十六夜商店


―― 知恵の哀しみ、あるいは全知計画顛末記 ――




第七部 ――まだ名前のない感情――




第三十八章 空の箱

年が明けて、最初の客は、いつになく若い女性だった。
大学生だろうか。ダウンジャケットの前をしっかり閉じて、緊張した面持ちで店に入ってくる。手には、小さな、木製の箱を持っていた。
「あの……変なことを言うようですが」
「はい」
「これ、多分、わたしのものじゃないと思うんです」
十六は、箱を受け取った。手のひらに収まるくらいの、古びた木箱だった。蓋を開けると、中には――何も、入っていなかった。
「拾われたんですか?」
「いえ。気がついたら、部屋の引き出しに、入ってたんです。いつからあったのか、思い出せなくて。捨てようとしても、なぜか、手が止まってしまって」
月夜が、カウンターの奥から、じっとその箱を見つめていた。今夜の彼女は、いつになく、静かだった。
「それで、うちに?」
「はい。この店なら、こういうものを、預かってもらえるって聞いて」
十六は、箱を軽く振ってみた。何も、音はしなかった。
「分かりました。お預かりします」



第三十九章 鳴る箱

その晩、閉店の作業をしていると、店の奥から、かすかな音が聞こえた。
十六は、耳を澄ませた。
――りん、と。まるで、小さな鈴を、遠くで鳴らしたような、微かな音だった。
音は、その木箱から、聞こえていた。
十六は箱を手に取り、蓋を開けた。やはり、中には何も入っていない。だが、閉じるとまた、りん、と鳴る。
「月夜、これ」
月夜は、しばらく箱を見つめてから、静かに言った。
「たぶん、誰かの『名前のつけられなかった気持ち』が、入ってるんじゃないかしら」
「気持ちが、箱に入るものなんですか」
「入るときも、あるのよ。誰かが、ある感情を、あまりにも長い間、言葉にできずにいると――それは行き場をなくして、こういう、目に見えないものに、姿を変えることがある」
十六は、箱をそっとカウンターに置いた。りん、と、また鳴った。
「これ、あの女性のものじゃ、ないんですか」
「違うと思う。彼女は、たまたま、この箱を『預かっていた』だけ。中身が生まれたのは、もっと、ずっと前のことのはずよ」



第四十章 棚の奥で

数日間、箱は、店の奥の棚に置かれたままだった。
不思議なことに、箱が鳴るのは、決まって、客がある特定の商品――「答えのない質問」の瓶や、「片方だけの靴」があった場所の近くを通ったときだった。
十六は、あるとき気づいた。箱が鳴るのは、誰かが「昔、伝えられなかった何か」の話をしたときに、限られていた。
老人が、亡き妻の話をしたとき。若い女性が、亡くなった恋人の靴を置いていったとき。手紙の老人が、五十年前の恋を語ったとき。
そのたびに、箱は、遠くで、微かに、鳴っていたのかもしれない。ただ、十六がそれに気づかなかっただけで。
「これ」と十六は、ある晩、月夜に尋ねた。「もしかして、うちの店に置いてあるものすべてに、共鳴してるんじゃ、ないですか」
月夜は、少し驚いたような顔をした。
「よく、気づいたわね」
「じゃあ、この箱の持ち主は――」
月夜は、それには、答えなかった。ただ、じっと、箱を見つめていた。



第四十一章 名前のない気持ち

その晩遅く、十六が帳簿をつけていると、月夜が、珍しく自分から、口を開いた。
「わたしね」
「はい」
「昔――といっても、『昔』が何年前かも、実はよく分からないんだけど。誰かのことを、ずっと考えていた時期が、あった気がするの」
十六は、帳簿から顔を上げた。
「気がする、というのは」
「はっきりとは、思い出せないの。わたしは毎晩、違う人間になるから。記憶も、感情も、その夜ごとに、上書きされていく。でも――時々、ふとした拍子に、誰かの輪郭みたいなものが、胸の奥に、残っている感じがすることがある」
十六は、箱を、月夜の方に、そっと押しやった。
「これ、月夜のものかもしれない、ってことですか」
月夜は、箱を、しばらく見つめていた。りん、と、また、小さく鳴った。
「分からない。でも――もし、これが、昔のわたしが、どこかに置いていったものだとしたら」
「だとしたら?」
月夜は、少し笑った。今夜の彼女にとって、それは、どこか寂しさの混じった笑い方だった。
「それも、それで、いいんじゃないかしら。誰かに向けた気持ちが、名前もつけられないまま、ずっと、この店の隅で、鳴り続けているというのも」



第四十二章 箱を開けたままにする

十六は、しばらく考えてから、提案した。
「この箱、閉まっているから、鳴るのかもしれません。開けたままにしておいたら、どうでしょう」
「意味、あるのかしら」
「分かりません。でも――閉じ込めておくより、開けておいた方がいい気がするんです、俺は」
月夜は、頷いた。
十六は、箱の蓋を、そっと開けたまま、店の一番目立つ場所――ショーウィンドウの脇、あの紫陽花の鉢植えの隣に、置くことにした。
その日から、箱は、鳴らなくなった。
かわりに、時々、風もないのに、蓋がわずかに揺れることがあった。まるで、何かが、そこから、出たり入ったりしているかのように。
「これで、良かったんでしょうか」と十六が尋ねると、月夜は、窓の外の月を見上げながら、答えた。
「さあ。それも、うちの、専門でしょう」
十六は、笑った。もう、聞き慣れた台詞だった。だが、今夜だけは、その言葉の中に、いつもより少しだけ、深い響きがあるように、聞こえた。



エピローグ 鳴らない箱

それから、箱は、二度と鳴ることはなかった。
だが、十六は、時々、店を閉めたあと、その空の箱を、じっと見つめることがあった。中には、相変わらず、何も入っていない。だが、そこに何かが、確かに「あった」ことだけは、疑いようがなかった。
名前のつけられなかった感情。誰に向けられたのかも分からない、古い気持ち。それは、消えたわけではなく、ただ、静かに、この店の一角に、居場所を見つけただけなのかもしれない。
十六は、月夜がその感情の持ち主なのかどうか、それきり、尋ねることはなかった。
尋ねないことも、この店では、大事な作法だった。
窓の外には、今夜もまた、少しだけ欠けた月が浮かんでいた。
満月よりも、ずっと、綺麗だった。
その隣で、蓋の開いた小さな箱が、静かに、月の光を受けていた。
(第七部・完)


