十六夜(いざよい)商店

―― 知恵の哀しみ、あるいは全知計画顛末記 ――


まえがき

世の中には、知らなくてもいいことが、たしかにある。
手品のタネを知ってしまうくらいなら、まだいい。だが、もし、この世界のすべての「タネ」が見えてしまったら――人は、驚けなくなる。感動できなくなる。ただ、答えの出ているクイズのような日々を、生きることになる。
この物語は、そんな「知恵の哀しみ」から、始まります。
けれど、これは、知ることを否定する物語では、ありません。むしろ、知ってしまった人間が、もう一度、「わからないこと」の豊かさに、辿り着いていく物語です。
答えのない質問。片方だけの靴。宛先のない手紙。まだ名前のない感情――。
この店に集まってくるのは、どれも、解決されることを、望んでいないものたちです。ただ、少しの間、誰かに、そっと、抱きしめておいてほしいだけの、人生の欠片たち。
そして、そんな店を営む二人もまた、わからないことを、たくさん、抱えたまま、生きています。
十八部にわたる、少し長い物語です。どうか、急がずに、ためらいがちに、少しずつ、読み進めていただければと思います。
満月よりも、十六夜の月の方が、綺麗だと言われます。
その理由を、この物語の中に、探していただけたら、これほど嬉しいことは、ありません。
それでは――いらっしゃいませ。何を、お探しですか。





プロローグ 手品のタネ

世の中には、知らなくてもいいことというのが、たしかに存在する。
たとえば、目の前で消えたはずのハトが助手の上着の裏に仕込まれていたと知ること。たとえば、隣の部署の課長が実は週に三度も競馬場にいると知ること。たとえば――
鏡月十六(かがみづき じゅうろく)、三十六歳、独身、経理課勤続十一年。彼が知ってしまったのは、そのどれでもなかった。
もっと厄介なものだった。
「世界の、タネ」だ。



第一章 骨董市の鏡

事の起こりは、三月にしては妙に生暖かい日曜日、代々木の骨董市だった。
十六は特に何かを探していたわけではない。ただ、独り身の週末というのは時間を持て余すもので、彼はよく当てもなく歩いた。骨董市に来たのも、コーヒーの匂いに釣られただけだった。
その屋台の隅に、それはあった。
古びた手鏡。柄の部分に、蔦のような模様が彫られている。値札には「江戸期・和鏡(推定) 三千円」とだけ書かれていた。店主の老人は居眠りをしていて、十六が手に取っても目を覚まさなかった。
裏返してみる。鏡面は妙に曇っていて、自分の顔がぼんやりとしか映らない。
――なんだ、これは。
そう思った瞬間だった。
鏡の曇りの奥で、何かが「ピッ」と小さく鳴った。
十六は驚いて鏡を落としかけた。慌てて両手で抱え直す。老人は相変わらず眠っている。周囲の誰も気づいていない。
もう一度、恐る恐る鏡を覗き込む。
すると――見えたのだ。
隣の屋台で売られている「本物の古伊万里」という皿が、実は昨日どこかの工場でこしらえられたばかりの複製品であることが。焼き上がりの温度ムラ、釉薬の配合比、それを作った職人の疲労度合いまでもが、まるで設計図を見るように、頭の中に流れ込んできた。
「……は?」
十六は自分の目を疑った。しかし疑う間もなく、次から次へと「タネ」が見えてしまう。
道端で手品をしているストリートパフォーマーのコインが、実はマグネット式の特殊コインであること。
向かいのカフェの「本日のスープ」が、実は三日前から寸胴で継ぎ足されていること。
すれ違ったカップルの女の方が、内心「もうこの人とは無理かもしれない」と思いながら、笑顔を作っていること。
――待て。待ってくれ。これはさすがに、知らなくていいことだ。
十六は鏡を鞄に突っ込み、老人に三千円を叩きつけるように払うと、逃げるようにその場を後にした。



第二章 世界がつまらなくなる

その日から、十六の世界は一変した。
会社に行けば、同僚の愛想笑いの裏にある本音が透けて見える。上司の「頑張ってるな」という激励が、実のところ「こいつを異動させる口実を探している最中」であることが分かってしまう。
テレビをつければ、CMのタレントの契約金額から、バラエティ番組の「やらせ」の分量まで、何もかもが丸裸になって見えてしまう。
推理小説を読めば、三ページ目で犯人が分かってしまう。手品ショーを見れば、仕掛けが先に見えてしまう。恋愛映画を見れば、脚本家がどこで観客を泣かせようとしているか計算式のように分かってしまう。
――知恵とは、こんなにも、哀しいものだったのか。
十六はある夜、コンビニで買った缶チューハイを片手に、ベランダでぼんやりと呟いた。
面白いはずだったものが、面白くなくなる。それは、手品のタネを知ってしまったのとは、ちょっとばかり違う感覚だった。手品ならまだいい。「へえ、そうだったのか」で笑って済ませられる。
だがこれは、生きること全体のタネが見えてしまうということだった。人が笑う理由、人が怒る理由、人が誰かを好きになる理由――そのすべてが、機構図のように、無粋に、無慈悲に、頭の中で分解されてしまう。
十六はこの鏡を、二度と使うまいと心に決めた。
しかし、鏡はもう、彼の中に住み着いてしまっていた。
使う、使わないの問題ではなかった。見えてしまうのだ。世界の縫い目が、常に。



第三章 わからない生き物

そんな十六にも、たったひとつだけ、鏡が「見せてくれない」ものがあった。
女、というものだ。
正確に言えば、鏡は女性の行動の「表面的な仕組み」――何を買ったか、何を食べたか、口紅のブランドが何か――は見せてくれる。だが、「なぜ、その人が、その瞬間に、その感情を選んだのか」という核心だけは、決まって曇ったまま、何も映さなかった。
これは十六にとって、奇妙な救いだった。
会社の後輩、朝霧(あさぎり)さんが、月曜は妙にそっけなく、木曜になると急に機嫌がよくなる。その理由を、十六の中の鏡は――計算しようとしても、計算できなかった。
「まあ、それもそれで、いいか」
十六は、まだまだ自分がこの世の「女という生き物」について、見習い中なのだと思うことにした。全知全能になりかけている自分の中に、まだ分からないものがひとつでも残っているというのは、思いのほか、心を軽くしてくれた。
そんな折、彼は妙な女に出会う。



第四章 夜ごと姿を変える女

深夜二時。眠れずに近所のコインランドリーに向かった十六は、そこで一人の女を見た。
年の頃、二十代後半から三十代のどこか。乾燥機の前に座り、文庫本を読んでいる。
十六の中の鏡が、反射的に彼女の「タネ」を読み取ろうとした。
――が、何も出てこない。
いや、正確には、出てくるには出てくるのだが、その内容がまるで意味をなさなかった。
『対象:女性。年齢:推定不能(変動)。職業:不明(複数存在)。感情パターン:一致する既知データなし。特記事項――満ち欠けあり』
満ち欠け?
十六が首をひねっていると、女がふと顔を上げ、こちらを見た。
「あなた、見えてるでしょう」
「……は?」
「その鏡。見えてるんでしょう、いろいろと」
心臓が跳ねた。鞄の中の鏡が、かすかに温かくなった気がした。
「わたしは月夜(つきよ)。よろしく」と女は言った。「言っておくけど、わたしを鏡で覗いても無駄よ。わたしは、毎晩ちがう人間になるから」
「は……?」
「今夜のわたしと、明日のわたしは、別人。性格も、記憶の重みも、好きな食べ物さえ変わる。満月の夜のわたしは、やたら気が大きくて、新月の夜のわたしは、ほとんど喋らない。だから、あなたのその鏡じゃあ、わたしのことは一生わからない」
十六は、乾燥機のブザーが鳴るのも忘れて、彼女を見つめていた。
――ああ、これはまずい。これは、深入りしてしまいそうな女だ。
そう直感したのを、はっきりと覚えている。



