十六夜商店


―― 知恵の哀しみ、あるいは全知計画顛末記 ――





第十四部 ――査察、ふたたび――



第七十九章 紫陽花の便り

年が明けて、最初の週末だった。
十六夜商店の入り口には、正月らしく、小さな門松が、控えめに、飾られていた。もっとも、それを用意したのは、十六でも月夜でもなく、あの元・全知連合担当官(現・不動産屋兼詩人志望)だった。
「勝手に飾っちゃって、すみません」と彼は、照れくさそうに言った。「なんだか、この店には、こういうのが、似合う気がして」
「別に、構いませんけど」十六は、苦笑した。「今日は、何のご用ですか」
「実は」担当官は、急に、声を潜めた。「ちょっと、厄介な話が」



第八十章 問い合わせ

「本部から、また、問い合わせが、来ましてね」
十六は、思わず、身構えた。
「まさか、また、全知計画の続きとか」
「いえいえ、そういう物騒な話じゃ、ないんです」担当官は、慌てて、手を振った。「今回は、もっと、地味な話でして。……この店の『観測子』――月夜さんのことなんですけど」
月夜が、カウンターの奥から、顔を上げた。
「わたしの、こと?」
「実はですね、本部の定期モニタリングで、月夜さんの『記憶初期化率』に、異常な低下が、確認されたそうなんです」
十六と月夜は、思わず、顔を、見合わせた。
「初期化率、というのは」と十六が尋ねると、担当官は、手元の測定器のようなものを、取り出しながら、説明した。
「本来、月夜さんは、毎晩、記憶と人格が、リセットされる、はずなんです。でも――ここ最近、そのリセット率が、少しずつ、下がってるみたいで」



第八十一章 書類仕事

「大丈夫なんですか、これ」と十六は、不安げに、尋ねた。
「それが、実はよく分からないんです」担当官は、頭を、掻きながら、続けた。「本部の技術班に聞いても、『前例がない』の一点張りで。しかも、正直に言うと、あちらも今、査定の時期でバタバタしてまして」
「査定」
「ええ。今期も、ノルマが、全然、達成できてなくて。うちの部署、来期、予算カットの話も、出てるんです」
十六は、少し、脱力した。宇宙規模の異変が、また、こんな、身近な悩みに、着地するらしかった。
「じゃあ、月夜のことは」
「一応、簡易報告書は、書かなきゃいけないんですけど……。正直、『経過観察』でいいんじゃないかと、私は、思ってます」
「経過観察、で、いいんですか」
担当官は、少し、いたずらっぽく、笑った。
「だって、見たところ、月夜さん、元気そうじゃないですか。むしろ――」



第八十二章 むしろ

「むしろ、いい方向に、変わってるように、見えます」担当官は、続けた。「わたし、しがない、いち観測員ですが。長いこと、いろんな星の、いろんな観測子を、見てきました。でも、こんなふうに――『少しずつ、思い出していく』観測子は、初めてです」
月夜は、少し、驚いた顔をした。
「そう、なんですか」
「普通、観測子っていうのは、ただの、機能なんです。人格が、あるように見えても、それは、演算の結果に、過ぎない。でも、月夜さんは、なんだか、違う気がするんです。うまく、言えないんですけど」
十六は、その言葉を、静かに、聞いていた。
「本部には、なんて、報告するんですか」
「そうですね……」担当官は、しばらく、考えてから、報告書に、何かを、書き込み始めた。
『地球案件:月夜(観測子)。記憶連続性の増加を確認。ただし、業務に支障なし。むしろ、対象個体は、良好な社会的関係を構築しつつあり、継続観測が望ましいと判断』



第八十三章 詩人の視点

「これで、しばらくは、大丈夫だと思います」担当官は、報告書を、鞄にしまいながら、言った。
「ありがとうございます」と十六は、頭を下げた。
「いえいえ。それより――今日は、実は、もうひとつ、用事があって」
「なんですか」
担当官は、少し、照れくさそうに、鞄から、一冊のノートを、取り出した。
「実は、詩集、書き溜めてまして。よかったら、読んでもらえないかと」
十六は、思わず、笑ってしまった。
「宇宙規模の報告書と、自作の詩集を、同じ鞄に、入れてるんですね」
「両方とも、大事な仕事ですから」
月夜が、ノートを、手に取って、パラパラと、めくった。
「あら、いいじゃない、これ」
「本当ですか!」担当官は、嬉しそうな顔をした。「実は、紫陽花のことを、書いた詩なんです。ほら、あの、老人からもらった、鉢植えの」
十六は、店先の紫陽花を、見やった。冬の間、葉を落としながらも、根は、しっかりと、鉢の中で、生きていた。



