屋根の上のフィラメント
― あるいは、電気の次に来たものについての、いささか間の抜けた記録 ―
まえがき
電気の次に来るものは、何だろう。
水素かもしれない。核融合かもしれない。あるいは、私たちがまだ名前すら知らない何かかもしれない。
これは、そういう「次のエネルギー」についての話である。
ただし、いわゆる本格的な科学小説を期待してはいけない。
主人公は六十二歳の元・地方紙記者で年金生活者。
屋根の上に上ることすら、医者から止められている男だ。
そんな男のところへある日突然、自分を「孫」だと名乗る青年が現れ、透明な球体を差し出した。
青年は言った。「これが、電気の次です」と。
人間が何かに気づいた瞬間――「あ、そうか」と世界の見え方がほんの少し変わった瞬間。そこには測定されたことのない微弱なエネルギーが発生していた。
私たちはそれを「気づき」と呼ぶことにした。
しかし、世界には「便利にした瞬間、価値を失うもの」があるらしい。
これは、そのことに気づいてしまった老人たちと、昭和のアナログな記憶が巻き起こす、いささか間の抜けて、少しだけ切ない事件の記録である。
第一章 ガソリンスタンドの葬式と透明な球体
ガソリンスタンドの閉店セールというものに、まさか香典袋を持って行くやつがいるとは思わなかった。
しかも、それが私だった。
二〇三八年の梅雨明け、旧国道沿いの「出光サービスステーション袋田町店」が、四十七年の営業を終えるという日のことである。
私はいちおう新聞記者を三十年やった人間だから、こういう「時代の終わり」の匂いには、犬並みに鼻が利く。利くのだが、鼻が利いたところで入ってくる年金が増えるわけではない。
香典袋には「ご霊前」と印刷された墨字が薄く光っていた。中には千円札を三枚だけ入れた。三枚にした理由は特にない。四枚では縁起が悪いし、五枚では見栄っ張りに見える。日本人の金額感覚というのは、だいたいこの辺の中途半端さで決まっている。
店長の若田さんは、私の顔を見て、それから香典袋を見て、それから空を見上げた。
「袋田さん、これは……」
「香典です」
「いや、うちはまだ死んでないんですが」
「今日でしょう」
「今日ですけど」
若田さんは香典袋を受け取り、それをレジの上に置き、それから少し笑った。笑ったあとで、少し泣きそうな顔をした。
私は気づかないふりをして、隣にある自動販売機で缶コーヒーを買った。百八十円だった。ガソリンより高いのか安いのか、もう私にはよくわからなかった。
思えば、この国はいろいろなものに香典を出しそびれてきた。
黒電話にも、ブラウン管テレビにも、公衆電話ボックスにも、フィルムカメラにも、CDにも、現金にも、はんこにも。そしてたぶん、そう遠くない未来には、自動車のハンドルにも。
私たちは香典を出さないまま、いつのまにか通夜を済ませてしまう。
アナログからデジタルへ。石油から電気へ。紙から光へ。
「狭間の世代」というのは、そういう葬式にいちいち立ち会わされる世代のことである。
缶コーヒーを開けた瞬間、頭上でバタバタと音がした。
見上げると、若田さんの店の屋根の上に、青いつなぎを着た男が三人、張り付いていた。ソーラーパネルの設置業者だった。ガソリンスタンドが閉店するその日に、もう次のテナントのための工事が始まっている。
「袋田さーん」
屋根の上から声がした。三人のうちのいちばん若そうな男が、私に向かって手を振っていた。
「誰?」
「僕ですよ、僕。ほら……袋田さんの、孫です」
私は、まだ独身のまま一人暮らしをしているはずだった。
青年は私が帰宅するまでついてきた。
私の家はガソリンスタンドから歩いて十五分ほどの古い一戸建てである。築四十年。屋根は瓦。妻のよし江は三年前に他界し、今は私一人。
「本当に孫なのか?」
「僕の名は『零』と言います。未来……ううん、もっと先の記録では、僕は袋田さんの孫ということになっているんです」
青年は、古いスマートフォンを取り出して画面を見せた。そこには若い女性の写真が写っていた。
