三部作
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五人目の僕、あるいは境界の外側
まえがき
人生は選択の連続です。右へ行くか、左へ行くか。あの言葉を口にするか、飲み込むか。私たちは日々、無数の分岐点に立ち、何かを選び取りながら前へと進んでいます。
けれど、選ばれなかった道はどこへ行くのでしょうか。途絶え、消え去り、最初からなかったことになるのでしょうか。
前作をお読みいただいた皆様、大変お待たせいたしました。本作『五人目の僕、あるいは境界の外側』は、前作で残された「もう一つの疑問」に向き合った物語です。自分が歩まなかった人生への未練や不安を抱えるすべての方へ、静かな肯定の祈りを込めてお届けします。
第一章 ログのノイズ
あれから半年。
そっくりさんの目撃情報はぴたりと止まり、僕の日常は静かに元へ戻った。
ただ一つだけ、気になっていることがある。
研究所の装置が記録した「五人目」の反応だ。
柊木さんは「誤作動かもしれません」と言ったが、あのときの歯切れの悪さが、妙に胸に残っていた。
ある夜、僕は研究所からメールを受け取った。差出人は速水さん。件名は「例のログについて」。
本文は短かった。
――再解析の結果、五人目の反応は誤作動ではありませんでした。
――可能なら、もう一度来ていただけませんか。
胸の奥が、ゆっくりと冷えていくような感覚があった。
第二章 鏡の間の再訪
研究所の地下は以前と同じだった。ただ、装置の周囲に新しいモニターが増えている。
「五人目の反応は、あなたの周囲にだけ現れています」と速水さん。「他の被験者では一度も検出されていない」
「つまり……僕にだけ、何かが?」
「そういうことになります」
柊木さんが静かに言った。
「境界の向こう側にいる“あなた”は、三人だけとは限らないんです。枝分かれの数は理論上、無限ですから」
装置の中央に立つよう促される。前回よりも光が弱く、代わりに空気がひどく重かった。
「今回は、境界を“探る”だけです。誰かと会うわけではありません」
そう言われたが、僕はなぜか確信していた。――誰かが、待っている。
第三章 白い空間のひずみ
光が収束し、視界が白く染まる。
前回と同じ、何もない空間。ただ、空気がざらついている。まるで静電気が肌にまとわりつくようだった。
「……誰か、いるのか?」
声が吸い込まれるように消える。
次の瞬間、背後で「僕の声」がした。
「やっと来たね」
振り返る。そこに立っていたのは――僕ではなかった。
いや、顔は僕だ。輪郭も、目も、鼻も、口も。だが、どこか“ずれて”いる。表情がない。まるで、顔の皮ふの表面を機械的に動かしているかのような、“形だけ”の動きだった。
「君は……誰なんだ」
「僕だよ。君の、外側の僕」
外側? 意味がわからない。
「君たちは、枝分かれした“選択”の先にいる。でも僕は違う。僕は、選択されなかった“可能性”の集合体だ」
ぞくりとした。
「可能性……?」
「君が選ばなかった道。君が考えもしなかった道。君が選ぶことすら許されなかった道。その全部が、僕になった」
声は淡々としているのに、どこか底が見えない。
「君たち四人は“人生”を持っている。でも僕は、人生を持たなかった。だから、境界の外側に溜まり続けた」
「溜まる……?」
「可能性は消えない。選ばれなかっただけで、どこかに残る。それが僕だ」
僕は息を呑んだ。
「じゃあ……君は、僕の“影”なのか?」
「影ではない」
「君が歩かなかった道の“総量”だ」――その言葉が、妙に重く響いた。
第四章 五人目の願い
「君は、僕を見たことがあるはずだよ」
「見たことなんて――」
言いかけて、思い出した。鏡だ。あの夜、鏡の中の僕が、僕より先に笑った。
「……あれは、君なのか」
「そう。境界が薄いときだけ、少しだけ滲み出られる」
「どうして僕のところに?」
「君が一番“余白”を持っているからだよ」
余白。柊木さんが言っていた言葉だ。
「君は、自分の人生を完全には肯定していない。否定もしていない。その“揺れ”が、僕を引き寄せる」
「じゃあ……君は何を望んでいる?」
五人目の僕は、初めて表情らしきものを浮かべた。それは笑顔ではなく、やはり無機質な“形だけ”の歪みだった。
「僕は、君の人生を少しだけ歩いてみたい」
背筋が凍った。
「それは……入れ替わりたいってことか?」
「違うよ。君の人生の“端っこ”に、少しだけ触れたいだけだ」
「端っこ?」
「君が選ばなかった瞬間。君が迷った瞬間。君が見落とした瞬間。その隙間に、僕は立ってみたい」
それは、恐怖ではなく――奇妙な哀しさを帯びていた。
第五章 境界の閉じる前に
空間が揺れ始めた。境界が閉じる合図だ。
「時間がないね」と五人目の僕。
「最後に、一つだけ言っておくよ」
「なんだ」
「君がこれから選ぶ道は、全部“正しい”。選ばなかった道は、僕が持っているから」
「……それは、慰めか?」
「違う。君が歩く道は一本だけでいい。残りは全部、僕が引き受ける」
白い空間が崩れ始める。
五人目の僕は、ゆっくりと手を上げた。その仕草は、他の三人の僕よりもずっとぎこちなかった。
「また、余白で会おう」
視界が真っ白になった。
第六章 余白の中で
気づくと、鏡の間に戻っていた。柊木さんと速水さんが駆け寄ってくる。
「中で何が――」
僕は首を振った。
「説明できない。でも……一つだけわかったことがあります」
「何です?」
「選ばなかった人生は、消えていない。どこかで、誰かが持っている」
柊木さんは静かに息を呑んだ。
帰り道、ショッピングモールのガラスに映った自分を見た。その顔はいつもの僕だった。
ただ――ほんの一瞬だけ、ガラスの奥の“僕”が、僕より先にまばたきをした。
ガラスの中の“僕”は、どこか少しだけ満足そうに見えた。
気のせいだろう。そう思うことにした。
それに、たとえ気のせいでなかったとしても――
今はそれで、悪くないと思っている。
―― 了 ――
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あとがき
歳を重ねるにつれ、「もしあのとき別の道を選んでいたらどうなっていただろう」と考えることが増えました。若い頃の失敗、言えなかった一言、選べなかった夢。誰の胸の中にも、小さな「選ばなかった分岐点」が幾重にも重なって眠っているのではないでしょうか。
作中で『五人目の僕』が語ったように、私たちが選ばなかった道も決して無駄や虚無ではなく、どこか境界の外側で優しく引き受けられているのかもしれない――そんな想像が、今を生きる私たちの背中を少しでも軽やかにできれば幸いです。
静かな山あいの清流で釣りをしながら、あるいは庭の草木の手入れをしながら巡らせた雑想が、こうして一つの物語として結実したことを心より嬉しく思います。