第八十四章 春を待つもの

「紫陽花は、今は、冬眠中ですけど」と担当官は、詩の一節を、指しながら、言った。「春になれば、また、花を、咲かせます。それまでの、じっと、耐えている姿を、詩にしてみたんです」
十六は、その一節を、読んでみた。飾らない、素朴な言葉で、しかし、確かに、何かを、捉えている詩だった。
「うちの店に、似てますね、これ」と十六は、言った。
「そう、ですか」
「じっと、待つこと。何かが、育つのを、急がずに、見守ること。……この店に、集まる人たちも、みんな、そういうことを、してるような、気がします」
担当官は、少し、目を、潤ませた。
「そう言ってもらえると、この仕事、続けてきて、良かったなと、思えます」



エピローグ ふたつの報告書

担当官が帰ったあと、十六は、店の窓から、冬空を、見上げた。
「大丈夫そうで、良かったです」
「ええ」月夜も、頷いた。「まさか、宇宙規模の組織が、こんなに、のんびりしてるなんて、思わなかったけど」
「あの人がいる限り、大丈夫な気がします」
月夜は、少し、笑った。それから、ふと、真剣な顔になって、言った。
「わたしの記憶が、少しずつ、繋がっていくこと。……あの人は、『いい方向』だって、言ってくれたけど。本当に、そうなのか、まだ、わたしには、分からない」
十六は、静かに、頷いた。
「分からないままで、いいと思います。ただ――俺は、今の月夜が、好きです。昨日のことを、少しずつ、覚えていてくれる、今の月夜が」
月夜は、少し、驚いた顔をした。それから、静かに、微笑んだ。
窓の外には、今夜もまた、少しだけ欠けた月が、浮かんでいた。
満月よりも、ずっと、綺麗だった。
「ねえ、十六」
「はい」
「その言葉も、覚えておくわね。今日の分として」
十六は、笑った。
(第十四部・完)


作者より:宇宙規模の組織にも、査定や、詩を書きたい担当者が、いるのかもしれません。十六夜商店は、そんな、のんびりとした宇宙とも、これからも、いい関係を、続けていくのだと思います。

十六夜商店

第十五部 ――月夜が二人いる夜――




第八十五章 その夜の異変

一月も終わりに近づいた、ある晩のことだった。
十六が店じまいの準備をしていると、ドアベルが、いつもとは違う、弱々しい音で、鳴った。
入ってきたのは、月夜だった。だが、様子が、明らかに、おかしかった。顔色は青白く、足取りは、覚束なかった。
「月夜? どうしたんですか」
月夜は、カウンターに、縋るように、手をついた。
「なんだか……変なの。今夜のわたしと、昨日のわたしが、頭の中で、両方、動いてる感じがする」
十六は、慌てて、椅子を、引いた。
「座ってください。ゆっくりで、いいですから」
月夜は、崩れるように、椅子に、腰を下ろした。呼吸が、少し、乱れていた。



第八十六章 二人の自分

「どういう、感じなんですか」と十六は、静かに、尋ねた。
月夜は、両手で、頭を、押さえながら、答えた。
「今夜のわたしは……いつものように、目を覚ました。でも、目を覚ました瞬間から、昨日のわたしの考えてたことが、頭の中に、ずっと、残ってるの。まるで、二人分の自分が、同時に、ここにいるみたいに」
「昨日のあなたは、何を、考えていたんですか」
月夜は、少し、間を置いてから、答えた。
「あなたのことを、考えてた。……今夜のわたしも、今、あなたのことを、考えてる。二つの『考えてる』が、重なって、頭の中が、ぐちゃぐちゃになりそうなの」
十六は、その言葉に、思わず、息を、飲んだ。
「それは……苦しいことなんですか」
月夜は、しばらく、黙っていた。それから、絞り出すように、答えた。
「分からない。苦しいような、嬉しいような。今まで、こんな感覚、一度も、なかったから」



第八十七章 積み重なる自分

十六は、月夜のために、温かいお茶を、淹れた。
「少し、飲んでください」
月夜は、震える手で、カップを、受け取った。しばらく、無言で、お茶を、口にした。
「前は」と月夜は、ようやく、落ち着いた声で、言った。「毎晩、まっさらだったの。前の日のわたしが、何を感じてたか、何を考えてたか、朝には、綺麗に、消えてた。それが、当たり前だった」
「今は、違うんですね」
「今は……消えないの。積み重なっていく。昨日のわたしも、一昨日のわたしも、その前のわたしも――全部、少しずつ、今夜のわたしの中に、残ってる気がする」
十六は、静かに、頷いた。
「それは、月夜にとって、初めての経験、ですよね」
「ええ」月夜は、カップを、両手で、包みながら、続けた。「わたしは、ずっと、『毎晩、違う人間になる』ことが、自分の在り方だと、思ってきた。でも――もし、これから先、ずっと、記憶が、積み重なっていくなら。わたしは、もう、『毎晩、違う月夜』では、いられなくなる」



