泡沫温泉
―裸の惑星、たった一つの掟―
まえがき
私たちは毎日、たくさんの「鎧」を着て生きています。
会社の肩書き、家庭での役割、年齢、そして自分を証明するための名刺やID。それらは私たちを守る防具であり、同時に、知らず知らずのうちに自分自身を縛りつける重荷にもなっています。
「もしも、すべての鎧を脱ぎ捨てて、ただの『自分』として息をつける場所があったなら――」
主人公の平助と一緒に、どうぞ服を脱ぎ、肩書きを置き、タオル一本だけを持って、湯気の向こう側へお入りください。
一
宮田平助、四十六歳、係長。名刺の裏に書かれた肩書きは「営業推進部第三課主任代理」という、誰も正確には発音できない役職だった。部下は三人いるが、そのうち二人は平助より年上で、残る一人は平助より優秀だった。
金曜の夜、部長に詰められた。理由は覚えていない。いつも似たようなことで詰められるので、覚えておく意味がなくなっていた。ただ、「お前の代わりはいくらでもいる」という言葉だけは、なぜか鮮明に耳の奥に残った。
帰り道、平助は会社の駐車場で、しばらく車のハンドルに額を押し付けたまま動けなかった。
行き先は決めていなかった。ただ、家に帰れば妻がいて、妻の顔を見れば「また詰められたの」という無言の視線があって、それに耐える気力が、今夜はどうしても湧かなかった。
だから平助は、いつもと違う道を選んだ。県道を外れ、山の方へ向かう細い道。カーナビは最初、「経路を再計算しています」と苛立たしげに繰り返していたが、やがて、突然「目的地周辺です」と告げ、それから沈黙した。目的地など、入力していないのに。
霧が濃くなった。ヘッドライトの光が、白い壁に跳ね返るようだった。
霧の中に、湯気だけが見えた。看板はない。ただ、木製の暖簾に一文字、「湯」とだけ書いてある。
「今日はもう、休みたいだけなんです」
平助はそう独り言ちて、車を降りた。
暖簾をくぐる。番台には誰もいなかった。かわりに、貼り紙が一枚。
当温泉、ただ一つの掟
タオル一本、それ以外は何も持ち込むべからず
名も、職も、家も、ここでは湯気の中に溶けるものとする
平助は財布も時計も名刺入れも、備え付けのロッカーに押し込んだ。ロッカーの鍵は、なぜか鍵穴のない、ただの丸い石だった。石を握ると、ほんのりと温かかった。まるで、誰かの手のひらのように。
二
湯船は、驚くほど広かった。広いという表現が正しいのかどうか、平助にはわからなかった。湯気の向こうに、山の稜線のようなものが見え、さらにその向こうに、もうひとつ山が見え、さらにその向こうに――星が見えた気がした。北斗七星が、八つ星になっていた。
「初めてかい」
低い声がした。白髪の老人が肩まで湯に浸かっていた。
「ええ、まあ。道に迷って」
「迷って辿り着くのが、ここの流儀だ」老人は笑った。「名乗らんでいい。わしも名乗らん。それと――他人の泡の匂いを嗅ぎすぎるのも、野暮ってもんだ」
「泡の、匂い?」
老人は答えず、湯を掬って顔にかけた。その隣で、若い女がぼんやりと湯面を見つめていた。彼女の肌には、うっすらと星座のような模様が浮かんでは消えていた。内側から光っているようだった。
「あれは」平助が聞きかけると、老人は首を振った。
「聞いてはならん。それが掟だ」
三
湯は、妙に体に馴染んだ。平助という人間の輪郭そのものが、湯の中で少しずつ溶けていくようだった。
「気持ち良いですな」
「そのひと言でいい」老人は言った。「わしからも、ひと言返そう。――良い湯だ」
しばらくの沈黙のあと、老人は目を閉じ、湯気に溶けるように、姿がぼんやりと薄くなった。
「あの」
声をかけようとしたとき、老人はもう、そこにいなかった。かわりに、湯の表面に小さな泡がひとつ、ぽこりと浮かんで、消えた。
星模様の女が、初めて口を開いた。
「彼は、もう還ったのよ」
「還った?」