見覚えがあった。三十年前に私が取材先で知り合った、里美だった。
胸の奥が、ちくりと痛んだ。
三十年前、私はあの女と別れた。理由は、今となっては思い出せない。いや――あまりにくだらなさすぎて、思い出したくないから忘れたのかもしなくもない。
確か、あの日も腹を空かせていた。
妻のよし江と出会う前の、若い日の青い傷痕のような記憶だ。
「母の母……つまり僕の祖母です。袋田さんの昔の知り合いでしょう」
零は背負っていた大きなリュックから、直径十五センチほどの透明な球体を取り出した。中には何もない。ガラスのようだが、触れると妙に温かい。
「これはなんです?」
「エネルギーです」
「見えないぞ」
「見えないんです」
「詐欺か」
「違います。『電気の次』です」
零の表情は切迫していた。彼が語るには、人間が何かに深く気づいた瞬間――「あ、そうか」と世界の見え方が変わった瞬間に発生する微弱な未知の波形を「気づきエネルギー」と呼び、この球体はその受信・可視化装置なのだという。
「袋田さん。あなたは今日、なぜガソリンスタンドに香典を持っていったんですか?」
「時代が終わると思ったからだ」
「そう思った瞬間は?」
「……ああ」
その直後、卓袱台の上の球体が、まるでフィラメントが灯るように淡く、青白く光った。
私は息をのんだ。しかし、驚きが収まる間もなく、零のスマートフォンが激しく鳴り響いた。
画面を見た零の顔から、一瞬で血の気が引いた。
「筑波の……僕の研究室が、火事になりました」
「火事?」
「違います。放火です。指導教授の神原先生が……中で亡くなりました」
ニュースの速報画面を見つめながら、私は嫌な悪寒を覚えた。
「筑波の物理研究所……放火殺人……」
三十年前、私がまだ「常陸日報」の事件記者だった頃、八郷町で起きた未解決の研究所放火殺人事件。
あの時、炎の中で死んだ神原教授の父親――すなわち零の曾祖父にあたる先代研究者が残したノートのタイトルと、目の前の零が持っている球体の裏に刻まれた刻印が、寸分違わず一致していたからだ。
「フィラメント・プロジェクト」――。
止まっていた三十年前の時計が、目の前でガチリと動き始めた音がした。
第二章 30年前の焦げ痕
神原教授の死は、瞬く間に全国ニュースとなった。
そして翌朝、事件は最悪の展開を見せる。警察が「現場から青いつなぎを着た若い男が逃走するのを目撃された」と発表し、零が事件の重要参考人として指名手配されたのだ。
「僕じゃありません! 僕は夕方までガソリンスタンドの屋根の上にいたんです!」
我が家の茶の間で、零は頭を抱えて叫んだ。
「分かっている。若田や他の作業員もいた。完璧なアリバイだ」
私は縁側に腰掛け、ぬるくなったお茶をすすった。
警察の手回しが速すぎる。まるで最初から「犯人」を用意していたかのような手際だ。記者の勘が告げていた。これは単なる放火殺人ではない。裏に巨大な「何か」が動いている。
「零。神原教授と君は、何を作ろうとしていた?」
「……『気づき』の集積システムです」
零の話によれば、現代の巨大IT企業「アーク・コミュニケーションズ」が、この研究に巨額の資金を投じていたという。アーク社は、AIを用いて人間の行動を100%予測・管理する次世代都市インフラの開発を進めていた。
「アーク社は、人間の『閃き』や『直感』すらもデータ化し、AIに予測させようとしていたんです。神原先生は、亡くなったお父様……僕のひいおじいちゃんの志を継いで研究していましたが、アーク社の危険性に気づいてデータを持ち出そうとした。だから……殺されたんです」
その時、卓袱台の上の球体が、昨日よりも強く光を放った。
光の波長を見つめながら、私は三十年前の記憶の引き出しを片っ端からひっくり返していた。
三十年前、八郷町の研究所が燃えた夜。
現場に一番乗りした私は、焦げくさい煙の中で一人の男とすれ違った。当時、同じ新聞社でライバルだった同僚の男――加賀美創。
加賀美はその後、新聞社を辞め、IT起業家として成り上がり、今や「アーク・コミュニケーションズ」のCEOに君臨している。
