ミスター
――時空を越えた少年と、もう一度の野球――



まえがき
人には、一度だけ戻ってみたい瞬間がある。
人生をやり直したい、というほど大げさなものではない。
ただ、
「あの時、もう少し頑張っていたら」
と思うことがある。
僕の場合は、小学生の頃だった。
野球が好きだった。
けれど、上手ではなかった。
特に、ゴロが怖かった。
ボールが自分に向かって転がってくるだけで、身体が勝手に逃げた。監督からは、何度も叱られた。
それでも野球が好きだった。
町の商工会が開いてくれた少年野球教室。
来なかった、憧れの人。
そして、子どもが一生懸命に書いた一通の手紙。
僕はその手紙を、六十年以上、大切に持っていた。
長嶋茂雄。
僕にとっては、「ミスター」だった。
これは、そのミスターに一度も会えなかった少年が、六十年以上の時を越えて、もう一度だけ少年に戻った話である。
そして今度こそ、野球選手になるための話である。




第一章 ゴロが怖かった
小学生の僕は、野球少年だった。
ただし、上手な野球少年ではない。かなり下手な野球少年だった。
打てない。
投げられない。
走れば遅い。
そして何より、ゴロが怖かった。
白い硬球が、土煙を上げながら近づいてくる。ただ、それだけなのに。
身体が勝手に、後ろへ逃げた。
「取れ!」
監督が叫ぶ。グローブを出す。けれど、ボールが近づくほど足がすくむ。横をボールが通り過ぎていく。
「何やってんだ!」
うつむいた。悔しかった。本当は取りたかった。
家に帰ると、父親が言った。
「野球、好きなんだろ?」
「うん」
「だったら、練習しろ」
分かっている。分かっているけれど、怖いものは怖い。
それでも僕は、翌日もグローブを持ってグラウンドへ行った。
なぜなら、憧れの人がいたからだ。
長嶋茂雄。
テレビに映るその人は、僕にとって野球選手というより、野球そのものだった。
打席に立つ。走る。守る。
そして、失敗しても笑う。
僕はテレビの前で、何度も思った。
いつか僕も、あんなふうになりたい、と。



第二章 来なかった人
ある年の夏。
町の商工会が、子どもたちのために少年野球教室を開いてくれた。
ジャイアンツの選手が来る。それだけで町中が大騒ぎだった。
僕も朝からグローブを抱えて走った。
受付に貼られた紙を見た。
「読売巨人軍選手による少年野球教室」
胸が高鳴った。もしかしたら、長嶋さんが来る。
僕は本気でそう信じていた。
ところが、グラウンドに現れたのは別の選手だった。
もちろん素晴らしいプロ野球選手だった。守備を教えてくれた。バッティングも教えてくれた。
「ボールをよく見ろ」
一生懸命に耳を傾けた。
それでも、心のどこかでは待っていた。グラウンドの入り口を、何度も振り返った。
長嶋さんは、まだ来るかもしれない。
最後まで、来なかった。
帰り道、一人で土手に座った。夕方の空を見上げた。
悔しかった。
どうして来なかったんだろう。どうして会えないんだろう。
そして、子どもだった僕は、本気で考えた。
来ないなら、呼べばいい。



第三章 一通の手紙
ノートを破って、手紙を書いた。
一度書いて、破った。また書いて、破った。
字は下手だった。漢字も間違っていた。
それでも、一生懸命書いた。
長嶋さんへ。
僕は野球が好きです。
でも、ゴロが取れません。
長嶋さんみたいな野球選手になりたいです。
いつか会いたいです。
最後に、「お願いします」と書いた。
封筒の表には、「長嶋茂雄様」とだけ書いた。
ポストに入れた。
それから毎日、学校から帰ると真っ先にポストを覗いた。
もちろん、返事など来るはずがない。子ども心にも、それくらいは分かっていた。
それでも、諦められなかった。
ある日のことだった。母親が不思議そうな顔をして僕を呼んだ。
「あなた宛てに手紙が届いてるわよ」
飛んでいった。封筒を受け取る。差出人を見る。息が止まった。
そこには、何度もテレビで見た名前があった。
――長嶋茂雄。
本当に、返事が来たのだ。
震える手で封筒を開けた。そこには、野球を好きでいてほしいということ。頑張ってほしいということ。応援しているということ。
子どもだった僕には、それだけで十分だった。
僕はその手紙を、宝物にした。
会ったことはない。
それでも、その日からずっと、僕の心の中には「ミスター」という名の先生がいた。



