うぜ」
「そうそう」ノブも頷いた。「一期一会って、お前がよく言ってた言葉だろ。俺らとの出会いも一期一会だったし、今、目の前にいる誰かとの出会いも一期一会だ。過去ばっかり向いてちゃ、もったいねえよ」
健二はしばらく黙っていたが、やがて言った。
「……お前らのことは、消さない。でも、悔やむのは、今夜で終わりにする」
「上出来だ」ヨシが笑った。
三人はその夜、誰もいないはずの台所から出てきたビールを片手に(ピポが「局の福利厚生です」とこっそり出してくれたものだった)、夜が明けるまで学生時代の馬鹿話をした。
夜明け前、ヨシとノブは光になって消えていく前に、それぞれ健二の肩を叩いた。実体のない、けれど確かに温かい感触だった。
「またな、健二」
「いつか、こっちでゆっくり飲もうぜ」
健二は一人、リビングに残された。窓の外が白み始めている。彼は静かに、そして初めて穏やかな気持ちで呟いた。
「老いるのも、悪くないな」



第五章 局長との対決
清算が三百件を超えた頃、事態は思わぬ方向に転がり始めた。
ある晩、リビングの空気が急に重くなり、床に亀裂のようなものが走った。そこから現れたのは、ピポよりもずっと大きく、威圧感のある存在だった。全身が真っ黒なスーツに包まれ、顔には無数の目玉のようなものが埋め込まれている。
「局長!」ピポが直立不動になった。
「ピポ、貴様、このケースを勝手に長引かせておるようだな」局長と呼ばれた存在は、地を這うような声で言った。
「い、いえ、これは正規の清算手続きでして……」
局長は健二をぎろりと睨んだ。
「田村健二。貴様、これまでに三百十二件の縁を清算した。まことに結構なことだ。だがな、貴様は同時に、危険な水域に踏み込んでおる」
「危険な水域?」
「縁とは、多すぎても人を縛るが、少なすぎても、この宇宙から『存在』そのものが希薄になる」
局長が指を鳴らすと、空間に一つの映像が浮かんだ。年老いた男が、電話帳を一件残らず、機械的に消し続けている映像だった。次の瞬間、その男の輪郭は、まるで砂の城が波にさらわれるように、さらさらと崩れていった。
「風間という男だ。貴様と同じく、人間関係に疲れておった。だが奴は、一人一人と向き合うことをせず、面倒だからと、局の目を盗んで縁をまとめて断ち切る術を使った」
「まとめて、断ち切る……」
「清算を飛ばして糸を千切れば、どうなるか。奴は今も、どこにも存在せず、誰の記憶にも残らず、この宇宙の狭間を彷徨っておる。触れようとしても誰にもすり抜け、声をかけても誰にも届かぬ。存在してはいるのに、居場所だけがない」
健二は背筋が寒くなるのを感じた。「……それは、地獄だな」
「地獄よりもたちが悪い。地獄には、少なくとも仲間がおる」局長は低く唸るように言った。「良いか田村。縁を切ること自体は、悪いことではない。だが、向き合わずに切った縁は、必ずどこかで、貴様自身に返ってくる」
「じゃあ、俺は……何件まで、減らしていいんだ」
局長はしばし黙り、それから、はぐらかすように言った。
「さて。数字で言えるものでもない。多すぎず、少なすぎず――貴様が、貴様自身の顔をちゃんと思い出せる数、とだけ言っておこうか」
「なんだそれは。禅問答か」
「禅問答で結構。貴様が自分で見つけるべきものを、局が教えてどうする」
局長はそう言うと、ふと健二の電話帳のデータを一瞥し、意外そうに片方の目玉を細めた。
「ほう。貴様、なかなか良い選び方をしておるな。厄介者はきちんと清算し、本当に大切な者は残しておる。悪くない」
「……褒められてるのか、これは」
「褒めておる。局始まって以来、清算の質でここまで評価が高い地球人は珍しい」局長は満足げに頷くと、来た時と同様、床の亀裂に消えていった。
ピポがほっと息をついた。「局長があんなに機嫌の良いところ、久しぶりに見ました」
健二はソファに深く沈み込んだ。「俺は、あと何人、消せばいいんだ」
ピポはクリップボードを確認し、にっこりと笑った。
「田村さんの感覚に、お任せします。局からの指示ではなく、田村さんご自身が『これでいい』と思える数を、見つけてください」



