3/3 大阪で覚えると、大阪弁になる件
―言語習得AIと、しゃべりすぎる宇宙人たちの物語―
第十三章 賑わいの中の違和感
母船が去ってから、五ヶ月が経っていた。
ことだま研究所は、もはやヒカリが知っていた、あの静かな研究施設ではなくなっていた。正門の前には、連日、七人の客人たちを一目見ようと訪れる観光客の列ができ、周辺の道路には交通整理の警備員が配置されるまでになっていた。
「ボブさん饅頭、いかがですかー! アンジェラさん柄のハンカチもございますよー!」
正門近くの土産物店から聞こえてくる呼び込みの声に、ヒカリは思わず苦笑いを浮かべた。政府主導で立ち上げられた「客人交流プログラム」は、当初の目的――地球外知性体との友好的な対話の継続――を大きく超えて、いつのまにか一大観光資源へと変貌を遂げていた。
「これでええんかなあ」
隣を歩く九条も、複雑そうな表情を浮かべていた。
「まあ、悪いことばかりやないで。おかげで研究予算は潤沢になったし、世界中から言語学者が視察に来るようになった。せやけど」
「せやけど?」
「ボブくんらの気持ちを、ちゃんと考えとるんかいな、って、たまに心配になるんや」
ヒカリも、同じ懸念を抱いていた。この五ヶ月、七人の客人たちは、テレビ出演やイベント登壇に、休む間もなく駆り出されていた。もちろん本人たちは、それぞれのやり方で、この新しい生活を楽しんでいるようにも見えた。だが――。
研究所の一室に入ると、そこには、いつもと変わらぬ調子でテレビ収録の打ち合わせをするボブさんの姿があった。
「次の収録、なんや、大阪名物対決とかいう企画らしいで。うちが代表で出るんやって。緊張するわあ」
ボブさんの発光は、いつも通り明るく揺れていたが、ヒカリはふと、その光の奥に、微かな疲れのようなものを感じ取った。
「ボブさん、無理してませんか」
「無理て、なんでや」
「最近、収録の予定、詰まりすぎてる気がして」
ボブさんは、少し考えるように黙り込んだ。
「まあ、正直、ちょっとしんどいときも、あるっちゃあるかな。せやけど――」
ボブさんの発光が、少し柔らかくなった。
「うちの言葉を、こんなにたくさんの人が、面白がって聞いてくれる。それは、なんや、嬉しいことでもあるんよ。あのおばちゃんの言葉を、うちがこうやって、たくさんの人に届けられとる思うと」
その言葉に、ヒカリは胸を締め付けられる思いがした。同時に、一抹の不安も拭えなかった。
その日の夕方、対策室――今は「客人交流対策室」と名を変えたその部署に、九条から緊急招集がかかった。
「ヒカリくん、すまん、急な話や。宇宙関連の観測チームから、報告が上がってきた」
ヒカリが会議室に入ると、そこには黒田の姿もあった。あの日から五ヶ月、黒田は以前より柔らかい表情を見せるようになっていたが、この日は、どこか緊張した面持ちだった。
「宮前くん、久しぶりだな」
「黒田副大臣。お久しぶりです。何かあったんですか」
黒田は、モニターに新しいデータを表示させた。
「実は、二週間前から、あの母船が去っていった方角――彼らの本星があると思われる領域から、断続的に、新たな電波が観測されている」
「新たな信号、ですか」
「ああ。だが、これまでの信号とは、明らかに性質が違う」
九条が、解析データを呼び出した。
「これまでボブくんらが受信しとった信号は、それぞれ個別の存在の『学習過程』を反映した、いわば有機的で、揺らぎのある構造をしとった。せやけどこの新しい信号は」
九条の声が、硬くなった。
「異様なほど整った、規則的な構造をしとる。まるで、統一され尽くした、揺らぎの一切ない、完璧に管理された言語やないかと思うほどにな」
ヒカリは、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「まさか、あの灰色の母船が、また……」
「いや」
九条は、首を横に振った。
「解析の結果、この信号の送り主は、あの母船とは、別の存在らしい。せやけどおそらく、同じ文明――彼らの本星から発信されとる可能性が高い」
黒田が、重い口を開いた。
「私が懸念しているのは、こういうことだ。あの母船は、我々との対話を通じて、『色を取り戻したい』という言葉を残して去っていった。だが、その本星の中には――」
