墓、バグる。
――芥川龍之介と谷崎潤一郎、百年目の量子回線――
巣鴨・慈眼寺発、不思議で滑稽なSF小説
まえがき
本作は、巣鴨の地に眠る二人の文豪――芥川龍之介と谷崎潤一郎による、あの有名な「筋のある小説・筋のない小説」論争を題材にしたコメディSF短編です。
文学の難しい知識は一切不要です。「朝の巣鴨で変なアプリを拾ってしまったしがない会社員」の視点で、百年越しに再燃する文豪たちのレスバ(?)を気楽にお楽しみください。
プロローグ 早朝の巣鴨
僕の名前はどうでもいい。しがない会社員で、朝七時に巣鴨で用事があった。地蔵通り商店街はまだシャッターが半分しか開いておらず、赤いパンツを売る店だけが妙に気合を入れて開店準備をしていた。
用事は三十分で片づいた。時計を見ると、次の予定まで一時間半も余っている。これは呼ばれているな、と僕は思った。誰にとも知れず、そう思うことがある。
歩いて十分。慈眼寺という、こぢんまりとした寺がある。ここに、今年で没後百年を迎える芥川龍之介の墓がある。せっかくだから顔を出しておこう、というくらいの軽い気持ちだった。
墓石の前で手を合わせていると、隣の――厳密には「隣」というより「同じ区画の少し奥まった場所」というべきだが――谷崎潤一郎の分骨墓が、いつものように涼しい顔で立っていた。本墓は京都の法然院にあるというのに、なぜかここにも骨のひとかけらが眠っている。
百年経っても、この二人は隣り合って動かない。まるで、今なお何かを言い合っているかのように。
その時、僕のスマートフォンが鳴った。地図アプリでもなければ、メッセージでもない。見たことのないアイコンのアプリが、いつの間にかホーム画面に増えていた。
「墓活アプリ β版 ――起動中――」
僕は指を止めた。こんなアプリ、入れた覚えはない。
第一章 地下三千二百メートルからの着信
画面に表示されたのは、奇妙な文字列だった。
〈発信元特定不能/推定深度:地下三千二百メートル/推定発信年代:大正十六年相当〉
大正十六年、などという年は存在しない。大正は十五年で終わり、その先は昭和になる。つまりこれは、大正十五年の翌年――昭和二年、芥川が世を去った年を指しているらしかった。
スマホがぶるぶる震え、画面いっぱいに文字が流れ出した。
「もしもし。地上の方。少々、伺いたいことがあるのですが」
文体が、やけに折り目正しい。まるで大正時代の文士がスマホの使い方を教わりたてで打っているような、生真面目な句読点だった。
僕はとっさに、寺の掲示板にあった「墓地内での携帯電話の使用はご遠慮ください」という貼り紙を思い出したが、もう遅かった。指は勝手に「返信」ボタンを押していた。
「あの、どちら様でしょうか」
「羅生門の下に立っていた、と申し上げれば、伝わりますでしょうか」
伝わりすぎるほど伝わった。心臓が、墓石よりも冷たくなった。
さらに画面が割れるようにもう一つウィンドウが開く。今度は、やたら流麗で、少し嫌味なくらい滑らかな文体だった。
「おや、また芥川くんが先に喋っている。相変わらず気が早い人だ」
二つ目の発信元は、慈眼寺の分骨墓――そう、谷崎潤一郎のほうだった。
どうやら僕のスマホは、百回忌という節目のエネルギーか何かに感応して、地下深くに眠る二つの「文体データ」――生前の思考のクセ、口調、美意識のパターンをまるごと保存した何か――を受信するアンテナと化してしまったらしい。
これが後に僕が「墓活アプリ」と呼ぶことになる、この奇妙な物語の始まりだった。
第二章 芥川エミュレータ、起動す
アプリの設定画面には、見た事もない項目が並んでいた。〈文豪エミュレータ:芥川モード〉〈同:谷崎モード〉〈相互干渉レベル〉〈分骨リンク強度〉。まるでスマホゲームのステータス画面だが、課金ボタンがないぶん、少しだけ信用できた。
試しに芥川モードをタップすると、画面の向こうから神経質そうな声が響いてきた。声というのは正確ではない。テキストが、まるで囁くようなフォントの震え方で流れてくるのだ。
「地上は、随分と便利になったものですね。私の頃は、原稿用紙を埋めるだけでも一苦労だったのに」
「あの、率直に伺いますが、あなたは今も谷崎さんと論争を続けているんですか」
画面が、心なしか青白く点滅した。