作者より:名前のつけられない気持ちは、消えてしまうわけではないのだと思います。ただ、居場所を探して、どこかを彷徨っているだけなのかもしれません。十六夜商店は、そんな気持ちにも、そっと棚の隅を、空けておくのだと思います。

十六夜商店

第八部 ――未来のない切符――




第四十三章 少年

春先の、まだ肌寒い夕方だった。
ドアベルが鳴り、入ってきたのは、中学生くらいの少年だった。ランドセルではなく、学生鞄を肩から提げている。少し緊張した面持ちで、店の中を見回していた。
「いらっしゃいませ。何をお探しですか?」
少年は、ポケットから、一枚の切符を取り出した。古びた、硬券の切符だった。だが、よく見ると、そこには何も印字されていなかった。行き先の駅名も、日付も、金額さえも。
「これ、拾ったんです。公園のベンチに」
「拾い物、ですか」
「はい。でも、交番に届けようとしたら、なんだか、届けちゃいけない気がして。それで、この店のことを、思い出して」
十六は、切符を受け取った。手に取った瞬間、指先に、ざわりとした感触が走った。以前、鏡を初めて手にしたときの、あの感覚に、少しだけ似ていた。
月夜が、カウンターの奥から、じっとその切符を見つめていた。今夜の彼女は、めずらしく、緊張しているように見えた。
「これは……」
「知ってるものですか?」と十六が尋ねると、月夜は、小さく頷いた。
「『未来が決まっていない切符』。開店の頃から、うちの商品棚にあったはずのものよ」



第四十四章 行き先のない切符

十六は、記憶を辿った。たしかに、開店したばかりの頃、店の棚に、そんな商品があった。だが、いつの間にか、それは見当たらなくなっていた。売れた記憶も、なかった。
「これ、いつの間に、店から出ていったんでしょう」
「分からない。うちの商品は、時々、そうやって、勝手に出ていくことがあるの。誰かに呼ばれるみたいに」
少年は、不安そうに、二人のやり取りを見ていた。
「あの、これ、危ないものなんですか」
十六は、首を振った。
「危なくは、ないと思います。ただ――少し、不思議な切符です。これを持っていると、まだ起きていない未来が、ほんの少しだけ、見えることがあるそうです」
「未来が、見えるんですか」
「はっきりと、ではありません。ただ、断片みたいなものが、時々、差し込んでくるらしいです」
少年は、しばらく考えてから、言った。
「じゃあ、これ、僕には必要ないです。将来のこと、まだ全然、決めてないから。見えちゃったら、逆に、怖いです」
十六は、少年の言葉に、少し驚いた。
「怖い、ですか」
「だって、先に見えちゃったら、それに向かって、頑張ればいいのか、逆らえばいいのか、分からなくなりそうで」
十六は、その言葉を、静かに、胸の中で反芻した。



第四十五章 預かりもの

「これ、お店で、預かってもらえますか」と少年は言った。「なんとなく、僕が持ってちゃいけない気がするんです」
「分かりました。お預かりします」
少年は、少しほっとした顔をして、店を出ていった。
十六は、切符を、カウンターの上に、そっと置いた。手を離した瞬間――
視界の端に、何かが、一瞬、差し込んだ。
それは、映像というよりも、感覚に近いものだった。この店の、この場所。だが、そこに、月夜の姿が、なかった。カウンターの向こうに立っているのは、十六一人だけだった。
十六は、思わず、切符から手を離した。
「どうしたの?」と月夜が、心配そうに、覗き込んだ。
十六は、しばらく、答えられなかった。
「……いえ。なんでも、ないです」



第四十六章 見えてしまったもの

その晩、十六は、なかなか寝付けなかった。
見えたのは、ほんの一瞬だった。だが、そこには、たしかに、月夜がいなかった。それが、いつのことなのか、なぜそうなったのか、十六には、まったく分からなかった。事故なのか、別れなのか、それとも、もっと別の何かなのか。
考えれば考えるほど、分からなかった。
そして、その「分からなさ」が、以前とは違う種類の重さを持って、十六の胸を押し潰しそうになった。
翌日、十六は、切符を、もう一度、手に取ってみようとした。だが、月夜が、それを、そっと制した。
「もう一度、見るつもり?」
「……気になって、しかたないんです」
月夜は、静かに、首を振った。
「やめておいた方がいい。あなたが見たのは、たぶん、『まだ起きていない、いくつもの未来のうちの、ひとつ』でしかないの。それを、確定した運命だと思い込むのは、危ないことよ」
「でも」
「でも、なに?」
十六は、言葉に詰まった。月夜がいなくなる未来を見てしまった、と、正直に言うべきかどうか、迷った。



第四十七章 言わないという選択

結局、十六は、その晩見たものを、月夜には、話さなかった。
理由は、自分でも、うまく説明できなかった。ただ、それを口にしてしまうと、何か、大切なものが、崩れてしまう気がしたのだ。
「切符は、どうする?」と月夜が尋ねた。
十六は、少し考えてから、答えた。
「このまま、店で、預かっておきます。誰にも、使わせない方が、いいと思います」
「未来を知りたい人が来たら?」
「その人には、正直に言います。『見えるかもしれないけど、それが本当に起きることかどうかは、誰にも分からない』って」
月夜は、少し、笑った。
「あなた、ずいぶん、店主らしくなったわね」
「そうですかね」
「最初は、自分の身に起きたことに、戸惑うばかりだったのに。今は、他人の『わからなさ』を、ちゃんと、扱えるようになってる」
十六は、切符を、店の一番奥、鍵のかかる引き出しの中に、そっとしまった。
「これは、売り物にはしません。ただ、うちで、預かっておきます」