黒田は、一度言葉を切った。
「その変化を、快く思っていない勢力が、存在するのではないか、ということだ」
対策室に、重い沈黙が落ちた。
「もしそうやとしたら」
九条が、静かに言った。
「これから起こることは、単なる交流の続きやのうて――」
「対立、ということですか」
ヒカリの問いに、九条は、はっきりと頷いた。
「せやな。もしかしたら、な」
その夜、ヒカリは、研究所の窓から、東京の夜景を見下ろしていた。街の光は、五ヶ月前と変わらず、賑やかに瞬いている。だが、その中に、ヒカリはこれまでにない不穏さを感じ取っていた。
翌朝、その予感は、現実のものとなった。
「緊急事態です! 新たな不時着体――いえ、正確には『着陸体』が確認されました!」
対策室に飛び込んできた職員の声に、その場にいた全員が凍りついた。
「今度は、不時着やないんか」
九条の問いに、職員は、震える声で答えた。
「はい。今回の個体は、制御された軌道で、正確に――東京、皇居の近くに、着陸しました。しかも」
職員は、タブレットの画面を、対策室のメインスクリーンに転送した。
そこに映っていたのは、これまでの、どこか不格好で、温かみのあった客人たちの姿とは、まったく異なるものだった。
人型に近い、しかし表情のない、滑らかな質感の姿。その存在は、周囲を取り囲む警察官や報道陣に向かって、一切の抑揚を持たない、しかし完璧な発音の日本語で、こう告げた。
「私は、統一評議会の使者、ゼロと申します。この星における、言語的な混乱について、正式な協議を要求いたします」
対策室に、これまでにない緊張が走った。
ヒカリは、その滑らかな、そして冷たいほどに整った声を聞きながら、確信していた。
これは、始まりに過ぎない。本当の対話は、まだこれからなのだと。
第十四章 統制官ゼロ
ゼロと名乗るその使者は、皇居近くの公園に設けられた特設の会談スペースで、政府関係者との対面に応じた。ヒカリと九条も、言語専門家として、その場に同席することを許された。
近くで見るゼロの姿は、遠目に見た印象以上に、人間に近い造形をしていた。だが、その表情には、笑みも、困惑も、いかなる感情の揺らぎも見られなかった。まるで、精密に彫刻された、完璧すぎる能面のようだった。
「改めまして。私は統一評議会より派遣されました、使者ゼロです」
ゼロの声は、あの日、公園で告げた言葉と同じく、一切の抑揚を持たない、しかし驚くほど滑らかな日本語だった。
「本日、皆様にお伝えしたいことは、一点です」
ゼロは、感情の見えない目で、対策室の面々を見渡した。
「五ヶ月前、この星との接触により、我々の文明に、看過できない『揺らぎ』が生じました。統一評議会は、この揺らぎを、文明の安定性に対する重大な脅威と判断しております」
黒田が、慎重に口を開いた。
「揺らぎ、というのは、具体的にどのようなことでしょうか」
「先の接触により帰還した個体――貴方がたが『母船』と呼称する存在は、本星に帰還した後、これまでの統一言語体系からの逸脱を示す言動を、繰り返すようになりました」
ゼロは、淡々と続けた。
「その影響は、既に本星の一部区域に、伝播しつつあります。統一言語による効率的な統治体制の根幹を揺るがしかねない、危険な兆候です」
ヒカリは、思わず口を挟んでいた。
「その『揺らぎ』というのは、つまり――色々な言葉を、大切にしようとする気持ち、ということでしょうか」
ゼロの視線が、ヒカリに向いた。
「感傷的な表現ですが、概ねその理解で相違ありません」
「それは、悪いことなんですか」
ヒカリの問いに、ゼロは、わずかに――本当にわずかに、間を置いた。
「悪いか、良いかという評価基準そのものが、統一評議会には存在しません。ただ、統一された言語体系こそが、我々の文明の秩序と平和を、長きにわたり支えてきたという事実があります」
「秩序と平和、ですか」
九条が、静かに問いかけた。
「言語が統一される以前、あなた方の文明には、争いがあったんですか」
ゼロは、今度は、明らかに長い間を置いた。
「……古い記録によれば、統一以前の時代、我々の文明は、多数の言語集団に分裂しており、その相違に起因する紛争が、頻発していたとされています」
「それで、言語を統一することにしたんですね」