「あいつか……」
「袋田さん、何か気づいたんですか?」
「ああ。三十年前の放火事件、犯人は捕まらなかった。だが、一番得をした奴が一人だけいる。加賀美だ。あいつはあの夜、燃える研究所から何かを持ち出していた」
球体『フィラメント』が、まるで合図を送るかのように明滅した。
人間が真実に近づき、「あ、そうか」と気づいた瞬間。
見えないフィラメントに電波が走り、闇の中に隠されていた過去の事件の「焦げ痕」が、くっきりと浮かび上がり始めていた。
「零。警察にもアーク社にも追われる身になった。腹をくくれ」
「どうするんですか?」
「味方を集める。事件を解くには、デジタルな検索エンジンなんか役に立たん。昭和の泥臭い人間の目と勘が必要だ」
私は固定電話の受話器を上げ、古い電話帳を開いた。
「『狭間世代研究会』を立ち上げる」
第三章 狭間世代研究会、始動
研究会の発足場所は、我が家から徒歩五分ほどの場所にある小さな公民館の会議室だった。
看板には手書きの紙を一枚、ぺたりと張った。
『狭間世代研究会』
命名者は私だ。「気づき研究会」では怪しいし、「新エネルギー研究会」では新興宗教と間違われる。この程度にボカしておけば、町内会の下部組織として予算が下りる可能性すらある。
集まったのは、昔なじみの老人たち六人。
元中学校教師の田代さん。元信用金庫幹部の宮坂さん。元美容師の小野寺さん。豆腐屋の店主、三宅さん。そしてガソリンスタンドを畳んだばかりの若田さん。そこに私と、手配中の身である零を加えた陣容だ。
「袋田さん、突然呼び出して何をする会なんです?」
田代さんが老眼鏡の位置を直しながら尋ねた。
「事件の捜査だ」
「事件?」
私は卓袱台の上に透明な球体――『フィラメント』を置いた。そして、零が筑波で放火殺人事件の容疑者にされていること、その背後に三十年前の放火事件とアーク・コミュニケーションズの影があることをかみ砕いて説明した。
「つまりだな、AIだの監視カメラだのが張り巡らされたこの街で、警察の手を逃れつつ真犯人を見つけなきゃならん。そのためには、ネットにも防犯カメラにも引っかからない『人間の勘と観察眼』が必要なんだ」
「要するに、年寄りの知恵袋ってわけかい?」
小野寺さんがくすくす笑った。
「そうだ。そしてこの球体は、人間が真実に近づいた時……つまり『あ、そうか』と直感が走った瞬間にだけ光る」
「試してみましょう」
零が言った。
宮坂さんが腕を組み、うーんと唸った。
「そういえば……事件があった昨日の夜、うちの近所の防犯カメラ付き自動販売機、業者がメンテナンスに来てたな。夜の十時にだ。あんな時間に自販機の修理なんて来るか?」
「あ」
田代さんが声を上げた。
「それ、アーク社の関連会社のロゴが入ったトラックじゃなかったか? 私も散歩中にすれ違ったぞ」
ぽわん、と球体が青白く光った。
「光った!」
三宅さんが声を上げた。
「自販機のメンテに見せかけて、街頭防犯カメラのデータを書き換えたんだ……」
零が目を見開いた。
「そういうことだ」
私はニヤリと笑った。「最新のAI監視システムは完璧に見えて、運用の現場には『人間の都合』という隙ができる。デジタルに頼りきった連中には、昭和の年寄りが持つ『ご近所の違和感』が見えないんだ」
老人たちの目が、一斉に輝き始めた。
「よし、町内の防犯カメラと自販機の位置、全部洗ってみよう」
「防犯カメラの死角になる裏道なら、私抜け道を知ってるわ」
「アーク社の社長が昔通っていた居酒屋のオヤジ、俺の連休の釣り仲間だ」
長年この街で暮らし、人間を観察し続けていた老人たちの「気づき」が、次々と鎖のように繋がり始めた。
そのたびに球体は淡く、しかし力強く光を放つ。
警察もAIも追えない真相の糸口が、小さな公民館の一室で、着実に手繰り寄せられようとしていた。
第四章 見えざる手と「集めようとする者たち」
「袋田さん、表に怪しい車が止まっています」
公民館の窓から外を覗いていた若田さんが低い声で言った。