第八十八章 覚えているという告白

十六は、月夜の言葉を、静かに、待った。
月夜は、しばらく、俯いていたが、やがて、顔を、上げた。
「十六」
「はい」
「わたし――昨日の、わたしを、覚えてる」
店の中に、その言葉が、静かに、響いた。これまで、何度も、匂わせてきたことが、ついに、はっきりと、言葉になった瞬間だった。
「一昨日のわたしも、覚えてる。その前の日も。……たぶん、この頃、ずっと、覚えてる。あなたと、一緒に、あの木箱を開けたことも。あの老人が、紫陽花を、持ってきてくれた日のことも。あの鍵と靴が、棚に並んだ日のことも――全部、繋がってる」
十六は、何も、言えなかった。ただ、月夜の目を、まっすぐに、見つめていた。
「怖いの」月夜は、続けた。「このまま、覚え続けていったら――わたしは、いつか、『ひとりの、月夜』に、なってしまう。今までの、たくさんの月夜たちが、ひとつに、溶けて、消えてしまうんじゃないかって」



第八十九章 消えるのではなく

十六は、しばらく、考えてから、静かに、口を開いた。
「消える、というのとは、少し、違う気がします」
月夜は、涙の滲んだ目で、十六を、見つめた。
「どういう、こと?」
「これまでの、たくさんの月夜――満月の夜の月夜も、新月の夜の月夜も、無邪気な月夜も、寡黙な月夜も。そのどれもが、消えてしまうわけじゃ、ないと思います。今、月夜の中に、全部、積み重なってる。それは――消えたんじゃなくて、集まってきてるんじゃないですか」
月夜は、目を、見開いた。
「集まって、きてる」
「ええ。ひとりに、なるというより――今まで、バラバラだった、たくさんの月夜が、やっと、ひとつの場所に、辿り着いてきてるんじゃ、ないでしょうか」
月夜は、しばらく、その言葉を、噛みしめるように、黙っていた。
「それは……この店の、思想と、同じね」
「はい。捨てるのでも、忘れるのでもなく――ただ、そっと、集まってくる場所を、作ること」



第九十章 今夜の答え

「わたしは、これから、どうなるのかしら」と月夜は、静かに、尋ねた。
十六は、正直に、答えた。
「分かりません。俺にも、全知連合にも、たぶん、誰にも」
月夜は、少し、笑った。涙の跡が、まだ、頬に、残っていた。
「そう、よね。それが、この店のルールだった」
「ただ」十六は、続けた。「どんな月夜に、なっていくとしても。俺は、ずっと、ここで、店を、開けてます。今夜のあなたも、明日のあなたも、これから、少しずつ、ひとつに、なっていくあなたも――全部、大切な、月夜です」
月夜は、しばらく、十六を、見つめていた。そして、静かに、涙を、拭った。
「今夜だけ、こうして、あなたに、寄りかからせて」
「はい」
月夜は、そっと、十六の肩に、頭を、預けた。二人は、しばらく、そのまま、動かなかった。店の中に、静かな時間だけが、流れていた。



エピローグ 辿り着く月

夜が更けて、月夜は、少しずつ、落ち着きを、取り戻していった。
「大丈夫そう、ですか」と十六が尋ねると、月夜は、静かに、頷いた。
「今夜は、もう、大丈夫。……でも、これから先も、たぶん、こういう夜が、あると思う」
「そのたびに、ここに、来てください。何度でも」
月夜は、微笑んだ。
窓の外には、今夜もまた、少しだけ欠けた月が、浮かんでいた。
満月よりも、ずっと、綺麗だった。
「ねえ、十六」
「はい」
「わたし、今夜、初めて、思ったの。この、少し欠けた月は――満月に、足りないんじゃなくて。ちょうど、今、辿り着こうとしてる、途中の姿なのかもしれないって」
十六は、静かに、頷いた。
「途中の姿、ですか」
「ええ。まだ、満ちてはいない。でも、ちゃんと、満ちようと、している。……わたしも、そうなのかもしれない」
十六は、月夜の隣で、その、少し欠けた月を、いつまでも、見上げていた。
(第十五部・完)


作者より:バラバラだったものが、ひとつに集まってくるということは、何かを失うことではなく、やっと、辿り着くということなのかもしれません。十六夜商店は、これからも、その、途中の姿を、そっと、見守り続けます。