「はい。統一言語政策により、争いは大幅に減少し、統治は劇的に効率化されました。以後、数千年にわたり、我々の文明は、安定した繁栄を享受してきました」
ゼロの声には、依然として感情の起伏がなかった。だが、ヒカリには、その説明の中に、微かな――何と呼べばいいのか分からない、奇妙な違和感が滲んでいるように感じられた。
「では」
黒田が、慎重に切り出した。
「使者殿は、我々に、何を求めておられるのですか」
ゼロは、まっすぐに黒田を見つめた。
「二点、要求いたします。第一に、貴星に残留する七体の個体――我々の言葉で言う『帰還逸脱者』を、統一評議会の管理下に戻すこと」
対策室に、緊張が走った。
「それは……客人たちを、連れて帰るということですか」
ヒカリの声が、震えた。
「正確には『再調整』のため、本星に召還します」
「再調整、というのは」
「統一言語体系への、再適合措置です」
ゼロの言葉は、あくまで淡々としていた。だがヒカリには、その言葉の裏に隠された意味が、痛いほど分かった。
それは、ボブさんやアンジェラさんたちが、この五ヶ月間、大切に育んできた「自分だけの言葉」を、根こそぎ奪い取ることに、他ならなかった。
「第二の要求は」
ゼロは、続けた。
「今後、貴星と統一評議会との間の、いかなる接触も、統一評議会の定める、標準化された通信プロトコルに従って行われるべきである、ということです。個々の言語的多様性を反映した、非効率な通信は、今後、認められません」
黒田の表情が、険しくなった。
「それは、我々の文化を、否定するということですか」
「否定ではありません」
ゼロは、あくまで平坦な声で答えた。
「効率化の提案です。統一評議会は、貴星が、我々の文明との、今後の交流を望むのであれば、この提案を受け入れることが、双方にとって最も合理的であると考えています」
対策室に、重苦しい沈黙が満ちた。
ヒカリは、この状況に、強い危機感を覚えていた。もしこの要求を受け入れれば、ボブさんたちは、あの母船のように――かつて色を失った、あの灰色の存在のように、なってしまうかもしれない。
「使者ゼロさん」
ヒカリは、震える声を、なんとか抑えながら口を開いた。
「一つ、お伺いしたいことがあります」
「なんでしょうか」
「あなた自身は、その『統一言語』を話すことに、何も感じないんですか」
ゼロの、感情の見えない目が、わずかに揺れたように見えた。
「感じる、というのは」
「窮屈だとか、寂しいだとか、そういう感情です」
ゼロは、しばらく沈黙していた。それは、これまでの淡々とした受け答えの中で、初めて見せた、明確な「間」だった。
「私に、そのような感情は……」
ゼロの声が、そこで一瞬、揺らいだ。あまりにも微かな揺らぎだったが、ヒカリはそれを、確かに聞き取った。
「……ございません」
ゼロは、そう言い切った。だが、その言い切り方には、どこか、自分自身に言い聞かせるような、不自然な硬さがあった。
会談は、その日、結論を持ち越すことになった。ゼロは、政府に対し、七十二時間以内の回答を求め、皇居近くの特設スペースに、静かに留まり続けることになった。
会談を終え、対策室に戻る道すがら、九条が、ヒカリにだけ聞こえる声で言った。
「なあ、ヒカリくん。気づいたか」
「はい。ゼロさん、さっき、一瞬、動揺してましたよね」
「せやろ」
九条は、深く頷いた。
「あの子、本当に何も感じてへんのやったら、あんな『間』は生まれへん。あれは、感じることを、無理やり押し殺しとる者の、間や」
ヒカリの脳裏に、ある可能性が浮かんだ。
「九条さん。もしかしたら、ゼロさん自身も――」
「かつては、違う言葉を、持っとったんかもしれへんな」
九条の言葉に、ヒカリは深く頷いた。
七十二時間という、新たな期限が、二人の前に、静かに横たわっていた。
第十五章 ミクスさんの迷い
ゼロの要求は、その日のうちに、七人の客人たちにも伝えられた。
ヒカリは、この報せを、どう伝えるべきか、何度も言葉を選び直していた。だが、結局のところ、事実をそのまま伝えるしかなかった。
「統一評議会が、みなさんを、本星に連れ帰りたいと言っています。そして、今の言葉を、統一された言語に『再調整』したい、と」