旧国道沿なに、黒塗りの高級ミニバンが二台、静かにエンジンをかけたまま停まっている。車体には控えめに「ARK」のロゴマーク。
「勘づかれたか……」
直後、公民館の扉が開いた。
入ってきたのは二人組の男だった。一人は仕立ての良いスーツを着た経済産業省の役人、もう一人はアーク・コミュニケーションズのセキュリティ部門を名乗る男だった。
「袋田征二さんですね」
役人の男は、目の奥がまったく笑っていない笑みを浮かべた。
「零君を匿っているでしょう。彼は重要参考人です。引き渡してください。それと……その球体も」
「何の権限で言っている?」
私が問い返すと、アーク社の男がタブレット端末を提示した。
「このデバイス『フィラメント』に搭載された波形受信技術は、我が社の知的財産権に該当します。神原教授が不正に持ち出したものです。直ちに返還していただけない場合、強硬手段をとらざるを得ません」
男たちの視線が、卓袱台の上の球体に注がれた。
アーク社の狙いは明確だった。
彼らは「気づきエネルギー」をAI予測システムに組み込み、人間の「閃き」や「直感」すらも事前に収集・管理する国家規模の監視インフラを作ろうとしているのだ。
「持って行くがいい」
私はあっけらかんと言い、球体を役人の前に押し出した。
役人は不審そうに手を伸ばし、球体をつかみ上げた。
「……素晴らしい。これがあれば、全国の国民から『ひらめきデータ』を常時集積し、産業の効率を極限まで高められる……」
役人がそう語りかけた瞬間――
球体の中の光が、ふっと完全に消え失せた。
まるで冷や水を浴びせられた火のように、球体はただの冷たい透明なガラス玉に戻ってしまった。
「な……なぜ光らない! 故障か!?」
アーク社の男が焦ってタブレットを操作する。
零が静かに言った。
「無駄です。気づきは、人間が純粋に何かを『分かった』瞬間にしか発生しません。それを集めて利用しよう、管理しようと意図した瞬間、エネルギーは消滅するんです」
「そんな馬鹿な! エネルギーである以上、制御可能なはずだ!」
「それが『電気の次』の性質なんです」
私が腕を組み、男たちを見下ろした。「便利にしようとした瞬間に、価値を失う。お前たちの都合の良いツールにはならんのだよ」
男たちの顔色が失われた。
管理と効率を追求する彼らにとって、「制御できないエネルギー」ほど不都合で不気味なものはない。
「……力ずくで研究資料を洗えば済む話だ。行くぞ」
男たちは捨てゼリフを残し、球体を卓袱台に叩きつけて去っていった。
だが、これで終わるはずがない。
敵は手段を選ばなくなっている。
「袋田さん、これからどうします?」
怯える零に、私は不敵に笑ってみせた。
「あいつらが『管理できないもの』を恐れているなら、こっちはとことん非効率で予測不能な動きをしてやるまでだ。若田、例の車を出せ」
「へい! 昭和五十二年式、完全アナログのダイハツ・ハイゼット、出動できます!」
電子制御もGPSも一切搭載されていない古い軽トラ。
AI監視網の追跡を完全に無効化する「昭和の走る死角」に乗って、私たちは事件の真の発祥地へと向かうことにした。
目標は、福島・阿武隈高地――三十年前の放火事件の痕跡が眠る場所だ。
第五章 Wi-Fiに乗った死者の声
若田さんが整備した昭和五十二年式の軽トラは、電子制御の「で」の字もない機械仕掛けの塊だった。
エンジンをかけるたびに「ガタガタガタ」と車体が大きく揺れ、マフラーから黒い煙が立ち上る。GPSもドライブレコーダーも車載通信機器もない。最新の都市監視システム「アーク・アイ」が街中の車両データをスキャンしても、この軽トラはただの「動く金属の塊」としてしか認識されない。
「完璧だろ?」
若田さんが誇らしげにハンドルを叩いた。「排気ガスはちょっと臭いが、AIには絶対追えない」
助手席に私、荷台の幌の中に零とフィラメントの球体を押し込め、私たちは深夜の旧街道を北へ向かった。
走行中、荷台から零が声を上げた。