第六章 残った百人
それから一ヶ月、健二は毎晩、電話帳と向き合い続けた。
清算の作業は、次第に穏やかなものになっていった。怒鳴り合うことも、涙を流すこともあったが、それ以上に「ああ、こんな人ともご縁があったな」と、静かに笑いながら見送る夜が増えていった。
そしてある晩、健二は電話帳を最後まで見終えた。残った連絡先は、ちょうど百七件だった。
学生時代の友人が数人。趣味の釣り仲間。近所の馴染みの店主。娘夫婦と孫。かつての同僚のうち、本当に気の合った数名。そして――ヨシとノブ。
「ピポ、これで、いいのか」
「素晴らしいと思います」ピポは珍しく、感情のこもった声で言った。「田村さんは、地位や損得ではなく、『また笑って会いたいか』という基準で、選ばれましたね」
健二は頷いた。窓の外はもう明るい。長かった深夜の作業も、これで一区切りだった。
「なあピポ、一つ聞いていいか」
「はい、何なりと」
「お前は、俺の電話帳に残るのか?」
ピポは一瞬、驚いたように固まった。それから、少し照れくさそうに、しかし嬉しそうに笑った。
「よろしいのですか。私は、しがない局の職員ですが」
「しがなくはないだろう。この一ヶ月、お前がいなきゃ、俺は乗り切れなかった」
健二はスマートフォンを取り出し、新規連絡先を追加した。
名前:ピポ(銀河電話帳整理局)
備考:厄介な男の、厄介な整理を手伝ってくれた、ありがたい奴。
ピポはクリップボードを胸に抱きしめるようにして、しばらく黙っていた。それから、いつもの事務的な口調に戻って言った。
「では田村さん、本件はこれにて、正式に完了とさせていただきます」
「ああ、世話になった」
「またご縁がありましたら、いつでもお呼びください。次にお会いする時は、局員としてではなく、田村さんの友人として、うかがえたら嬉しいです」
ピポはそう言うと、光の粒になって消えていった。他の全ての「実体化」した来訪者たちと同じように。だが健二の胸には、寂しさよりも、あたたかい満足感が残っていた。



終章 一期一会、もう一度
半年後。
健二は近所の居酒屋で、釣り仲間の数人と晩酌をしていた。誰もが六十を過ぎ、白髪も増え、身体のあちこちにガタが来ている。それでも、誰かの冗談に大声で笑い、誰かの愚痴に頷き、そういう時間を、健二は心から楽しんでいた。
ふと店の窓の外を見ると、夜空に一つ、やけに明るい星が瞬いている。健二はグラスを軽く掲げて、誰にともなく呟いた。
「ヨシ、ノブ、元気か。こっちは相変わらずだ」
星は瞬きもせず、ただ静かに光っていた。
家に帰る道すがら、健二はポケットからスマートフォンを取り出し、電話帳を開いた。百七件。
上から順に、名前をひとつずつ眺めていく。ヨシ、ノブ、釣り仲間の顔、娘夫婦、孫の名前、近所の店主。誰の顔も、迷わず思い浮かぶ。それだけで、十分だった。
健二はスマートフォンをポケットに戻し、代わりに夜空を見上げた。
老いは、悪いことではない。
若い頃は、繋がりの数こそが豊かさの証だと思っていた。名刺の枚数、年賀状の束、スマートフォンの中の連絡先の数字――それが多ければ多いほど、自分という人間の価値が証明される気がしていた。
だが今の健二は知っている。厄介な連中と向き合い、悔やみ、笑い、時には喧嘩をして、それでもなお残った縁。その一つ一つの顔が、迷わず浮かぶかどうか。それだけが、答えだった。
齢を取らない友人たちが、あの日のままの若さで微笑んでいてくれる限り、健二はこれからも、少しずつ歳を重ねながら、目の前の一期一会を、大切に紡いでいくつもりだった。
電話帳の隅っこ、「ピポ(銀河電話帳整理局)」という登録名の連絡先は、今のところ、まだ一度も着信していない。
だが健二は、なんとなく、いつかそこから連絡が来るような気がしていた。
そのとき、ふと画面が一瞬、光ったような気がした。健二は慌ててスマートフォンを取り出したが、画面はいつも通り、静かなままだった。
「気のせいか」
健二は苦笑いして、夜道を歩き出した。
――たぶん、そう遠くない未来に。

(了)



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あとがき
六十五歳という節目。長い年月をかけて積み重なった人間関係と向き合い、手元の電話帳を千件から百件ほどへと整理した――そんな実体験や話を耳にしたとき、私の頭にふと浮かんだのは、「もしも軽々しく消した相手が、本当に目の前に現れてしまったら?」という、少しおかしな空想でした。
人間関係の断捨離という言葉が広く使われる現代ですが、言葉ほど簡単に割り切れるものではありません。厄介だった人、すれ違ってしまった人、そして二度と会えないけれど心から消せない友人。それぞれの縁には、自分という人間が歩んできた時間の厚みが刻まれています。
本作の主人公・健二のように、ひとつひとつの縁に不器用に向き合い直すことで、自分の人生そのものを愛おしく思えるような、そんな温かさを感じていただけたなら幸いです。
あなたのスマートフォンの画面の向こうにも、また笑って会いたいと思える誰かの名前が、静かに光り続けていますように。