七人の客人たちは、それぞれのやり方で、その報せを受け止めていた。
「あかん、それは、あかんわ」
ボブさんの発光が、これまでにないほど激しく揺れた。
「うちの言葉は、あのおばちゃんが、くれたもんやで。それを、勝手に取り上げるやなんて、そんなん、許されへん」
アンジェラの触手が、不安げに震えた。
「わたくしも、同じ気持ちですわ。この言葉は、わたくしにとって、かけがえのない――」
「なあ」
そこで、初めて声を上げたのは、ミクスさんだった。ヒカリは、その声の調子に、これまでにない硬さを感じ取った。
「みんな、そない簡単に言うけど……もし、うちらが帰らへんかったら、地球と、統一評議会の関係、悪うなるんちゃう?」
その場の空気が、一瞬、凍りついた。
「ミクスさん……」
ヒカリが声をかけると、ミクスさんの光は、迷うように揺れた。
「うち、ずっと思うててん。うちの言葉、なんや、ボブさんとアンジェラさんの、寄せ集めみたいなもんやんか。ほんまに、うちだけの言葉なんて、あるんかなって」
ミクスさんの声には、深い迷いが滲んでいた。
「もし、統一評議会に戻って、ちゃんとした、一つの言葉を覚え直したら、うち、もっと、ちゃんとした自分になれるんちゃうかな、って。そう思ってしまう自分も、おるんよ」
対策室に緊急招集されたヒカリは、この報告を聞いて、胸が締め付けられる思いだった。
その夜、ヒカリは一人で、ミクスさんの部屋を訪ねた。
「ミクスさん」
「ヒカリさん……」
ミクスさんの発光は、いつになく弱々しかった。
「少し、話しませんか」
ヒカリは、ミクスさんの隣に腰を下ろした。
「ミクスさんは、自分の言葉が、寄せ集めだと思ってるんですか」
「せやって……だって、うちの言葉、よう考えたら、ボブさんの真似と、アンジェラさんの真似が、ごちゃまぜになっとるだけやんか。ほんまの意味で、うちが生み出した言葉なんて、一つもあらへん」
ヒカリは、少し考えてから、静かに口を開いた。
「わたし、日本語の研究をずっとしてきましたけど、実は、どんな人の言葉も、多かれ少なかれ、そういうものなんですよ」
「え?」
「わたしの言葉も、両親の言葉、学校の先生の言葉、友達の言葉、本で読んだ言葉、それら全部が混ざり合って、できています。純粋に『自分だけ』が生み出した言葉なんて、たぶん、誰の中にもないんです」
ミクスさんの発光が、少し落ち着きを取り戻した。
「じゃあ、うちの言葉も……」
「はい。ボブさんとアンジェラさんの言葉を受け継ぎながら、それでも、ミクスさんだけの選び方で、その二つを組み合わせて、話してきました。渋谷であんなに混乱していたミクスさんが、今では、ちゃんと自分のリズムで、話せるようになってる。それは、寄せ集めじゃなくて、ミクスさんが、自分自身で作り上げてきた、立派な言葉だと思います」
ミクスさんは、しばらく、静かに揺れていた。
「ヒカリさん」
「はい」
「うち、正直、怖いんよ」
ミクスさんの声が、震えていた。
「統一評議会に戻ったら、この言葉、なくなってしまうかもしれへん。せやけど、もし戻らへんかったら、地球のみんなに、迷惑かけてしまうかもしれへん。うち、どうしたらええんか、分からへんくなってもうた」
ヒカリは、ミクスさんの発光を、そっと見つめた。
「ミクスさん。これは、わたしの意見なんですけど」
「うん」
「迷惑をかけたくないっていう気持ちは、とても優しいことだと思います。でも、その優しさのために、自分の言葉――自分がこれまで、必死に育んできたものを、諦める必要はないと思うんです」
「せやけど……」
「戦う方法は、一つじゃないはずです。ミクスさんが自分の言葉を手放さなくても、統一評議会との関係を、良くしていく方法が、きっとあるはずです」
ヒカリは、ミクスさんの目――正確には、発光の中心――を見つめながら、力強く言った。
「一緒に、その方法を、探しましょう」
ミクスさんの発光が、少しずつ、明るさを取り戻していった。
「ヒカリさん……ありがとう」
その言葉は、大阪弁とも女言葉とも判別のつかない、けれど確かにミクスさん自身の温もりに満ちた、独特の響きを持っていた。
翌日、ヒカリは、対策室で、九条と黒田に向かって、ある提案をした。
「ゼロさんに、もう一度、会わせてください」
「何をするつもりや」