「袋田さん! パソコンに異常な波形が入ってきています!」
車を旧道のパーキングエリアに止め、荷台の幌をめくった。
零のノートPCの画面には、日本地図の上に張り巡らされた無数の光の線が映し出されていた。一見するとWi-Fiや携帯電話の電波網のようだが、波形の周期がまったく違う。
「これは……『気づき波』です」
零が息をのんだ。「人間が何かに気づいた瞬間に発生する微弱な波形が、空間や既存の通信網を伝って、伝播しているんです」
「電波に乗って飛んでいるのか?」
「はい。人間から発生したエネルギーが、空間を飛び交って、互いに共鳴している。世界中で……」
画面上の光の束を辿っていくと、一つの地域に異様な密度の反応が集積していた。
福島県・阿武隈高地――かつて三十年前に「八郷町・有機物理研究所」が移転しようとしていた山あいの廃村跡地だった。
「ここだ」
私は画面の焦点を指で示した。「三十年前、事故として処理された放火事件。あの現場で亡くなったのは、零、君のひいおじいちゃんだ」
「ひいおじいちゃん……神原先代教授……」
「そうだ。あの夜、加賀美創は炎の中から研究ノートを盗み出し、それを元手にアーク社を起こした。だが、研究の核となる『なぜ人間が気づくと空間が歪むのか』という根本の理論だけは解明できなかった」
だから加賀美は、三十年経った今でも神原教授を追い詰め、零の持っている球体を躍起になって探しているのだ。
「死んだ人間の思いや記憶も……この波形に残るんでしょうか」
零が静かに呟いた。
「さあな。記者は目に見える事実しか記事にしない」
私はポケットからタバコを取り出し、火をつけた。「だがな、言えなかった言葉や、届かなかった思いってやつは、案外そこらじゅうの空気にへばりついているもんさ」
軽トラは再び暗闇の国道を走り出した。
阿武隈の深い山々が、黒い影となって迫っていた。
第六章 阿武隈高地の暗号
霧の深い阿武隈高地の旧道を進み、私たちは半ば草に埋もれた廃研究所の跡地に到着した。
三十年前の火災で焼け落ちたコンクリートの骨組みが、まるで巨大な獣の肋骨のように倒れている。
車を降りると、冷たい山風が吹き抜けた。
零が掲げたフィラメントの球体が、これまで見せたことのない、透き通った濃い青色に発光し始めた。押しボタンもスイッチもない球体が、この場所の「空間」そのものに反応している。
「袋田さん、これ……」
「ああ。聞こえるか?」
耳を澄ますと、風の音の合間に、微かにノイズのような、しかしどこか懐かしい「人間の声」の余韻が混じっている気がした。
研究所の奥、焦げた金庫が転がっている半地下の部屋へ足を踏み入れる。
壁には、三十年前の炎でも焼き尽くせなかった手書きの数式と、グラフの引っかき傷が残されていた。
「これだ……」
零が壁に近づき、ライトで照らした。
「AIや計算機によるデータ解析じゃない。人間が五感を使って世界を観察し、思考の限界を超えた瞬間にだけ導き出せる『手計算の極限公式』……」
加賀美がどれほど高性能なスーパーコンピュータを回しても解明できなかった理由がここにあった。
このエネルギーの本質は「効率化」ではなく「人間が苦悩し、考え抜いた果てに到達する直感」だからだ。効率を求めて思考をAIに委ねた瞬間、人間はこの公式を理解する能力を失う。
「加賀美は最初から負けていたんだ」
私は焦げた壁に手を置いた。「効率とスピードを求めて新聞社を飛び出し、巨大IT企業を作ったが、あいつが捨てた『面倒くさくて非効率な人間の思考』の中にしか、答えはなかった」
その時だった。
「カツン……」
乾いた車椅子の車輪の音が、暗がりから響いた。
ライトの光の中に現れたのは、黒い服を着た数人の男たちと――車椅子に乗った加賀美創だった。
加賀美創。
三十年前、私と共に事件現場の煙を吸った、かつてのライバル記者だ。
「久しぶりだな、袋田」
加賀美の顔には、かつての野心に満ちた影はなく、どこか酷く疲れ切った哀愁が漂っていた。「相変わらず、犬並みに鼻が利くようだ」
「加賀美……」