第五章 全知計画

月夜と名乗る女との会話は、思いがけない方向に転がっていった。
「あの鏡ね、骨董品なんかじゃないの」と彼女は文庫本を閉じて言った。「『観測子(オブザーバー)』っていう、地球外由来の装置」
「地球外……」
「正確には、とある文明が送り込んだ観測用の端末。目的は、この星の『知的生命体が、完全な知識を得たときに、どう壊れるか』を調べること」
十六はコインランドリーの丸椅子にへたり込んだ。
「壊れる、って……」
「あなた、もう気づいてるでしょ。何もかも分かってしまうと、世界はつまらなくなる。それはあなた個人の感傷なんかじゃなくて、宇宙的にわりと普遍的な現象なの。知りすぎた文明は、たいてい滅びる。好奇心をなくして、探求をやめて、緩やかに死んでいく」
「それを、その、送り込んできた連中は……」
「『全知連合』。彼らは逆に、それを利用しようとしてる」
月夜は声を落とした。
「全知連合は、『不完全さ』というものそのものを、宇宙から消し去ろうとしてる。謎、誤差、勘違い、片思い、読み違え――そういう『ノイズ』を全部きれいに刈り取って、完璧に予測可能な、完璧に退屈な宇宙を作ろうとしてるの。もう好き好んで、ではなく――彼ら自身が、かつて知りすぎて、面白みをなくして、それでも止まれなくなった成れの果てだから」
「……なんだか、他人事とは思えない話ですね」
「そうよ。だからこそ、あなたのその鏡が危ないの。それは全知連合が地球に落とした『種』のひとつ。これから先、あなたが知れば知るほど、鏡はあなたを媒介にして、この星の『ノイズ』を吸い上げていく。最終的には――この星ごと、退屈にされる」
十六は、ごくりと唾を飲んだ。
「じゃあ、俺は、どうすれば」
月夜は、乾燥機から取り出したばかりの、まだ温かいタオルを一枚、十六に放って寄越した。
「簡単よ。――知らないままでいる勇気を、思い出すこと」



第六章 十五夜の女、十六夜の女

翌日から、十六は月夜と共に「全知連合」の痕跡を追うことになった――というと大仰だが、実態はもっと滑稽だった。
まず、全知連合の地球担当官を名乗る自称・宇宙人が現れたのだが、それがどう見ても近所の不動産屋の店長にしか見えない中年男で、「いやあ、こちらとしても本部からのノルマがありましてね」とやたら愚痴っぽいのだった。
「今期中に、この銀河系の三パーセントの知的種族を『完全知性化』させないと、査定に響くんですよ」
「査定……」
「ボーナスにも直結しますし。いや、お恥ずかしい話、私も好きでこんな仕事してるわけじゃないんです。若い頃はもっと、こう、詩的なことをやりたかったんですがね」
十六は毒気を抜かれた。宇宙規模の陰謀のはずが、どうにも中間管理職のぼやきにしか聞こえない。
一方の月夜は、日によってまるで別人だった。
ある夜は、やたら攻撃的で、不動産屋もとい宇宙人担当官に食ってかかる。
ある夜は、妙にしんみりとして、十六の話に静かに耳を傾ける。
ある夜は、子供のように無邪気に、コインランドリーの洗濯機を「宇宙船」に見立てて遊びだす始末。
「あなた、今日はどの月夜さんなんですか」と十六が尋ねると、彼女は決まってこう答えた。
「さあ。今夜、月がどれくらい欠けてるか見てみたら?」
十六はあるとき気がついた。満月の夜――つまり「十五夜」の月夜は、たしかに華やかで、誰の目にも美しい。だが、彼が本当に惹かれるのは、その翌日、少しだけ欠け始めた「十六夜(いざよい)」の月夜の方だった。
完璧じゃない。ほんの少し、ためらいがちに欠けている。だからこそ、そこに奥行きが生まれる。
「昔の人は言ったらしいですよ」と十六はある十六夜の晩、月夜に言った。「満月よりも、十六夜の月の方が、風情があるって」
「あら、詳しいのね」
「鏡が教えてくれたわけじゃないですよ、これは。ただの、受け売りです」
月夜は、その夜、珍しく声を出して笑った。



第七章 大事件、勃発

平和(?)な調査期間は、しかし長くは続かなかった。
ある晩、不動産屋もとい担当官が、青ざめた顔でコインランドリーに駆け込んできた。
「た、大変です! 本部が痺れを切らして、直接介入してきます!」
「直接介入って……」
「『完全知性化装置』の本体――『大鏡』を、直接この街に降下させるつもりです! あれが起動したら、半径十キロの人間全員が、一晩で全知全能になります!」
十六の背筋が凍った。
「全員が、俺と同じ目に遭うってことですか」
「ええ。ただし、あなたと違って加減はしてもらえません。老若男女、問答無用で、世界のすべてのタネが見えるようになる。恋も、仕事も、家族も、友情も、全部、種明かし済みの手品みたいに、色褪せてしまいます」
月夜が静かに立ち上がった。今夜の彼女は、やけに落ち着いた声をしていた。満ちる直前の、十四夜の月のような。
「十六。あなたの鏡、貸して」
「え、でも……」
「大丈夫。わたしね、実はこう見えても、この星に『不完全さ』を守るために送り込まれた、いわば――逆・観測子なの。全知連合とは違う、もうひとつの勢力の端末」
「それを早く言ってくださいよ!」
「言う機会が、なかったのよ。毎晩、性格変わるんだもの」
月夜はそう言って、悪びれもせずに笑った。



第八章 欠けているからこそ

夜空に、見慣れない銀色の球体――「大鏡」が、ゆっくりと降りてきた。街灯という街灯が消え、テレビもスマホも一斉にノイズだらけになる。全知連合の作戦が始まったのだ。
十六と月夜、そして情けなく震える担当官(元・不動産屋)の三人は、屋上でそれを見上げていた。
「あの大鏡を止めるには」と月夜が言った。「『答えのない問い』を、思いっきりぶつける必要があるの。全知を目指す装置は、皮肉なことに、『永遠にわからないもの』には弱い」
「答えのない問い、って言われても……」
十六は、鞄の中の手鏡を握りしめた。この数週間、彼を苦しめ続けた「知恵の哀しみ」の元凶。だが同時に、彼に月夜を出会わせてくれた鏡でもあった。
十六は、大鏡に向かって、鏡を高く掲げた。そして、叫んだ。
「なあ、教えてくれよ! ――女って、一体、何なんだ!?」
大鏡が、ピシリ、と音を立てて硬直した。
「なんだ、その問いは……処理、できない……処理、できない……」
「教えられないだろ! 俺だって、まだまだ見習い中なんだ! この人生、何年生きても、女って生き物が、まったくもってわからん! だが、それでいいんだよ、たぶん!」
大鏡が、明滅を始めた。
月夜が、十六の隣でそっと付け加えた。
「ついでに教えてあげる。――なぜ、十五夜より、十六夜の月の方が美しく見えるか。それもね、永遠に、答えの出ない問いなの。欠けてる部分を、人がどう思うか。そこに理屈はないの」
大鏡は、悲鳴のような高音を発しながら、みるみる縮んでいき――最後には、ただの古びた手鏡サイズにまで小さくなって、月夜の手のひらにころんと収まった。
担当官が、へなへなとその場に座り込んだ。
「た、助かった……。いやあ、今期の査定はもう諦めますよ。むしろ、詩でも書こうかな、これを機に」
街の明かりが、ゆっくりと戻ってくる。