第四章 六十年後
それから、六十年以上の月日が流れた。
僕はプロ野球選手にはならなかった。普通に働き、普通に恋をして、普通に歳を取り、普通に定年を迎えた。
野球は好きなままだった。けれど、いつの間にか「野球選手になりたい」とは思わなくなっていた。あの少年の夢は、いつか僕の中で静かにしまわれた。
ある日、机の整理をしていたら、引き出しの奥から一通の古い封筒を見つけた。あの手紙だった。
紙は黄ばみ、角は擦り切れていた。それでも、名前だけははっきりと残っていた。
僕は手紙を握った。
「長嶋さん……」
翌日、ミスターゆかりの地にある寺院を訪ねた。近くまで来たのだから、素通りすることはできなかった。
静かに手を合わせた。
「長嶋さん。ありがとうございました」
帰り際、本堂で御朱印をお願いした。若い住職と、昔の野球の話になった。
住職が言った。
「本当によくご存じですね」
少し照れながら笑った。
「ええ。ちょいと、昔にお世話になりましてね」
その瞬間だった。
本堂の柱時計が、カチッ、と音を立てた。
針が、一秒だけ逆回転した。
顔を上げた。時計は何事もなかったように動いている。気のせいかと思った。
その時、胸ポケットの中で何かが熱くなった。
取り出してみる。あの手紙だった。持ってきた覚えはなかった。



第五章 昭和のグラウンド
目を開けると、土と草の匂いがした。
蝉が鳴いている。
ミーン、ミーン、ミーン。
空は青かった。白い入道雲が浮かんでいる。
立ち上がる。身体が軽い。自分の手を見る。皺がない。腕を見る。細い。足を見る。短い。
「え……?」
口から出た声が、甲高かった。慌ててグラウンドの端にある水道へ走った。蛇口をひねり、顔を洗う。水溜まりに映った顔を見た。
そこにいたのは、六十年以上前の僕だった。小学生の僕だ。
「戻った……?」
尻もちをついた。何が起きたのか分からない。ただ、一つだけ分かった。ここは、僕が野球少年だった頃だ。しかも、あの少年野球教室が開かれる、数日前だった。



第六章 未来の少年
夢だ。きっと夢だ。そう思おうとした。
その時、足元にボールが転がってきた。
「おい! 取ってくれ!」
仲間の声。反射的にグローブを構える。ボールが近づいてくる。身体が固まる。
怖い。昔と同じだ。逃げたい。後ろへ下がりたい。
けれど、その瞬間、六十年後の自分の声が頭の中に響いた。
――何のために戻ってきた?
答えた。
――人生をやり直すため。
もう一つの声が、自分の中から返ってきた。
――違う。あの時、逃げた自分に、もう一度だけチャンスをやるためだ。
グローブを低く構えた。
ボールが来る。
怖い。
それでも、逃げなかった。
パシッ。
ボールが、グローブに収まった。
動けなかった。たった一球。それだけだった。なのに、涙が出た。
「取れた……」
もう一度、ボールが来た。
パシッ。
取れた。
三球目。
パシッ。
取れた。
笑った。
その日から、練習を始めた。朝。学校。放課後。日が暮れるまで。雨の日は、家の中で素振りをした。
未来の僕には、何十年分もの失敗の記憶がある。だから身体の使い方も知っていた。ボールを怖がる自分との付き合い方も、少しだけ分かっていた。
それでも、簡単には上手くならなかった。何度もエラーをした。監督にも怒鳴られた。そのたびに、グローブを握り直した。
ある日、監督が言った。
「お前、最近変わったな」
答えた。
「僕、野球選手になりたいんです」
監督は笑った。
「だったら、まずレギュラーになれ」
「はい!」
その日、僕は初めて自分から練習を終わらせなかった。



