常世の灯
――提灯を渡る夏
まえがき
人はだれしも、かたちのない重みを背負って生きているのかもしれません。
代々受け継がれてきた家柄や儀式といった大層なものばかりではなく、かつて共に笑い、いつの間にか見送ることになった大切な人の記憶。あるいは、時代の移ろいの中で静かに姿を消していく故郷の景色や、墓所の佇まい。そうした「失われていくもの」を前にしたとき、私たちはどこか足元が薄くなるような心細さを覚えます。
この物語は、山と海に挟まれた小さな町で、父から古びた盆提灯を受け継いだひとりの青年の手記であり、静かな祈りの記録です。
迎え火を焚き、送り火で還す。その当たり前の営みの果てに、彼が目にした「常世(とこよ)」の景色と、迷い火となった友の気配。それは決して特別な異界の出来事ではなく、今この瞬間も、私たちのすぐ隣で静かに紡がれている思いの姿なのかもしれません。
形が変わろうとも、繋ぐべき場所が失われようとも、誰かが誰かを思い、その名を呼ぶ心がある限り、灯りは途絶えることがない――。
夏の終わりの静けさの中で、この小さな物語が、あなたの中にある大切な誰かの火を、そっと温める一助となれば幸いです。
序
これは、実在するとも、しないとも言い切れない話だ。
僕は今も、あの夏に何が起きたのか、うまく人に説明する言葉を持たない。ただ、ひとつだけ確かなことがある。あの夏を境に、僕にとっての「先祖」という言葉の意味も、「弔う」という行為の意味も、それまでとはまるで違うものになった。
もし、これから語ることの中に、あなた自身の身の回りにも思い当たるような気配があるのなら――それは、決して珍しいことではないのかもしれない。この国のどこかで、今この瞬間にも、誰かが誰かの火を、静かに探し続けているのだろうから。
第一章 迎え火
八月十三日の朝は、いつも同じ匂いから始まる。
線香の匂いと、朝露に濡れた庭の草の匂い。それに、まだ日の昇りきらない空気の、ひんやりとした青い匂い。実家の勝手口を開けると、その三つが混ざり合ったものが、待ちかまえていたようにこちらへ流れ込んでくる。
実家のある町は、山と海の間に挟まれた、小さな盆地のような土地だ。人口は年々減り続け、僕が子供だった頃にはまだ賑わっていた商店街も、今ではシャッターの下りた店が目立つようになった。それでも、この町を包む山の稜線や、朝夕に鳴る寺の鐘の音、通学路だった川沿いの道は、記憶の中とほとんど変わらない。変わらないものと、静かに失われていくものとが、同じ町の中に、当たり前のように同居している。
僕はその匂いの中に突っ立ったまま、しばらく提灯を見つめていた。
仏間の鴨居に掛けられていた古い盆提灯は、去年までは父の手が下ろすものだった。骨は竹、紙は薄く黄ばんでいて、家紋が墨で描かれている。母によれば、僕の曾祖父の代から使っているものらしい。何度も紙を張り替え、骨を継ぎ足し継ぎ足し、そのたびに違う手が触れてきたはずなのに、なぜか「同じ提灯」だということになっている。
――お前が持っていきなさい。
去年の夏、父はそう言って、僕の手にその柄を握らせた。特別な儀式めいた言葉があったわけではない。むしろ拍子抜けするほど普通の口調だった。まるで「醤油を取ってくれ」とでも言うような。けれど僕は、その一言で自分の背骨に何か重たいものが継ぎ足されたのを感じた。
本家の長男というのは、そういうことなのだと思う。何かが劇的に変わるわけではない。ただ、それまで誰かがやっていた仕事の続きを、ある日から自分がやることになる。それだけのことだ。それだけのことのはずなのに、いざ自分の番になってみると、提灯の柄はやけに重く感じられた。
仏壇の前に座り、蝋燭に火を灯す。マッチの先が擦れる音、硫黄の匂い、そして小さな炎が芯に移る瞬間の、あの独特の間。僕はその火を提灯の中の蝋燭へと移し、ガラスの覆いをそっと閉じた。中で炎は一度大きく揺れ、それからすぐに落ち着いて、まっすぐに立った。
仏壇には、板状に収められた位牌がずらりと並んでいる。数えたことはなかったが、母がいつか「二百は超えているはずよ」と言っていたのを覚えている。二百。その数字を聞いたとき、僕はうまく実感が持てなかった。二百人という人間が、かつてこの家に生き、この土地で笑ったり泣いたりして、そして死んでいった。その全員の名前を、僕は知らない。知っているのは、せいぜい祖父母とその親の代くらいまでだ。それより前は、ただの文字の連なりでしかない。
けれど、その文字の連なりのおかげで、今ここに僕という一人の人間が立っている。そのことだけは、なぜかいつも妙にはっきりと感じられた。
「行ってくるよ」
誰に言うともなく呟いて、僕は提灯を提げて玄関を出た。
実家のある町では、盆の入りの朝、こうして提灯を提げて墓所へ出かけ、そこで灯した火を家まで持ち帰るのが習わしになっている。迎え火だ。近所を見渡せば、あちこちで同じように提灯を提げた人影が歩いている。老人もいれば、僕と同じくらいの年格好の者もいる。みな一様に、少し眠そうな、けれどどこか背筋の伸びた顔をしていた。
墓所までは歩いて十五分ほどだ。緩やかな坂を上り、竹林の脇を抜けると、山際にひらけた墓地が見えてくる。夏の朝の光はまだ柔らかく、墓石の影は長く伸び、蝉の声はまだ本調子ではなく、ところどころ試すように鳴いている。
僕は家の墓の前に立ち、提灯を足元に置いて手を合わせた。
――お迎えに上がりました。
声には出さない。心の中でそう唱えるだけだ。それでも毎年、この瞬間だけは、自分の言葉が届くべき相手が本当にそこにいるような気がしてならなかった。墓石の向こうの、目に見えない何かに向かって。
線香を上げ、墓前の小さな蝋燭に、提灯の火を移す。その火を、今度はもう一度提灯の中へと戻す。行きは家の火を墓へ、帰りは墓の火を家へ。そうやって火を渡すこと自体が、この儀式の核心なのだと、子供の頃に祖母から聞いた覚えがある。
しかし今年は、何かが違っていた。
提灯の中の炎に、墓前の蝋燭の火を移した瞬間――ほんの一瞬のことだった――炎が、ふっと大きくなった気がした。風もないのに、ろうそくの火が突風を受けたように揺らぎ、それから元の大きさに戻る。ただそれだけのことだ。気のせいだと言われれば、それまでの現象だった。
けれど僕は、その一瞬に、何かとても大勢の視線を感じた。まるで、炎の向こう側にたくさんの目が並んでいて、こちらを覗き込んでいるような。ぞくりとしたが、同時にそれは、恐怖というより懐かしさに近い感覚だった。
僕は提灯のガラスの中で静かに燃える炎をしばらく見つめた。何も変わったところはない。いつも通りの、小さな橙色の炎だ。
それでも、その火を提げて墓所を後にするとき、僕は妙な確信を抱いていた。――今年の迎え火は、いつもと違う。何かを連れて帰ることになる。
第二章 提灯を提げて
墓所からの帰り道は、行きとは違う道を通ることが多い。町を大きく迂回するような形になるのだが、これも昔からの決まりのようなもので、理由を聞いたことはない。ただ、その道すがら、近所の家々の墓の様子や、迎え火の提灯の灯りを見て歩くのが、僕は子供の頃から好きだった。
道中、見知った顔とすれ違うたびに、軽く会釈を交わした。隣の田村さんの家では、腰の曲がったおばあさんが、孫らしき小さな男の子の手を引いて、同じように提灯を提げて歩いていた。少し先には、去年会社を早期退職したという幼馴染みの父親が、久しぶりに帰ってきたらしい息子と並んで歩いている姿もあった。誰もが一様に、同じ朝の同じ儀式を、それぞれの事情を抱えながら、それでも続けている。
この光景も、あと何年見られるだろうか。ふと、そんなことを考えてしまう自分がいた。この道沿いの家々のうち、いくつが、この先も同じように迎え火を続けていけるのだろう。跡取りがいない家、遠方に移り住んでしまった家、体力的に墓参りそのものが難しくなってしまった老夫婦だけの家。この町では、そうした話を、もう珍しくもなく耳にするようになっていた。
坂を下りきったところに、幼馴染みの家の墓地がある――はずだった。
数軒隣り、小さな松の木を目印にした一角。子供の頃、亮と二人でよく肝試しと称して忍び込んでは、大人に叱られた場所だ。亮の家の墓は、その松のすぐ脇にあった。古い、けれど手入れの行き届いた墓石で、正面に「安らかに眠れ」という彼の曾祖父の代からの家訓めいた言葉が刻まれていたのを覚えている。
僕はいつもの癖で、そちらへ視線をやった。
なかった。