「袋田。お前は私を、金と権力に目がくらんだ悪党だと思っているのだろう」
加賀美は静かに車椅子の膝の上を見つめた。「二十年前、私の妻は事故で死んだ。AIの走行支援も自動ブレーキもない、旧式の車のブレーキ故障だ。ほんの少しの不確実性、ほんのわずかな機器の見落としが、妻の命を奪った」
加賀美の声が微かに震えた。
「人間は愚かだ。うっかり忘れ、見落とし、間違える。人間のその『不確実さ』がある限り、世界からは悲劇も事故も消えない。だから私は、AIによって人間の行動もすべて100%予測・補正できる社会を作りたかった。悲しみを生む『エラー』を、この世界から完全に失くしたかったのだ」
「加賀美……だからといって、人間の閃きまで管理しようというのか?」
「エラーを失くすには、原因となる人間の『気まぐれな直感』そのものを予測するしかないのだよ!」
加賀美の叫びが焦げた壁にこだました。
袋田=不確実だからこそ人生は愛おしく、美しい。
加賀美=不確実だからこそ人間は間違え、深く傷つく。
かつて同じ現場で事件を追った二人の記者の間には、決して埋まらない「悲しみの断層」が横たわっていた。
「頼む、袋田。球体を渡してくれ。私に……完璧で安全な世界を作らせてくれ」
「断る」私は静かに首を振った。「事故や悲劇が減るのはいい。だがな加賀美、間違える余白を全部埋めてしまったら、人間が自らの足で気づいたときのあの眩しい喜びまで、消えてしまうんだ」
絶体絶命の沈黙の中、零の持つ球体が、二人の対立に応えるように静かに明滅し始めた。
第七章 デジタル社会の「死角」
「説得は無理なようだな……」
加賀美は悲しそうに目を伏せ、警備員に手を上げた。「球体を回収しろ。怪我はさせるな」
男たちが踏み込んできたその瞬間――
「おい加賀美! 昭和の年寄りを舐めるなよ!」
半地下の入口から、若田さんが叫び声とともに強力な手動式信号煙幕弾を投げ込んだ。
シュバァッと猛烈なオレンジ色の煙が充満する。最新の暗視スコープやAI解析機能を搭載した敵のゴーグルが、ホワイトアウトを起こした。
「視界遮断! AIターゲットリンク不能!」
「走れ、零!」
私は零の腕を掴み、煙の中を駆け抜けた。
若田さんの吹かす軽トラの荷台になだれ込み、爆音とともに山道へ飛び出す。
しかし、追手も引かない。
加賀美の部隊が乗る最新鋭のEV車両が無音で迫り、上空のドローンが通信波をスキャンして私たちの逃走ルートを完璧に予測していた。
「袋田さん、敵のAIが僕たちの逃走ルートを100%予測しています! どちらへ曲がっても先回りされます!」
零がPC画面を見ながら叫んだ。
「予測だと?」
私はバックミラーに映る敵を睨みつけた。
加賀美のシステムは「人間の論理的な最適行動」を予測している。急カーブでは減速し、最短ルートで国道を目指すという合理的なデータ分析だ。
「若田! そこを右だ!」
「袋田さん、そこは道じゃない! 崖ですよ!?」
「崖でいい! 落ちながら曲がれ!」
「ひええぇぇっ!」
若田さんは絶叫しながらハンドルを右に叩き切った。
軽トラは泥斜面へと突っ込み、木々をなぎ倒しながら滑り落ちていく。
上空のドローンが一瞬、ホバリングしたまま固まった。
AIの予測アルゴリズムに存在しない「完全な狂気(非合理)」。
データ集積によって作られた未来予測が、老人たちの命知らずな暴走によって完全にフリーズした瞬間だった。
車体を打ち付けながら、軽トラは下の旧旧国道へと奇跡的に着地した。
「やった……撒いた……!」
零が荒い息を吐いた。
卓袱台から持ち出した球体『フィラメント』が、まるで腹を抱えて笑うかのように、チカチカと愉快に明滅していた。
「見たか加賀美……」
私は煙草を咥え、笑った。「データで人間が測れると思うなよ。お前が消そうとした『エラー』の中にこそ、人間の本領があるんだ」
第八章 屋根の上のフィラメント
翌朝。
私たちがたどり着いたのは、すべての始まりの場所――旧国道沿いの「出光サービスステーション袋田町店」跡地だった。