第四十八章 尋ねなかったこと

その夜、店を閉めたあと、十六は、月夜に、ひとつだけ、尋ねた。
「月夜は、自分の未来のこと、知りたいと思いますか」
月夜は、少し考えてから、答えた。
「知りたいような、知りたくないような。――でも、たぶん、知らない方が、いいんでしょうね。わたしは、毎晩、違う自分になる。もし、未来のどこかで、わたしが『いなくなる』日があるとしても――それがいつなのか、知ってしまったら、たぶん、今夜のわたしは、今夜のわたしでいられなくなる」
十六の心臓が、ひやりとした。
「いなくなる、って」
月夜は、少し首をかしげた。
「たとえばの話よ。どうしたの、そんな顔して」
十六は、慌てて、首を振った。
「いえ。……なんでも、ないです」
月夜は、それ以上、深くは聞かなかった。ただ、少しだけ、いつもより長く、十六の顔を見つめていた。



エピローグ 鍵のかかった引き出し

その切符は、それから、二度と、引き出しから出されることはなかった。
十六は、時々、その引き出しの前に立ち、鍵を、じっと見つめることがあった。開けてしまえば、また、あの一瞬が、見えるかもしれない。だが、十六は、もう、それを、見ないことに決めていた。
見てしまった未来が、本当に起きることなのか。それとも、無数にある可能性のひとつに、過ぎないのか。それは、誰にも――全知連合にすら――分からないことだった。
そして、それでいい、と十六は思った。
分からないまま、今夜も、月夜と、この店に立てる。それだけで、十分だった。
ドアベルが鳴った。今夜も、誰かが訪れる。
「いらっしゃいませ。何をお探しですか?」
見上げた窓の外には、今夜もまた、少しだけ欠けた月が浮かんでいた。
満月よりも、ずっと、綺麗だった。
その美しさの理由に、今夜だけは、十六は、あえて、目を伏せた。知らないままでいることの方が、時には、優しさになる。そう、思ったから。
(第八部・完)


作者より:未来を知ることは、時に、今を損なうことがあります。十六夜商店は、これからも、見えてしまったものより、まだ見えていないものを、大切に扱う店であり続けるのだと思います。

十六夜商店

第九部 ――わたしを、預かってくれる?――




第四十九章 いつもと違う夜

夏の終わり、蝉の声が、少しずつ、鈴虫の声に変わり始めていた。
その晩、店を閉めたあと、月夜は、いつまでも、帰ろうとしなかった。カウンターに頬杖をついて、ぼんやりと、店の奥――鍵のかかった引き出しの方を、見つめていた。
「どうしたんです? 今夜は」と十六が尋ねると、月夜は、少し困ったような顔をした。
「今夜のわたし、ちょっと、変なの」
「変、というのは」
「いつもは、夜が変われば、性格も、記憶も、ちゃんと入れ替わる。でも今夜は――昨日のわたしのことも、一昨日のわたしのことも、なんだか、全部、覚えてる気がするの」
十六は、片付けの手を止めた。
「それは……」
「初めてのことよ。これまで、一度も、なかった」
店の中に、夜の静けさが、いつもより重く、降りてきた。



第五十章 積み重なっていくもの

「もしかして」と十六は、慎重に、言葉を選んだ。「この店に来るようになってから、少しずつ、何かが、変わってきてるんじゃ、ないですか」
月夜は、頷いた。
「わたしね、たぶん、この店で、いろんな人の『わからないもの』を見ているうちに――少しずつ、自分の中にも、何かが、積み重なっていってる気がするの。今までは、毎晩、まっさらになってた。でも、今は違う。昨日の記憶が、今夜のわたしの中に、ちゃんと、残ってる」
「それは、いいことなんじゃ、ないですか」
「分からないの。それが、いいことなのか。それとも――」
月夜は、言葉を、途中で止めた。
「それとも?」
「わたしという存在の、仕組みそのものが、壊れかけてる、ということなのかも、しれない」
十六の胸が、ざわりとした。第八部で見た、あの一瞬の光景――月夜のいない、この店の風景が、脳裏をよぎった。
「壊れる、って」
「分からない。本当に、分からないの。でも――もし、わたしが、いつか、『月夜』でいられなくなる日が来るとしたら」



第五十一章 わたし自身

月夜は、しばらく黙り込んでから、ゆっくりと、口を開いた。
「ねえ、十六」
「はい」
「わたしを、預かってくれる?」
十六は、一瞬、言葉の意味が、うまく飲み込めなかった。
「預かるって……何を、ですか」
「わたし自身を」
店の中の空気が、止まったように感じられた。
「それは……」十六は、慎重に言葉を選んだ。「どういう、意味ですか」
「分からない」月夜は、正直に答えた。「わたし自身にも、うまく説明できないの。ただ――このまま、いつか、わたしが『わたし』でなくなる日が来るとしたら。その前に、今の、この気持ちを、この夜を――どこかに、置いておきたい。この店の、他の商品と、同じように」
十六は、しばらく、答えられなかった。
「それは……商品じゃ、ないですよ、月夜は」
月夜は、少し笑った。今夜の彼女は、これまで見たどの月夜とも、違う表情をしていた。
「でも、この店は、分からないものを預かる店でしょう?」
十六は、その言葉に、何も、言い返せなかった。



第五十二章 困惑

「……そうでしたね」
十六は、ようやく、そう答えた。だが、頷くことは、できなかった。
「でも、月夜を、あの棚に置くわけには、いきません。あなたは、物じゃない」
「じゃあ、どうすればいいの」
十六は、必死に、考えた。これまで、この店で扱ってきた「わからないもの」――答えのない質問、片方だけの靴、宛先のない手紙、まだ名前のない感情。そのどれもが、誰かの人生の、行き場を失った欠片だった。
だが、月夜は、欠片ではなかった。
月夜は、今、ここに、生きて、目の前にいる。
「月夜」十六は、はっきりと、言った。「あなたを、商品にすることは、できません」
月夜の表情が、少し曇った。
「それじゃあ、わたしは、この不安を、どこに置けばいいの」
十六は、深く、息を吸った。
「置く場所は、必要ないと思います」