「ここに長く浸かりすぎると、還る。もといた場所へ」女は湯を掬い、指の間からこぼした。「ここは、待合室のようなものだから」
四
夜が更けるにつれ、湯船に集まる者たちは増えていった。誰も名乗らず、誰も仕事の話をしなかった。
「今日は月が、いつもより近い」
「そうですな」
「明日は、遠くなるだろう」
「それも、良いですな」
会話はそれで終わることもあれば、次のひと言を呼び、いつの間にか夜通し続くこともあった。そうして言葉が途切れなくなった相手のことを、この温泉では「湯友(ゆとも)」と呼ぶのだと、女が教えてくれた。
「でも、その先は聞いちゃだめ。どこに住んでいるとか、何をしているとか。それを聞いた瞬間――」
女は湯面を指さした。そこには、平助自身の顔が映っていた。名刺を持ち、腕時計をつけ、スーツを着て、誰かに頭を下げている平助だった。
「服を着た瞬間、価値が生まれる。価値が生まれた瞬間、比べられる。比べられた瞬間、もうここにはいられない」
「服を着なければ、僕らはただの生き物じゃないですか」
「そう」女は微笑んだ。「それが、一番強いのよ」
五
湯船の奥に、カピバラのような、しかし目が三つある生き物が悠々と湯に浸かっていた。誰も驚かなかった。平助も、驚かないことにした。ここでは、それが礼儀のような気がした。
そのとき、湯船の底が、ゆっくりと発光を始めた。無数の小さな星が沈んでいるようだった。見上げると、湯気の向こうに、見たこともない色の輪を持つ惑星が、ゆっくりと回転していた。輪の中を、小さな魚のような影が群れになって泳いでいた。
「惑星の裏側」女が静かに言った。「ここはね、いろんな場所の、いろんな時間の、境界線が薄くなる場所なの。だから、みんな辿り着く。迷ったときに」
六
明け方近く、湯船に一人の男が新たに現れた。スーツを着たままだった。
「すみません、ここ、貸切ですかね。私、○○商事の――」
その瞬間、湯船全体が、ぶわりと大きく波打った。温泉そのものが、身震いしたようだった。
男の体から、しゅわしわと小さな泡が立ち上り始め、その泡の中に、名刺や、契約書や、通勤定期券や、家族写真の欠片が、次々と浮かんでは消えていった。
腕時計だけが、湯船の縁に、ぽつんと残された。
「弾かれたのよ。名乗った者は、ここにはいられない」女は静かに言った。「元の世界に、戻るだけ。何も変わらず、何も得ないまま。ただ、ここに来たことすら、忘れてしまう。思い出は、鎧を着た人間には、重すぎるから」
七
「ここは、一体、何なんですか」
女はしばらく黙していた。
「昔むかし――と言っても、ここに『昔』があるのかどうかわからないけど――この宇宙のどこかに、ひとつの種族がいたの。彼らは、あらゆる文明の果てに、同じ結論に辿り着いたらしいの」
「結論?」
「『鎧を着るほど、争いが増える』ということ」女は湯を撫でた。「だから彼らは、宇宙のあちこちに、こういう場所を作ったらしい。正確には、"鎧を脱ぐ場所"を。それがたまたま、この星では温泉という形をとっただけ。別の星では風だったり、森だったりするって」
「その種族は、今は……」
「消えたわ。争わなくなった種族は、増えることも、減ることもしない。ただ、緩やかに、宇宙に溶けていく。……そう、聞いたことがある」
女は「聞いたことがある」と言った。自分の言葉ではないように。
平助は、湯船の底に沈む光の粒を見つめた。ひとつが、かつてここで裸になった、誰かの一瞬なのかもしれなかった。
八
「あなたは」平助は尋ねた。「もう長いんですか、ここに」
女は微笑んだ。それは、答えているようで、答えていない微笑みだった。
「長い、短いも、ここではあまり意味がないの。でも――」女は空を見上げた。湯気の向こうに、見たこともない色の星が瞬いていた。「そろそろ、あなたも還る時間かもしれない」
「還る? どこへ」
「あなたが、鎧を着ていた場所へ」
