十六夜商店 番外編 1
― 木曜日の理由 ―
朝霧さんの場合
鏡月十六が十六夜商店を開く、半年前のことである。
経理課の朝霧沙耶は、月曜日はそっけなく、木曜日は機嫌がいい――と、十六の中の鏡には映っていた。十六はそれを「女という生き物はわからない」の証拠として、大切にしまっていたのだが、当の朝霧本人には、いたって明確な理由があった。
月曜日がそっけないのは、単に、週末に実家に帰っているからだった。母親の小言と、父親の昔話と、飼い犬の散歩で、日曜の夜にはもうへとへとになっている。だから月曜の朝は、誰に話しかけられても、少しだけ、笑う筋肉が足りない。
木曜日が機嫌がいいのは、その週の金曜日に、毎週、ひとつだけ、自分のための予定を入れているからだった。
映画を見に行く。気になっていた喫茶店のプリンを食べに行く。あるいは、ただ何もせず、代々木公園のベンチで文庫本を読む。
その「金曜日の種」を胸に抱えている木曜日が、一週間の中で、いちばん、少しだけ浮足立っているのだ。
誰にも言っていない、ささやかな習慣だった。
そんな木曜日の夕方、朝霧は、上司である鏡月十六が、デスクで辞表らしき紙を、何度も書き直しているのを見かけた。
「鏡月さん、辞めるんですか?」
鏡月は慌てて紙を裏返した。
「い、いや。仮の話です。もし、今の仕事を辞めたら、どう思う、かと思って」
朝霧は少し考えた。鏡月は、いつも何かに納得しているような顔をしている人だった。経理の数字が合わないときも、取引先から理不尽なことを言われたときも、「まあ、そういうこともあるか」という顔をして、淡々と処理している。
そんな人が、「本気で悩んでいる顔」をしているのは、初めて見た。
「もったいない、と思います」
朝霧は正直に言った。
「鏡月さん、経理、向いてると思うから。数字、ちゃんと合うまで帰らないし」
「それは、褒められてるんでしょうか」
「褒めてます」
鏡月は、少し笑った。いつもの、納得している笑い方とは、少し違う笑い方だった。
「ありがとう。ちょっと、考えてみます」
その翌週、鏡月は本当に辞めてしまった。
朝霧は、後任が来るまで、少しの間、鏡月のデスクも兼任することになった。引き出しを開けると、綺麗に整理された伝票と、隅に、小さな、古びた手鏡がひとつ、置かれていた。付箋には『ご自由にお使いください。ただし、見すぎないように』と、鏡月の字で書かれていた。
朝霧は、その鏡を一度だけ覗いてみた。自分の顔が、ぼんやりと映るだけの、ただの鏡だった。
「なんだ、普通じゃない」
そう呟いて、朝霧は鏡を、自分のデスクの引き出しにしまった。
それから半年。
木曜日の夜。いつものように金曜日の予定を考えるため、代々木公園のベンチで本を読んでいると、商店街の奥に、小さな、見慣れない明かりを見つけた。
『十六夜商店』
看板には、そう書いてあった。ショーウィンドウには、瓶の中の光の粒と、紫陽花の鉢植え。
からん、とドアベルが鳴る。
「いらっしゃいませ。何をお探しですか?」
カウンターの向こうに立っていたのは、スーツではなく、少し大きめのエプロンをつけた、鏡月だった。
朝霧は、驚いた顔をして、それから、すぐに笑った。
「探し物、じゃないんです。ただ――」
朝霧は、鞄から、小さな、古びた手鏡を取り出した。あの日、引き出しに置かれていた、あの鏡だった。
「これ、返しに来ました」
十六は、その鏡を見て、ああ、と声を出した。
「それ、まだ持ってたんですか」
「持ってました。でも、一度も、何も見えなくて。使い方が、悪かったのかなって」
十六の隣で、本を読んでいた女――月夜が、顔を上げた。
「見えなくて、正解よ」と月夜は言った。「それはもう、ただの鏡だから」
朝霧は、二人の顔を交互に見て、少し首をかしげた。
「お二人、お知り合いだったんですか?」
「ええ、まあ。コインランドリー仲間、というか」
「変な店ですね、ここ」
「よく言われます」と十六と月夜は、ほぼ同時に言って、顔を見合わせた。
朝霧は、その鏡を、カウンターに置いた。
「じゃあ、これ、ここで預かってもらえますか。私には、もう必要ないけど、捨てるのも、なんとなく」
十六は頷いた。
「はい。お預かりします。お代は――」
「分かってます。答えが見つかったら、教えに来るんでしょう?」
朝霧は、いたずらっぽく笑った。
「でも私、答えなら、もう見つかってます」
「といいますと」