第五十三章 待つということ

「置く場所が、必要ない、って」と月夜は、戸惑った顔をした。
十六は、ゆっくりと、言葉を続けた。
「月夜が、いつか、『月夜』でなくなる日が、来るのかもしれません。それは、俺にも、分かりません。全知連合にも、たぶん、分からない。でも――」
十六は、少し、間を置いた。
「もし、そういう日が来たとしても。俺は、その日も、店を開けて、待ってます。今夜のあなたが、どんなあなたであっても。明日のあなたが、まったく違うあなたであっても。あるいは、あなたが、『わたしが誰なのか分からない』という顔で、このドアを開けたとしても――俺は、『いらっしゃいませ』って、言います」
月夜は、じっと、十六を見つめていた。
「それは……答えに、なってないんじゃない?」
「なってないと思います」十六は、少し笑った。「でも、この店、そういう店ですから」
月夜は、しばらく、黙っていた。そして、目に、うっすらと、涙を浮かべた。今夜の彼女にとって、それは、おそらく、初めて見せる涙だった。
「ずるいわね、それ」
「よく、言われます」



第五十四章 十六夜の約束

「じゃあ」月夜は、涙を拭いながら、言った。「わたしのこの不安は、どこにも、預けられないまま?」
十六は、首を振った。
「いえ。――俺が、預かります。商品としてじゃなく」
「どうやって」
「覚えておく、というのは、どうでしょう。今夜、あなたが、こうやって、不安を口にしたこと。それを、俺が、忘れずに、覚えておきます。もし、いつか、月夜が、今夜のことを忘れてしまっても――俺が、代わりに、覚えています」
月夜は、しばらく、十六を見つめていた。
「それは、この店のやり方じゃ、ないんじゃない? わたしたち、『わからないまま、それでいい』が、モットーだったはずよ」
「ええ。だから、俺は、月夜がなぜ不安になったのか、その理由までは、分からないままでいいと思ってます。全知連合にも、分からない。俺にも、分からない。でも――『月夜が、今夜、不安だった』という事実だけは、分かってます。それだけは、覚えておきます」
月夜は、長い沈黙のあと、小さく、頷いた。
「――分かった。それなら、いい」



エピローグ ためらいがちに昇る月

その夜、二人は、いつまでも、店のカウンターで、並んで座っていた。
窓の外には、少しだけ欠けた月が、いつもより、ゆっくりと、昇ってきていた。
「ねえ、十六」
「はい」
「昔、木工職人さんが、言ってたでしょう。十六夜の月は、満月よりも、出るのが遅れるって。ためらいがちに出るから、待たせるから――出てきたときに、ああ良かったと思うって」
「覚えてます」
月夜は、月を見上げながら、静かに、言った。
「わたしも、そうなのかもしれない。ためらいがちに、少しずつ、この店に、居場所を、見つけていってるのかも」
十六は、頷いた。
「だったら、俺は、ずっと待ってます。あなたが、ためらいがちにでも、ここに、辿り着くのを」
月夜は、何も、言わなかった。ただ、静かに、十六の隣で、少し欠けた月を、いつまでも、見上げていた。
満月よりも、ずっと、綺麗だった。
その理由は、今夜、初めて、はっきりとした形を持った気がした。
――待たせるものほど、辿り着いたときに、美しい。
(第九部・完)


作者より:ある人にとって、誰かを待つということは、答えを知ることよりも、ずっと、大きな贈り物になるのだと思います。十六夜商店は、これからも、そういう「待つこと」を、そっと、扱う店であり続けます。

十六夜商店

第十部 ――返されなかった鍵――




第五十五章 小さな違和感

秋が深まった、ある平日の昼下がりだった。
十六は、開店前の店内で、棚の埃を払っていた。月夜は、カウンターの向こうで、コーヒーを淹れている。今夜――ではなく、今日の月夜は、朝から店にいた。珍しいことだった。
「ねえ、十六」
「はい」
「この瓶、昨日もここに、ありましたよね」
月夜が指したのは、「答えのない質問」の瓶が並んでいた場所の隣、空いたままの一角だった。以前、そこには別の瓶があったが、先週、客に譲ってからは、空いたままになっていた。
十六は、手を止めた。
「ええ、そうですけど……よく、覚えてますね」
月夜は、一瞬、きょとんとした顔をした。
「そう、かしら。……なんとなく、そう思っただけ」
十六は、それ以上、深く聞かなかった。ただ、埃を払う手を、少しの間、止めていた。



第五十六章 鍵を持った男

その日の夕方、一人の男が、店に入ってきた。
三十代半ば、スーツ姿。仕事帰りらしく、少し疲れた顔をしている。手には、小さな鍵が一本、握られていた。
「いらっしゃいませ。何をお探しですか?」
男は、しばらく、言葉を選ぶように、黙っていた。
「探してる、というより……これを、どうすればいいか、分からなくて」
男は、鍵を、カウンターに置いた。ごく普通の、家の合鍵だった。ただ、持ち手の部分に、小さな、色褪せたリボンが結ばれている。
「これは?」
「元恋人の、家の鍵です。三年前に、別れました。渡すタイミングを、逃したまま、ずっと、持ってるんです」
「返しに行かなかったんですか」
「行こうとは、しました。何度も。でも、行くたびに、理由をつけて、やめてしまって」
十六は、鍵を、手に取った。ずっしりとした重みが、ただの金属以上のものを、含んでいるように感じられた。



第五十七章 返せない理由

「今も、その方は、同じ家に、住んでるんですか」と十六は尋ねた。
男は、首を振った。
「いえ。もう、引っ越してます。風の噂で、聞きました。だから、この鍵は、もう、どこの扉も開けられません」
「それなら――」
「捨てればいい、って、分かってるんです」男は、少し、自嘲するように笑った。「でも、できないんです。この鍵を捨てたら、本当に、何もかも、終わってしまう気がして」
十六は、月夜の方を見た。月夜は、静かに、男の話を聞いていた。
「返さなかったのは、なぜだと、思いますか」と十六は、慎重に尋ねた。
男は、しばらく、考えていた。
「たぶん……返しに行くという行動そのものが、『もう終わったこと』を、認めることになるからだと、思います。鍵を持っている限り、どこかで、まだ、繋がっている気がしていられた」