平助は、ふと、ロッカーに預けた名刺入れのことを思い出した。奇妙なことに、それを思い出した瞬間、体が少しだけ重くなった気がした。まるで、思考そのものが、鎧の一部であるかのように。
「でも」平助は言った。「もう一度、ここに来られますか」
女は、答えなかった。かわりに、湯船に小さな泡をひとつ立てた。ぽこり、と。それが、彼女なりの返事なのだと、平助にはわかった。
「あなたの名前を、聞きたい気持ちがあります」平助は正直に言った。「でも、聞かないでおきます」
女は、初めて驚いたような顔をした。それから、心底嬉しそうに笑った。
「それが、湯友というものよ」女は言った。「聞かないことを選べる強さが、鎧を脱いだ証」
「気持ち良かったです」平助は言った。
「そのひと言でいい」女は微笑んだ。「わしからも、ひと言返そう。――また、迷ってらっしゃい」
その声は、老人の声にも、女の声にも聞こえた。いや、もしかしたら、この温泉そのものの声だったのかもしれない。
平助は湯から上がり、脱衣所へ向かった。振り返ると、湯船はもう、ただの霧に包まれた水面にしか見えなかった。だが、その霧の向こうに、確かに、無数の気配が揺れていた。
九
それから三週間、平助はあの霧の道を探した。同じ道を走っても、辿り着けなかった。カーナビは、ただの県道を淡々と示すだけだった。
「気のせいだったのかな」
平助は、そう思い始めていた。妻には、あの夜のことを話さなかった。話しても、信じてもらえない気がしたし、何より、あの湯気の向こうの時間は、言葉にした瞬間に、色褪せてしまう気がした。
四週目の金曜、またしても部長に詰められた夜、平助は特に理由もなく、あの山道へ車を走らせた。期待していたわけではなかった。ただ、体が勝手にハンドルを切っていた。
霧が出ていた。木製の暖簾が、そこにあった。
「ああ」
平助は、思わず声を漏らした。安堵とも、喜びとも言えない、深いため息だった。
暖簾をくぐると、脱衣所には、前回と同じ丸い石の鍵が並んでいた。平助は財布と時計と名刺入れを預け、丸い石を手に取った。今度は、迷わなかった。
湯船には、前回とは違う顔ぶれがいた。老人も、星模様の女も、姿が見えなかった。かわりに、小さな子供のような姿の者が、湯船の縁にちょこんと腰かけて、足だけを湯に浸けていた。
「はじめまして、じゃなくて――」平助は言い直した。「今晩は」
「うん」子供のような姿の者は頷いた。「あなた、前も来た人だ」
「わかるんですか」
「泡の匂いでわかる」子供は笑った。「みんな、それぞれ違う匂いの泡を纏ってる。あなたの泡は、疲れてるけど、優しい匂いがする」
平助は、思わず自分の腕の匂いを嗅いでみたが、もちろん、何もわからなかった。
湯船の中央では、透明な体の人物と、鱗に覆われた大きな生き物が、静かに並んで湯に浸かっていた。二人――と呼んでいいのかわからないが――の間には、会話らしい会話はなかった。ただ、時折、どちらからともなく、小さく水面を揺らして、相手に何かを伝えているようだった。
「あれは、湯友なんですか」
「もっと先」子供は言った。「湯友の、その先」
「その先を聞いちゃいけないんじゃ」
「聞かなくても、わかることもあるよ」子供は湯を蹴って、小さな波紋を作った。「言葉にしなくても、伝わるものが増えていくと、それは"その先"になる。誰も名前を知らないまま、誰よりも近くにいられる」
平助は、その言葉を、心のどこか柔らかい場所に、そっとしまい込んだ。
十
その夜、湯船に妙な緊張が走った。きっかけは、湯気の向こうから聞こえてきた、遠い機械音だった。
ゴゴゴゴ、という低い振動。
「あれは」平助が聞くと、子供の顔から、笑みが消えた。
「困ったな」子供は呟いた。「また、来たのかもしれない」
「来た? 何が」
「"整地する者たち"」子供は言った。「鎧を着すぎて、鎧そのものになってしまった人たちのこと」