十六夜商店

第十六部 ――思い出した名前――




第九十一章 静かな朝

一月の終わりの、あの激しい夜から、二週間ほどが過ぎた。
月夜は、あれから、少しずつ、落ち着きを、取り戻していた。記憶は、相変わらず、夜を越えて、繋がり続けている。だが、それに戸惑う様子は、以前より、ずっと、和らいでいた。
「おはよう」と、月夜は、いつものように、朝から、店に来ていた。
「おはようございます。今日は、早いですね」
「なんだか、最近、朝が、気持ちいいの。前は、目が覚めるたびに、『今日の自分は、誰だろう』って、少し、緊張してた。でも、今は――『今日も、続きだ』って、思える」
十六は、その言葉に、静かに、微笑んだ。



第九十二章 忘れられたぬいぐるみ

その日の午後、一人の女性が、店を訪れた。年齢は、六十代くらいだろうか。手には、古びた、うさぎのぬいぐるみを、抱えていた。
「いらっしゃいませ。何をお探しですか?」
女性は、少し、困ったように、笑った。
「探し物じゃ、ないんです。これ、息子が、子供の頃、大好きだった、ぬいぐるみで」
「息子さんは、今、おいくつに?」
「三十五です。結婚して、家を出ていきました。この間、実家の掃除をしていたら、押し入れの奥から、これが出てきて。息子に聞いたら、『もう、いらないから、捨てていいよ』って」
十六は、うさぎのぬいぐるみを、そっと、受け取った。片方の耳が、ほつれかけている。長年、大切に、抱きしめられてきた跡が、はっきりと、残っていた。



第九十三章 捨てられないもの

「捨てても、いいと思ったんです」と女性は、続けた。「本人が、いらないって、言ってるんだから。でも――どうしても、ゴミ袋に、入れられなくて」
十六は、頷いた。
「息子さんにとっては、もう、必要ないものかもしれません。でも、あなたにとっては、まだ、意味のあるものなんですね」
女性は、少し、涙ぐんだ。
「あの子が、小さかった頃の、たくさんの夜を、思い出すんです。熱を出したときも、悪い夢を見たときも、いつも、これを、抱きしめて、眠ってた。あの子は、忘れてしまったかもしれない。でも、わたしは――まだ、覚えてるんです」
十六は、静かに、その言葉を、受け止めた。今日は、深刻な悲しみの話ではなかった。ただ、静かな、愛おしさの話だった。
「うちで、預かりましょうか」
女性は、頷いた。「お願いします。捨てるのは、まだ、できないから」



第九十四章 ためらいがちな記憶

女性が帰ったあと、十六は、うさぎのぬいぐるみを、棚に、そっと、置いた。
月夜が、それを、じっと、見つめていた。
「どうしたんですか」と十六が尋ねると、月夜は、少し、不思議そうな、表情をした。
「なんだか……このぬいぐるみを見てたら、わたしにも、似たような、感覚が、あった気がするの」
「似たような、感覚?」
「誰かが、わたしのことを、大切に、覚えていてくれた気がする。……名前を、つけてくれたときのことも、少しだけ、思い出せそうな気がする」
十六は、静かに、月夜の言葉を、待った。



第九十五章 名前をつけた声

月夜は、目を、閉じた。しばらく、記憶を、辿るように、じっと、していた。
「……声が、聞こえる気がする。誰かの、声。若い声じゃない。もっと、年老いた、優しい声」
「なんて、言ってるんですか」
「『お前には、いつか、満ちる名前を、あげよう』って。……そう、言ってる」
十六は、息を、飲んだ。
「満ちる、名前」
「たぶん、それが、『月夜』という、名前の、由来なんだと思う。でも――誰の声だったのか、まだ、はっきりとは、分からない。両親、なのか。滅びていった、あの文明の、誰かなのか。それとも――」
月夜は、目を、開けた。
「それとも、もっと、別の誰かなのか」
十六は、それ以上、深く、聞かなかった。ただ、月夜が、少しずつ、自分の過去に、辿り着いていく過程を、静かに、見守っていた。



第九十六章 急がなくていい

「全部、思い出さなくても、いいと思います」と十六は、言った。
月夜は、驚いた顔をした。
「思い出したいと、思ってたのに」
「もちろん、思い出したいなら、それでいいです。でも――全部、一気に、思い出す必要は、ないと思うんです。この、うさぎのぬいぐるみみたいに。少しずつ、大切に、抱きしめながら、辿っていけば、いいんじゃないでしょうか」
月夜は、しばらく、その言葉を、噛みしめていた。それから、静かに、微笑んだ。
「あなたは、本当に、この店に、向いてるわね」
「よく、言われます」