第五十八章 開かずの扉

「これ、うちで、預かりましょうか」と十六は言った。
男は、少し、驚いたような顔をした。
「預かって、どうするんですか。どこにも、開けられない鍵ですよ」
「開けられなくても、いいんです。この店には、そういうものが、たくさんあります」
十六は、これまで店に集まった品々を、思い浮かべた。答えのない質問。片方だけの靴。宛先のない手紙。まだ名前のない感情。どれも、「使えないもの」ではあったが、「意味のないもの」では、なかった。
男は、しばらく、鍵を見つめていた。
「これを手放したら、俺、あの人のことを、本当に、忘れてしまうんじゃ、ないでしょうか」
十六は、首を振った。
「鍵を手放すことと、思い出を手放すことは、たぶん、違うと思います。鍵がなくても、思い出は、あなたの中に、ちゃんと、残ります」
男は、その言葉を、しばらく、噛みしめるように、黙っていた。
「……そう、なんでしょうか」
「分かりません。俺にも、正直、確信は、ありません。でも――そう思っておいた方が、少なくとも、鍵を持ち続けているより、楽になれる気がします」



第五十九章 鍵を置いていく

男は、長い沈黙のあと、ゆっくりと、頷いた。
「預かって、もらえますか」
「はい」
「お代は……」
十六は、いつもの台詞を、口にしようとした。だが、男の状況を考えると、「答えが見つかったら教えに来てください」という約束は、少し、重すぎる気がした。
「今日、ここに来るまでに、どれくらい、迷いました?」
「三年間、ずっと」
「では、その三年間の迷いを、お代として、いただきます」
男は、少し、笑った。今日、初めて見せた、心からの笑顔だった。
「変な店ですね」
「よく、言われます」
男が帰ったあと、十六は、鍵を、カウンターの上に、そっと置いた。



第六十章 鍵置き場

「これ、どこに、置きましょうか」と十六が月夜に尋ねると、月夜は、少し考えてから、答えた。
「入り口の靴の、隣は、どう?」
十六は、頷いた。「片方だけの靴」があった場所――今は、一組の靴が、そっと佇んでいる、あの場所に、鍵を、並べて置いた。
「開かない鍵と、行き場を失った靴。並べると、なんだか、仲間みたいですね」
「そうね」月夜は、少し、微笑んだ。「そのうち、こういうものだけで、棚が、いっぱいになるかもしれない」
「困りますね、それは」
「困らないでしょう、あなたは」
十六は、苦笑した。
その時、月夜が、ふと、小さく、呟いた。
「あの人、また来るかもしれないわね。鍵を返しに」
十六は、少し、驚いた。
「返しに、来る? どこに帰したらいいか、分からないって、言ってましたよね」
月夜は、一瞬、自分の言葉に、戸惑ったような表情を、見せた。
「そう、だったかしら。……なんとなく、そんな気が、しただけ」
十六は、その言葉を、静かに、心の中に留めた。何かが、少しずつ、変わり始めている。そう、感じながら。



エピローグ 静かな確信

その夜、店を閉めたあと、十六は、鍵と靴が並んだ棚を、じっと見つめていた。
月夜が、今日、二度、「なんとなく」という言葉で、何かを、覚えていた。それが、偶然なのか、それとも――
十六は、確かめることを、しなかった。尋ねないことも、この店の、大事な作法だったから。
だが、心の奥で、小さな確信が、静かに、育ち始めていた。
窓の外には、今夜もまた、少しだけ欠けた月が、浮かんでいた。
満月よりも、ずっと、綺麗だった。
今夜の理由は、まだ、言葉には、ならなかった。ただ、十六は、その理由が、少しずつ、形を持ち始めていることだけは、分かっていた。
(第十部・完)


作者より:気づいても、すぐには確かめない。そういう優しさも、この世には、あるのだと思います。十六夜商店は、これからも、小さな変化を、そっと、見守り続けます。

十六夜商店

第十一部 ――書きかけの日記――




第六十一章 名前を呼ぶ

十一月に入り、店の窓には、結露が浮かぶようになっていた。
その日の最初の客は、静かに店を出ていった。名前も、名乗らなかった。ただ、探し物ではなく「もう読み返さなくていい古い写真」を、そっと置いていっただけの、ごく短い訪問だった。
客が帰ったあと、月夜が、片付けをしながら、ふと、呟いた。
「谷口さん、また来るといいわね」
十六は、手を止めた。
「谷口、さん?」
月夜は、きょとんとした顔をした。
「え? 今の人、そういう名前じゃ、なかった?」
十六は、記憶を辿った。その客は、名乗っていない。カルテのようなものも、この店には、ない。だが――たしかに、三日前に来た、また別の客が、「谷口」と名乗っていたのを、十六は覚えていた。
「谷口さんは、三日前に来た、別の方ですよ。今日の人とは、違います」
月夜は、しばらく、黙っていた。
「……そう、だったかしら。ごめんなさい、勘違いね」
だが、その声には、いつもの「なんとなく」とは、少し違う、戸惑いの色が、混じっていた。



第六十二章 日記帳の客

夕方、ドアベルが鳴った。入ってきたのは、四十代くらいの女性だった。
手には、古い、皮の日記帳を抱えている。表紙は、ずいぶんと使い込まれているのに、ページの多くは、白紙のままのように見えた。
「いらっしゃいませ。何をお探しですか?」
女性は、日記帳を、カウンターに置きながら、静かに言った。
「これ、二十年前に、書き始めたものなんです。でも――途中で、やめてしまって」
十六は、日記帳を、そっと開いてみた。最初の数ページだけ、丁寧な字で、日々の出来事が綴られている。だが、ある日を境に、ぱたりと、記述が途切れていた。
「何か、きっかけがあったんですか」
女性は、少し、目を伏せた。
「あの日、書くのをやめました。理由は――今でも、うまく、言えないんです。ただ、なんとなく、これ以上、自分の気持ちを、文字にするのが、怖くなった気がします」