霧の向こうに、いくつもの光が見えた。ヘッドライトだった。ブルドーザーらしき重機の輪郭が、霧を切り裂くように近づいてきた。
「ここは、地図にない場所じゃ……」
「彼らには、地図があるの」透明な体の人物が、初めて口を開いた。その声は、鈴が鳴るように澄んでいた。「開発、というものの地図が」
平助は湯船から出て、脱衣所の窓から外を覗いた。霧の向こう、ぼんやりとした人影が、測量器のようなものを構え、何かを叫んでいた。「ここに、リゾート開発を」「温泉権を、買い取る」というような言葉が、切れ切れに聞こえてきた。
「どうすれば」
「何もしなくていい」子供は静かに言った。「ここは、鎧を着た者には、そもそも見えない場所だから」
「でも、あの重機は――」
「見えているのは、この場所じゃない。彼らの頭の中にある、"開発できそうな土地"という幻よ」透明な人物が言った。「けれど、幻でも、踏みつぶそうとする力はある。それが、厄介なところ」
平助は、湯船に戻った。心臓が、妙に速く打っていた。ここは、自分の日常とは関係のない場所のはずだった。それなのに、なぜか、他人事とは思えなかった。
十一
「僕に、何かできることは」
平助が尋ねると、子供は少し驚いたように、平助を見上げた。
「あなた、鎧の世界の人でしょう。向こうに行けば、あなたの言葉は、届くかもしれない」
「僕の言葉なんて、部長にすら届かないのに」平助は自嘲気味に笑った。
「それは、あなたが鎧を着たまま話すからよ」子供は言った。「ここで裸のまま話した言葉には、鎧を着た世界でも、不思議と、少しだけ力が宿るの」
平助は、湯船から上がり、脱衣所でタオルを体に巻いた。それだけで、なぜか外の世界と少しだけ繋がった気がした。
霧の外に出ると、測量服を着た男が二人、平助に気づいて振り返った。
「あんた、こんな場所で何を」
「ここは、地図にない温泉なんです」平助は言った。自分でも驚くほど、静かな声が出た。「開発、しない方がいいと思います」
「は? 何を根拠に」
「根拠は、ありません」平助は正直に言った。「ただ、ここでは、みんなが平等になれるんです。タオル一本だけで。それだけの場所を、僕はほかに知りません」
測量服の男たちは、顔を見合わせ、鼻で笑った。
「寝ぼけたこと言ってないで、どいてくれ。ここは我が社が、正式に取得した土地だ」
「土地って、この霧の中の、どこなんですか」平助は聞いた。「番地は? 地番は? ここに来る道を、正確に説明できますか」
男たちは、一瞬、言葉に詰まった。地図を広げようとして、その地図が、霧に湿って、文字がにじんでいくのに気づいた。
「お、おい、地図が――」
「消えていく」もう一人が呆然と呟いた。
平助は、それを黙って見ていた。地図の文字が滲み、輪郭を失い、やがて、ただの白い紙になった。男たちは、自分たちが、いったい何を測量していたのか、何のためにここに来たのか、思い出せなくなっていくようだった。
「あれ……俺たち、なんでこんな山の中に」
「さあ……休憩でも、するか」
男たちは、装備を放り出し、その場に座り込んだ。まるで、長い夢から覚めたばかりのような、ぼんやりとした顔をしていた。
十二
翌朝――と言っても、ここでの朝が本当に「翌」なのかは、平助にもわからなかった――湯船に戻ると、あの測量服の男たちが、いつの間にか裸になって、湯に浸かっていた。
「あんた、さっきの」男の一人が、気まずそうに平助を見た。「悪かったな、偉そうなこと言って」
「いえ」
「ここ、なんか、いいところだな」もう一人が、湯を撫でながら言った。「会社に戻ったら、なんて説明すりゃいいのか、わからんが」
「説明しなくていいんじゃないですか」平助は言った。「ここで見たことは、たぶん、うまく言葉にならないから」
男たちは、顔を見合わせて笑った。鎧を脱いだ二人の顔は、さっきまでとはまるで別人のように、穏やかだった。
湯船の隅で、子供が、満足そうに頷いていた。