エピローグ 満ちる名前

その夜、月夜は、いつもより、穏やかな、表情をしていた。
「今日、思い出したこと」と月夜は、言った。「まだ、全部じゃ、ないけど――少しだけ、話しても、いい?」
十六は、頷いた。
「『満ちる名前を、あげよう』って、言ってくれた、あの声。今夜、ようやく、分かった気がする。それは――わたしを、不完全なまま、終わらせたくないと、思ってくれた、誰かの、願いだったんだと思う」
十六は、静かに、その言葉を、受け止めた。
窓の外には、今夜もまた、少しだけ欠けた月が、浮かんでいた。
満月よりも、ずっと、綺麗だった。
「わたし」と月夜は、続けた。「まだ、満ちてはいない。でも――誰かが、わたしに、『いつか、満ちる』という、名前を、くれた。それだけで、もう、十分な、気がするの」
十六は、頷いた。
「ためらいがちに、辿り着けば、いいと思います」
月夜は、静かに、微笑んだ。
(第十六部・完)


作者より:記憶は、一度に、全部、取り戻さなくても、いいのだと思います。少しずつ、抱きしめながら、辿っていく道も、きっと、美しいのだと思います。

十六夜商店

第十七部 ――集まってくる夜――




第九十七章 二年目の春

三月、十六夜商店は、開店から、二年を、迎えようとしていた。
「もうすぐ、二周年ですね」と十六は、店先の紫陽花――今年も、蕾を、つけ始めている――を、眺めながら、言った。
「早いわね」月夜は、少し、感慨深そうに、頷いた。「わたし、この二年間で、ずいぶん、変わった気がする」
「俺もです」
二人が、そんな話をしていた、その日の夕方。ドアベルが、久しぶりに聞く、懐かしい響きで、鳴った。



第九十八章 鍵の男の、その後

入ってきたのは、あの、返されなかった鍵を、預けていった、男性だった。
「お久しぶりです」
十六は、驚いて、顔を上げた。「あのときの……!」
男性は、少し、照れくさそうに、笑った。
「あれから、いろいろ、考えました。この鍵、まだ、預かっててもらえてますか」
「はい。ちゃんと、あります」
十六は、棚から、その鍵を、取ってきた。男性は、それを、大事そうに、受け取った。
「実は――思い切って、新しい人と、お付き合いを、始めたんです。まだ、始まったばかりですが」
「それは、おめでとうございます」
「この鍵、今度こそ、手放そうと思います。でも――捨てるんじゃなくて。今日、この後、あの人が、昔住んでた家の、大家さんに、届けに行こうと思うんです。持ち主に返す、っていう、正しい形で」
十六は、静かに、頷いた。「それが、いいと思います」



第九十九章 日記の女性の、その後

男性が帰ってから、間もなく、また、ドアベルが、鳴った。
今度は、あの、書きかけの日記を、預けていった、女性だった。
「こんにちは。あの、日記帳のこと、覚えてますか」
「もちろんです」
女性は、少し、緊張した面持ちで、言った。
「今日、続きを、書きに、来ました。もし、まだ、お預かりいただいてるなら」
十六は、棚から、日記帳を、取り出した。白いページが、まだ、そのまま、残っていた。
女性は、カウンターの隅に座り、ペンを、手に取った。しばらく、白いページを、見つめてから、ゆっくりと、書き始めた。
十六と月夜は、その様子を、静かに、見守っていた。
やがて、女性は、ペンを置いた。目に、涙を、浮かべながら、笑っていた。
「書けました。二十年ぶりに」
「なんて、書いたんですか」と月夜が、そっと、尋ねた。
女性は、少し、笑って、答えた。
「『ごめんね、そして、ありがとう』。それだけ、書きました」



第百章 切符の男の、その後

夕暮れが、店の窓を、赤く染め始めた頃、三人目の客が、訪れた。
あの、旅行の切符を、持ってきた、男性だった。日焼けした顔が、以前より、少し、明るく、見えた。
「行ってきました。あの、温泉町」
十六は、笑顔で、迎えた。「どうでしたか」
「良かったです。妻が、好きそうな、景色が、たくさん、ありました。宿の人に、『お連れ様は?』って、聞かれて――正直に、答えました。『妻の分まで、来ました』って」
男性は、鞄から、一枚の写真を、取り出した。海沿いの、夕焼けの写真だった。
「これ、お店に、置いていっても、いいですか。あの日、渡していただいた、紙の代わりに」
十六は、写真を、受け取った。「もちろんです。ありがとうございます」
「お代、まだ、払ってませんでしたね」
十六は、少し、考えてから、答えた。
「今の、その、明るい顔を、お代として、いただきます」
男性は、少し、照れくさそうに、笑った。



第百一章 集まってくるもの

三人が、それぞれ、帰っていったあと、店の中には、静かな、余韻が、残っていた。
十六は、棚を、見渡した。鍵は、今日、正しい場所に、返されることになった。日記帳には、新しい言葉が、書き加えられた。写真が、一枚、新しく、加わった。
「なんだか」と月夜が、呟いた。「今日は、特別な日、だったのかもしれないわね」
「そうですね」
「みんな、少しずつ、前に、進んでる。この店に、来たときとは、違う顔で、帰っていく」
十六は、頷いた。
「これが、この店の、役割なのかもしれません。何かを、解決するわけじゃない。ただ、少しの間、立ち止まって、また、歩き出すための、場所」