第七章 書き換わる未来
一つだけ、大きな問題があった。未来を知っていることだ。
誰が怪我をするか。どの試合で負けるか。誰が転校するか。そして、自分がプロ野球選手になれないことも。全部知っていた。
ところが、僕が練習を続けるほど、未来が少しずつ変わっていった。
ある日、昔の友達の怪我を防いだ。声をかけたことで、彼は危険な場所に行かなかった。
別の日には、本来負けるはずだった試合に勝った。そして、僕自身の成績も、未来の記憶とは違っていった。
怖くなった。未来を変えていいのだろうか。
その夜、胸ポケットから手紙を取り出した。文字が薄くなっている。一行、また一行。消えていく。
手紙を握った。
「長嶋さん」
声が震えた。
「僕、今度は逃げません」
文字が、また一つ消えた。
「もっと頑張ります」
その瞬間、最後に残った一行がぼんやりと光った。そして、その文字は消えた。



第八章 ミスター
運命の野球教室の日が来た。
グラウンドには、たくさんの子どもたちが並んでいた。僕も列の中にいた。あの日と同じ風景。ただ一つ違うのは、僕がもうグラウンドの入り口を見ていないことだった。目の前のボールだけを見ていた。
ノックが飛んでくる。
パシッ。捕る。投げる。
また飛んでくる。
パシッ。捕る。投げる。
その時だった。グラウンドの入り口が騒がしくなった。子どもたちが一斉に振り返る。黒い車が、ゆっくりと入ってくる。
誰かが叫んだ。
「長嶋さんだ!」
心臓が、大きく跳ねた。来るはずがない。僕の知っている過去では、来なかった。
車から降りた人物を見た。息を止めた。
長嶋茂雄さんだった。
ずっと会いたかった人。六十年以上、心の中で憧れ続けてきた人。
長嶋さんは、子どもたちを見回した。そして、僕を見た。ほんの一瞬だった。けれど、永遠のように感じられた。
「君、野球、好きかい?」
大声で答えた。
「はい!」
声が裏返った。
長嶋さんが笑った。
「そうか」
それだけだった。それだけなのに、泣きそうになった。



第九章 毎日やるんだ
野球教室が終わった。子どもたちが帰り始める。どうしても聞きたいことがあった。長嶋さんのところへ走った。
「長嶋さん!」
振り向いたミスターに聞いた。
「どうしたら、プロ野球選手になれますか?」
長嶋さんは少し考えた。そして笑った。
「なれるかどうかは、誰にも分からないよ」
黙った。長嶋さんは続けた。
「でも、なりたいなら、毎日やるんだ」
「毎日……」
「今日できなかったことを、明日できるようにするんだ」
頷いた。
「明日できなかったことを、その次の日にできるようにする」
また頷いた。
「それを、ずっと続けるんだ」
長嶋さんは、僕のグローブを見た。
「そうしたら、いつか野球が、君をどこかへ連れていってくれる」
胸に刻んだ。そして頭を下げた。
「ありがとうございました」
長嶋さんは笑った。
「頑張れよ」
それだけだった。でも、十分だった。



第十章 何度でも
中学生になった。レギュラーになった。けれど、何もかも順調だったわけではない。
試合でエラーをした。大事な場面で打てなかった。監督に怒鳴られた。チームが負けた。帰り道、一人で泣いた。
その夜、グローブを見つめた。昔なら、ここで辞めていたかもしれない。けれど、僕は知っていた。逃げた後に残る後悔を。
だから、翌朝もグラウンドへ行った。
高校では、最初の一年、ベンチにも入れなかった。僕より上手い選手はいくらでもいた。何度も才能がないと思った。それでも、練習した。
大学へ進んでも、状況は変わらなかった。レギュラーになったり、外れたり。怪我もした。もう一度、野球を辞めようと思った夜もあった。
その時、ふと思い出した。
「毎日やるんだ」
ミスターの声だった。
翌朝、グラウンドへ行った。
二十二歳の秋。プロ野球の入団テストを受けた。結果は、不合格だった。
帰りの電車で、窓の外を見ながら笑った。悔しかった。もちろん、悔しかった。でも、不思議と諦められなかった。
翌年、もう一度受けた。合格した。ドラフト外だった。華やかな入団ではなかった。二軍生活が続いた。一軍に呼ばれても、すぐに結果が出たわけではない。
それでも、毎日練習した。朝から何百球もノックを受けた。昔、怖くて逃げたゴロを、何千球、何万球と捕った。
そして、ある日。一軍昇格を告げられた。
しばらく何も言えなかった。そして、グローブを握った。
「やっとだ」