「鏡月さんが、なんで月曜の私がそっけなくて、木曜の私が機嫌がいいのか、ずっと分からないって顔してたでしょう。あれ、ただ金曜日に、自分のための予定を入れてるだけなんです」
十六は、目を丸くした。
「……そうだったんですか」
「そうです。簡単なことでしょ。でも、鏡月さんは一生、それを『女という生き物はわからない』って、大事にしまっておくんだろうなって、思ってました」
月夜が、堪えきれずに吹き出した。
「それ、あなたらしいわね、十六」
十六は、頭を掻いた。
「……見習い中なもので」
朝霧は、帰り際、入り口に置かれた一組の靴の横に、そっと、あの鏡を並べて置いた。
片方だけだった靴が、一組になって、誰かの帰りを待つように佇んでいる。その隣に、もう何も映さなくなった鏡が、静かに置かれた。
外に出ると、少しだけ欠けた月が出ていた。
「満月より、綺麗かも」
朝霧はそう呟いて、金曜日の予定を考えるため、軽い足取りで、家路についた。
店の中では、十六が、預かった鏡を、そっと棚に置きながら言った。
「これ、商品としては、どうしましょう」
「売らなくていいんじゃない」と月夜は答えた。「ただ、ここに置いておけばいいのよ。『見えなくなったもの』として」
十六は頷いた。
ドアベルが、また鳴る。
「いらっしゃいませ。何をお探しですか?」
十六夜商店の灯りは、今夜も、ためらいがちに、しかし確かに、街の片隅を照らしていた。
(番外編1・完)
十六夜商店 番外編 2
― 査定と詩 ―
元・全知連合地球担当官の場合
彼には、本当は名前があった。地球の言語では発音できない、光の点滅で構成された、長い名前だった。だが、地球に来てからは、ずっと「不動産屋の店長」と呼ばれていたので、最近は自分でも、そっちの方がしっくりきていた。
全知連合の地球担当を命じられて、地球暦で四十七年。彼の仕事は、観測子を回収し、星の「ノイズ」を計測し、本部に報告書を送ることだった。
だが、査定は、いつもCだった。
「君の担当星は、いつもノイズが多すぎる」上司は、光りながら言った。「もっと効率よく、完全知性化を進めなさい」
彼は頷くしかなかった。効率、という言葉が、どうにも苦手だった。
そんな彼が、地球で唯一、気に入っていた仕事があった。商店街の空き物件の見回りである。本当は業務外だった。だが、地球の家というものは面白かった。誰かが住んでいた痕跡が、壁のシミや、柱の傷として、残っている。完璧に消去されない。ノイズだらけだ。
ある日、彼は一軒の空き店舗を見つけた。かつて時計屋だったという、その店の奥の壁には、うっすらと三日月の形のシミがあった。
「ここ、いいな」
彼は、業務用の端末に、そう呟いた。端末は『対象:空き店舗。ノイズ値:高。推奨:完全知性化』と無機質に表示した。
彼は、その表示を、初めて無視した。
数ヶ月後、そこに十六夜商店が開店した。彼は、大家のふりをして、契約書にハンコを押した人間の不動産屋に、こっそり口添えをした。「あの若いのに、貸してやってくれ。家賃、少し安くしてもいいから」
なぜそんなことをしたのか、自分でもよく分からなかった。査定には、何の得にもならないことだった。
大鏡の一件のあと、彼は本部に一通の提言書を提出した。
『不完全であることの価値についての詩的考察、全三十二ページ』
もちろん、査定は最低のDだった。ボーナスも、なくなった。だが、不思議と、気分は悪くなかった。
本部が割れたあの日、彼は正式に「詩人志望の元・不動産屋」になった。肩書が、少しだけ長くなった。
それからの彼は、商店街の隅で、小さな不動産屋を、本当に営みながら、詩を書いていた。
十六夜商店の門松を飾ったのは、彼だった。正月、誰も頼んでいないのに、勝手に飾った。
「なんだか、この店には、こういうのが似合う気がして」
十六は苦笑していたが、捨てずに置いてくれた。
紫陽花の鉢植えが、冬を越すかどうか、心配になったときも、彼がそっと、肥料を足していた。
ある冬の夜、彼は十六夜商店のカウンターで、自分の詩集を、恐る恐る、月夜に見せた。
「あら、いいじゃない、これ」
月夜がそう言ったとき、彼の胸の中で、査定表では測れない何かが、ぽっと、明るくなった気がした。
その夜、店を出て、彼は空を見上げた。
少しだけ欠けた月が、出ていた。
彼は、端末を取り出した。癖で、ノイズ値を測ろうとしたのだ。だが、途中でやめた。
測らなくても、綺麗だ、と思った。初めて、そう思った。