解体工事を待つガソリンスタンド。
ソーラーパネルが整然と並ぶ屋根の上に、私は零とともに登っていた。
公民館から駆けつけた「狭間世代研究会」の仲間たちが、地上で見守っている。
田代さん、宮坂さん、小野寺さん、三宅さん。全員が黒電話のダイヤルや古い地図を手に持っている。
やがて、車椅子に乗った加賀美創が車列とともに現れた。
「袋田……無駄な悪あがきだ。街中のアーク・アイ(AI監視網)が起動した。お前たちの『気づき』などという曖昧な波形は、我が社の高出力電波で上書きされる」
ガソリンスタンド周辺の基地局から猛烈なノイズ電波が放射され、零のPC画面が砂嵐で覆われた。
「ダメだ……電波が強すぎて、『気づき波』が消される……!」
私は立ち上がり、屋根の上から加賀美を見下ろした。
「加賀美。お前は悲しみのあまり、大切なことを忘れている」
「何だと?」
「お前は『気づき』を管理し、エラーのない世界を作ろうとしている。だがな、このエネルギーの最大の性質は……【便利にしようとした瞬間に消える】ことなんだよ」
私はポケットから、あの千円札が三枚入った香典袋を取り出した。
「人間はな、失敗し、間違え、遠回りをするからこそ、自分の足で『あ、そうか』と気づけるんだ。お前が作ろうとしている完璧な世界は、人間からその一番の喜びを奪う冷たい箱庭だ!」
「間違いのない世界が、なぜ悪い!」加賀美が絞り出すように叫んだ。
「悪くはないさ。だが……つまらんのだよ!」
私は地上にいる老人たちに向かって手を振った。
「みんな! 『あ、そうか会議』を始めるぞ!」
第九章 あ、そうか
地上で、元教師の田代さんがノートを開いた。
元銀行員の宮坂さんがそろばんを弾き始めた。
元美容師の小野寺さんが、加賀美の手下たちの髪の癖を指摘し始めた。
「加賀美社長! あなたの右の靴底、三ミリ減ってますよ! 昔から右足に体重を乗せる癖があった!」
「加賀美君! 30年前の放火の夜、君が持っていたのは取材ノートじゃない、ただの文庫本だったろう!」
老人たちが、長年蓄積された観察眼と記憶を一気に爆発させる。
デジタルデータには残っていない、完璧に無意味で、愛おしい『人間だけの気づき』。
「あ!」
「そうか!」
「そういうことか!」
街のあちこちから、閃きの声が上がった。
その瞬間――
屋根の上に置かれた透明な球体『フィラメント』が、太陽をも凌駕するほどの圧倒的な純白の光を解き放った。
過剰で、無秩序で、計算不可能な「人間の感情と閃き」の奔流が空間を埋め尽くす。
加賀美の車椅子のモニターや、街頭のAI監視システムの画面が激しく明滅し始めた。
【予測不能】
【予測不能】
【予測不能】
【予測不能】
処理中。
再計算。
再計算。
再計算。
――解析不能。
――予測不能。
――対象定義を変更してください。
静まり返る空間の中、数秒の沈黙の後、画面の中央にたった一行の文字が浮かび上がった。
【人間を予測対象から除外してください】
「……そんな馬鹿な」
加賀美は、点滅するその文字を呆然と見つめた。
私は屋根の上で煙草の煙を吐き出し、静かに笑った。
「馬鹿だから、人間なんだよ」
球体の中で舞う光のフィラメントは、まるで生き物のように空へと昇り、完璧すぎた世界を柔らかく解き放っていった。
第十章(終章) 空を見上げる
事件の決着は、呆気ないものだった。
アーク・アイが「人間を予測対象から除外」したことで、都市監視システムは自動的に機能を停止。
過去の不正なデータ隠蔽が公になり、加賀美創は警察の取調室に入ることとなった。
取調室の面会室。アクリル板越しに対峙した加賀美は、小さくなった肩をすくめて私に聞いた。
「……袋田。私は、間違っていたのか?」
「さあな。俺にも分からんよ」
私は煙草の箱をポケットにしまいながら言った。
「ただな。分からないまま生きるってのも、案外悪くないぞ」
加賀美は一瞬目を見開き、それからゆっくりと、長年忘れていたような小さな苦笑いを浮かべた。
『気づきエネルギー』の実用化?