第十一章 もう一度の野球
満員のスタジアム。照明が昼間のようにグラウンドを照らしていた。歓声が地鳴りのように響く。
打席に立った。手が震えている。あの頃と同じだ。怖い。違う。今度は、怖くても逃げない。
投手が構える。バットを握り直した。
一球目。見送った。
二球目。ファウル。
三球目。ストレート。振った。
カキーン!
快音が響いた。打球は、外野へ飛んだ。走った。一塁を蹴る。二塁へ向かう。歓声が聞こえる。ベースの上で、空を見上げた。
青かった。あの日の空と同じだった。
心の中で、小さな自分に言った。
「やったぞ」
その夜、ホテルの部屋で鏡を見た。そして気づいた。顔が、少し変わっている。頬に皺がある。髪に白いものが混じっている。
鏡に手を当てた。
「始まったか」
時間が、僕を引き戻している。過去へ戻ってきた人間が、永遠に過去に住むことはできない。分かった。帰る時が来たのだ。



第十二章 白紙の手紙
机の上に、あの手紙が置いてあった。手に取った。文字を探した。しかし、何もない。真っ白だった。
しばらく黙っていた。そして、ようやく理解した。
僕が過去を変えた。だから、「長嶋さんから励ましの手紙をもらった少年」という過去そのものが、もう存在しない。手紙が消えたのではない。手紙を必要としていた少年の人生が、変わったのだ。
笑った。少し寂しかった。けれど、嬉しかった。
「長嶋さん」
白紙の手紙に向かって言った。
「もう、大丈夫です」
その瞬間、白紙の中央に一つだけ小さな文字が浮かんだ。
ありがとう。
目を疑った。次の瞬間、その文字も消えた。



第十三章 帰還
ゴーン……。
遠くで、寺の鐘が鳴った。目を閉じた。身体が、どこかへ引っ張られる。時間が、逆向きに流れていく。
グラウンド。少年たち。白いボール。照明。歓声。そして、ミスターの笑顔。
すべてが、一瞬で遠ざかっていった。
目を開けた。若い住職が、心配そうに僕を見ていた。
「大丈夫ですか?」
自分の手を見た。皺だらけの老人の手。元に戻っている。本堂も、何も変わっていない。
住職が言った。
「急に黙り込まれたので、少し心配しました」
笑った。
「すみません」
胸ポケットに手を入れた。紙が入っている。取り出した。真っ白な紙だった。
その紙を見つめた。本当に、何も書いていない。
夢だったのだろうか。そう思った時、本堂の柱時計がカチッ、と音を立てた。一秒だけ、針が逆へ動いた。そして、すぐに元へ戻った。
笑った。
夢ではない。確かに、あの夏へ戻った。そして一度だけ、野球選手になった。



第十四章 墓前
寺を出た僕は、もう一度、ミスターの墓前へ向かった。線香をあげ、手を合わせた。
「長嶋さん。ありがとうございました」
風が吹いた。木の葉が揺れた。続けた。
「おかげで僕、一度だけですが、本当にプロ野球選手になれました」
返事はない。もちろん、それでよかった。しばらく黙っていた。そして、小さく笑った。
「でもね。本当は分かってるんです」
胸に手を当てた。
「僕をもう一度グラウンドに立たせたのは、長嶋さんだけじゃない」
あの日、ゴロから逃げた少年。その少年が、もう一度ボールを捕った。一球だけ。たった一球。そこから始まった。
「だから、あいつにも、ありがとうって言いたいんです」
頭を下げた。
「よく逃げなかったな」