松の木はまだそこに立っている。しかし、その脇にあったはずの墓石は、影も形もなかった。地面には四角く土が均され、まだ真新しい砂利が敷かれている。まるで最初から何もなかったかのように、きれいに、あまりにきれいに整地されていた。
僕は立ち止まり、しばらくその場所を見つめた。提灯の柄を握る手に、じわりと汗がにじむ。
ああ、と小さく声が漏れた。息を呑んだ。
頭では理解していたはずだった。近頃、後継ぎのいない家が増えて、墓仕舞いをする話をよく耳にする。うちの近所でも、去年一件、その前の年にも一件あった。珍しいことではない。むしろ、これからますます増えていくだろうと、誰もが分かっている変化のひとつだ。
けれど、それがまさかあいつの家だとは、思ってもみなかった。
亮の両親は、まだそれほど年老いてはいなかったはずだ。それに、亮には妹がいる。彼女が結婚して家を出たという話は聞いていたが、墓を仕舞うところまで話が進んでいたとは知らなかった。もっとも、僕が知らなかっただけで、この一年、実家との連絡も疎かにしていたのは自分自身だ。知らなくて当然だったのかもしれない。
僕は提灯を提げたまま、しばらくその場所に立ち尽くしていた。
ここに、亮がいた。二年前までは。
いや――厳密に言えば、それは正確ではない。二年前、亮はもうこの世界にいなかった。彼が事故で死んだのは、僕たちが二十六になった年の冬だった。あの日から、この墓地の一角は、亮そのものが「収まっている場所」になった。少なくとも僕の中では、そういうことになっていた。
その場所が、今、更地になっている。
不思議な感覚だった。悲しいというよりも、足元が急に薄くなったような、頼りない感じ。まるで、自分が今まで信じてきた地図の一部が、忽然と白紙に戻ってしまったような。
提灯の炎が、僕の手の中で小さく揺れた。風はない。それなのに、その炎はまるで何かに呼応するように、松の木の方向へとわずかに傾いだ。
僕は目を凝らした。気のせいだと思いたかった。しかし、松の木の根元、更地になったその一角に、ほんの一瞬、蜃気楼のように淡い光の揺らぎが見えた気がした。橙色でも、白でもない、名付けようのない色の光。それは瞬きの間に消えた。
僕はしばらくそこに立ち尽くしていたが、やがて我に返り、家路を急いだ。提灯の中の火を、絶やすわけにはいかない。それだけは、体に染み付いた習慣として、僕をその場から動かした。
歩きながら、僕はずっと、あの止まった時間のような更地のことを考えていた。そして、久しく開いていなかったブログのことを思い出していた。
あのブログを始めたのは、亮が死んだ直後だった。誰に読んでもらうためというよりも、自分の中に溜まっていくものをどこかに吐き出さなければ、立っていられなかったからだ。半年ほど熱心に更新して、それから徐々に間隔が空き、この一年はほとんど開いてすらいなかった。
あいつの家の墓が消えていた。その事実が、止まっていた何かを、また動かし始めているのを感じた。
第三章 父の背中
家に戻ってから、僕は提灯の火を仏壇の蝋燭へと移し、しばらくの間、その場に座り込んでいた。頭の中では、まだあの松の木の下の更地が、消えることなく像を結んでいた。
台所からは、母が朝食の支度をする音が聞こえてくる。まな板の上で何かを刻む音、鍋の蓋がかたかたと鳴る音。いつも通りの、何でもない夏の朝の音だった。その日常の音が、かえって僕の中の落ち着かなさを際立たせた。
父は縁側に座り、湯呑みを片手に、庭の朝顔をぼんやりと眺めていた。定年退職してからというもの、父はこうして朝の時間を、ただ庭を眺めることに使うようになった。若い頃は、そんな悠長なことをする人ではなかったはずだ。
「亮の家の墓、なくなってた」
僕は父の隣に腰を下ろしながら、そう切り出した。父は湯呑みを口に運びかけた手を止め、少しの間、黙っていた。
「そうか」
それだけだった。驚いた様子はなかった。おそらく、噂くらいは耳にしていたのだろう。
「父さんは、寂しくないの。同級生の家の墓が、こうやってどんどん消えていくの」
父は湯呑みを縁側に置き、少し考えるような間を置いてから、口を開いた。
「寂しいさ。当たり前だろう。だがな、寂しいということと、それを止められるかということは、また別の話だ」
「うちは、どうなの。この先」
僕がそう尋ねると、父は初めて、こちらに顔を向けた。
「お前が継いでくれると、信じているよ」
その一言に、僕は何も言い返せなかった。信じている、という言葉の重さが、朝の光の中で、静かに僕の肩にのしかかってきた。
「父さんは、この提灯を受け継いだとき、どう思った」
父は少し笑った。自嘲めいた、それでいてどこか懐かしそうな笑い方だった。
「正直、重荷だと思ったよ。俺が二十代の頃は、この家からとにかく出ていきたかった。田舎の因習じみたことに、うんざりしていたんだ。位牌が二百枚あろうと三百枚あろうと、俺には関係ないと思っていた」
意外な告白だった。父がそんなふうに感じていたとは、想像したこともなかった。
「それが、どうして」
「お祖父さんが倒れた年があってな。お前が生まれる少し前だ。あのとき、初めて本気で、この家のことを考えた。誰かがやらなければ、この家に伝わってきたものが、そこで途切れてしまう。途切れさせてしまっていいのか、と自分に問うたとき、答えは自然と決まっていた」
父は湯呑みを再び手に取り、ゆっくりと茶をすすった。
「継ぐというのはな、何かを我慢することじゃないんだ。むしろ、自分より大きなものの一部に、自分を差し出すということに近い。差し出した分だけ、自分がその大きなものと、繋がっていられる。俺はそう思うようになった」
僕は父の横顔を見つめた。長年、日に焼けてきた肌に刻まれた皺の一本一本が、この家と、この土地で過ごしてきた時間の長さを物語っているようだった。
「怖くなかったの。自分より大きなものに、差し出すのが」
「怖かったさ、そりゃあ。だがな、怖さと、やるべきことは、両立するもんだ。怖いから逃げる、というのは、案外、後になって一番後悔する選び方だぞ」
父はそう言って、少し照れくさそうに笑った。柄にもなく語りすぎたと思ったのかもしれない。
「亮の家は、繋がりを断つ方を選んだんだね」
「断つ、というのは、少し違うと思うぞ」
父は静かに首を振った。
「あの家は、繋がりの形を変えただけだ。墓という場所に頼らない繋がり方を、選んだんだ。それが正しいか間違っているか、俺には分からん。ただ、あそこの親御さんが、簡単にそれを決めたとは思えん。相当に、悩んだ末のことだろう」
その言葉は、亮の母から直接聞くよりも先に、僕の胸に、静かに沁みこんできた。
父は湯呑みの中身を飲み干すと、立ち上がりながら、僕の肩に軽く手を置いた。
「お前がこれから、この提灯をどう継いでいくかは、お前次第だ。俺のやり方をそのまま真似る必要もない。ただな……継ぐというのは、決して一人だけの仕事じゃないということだけは、覚えておくといい」
その言葉を残して、父は台所の方へと戻っていった。僕は縁側に一人残され、朝顔の蔓が、支柱に沿って一日ごとに伸びていくのを、しばらくの間、ぼんやりと眺めていた。
一人だけの仕事ではない。その言葉が、後になって、僕の中で何度も反芻されることになる。
第四章 常世の兆し
その日の夕方、僕は仏間で、久しぶりに祖母と二人きりになった。
祖母は今年で八十六になる。足腰はまだしっかりしているが、耳が少し遠くなった。それでも、この家に関することとなると、母よりも祖母の方がずっと詳しい。位牌の数を教えてくれたのも、迎え火と送り火の細かい作法を教えてくれたのも、すべて祖母だった。
「今日、墓所で妙なものを見た気がする」
僕がそう切り出すと、祖母は畳の上に座ったまま、湯呑みを両手で包むようにして、ゆっくりとこちらを見た。
「妙なもの、とは」
「提灯の火が、急に大きくなった。それと……亮の家の墓が、なくなっていた」
祖母はしばらく黙っていた。長い沈黙だった。障子から差し込む夕方の光が、畳の目に沿って長い影を作っていた。
「亮くんの家、とうとう仕舞ったんだねえ」
祖母の声には、驚きよりも、何かを確かめるような響きがあった。
「知ってたの」
「噂には聞いていたよ。あそこの跡取りは女の子一人だったから、いずれはと思っていた」
「……それだけ? 火が大きくなったことは」
祖母は湯呑みをそっと畳の上に置いた。それから、しばらく僕の顔を見つめてから、ようやく口を開いた。
「お前も、もうその年頃だからね。話しておいた方がいいのかもしれない」
僕は黙って続きを待った。