第六十三章 書けなかった続き

「今、続きを、書きたいと思いますか」と十六は尋ねた。
女性は、しばらく、考えていた。
「書きたいような、書けないような。……正直、自分でも、よく分からないんです。ただ、この日記帳を、家に置いておくと、いつも、そのページの白さが、目に入ってしまって」
十六は、月夜の方を見た。月夜は、いつになく、真剣な表情で、日記帳を見つめていた。
「うちで、預かりましょうか」と十六は、提案した。
「預かって、どうするんですか」
「このまま、白紙のまま、お預かりします。もし、いつか、続きが書きたくなったら、また、いらしてください。そのときは、ここで、続きを、書いていただいても、構いません」
女性は、少し、驚いたような顔をした。
「ここで、書くんですか」
「はい。この店には、そういう、場所も、あります」



第六十四章 二十年分の白紙

女性は、しばらく、日記帳を、見つめていた。
「あの日、何があったか――話しても、いいですか」
十六は、頷いた。
「二十年前、大切な人と、大きな喧嘩をしました。売り言葉に買い言葉で、ひどいことを、たくさん言ってしまって。その夜、日記に、そのことを、書こうとしたんです。でも――書き始めたら、自分がどれだけ、ひどいことを言ったか、文字にすることで、はっきりしてしまう気がして。それが、怖くて、書けなかった」
「その方とは、今、どうなってるんですか」
「仲直りは、しました。もう、随分、昔のことです。でも、この日記帳だけが、あの日のまま、止まってる」
十六は、静かに、頷いた。
「日記が止まっていることと、あなたと、その方の関係が、止まっていることは、たぶん、別のことだと思います」
女性は、その言葉に、少し、目を潤ませた。
「分かってはいるんです。でも、この白いページを見るたびに、なんだか、あの日の自分に、まだ、追いつかれてる気がして」



第六十五章 預かるという選択

「これ、お預かりします」と十六は、日記帳を、そっと、手元に引き寄せた。
「本当に、いいんですか」
「ええ。続きは、書いても、書かなくても、いいと思います。ただ、この白いページを、家で、毎日、見なくてよくなるだけでも、少しは、楽になるんじゃないかと思います」
女性は、深く、頭を下げた。
「お代は……」
十六は、少し、考えてから、答えた。
「今日、ここに来る前に、その方に、電話でも、しましたか」
女性は、驚いた顔をした。
「……はい。実は、来る前に、少しだけ、電話で、話しました。特に用事は、なかったんですけど、なんとなく」
「では、それを、お代として、いただきます。二十年ぶりに、理由のない電話をかけた、その気持ちを」
女性は、少し、笑った。
「本当に、変な店ですね」
「よく、言われます」



第六十六章 棚が増えていく

女性が帰ったあと、十六は、日記帳を、棚に並べようとして、ふと、手を止めた。
先ほどの、月夜の「谷口さん」という言葉が、まだ、心の中に、残っていた。
「月夜」
「なに?」
「さっきの、谷口さんのこと、なんですけど」
月夜は、少し、表情を、曇らせた。
「ああ……ごめんなさい、あれは、本当に、勘違いだったと思う」
「いえ、責めてるわけじゃ、ないんです。ただ――」
十六は、言葉を、選んだ。
「最近、月夜が、前の日のことを、覚えてるみたいなことが、何度か、あった気がして」
月夜は、しばらく、黙っていた。それから、静かに、答えた。
「……わたしも、実は、少し、そんな気がしてる」
十六は、それ以上、深くは、聞かなかった。ただ、月夜の言葉を、静かに、受け止めた。



エピローグ 止まったページ、動くページ

その夜、十六は、預かった日記帳を、店の奥の棚――鍵と靴が並んだ場所の、隣に、そっと置いた。
「そのうち」と月夜が言った。「この店、預かりもので、埋め尽くされるかもしれないわね」
「困りますね、本当に」
「でも」月夜は、少し、微笑んだ。「悪くない、埋まり方だと思う」
十六は、日記帳の、白いページを、もう一度、開いてみた。二十年分の、書かれなかった言葉が、そこには、静かに、眠っていた。
窓の外には、今夜もまた、少しだけ欠けた月が、浮かんでいた。
満月よりも、ずっと、綺麗だった。
十六は、隣に立つ月夜を、そっと、見た。彼女もまた、この白いページのように、少しずつ、何かを、書き込まれ始めているのかもしれない。
そう思うと、その美しさは、今夜、少しだけ、切ないものに、感じられた。
(第十一部・完)


作者より:書けなかったページも、白いまま、大切にしまっておいていい。そう思えるだけで、少し、楽になれることが、この世には、あるのだと思います。

十六夜商店

第十二部 ――名前のない子――




第六十七章 転んだ日のこと

師走の声を聞くようになった、ある朝のことだった。
十六は、開店の準備をしながら、少し、足を引きずっていた。数日前、店の裏で、荷物を運んでいる最中に、段差に躓いて、したたかに膝を打っていた。誰にも、言っていないことだった。
月夜が、コーヒーを運んできながら、ふと、言った。
「膝、まだ、痛む?」
十六は、驚いて、顔を上げた。
「……なんで、知ってるんですか。誰にも、言ってないのに」
月夜は、自分でも、不思議そうな顔をした。
「あなたが、先週、店の裏で、転んだこと。……わたし、見てないはずなのに、なぜか、覚えてるの」
十六は、しばらく、何も、言えなかった。あの日、店にいたのは、十六一人だった。月夜は、その日、来ていなかったはずだった。
「その日、月夜は、店に、いませんでしたよね」
月夜は、頷いた。
「そのはずなの。でも――なぜか、知ってる。あなたが、右足を、少し、引きずって歩いてたことも」
十六は、何も、言わなかった。ただ、心の中で、小さな確信が、また一つ、育っていくのを、感じていた。



