誰のものでもない、女
― 未帰属フィールド事件 ―
まえがき
「誰のものでもない」
この言葉を聞いて、何を思うだろう。
自由な人。
孤独な人。
まだ誰にも選ばれていない人。
あるいは、誰にも必要とされていない人。
けれど、世の中には不思議な現象がある。
結婚している女性には、それほど積極的に声をかけなかった男が、離婚した途端に、急に親切になる。
「一人なんですか?」
「そうなんです」
「じゃあ……」
そこで、男は一瞬だけ笑う。
何かを期待している。
もちろん、本人には何の責任もない。
女性は昨日と同じ人間だ。
顔も、性格も、仕事も、好きなコーヒーも変わっていない。
変わったのは、たった一つ。
「誰かの妻」という表示が消えただけだ。
これは、そんな小さな表示が消えたことで、街そのものがおかしくなってしまった話である。
なお、念のため申し上げておく。
この物語に登場する「未帰属」という言葉は、法律用語ではない。
ただし、物語の途中から、本人たちにも意味が分からなくなってくる。
それが一番困ったことだった。
第一章 離婚届を出した日
森下美咲、四十二歳。
地方テレビ局の朝の情報番組で、十八年間、天気予報を伝え続けている。
美咲が離婚届を出したのは、火曜日だった。
役所の窓口で、
「こちらで受理されました」
と言われた。
それだけだった。
ドラマのように空が晴れたわけでもない。
風が吹いたわけでもない。
ましてや、背後で教会の鐘が鳴ったわけでもない。
美咲は、
「ありがとうございました」
と言って頭を下げた。
そして役所を出た。
それで終わりだった。
ところが、翌朝。
テレビ局の玄関で、警備員の山田が言った。
「おはようございます」
「おはようございます」
「……森下さん」
「はい?」
「なんか、今日、雰囲気違いますね」
美咲は自分の服を見た。
いつもの紺色のジャケット。
いつものパンプス。
いつもの鞄。
「そうですか?」
「ええ」
山田は妙に嬉しそうだった。
「なんというか……」
「なんですか?」
「誰のものでもない感じがします」
美咲は黙った。
「……は?」
山田も黙った。
「いや、すみません。今の忘れてください」
「そうしてください」
美咲はエレベーターに乗った。
扉が閉まる直前、山田がもう一度言った。
「でも、いい意味ですから」
エレベーターの中で、美咲は思った。
離婚すると、警備員にまで変なことを言われるのか。
第二章 妙に親切な男たち
異変は一日で終わらなかった。
昼休み。
美咲がコンビニで弁当を買おうとすると、後ろに並んでいた男性が、
「どうぞ」
と順番を譲った。
「いえ、結構です」
「いやいや」
その男は笑った。
「お先にどうぞ」
美咲は不思議に思いながらレジへ行った。
その日の夕方。
仕事帰りにタクシーに乗ると、運転手が言った。
「今日はお一人ですか」
「はい」
「そうですか」
なぜか嬉しそうだった。
翌日。
番組スタッフの若い男性が、コーヒーを二つ買ってきた。
「森下さん、どうぞ」
「ありがとう」
「砂糖、入れます?」
「ブラックでいいです」
「そうですか」
彼は残念そうだった。
さらに翌日。
昔から知っている気象予報士の先輩から、
「森下さん、今度食事でも」
と誘われた。
「急ですね」
「いや……」
先輩は頭を掻いた。
「なんとなく、今かなと思って」
「何がですか?」
「いや……」
先輩は答えなかった。
その日の夜。
美咲は鏡を見た。
四十二歳。
別に若くない。
別に急に綺麗になったわけでもない。
それなのに。
なぜか男たちが寄ってくる。
そして、美咲は気づいた。
彼らはみんな、同じ顔をしている。
期待しているような。
安心しているような。
そして少しだけ、
「まだ間に合う」
と思っているような顔。
第三章 井森美幸という先例
その現象について、美咲が初めて思い出したのは、昔テレビで見た井森美幸さんの言葉だった。
まだ若かった頃。
「井森美幸、十六歳。まだ誰のものでもありません」
そんなキャッチコピーを本人が笑いながら口にしていた。
そして何十年も経ったあと。