エピローグ 見習い中

翌朝、十六はいつも通り出社した。
不思議なことに、鏡はもう何も見せてくれなくなっていた。同僚の愛想笑いは、ただの愛想笑いに戻った。上司の激励は、額面通りに受け取っていいものになった。
世界は、また少しだけ、わけのわからないものに戻った。
そしてそれは、思いのほか、心地よかった。
その晩、十六はまたコインランドリーに足を運んだ。乾燥機の前には、月夜が座っていた。今夜は、どの月夜だろうか。
「今夜は、どなたですか」と十六は尋ねた。
月夜は文庫本から顔を上げ、少し困ったように微笑んだ。
「さあ、それは――」
その先は、教えてくれなかった。
十六は、それでいいと思った。わからないことは、まだまだ、たくさんある。この人生、見習い中なのだ。
見上げた夜空には、少しだけ欠けた月が浮かんでいた。
満月よりも、ずっと、綺麗だった。
(第一部・完)


作者より:この物語は、まだ続きます。全知連合の本部、月夜の正体、そして「見習い中」の十六がこの先どんな大事件に巻き込まれていくのか――続編をお望みでしたら、ぜひお申し付けください。

十六夜商店

第二部 ――満ちる前の話――




第九章 平穏という名の違和感

大鏡の一件から、ひと月が過ぎた。
十六の日常は、驚くほどあっさりと元に戻っていた。経理課の仕事、上司のどうでもいい説教、後輩の朝霧さんの気まぐれな機嫌――そのどれもが、以前のように「わからないまま」で、それがどうにも心地よかった。
ただひとつ、変わったことがあるとすれば。
コインランドリーに、以前ほど頻繁に通わなくなっていた月夜が、ある晩、ふらりと十六のアパートの前に現れたことだった。
「ひさしぶり」
「……いや、ひさしぶりって、あなた、俺の住所知ってたんですか」
「知らなかったわよ。今夜のわたしが、たまたま見つけただけ」
十六はもう驚かなくなっていた。今夜の月夜がどんな人格なのか、探るのはとっくにやめている。それが、月夜という人と付き合う上での、いちばん賢いやり方なのだと分かってきていた。
「入る?」と十六が聞くと、月夜は珍しく、少し躊躇うような顔をした。
「……その前に、話しておきたいことがあるの。わたしの、正体について」
十六の胸が、ざわりと音を立てた。



第十章 月夜の正体

部屋に上がった月夜は、缶ビールを一本、断りもなく開けてから話し始めた。
「わたしはね、本当は――『人』じゃないの」
「まあ、それは、薄々」
「観測子(オブザーバー)だって言ったでしょう。でも、全知連合の観測子とは、成り立ちがちがう。わたしは――ある文明が、滅びる寸前に作った、最後の希望なの」
十六は黙って続きを促した。
「はるか昔、ある星の知的種族が、あなたの鏡と同じような装置を作りすぎて、自分たちの世界からすべての『謎』を消してしまったの。その結果、その文明は緩やかに死んでいった。恋も、芸術も、宗教も、冒険も――何もかもが『答えの出ているクイズ』になって、誰も何にも心を動かされなくなって」
「……それが、全知連合の前身、ってことですか」
「その通り。彼らは滅びる直前、最後の一手として、わたしを作った。『不完全さを、宇宙に配って回る存在』として。だからわたしは、決まった形を持たない。決まった性格も、決まった記憶も持たない。毎晩ちがう人間になるのは――バグじゃなくて、仕様なの。わたし自身が、『欠けていること』の体現だから」
十六は缶ビールを握りしめたまま、しばらく何も言えなかった。
「じゃあ、月夜さんは……本当の月夜さんって、いないんですか。今夜のあなたも、明日には、いなくなる?」
月夜は、少し困ったように笑った。
「さあ、それはわたしにも分からない。分からないままにしておくのが、たぶん、いちばん正しいのよ」
十六は思わず、詩の一節のようなものを、ぼそりと呟いた。
「――夜ごと姿を変える、月のように……か」
「あら、詳しいのね」
「これも、受け売りですけど」



第十一章 召集令状

その夜遅く、十六の鏡――もはや「観測子」としての力は失っているはずのそれが、ふいに、淡く光り始めた。
「これは……」
月夜が鏡を覗き込んで、表情を険しくした。
「全知連合の本部から、緊急招集。あなたと、わたし、両方宛て」
「え、俺も呼ばれてるんですか」
「あなたが大鏡を止めたこと、本部にはとっくにバレてる。しかも――」月夜は鏡の表面を見つめたまま続けた。「あの、査定に怯えてた担当官のおじさん、あれから独断で本部に『地球からの提言書』を提出したみたい。内容は――」
「内容は?」
「『不完全であることの価値についての詩的考察、全三十二ページ』」
十六は思わず吹き出した。
「あのおじさん、詩を書きたいって言ってたの、本気だったんですね」
「本気も本気。おかげで本部は今、大混乱。『完全知性化計画』推進派と、『不完全さ保護』派に、真っ二つに割れてるらしいわ」
「それで、俺たちが呼ばれてる、と」
「たぶん、証人喚問みたいなものね。――行く?」
十六は少し考えてから、頷いた。
「行きます。せっかく見習い中なんです。少しくらい、単位を稼いでおかないと」



第十二章 本部は会議室だった

全知連合の本部は、想像していたような煌びやかな宇宙ステーションでもなければ、荘厳な神殿でもなかった。
そこは――どこまでも続く、蛍光灯の白い会議室だった。
長机がずらりと並び、無数の「担当官」らしき存在(見た目は人間だったり、触手だったり、光る球体だったりとバラバラ)が、それぞれノートパソコンならぬ「思考端末」を前に、疲れた顔をして座っている。
正面のスクリーンには、こう表示されていた。
『第四七八二回 定例知性化推進委員会 ―― 議題:地球案件、継続の可否について』
十六は場違いなことに、既視感を覚えた。
「これ、なんか……うちの会社の月次会議と、変わらないですね」
「宇宙のどこに行っても、会議って、こういうものなのよ、きっと」と月夜が疲れたように答えた。
議長席に座っていたのは、意外にも、あの元・不動産屋の担当官だった。
「あ、十六さん! 月夜さん! ちょうどよかった、証言お願いしてもいいですか!?」
「証言、って、俺、何を話せば……」
「知恵の哀しみについて、です。あなたが、鏡によって全知に近づいて、何を感じたか。それを、ここで話してほしいんです」
十六は、居並ぶ委員たちを見渡した。全員が、こちらをじっと見ている。全知に近い存在であるはずの彼らの目に、なぜか、飢えたような、羨むような光が見えた。
十六は、ゆっくりと口を開いた。