「続けているというより……終われないのです。『筋のある小説、筋のない小説』という話をしましたでしょう。あれは結局、私が先に舞台を降りてしまったので、決着がついていない。谷崎くんは、それをいいことに、百年も勝ち誇っているような気がしてならない」
被害妄想なのか事実なのか、僕には判断がつかなかった。ただ、文体データというのはどうやら、感情まで律儀に保存してしまうものらしい。
画面の端に、小さなアイコンが増えた。〈羽虫〉。タップすると、芥川モードの周囲に、ジジ、と鳴く極小の羽虫のアニメーションが飛び回り始めた。
「これは失礼。生前の癖で、つい神経が昂ると羽虫の幻を見てしまうのです。放っておいてください」
放っておけるはずもなかった。僕のスマホの画面は、もはや小さな地獄変の屏風と化していた。
第三章 谷崎パッチ、降臨す
次に谷崎モードを開くと、画面がふわりと薄紅色に染まり、フォントまでもがどこか艶っぽい明朝体に変わった。アプリの中身が、勝手にモードごとにUIをカスタマイズしてくるのは、さすがに技術的にどうなっているのか説明してほしかった。
「ようこそ。地上の若い方。芥川くんとは、もうお話になりましたか」
「はい。羽虫が見えるとおっしゃってました」
「あの人は昔からそうなのです。神経が細いというより、繊細さを見せることに、少々自覚的すぎるところがある。それも含めて、私は好きでしたがね」
好き、という言葉のニュアンスに、僕はどう相槌を打てばいいのか分からなかった。
「では、なぜ今も分骨してまで、慈眼寺にいらっしゃるんですか。法然院で、ゆっくりされてもよかったのでは」
画面が一瞬、間を置いた。人間で言うところの、言葉を選ぶ沈黙だった。
「決着をつけたい、というのとは少し違うのです。ただ――言い足りないことが、まだ、あるような気がしてね。それだけの話です。年寄りの未練だと笑ってくださって結構」
未練、という言葉が、意外なほど正直に画面の中で揺れていた。派手な美文で鎧っていても、根っこのところは案外、まっすぐな人らしい。
僕のスマホには今、大正・昭和を代表する二人の文豪の「意識のこだま」が、それぞれ別アプリのように同居している。バッテリーの減りが尋常でなく速いことに、僕はこの時ようやく気がついた。
第四章 筋のある小説対筋のない小説・令和最終決戦
二つのモードを同時に開くと、〈相互干渉モード〉というボタンが自動で点灯した。押すなと言われて押さない僕ではない。むしろ、押すために生まれてきたようなものだ。
画面が真っ二つに割れ、左に芥川モード、右に谷崎モードが並んだ。
「谷崎くん。今こそ、はっきりさせようじゃないか。物語の面白さとは、筋にあるのか、それとも文体の芸術性にあるのか」
「またその話ですか、芥川くん。百年前と同じ台詞を、今度はスマートフォンの上で仰るとは、進歩がおありだ」
僕は仲裁するべきか、記録するべきか迷った挙句、とりあえず両方の言い分をメモに取ることにした。ノートアプリの容量が、あっという間に文豪二人の応酬で埋まっていく。
「筋のない小説にこそ、詩がある。事件の連なりなど、新聞記事で十分だ」
「その詩とやらを支えるのは、結局のところ、人間の欲望と因縁という筋書きではありませんか。あなたの短編にだって、ちゃんと事件は起きている」
画面の中で、羽虫のアニメーションと、薄紅色のグラデーションが、まるで戦国絵巻のようにぶつかり合った。スマホが心なしか熱を持ち始める。
「お二人とも、ここ、お寺の境内なので、あまり熱くならないでください」
僕の忠告など、百年越しの論争の前では羽虫ほどの重みも持たなかった。
第五章 分骨バグとタイムループ坂
応酬が最高潮に達した瞬間、画面に見たことのないエラーメッセージが浮かんだ。
〈警告:分骨リンク強度が閾値を超えました。地上への物理的干渉が発生する可能性があります〉
何のことか分からないまま突っ立っていると、足元の敷石が、ぐにゃりと歪んで見えた。目の錯覚かと思ったが、次の瞬間、僕は地蔵通り商店街のどこかに立っていた。ただし、シャッター街の看板がやたら達筆な旧字体で、道行く人々の着物姿がやけに堂に入っている。
大正時代の巣鴨に、僕は迷い込んでしまったらしかった。
スマホだけは、なぜかそのままポケットに入っていた。画面には、慌てた様子の芥川モードの文字。
「これは……申し訳ない。私の未練が強すぎたせいで、時間の縫い目がほつれたようです」