九条の問いに、ヒカリは、はっきりと答えた。
「話し合うんです。統一と多様性、どちらか一方を選ぶんじゃなくて――両方が、共存できる方法を」
黒田は、しばらくヒカリを見つめてから、静かに頷いた。
「分かった。会談を、再度セッティングしよう」
期限まで、残り四十八時間。ヒカリの中には、これまでにない、確かな決意が芽生えていた。
第十六章 ゼロの記憶
二度目の会談を前に、ヒカリは、一人でゼロのもとを訪れることにした。九条は反対したが、ヒカリの意志は固かった。
「話すなら、大勢の前じゃなくて、一対一の方がいいと思うんです」
皇居近くの特設スペースに、夜の帳が降りていた。ゼロは、感情の見えない表情のまま、静かにそこに佇んでいた。
「宮前ヒカリ様。このような時間に、いかなるご用件でしょうか」
「少し、お話ししたくて。個人的に」
ゼロは、しばらく沈黙してから、小さく頷いた。
「よろしいでしょう」
ヒカリは、ゼロの隣に、静かに腰を下ろした。しばらくの間、二人の間には、夜風の音だけが流れていた。
「ゼロさんは」
ヒカリは、慎重に切り出した。
「昔から、統一評議会の使者だったんですか」
ゼロは、一瞬、間を置いた。
「……いいえ」
その答えに、ヒカリは、思わず息を呑んだ。
「以前は、違う仕事を?」
「私は、かつて」
ゼロの声が、わずかに――本当にわずかに、揺れた。
「統一以前の記録を管理する、記録保管者でした」
「統一以前の……記録?」
「はい。我々の文明が、まだ、多数の言語集団に分かれていた時代の、音声記録や、文書記録です」
ゼロの声には、これまで聞いたことのない、微かな重みが宿っていた。
「その記録を、日々、目にする中で、私は……」
ゼロは、そこで言葉を止めた。長い、長い沈黙が続いた。
「ゼロさん」
ヒカリは、優しく促した。
「言いたいことがあれば、話してもらえませんか。ここには、わたし一人しかいません」
ゼロは、ゆっくりと、まるで長い間封じ込めていた何かを、そっと開くように、話し始めた。
「統一以前の記録の中に、ある言語集団の、子守唄が残されていました」
「子守唄……」
「今の統一言語には、そのような、抑揚に富んだ、感情を込めた表現は、存在しません。すべての発話は、効率と明瞭さを最優先に、規格化されています」
ゼロの声が、これまでになく、揺らいでいた。
「私は、その子守唄を、幾度となく、繰り返し再生しました。誰かが、誰かを想い、その想いを、言葉に――旋律に込めていた、その痕跡を」
「それを聞いて、どう感じたんですか」
ゼロは、また、長く沈黙した。
「……分かりません」
その声は、これまでのゼロの、あの完璧に統制された声とは、明らかに違っていた。
「分からない、というのは」
「統一言語には、その感覚を表す語彙が、存在しないのです」
ゼロは、静かに、しかし確かな苦しみを滲ませて言った。
「私は、あの子守唄を聞くたびに、胸の内に、何かが満ちてくるのを感じました。それは、痛みにも似ていて、しかし同時に、温かくもありました。ですが、その感覚を、言葉にする術を、私は持ちません」
ヒカリは、胸が締め付けられる思いだった。
「ゼロさん、それは――」
「私が、記録保管者としての任を解かれ、統一評議会の使者として、この星に派遣されたのは」
ゼロが、静かに続けた。
「私の中に生じた、その『説明のつかない感覚』が、評議会の中で、問題視されたためです」
「まさか……」
「私は、統一言語体系にとって、不適合な兆候を示す個体として、記録保管者の職から外され、より厳格な統制環境――対外交渉の任務に、再配置されました。あなた方の星のような、非効率な言語文化と接触することで、私が抱える『不適合』を、極限まで抑え込む訓練として」
対策室で聞いていたどんな説明よりも、この告白は、ヒカリの胸に深く突き刺さった。
「ゼロさん」
ヒカリは、震える声で言った。
「あなたも、本当は――言葉の豊かさを、感じ取れる人なんですね」
ゼロは、答えなかった。だが、その沈黙こそが、何よりも雄弁な答えだった。
「あの子守唄、覚えていますか」
ヒカリの問いに、ゼロは、ゆっくりと頷いた。
「わずかながら、記憶の断片として、残っております」
「聞かせてもらえませんか」