「この家に伝わる話でね。迎え火や送り火は、ただの決まり事じゃないんだよ。あの火はね、渡るための火なんだ」
「渡る、って」
「こちらとあちらを、渡る」
祖母はそう言うと、仏壇の方へ視線を移した。二百を超える位牌が、夕方の薄闇の中で、静かに並んでいる。
「あの位牌の一枚一枚が、ただの木の板だと思うかい。違うんだよ。あれはね、こちらとあちらを繋ぐ、目印のようなものなんだ。あちらというのはね……この世のすぐ隣にある、もうひとつの世界のことだよ。うちのお祖母ちゃんは、常世と呼んでいた」
「常世」
「行ったことのある者は、あまり多くを語らないものだけどね。あちらでは、時間の流れ方がこちらとは違うらしい。亡くなった人たちが、こちらで生きていたときの姿のまま、静かに留まっている場所だそうだ。お盆というのは、その常世との境がいっとき薄くなる時期でね。迎え火はその境を開く鍵で、送り火はその境を、また閉じるための鍵なんだよ」
僕は半信半疑のまま、それでも黙って聞いていた。夕方に聞くこの手の話は、いつも妙に説得力がある。
「じゃあ、亮の家の火が大きくなったように見えたのは」
「それはたぶん、亮くんのご先祖さまたちが、今年はもう戻る場所がないと分かって、慌てて別の火を探したんだろうね。墓を仕舞うということはね、単に骨を移すというだけの話じゃない。境を繋ぐ目印そのものを、消してしまうということなんだよ」
祖母の声は淡々としていたが、その言葉の重みは、僕の胸に静かに沈んでいった。
「消えたら、どうなるの」
「戻る場所を失った火は、迷い火になる。境の狭間を、当てもなく漂うようになるんだと聞いている。運が良ければ、他所の家の火に紛れて、一緒に常世へ戻れることもあるらしい。けれど、それもいつまでも続くわけじゃない。送り火の刻限が過ぎれば、境はまた閉じてしまう。閉じたあとに、まだ迷ったままの火がどうなるのか……それは、私も聞いたことがないよ」
僕は仏壇の位牌の群れを見つめた。二百を超える名前の連なり。その一枚一枚が、ただの記録ではなく、この家という「戻る場所」を持つ者たちの証だということが、今になってようやく実感を伴って迫ってきた。
そして、その戻る場所を持たない者が、今、亮という形をして、どこかを彷徨っているかもしれないということも。
「じゃあ、うちみたいな本家は、その分、多くの火を、ちゃんと繋ぎ止めておく役目がある、ということ」
僕がそう尋ねると、祖母は静かに頷いた。
「そういうことだね。本家というのは、ただの家系の中心という意味だけじゃない。多くの火の、行き場を守り続ける器のようなものなんだよ。だからこそ、代々、長男には重い役目が回ってくる。お前の父さんも、その前のお祖父さんも、みんな同じ重さを背負ってきたんだ」
「重いね」
「重いよ。でもね」
祖母は、僕の手に、自分の手をそっと重ねた。骨ばった、しかし温かい手だった。
「その重さは、一人で背負うものじゃない。二百を超える火が、みんなお前を支えてくれているんだよ。お前が迷ったときは、あの位牌の一枚一枚が、きっと力を貸してくれる。そう思って、生きていけばいい」
その言葉に、僕は少しだけ、肩の力が抜けるのを感じた。
「お祖母ちゃんは、常世に行ったことがあるの」
僕がそう尋ねると、祖母は少しだけ目を細めて笑った。長い間、何かを懐かしむような笑い方だった。
「さあ、どうだったかねえ」
はぐらかすようなその答えに、僕はそれ以上踏み込むことができなかった。ただ、その夜、仏間に灯る提灯の火を眺めながら、僕はもう一度、亮のことを、心の中で強く思い浮かべていた。
第五章 古い日記
その夜、僕は眠れないまま、蔵の奥にしまわれている古い荷物のことを思い出していた。子供の頃、探検と称して蔵に忍び込んでは、古い家具や、正体の分からない道具に胸を躍らせたものだった。あの中に、確か、曾祖父の代から伝わる古い日記帳や書付の束があったはずだ。
懐中電灯を片手に、僕は蔵へと足を運んだ。夜の蔵は、昼間とはまるで違う顔をしている。埃と古い木材の匂い、行李や長持ちが並ぶ薄闇の中を、僕は記憶を頼りに奥へと進んだ。
目当ての木箱は、すぐに見つかった。中には、和紙を綴じた古い帳面が、幾冊も重なっている。字は達筆すぎて、すぐには読み解けないものも多かったが、比較的新しい――といっても大正から昭和初期にかけてのものらしい――帳面の中に、僕の目を引く記述があった。
筆者は、僕の高祖父にあたる人物のようだった。日記というよりは、家の記録や、農作業の覚書のような性質のものだったが、その中に、ぽつりぽつりと、不思議な記述が混じっていた。
「盆の入りの夜、提灯の火、常より大きく揺れる。近隣の某家、去る春に墓を仕舞いたる由。哀れなる火、しばし迷いたるを見る」
僕は息を呑んだ。今回、僕自身が体験したことと、あまりにも似通った記述だった。少なくとも百年近く前から、この家の人間は、同じような現象を経験し、それを記録していたのだ。
さらにページをめくると、こんな一文もあった。
「送り火の刻限、迷い火を導くには、名を呼び、恩を語るに如くはなし。血縁の有無を問わず。ただし、無理に留め置かんとするは、かえって仇となる。この理、亡き祖母より伝え聞く」
まるで、僕がこの三日間で、身をもって学んだことを、そのまま言い当てているかのような文章だった。祖母の言っていたことも、あながち、この家だけの言い伝えというよりは、代々受け継がれてきた、確かな知恵の体系なのだと、僕は理解した。
さらに奥のページには、もっと古い時代のものらしい、別の筆跡による書付も挟まっていた。こちらは古文めいた候文で、僕にはほとんど解読できなかったが、「常世」「迎え火」「送り火」といった単語が、繰り返し登場しているのだけは見て取れた。
この家は、少なくとも数世代にわたって、この不思議な現象と向き合い、それを記録し、次の世代へと伝え続けてきたのだ。二百を超える位牌の列は、単に血縁の記録であるだけでなく、この現象そのものへの向き合い方の、長い長い試行錯誤の証でもあったのかもしれない。
さらにページをめくっていくと、高祖父自身の体験らしき記述に行き当たった。文字は所々かすれていたが、辛抱強く読み進めるうちに、おおよその内容がつかめてきた。
それによれば、高祖父にはかつて、幼くして亡くした弟がいたという。流行り病で、七つになる前に世を去った弟の墓は、家の事情でその後、一度整理されることになった。まだ「墓仕舞い」という言葉が一般に使われるより、ずっと前の時代の話だ。高祖父は、その後何年もの間、盆になるたびに、名も持たぬままさまよう弟の火を探し続けたらしい。
「幾年か過ぎ、弟の火、ようやく穏やかになるを見る。何をしたるにあらず。ただ、来る年も来る年も、その名を呼び続けたるのみ。急く心を捨て、待つことこそ肝要なりと、この身をもって知る」
その一文を読んだとき、僕は胸の奥が熱くなるのを感じた。何年もかけて、ただ弟の名を呼び続けた高祖父の姿が、まるで目の前に浮かぶようだった。すぐに答えの出ないことを、それでも辛抱強く続けること。それこそが、この現象と向き合う上での、何よりの心得なのだと、時代を超えて伝わってくるようだった。
僕が今、亮のために為そうとしていることも、あるいは、一度で終わる話ではないのかもしれない。今日、明日で全てが解決しなくても、思い続けることさえやめなければ、いつか必ず、道は見つかる。高祖父の言葉が、そのことを、静かに保証してくれているように感じられた。
僕はその帳面を、そっと胸に抱いた。誰に見せるでもなく、ただ、自分の中にあった確信を、より確かなものにするために。
蔵を出ると、外はすでに白み始めていた。八月十四日の朝が、静かに始まろうとしていた。あと一日で、あの野原の刻限がやってくる。僕は帳面を持ったまま、しばらく庭先に立ち、夜明けの空を見上げていた。
第六章 亮
亮と出会ったのは、小学校に上がる前だった。この町の子供の数など知れているから、幼稚園も小学校も中学校も、ずっと同じ顔ぶれで過ごすことになる。その中でも、亮とは家が近く、母親同士も仲が良かったこともあって、物心つく前から兄弟のように育った。
夏になれば、二人で自転車を漕いで川に行き、蝉を捕まえ、盆の時期には互いの家の迎え火を見に行き合ったりもした。亮の家は分家筋で、うちのように二百を超える位牌があるわけではなかったが、それでも彼の家の仏壇には、彼の祖父母や曾祖父母の位牌が、ちゃんと並んでいた。
「うちは本家じゃないから、気楽でいいよ」