第十三章 証言

「俺は……鏡を手に入れて、世界のタネが、全部見えるようになりました」
会議室が静まり返る。
「最初は、便利だと思いました。手品の仕掛けが分かる。人の嘘が分かる。仕事の裏側が分かる。――でも、すぐに気づいたんです。分かるということは、驚けなくなるということだって」
十六は、朝霧さんの機嫌のことを思い出しながら、続けた。
「俺には、後輩がいます。月曜はそっけなくて、木曜には機嫌がいい。理由は、たぶん一生分かりません。前は、それが煩わしいと思ってました。でも今は――分からないから、木曜が来るたびに、ちょっと嬉しいんです。理由を知らないまま、嬉しいって思える。それって、実は、けっこう贅沢なことなんじゃないかって、思うようになりました」
委員の何人かが、思考端末に何かを打ち込み始めた。
「あなたたちの文明は、たぶん、知りすぎて、しんどくなったんだと思います。俺にも、ちょっとだけ分かります、その気持ち。でも――」
十六は、隣に立つ月夜を見た。
「でも、全部の謎をなくしたら、たぶん、こういう出会いもなくなるんです。俺は、月夜さんのことが、いまだに、まったくもってわかりません。今夜のこの人が、明日もこの人かどうかも、分からない。だけど、わからないからこそ、明日もまた会いたいって思える。俺、まだまだ、見習い中なんです。この人生も、女ってものも、宇宙のことも、何ひとつ分かっちゃいない。でも、それでいいって、今は思ってます」
しばらくの沈黙のあと、議長席のおじさんが、ぽつりと言った。
「……詩的ですねえ」
「あなたの提言書ほどじゃ、ないと思いますよ」
会議室に、小さな笑いが起きた。それは、機械的な存在たちが久しく忘れていた類の、温かみのある笑い声だった。



第十四章 採決

「では」と議長が、居住まいを正して言った。「採決を取ります。地球案件――『完全知性化計画』の継続に、賛成の方」
数人の手(あるいは触手、あるいは発光)が挙がった。
「反対の方」
それよりも、ずっと多くの手が挙がった。
「よし……。地球案件は、無期限凍結。ついでに、他の係属案件についても、一度見直しを行うことを提案します。――みなさん、もしかしたら我々は、ちょっと、先を急ぎすぎていたのかもしれません」
議場に、拍手とも、電子音とも、触手のこすれる音ともつかない、不思議な喝采が広がった。
十六は、月夜と目を合わせた。月夜は、今夜はやけに晴れやかな顔をしていた。
「終わったんですね」と十六が言うと、月夜は首を横に振った。
「終わってないわよ。これは、ただの『継続審議』。宇宙の会議って、そういうものなの」
「……ですよね。うちの会社の会議も、だいたいそうです」



エピローグ 欠けたままで、いい

地球に戻った十六は、鏡をもう一度、骨董市の同じ屋台に――ではなく、自宅の本棚の隅に、そっと仕舞った。
もう光ることはなかった。だが、捨てる気にはなれなかった。
その晩も、月夜はコインランドリーにいた。今夜の彼女がどんな人格なのか、十六はもう尋ねなかった。ただ、隣に座った。
「ねえ」と月夜が言った。「あなた、最後にひとつだけ、聞いてもいい?」
「なんです?」
「あなたにとって、女って、結局、何なの?」
十六は、しばらく考えてから、笑って答えた。
「わかりません。一生かけても、たぶん、わからないと思います」
「それが答え?」
「それが答えです」
月夜は満足そうに、あるいは呆れたように――今夜の彼女にしか分からない表情で、微笑んだ。
見上げた窓の外には、今夜もまた、少しだけ欠けた月が浮かんでいた。
満月よりも、ずっと、綺麗だった。
(完)


作者より:知恵の哀しみとは、結局のところ、「わかってしまうこと」への哀しみなのだと思います。この物語が、わからないままでいることの豊かさを、少しでもお届けできていたら幸いです。

十六夜商店

第三部 ――開店、いたしました――




第十五章 辞表

全知連合の会議から半年が経った、ある冬の朝。
鏡月十六は、経理課の自分のデスクで、一枚の紙を前に、長いこと固まっていた。
辞表、である。
「……いや、俺、何やってんだ」
十六は自分でも驚いていた。あれほど平穏を取り戻すことに必死だったはずなのに、いざその平穏を十一年間分手に入れてみると、どうにも、収まりが悪かった。
朝霧さんが月曜にそっけなく、木曜に機嫌がいいという「わからなさ」を、以前は贅沢だと思っていた。だが半年もすると、その贅沢さえも、日常という名の分厚い布に包まれて、見えにくくなっていく。
十六は、本棚の隅に仕舞ったままの、あの鏡を思い出した。
もう光らないその鏡を、久しぶりに取り出してみたのは、辞表を書く三日前の晩だった。鏡は相変わらず、何も映さなかった。ただの、古い手鏡だった。
――だが、そこに映るはずのなかったものが、うっすらと浮かんで見えた気がしたのだ。
一軒の、小さな店の輪郭。
とはいえ、輪郭が見えたからといって、すぐに決心がついたわけではなかった。
その晩から三日間、十六はほとんど眠れなかった。
十一年間、経理課で積み上げてきたものが、頭の中で数字になって浮かんでは消えた。退職金の額。次の職が見つかるまでの生活費。そもそも「わからないものを売る店」などという商売が、この世に成立するのかどうか――考えれば考えるほど、それは正気の沙汰とは思えなかった。
「馬鹿げてる」
十六は、何度も声に出してそう呟いた。三十六歳、独身、これといった商才もない男が、いきなり店を構える。しかも、売るものが「答えのない質問」だの「片方だけの靴」だのという、値札のつけようのない代物だ。銀行に融資を頼みに行くことすら、想像できなかった。
会社の給湯室で顔を合わせた朝霧さんに、それとなく「もし今の仕事を辞めたら、どう思う?」と聞いてみたこともあった。
「え、鏡月さん辞めるんですか?」
「いや、仮の話。仮の話です」
朝霧さんは、少し首をかしげてから、こう言った。
「鏡月さんが本気で悩んでる顔、初めて見た気がします。いつも、何かに納得してるみたいな顔してるから」
その一言が、十六の中で、思いのほか長く残った。全知の鏡を手放してから、自分は「わからないこと」を受け入れる余裕を手に入れたつもりでいた。だが実際には、ただ会社という枠の中で、波風を立てずに生きていただけなのかもしれない――そう思うと、余計に怖くなった。
怖い。でも、やってみたい。
その両方が、同じ重さで、胸の中に居座っていた。
三日目の晩、十六はコインランドリーに向かい、月夜(今夜はやけに寡黙な月夜だった)の隣に座って、ぽつぽつと迷いを話した。
「怖いんです。この歳で、こんな馬鹿げたことを始めるのが」
月夜は、しばらく黙って聞いていたが、やがて言った。
「怖くない決断なんて、たぶん、決断のうちに入らないわよ」
「それ、慰めになってます?」
「なってないでしょうね」
十六は思わず笑った。笑ってしまったら、なぜか、少しだけ気が軽くなった。
「――やってみます」
「そう」
「後悔、するかもしれませんけど」
「するかもね。でも、しないかもよ」
「どっちなんですか」
「それも、わからないままでいいんじゃない? あなたの店の、専門でしょう」
十六は、その晩、家に帰って、もう一度辞表を書き直した。三日前に書いたものよりも、字が、少しだけしっかりしていた。