彼は、詩集を抱えたまま、商店街を歩いて帰った。足取りは、ためらいがちだったが、確かだった。
翌日、本部から最後の通知が届いた。
『地球担当官、役職定年。ただし、希望があれば、引き続き、地球の「経過観察」を、非常勤で委託する』
非常勤。ボーナスは、もちろん出ない。
彼は、その通知の裏に、こう書き足して、返送した。
『承諾します。なお、経過観察の合間に、詩を書いても、よろしいでしょうか』
返事は、三日後に来た。短い、光の点滅だった。翻訳すると、こうだった。
『構わない。君の詩は、本部でも、密かに人気がある』
彼は、声を出して笑った。商店街の真ん中で、一人で。
その笑い声は、誰の耳にも届かなかったが、奥の壁の三日月のシミは、少しだけ、柔らかく見えた気がした。
満月よりも、ずっと、綺麗な夜だった。
(番外編2・完)
十六夜商店 番外編 3
― 小さな椅子 ―
まだ来ていない客のために
十八部が終わって、二年が経った。
十六夜商店には、いつの間にか、小さな椅子が一脚、増えていた。
誰が持ち込んだのか、十六にも月夜にも、心当たりがなかった。ただ、ある朝、店を開けると、カウンターとショーウィンドウの間、紫陽花の鉢植えの隣に、ぽつんと置かれていたのだ。
子供用の、木製の、小さな椅子だった。座面には、クレヨンで描いたらしい、歪な月がひとつ。
「誰かの、忘れ物かしら」
月夜はそう言って、貼り紙をした。『お心当たりの方は、カウンターまで』
だが、一ヶ月経っても、二ヶ月経っても、持ち主は現れなかった。
「捨てますか?」と十六が聞くと、月夜は首を振った。
「置いておきましょう。こういう椅子は、誰かを待っている椅子に見えるから」
それから、その椅子は、店の一部になった。
大人が座るには小さすぎるその椅子に、客は誰も座らなかった。だが、なぜか、皆、その椅子の前では、少しだけ声が柔らかくなった。
「この椅子、誰のなんですか?」
そう聞かれると、十六は、いつものように答えるのだった。
「分かりません。うちの、専門ですから」
ある、十六夜の晩のことだった。
ドアベルが鳴り、一人の女性が入ってきた。お腹が、大きく膨らんでいた。第十二部で名前を預けていった、あの夫婦の、妻の方だった。
「お久しぶりです」
「お久しぶりです。お腹の子は、順調ですか?」
「はい。来月、生まれる予定なんです。今日は、少しだけ、ご報告に」
女性は、店内を見回して、小さな椅子に気づいた。
「あら、この椅子……」
「いつからか、ここにあるんです。持ち主不明で」
女性は、ゆっくりと、その椅子に手を触れた。
「陽菜が、座るには、ちょうどいい大きさですね」
十六と月夜は、顔を見合わせた。陽菜――生まれてこなかった、最初の子の名前。
「座らせてあげても、いいですか。心の中で、ですけど」
「もちろん」
女性は、小さな椅子の前にしゃがみ込み、目を閉じた。何も言わなかった。ただ、しばらく、そうしていた。
やがて、目を開けて、微笑んだ。
「ありがとうございます。陽菜も、喜んでると思います。居場所が、あったんだって」
その夜、女性が帰ったあと、月夜がぽつりと言った。
「ねえ、十六。前に、私たち二人で見た未来、覚えてる?」
「はい。小さな椅子が増えている未来」
「あれ、このことだったのかもしれないわね」
十六は、小さな椅子を見た。座面の、歪なクレヨンの月が、店の明かりで、少しだけ光って見えた。
「未来って、当たることもあるんですね」
「当たったんじゃなくて、辿り着いたのよ、きっと」
月夜は、小さな椅子の隣に、自分の椅子を寄せて座った。
「私ね、あのとき見た未来が、少しだけ怖くなくなった。誰かのための椅子を、こうして置いておけるなら」
十六は、何も言わず、月夜の隣に立った。
そのとき、ドアベルが鳴ったわけでもないのに、小さな椅子が、きしり、と小さな音を立てた。
風もないのに。
誰かが、そこに、ちょこんと座ったような、そんな音だった。
十六と月夜は、同時に、その椅子を見た。もちろん、誰も座ってはいなかった。
だが、二人は、それ以上、何も確かめなかった。尋ねないことも、この店では、大事な作法だったから。
窓の外には、今夜もまた、少しだけ欠けた月が浮かんでいた。
満月よりも、ずっと、綺麗だった。
そして今夜、その月の光は、小さな椅子の、歪なクレヨンの月を、ちょうど、優しく照らしていた。
(番外編3・完)