高校生の頃、亮はそう言って笑っていた。長男である僕が、いずれ家を継ぐことについて重たい顔をしていたのを見透かしてのことだったと思う。彼自身も長男だったが、家の跡取りとしての重さは、うちほどではなかったのだろう。あるいは、彼なりの気遣いだったのかもしれない。
大学は別々になった。僕は都会へ出て、亮は地元に残り、家業の手伝いをしながら、消防団に入り、青年会の活動にも顔を出すようになった。会うたびに、彼はどんどんこの町に根を張っていくように見えた。僕はその逆で、帰省するたびに、自分がこの町からどんどん遠ざかっていくような感覚を覚えていた。
それでも、盆と正月に帰れば、必ず亮とは会っていた。互いの近況を報告し合い、たわいもない話で笑い合う。その関係は、大人になっても不思議と変わらなかった。
亮とは、他にも数えきれないほどの思い出がある。中学の頃、二人で自主的に作った「町の妖怪マップ」というものがあった。山の奥にある古い祠や、誰も近寄らない廃屋、夜になると光ると噂されていた墓地のことなど、町のあちこちに散らばる不思議な噂を、自転車で巡って調べ上げ、ノートにまとめたものだ。今思えば、あの頃から僕たちは、この町の「見えないもの」に惹かれていたのかもしれない。
高校の文化祭では、二人で肝試し企画を運営した。亮は脅かし役に徹し、僕は道案内をした。あの日、亮が白い布を被って暗闇から飛び出し、後輩の女子生徒を本気で泣かせてしまい、後で二人揃って先生にこっぴどく叱られたことを、今でも鮮明に思い出せる。
二年前の冬、亮は事故で死んだ。消防団の活動中、崖崩れの二次災害に巻き込まれたのだと聞いた。詳しい話は、今でもあまりよく分かっていない。分かっているのは、電話越しに母からその知らせを聞いたとき、僕は言葉を返すことができず、しばらく黙って立ち尽くしていたということだけだ。
葬儀には、この町のほとんどの人間が集まったように思う。亮の両親は憔悴しきっていたが、それでも気丈に、参列者一人一人に頭を下げていた。妹は、まだ幼さの残る顔で、ただ茫然と座っていた。
僕はあの日、何を話したのかも、どんな顔をしていたのかもよく覚えていない。ただ、帰りの電車の中で、無性に何かを書き残しておかなければという衝動に駆られたことだけは、はっきりと覚えている。その夜のうちに、僕は古いブログのアカウントを引っ張り出し、亮との思い出を、思いつくままに書き殴った。
それが、あのブログの始まりだった。
最初のうちは、毎日のように更新した。亮との子供時代のこと、彼の口癖、彼が好きだった食べ物、彼が最後に僕に送ってきたメッセージのこと。書いても書いても、何かが埋まる感じはしなかった。むしろ書けば書くほど、彼がもうこの世にいないという事実が、輪郭をはっきりとさせていくようだった。
半年ほどして、更新は徐々に間遠になっていった。仕事が忙しくなったこともある。だが本当のところは、書くことに疲れたのだと思う。悲しみを言葉にすることと、悲しみそのものと向き合うことは、似ているようで、まったく別のことだった。僕は前者だけを繰り返し、後者からはずっと目を逸らし続けていたのかもしれない。
この一年、僕はほとんど実家にも帰らなかった。理由のひとつは、単純に仕事が忙しかったからだ。会社では新しいプロジェクトを任され、休日出勤も珍しくなかった。けれど、それだけが理由ではなかったことを、僕自身、うすうす分かっていた。
実家に帰るということは、あの家の空気に触れるということだ。二百を超える位牌の連なりに囲まれ、本家の長男としての自分と向き合わなければならない。そして何より、亮のいない町を歩かなければならない。都会の雑踏の中にいる間は、そうした重さから、目を逸らしていられた。忙しさは、ある意味では、都合の良い言い訳でもあった。
父から提灯を渡されたときも、正直なところ、その重さを実感として受け止めきれていなかった。ただ形式的に受け取っただけで、心のどこかでは、まだ自分が本家の長男として何かを背負う覚悟には至っていなかったのだと思う。
けれど今日、亮の家の墓所が消えているのを見た瞬間、二年間ずっと見ないふりをしてきた何かが、一気に胸の中に押し寄せてきた。
あいつは、ちゃんと「戻る場所」を持てているのだろうか。
祖母の話が本当だとするなら――もちろん、そんなことを本気で信じるのは、どうかしていると自分でも思う。それでも、僕はもう、信じないという選択肢を選べなくなっていた。あの更地で見た、名付けようのない色の光の揺らぎが、頭から離れなかった。
その夜、僕は布団に入ってからも、なかなか寝付けなかった。窓の外では、蝉の声に混じって、遠くの家々から線香の匂いが風に乗って流れてくる。盆の夜というのは、いつもどこか、空気の密度が違う気がする。
僕は目を閉じ、亮の顔を思い出そうとした。最後に会ったのは、彼が死ぬ三ヶ月ほど前、正月に帰省したときだった。彼は少し痩せていて、それでもいつもの調子で、消防団の後輩の失敗談を笑いながら話していた。
――また夏に会おうな。
別れ際、彼はそう言った。何気ない、いつも通りの挨拶だった。あの言葉が、結果として最後の約束になった。
僕はその約束を、まだ果たせていない。
思い返せば、亮とは、一度だけ大きく喧嘩をしたことがあった。大学を出て、僕が都会での就職を決めたときのことだ。
「お前まで出ていくのか」
電話越しに、亮はそう言った。責めるような口調ではなかったが、その声には、隠しきれない落胆が滲んでいた。当時の僕は、それを鬱陶しく感じてしまった。
「お前と違って、俺はこの町にずっといるつもりはない」
売り言葉に買い言葉で、僕はそんなことを言ってしまった。今思えば、ひどい言い方だった。亮は何も言い返さず、ただ「そうか」とだけ言って、電話を切った。
それから半年ほど、僕たちはほとんど連絡を取らなかった。互いに意地を張っていたのだと思う。関係が元に戻ったのは、次の盆に、僕が実家に帰省したときだった。墓所で偶然顔を合わせ、気まずい沈黙の後、亮の方から「久しぶり」と声をかけてきた。それだけで、それまでの気まずさが、嘘のように消えていった。
「悪かったな、あんな言い方して」
僕がそう謝ると、亮は笑って、軽く肩を小突いてきた。
「別にいいさ。お前の選んだ道だ。俺はこっちで、こっちなりにやっていくから」
その言葉に、僕はどれだけ救われたか分からない。それ以来、僕たちは互いの生き方の違いを、責めることも、羨むこともなく、ただそれぞれの道として受け入れ合えるようになった。少なくとも、僕はそう思っていた。
けれど今、あの更地を目の当たりにして、僕は改めて考えずにはいられなかった。もし僕が、あのとき意地を張らずに、この町に残る道を選んでいたら。あるいは、もっと頻繁に帰省して、亮ともっと多くの時間を過ごしていたら。何かが、違っていたのだろうか。
答えの出ない問いだと分かっていた。それでも、考えることをやめられなかった。
第七章 迷い火
盆の中日にあたる八月十四日は、家にいる先祖たちをもてなす日とされている。仏壇には、いつもより多くの供物が並び、家族総出で、ただそこにいるだけの一日を過ごす。特別な儀式があるわけではない。ただ、静かに、丁寧に、時間を過ごす。それが習わしだった。
しかし僕は、その日の夜、家族が寝静まったのを確認してから、そっと家を出た。手には、あの古い提灯を提げていた。
自分でも、何をするつもりなのか、はっきりとは分かっていなかった。ただ、あのとき墓所で見た光の揺らぎを、もう一度確かめたいという衝動が、僕を突き動かしていた。あるいは、祖母の言葉を、自分自身の目で確かめてみたいという気持ちもあったのかもしれない。
夜の墓所は、昼間とはまるで違う顔をしていた。あちこちの提灯や灯籠に火が灯され、墓地全体が、無数の小さな橙色の光で埋め尽くされている。まるで、地上に星空が降りてきたようだった。蝉の声はやみ、代わりに虫の音が、絶え間なく空気を震わせている。
僕は亮の家があった場所――今は更地になった一角――の前に立ち、提灯の火を掲げた。
「亮」
声に出して呼んでみた。返事があるとは思っていなかった。ただ、そうせずにはいられなかった。
しばらく、何も起こらなかった。虫の声だけが響いている。僕は自分がひどく馬鹿げたことをしているように感じ始めていた。
そのとき、提灯の中の炎が、また大きく揺らいだ。今度は、はっきりと分かるほどに。炎は上へ向かって細く伸び、まるで手招きするように、揺れながら形を変えていった。