第十六章 物件探し

「――というわけで、店を、始めようと思うんです」
十六がそう切り出すと、コインランドリーの丸椅子に座っていた月夜(今夜は妙に大人びた雰囲気の月夜だった)は、文庫本から顔を上げて、少し目を丸くした。
「店? 何の店?」
「それが、まだよく分かってないんです。ただ、なんとなく、扱う商品だけは、ぼんやり見えてます」
「聞かせて」
十六は、深呼吸をしてから言った。
「――『わからないもの』を、売る店です」
月夜は、しばらく黙って十六を見つめていた。それから、ゆっくりと笑った。今夜の彼女の中では、一番柔らかい笑い方だった。
「いいじゃない。それ」
「変ですかね、こんな商売」
「変よ。でも、あなたらしい。それに――」月夜は文庫本を閉じて立ち上がった。「わたしも、手伝いたいわ。なんてったって、わたし自身が、『わからないもの』の見本市みたいなものだから」
十六は、退職金と、これまでの貯金をはたいて、下町の古い商店街の一角に、小さな空き店舗を見つけた。
かつて時計屋だったというその店は、ショーウィンドウがやけに大きく、そして――どういうわけか、店の奥の壁に、うっすらと三日月の形のシミが浮かんでいた。
「ここ、いいと思う」と月夜は言った。「なんだか、呼ばれてる感じがする」
不動産屋(あの元・全知連合担当官とは無関係の、ごく普通の人間の不動産屋だった)は、怪訝な顔をしながらも、「まあ、お客さんが気に入ったなら」と契約書にハンコを押した。



第十七章 看板

店の名前を決めるのに、十六はさほど悩まなかった。
「十六夜商店」
看板を頼んだ職人――これがまた偶然にも、あの元担当官の遠い知り合いだという、腕のいい老木工職人だった――は、木の板に丁寧にその文字を彫り込みながら、こう言った。
「十六夜、ねえ。いい名前だ。満月の次の日の月ってのは、ちょっと出るのが遅れる。ためらいがちに出る、あの感じが好きでね」
「ためらいがちに、出る、ですか」
「そう。完璧じゃないから、待たせる。待たせるから、出てきたときに、ああ良かったと思う。あんたの店の名前は、そういう店になるといいねえ」
十六は、その言葉を、ずっと覚えておくことにした。
開店準備には、三ヶ月かかった。棚を作り、照明を選び、そして――肝心の「商品」を、揃えていった。



第十八章 商品棚

十六夜商店の商品棚には、値札のついた「モノ」は、ひとつも並んでいなかった。
代わりに並んでいたのは――
一枚のガラス瓶に閉じ込められた、「答えのない質問」。瓶を振ると、中でかすかに光の粒が舞う。ラベルには『なぜ人は、遠くの星を見て、切なくなるのか』とだけ書かれている。
小さな木箱に収められた、「まだ名前のない感情」。箱を開けると、何も入っていないように見えるが、耳を近づけると、微かに、何かがざわめく音がする。
古びた封筒に入った、「誰にも読めない手紙」。封は開けられるが、中の文字は、誰の目にも――たとえ十六の元・鏡の力をもってしても――解読できない文字で綴られている。
一枚の、行き先も日付も印字されていない切符。「未来が決まっていない切符」。
そして、店の一番奥、ガラスケースの中には――「片方だけの靴」が、静かに置かれていた。
「これ、どうやって仕入れたんです?」
十六が月夜に尋ねると、彼女は、今夜はやけに悪戯っぽい顔で答えた。
「仕入れたんじゃないわ。集まってきたのよ、勝手に。世界中の『わからないもの』が、居場所を求めて」
「そんな馬鹿な」
「馬鹿なことばかりだったでしょう、これまでも」
十六は、それもそうだ、と思って、笑った。



第十九章 開店

十六夜商店は、満月ではなく、十六夜の晩――満月の翌日の夜に、静かに開店した。
看板に明かりが灯る。ショーウィンドウの奥で、瓶の中の光の粒が、ゆらゆらと揺れている。
最初の客は、なかなか現れなかった。三十分、一時間。十六はカウンターの向こうで、少し落ち着かない気持ちで、通りを眺めていた。
「大丈夫よ」と月夜がレジ横で本を読みながら言った。「『わからないもの』を探してる人は、そう頻繁には現れない。でも、必要になったときには、ちゃんとここに辿り着くわ」
そして、一時間半が過ぎた頃――
からん、とドアベルが鳴った。
入ってきたのは、二十代半ばと思われる、疲れた顔の女性だった。会社帰りらしく、リクルートスーツにも似た地味なスーツを着て、傘の雫を払いながら、店内を見回している。
十六は、思わず背筋を伸ばした。
「いらっしゃいませ。何をお探しですか?」
女性は、しばらく口ごもってから、ぽつりと言った。
「……自分でも、何を探しているのか、分からないんです」
十六は、少し笑った。長年、経理課で身につけた愛想笑いとは、まるで違う種類の笑みだった。
「それなら」
十六は、ゆっくりと、棚の方へ手を伸ばしながら、続けた。
「うちの、専門です」



第二十章 最初の客

女性の名は、まだ聞いていなかった。だが十六は、名前を聞く必要はないと感じていた。この店に来る客は、たぶん、そういうものなのだろう。
「何かに、行き詰まってます?」と十六は尋ねた。
「はい……。仕事も、恋も、これからのことも。何もかも、頑張ってるはずなのに、何を頑張ってるのか、自分でも分からなくなってて」
十六は棚から、あの「答えのない質問」の瓶を、そっと取り出した。
「これは、いかがですか」
瓶を渡された女性は、不思議そうにそれを見つめた。光の粒が、彼女の手の中で、ゆっくりと渦を巻いた。
「これ……何なんですか?」
「答えのない質問です。中身は――お客様ご自身にしか、決められません」
「決められない質問を、買うんですか」
「ええ。でも、それでいいんです。答えの出ない問いを、大事に持っておくというのも――生きていく上では、案外、必要なものなんです」
女性は、しばらく瓶を見つめてから、ふっと、小さく笑った。今日初めて見せた、心からの表情だったのかもしれない。
「――買います、これ」
「お代は」と十六は言った。「今度、答えが見つかったら、教えに来てください。それで結構です」
「変な商売ですね」
「よく言われます」
女性が帰った後、月夜が本を閉じて、十六の隣に立った。
「悪くない、初日ね」
「ええ」十六は、ショーウィンドウの外、夜空を見上げた。「悪くない」
そこには、開店の晩と同じ、少しだけ欠けた月が、静かに浮かんでいた。



エピローグ いらっしゃいませ

十六夜商店は、それから、静かに、しかし着実に、街の片隅で噂になっていった。
「探し物が見つかる店」ではなく、「探し物が見つからなくても、なぜか救われる店」として。
鏡月十六は、もう鏡を必要としなかった。世界のタネを見通す力は、とうに失われていた。だが、それでよかった。彼はもう、答えを売る人間ではない。
問いを、そっと差し出す人間になっていた。
その夜も、ドアベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」と十六は、いつものように言った。「何をお探しですか?」
見上げた窓の外では、今夜もまた、少しだけ欠けた月が、ためらいがちに、しかし確かに、昇っていた。
満月よりも、ずっと、綺麗だった。
(第三部・完)


作者より:十六夜商店は、これで一応の「開店」を迎えました。この店に、これからどんな客が訪れ、どんな「わからないもの」が並んでいくのか――それはまた、いつか。ご愛読、ありがとうございました。

十六夜商店

第四部 ――なくしたものを探す人――




第二十一章 雨の日の客

十六夜商店が開店して、半年が過ぎた。
噂は、思いのほか静かに、しかし確かに広がっていった。「探し物が見つかる店」ではなく「探し物が見つからなくても、なぜか救われる店」として。客は多くない。週に二人か三人。だが、来る客は皆、どこかに何かを抱えていた。
その日は、朝から冷たい雨が降っていた。
からん、とドアベルが鳴ったのは、閉店の少し前だった。入ってきたのは、傘も差さずにずぶ濡れになった、七十代とおぼしき老人だった。
「あの、すみません……こういう店だと、聞いたもので」
十六は慌ててタオルを差し出しながら、老人をカウンターの椅子に座らせた。月夜(今夜は珍しく、ひどく物静かな月夜だった)が、無言で温かい茶を淹れてくれた。
「何をお探しですか?」
十六がいつもの台詞を口にすると、老人はしばらく黙り込んだあと、絞り出すように言った。
「……妻の、声が」
「声、ですか」
「三年前に、亡くなりましてね。もう一度だけでいい。あれの声を、聞きたいんです」
店の中に、雨の音だけが響いた。