「井森美幸、四十うん歳。今でもまだ誰のものでもありません」
そんなことを言って、本人がまた笑っていた。
美咲も笑った。
あれは冗談だ。
ただのキャッチコピーだ。
でも。
なぜか妙に分かる。
「誰のものでもない」
という状態には、変な魅力がある。
所有されていない。
予約されていない。
誰かの名前が横に書かれていない。
つまり、
「可能性が残っている」
のだ。
美咲は自分に言った。
「私は別に、誰かのものになりたいわけじゃないけど」
すると鏡の中の自分が、
「でも、誰のものでもないって、ちょっと面白いよね」
と言った気がした。
もちろん鏡は何も言っていない。
第四章 未帰属
事件が始まったのは、その翌週だった。
市役所から一通の通知が届いた。
件名。
「未帰属状態に関する確認」
美咲は首を傾げた。
本文にはこうあった。
あなたは現在、
「婚姻による帰属」
「扶養による帰属」
「親族による帰属」
のいずれにも該当しません。
つきましては、現在の帰属状況について確認させていただきます。
美咲は市役所に電話した。
「すみません。これは何ですか?」
担当者は困った声で答えた。
「こちらでも、よく分からないんです」
「よく分からない?」
「はい」
「市役所なのに?」
「はい」
少し沈黙があった。
「ただ、システム上、森下さんが『未帰属』になっていまして」
「それは何か問題があるんですか?」
「今のところありません」
「じゃあ、いいじゃないですか」
「そうなんですが……」
担当者が小声になった。
「未帰属の女性、最近増えているんです」
美咲は笑った。
「離婚した女性が増えたんですか?」
「それだけではないんです」
「では?」
「結婚しているのに未帰属になっている人もいます」
「どういうことです?」
「夫婦なのに、夫が『妻を所有しているとは思っていない』と回答した場合です」
美咲は電話を持ったまま固まった。
「……何ですか、それ」
「私にも分かりません」
第五章 未帰属女子会
やがてSNSで「未帰属」という言葉が流行した。
未帰属女子。
未帰属男子。
未帰属婚。
未帰属恋愛。
ついには、
「未帰属こそ、現代女性の最終形」
などという本まで発売された。
テレビ局にも特集の依頼が殺到した。
美咲は嫌だった。
しかし局長は言った。
「森下さん、あなたが適任だ」
「なぜ私なんですか?」
「最初の未帰属だから」
「私はただ離婚しただけです」
「だからいいんだ」
「何がですか?」
局長は真顔で言った。
「説得力がある」
美咲はため息をついた。
そして特集番組が始まった。
テーマは、
「誰のものでもない女性たち」
だった。
スタジオに集まった女性たちは、みな普通の人だった。
離婚した人。
結婚しない人。
結婚したけれど別居している人。
長年恋人がいない人。
そして、
「私は一度も誰かのものだったことはありません」
と言う女性。
司会者が尋ねた。
「皆さん、『誰のものでもない』と言われることについて、どう思いますか?」
一人の女性が答えた。
「そもそも、人間って誰かのものなんですか?」
スタジオが静かになった。
美咲は笑った。
それが一番まともな答えに思えた。
第六章 男たちの不思議
しかし、男たちの反応は違った。
街頭インタビューで、
「未帰属女性に魅力を感じますか?」
と聞くと、男性たちは妙に困った。
「いや、まあ……」
「どんなところが?」
「自由そうだから」
「自由なら、あなたが何かできるんですか?」
「いや、それは……」
「じゃあ、なぜ魅力的なんですか?」
「……誰のものでもないから」
「それってどういう意味ですか?」
「分かりません」
分からない。
それでも魅力的。
美咲はそこに、人間の妙なところを感じた。
男たちは、
「誰のものでもない女」
を欲しがっているように見える。
でも本当に欲しいのは、その女性ではない。
「まだ可能性が閉じていない」という感覚
なのではないか。
自分が選ばれる可能性。
自分が何かを始められる可能性。
そして何より、
「誰かに先を越されていない」
という安心。
なんとも情けない。