もちろん、そんなものは幻となった。
発電機に繋いだ瞬間に光らなくなる「役立たずのエネルギー」。だが、それでいいのだ。
数ヶ月後。
ガソリンスタンドの跡地は、小さな町民広場になっていた。
屋根の上に並んだソーラーパネルの端っこに、あの透明な球体がぽつんと置かれている。
広場のベンチで、私と零は缶コーヒーを飲んでいた。
「袋田さん」
零がふと、遠くの雲を見つめながら言った。
「僕の名前……『零』って言うんです」
「知ってるよ」
「零は、ゼロじゃないんです。何もない場所じゃなくて……『すべてが始まる前の場所』っていう意味なんです。未来の記録では、僕は本当に袋田さんの孫ということになっているんですよ」
零はそう言って、少しだけ悪戯っぽく笑った。
「袋田さん。おばあちゃん……里美さんのこと、思い出しました?」
「ん? ああ……」
私は空を見上げた。青い空に、すうっと白い筋雲が伸びている。
三十年前、里美と別れた日のこと。
あの日、なぜ別れたのか。思い出したくないからずっと忘れたフリをしていたが、先日ふと思い出したのだ。
「うどん屋で天ぷらをどちらが食べるか」でくだらない喧嘩をしただけだった。
「あ」
私が呟いた瞬間。
屋根の上の球体が、ほんの少しだけ、温かい青色にぽわんと光った。
「また光りましたね」
零が嬉しそうに笑った。
「元記者なのに、くだらんことしか思い出さん」
「元記者だからですよ」
人間は便利になればなるほど、何かを忘れていく。
効率を求め、答えを急ぎ、検索画面ばかりを見つめて生きている。
けれど、少しだけ足を止め、空を見上げて「あ」と呟いたとき。
世界はほんの少しだけ、こちらを振り返って微笑んでくれるのかもしれない。
屋根の上には、今日も何かが静かに飛んでいる。
電波かもしれない。
誰かの記憶かもしれない。
あるいは、すべてが始まる前の、まだ名前すらない「次の何か」かもしれない。
ー了ー
あとがき
人間は、何かを発明すると、それ以前のものを忘れてしまう。
火を使えば、暗闇の恐ろしさを忘れる。
電気を使えば、火のありがたさを忘れる。
スマートフォンを使えば、自分でじっくり考える面倒くささを忘れてしまう。
便利になることは決して悪いことではない。
けれど便利になればなるほど、人間は「自ら気づく」という営みを機械やシステムへ預けてしまう。
検索すれば一瞬で答えが出る。
AIに聞けば整った説明を返してくれる。
それでも最後に残るのは、
「で、自分はどう思ったのか?」
という、とても古くさくて、ひどく面倒で、けれど愛おしい問いだけなのだと思う。
この物語を書きながら、私自身も幾度となく「あ、そうか」と思った。
そしてそのたびに、見慣れたはずの街並みや古い道具たちが、少しだけ違った表情を見せてくれた。
測れなくてもいい。
発電できなくてもいい。
社会の仕組みに組み込めなくてもいい。
誰かが自分の頭で考え、何かに気づいた瞬間、その人の世界がほんのわずかに広がる。
物語と人間にとって、必要なのはそれだけなのかもしれない。
空を見上げ、ふと「あ」と呟く。
その一瞬のために、屋根の上には今も目に見えないフィラメントが灯っている。