僕は息を呑んだ。目の前の空間が、陽炎のように歪んで見えた。耳の奥で、水の中に潜ったときのような、こもった音が響く。足元の感覚が消え、体が急に軽くなったかと思うと、次の瞬間には、重力が反対側から引っ張るような奇妙な浮遊感に包まれた。夏の夜の匂いが遠のき、代わりに、どこか懐かしい、乾いた線香のような匂いが鼻をかすめる。景色の輪郭が滲み、色が抜け落ち、そして――気がついたときには、僕は見たこともない場所に立っていた。
そこは、どこまでも続く薄暗い野原のようだった。地面は柔らかい光を帯びていて、足元から淡い霧のようなものが立ち上っている。空を見上げても、月も星も見当たらない。それでいて、闇というほど暗くもない。全体が、ぼんやりとした灰色がかった光に包まれていた。
そして、その野原のあちこちに、無数の小さな炎が浮かんでいた。人の背丈ほどの高さに、ふわりふわりと漂う、橙色や白や、時には青みがかった炎。それぞれの炎の下には、小さな板のようなものが、地面に突き立っている。位牌に似た形をしていた。
僕はおそるおそる、一番近くの炎に近づいた。板には、見覚えのない名前が刻まれていた。おそらく、うちの家の遠い先祖の誰かなのだろう。炎はゆっくりと脈打つように明滅し、僕が近づくと、まるで応えるようにわずかに揺れた。
それは、恐怖よりも、ただただ懐かしさに似た感情を僕に呼び起こした。
よく見ると、炎の形や色合いには、それぞれ微妙な個性があった。長く穏やかに、大きくゆったりと揺れる炎もあれば、せわしなく、小刻みに瞬く炎もある。生前のその人の性格が、炎の揺らぎ方に、そのまま表れているのではないかと、僕はふと思った。気の長かった人、せっかちだった人、優しかった人、頑固だった人。誰であったかは分からずとも、その人らしさだけは、確かにそこに残っている。
板に刻まれた文字を辿っていくと、時代がだんだんと遡っていくのが分かった。近くには、僕の記憶にある祖父や、会ったこともない曾祖父母の名前があり、そこから離れるにつれて、江戸期を思わせる旧い名乗りへと変わっていく。さらにその奥には、文字がすっかり摩耗して読み取れないほど古い板もあった。それでも、その炎は、他のものと変わらず、静かに、しかし確かに燃え続けていた。
時間の感覚が、この場所にはないのかもしれない。百年前に亡くなった人の炎も、去年亡くなった人の炎も、同じ強さで、同じ穏やかさで、そこに在り続けている。それは、僕がこれまで抱いていた「死」というものの概念を、静かに、しかし根底から揺さぶるものだった。
僕はゆっくりと歩きながら、炎の間を進んだ。どの炎も、それぞれのリズムで静かに燃えている。中には、二つ、三つとまとまって漂っているものもあった。夫婦だろうか、それとも親子だろうか。想像すると、胸の奥が温かくなるような、切なくなるような、複雑な気持ちになった。
ここが、常世なのだ。祖母の言葉を、僕はようやく実感として理解した。
しかし、しばらく歩くうちに、僕は野原の様子が少しずつ変わっていくのに気づいた。整然と、それぞれの場所に留まっていた炎の群れが途切れ、代わりに、あてもなくふらふらと漂う、不安定な炎が目につくようになってきた。板を持たない炎だった。地面に根を持たず、風もないのに、あちこちへとさまよっている。
迷い火だ。
僕はその中に、見覚えのある揺れ方をする炎を探した。理屈ではなく、直感だった。そして、しばらく彷徨った末に、僕はそれを見つけた。
他の炎よりも一回り小さく、色は橙色というより、少し赤みを帯びた、どこか不安げな揺れ方をする炎。近づくと、それは僕を認識したかのように、ふわりと大きく揺れた。
「亮」
僕はもう一度、その名を呼んだ。今度は、確信を持って。
炎は、まるで頷くように、上下に揺れた。言葉は聞こえない。それでも僕には、その揺らぎの中に、確かに彼の気配を感じ取ることができた。
第八章 名もなき声
亮の炎のそばに座り込んだまま、僕はしばらく動けずにいた。何をすればいいのか分からない。ただ、そこにいることしかできない自分の無力さが、もどかしかった。
そのとき、背後で何かが揺れる気配がした。振り返ると、整然とした炎の群れの中から、一つの炎が、するりとこちらへ近づいてくるのが見えた。うちの家紋に似た模様が刻まれた、古い板を伴った炎だった。
その炎が近づくと、不思議なことに、頭の中に、直接何かが流れ込んでくるような感覚があった。言葉ではない。むしろ、記憶の断片のようなものだった。
見知らぬ女性の姿。着物姿で、赤子を背負い、畑を耕している。時代は、おそらく僕が生まれるよりずっと前――明治か、大正の頃だろうか。彼女は、僕にとって何代も前の先祖のうちの一人らしかった。
その記憶の断片の中に、もうひとつの光景が混じっていた。彼女もまた、かつて、この野原で、誰かの迷い火のそばに座り込んでいたことがあるようだった。血の繋がらない、けれど彼女にとって大切だった誰かの火。近所に住んでいた、若くして亡くなった友人の火だったらしい。
彼女もまた、僕と同じように、その火を送り届けようとしたのだろうか。その記憶の断片だけでは、結末までは分からなかった。ただ、彼女がその後も長く、その友人のことを思い、命日には必ず手を合わせ続けていたらしいという、温かな気配だけが伝わってきた。
僕はその記憶に、深く胸を打たれた。この野原で迷う炎に寄り添おうとした人間は、僕が最初ではないのだ。何代も前から、この家に連なる誰かが、血の繋がりを超えて、誰かの火を思い、寄り添おうとしてきた。その積み重ねの果てに、今、僕がここに立っている。
考えてみれば、二百を超える位牌というのは、単に血筋の記録なのではなく、それだけの数の「思い続けた記憶」の集積でもあるのだろう。誰かが誰かを弔い、誰かが誰かの名を呼び続けたという行為そのものが、この家という器の中に、幾重にも積み重なっている。僕は今、その分厚い地層の、ほんの表面に触れているに過ぎないのかもしれない。
「教えてくれて、ありがとうございます」
僕がそう呟くと、その古い炎は、満足したように小さく瞬き、再び整然とした群れの中へと戻っていった。
僕は改めて、亮の炎に向き直った。先ほどまでの焦りは、いくらか和らいでいた。代わりに、静かな覚悟のようなものが、胸の内に据わっていくのを感じた。
急いで結論を出す必要はない。ただ、正しいやり方で、彼に向き合うこと。それが、何よりも大切なのだと、名もなき先祖の記憶が、教えてくれた気がした。
しかし、空の色は、確実に赤みを増していた。悠長にしている時間は、もう残されていなかった。
第九章 巡る者
立ち上がり、あたりを見回したとき、僕は少し離れた場所に、もう一つの人影を見つけた。
この野原に、僕以外の生きた人間がいるとは思っていなかった。驚いて目を凝らすと、それは背の曲がった、白髪の老人だった。着物姿で、片手に古びた提灯を提げている。老人は、僕と同じように、一つの迷い火のそばに膝をつき、何かを静かに語りかけていた。
僕はしばらく、声をかけるべきかどうか迷った。この場所での出会いに、どんな作法があるのかも分からなかったからだ。しかし、老人の方が先に、こちらに気づいたようだった。皺の深い顔を上げ、僕を見て、小さく頷いた。
「お前さんも、迎えに来たクチかね」
しわがれた、しかし穏やかな声だった。僕はおそるおそる頷いた。
「あちらは、あんたの誰かい」
「幼馴染みです。血の繋がりはありません」
老人は、なるほど、というように目を細めた。
「わしのは、倅だ。もう三十年も前に、山で遭難してな。当時は、こんな仕組みがあるとは、誰も教えてくれなんだ。わしがこのことを知ったのは、随分後になってからだった。だから、最初の何年かは、ずっとこの子を、迷わせたままにしてしまった」
老人の声には、深い後悔の色が滲んでいた。
「今は」
「今はもう、大丈夫だ。長い時間がかかったがな、やっとこの子に、ちゃんとした言葉を届けられるようになった。それからは、毎年こうして、様子を見に来ておる。もう迷ってはおらんよ。ただ、顔を見に来るだけだ」
老人はそう言うと、自分の傍らで穏やかに揺れる炎――もはや迷い火の不安定さを持たない、落ち着いた光――に、優しい眼差しを向けた。
「わしは、この子が遭難したと聞いた日、ろくに悲しむこともできなんだ。捜索隊に加わって、山を何日も歩き回った。見つかったときにはもう、遅かった。それからしばらくは、自分を責めることしかできんでな。もっと早く探していれば、もっと注意して見ていれば、と。そんなことばかり考えて、何年も過ごした」
「僕にも、少し分かる気がします」
僕は、あの喧嘩の記憶を思い浮かべながら、そう答えた。老人は静かに頷いた。