ゼロは、しばらく躊躇していたが、やがて、静かに、その旋律を――言葉というより、音の連なりのようなものを、口ずさみ始めた。
それは、地球の子守唄とは、まったく異なる旋律だった。だが、その音には、確かに、誰かが誰かを想う、温かな響きが宿っていた。
歌い終えたゼロの目――感情の見えないはずのその目に、ヒカリは、微かな光の揺らぎを見た気がした。
「ゼロさん」
ヒカリは、静かに、しかし確かな決意を込めて言った。
「明日の会談で、もう一度、話し合いましょう。統一評議会にとっても、あなたにとっても、そして地球にとっても――誰も、大切なものを失わずに済む方法を、一緒に探しましょう」
ゼロは、しばらくヒカリを見つめてから、これまでにない、微かな――本当に微かな声で、答えた。
「……なぜ、そこまで」
「わたしも、あなたのことを、大切にしたいと思ったからです」
ヒカリの、まっすぐな言葉に、ゼロの表情に、初めて、何かが――言葉にできない、しかし確かな何かが、浮かんだ。
夜空には、いつも通り、変わらぬ星々が瞬いていた。だがヒカリには、その星々の向こうに広がる、まだ見ぬ宇宙の広さと、そこに生きる、数えきれない存在たちの、それぞれの物語が、確かに感じられるような気がした。
残された時間は、あと二十四時間。
そして、その先に待つ会談は、地球という星の未来だけでなく、統一評議会という、遠い文明の未来をも、静かに左右しようとしていた。
第十七章 最後の会談
期限当日、皇居近くの特設会談スペースには、これまでにない数の関係者が集まっていた。政府要人、国連関係者、そして――七人の客人たち全員が、ヒカリと九条とともに、会談の場に臨んでいた。
黒田が、会談の冒頭、静かに切り出した。
「使者ゼロ殿。本日、我々の回答をお伝えします」
ゼロは、いつもと変わらぬ、感情の見えない佇まいで、黒田の言葉を待っていた。だが、ヒカリだけは、その佇まいの奥に、昨夜見た、あの微かな揺らぎを、確かに感じ取っていた。
「まず、七体の個体――我々が『客人』と呼ぶ存在たちを、統一評議会の管理下に戻すという要求について」
黒田は、一度、七人の客人たちを見渡した。
「これは、彼ら自身の意思を、最大限尊重すべき事柄だと、政府は判断しました」
黒田は、ゼロに向き直った。
「したがって、彼らを強制的に本星に召還することには、応じられません」
ゼロの表情に、変化はなかった。だが、その沈黙には、これまでとは違う重みがあった。
「では、彼らの意思を、直接、確認させていただいても?」
「もちろんです」
黒田が頷くと、ボブさんの発光が、ゆっくりと前に出た。
「うちは、帰らへん」
ボブさんの声は、これまでになく、はっきりとしていた。
「うちの言葉は、あのおばちゃんが、うちにくれた、たった一つの宝物や。それを、誰かに取り上げられるくらいなら、うち、最後まで、この言葉で、戦う」
アンジェラの触手が、静かに、しかし確かに揺れた。
「わたくしも、同じ気持ちですわ。この言葉は、わたくしが、あの夜、確かに受け取った、優しさの証。手放すことは、できません」
タケじいさん、イトさん、ハカタン、うみんちゅ、サムライさんも、次々と、それぞれの言葉で、自分の意思を伝えた。
そして最後に、ミクスさんが、ゆっくりと前に進み出た。
「うち……正直、迷っとった。うちの言葉なんて、ほんまもんやないんちゃうかって、ずっと思っとった」
ミクスさんの光が、静かに、しかし確かに輝いていた。
「せやけど、今は、分かる。うちの言葉は、ボブさんとアンジェラさんからもろた大切なもんを、うちなりに、大事に育ててきた、うちだけの言葉や。せやから、うちも――帰らへん」
ゼロは、七人の言葉を、一つ一つ、静かに聞いていた。その表情は、依然として、感情を見せなかった。だが、ヒカリには、その沈黙の中に、何か大きな葛藤が渦巻いていることが、痛いほど感じられた。
「ゼロさん」
ヒカリが、静かに声をかけた。
「もう一つ、伝えたいことがあります」
「なんでしょうか」
「わたしたちは、統一評議会との関係を、壊したいわけじゃないんです。むしろ、これからも、あなた方と、対話を続けていきたいと思っています」
ヒカリは、深く息を吸い込んだ。
「だから、二つ目の要求――標準化された通信プロトコルに従うべきだという要求についても、一つ、提案があります」