最終章 ミスター
山門を出ようとした時、若い住職が追いかけてきた。
「先ほどもお聞きしましたけど」
住職は笑った。
「本当に、長嶋さんと何か特別なご縁があったんですか?」
立ち止まった。そして、振り返った。少し考えてから、笑った。
「ええ」
住職が待っている。言った。
「ちょいと、昔にお世話になりましてね」
住職も笑った。寺を出た。青空だった。
遠くの河川敷から、子どもたちの声が聞こえる。
「行け!」「走れ!」「取れ!」
足を止めた。一人の小さな少年が、グローブを構えている。その前を、ボールが転がっていく。少年の身体が、ほんの少しだけ後ろへ動いた。
息を止めた。逃げるのか。
少年は、一度だけ迷った。そして、腰を落とした。グローブを地面につける。
パシッ。
ボールが収まった。少年は、嬉しそうに笑った。僕も笑った。
拍手をしようと思った。けれど、やめた。あれは、あの少年自身の一球だからだ。
人生は一度きり。誰もがそう言う。けれど、本当にそうなのだろうか。
時間は、一本の線ではないのかもしれない。下手くそだった少年も、夢を叶えた青年も、年老いた今の僕も、どこかで同じ空を見ている。
そして、あの日の僕が今日の僕を作ったように、今日の僕も、どこかの誰かの未来を作っているのかもしれない。
だから、もし誰かに「一番好きな野球人は?」と聞かれたら、僕はこれからも真っ先に答える。
長嶋茂雄。
そして、心の中で、もう一人の名前も呼ぶ。
あの頃の、ゴロが怖かった僕。
よく逃げなかったな。
よく、野球を好きなままでいてくれたな。
ありがとう。
遠い空の向こうから、乾いたバットの音が響いた。
カキーン――。
その音は、昔より少しだけ遠く、そして、なぜか、ずっと近くに聞こえた。





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あとがき
誰の心の中にも、「もしも、あの時に戻れたら」という時間が、一つくらいあるのではないでしょうか。
もっと勉強しておけばよかった。もっと頑張ればよかった。あの時、もう一度だけ挑戦していればよかった。
僕たちは大人になるにつれて、そうした「もしも」を、少しずつ人生の奥へしまっていきます。けれど、消えたわけではありません。
ふとした瞬間に、昔の匂いがしたり、昔の歌を聴いたり、古い写真を見つけたりすると、あの頃の自分が、突然こちらを振り返ることがあります。
本作の主人公にとって、それは野球でした。そして、長嶋茂雄という、少年にとってあまりにも大きな存在でした。
本作では、長嶋茂雄氏を実在の人物として登場させていますが、物語中の会話、手紙、出来事、時間旅行などは、すべて作品上の創作です。実際の出来事を描いたものではありません。
主人公が過去へ戻って手に入れたものは、野球選手になるという夢だけではありません。本当は、「もう一度、逃げない自分になる」ということでした。
ゴロが怖かった少年は、プロ野球選手になったから偉いのではありません。何度失敗しても、何度ベンチに入れなくても、一度プロテストに落ちても、それでも翌朝グラウンドへ行った。そのことが、彼の人生を変えました。
そして、この物語で一番大切にしたかったのが、最後に手紙が白紙になる場面です。長嶋さんから届いた一通の手紙は、少年にとって人生を支えてくれた宝物でした。けれど、過去を変えたことで、その手紙を必要としていた人生そのものが消えてしまう。少し寂しい結末です。しかし、同時に、とても幸せな結末でもあります。誰かに励ましてもらわなければ前へ進めない少年ではなくなったからです。
最後に残るのは、白紙だけ。でも、その白紙には、少年が自分自身で書き始めた、新しい人生がある。
もし読者の皆様にも、「あの頃、もう少し頑張っていたら」と思うことがあるなら、その時の自分を、少しだけ思い出してみてください。もしかすると、その少年や少女は、まだどこかであなたのことを待っているのかもしれません。
そして、もしもう一度だけ、あの頃へ戻れるとしたら。今度は、一球だけでもいい。逃げずに、グローブを出してみてください。
パシッ。
きっと、そこから何かが始まります。
本作を最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
昨日 立ち寄った墓前で
こんな夢を描きました。
野球を愛するすべての人へ。
そして、かつて少年だった、
すべての人へ。