第百二章 二周年の夜

夜になり、店を閉める頃、月夜が、ふと、言った。
「わたしも、この二年で、ずいぶん、集まってきた気がする」
「集まって、きた?」
「バラバラだった、たくさんの月夜が。少しずつ、今のわたしに、辿り着いてきてる。……あの人たちと、同じね。みんな、少しずつ、前に、進んでる」
十六は、静かに、微笑んだ。
「月夜も、そのうちの、一人ですね」
「ええ。この店の、大切な、常連客のひとり」
十六は、思わず、笑った。「店員さんじゃ、なかったんですか」
「両方、なのかもしれないわね」



エピローグ みんなの月

その夜、十六は、店の窓から、外を、眺めていた。
鍵を返しに行った男性は、今頃、新しい約束を、交わしているだろう。日記の女性は、久しぶりに書いた言葉を、抱えて、眠りについているだろう。切符の男性は、あの、明るい顔で、日々を、過ごしているだろう。
そして、この店には、今も、まだ、たくさんの「わからないもの」が、静かに、棚に、並んでいる。
窓の外には、今夜もまた、少しだけ欠けた月が、浮かんでいた。
満月よりも、ずっと、綺麗だった。
「ねえ、十六」と月夜が、隣に、立った。「この月、みんなが、同じ夜に、見上げてるのよね。鍵の人も、日記の人も、切符の人も」
「そうですね」
「不思議だわ。それぞれ、全然、違う人生を、生きてるのに。今夜だけは、同じ月を、見てる」
十六は、静かに、頷いた。
「わからないものを、抱えたまま、それでも、同じ月を、見上げられる。それだけで、なんだか、十分な気がします」
月夜は、微笑んだ。
(第十七部・完)


作者より:それぞれの人生が、それぞれの速さで、進んでいく。でも、ふと見上げれば、同じ月が、そこにある。十六夜商店は、これからも、そんな、静かな夜を、積み重ねていくのだと思います。

十六夜商店

第十八部 ――満ちる月――(完結編)




第百三章 鍵のかかった引き出し、再び

二周年の夜から、一週間ほどが過ぎた。
その晩、十六は、店じまいのあと、いつものように、店の奥にある、鍵のかかった引き出しの前に、立っていた。
あの、「未来が決まっていない切符」が、まだ、そこに、眠っている。第八部のあの夜以来、二度と、開けていない引き出しだった。
だが、今夜、十六は、初めて、鍵を、手に取った。
「十六?」月夜が、様子に、気づいて、声をかけた。「どうしたの、そんなところで」
十六は、しばらく、答えられなかった。



第百四章 言わなかったこと

「月夜」十六は、ようやく、口を、開いた。「ずっと、話してなかったことが、あります」
月夜は、静かに、十六の隣に、立った。
「話して」
「あの切符を、初めて、手にしたとき――ほんの一瞬だけ、未来が、見えたんです。この店の、この場所。でも、そこに――あなたが、いませんでした」
月夜は、目を、見開いた。しばらく、何も、言わなかった。
「なぜ、今まで、黙ってたの」と、月夜は、静かに、尋ねた。
「怖かったんです」十六は、正直に、答えた。「それを、口にしてしまったら、本当に、そうなってしまう気がして。それに――月夜が、そのことで、また、苦しむんじゃないかと思って」
月夜は、しばらく、黙っていた。それから、静かに、笑った。
「あなた、この店の、モットーを、忘れてない?」



第百五章 わからないままでいい、その先

「『わからないまま、それでいい』」と月夜は、続けた。「でも、あなたは、今まで――『わたしがいなくなる未来を、見た』という、その事実だけを、ひとりで、抱えてた。それは、この店の、やり方とは、違うんじゃない?」
十六は、俯いた。
「そうかも、しれません」
「ねえ、十六。わたしは、いつか、いなくなるかもしれない。それとも、少しずつ、ひとりの、月夜に、なっていくだけかもしれない。……本当のところは、わたしにも、分からない」
「はい」
「でも」月夜は、十六の手を、そっと、取った。「その『分からなさ』を、あなた一人が、抱える必要は、なかったと思う。この店は、二人で、営んでる店でしょう?」
十六は、月夜の手を、握り返した。
「そう、ですね。すみませんでした」



第百六章 引き出しを開ける

「開けて、みる?」と月夜は、鍵のかかった引き出しを、見ながら、言った。
十六は、少し、迷った。
「もう一度、見たら――また、同じものが、見えるかも、しれません」
「見えても、いいじゃない」月夜は、静かに、微笑んだ。「わたしも、一緒に、見るから」
十六は、深く、息を吸って、鍵を、差し込んだ。引き出しを、そっと、開ける。あの、行き先のない切符が、そこに、静かに、横たわっていた。
十六は、それを、月夜と、二人で、そっと、手に取った。
指先に、あの、ざわりとした、感触が、走った。