美咲はテレビ局の廊下で笑った。
「男って、ほんと面白い」
その瞬間、後ろから声がした。
「森下さん」
振り返ると、若いディレクターだった。
「何ですか?」
「僕も、未帰属なんですけど」
「……だから?」
「だから、その……」
「はい?」
「僕と食事でも」
美咲は吹き出した。
「あなた、自分が未帰属だから私に声をかけてるの?」
「違います」
「じゃあ何?」
彼は少し考えた。
「……誰のものでもないから」
美咲は笑った。
「同じじゃない」
第七章 誰のものでもない男
ところが、ある日。
美咲は逆の現象に気づいた。
「未帰属の男」も、妙にモテ始めていた。
四十代独身。
離婚歴あり。
親と同居していない。
恋人なし。
会社では管理職でもない。
何の肩書もない。
そんな男たちが、突然、
「魅力的な男性」
として紹介され始めた。
テレビでは、
「未帰属男子特集」
が組まれた。
街では女性たちが、
「誰のものでもないって、なんかいい」
と言い始めた。
美咲は笑った。
結局、男女は同じだった。
人は誰かに選ばれたい。
しかし同時に、
誰かに選ばれていない人にも惹かれる。
そこには矛盾がある。
選ばれたいのに、
選ばれていない人を魅力的だと思う。
そして、選ばれている人を見ると、
「もう遅い」
と思う。
人間とは、なんと勝手な生き物なのだろう。
第八章 未帰属フィールド
事態が決定的におかしくなったのは、その年の秋だった。
科学者が「未帰属フィールド」というものを発見した。
人間の周囲には、目には見えない特殊な心理場が存在する。
誰かに所有されていると認識された人間の周囲では、その場が弱くなる。
逆に、
「誰のものでもない」
と認識された人間の周囲では、場が強くなる。
そして、その場が強い人間ほど、
「魅力的」
「話しかけやすい」
「可能性がありそう」
と感じられる。
科学者たちは困った。
恋愛感情を物理学で説明できるかもしれない。
しかし、説明できたところで何の役に立つのか分からない。
政府は研究予算を増額した。
企業は未帰属マーケティングを始めた。
結婚相談所は、
「完全未帰属コース」
を発売した。
美咲はテレビでそれを見て、思わず言った。
「馬鹿じゃないの」
しかし、その商品は大ヒットした。
第九章 所有できない人
やがて、美咲はある男性と出会った。
名前は高橋。
五十歳。
独身。
恋人なし。
会社員。
ごく普通の男だった。
高橋は美咲に告白した。
「好きです」
美咲は尋ねた。
「どうして?」
「分かりません」
「それじゃ困るでしょう」
「でも、好きなんです」
美咲は笑った。
「私が未帰属だから?」
高橋は首を振った。
「最初は、そうだったと思います」
「最初は?」
「誰のものでもない人って、なんかいいなと思った」
「でしょうね」
「でも、話しているうちに違うと思った」
「何が?」
「森下さんは、誰のものでもないんじゃない」
「じゃあ何?」
高橋は少し考えた。
「誰のものにもならない人なんだと思います」
美咲は黙った。
それは、少し違う気がした。
「私、誰かのものになるのが嫌なんじゃない」
「はい」
「ただ、自分が自分のものでなくなるのが嫌なの」
高橋は笑った。
「じゃあ、僕も自分のものでいればいいんですね」
「そう」
「難しいですね」
「そうね」
二人は笑った。
第十章 未帰属宣言
翌年。
政府はついに、
「人間の帰属を確認する制度」
を廃止した。
理由は単純だった。
誰が誰のものなのか、誰にも決められなかったからだ。
夫婦でも。
恋人でも。
親子でも。
友人でも。
人間は誰かと関係を結ぶことはできる。
支え合うこともできる。
愛することもできる。
しかし、
「あなたは私のものです」
と完全に言い切った瞬間、人間の一部がこぼれ落ちる。
それが科学的に証明された。
ニュースキャスターは真面目な顔で言った。
「政府は本日、人間の所有関係を示す『帰属欄』を、すべての公的書類から削除すると発表しました」
美咲はテレビを見ながら笑った。
「やっと気づいたか」
隣にいた高橋が言った。
「森下さん」
「何?」