「見た?」子供は平助に言った。「鎧を着た者も、脱げば、ただの人。あなたの言葉が、届いたのよ」
「僕の言葉じゃなくて」平助は首を振った。「たぶん、この湯気が、届けてくれたんだと思います」
「両方かもね」子供は笑った。
湯船の底の光が、いつもより強く瞬いているように見えた。まるで、何かを祝っているようだった。透明な人物と、鱗の生き物も、珍しく、声を立てずに笑っているようだった。
平助はふと、あの星模様の女のことを思い出した。彼女は、今夜はいないようだった。だが、湯気の向こうに、確かに、彼女の気配が漂っている気がした。
「また、会えますか」
平助は、誰にともなく問いかけた。返事はなかった。かわりに、湯船に小さな泡がひとつ、ぽこりと浮かんで、消えた。
それで、十分だった。
終章
平助が目を覚ましたのは、車のシートの上だった。エンジンはかかったまま、カーナビには「目的地周辺です」の文字。フロントガラスの外は、いつもの見慣れた道路だった。
腕時計は、いつの間にか、腕にはまっていた。名刺入れも、鞄の中にあった。だが、その名刺入れを開いたとき、平助は少しだけ、笑ってしまった。
名刺の裏の肩書きが、なんだか、ひどく軽いものに見えたからだ。
月曜日、平助はいつも通り出社した。部長にまた詰められた。だが、その日の平助は、以前より少しだけ、部長の言葉を真剣に受け取らなかった。まるで、湯気の向こうに聞くように。
不思議なことに、その週、平助の会社に一本の連絡が入った。以前から進めていた山間部のリゾート開発案件が、「地権の確認が取れず、白紙撤回」になったという。担当者だった取引先の男は、電話口で妙に穏やかな声で、「まあ、ああいう土地は、無理に触らないほうがいいのかもしれませんね」と言った。平助は、その声に、聞き覚えがある気がした。
その夜、平助はまた、あの霧の道を探した。見つからなかった。次の夜も。その次の夜も。
けれど平助は、もう焦らなかった。あの女が言った通りだ。迷ったときに、辿り着く場所。探して辿り着くものではない。
それから平助は、月に一度か二度、無性に疲れた夜、あてもなく車を走らせるようになった。見つかる夜もあれば、見つからない夜もあった。
見つかった夜だけ、平助は誰にも言わず、静かに家を出た。
タオル一本だけを持って。
ある夜、平助は湯船で、また新しい顔ぶれに会った。今度は、平助と同じくらいの年齢に見える、疲れた顔の男だった。
「初めてかい」
平助は、かつて自分が言われた言葉を、そのまま口にしていた。
「ええ、まあ。道に迷って」
「迷って辿り着くのが、ここの流儀だ」平助は笑った。「名乗らんでいい。わしも名乗らん」
男は、少し戸惑いながらも、湯に肩まで浸かった。ほう、と長い息を吐いた。
「気持ち良いですな」
「そのひと言でいい」平助は言った。「わしからも、ひと言返そう。――良い湯だ」
湯気が、二人を静かに包んでいった。星が、いつもより近くに見える夜だった。
――了――
あとがき
この物語は、ある温泉での、ひとつの実感から生まれました。裸になれば、みな同じ。肩書きも、財産も、湯気の中では意味を失う。もし、それを「宇宙の掟」にしてしまったら――という空想から、この不思議な物語は生まれました。
書いているうちに、この物語は、単に「平等」についての話ではなく、「名乗らない強さ」についての話になっていきました。私たちは、名乗ることで安心し、名乗ることで比べ、名乗ることで、時に苦しみます。名乗らずにいられる場所が、この世界のどこかにあるとしたら――それは、きっと、かけがえのない場所です。
もしどこかで、あなたも道に迷ったなら。霧の向こうに、一文字だけの暖簾を見つけたなら。
タオル一本だけ、持って行ってください。
そして、もし誰かと、名乗らないまま、言葉が途切れなくなったなら。
その先は、尋ねないでください。
それだけで、もう、奇跡なのですから。