第二十二章 記憶の音

十六は、月夜と目を合わせた。月夜は、小さく頷いた。奥の棚――普段はあまり近づかない、一番奥まった棚――から、彼女は小さなガラスの瓶を持ってきた。
瓶の中には、何も入っていないように見えた。だが、耳を近づけると、かすかに、何かの気配のようなものが揺れていた。
「これは、『一度だけ聞ける、記憶の音』です」と十六は、瓶を老人の前にそっと置いた。
「妻の、声が……入ってるんですか」
「いいえ」十六は正直に答えた。「入っているわけじゃないんです。これは、お客様ご自身の記憶の中から、その声を、もう一度だけ、鮮明に呼び覚ますものです。実際に録音されていたわけではない声も、まるで昨日聞いたばかりのように、聞こえるようになります」
老人の目に、光が宿った。
「ただ」と十六は、ここで一度、言葉を切った。「ひとつだけ、知っておいていただきたいことがあります」
「なんでしょう」
「これを使うと――奥様との、最後の記憶が、変わります」
老人は、怪訝な顔をした。
「変わる、とは」
十六は、月夜の方を見た。月夜が、代わりに説明を引き取った。
「記憶というのは、思い出すたびに、少しずつ、その時の自分の気持ちで塗り替えられていくものなんです。今のあなたが、もう一度、あの人の声を鮮明に聞いてしまったら――その瞬間の感情が、今までの『最後の記憶』の上に、上書きされます。悪いことばかりじゃありません。でも、今、あなたの中にある『最後の記憶』とは、少し違うものに、変わってしまうんです」
老人は、しばらく黙っていた。
「今の、最後の記憶というのは……」
「病室で、あなたが眠ってしまっている間に、奥様が旅立たれた。それが、今のあなたの『最後の記憶』ではありませんか」
老人は、はっとした顔をした。
「……なぜ、それを」
「この店では、なんとなく、分かってしまうんです。すみません」



第二十三章 迷い

老人は、瓶を握りしめたまま、長い間、動かなかった。
「聞いたら……後悔、しますかね」
十六は、正直に答えた。
「分かりません。それは、俺にも、月夜にも、誰にも分かりません。それを決めるのは、お客様ご自身です」
「ずるいな、それは」
「ええ。ずるい商売です、うちは」
老人は、ふっと、笑った。涙混じりの、それでいて、どこか軽くなったような笑い方だった。
「ワシはね」と老人は言った。「あの日、女房の最期に、間に合わなかった。眠っていたんです。看病疲れで、うとうとと。目を覚ましたら、もう、息をしていなかった。それからずっと――最後に何か、声をかけてやれなかったことが、心残りで」
十六は、黙って聞いていた。
「もう一度、聞けるなら。何でもいい。怒られたって、いい。あれの、声が」
月夜が、静かに口を開いた。
「聞いたら、もしかしたら、今よりも辛い記憶に変わってしまうかもしれません。それでも?」
老人は、瓶をしっかりと両手で包んだ。
「それでも、いい。何もないより、ずっといい」
十六は、頷いた。
「それでは――」



第二十四章 声

瓶の蓋を開けると、光の粒がひとつ、老人の耳元に、ふわりと寄っていった。
老人の目が、大きく見開かれた。
店の中には何も聞こえなかった。十六にも、月夜にも。だが、老人にだけは、確かに、何かが聞こえているようだった。
老人の頬に、涙が伝った。だが、その顔は、店に入ってきたときよりも、ずっと穏やかだった。
やがて、老人は、ゆっくりと瓶を置いた。
「……なんて、言ってました?」と十六は、聞いていいものか迷いながら、小さく尋ねた。
老人は、少し笑って、首を振った。
「それは、内緒です。夫婦の、秘密ってことで」
「そうですね。すみません」
「いや」老人は、涙を拭いながら、続けた。「ワシの『最後の記憶』はね、たしかに、変わりました。眠ってしまって、間に合わなかったっていう記憶は、消えません。でも――今、聞こえた声のおかげで、あの日のワシは、決して見捨てられてたわけじゃなかったんだって、分かった。それだけで、もう、十分です」
十六は、何も言えなかった。ただ、深く頭を下げた。



第二十五章 代金

「お代は」と十六は言った。「今度、答えが見つかったら、教えに来てください。それで結構です」
老人は、不思議そうな顔をした。
「答え、というのは」
「奥様の声を聞いて、これから、あなたがどう生きていくか。それが決まったら――いつか、また、この店に、教えに来てください。それが、代金です」
老人は、しばらく考えてから、頷いた。
「分かりました。……ワシ、実はね、女房が亡くなってから、庭仕事もやめてしまってたんです。あれが好きだった、紫陽花も、枯らしたままで」
「では、それを」
「ええ。また、育ててみます。それで、いつか花が咲いたら、また来ます」
老人が店を出ていくと、雨は、いつの間にか止んでいた。



第二十六章 全知連合、また来る

老人が帰ったあと、店の奥で、何かがぼそぼそと動く気配がした。
「……あの、すみません、営業妨害するつもりはないんですが」
現れたのは、あの、元・全知連合担当官(今は詩人志望の不動産屋)だった。彼は、なぜか小型の測定器のようなものを手に、店の隅で何かを計測していた。
「なんですか、それ」
「いやあ、実は本部の一部からまだクレームが来てましてね。『地球の一商店が、こっそり記憶操作技術を使っているのではないか』と。私、査察に来ちゃったんです」
「勘弁してくださいよ」
「大丈夫です、大丈夫です。今、測定しましたけど――これ、記憶操作じゃないですね。ただの、『思い出す力』を、ちょっとだけ後押ししてるだけだ。宇宙のどんな法律にも、引っかかりません」
十六は、脱力した。
「それを言いに、わざわざ?」
「ついでに、紫陽花の苗、いいのがあるって聞いたので、分けてもらえないかなと」
「あなた、庭いじりもするんですか」
「詩を書くには、まず、庭が必要なんですよ」
月夜が、堪えきれずに、声を出して笑った。今夜の彼女にとって、それは、ずいぶん久しぶりの、心からの笑い声だった。



エピローグ 紫陽花

それから、季節がひとつ、過ぎた。
ある梅雨の晩、十六夜商店のドアベルが、また鳴った。
入ってきたのは、あの老人だった。手には、小さな鉢植え――淡い紫色の、紫陽花の花が、一輪、咲いていた。
「約束、守りに来ました」
「答え、見つかったんですね」
老人は、鉢植えをカウンターに置きながら、頷いた。
「これからは、女房の分まで、いろんなものを、育てていこうと思います。花も、孫との時間も、忘れかけてた友達付き合いも」
十六は、その鉢植えを、店の一番目立つ場所――ショーウィンドウの脇に、大切に置いた。
「これからは、この店の、看板がわりにさせてもらいます」
老人が帰ったあと、月夜が、紫陽花をじっと見つめながら、ぽつりと言った。
「いいわね、こういうの。値段のつかない、代金」
「うちの店、そんなのばっかりですけどね」
窓の外には、今夜もまた、少しだけ欠けた月が浮かんでいた。雨上がりの空気の中で、それは、いつもより少し、滲んで見えた。
満月よりも、ずっと、綺麗だった。
(第四部・完)