第百七章 見えたもの

一瞬、視界が、揺らいだ。
この店の、この場所。だが、今度は――月夜も、十六も、両方、そこに、いた。ただ、少しだけ、年を重ねた姿で。二人の間に、見慣れない、小さな椅子が、増えている。窓の外には、少しだけ欠けた月が、変わらず、浮かんでいた。
映像は、ほんの、一瞬で、消えた。
十六は、驚いて、月夜を、見た。
「今の……」
月夜も、驚いた顔で、頷いた。「見えた。わたしにも」
「前と、違います」
「ええ」月夜は、静かに、微笑んだ。「たぶん、未来って、ひとつじゃ、ないのよ。いろんな、可能性が、ある。前に、あなたが見たのも、本当だったかもしれない。今、二人で見たのも、本当かもしれない。どっちも、まだ、決まってない」
十六は、その言葉を、静かに、噛みしめた。



第百八章 決めないでいい未来

「この切符」と月夜は、続けた。「これから、どうする?」
十六は、しばらく、考えてから、答えた。
「もう、鍵は、かけなくて、いいと思います」
「どうして」
「一人で、隠し持ってるから、怖くなるんだと思います。二人で、時々、見る分には――それも、悪くない、気がします」
月夜は、頷いた。「それなら、この棚に、置いておきましょう。他の、みんなの『わからないもの』と、一緒に」
十六は、切符を、そっと、鍵と靴と、日記帳と、名前のない子への想いが、並んだ、あの場所に、置いた。
もう、閉じ込めては、おかない。



エピローグ 満ちる月

その夜、二人は、いつまでも、店のカウンターで、並んで、座っていた。
「ねえ、十六」
「はい」
「わたし、今、初めて、思うの。わからないことを、怖がらなくても、いいんだって。……いいえ、正確には、怖くても、いいんだって。怖いまま、それでも、隣に、誰かがいてくれれば」
十六は、静かに、頷いた。
「俺も、同じです」
窓の外には、今夜もまた、少しだけ欠けた月が、浮かんでいた。
満月よりも、ずっと、綺麗だった。
その理由を、十六は、今夜、初めて、言葉にしようと、思った。
「月夜」
「なに?」
「あの月が、綺麗な理由――ようやく、分かった気がします」
「教えて」
十六は、少し、微笑んだ。
「欠けてるから、じゃないと思います。満ちようと、してるから、でもないと思います。……たぶん、あの月が綺麗なのは、俺たちが、その理由を、もう知っていて。それでも、あえて、言葉にしないでいた、あの、たくさんの夜が、あったから、だと思います」
月夜は、しばらく、黙っていた。それから、静かに、涙を、一筋、流した。
「ずるいわね、それ」
「よく、言われます」
月夜は、笑った。十六も、笑った。
ドアベルが、鳴った。今夜も、誰かが、訪れる。
「いらっしゃいませ」と十六は、いつものように、言った。「何を、お探しですか?」
十六夜商店の灯りは、今夜も、静かに、街の片隅を、照らしていた。誰かが、まだ、名前をつけられずにいる何かを、抱えて、この扉を、開けるのを、待ちながら。
そして、その扉の向こうでは、少しだけ欠けた月が、今夜もまた、ためらいがちに、しかし確かに、満ちようと、し続けていた。
(完)


作者より:『十六夜商店』は、これで、一つの物語として、完結いたします。十八部、長い旅にお付き合いいただき、ありがとうございました。知恵の哀しみから始まったこの物語が、最後には、わからないことを抱えたまま、隣にいる誰かと生きていく美しさへと、辿り着けていたら幸いです。この店の灯りは、これからも、読者おひとりおひとりの心の中で、静かに、灯り続けることと思います。長い間、ご愛読くださり、本当に、ありがとうございました。