「けれどな、ある年の盆に、ふとこの場所に迷い込んでな。この子の火を見つけたとき、わしは初めて気づいたんだ。悔やむことと、思い出すことは、違うんだとな。悔やんでいる間は、結局、自分のことしか考えていない。あの子を、ちゃんと思い出して、あの子がどんな子だったか、どんなふうに笑っていたか、それを語りかけてやることの方が、よほど、あの子のためになるんだと」
その言葉は、僕の胸の奥深くに、静かに、しかし確かに刻み込まれた。
「お前さんも、諦めずにやりなさい。時間はかかるかもしれん。だが、この場所は、思い続ける者を、見捨てはせん」
その言葉に、僕は深く勇気づけられた。この現象を知り、こうして向き合い続けている人間が、この国のどこかに、他にもいる。しかも、三十年という歳月をかけてもなお、その繋がりを諦めなかった人がいる。それを知ったことは、何よりの支えになった。
「ありがとうございます」
僕が頭を下げると、老人は静かに微笑み、再び自分の息子の炎へと向き直った。僕もまた、亮の炎へと向き直った。
空の赤みは、いよいよ強くなっていた。刻限が近い。僕は一度、この場所を離れ、正しい手順を踏んで、もう一度戻ってこなければならない。老人の存在が、その確信を、より強いものにしてくれていた。
第十章 蝋燭の刻限
言葉のやり取りができたわけではない。それでも、僕はその炎のそばに座り込み、しばらく黙って寄り添っていた。不思議なことに、それだけで、伝わるものがあった。
亮は――炎になってもなお、彼だと分かるその揺らぎは――戸惑っていた。自分がどこにいるのか、どうしてここにいるのか、分からないまま漂い続けているようだった。ときおり、思い出したように何かを求めるように、遠くの、整然とした炎の群れの方へ揺れ動く。しかし、そこに近づくことはできず、また元の場所へと戻ってくる。それを何度も繰り返しているようだった。
僕は、周りにいる他の迷い火たちにも目をやった。数えきれないほどの数だった。かつては誰かの家の墓に、誰かの家の仏壇に、確かな居場所を持っていたはずの者たちが、今はこうして、当てもなく揺れ続けている。時代が変わり、家という形が失われていくにつれて、この数はきっと、これからも増え続けていくのだろう。
僕の中に、静かな怒りに似た感情が湧いた。誰のせいでもない。仕方のないことだと、頭では分かっている。それでも、目の前で彷徨う亮の炎を見ていると、何かにやり場のない感情をぶつけたくなった。
そのとき、ふと、遠くの空――もし空と呼べるものがあるならば――の色が、わずかに変わり始めているのに気づいた。灰色がかった光の中に、薄く赤みが差し始めている。まるで、夜明けが近づいているかのように。
その変化と同時に、周囲の空気に、かすかな緊張感が満ちていくのを感じた。整然と並んでいた炎たちが、一斉に、ある一定の方向――僕がこの世界に入ってきたであろう方角――へと、静かに傾き始めた。
僕は直感的に理解した。これは、時間が近づいている合図だ。
「刻限が近い、ということかな」
誰にともなく呟くと、隣に浮かんでいたうちの家の遠縁らしき炎が、そっと揺れて答えるように瞬いた。まるで、僕の直感を肯定するように。
祖母の言葉を思い出す。送り火の刻限が過ぎれば、境はまた閉じてしまう。閉じたあとに、まだ迷ったままの火がどうなるのか――それは分からない、と彼女は言っていた。
僕は焦りを感じながら、亮の炎に向き直った。周囲を見渡すと、他の迷い火たちの中にも、それぞれの家族や友人らしき者が、あちこちから駆けつけている様子が見えた。誰かが泣きながら手を伸ばし、誰かが必死に何かを語りかけている。この現象は、僕たち家族にだけ起きていることではないのだと、その光景を見て、僕は改めて思い知らされた。この国のあちこちで、今この瞬間も、同じような別れと再会が、静かに繰り返されているのかもしれない。
「一緒に、帰ろう」
そう口にしてみて、すぐに自分の言葉の危うさに気づいた。帰る、とはどういうことだろう。彼を、僕の家の位牌の列に加えることなど、できるはずがない。血の繋がりも、家の繋がりもない。この世界の理が、そんな都合の良いことを許すとは思えなかった。
案の定、亮の炎は、僕に近づこうとして、しかし何か見えない壁に阻まれるように、それ以上は近寄れなかった。何度も、何度も、同じように試みては、押し返される。その様子を見ているうちに、僕は自分の考えの浅さを思い知らされた。
彼を、無理やりどこかに繋ぎ止めることはできない。それは、彼のための行為というよりも、僕自身が「彼を失いたくない」というエゴを、形を変えて押し付けているだけなのかもしれなかった。
空の赤みは、少しずつ強くなっていく。時間がない。
僕は必死に考えた。彼を救う方法があるとすれば、それは何だろう。無理に連れて帰ることでも、この場所に永遠に留め置くことでもないとしたら――。
ふと、祖母の言葉の中に、もうひとつのヒントがあったことを思い出した。
――運が良ければ、他所の家の火に紛れて、一緒に常世へ戻れることもあるらしい。
紛れる。それは、彼を僕の家の一員として偽装するということではない。彼を、僕の家の誰かとして扱うのでもない。ただ、僕自身が――今、ここに立っている僕という一人の人間が、彼のために、彼の名前を、彼の存在を、心から思い出し、感謝を告げること。それこそが、彼を正しい場所へと導く、唯一の火になるのではないか。
僕は提灯を強く握りしめた。中の炎は、まだ静かに燃えている。
「待ってろ。もう一度、ちゃんとした形で来る」
僕はそう告げると、来た道を――どこが道なのかも分からなかったが――引き返し始めた。景色がまた歪み、気づいたときには、僕は夜の墓所に、独り立っていた。提灯の火は、行く前と変わらず、静かに燃え続けていた。
空は白み始めていた。八月十五日の朝が、すぐそこまで来ていた。
第十一章 送り火
八月十五日は、朝から落ち着かない一日だった。
家族と共に過ごしながらも、僕の頭の中は、あの薄暗い野原と、そこで揺れていた亮の炎のことでいっぱいだった。何をどうすればいいのか、明確な手順が分かっているわけではなかった。ただ、ひとつだけ確信していることがあった。今日の夕方――送り火の刻限――が、最後の機会になる。
昼過ぎ、僕は思い切って、亮の両親を訪ねることにした。
突然の訪問に、亮の母は驚いた顔をしたが、すぐに僕を招き入れてくれた。仏間には、以前あったはずの仏壇がなく、代わりに小さな写真立てと、線香立てだけが、簡素な棚の上に置かれていた。
「墓、仕舞ったんですね」
僕がそう切り出すと、亮の母は、少し疲れたような、それでいてどこか安堵したような、複雑な表情を浮かべた。
「私たちも、もう年だから。あの子の妹も、遠くに嫁いでしまったし……この先、誰も手入れできない墓を、そのままにしておくのも、あの子に申し訳なくてね」
「そうですか」
僕は部屋の中を、そっと見渡した。以前ここに来たときにはあったはずの仏壇の代わりに置かれた小さな棚には、亮の写真と並んで、消防団の活動で使っていたヘルメットが、丁寧に磨かれて飾られていた。彼が生きた証を、この家なりのやり方で、大切にしまい続けているのが分かった。
「寂しくないと言えば嘘になるけど。でも、これでよかったんだと思ってる。あの子の骨は、永代供養にお願いすることにしたのよ。もう、誰の手も煩わせずに済むように」
僕はその言葉に、何も返すことができなかった。彼女の選択を、責める権利など僕にはない。むしろ、それは深い愛情から出た、苦しい決断だったのだろう。ただ、その決断の裏側で、亮の魂が今、行き場をなくして彷徨っているという事実を、僕は伝えることができなかった。伝えたところで、何が変わるわけでもない。彼女をこれ以上苦しめるだけだ。
「今日は、どうしたの」
亮の母に尋ねられ、僕は一瞬迷ったが、正直に答えることにした。
「今年は、僕がうちの提灯を持つ番になったんです。それで……亮のことを、思い出していて。良かったら、少し、線香を上げさせてもらえますか」
彼女は少し驚いた様子だったが、優しく頷いてくれた。僕は写真の前に座り、線香に火を灯し、手を合わせた。
「お前のこと、ちゃんと送るから」
声には出さなかった。それでも、写真の中の亮は、いつもと変わらない笑顔で、こちらを見ていた。
夕方、僕は家に戻り、家族と共に送り火の準備を始めた。仏壇の蝋燭から提灯へと火を移し、これから墓所まで、その火を持っていく。三日間家にいた先祖たちを、再びあちらの世界へと送り届けるための儀式だ。