第六十八章 小さな来店者

その日の午後、店に、若い夫婦が、訪れた。
女性は、少し、お腹が大きかった。男性は、緊張した面持ちで、彼女に、寄り添っていた。
「いらっしゃいませ。何をお探しですか?」
夫婦は、しばらく、顔を見合わせてから、女性の方が、口を開いた。
「探し物じゃ、ないんです。……相談に、乗ってもらえますか」
十六は、二人を、カウンターの椅子に、案内した。
「わたしたち、五年前に、一人、子供を、亡くしているんです」
十六は、静かに、頷いた。
「お腹の中で、その子は、まだ、生まれてくることが、できませんでした。名前を、考えてはいたんです。でも、まだ、決めきれないうちに――」
女性は、言葉を、途中で、止めた。男性が、そっと、彼女の肩に、手を置いた。



第六十九章 考えていた名前

「今、こうして、また、新しい命を、授かることができました」と女性は、お腹に、そっと手を当てながら、続けた。「嬉しいんです。本当に。でも、同時に――あの子のことを、思い出さない日は、ないんです」
十六は、黙って、話を聞いていた。
「名前を、つけてあげたいと、ずっと、思ってました。生まれてこなかった、あの子に。でも――誰かに言われたんです。『もう、忘れて、前を向いた方がいい』って。それから、名前をつけることが、なんだか、いけないことのように、思えてしまって」
十六は、少し、考えてから、尋ねた。
「その名前、今も、覚えてますか」
女性は、頷いた。目に、うっすらと、涙が、浮かんでいた。
「はい。ずっと、心の中に、あります。でも、口に出すのが、怖いんです。声に出したら、また、あの日の悲しみが、戻ってきそうで」



第七十章 名づけるということ

十六は、月夜と、目を合わせた。月夜は、静かに、頷いた。
「この店には」と十六は、ゆっくりと、言葉を選びながら、言った。「まだ、名前のない感情を、置いていく場所が、あります。でも、今日、お二人が、お持ちなのは――もう、名前が、決まっている。ただ、それを、言葉にする、勇気だけが、必要なんだと、思います」
女性は、十六を、じっと、見つめた。
「ここで、言っても、いいんですか」
「はい。ここでなら、誰にも、咎められません。忘れろとも、言われません。ただ、その名前を、この店が、聞かせていただきます」
女性は、しばらく、震える声で、黙っていた。それから、静かに、口を開いた。
「――陽菜(ひな)、です」
店の中に、その名前が、静かに、響いた。
「陽菜。……いい、名前ですね」と十六は、言った。
女性は、涙を、堪えきれずに、流した。男性も、目を、潤ませていた。



第七十一章 棚に置くもの

「これを」と十六は、静かに、続けた。「店の、大切な場所に、置かせていただいても、よろしいでしょうか。物ではなく――今、聞かせていただいた、その名前を」
女性は、驚いた顔をした。
「名前を、置く、ということが、できるんですか」
「分かりません」十六は、正直に、答えた。「でも、この店には、そういうことが、できる気がするんです。物ではないものを、預かる場所が、たしかに、あります」
女性は、しばらく、考えてから、頷いた。
「お願い、します」
十六は、店の奥、まだ名前のない感情の入っていた、あの木箱の隣に、心の中で、静かに、その名前を、置いた。目には、見えないものだったが、たしかに、そこに、何かが、留まった気がした。
女性は、お腹を、そっと、撫でながら、言った。
「この子にも、いつか、お姉ちゃんのことを、話してあげられる気がします」



第七十二章 お代のいらないもの

夫婦が帰る際、十六は、いつものように、お代の話を、しようとした。だが、途中で、言葉を、止めた。
「今日は、お代は、いただきません」
「でも……」
「今日、いただいたのは、名前だけです。それは、俺たちの店にとっても、大切な、贈り物でした。お代は、いりません」
夫婦は、深く、頭を下げて、店を、出ていった。
月夜が、静かに、隣に、立った。
「いいことしたわね、今日は」
「そうですかね」
「ええ」月夜は、木箱の方を、見つめながら、続けた。「名前を、預かるっていうのは、この店にとって、初めてのことだったと思う」
十六は、頷いた。それから、ふと、思い出したように、月夜に、尋ねた。
「月夜は、名前、持ってますよね」
月夜は、少し、驚いた顔をした。
「……そうね。『月夜』が、わたしの、名前」
「それは、誰が、つけたんですか」
月夜は、しばらく、黙っていた。そして、静かに、答えた。
「――分からない。でも、今、少しだけ、思い出せそうな、気がする」



エピローグ 思い出せそうな気配

その夜、月夜は、いつもより、長く、店に、留まっていた。
「大丈夫ですか」と十六が尋ねると、月夜は、少し、笑った。
「大丈夫。ただ――今日、あの人たちが、名前を、口にするのを、見てたら。わたしにも、誰かが、この名前を、つけてくれた瞬間が、あったはずだって、思えてきたの。それが、誰だったのか、まだ、思い出せないんだけど」
十六は、何も、言わなかった。ただ、静かに、月夜の、隣に、立っていた。
窓の外には、今夜もまた、少しだけ欠けた月が、浮かんでいた。
満月よりも、ずっと、綺麗だった。
「ねえ、十六」
「はい」
「わたしの名前を、つけてくれたのが、誰だったのか。いつか、思い出せたら――ちゃんと、あなたに、話すわね」
十六は、頷いた。
「待ってます。ためらいがちに、辿り着くのを」
月夜は、静かに、微笑んだ。その微笑みは、今夜、いつもよりも、少しだけ、人間らしく、見えた。
(第十二部・完)


作者より:名前を呼ぶということは、その存在を、確かに、この世に、留めておくことなのだと思います。十六夜商店は、これからも、まだ声にできない名前たちを、そっと、預かり続けます。