作者より:十六夜商店に、最初の常連客ができました。この店は、これからも、こうして一人ひとりの「わからなさ」に、そっと寄り添っていくのだと思います。次にドアベルを鳴らすのは、誰でしょうか。

十六夜商店

第五部 ――片方だけの靴――




第二十七章 答えのない質問、その後

紫陽花が店先に根付いてから、また季節がひとつ巡った、ある秋の夕方。
からん、とドアベルが鳴った。
入ってきたのは、見覚えのある女性だった。会社帰りらしいスーツ姿。だが、以前とは、まるで顔つきが違っていた。あの雨に濡れたような疲れた表情は、もうそこにはなかった。
「覚えてます? 一年くらい前に、変な瓶を買った者です」
十六は、思わず顔をほころばせた。
「もちろん、覚えてます。『答えのない質問』の――」
「はい。あれ、ずっと机の引き出しに入れてたんです。時々、眺めて」
「答え、見つかりました?」
女性は、少し照れくさそうに笑った。
「見つかった、というか……あの質問自体が、実は間違ってたんだって、気づいたんです。『何を頑張ればいいのか分からない』って悩んでたんですけど、そもそも、何かを頑張らなきゃいけないって思い込んでたこと自体が、しんどさの原因だったんですよね」
「それは、いい発見ですね」
「今の会社、辞めることにしました。次のことは、まだ何も決まってないんですけど――なんか、それでもいいかなって、思えるようになったんです」
十六は、頷いた。
「お代、まだいただいてませんでしたね」
「あ、それなんですけど」女性は鞄から、小さな包みを取り出した。「これ、お礼というか。手作りのクッキーなんですけど、よかったら」
「これは、ありがたくいただきます」
女性が帰ったあと、月夜が、包みを覗き込みながら言った。
「ほら、言った通りでしょう。答えが見つかったら、ちゃんと教えに来てくれる」
「ええ」十六は、クッキーの包みを、そっとカウンターの端に置いた。「こういうの、悪くないですね」
そのとき、店の奥のガラスケースの中で――「片方だけの靴」が、かすかに、震えたような気がした。



第二十八章 もう一人の客

その日の最後の客は、少し変わった来店の仕方をした。
ドアベルは鳴らなかった。気がつくと、若い女性が、もう店の中に立っていたのだ。
「あの……すみません、いつからいらっしゃいましたか」と十六は驚いて尋ねた。
「たった今です。ベル、鳴らなかったですか?」
「いえ、その……失礼しました。何をお探しですか?」
女性は、俯いたまま、答えなかった。手には、小さな紙袋を、大事そうに抱えている。
月夜が、じっとその女性を見つめていた。今夜の月夜は、いつになく、真剣な表情をしていた。
「探し物じゃなくて」と、ようやく女性が口を開いた。「置いていきたいものが、あるんです」
「置いていく、ですか」
十六は、それが今までの客とは逆の申し出であることに気づいた。十六夜商店は、これまで、誰かに何かを差し出す店だった。誰かから何かを引き取る、という発想は、なかった。
女性は、紙袋の中から、そっと、それを取り出した。
片方だけの、古い革靴だった。
十六は、思わず息を呑んだ。ガラスケースの中に、ずっと飾られていたものと、まったく同じ型の靴だった。



第二十九章 もう片方

「これ……」
十六が言いかけると、女性は小さく頷いた。
「気づいてます? そこのケースにある靴と、対なんです」
十六は、ガラスケースに歩み寄った。中の靴と、女性が持ってきた靴を見比べる。サイズも、革の質感も、経年の傷み方まで、たしかに一組だった。
「もう片方は、いつからうちに?」
「開店の準備をしてる頃から、ずっとありました。仕入れたわけじゃないんです。気がついたら、棚に、そっと置かれていて」
女性は、静かに息を吐いた。
「五年前です。わたし、この靴の持ち主と、一緒に暮らしてました。ある朝、いつものように、彼が出かけようとして――片方だけ、靴が見つからなくなったんです。急いでたから、彼は別の靴を履いて出ていきました。それきり、帰ってきませんでした」
十六は、黙って続きを待った。
「事故でした。誰のせいでもない、ただの、不運な事故。でも、わたしはずっと、あの朝、靴が片方見つからなかったことが、何か虫の知らせだったんじゃないかって、考え続けてしまって」
「その、もう片方の靴が――ここに?」
「はい。ずっと、押し入れの奥に、しまい込んでいました。捨てられなくて。でも、この店の噂を聞いて。『わからないもの』を扱う店があるって。もしかしたら、ここでなら、この靴の意味が――分かるんじゃないかと思って」
十六は、ゆっくりと首を振った。
「すみません。この店には、意味を教える力は、ありません」
女性は、少し傷ついたような顔をした。
「ただ」十六は、続けた。「意味を、一緒に探すことなら、できます」



第三十章 虫の知らせではなく

十六は、ガラスケースから、もう片方の靴を取り出した。両方の靴を、カウンターの上に、並べて置く。
五年の時を隔てて、靴は、ようやく一組になった。
「不思議なんですけど」と月夜が、静かに口を挟んだ。「この靴、うちに来たときから、片方だけで、寂しそうにしてたのよね。ずっと、もう片方を待ってたんじゃないかしら」
女性の目に、涙が浮かんだ。
「わたし、ずっと、あの朝のことを、悪い前兆だったんだって、思い込んでました。でも――」
「でも?」
「ただの、靴紐が緩んで、どこかに滑り落ちただけだったのかもしれない。……でも、あの朝から五年間、わたし、その『ただのこと』に、ずっと意味を探し続けていたんですね」
十六は、頷いた。
「虫の知らせだったのか、ただの偶然だったのか――それは、たぶん、誰にも分かりません。俺にも、月夜にも」
「うちの、専門ですもんね」
女性は、涙を拭いながら、笑った。
「その靴、引き取ってもらえますか。もう、家には、置いておかなくて、いいような気がします」
「はい。お預かりします」



第三十一章 空っぽになったケース

女性が店を出ていったあと、ガラスケースは、空になった。
「片方だけの靴」という商品は、もう、そこにはなかった。代わりに、一組の靴が、カウンターの隅に、静かに置かれていた。
「これ、どうします?」と十六が尋ねると、月夜は少し考えてから答えた。
「捨てないであげて。でも、もう、商品棚には、戻さなくていいと思う」
「じゃあ、どこに」
「店の入り口に、置いておきましょう。誰かが、これから何かを『置いていきたい』と思ったときの、目印として」
十六は、その通りにした。一組の靴は、それから、十六夜商店の入り口に、静かに佇むことになった。
夜、店を閉めながら、十六はふと思った。
この店は、「わからないもの」を売る店として始まった。だが、いつの間にか、「わからないもの」を、引き取る店にもなっていた。
売ることと、引き取ること。差し出すことと、預かること。
その両方が、この店には、必要なのかもしれない。



エピローグ 靴が揃った夜

冬が近づいた、ある十六夜の晩。
十六は、店じまいの前に、入り口に置かれた一組の靴を、そっと磨いていた。
「なんだか、その靴、あなたに似合ってきたわね」と月夜が言った。
「まさか。俺のサイズじゃないですよ、これ」
「サイズの話じゃないの」
十六は、その言葉の意味を、あえて聞き返さなかった。分からないままにしておくことも、この店では、大事な作法だった。
ドアベルが鳴った。今夜も、誰かが訪れる。
「いらっしゃいませ。何をお探しですか?」
見上げた窓の外には、今夜もまた、少しだけ欠けた月が浮かんでいた。
満月よりも、ずっと、綺麗だった。
そしてその美しさの意味は、今夜もまた、ほんの少しずつ、違って見えた。
(第五部・完)