支度をしていると、祖母がそっと僕の袖を引いた。他の家族が土間で草履を履いている隙をついて、祖母は僕だけに聞こえるような小さな声で言った。
「昨日の晩、庭に出ていただろう」
僕は驚いて、祖母の顔を見た。誰にも気づかれていないつもりだった。
「気づいてたの」
「この年になるとね、眠りが浅いんだよ。それに……お前の提灯の火が、いつもと違う揺れ方をしていたのが、窓から見えたのさ」
祖母は、僕の手をそっと握った。骨ばった、けれど温かい手だった。
「亮くんのところへ、行ったんだね」
僕は隠すことをやめ、素直に頷いた。祖母は、驚く様子もなく、ただ静かに目を伏せた。
「あの子は今、どんな様子だい」
「戸惑ってる。帰る場所を、探し続けてる」
祖母は少しの間、黙っていた。それから、僕の手をもう一度強く握り、こう言った。
「いいかい、無理に連れ帰ろうとするんじゃないよ。それは、あの子のためにはならない。ただ、ちゃんと、名前を呼んでやりなさい。ちゃんと、感謝を伝えなさい。血の繋がりよりも、ずっと強く効くものが、この世にはあるんだ」
「どうして、それを知ってるの」
祖母は答える代わりに、少しだけ、目を潤ませた。
「私にもね、昔、同じようなことがあったんだよ。今日は、それ以上は言わないでおくけどね」
その言葉の奥に、僕は祖母自身が背負ってきた、何か大きな物語の気配を感じた。しかし、今はそれを深く尋ねている時間はなかった。祖母は僕の背中を、そっと押した。
「行っておいで。刻限までに、ちゃんと戻ってくるんだよ」
僕は提灯の柄を握りながら、密かに、もうひとつの覚悟を固めていた。祖母の言葉が、その覚悟の輪郭を、より確かなものにしてくれていた。
墓所に着くと、あたりはすでに薄暗くなり始めていた。あちこちの家族が集まり、それぞれの墓の前で、線香を焚き、手を合わせている。僕も家の墓の前に立ち、提灯の火を、墓前の蝋燭へと移した。
「ありがとうございました」
家族と声を揃えて、そう唱えた。その言葉と共に、視界の端で、墓石の周りの空気が、わずかに揺らいだ気がした。二百を超える名も知らぬ先祖たちが、静かに、この場所から旅立っていく気配。それは悲しみというよりも、深い安堵に満ちた感覚だった。
家族が墓所を離れ始めるのを見送りながら、僕は一人、その場に残った。
「先に帰ってて」
母には、そう言い訳をした。不審には思われなかったようだ。長男の気まぐれくらいに受け取ってくれたのかもしれない。
あたりに人がいなくなったのを確認してから、僕は提灯の火を見つめ、目を閉じて、強く念じた。もう一度、あの場所へ。
再び、景色が歪んだ。
薄暗い野原に戻ったとき、あたりの空気は、行きよりもさらに緊迫していた。整然とした炎の列は、ほとんどが同じ方向へと吸い込まれるように動き始めている。遠く、地平線と呼べるかどうかも分からないその境目からは、無数の光の筋が、まるで川の流れのように、一方向へと注ぎ込まれていくのが見えた。それはこの世界で初めて目にする、はっきりとした「流れ」だった。境が閉じる時が、もう本当にすぐそこまで迫っていた。
あちこちで、僕と同じように駆けつけた人々の姿があった。老人も、僕と同年代の男女も、中には子供を連れた家族もいた。誰もが、自分たちの迎え火を、自分たちの言葉で、必死に語りかけている。声にならない祈りが、この野原全体を、静かな熱気で満たしていた。
僕は急いで、亮の炎を探した。以前と同じ場所で、彼はまだそこにいた。しかし、その揺らぎは、以前よりも弱々しく、今にも消え入りそうに見えた。
「亮」
僕は炎のそばに膝をつき、線香を――こちらの世界から持ってきた、亮の母の家で灯したのと同じ香りのものを――そっと地面に立てた。線香の煙が、細く真っ直ぐに立ち上っていく。
「お前の家、墓は仕舞ったけど、お母さんもお父さんも、ちゃんとお前のことを思ってる。線香だって、ずっと欠かさず上げてる。永代供養、頼んだんだって。お前を忘れたわけじゃない。むしろ、これから先も、ずっと誰かが、お前のことを大事に思い続けられるようにって、そう考えた末の選択なんだ」
炎は、かすかに揺れた。聞こえているのかどうかも分からない。それでも、僕は続けた。
「俺も、忘れてなかった。この二年間、お前のことをちゃんと考えるのが怖くて、ずっと逃げてた。ブログも、途中でやめた。でも、もう逃げない。お前のこと、ちゃんと覚えてる。これから先も、ずっと」
炎は、じっとこちらを見つめるように、揺れを止めた。まるで、耳を澄ませているかのようだった。僕は続けた。
「大学出るとき、お前に酷いこと言った。今さらだけど、あれ、ずっと謝りたかった。お前は、この町に残って、消防団に入って、ちゃんとこの土地の人間として生きてた。俺は、それを羨ましく思う気持ちを、認めたくなかったんだと思う。だから、あんな言い方をした」
言葉にしてみると、それは思っていた以上に、長い間、僕の中に沈んでいた重石のようなものだった。口に出した途端、その重さが、少しだけ軽くなった気がした。
「町の妖怪マップ、覚えてるか。文化祭の肝試しも。お前と過ごした時間、全部、俺の中にちゃんと残ってる。お前がいたから、俺は今、ここに立っていられるんだと思う」
僕は手を合わせた。
「今まで、ありがとう。友達でいてくれて、ありがとう」
そう告げた瞬間、亮の炎が、大きく、はっきりと揺れた。それは、これまでの不安げな揺らぎとはまったく違う、力強い動きだった。まるで、長い間探し続けていたものを、ようやく見つけたかのように。
炎の色が、少しずつ変わっていくのが分かった。赤みを帯びていた不安定な色が、次第に、あの整然とした炎たちと同じ、穏やかな橙色へと近づいていく。
そして、その炎は、ふわりと宙に浮かび上がると、あの吸い込まれるように動いていく方向――境が閉じようとしている方角――へと、静かに流れていった。他の炎たちの群れに紛れ込むようにして。
僕はその光景を、ただ黙って見送った。悲しみはあったが、それ以上に、深い安堵があった。彼は、正しい場所へ向かっている。誰かに、ちゃんと思われた者として。
「またな、亮」
最後にそう呟いたとき、僕の視界は再び歪み始めていた。
第十二章 灯りを継ぐ者
気がつくと、僕は夜の墓所に、独り立っていた。提灯の中の火は、静かに、しかし力強く燃えている。あたりを見回すと、他の家族たちの姿はすでになく、墓地全体が、しんと静まり返っていた。
空には、いつのまにか満天の星が広がっていた。八月十五日の夜、送り火の夜の空だ。
僕は提灯を提げて、家路についた。歩きながら、体の芯から、何か大きなものが抜け落ちていくような、それでいて、新しい何かが根を張り始めるような、不思議な感覚を覚えていた。
家に戻ると、家族はすでに、送り火を終えた静かな夕食の席についていた。僕は何も説明せず、ただ「ちょっと考え事をしていた」とだけ言って、その輪に加わった。
その夜、布団に入る前に、僕は久しぶりに、あのブログを開いた。
最後の更新から、一年以上が経っていた。画面には、二年前の自分が書いた、拙い文章がずらりと並んでいる。亮との思い出、彼の口癖、彼の最後の言葉。読み返すと、当時の痛みが、鮮やかに蘇ってくる。それでも、以前とは少し違う感触があった。痛みの中に、確かな温かさが混じっていた。
僕は新しい記事を書き始めた。
――お盆に。実家の街では、お盆の八月十三日の朝、提灯を持参し、墓所へと出掛け、お迎えに上がりましたと、手を合わせ……
その言葉から始まる文章を、僕はゆっくりと、丁寧に綴っていった。今年、初めて自分の役目として迎え火を灯したこと。二百を超える位牌のこと。そして、あいつの家の墓所が、無くなっていたこと。
その先に何があったのかは、書かなかった。書けなかった、というのが正確かもしれない。あの野原のことも、迷い火のことも、常世のことも、言葉にした瞬間に、何か大切なものが壊れてしまうような気がした。ただ、こう締めくくった。
――仕方なくも時間は過ぎて、そんな時が来たのかと、多くを思いながら。それでも、思い続けることだけは、誰にも消せない灯りなのだと、今は思う。
記事を投稿してから、僕は仏間へと足を運んだ。夜も更け、家族はもう寝静まっていた。仏壇の前には、祖母がまだ一人、座っていた。
「眠れないの」
僕が声をかけると、祖母は振り返り、少し驚いた顔をした後、微笑んだ。
「今日は、なんだか眠れる気がしなくてね。お前もかい」
「うん」
僕は祖母の隣に腰を下ろした。仏壇の位牌の群れが、月明かりの下で、静かに佇んでいる。
「お祖母ちゃん」
「なんだい」
「常世に、行ったことがあるって、本当は本当なんでしょう」