十六夜商店

第十三部 ――使われなかった切符――




第七十三章 同じ言葉

年の瀬が近づき、店の前の通りにも、イルミネーションが灯るようになっていた。
その日の朝、十六が店を開けると、月夜は、すでにカウンターに座って、窓の外を、眺めていた。
「おはようございます」
「おはよう」月夜は、振り向いて、続けた。「今日は、寒くなりそうね。灯油、切らさないようにしないと」
十六は、一瞬、手を止めた。
――その台詞、昨日も、聞いた。
まったく同じ言葉を、まったく同じ調子で、昨日の月夜も、口にしていた。
「月夜、それ、昨日も、言ってましたよ」
月夜は、少し、驚いた顔をした。
「そう、だったかしら」
「一言一句、同じでした。『今日は、寒くなりそうね。灯油、切らさないようにしないと』って」
月夜は、しばらく、黙っていた。それから、静かに、自分の手のひらを、見つめた。
「……前の日に、自分が、何を考えていたのか。最近、目が覚めると、なんとなく、分かる気がするの。そのまま、口に出てしまうことが、あるみたい」
十六は、それ以上、何も、言わなかった。ただ、灯油のタンクを、静かに、確認しに行った。



第七十四章 旅行の切符

その日の午後、店に、一人の男性が、訪れた。年齢は、五十代半ばくらいだろうか。手には、古い、二枚綴りの切符を、握っていた。
「いらっしゃいませ。何をお探しですか?」
男性は、切符を、カウンターに、置いた。ずいぶんと、色褪せた、鉄道の乗車券だった。日付は、二十年以上前のものだった。
「これ、妻と、二人で、旅行に行くはずだった、切符なんです」
「行かれなかったんですか」
男性は、頷いた。
「出発の、前日に、妻の父親が、倒れました。急いで、実家に、駆けつけることになって。旅行は、キャンセルするしかなかった」
「それで、切符は」
「払い戻しも、できたはずです。でも、なぜか、そうしなかった。ずっと、財布の中に、入れたまま、持ち歩いてました」



第七十五章 行けなかった場所

「その旅行、その後、行かれたんですか」と十六は、尋ねた。
男性は、静かに、首を振った。
「行こう、行こうと、何度も、話しては、いたんです。でも、いつも、何かしらの理由で、後回しになって。子供が生まれたり、仕事が忙しくなったり。そうこうしているうちに――」
男性は、言葉を、途中で、止めた。
「妻は、五年前に、病気で、亡くなりました」
十六は、静かに、頷いた。
「結局、あの旅行には、二人で、行けずじまいでした。この切符だけが、ずっと、あのときのまま、財布の中に、残ってます」
十六は、切符を、そっと、手に取った。行き先の欄には、海沿いの、小さな温泉町の名前が、印字されていた。



第七十六章 代わりに行く場所

「うちで、預かりましょうか」と十六は、提案した。
男性は、しかし、少し、違う表情を、見せた。
「いえ――今日は、預けに来たわけじゃ、ないんです」
「と、いいますと」
「この店の噂を、聞いたとき、思ったんです。もしかしたら、この切符で、あの日、行けなかった場所に、今からでも、行けるんじゃないか、って」
十六は、少し、困った顔をした。
「すみません。うちの店に、時間や、場所を、動かす力は、ありません。この切符も、もう、当時の乗車券としては、使えないと思います」
男性は、少し、俯いた。
「そう、ですよね。分かっては、いたんです。ただ――もしかしたら、って」
十六は、しばらく、考えた。それから、静かに、口を開いた。
「切符自体は、もう、使えません。でも――もし、よろしければ、今からでも、その温泉町に、一人で、行ってみては、どうでしょうか」



第七十七章 新しい切符

男性は、顔を上げた。
「一人で、ですか」
「はい。同じ、電車には、乗れないかもしれません。でも、同じ場所には、今からでも、行けます。奥様と、行くはずだった場所に、今度は、奥様の分まで、見て、帰ってくる。それも、悪くないんじゃないかと、思います」
男性は、しばらく、黙って、考えていた。
「この古い切符は、どうしたら、いいでしょうか」
「これは、うちで、お預かりします。代わりに――」
十六は、店の引き出しから、一枚の、白紙の紙片を、取り出した。それに、自分で、簡単な文字を、書き込んだ。
『これは、いつか、あなたが、あの町に行ったことを証明する、たった一枚の切符です』
「新しい切符、というわけには、いきませんが。行ってきたときの、証を、お渡しできればと」



第七十八章 お代

男性は、その紙片を、大事そうに、受け取った。
「行ってみます。妻の分まで」
「お代は」と十六は、続けようとした。
「今回は」男性は、先回りするように、言った。「行ってきてから、また、来ても、いいですか。そのときに、お代を、払わせてください」
十六は、頷いた。
「お待ちしてます」
男性が帰ったあと、十六は、古い切符を、そっと、棚に置いた。鍵と靴と、日記帳と、名前のない子への想いが、静かに並んだ、あの場所に。
月夜が、その様子を、じっと、見ていた。
「あの人、ちゃんと、行くと、思う?」
「分かりません。でも、行けたら、いいなと思います」



エピローグ 繰り返す言葉

その夜、店を閉めながら、十六は、ふと、月夜に、尋ねた。
「今日、俺が、さっき言った言葉、覚えてますか」
月夜は、少し、考えた。
「『行けたら、いいなと思います』?」
「はい」
月夜は、頷いた。
「不思議ね。前は、こういうこと、次の日には、忘れてたはずなのに」
十六は、静かに、頷いた。
「月夜も、同じことを、昨日、俺に言ったこと、覚えてますか」
月夜は、しばらく、記憶を辿るように、目を閉じた。
「……なんとなく、分かる気が、する。あなたに、似たようなことを、言った気が、する」
十六は、それ以上、深く、聞かなかった。ただ、その変化を、静かに、受け止めていた。
窓の外には、今夜もまた、少しだけ欠けた月が、浮かんでいた。
満月よりも、ずっと、綺麗だった。
「ねえ、十六」
「はい」
「わたし、少しずつ、昨日のわたしに、追いついてきてる気がするの。それが、いいことなのか、怖いことなのか――まだ、分からないけど」
十六は、静かに、答えた。
「分からないままで、いいと思います。それが、うちの店の、専門ですから」
月夜は、小さく、笑った。
(第十三部・完)


作者より:行けなかった場所には、誰かの分まで、今からでも、行くことができます。十六夜商店は、そんな、少し遅れた旅立ちも、静かに、見送り続けます。



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