「じゃあ、僕たちは?」
美咲は少し考えた。
「何でもいいんじゃない?」
「恋人?」
「それでもいい」
「友達?」
「それでもいい」
「夫婦?」
美咲は高橋を見た。
「それもいい」
「じゃあ、何なんですか?」
美咲は笑った。
「誰のものでもない二人」
高橋も笑った。
「それ、結構いいですね」
終章 誰のものでもない
それから十年が経った。
美咲は五十二歳になった。
相変わらず朝の天気予報を伝えている。
番組の最後。
カメラが寄ってくる。
美咲は空を見上げる。
「今日は全国的に穏やかな一日となるでしょう」
少し間を置く。
「ただし、人の心につきましては、予報が出ておりません」
スタッフが笑う。
美咲も笑う。
そしてカメラが止まったあと、若いスタッフが言った。
「森下さん」
「はい?」
「ずっと聞きたかったんですけど」
「何?」
「森下さんって、結局、誰かのものになったんですか?」
美咲は考える。
高橋とは、結婚していない。
けれど、ずっと一緒にいる。
一緒に食事をして。
時々喧嘩をして。
旅行に行って。
何もない日には、何もないまま過ごしている。
それだけだ。
美咲は答えた。
「ならなかったわね」
「ずっと?」
「ずっと」
「寂しくないですか?」
美咲は笑った。
「どうして?」
そして、少し考えてから言った。
「誰かのものじゃないって、誰にも愛されていないって意味じゃないのよ」
スタッフは黙って聞いている。
「誰かを愛してもいい」
「一緒にいてもいい」
「離れてもいい」
「戻ってきてもいい」
美咲は窓の外を見た。
朝の街には、たくさんの人が歩いている。
夫婦。
恋人。
親子。
一人の人。
誰かを待っている人。
誰かを待つことをやめた人。
そして、
誰のものでもない人。
「人間ってね」
美咲は笑った。
「最初から最後まで、自分のものなのよ」
それから少し間を置いて、
「だから、誰かのものになったつもりで生きるくらいが、ちょうどいいのかもしれないけどね」
そう言って、天気予報の原稿を閉じた。
窓の外では、雲がゆっくり流れている。
誰のものでもない。
空も。
雲も。
風も。
そして、人間も。
ただ、それでも人は、
誰かと並んで歩く。
それだけで、十分なのだ。
ー了ー
Amazon Kindle
原詩
誰のものでもない魅力
いつか
井森美幸さんがこんなことを言い
笑ってたっけ…
井森美幸 16歳
まだ 誰のものでもありません
井森美幸40うん歳
今でもまだ誰のものでもありません
これって
男たちからしたら
とても心をくすぐられるわけで
もちろん
自分が
どうにか出来るはずはないのに
誰のものでもない! ってことが
嬉しいような
安心なような
するとね
離婚でもした女性が
突然 モテ始めるってのも
またこれなんだよな
あとがき
「誰のものでもない」という言葉には、妙な魅力があります。
自由という意味にも聞こえるし、寂しさにも聞こえる。
そして、なぜか男性からすると、離婚した女性が急に魅力的に見えることがある。
昨日までと何も変わっていないのに。
顔も同じ。
年齢も同じ。
性格も同じ。
なのに、「既婚者」という表示が消えた途端、
「あれ?」
となる。
これは、人間の恋愛感情の中にある、少し滑稽な部分なのかもしれません。
本当は、人間は誰のものでもありません。
結婚していても。
恋人がいても。
一人でいても。
誰かを愛していても。
誰かに愛されていても。
人間そのものが、誰かの所有物になることはない。
それでも私たちは、
「あなたは私の大切な人です」
と言う。
「ずっと一緒にいたい」
と言う。
「あなたは私のもの」
と冗談で言う。
その矛盾が、たぶん恋愛というものの可笑しさなのだと思います。
そして最後に。
「誰のものでもない」ということは、
「誰にも愛されない」
ということではありません。
むしろ逆なのかもしれません。
誰のものでもないからこそ、
誰かを選ぶことができる。
誰かと一緒にいることを、
自分の意思で決められる。
そんな人間の自由について、少し笑いながら考えていただけたなら幸いです。