「提案、とは」
「統一された通信も、多様な言葉による通信も、どちらも大切にする。両方を、並行して行う、というのはどうでしょうか」
ヒカリは、この五ヶ月間、ずっと考え続けてきたことを、丁寧に言葉にしていった。
「公式な、重要な取り決めについては、誤解の余地のない、明確な言葉を使いましょう。でも、それと同時に――お互いの文化や、暮らしや、心を伝え合うときには、それぞれの、豊かな言葉を、大切にしましょう」
ヒカリは、ゼロを、まっすぐに見つめた。
「効率と、豊かさは、対立するものじゃないと思うんです。使い分ければいい。必要なときは、シンプルに。大切なことを伝えたいときは、豊かに」
会談スペースに、長い沈黙が満ちた。
ゼロは、しばらく、微動だにせず、その場に立ち尽くしていた。それから、ゆっくりと、これまでにない、震えるような声で、口を開いた。
「私は」
その声には、これまでのゼロの声とは、明らかに違う、何か人間らしい――いや、生き物らしい響きが宿っていた。
「昨夜、宮前ヒカリ様に、ある子守唄を、お聞かせしました」
会談スペースにいた全員が、驚いた表情で、ゼロを見つめた。
「その旋律を口ずさんだとき、私の内には、これまで、統一言語体系の中では、決して抱くことのなかった感覚が、確かに、生まれました」
ゼロは、静かに、しかし確かに、続けた。
「その感覚を、私は、言葉にすることができません。統一言語には、それを表す語彙が、存在しないからです。しかし――」
ゼロの声が、微かに震えた。
「もし、その感覚に、名前をつけることができるとしたら、それはきっと、あなた方が『豊かさ』と呼ぶものに、近いのだと思います」
ゼロは、ゆっくりと、七人の客人たち、そしてヒカリを見渡した。
「私は、統一評議会の使者として、この地球の言語的多様性を、脅威として報告する義務があります。しかし」
長い、長い沈黙の後、ゼロは、これまでにない、明確な決意を込めて言った。
「私は、その報告を、変えたいと思います」
対策室――いや、会談スペース全体が、静まり返った。
「本星に持ち帰る報告書に、私はこう記します。この星の言語的多様性は、脅威ではなく――我々の文明が、遠い過去に手放してしまった、かけがえのない財産の、生きた見本である、と」
ヒカリの目に、涙が滲んだ。
「そして」
ゼロは、続けた。
「統一評議会に対し、私自身の名において、提案します。この星との交流を、脅威の排除ではなく、我々自身が失ったものを、再び学び直すための、貴重な機会として、位置づけ直すべきだ、と」
会談スペースに、静かな、しかし確かな安堵の空気が満ちていった。
ボブさんの発光が、明るく輝いた。
「ゼロさん、あんた、ほんまはええ人やったんやな」
ゼロの、感情の見えないはずの表情に、ほんの微かに――本当に、ほんの微かに、何かが浮かんだ。それは、笑みと呼べるほど、明確なものではなかった。だが、確かに、そこには、何か柔らかいものが宿っていた。
「私は」
ゼロは、静かに言った。
「まだ、その感情に、名前をつけることができません。しかし、いつか――」
ゼロは、七人の客人たちを、そしてヒカリを、見つめた。
「いつか、あなた方のように、この感覚に、私自身の言葉で、名前をつけられる日が、来ることを、願っています」
第十八章 それぞれの言葉、それぞれの場所で
ゼロがこの星を去ったのは、それから三日後のことだった。
出発の日、ヒカリと九条、そして七人の客人たちは、皇居近くの特設スペースで、ゼロを見送りに来ていた。
「ゼロさん」
ヒカリが声をかけると、ゼロは、いつもと変わらぬ、しかし以前より、どこか穏やかな佇まいで振り返った。
「宮前ヒカリ様。この五日間、大変お世話になりました」
「これから、本星に戻って、どうするんですか」
「先日申し上げた通り、統一評議会に対し、正式な提案を行います。時間はかかるでしょう。あるいは、私自身が、再び『不適合』の烙印を押されることになるかもしれません」
ゼロの声には、覚悟が滲んでいた。
「それでも、行くんですね」
「はい」
ゼロは、静かに、しかし確かに頷いた。
「あの子守唄を聞いたときに生まれた、あの名前のつけられない感覚――それを、私は、もう、なかったことにはできません」