作者より:十六夜商店には、売るだけでなく、引き取ることもできるようになりました。この店にはこれからも、いろんな形の「わからなさ」が、出たり入ったりしていくのだと思います。

十六夜商店

第六部 ――名前のない手紙――




第三十二章 古い封筒

入り口に一組の靴が置かれるようになってから、十六夜商店には、少しずつ変化が生まれていた。
「何かを買いに」ではなく、「何かを置いていきに」訪れる客が、ぽつり、ぽつりと現れるようになったのだ。使わなくなった結婚指輪。読み終えられなかった本の栞。もう会うことのない誰かからもらった、色褪せた手紙――そのどれもが、十六と月夜によって、丁寧に迎え入れられた。
その老人が店を訪れたのは、木枯らしの吹く、十二月のはじめだった。
年の頃、八十は過ぎているだろうか。杖をつき、背中を丸めながら、ゆっくりと店の中に入ってくる。手には、古い、黄ばんだ封筒を、大事そうに抱えていた。
「いらっしゃいませ。何をお探しですか?」
十六がいつもの台詞を口にすると、老人は、椅子に腰を下ろしながら、静かに答えた。
「探し物じゃ、ないんです。……これを、預かってもらえませんか」
老人は、封筒をカウンターに、そっと置いた。



第三十三章 宛先のない手紙

十六は、封筒を見つめた。表には、何も書かれていなかった。
「宛先は?」
「分かりません」
「差出人は?」
老人は、少し目を伏せてから、答えた。
「私です」
十六は、首をかしげた。
「では、なぜ、宛先が分からないんです? ご自分がお書きになった手紙、なんですよね」
老人は、しばらく黙っていた。店の中に、ストーブの音だけが、小さく響いていた。
「……もう、この世にいない人だからです」
十六は、思わず、月夜の方を見た。月夜も、静かに老人を見つめていた。今夜の彼女は、いつになく、穏やかな表情をしていた。
「亡くなった方への、手紙ということですか」
「そうとも言えますし、そうでないとも言えます」老人は、杖に両手を重ねながら、ゆっくりと言葉を選んだ。「この手紙はね、五十年前に、一度、書いたものなんです。若い頃、私には、好きな人がいました。でも、いろいろあって、伝えられないまま、その人は、遠くに行ってしまった。それきり、会うこともなかった」
「その方に、宛てた手紙ですか」
「いいえ」老人は、首を振った。「これは、その人が、まだこの世にいた頃に書いた手紙じゃないんです。ずっとあとになって――もう、その人がとっくに亡くなったと知ってから、書いたものなんです」



第三十四章 届かないと知りながら

十六は、封筒を、そっと手に取った。開けてもいいものか、迷った。
「読んでも、よろしいですか」
老人は、頷いた。
十六は、封を開けた。中には、一枚の便箋が入っていた。文字は、達筆とは言えないが、丁寧な、几帳面な筆致で、綴られていた。
十六は、その内容を、声には出さずに、目で追った。
――そこに書かれていたのは、謝罪でも、告白でも、なかった。ただ、静かな、日々の報告だった。あれから自分がどんな人生を送ったか。どんな仕事をして、どんな家族を持ち、どんな失敗をして、どんな小さな喜びがあったか。まるで、隣に座っている誰かに、世間話でもするような調子で、それは綴られていた。
最後の一文だけが、少し違っていた。
『あなたに会えなかった人生も、悪くはありませんでした。ただ、時々、あなたなら、これをどう思っただろうと、考えることがあります』
十六は、手紙を、そっと封筒に戻した。
「これを、書いたときの気持ちを、聞いてもいいですか」
老人は、小さく笑った。
「届かないと分かってて、書いたんです。おかしいでしょう」
「いえ」十六は、首を振った。「そんなことは、ないと思います」



第三十五章 届く、とは言わない

「なぜ、うちに、これを?」と十六は尋ねた。「捨てることも、できたはずです」
「捨てられなかったんです。かといって、家に置いておくのも、なんだか、違う気がして。……この手紙は、誰かに読まれるために書いたものじゃない。でも、誰にも読まれずに、私と一緒に消えてしまうのも、なんだか、寂しい気がして」
月夜が、静かに口を開いた。
「うちで、お預かりしましょうか」
老人は、少し驚いたような顔をした。
「預かって、どうするんです? まさか、届けてくれる、というわけでは」
「いいえ」十六は、正直に答えた。「届けるとは、言えません。うちには、そんな力は、ありません。宛先のない手紙は、どこにも届きません。それは、この店でも、変わらないことです」
老人は、少し肩を落とした。
「では、預かって、どうなるんです」
十六は、少し考えてから、答えた。
「ただ、ここに、あり続けます。誰かに読まれることもなく、捨てられることもなく。あなたが、これを書いたという事実だけが、ずっと、この店の奥に、残り続けます。――それだけでは、駄目でしょうか」
老人は、しばらく、黙って考えていた。
やがて、ゆっくりと、頷いた。
「それで、いいのかもしれません。届くことより、消えないことの方が、大事なのかもしれない」



第三十六章 お代

「お代は」と十六は、いつものように言おうとして、ふと、言葉を止めた。
老人の年齢を考えると、「今度、答えが見つかったら教えに来てください」という、いつもの約束は、あまりに、酷なもののように思えた。
十六が言葉を選んでいると、老人の方が、先に口を開いた。
「お代なら、もう、払っています」
「え?」
「今日、ここに来るまでの間、五十年分の思い出を、もう一度、全部、歩きながら思い出しました。それだけで、もう、十分な気がします」
十六は、静かに頷いた。
「では、それを、お代として、いただきます」
老人は、少し安堵したような顔をした。
「妙な店ですね、ここは」
「よく言われます」
「でも」老人は、杖をつきながら、立ち上がった。「悪くない店です。こういう店が、あってもいい」



第三十七章 奥の棚

老人が帰ったあと、十六は、その封筒を、店の一番奥――「片方だけの靴」があった場所の隣に、そっと置いた。
「宛先のない手紙、か」
「これから、増えるかもね」と月夜が言った。「届かないと分かってても、書かずにいられないものって、案外、多いものよ」
「月夜も、そういうもの、ありますか」
月夜は、少し黙ってから、いつもとは違う、どこか遠くを見るような目をして、答えた。
「――さあ。それも、うちの、専門じゃない?」
十六は、それ以上、何も聞かなかった。



エピローグ 消えない手紙

その晩、店を閉めたあと、十六は、奥の棚に並んだ品々を、ひとつずつ、眺めて回った。
答えのない質問。まだ名前のない感情。片方だった靴の記憶。そして今夜、新たに加わった、宛先のない手紙。
どれも、売り物ではなかった。誰かの人生の、行き場のなかった欠片たちだった。
十六は思った。この店は、きっと、これからも、こうして少しずつ、増えていくのだろう。答えの出ないものを、少しずつ、預かりながら。
窓の外には、今夜もまた、少しだけ欠けた月が浮かんでいた。
満月よりも、ずっと、綺麗だった。
その理由を、十六はもう、言葉にしようとはしなかった。理由は、たぶん、毎回、少しずつ違う。それでいいのだと、今は思える。
(第六部・完)


作者より:届かないと分かっていて、それでも書く。伝わらないと分かっていて、それでも残す。そういう人の営みを、この店は、これからも、静かに預かり続けるのだと思います。



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