隣で谷崎モードが、意外と冷静にコメントを寄越す。
「芥川くん、こういう時こそ落ち着いて。地上の彼を、ちゃんと元の時代に戻さねば、我々二人とも、成仏どころではなくなりますよ」
成仏という単語が、スマホのスピーカーから漏れ聞こえてくる状況は、僕の人生でも一等奇妙な瞬間だった。
見れば、大正時代の商店街の先に、小さな坂道が見える。妙に既視感のある坂だった。よく見ると、坂の入り口の立て札に、こう書いてある。
〈タイムループ坂 ――通り抜けにご注意ください――〉
第六章 仲裁AI「僕」、奮闘す
こうなったら、腹を括るしかない。僕は「タイムループ坂」とやらを登りながら、二人のモードに向かって言った。
「お二人とも、聞いてください。僕がこちらに来てしまったのは、多分、お二人の未練――言い足りなかったことが、強すぎたからです。だったら、ここで言い切ってしまえばいいじゃないですか」
画面がしばらく沈黙した。羽虫のアニメーションだけが、ジジ、と鳴いている。
「言い切る、か。谷崎くん、私はずっと、あなたの物語の豊饒さを、羨んでいたのかもしれません」
芥川モードの声が、初めて素直な色を帯びた。
「羨む、とは芥川くんらしくない言葉だ。私こそ、あなたの持つ、あの一瞬で世界を切り取る鋭さに、ずっと歯が立たないと思っていましたよ」
坂を登り切ると、不思議なことに、景色がまた令和の巣鴨に戻っていた。地蔵通りの赤いパンツの店が、いつも通りシャッターを開けている。
スマホの画面には、二つのモードが並んだまま、静かな文字が流れていた。
「――結局、勝敗などというものは、最初からなかったのかもしれませんね」
「同感です。ただ、言い合える相手がいる、ということが、案外、悪くなかった。それだけの話です」
僕は、自分がとんでもない場所に迷い込んで、とんでもない仲裁をしてしまったことに、今さらながら気づいた。
終章 決着のつかなさの実装
〈分骨リンク強度:安定〉というメッセージとともに、アプリの画面がゆっくりとフェードアウトしていった。エラーは解消されたらしい。あるいは、エラーではなく、これが「正常な状態」だったのかもしれない。
最後に、アプリはひとつの新しい機能を実装した、と通知してきた。
〈アップデート完了:「決着のつかなさ」機能を実装しました。今後、芥川モードと谷崎モードは、あなたの前で永遠に論争を続けます〉
バグではなく、仕様だと言われてしまえば、僕にはもう何も言えなかった。
気がつけば、僕はいつも通り、慈眼寺の墓石の前に立っていた。次の予定まで、あと十五分。夢だったのか、量子的な何かだったのか、それとも百回忌という日が、ほんの少しだけ時間の縫い目を緩めただけなのか、今も僕には分からない。
ただ、スマホのホーム画面から、あの奇妙なアプリのアイコンは、まだ消えていない。
エピローグ また来ます
墓石に手を合わせ、僕は小さく呟いた。
「また来ます。今度は、お二人とも、あまり熱くならないでくださいね」
返事はなかった。当たり前だ、と自分に言い聞かせながら、僕は寺の門をくぐって、地蔵通りへと戻った。赤いパンツの店の店主が、今日も元気に呼び込みをしている。
ポケットの中で、スマホが一度だけ、小さく震えた気がした。通知を開く勇気は、その日はまだ、なかった。
―― 了 ――
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あとがき
1927年(昭和二年)、芥川龍之介と谷崎潤一郎の間で戦わされた「文学論争(筋のある小説・筋のない小説論争)」。二人の議論は決定的な決着を見ないまま、芥川の死によって幕を閉じました。
もし、二人の「文体」や「未練」がデータとして現代の技術とリンクしてしまったら……そして、巣鴨の慈眼寺で今も隣り合わせに眠る二人がスマホ越しに再会したら……という妄想から生まれたのが本作です。
二人の論争はきっと、百年経っても、千年経っても決着がつかないのでしょう。でも、互いに言い合える相手がいるということ自体が、二人にとっての救い(あるいは仕様)なのかもしれません。
もし巣鴨へ行く機会がありましたら、ぜひ慈眼寺の静かな境内を訪れてみてください。ポケットの中のスマホが、少しだけ温かくなる気がするかもしれません。
所要時間:巣鴨駅から徒歩8分、読了時間12分、成仏まで百年。