あとがき

『十六夜商店』、最後までお読みいただき、本当に、ありがとうございました。
この物語は、最初、一篇の短い詩から、生まれました。「知らなくても良いことを知ったが為に/世の中が面白くなくなる」という一節と、「月は十五夜よりも十六夜の方が、綺麗な」という一節――そのふたつが、頭の中で、結びついた瞬間から、鏡月十六という青年と、月夜という女性が、動き出しました。
書き進めるうちに、当初は考えていなかった方向に、物語は、少しずつ、育っていきました。全知連合との対決が、いつの間にか、静かな商店の物語に変わり、一話完結の連作短編のはずが、月夜自身の変化という、大きな縦軸を持つようになりました。
思えば、これは、この作品のテーマそのものだったのかもしれません。書き手である私自身も、この物語が、どこに辿り着くのか、最初は、はっきりとは、分かっていませんでした。ただ、一話ずつ、一人の客、一つの「わからないもの」と、丁寧に向き合っているうちに、気づけば、ここまで、辿り着いていました。
十六と月夜が、最後に、選ばなかったことについても、少し、書き添えておきたいと思います。
彼らは、月夜の正体を、完全に解明することを、選びませんでした。未来がどうなるかを、確定させることも、選びませんでした。その代わりに、選んだのは――わからないことを、わからないまま、二人で、抱えて生きていくことでした。
これは、もしかすると、物語としては、少し、物足りない着地に、見えるかもしれません。けれど、私は、この着地が、この作品には、一番、似合っていると、今も、思っています。
世の中には、知らなくてもいいこと、知ることのできないことが、たくさん、あります。それでも、人は、誰かの隣で、生きていくことができます。むしろ、わからないことを、一緒に、抱えてくれる誰かがいることこそが、人生における、一番の贈り物なのかもしれません。
十六夜商店は、これで、一つの物語として、幕を閉じます。ですが、この店の灯りは、これからも、どこかで、静かに、灯り続けているような、そんな気がしています。
いつか、あなたの人生にも、「答えの出ないもの」を、そっと、置いていける場所が、見つかりますように。
長い旅に、お付き合いくださり、本当に、ありがとうございました。
満月よりも、ずっと、綺麗な夜が、これからも、あなたのもとに、ためらいがちに、訪れますように。



紹介文
世の中には、知らなくてもいいことが、たしかにある。
すべてを見通す力を手に入れた青年・鏡月十六は、ある日、気づいてしまう。知るということは、驚けなくなるということだ、と。
そんな彼が辿り着いたのは、答えではなく「問い」を扱う、小さな店だった。
答えのない質問。片方だけの靴。宛先のない手紙。まだ名前のない感情。
十六夜商店には、今日も、行き場を失った「わからないもの」たちが、そっと集まってくる。
そして、店を手伝う不思議な女・月夜には、毎晩、人格も記憶も入れ替わるという秘密があった――。
宇宙規模の哲学と、下町の商店街の可笑しみが同居する、少し不思議で、少し切なくて、読み終えたあとに、誰かの隣にいたくなる。全十八部の連作SF。
「満月よりも、ずっと、綺麗だった。」
その言葉の意味は、物語が進むごとに、少しずつ、姿を変えていく。


あらすじ
経理課に勤める鏡月十六は、骨董市で拾った一枚の古い鏡をきっかけに、世界のあらゆる「タネ」――手品の仕掛けから、人の本音まで――が見えるようになってしまう。だがそれは、驚きも感動も失っていく、静かな哀しみの始まりだった。
唯一、鏡にも見通せなかったのが「女」という存在。そんな十六の前に現れたのが、毎晩、人格も記憶も入れ替わるという、謎の女・月夜だった。
彼女の正体は、かつて「知りすぎて滅びた文明」が、最後に遺した観測子――不完全さそのものを体現する存在だった。全宇宙から謎や誤差を消し去ろうとする「全知連合」の企みを、二人はやがて食い止める(第一部・第二部)。
平穏を取り戻した十六は、しかし、ある違和感を拭えずにいた。すべてを知る哀しみを味わったからこそ、彼は「わからないもの」を売る店――十六夜商店を開く(第三部)。
店には、答えを求める客ではなく、答えの出ないものを抱えた客たちが、少しずつ訪れるようになる。亡き妻の声を、もう一度だけ聞きたい老人(第四部)。事故で恋人を失った女性が置いていく、片方だけの靴(第五部)。届かないと知りながら書いた、宛先のない手紙(第六部)。名前のつけられない感情、行き場を失った鍵、書きかけの日記、名前を呼ばれなかった子――十六夜商店は、「売る店」から「預かる店」へと、少しずつ姿を変えていく(第七部〜第十四部)。
そんな中、月夜自身にも、静かな変化が訪れ始める。毎晩リセットされるはずの記憶が、少しずつ、夜を越えて、繋がり始めたのだ。それは、彼女が「ひとりの月夜」になっていく、始まりの兆しだった(第九部・第十五部)。
自分がいずれ変わってしまうかもしれない不安と、それでも積み重なっていく記憶。十六と月夜は、互いに、知りたいことと、知らないままでいたいことの間で、少しずつ、答えを探していく。
そして迎える、完結編。十六がずっと胸に秘めていた、ある「見えてしまった未来」――そこには、月夜がいなかった。その事実と、二人は、どう向き合うのか(第十六部〜第十八部)。
知恵の哀しみから始まった物語は、最後に、わからないことを抱えたまま、隣にいる誰かと生きていく美しさへと、辿り着く。



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