祖母は、僕の顔をしばらくじっと見つめた。それから、これまで見たことのないような、深く、穏やかな笑みを浮かべた。
「さあ、どうだったかねえ」
また、同じはぐらかし方だった。しかし今度は、その言葉の裏に、確かな何かが隠されているのを、僕ははっきりと感じ取ることができた。
「私がもう、あちらへ渡る日も、そう遠くはないだろうね。そのときは、お前が、ちゃんと迎えに来ておくれ」
「お祖母ちゃんの、その『同じようなこと』って、何だったの」
僕が思い切って尋ねると、祖母は少しの間、迷うような素振りを見せた。それから、ゆっくりと語り始めた。
「私が嫁に来る前にね、好いた人がいたんだよ。この土地の人間じゃなかった。戦争で、遠くへ行ったきり、帰ってこなかった。向こうの家も、後を継ぐ者がなくてね、早くに墓仕舞いをしてしまったのさ。まだ、そんな言葉もなかった時代の話だけどね」
祖母の声は、驚くほど穏やかだった。長い年月をかけて、その痛みを、そっと自分の中に納め終えた者の声だった。
「私はね、毎年のお盆に、こっそり自分の家の迎え火の端を分けて、その人のことを思い出しながら、手を合わせていたんだよ。誰にも言わずにね。ある年、確かに感じたんだ。その人が、ちゃんと、還っていく気配を」
「じゃあ、お祖母ちゃんも、あの野原に」
「さあ、どうだったかねえ」
祖母は、また同じ言葉で微笑んだ。しかし、その笑みには、これまでとは違う、深い確信のようなものが滲んでいた。
「大事なのはね、行けるかどうかじゃないんだよ。思い続けられるかどうか、なんだ。それさえあれば、火は、ちゃんと道を見つける。私はそう信じて、ここまで生きてきた」
祖母はそう言うと、ゆっくりと立ち上がり、仏間を後にした。僕は一人、仏壇の前に残された。
二百を超える位牌。その一枚一枚の向こうに、確かに生きていた誰かがいる。そして、いつか僕自身も、この列の続きに、名前を連ねることになるのだろう。
僕は仏壇の蝋燭に、そっと手を合わせた。炎は、何も語らず、ただ静かに揺れている。それでも、その揺らぎの中に、僕は確かに、大勢の気配を感じた。
来年もまた、この提灯を提げて、僕は墓所へ向かうだろう。誰かを迎え、誰かを送るために。そして、その火の中に、また新しい誰かの気配を見つけることがあるかもしれない。
それでいいのだと、僕は思った。
灯りを継ぐということは、きっと、そういうことなのだから。
盆が明けて、僕は都会での日常に戻った。しかし、それまでとは、少し違う日常だった。
ブログには、あの夜に書いた記事のあと、ぽつぽつとコメントが付き始めた。その中に、思いがけない名前を見つけた。亮の妹だった。
「兄のこと、書いてくれて、ありがとうございます。実は最近、家族で墓を仕舞うことになって、少し複雑な気持ちでいたんです。でも、これを読んで、少し救われました」
僕はそのコメントに、しばらく返事を書けずにいた。何度も文章を打っては消し、打っては消しを繰り返した末、結局、こう書いた。
「お兄さんは、ちゃんと、みんなの心の中にいます。墓の形が変わっても、それは変わらないと思います」
それが、精一杯の、けれど嘘のない言葉だった。
それから数日後、彼女から個人的にメッセージが届いた。今度実家に帰る用事があるので、もし都合が合えば少し話せないか、という内容だった。僕は迷わず、承諾の返事を送った。
実際に会ったのは、それから二週間ほど経った、九月の初めの土曜日だった。町の小さな喫茶店で、僕たちは向かい合って座った。彼女は、記憶にある少女の面影を残しながらも、すっかり大人びた顔つきになっていた。
「兄の墓のこと、両親、ずっと悩んでたんです。私は正直、あまり実感が湧かなくて。遠くに住んでるから、お墓参りにもなかなか行けなくて、それで負い目みたいなものもあって」
彼女は、コーヒーカップを両手で包みながら、ぽつぽつと話してくれた。僕はただ、静かに耳を傾けた。
「でも、この間、直人さんのブログを読んで思ったんです。お墓がなくなっても、兄のことを大事に思ってくれる人が、こんなにいるんだって。それだけで、少し気持ちが軽くなりました」
「俺の方こそ、あの子に、ずっと助けられてたんだと思う。今更だけど、ちゃんと伝えられてよかった」
その日、僕たちは、亮の思い出話を、時間を忘れて語り合った。悲しみだけではない、笑い話もたくさんあった。喫茶店を出るころには、外はすっかり夕暮れに染まっていた。
九月になって、僕は久しぶりに、平日の休みを取って実家に帰った。理由は、特にない。ただ、なんとなく、帰りたい気分だった。
縁側では、相変わらず父が庭を眺めていた。台所では母が何かを刻んでいる音がした。
「珍しいね、平日に帰ってくるなんて」
母は手を止めずに、そう声をかけてきた。僕はしばらく迷ってから、ぽつりと言った。
「来年から、もう少し、頻繁に帰ってこようと思って」
母は驚いた様子で振り返り、それから、ゆっくりと笑った。
「お父さん、喜ぶわよ。あの人、ああ見えて、あなたが提灯を継いでくれたこと、本当に嬉しかったみたいだから。口には出さないけどね」
「知ってる。この間、聞いた」
僕がそう言うと、母は少し意外そうな顔をしたが、それ以上は詮索せず、また野菜を刻む作業に戻った。台所に響く、規則正しい包丁の音を聞きながら、僕はしばらくその場に立っていた。誰かが日々の暮らしを丁寧に営んでいる音は、それだけで、確かな安心を運んでくるものなのだと、初めて実感した気がした。
仏間では、祖母が、いつものように仏壇の前に座っていた。
二百を超える位牌が、秋の柔らかい光の中で、静かに並んでいる。僕はその前に座り、線香に火を灯した。
来年の夏も、僕はまたこの提灯を提げて、墓所へ向かうだろう。誰かを迎え、誰かを送るために。そして、その火の中に、また誰かの気配を見つけることがあるかもしれない。
この家に連なる二百人以上の名もなき先祖たちと、血の繋がりのない一人の友人と、そして、まだ名前の付かない、これから出会うはずの誰かたち。その全てを乗せて、火は毎年、同じ道を渡っていく。
いつか、この提灯もまた、僕の子か、あるいは甥や姪の誰かの手に渡ることになるのだろう。そのとき、僕は父がそうしてくれたように、多くを語らず、ただその柄を、次の誰かの手に握らせるのだと思う。そして、その誰かもまた、いつか自分なりのやり方で、この火の重さと、その先にある温かさに気づいていくのだろう。
仕方なくも時間は過ぎていく。町は変わり、家は減り、墓仕舞いという言葉は、これからもっと当たり前のものになっていくのかもしれない。それでも、思い続けることだけは、誰にも消せない灯りなのだと、今は確かに、そう思う。かたちを失っても、道筋を失っても、名を呼び、恩を語る心さえ絶えなければ、火はきっと、迷わずに帰るべき場所を見つけ出す。
僕はそう信じて、これからも、毎年の夏を迎えるのだろう。
(了)
あとがき
物語の中で描いた「墓じまい」や過疎化による家々の変化は、現代を生きる私たちにとって、決して遠い世界の出来事ではありません。大切に守ってきたものを自分の代で手放さざるを得ない苦渋や、繋ぎ手が失われていく寂しさは、今の日本中のあちこちで静かに繰り返されている現実です。
私自身、歳月を重ねる中で、「継ぐ」ということの真義について思いを巡らせることが増えました。
形あるものをそのまま残すことだけが、継承ではないのかもしれません。親から子へ、先祖から今を生かされている者へ、そして大切な友人へ――目には見えない思いや感謝を携え、自らの人生を確かに生きていくこと。それこそが、最も確かな「灯りを継ぐ」行為なのではないかと感じています。
主人公が目にした二百を超える位牌の連なりや、常世の地に揺れる無数の火は、かつてこの地に生き、誰かを思い、誰かに思われて逝った人々の証です。そしてそれは、いつかこの世を去る私たち自身の未来の姿でもあります。
形を失っても、道筋を見失っても、名を呼び、恩を語る心さえ絶えなければ、火は迷わずに還るべき場所を見つける――。
もし、あなたにも忘れられない人や、今も胸の奥で静かに灯り続けている思い出があるのなら、どうかその火を大切になさってください。そしていつか巡ってくる夏の夜に、空を見上げてその名をそっと呼んでいただけたなら、作者としてこれ以上の喜びはありません。
末筆ではございますが、本作の執筆にあたり温かい眼差しを寄せ続けてくれた家族、そしてこの本を手にとってくださった読者の皆様に、心より感謝を申し上げます。
深く、静かな感謝を込めて。