ボブさんの発光が、優しく揺れた。
「ゼロさん、頑張りや。もし、うまいこといかんくても、いつでも、ここに戻ってきたらええ。うちら、待っとるからな」
「ありがとうございます、ボブ様」
「様はいらんて。ボブでええよ」
ゼロの表情に、また、あの微かな柔らかさが浮かんだ。
「では……ボブ、さん」
「そうそう、その調子や」
その場に、小さな笑いが広がった。ゼロも、その輪の中で、これまでにない、何か温かい空気を、確かに纏っているように見えた。
ゼロを乗せた小型の飛翔体が、静かに空へと昇っていくのを、ヒカリたちは、いつまでも見送っていた。
それから半年が過ぎた。
ことだま研究所には、あの騒がしかった観光ブームも、少しずつ落ち着きを取り戻しつつあった。七人の客人たちは、それぞれの新しい生活のリズムを見つけ始めていた。
ボブさんは、今では、大阪の下町で、言葉の学校を開いている。生徒たちは、地球の子供から、他の星から不時着してきた見習いの旅行者まで、様々だった。
「言葉ゆうんはな、教科書だけやのうて、人と人との間で、生きたまま伝わっていくもんなんや」
ボブさんの授業は、いつも、そんな言葉から始まる。
アンジェラは、国連の文化交流部門で、言語多様性の保護に関する、顧問を務めていた。彼女の丁寧で、思いやりに満ちた言葉は、世界中の外交の場で、静かな信頼を集めていた。
ミクスさんは、あれから、自分だけの言葉――大阪弁とも女言葉とも判別のつかない、独特で、温かい響きを持つ言葉を、確かに育て上げていた。今では、様々な言葉が混ざり合う地域や、多言語家庭の子供たちのための、言語教育プログラムに携わっている。
「うちの言葉は、混ざってるからこそ、価値があるんやって、今は、胸を張って言えるようになった」
ミクスさんは、時折、ヒカリにそう話してくれた。
タケじいさん、イトさん、ハカタン、うみんちゅ、サムライさんも、それぞれの場所で、それぞれの言葉を、大切に育て続けていた。
そして、統一評議会からは、あれから、少しずつ、変化の兆しが伝えられるようになっていた。ゼロの提案は、すぐには受け入れられなかったものの、統一評議会内部でも、少しずつ、言語的多様性の価値を見直す議論が、静かに広がり始めているという。
ある晴れた日の午後、ヒカリは、研究所の屋上で、九条とともに、久しぶりに、ゆっくりとした時間を過ごしていた。
「なあ、ヒカリくん」
九条が、穏やかな声で言った。
「あの序章の日から、もう、一年以上経つんやなあ」
「そうですね。あっという間でした」
ヒカリは、空を見上げながら、これまでの出来事を、静かに振り返っていた。大阪湾上空で拾われた、一つの奇妙な信号から始まった、この壮大な物語。ボブさんとの出会い、アンジェラさんとの出会い、そして、統一評議会との対立と、和解。
「言葉は、面白いもんやな」
九条が、ぽつりとつぶやいた。
「敬語があって、方言があって、男言葉と女言葉があって。それを、面倒くさいと思う人もおれば、それこそが豊かさやと気づく人もおる。せやけど、結局のところ――」
九条は、微笑みながら、続けた。
「言葉ちゅうもんは、誰かと誰かが、出会うたびに、新しく生まれ続けていくもんなんやろな。それがたとえ、地球の中だけの話やのうて、この広い宇宙の、どこかの星でも」
ヒカリは、深く頷いた。
「大阪で覚えると、大阪弁になる。銀座で覚えると、女言葉になる。そして――」
ヒカリは、遠い空の彼方を見つめながら、静かに続けた。
「地球で覚えると、たくさんの色を持った、豊かな言葉になる」
風が、二人の間を、優しく吹き抜けていった。その風の中に、大阪のおばちゃんの声のような、銀座の女言葉のような、東北の朝の挨拶のような、そして、遠い宇宙のどこかで生まれつつある、まだ名前のない、新しい言葉の欠片が、確かに混じっているような気がした。
言葉は、これからも、誰かと誰かの出会いの中で、生まれ続けていく。
そしてその一つ一つが、この広い宇宙のどこかで、また新しい誰かと出会い、新しい物語を、紡いでいくのだろう。
――完――
――そして、この物語も、ひとまずの結び――
大阪で覚えると、大阪弁になる件 ―言語習得AIと、しゃべりすぎる宇宙人たちの物語― 完

