刻堕とし 十九 〜寿限無異聞・名呑喰らい〜
継ぎ目守異聞
古典落語「寿限無」より
まえがき
「寿限無」という噺は、落語の中でも最も広く知られた前座噺の一つである。子が生まれた八五郎、祝いの席で和尚に「めでたい名前をつけてやってくれ」と頼み込むが、和尚が挙げる名前の候補を、あれもいい、これもいいと欲張って、結局一つに絞れず、全部くっつけてしまう。
「寿限無寿限無、五劫の擦り切れ、海砂利水魚の、水行末雲来末風来末、食う寝る処に住む処、藪ら柑子の藪柑子、パイポパイポパイポのシューリンガン、シューリンガンのグーリンダイ、グーリンダイのポンポコピーのポンポコナーの、長久命の長助」
これが子の名前になってしまい、この長い名前が、噺全体を通じて何度も繰り返され、そのたびに笑いを誘う――名前を呼ぶだけで一苦労、遊び友達と喧嘩しても、名前を呼んでいるうちに喧嘩そのものが有耶無耶になってしまう、という、名前の長さそのものが笑いの種になる噺である。
この噺の面白さは、目出度い言葉を全部欲張って詰め込んだ、その親馬鹿な欲張りさと、名前が長すぎることによる、実生活での不便さの対比にある。
ところが、とある写しにおいて、この「言い終わらないほど長い名前」という型が、あちこちの継ぎ目で本物の呪いと化し、名を呼ばれた者が、名が呼び終わるまで、時そのものから置き去りにされてしまうという報せが届いた。継ぎ目守の圭馬と弥七は、長助の暮らす長屋へと足を踏み入れることになった。
一 継ぎ目守、終わらぬ呼び声
鏡面から、途切れることのない声が漏れ聞こえてきた。「寿限無寿限無、五劫の擦り切れ……」と、同じ名前が、幾重にも重なりながら、いつまでも続いている。
継ぎ目守圭馬へ。
演目「寿限無」における『言い終わらないほど長い名』の型が、無数の継ぎ目にて実体化。名を呼ばれた者が、名乗りが終わるまで時間の流れから切り離される事案を確認。至急現地調査されたし。
「名乗りが終わるまで時が止まる、たあ、これは難儀な話だね」
圭馬が鏡面から漏れる声に耳をふさぎながら呟くと、弥七がすでに、何やら早口の練習をしながら立っていた。
「旦那、寿限無たあ、目出度い言葉を欲張って全部くっつけただけの、罪のねえ前座噺のはずなんですがね」
二 目出度い名前
継ぎ目を抜けると、そこは江戸の裏長屋だった。八五郎という男が、生まれたばかりの我が子を抱え、寺の和尚のもとを訪れていた。
「和尚さん、この子に、うんと目出度い名前をつけてやっておくんなさい」
和尚は、あれこれと目出度い言葉を並べ立てる。八五郎は、その一つ一つに感心し、「それもいい」「これも捨てがたい」と、結局どれも諦めきれずに、全部くっつけて子の名前にしてしまった。
「寿限無寿限無、五劫の擦り切れ、海砂利水魚の……」
長々と続く名前を、圭馬と弥七は物陰から聞いていた。
「弥七、噺の型どおりだ。だが、あの名前、心なしか、唱えるたびに、周りの景色が少しずつ滲んでいかないか」
三 長助、遊びに出る
数年が過ぎ、長助と名付けられた子は、元気に育っていた。ある日、遊び友達の一人と喧嘩になり、殴られた拍子に頭にたんこぶをこしらえてしまう。
友達の親が、長助の家に詫びを入れに来る。
「申し訳ない、うちの子が、長助ちゃんを殴っちまいまして」
「なに、長助を殴っただと。……ときに長助のやつは、今どこにいるかね」
「へえ、それが……」
友達の親が説明を始めると、長助の父・八五郎は、律儀に子の名前をフルネームで呼ばなければ気が済まない性分だった。
「これ、寿限無寿限無、五劫の擦り切れ、海砂利水魚の、水行末雲来末風来末、食う寝る処に住む処、藪ら柑子の藪柑子、パイポパイポパイポのシューリンガン、シューリンガンのグーリンダイ、グーリンダイのポンポコピーのポンポコナーの、長久命の長助や、出ておいで」
名前を呼び終える頃には、すっかりたんこぶも引っ込んでしまっていた――というのが、本来の落ちの一つである。
弥七がにやりと笑った。
「旦那、これがこの噺のオチの一つでさ。名前が長すぎて、そうこうしてるうちに、時が経っちまう」
四 止まらぬ名乗り
だが、圭馬たちが見守るうちに、様子がおかしくなってきた。八五郎が名前を呼び終えても、長助が姿を現さないのである。
「あれ、長助のやつ、まだ出てこねえな。もう一遍呼んでみよう」
八五郎は再び深く息を吸い込むと、声を張り上げた。
「寿限無寿限無、五劫の擦り切れ、海砂利水魚の……パイポパイポ……シューリンガン……」
八五郎の口から果てなく溢れ出す目出度い言葉の連なり。二度、三度と名前を呼び直すうちに、あたりの景色が、まるで凍りついたように動きを止め始めた。井戸端の水音も、遠くの物売りの声も、すべてが止まったまま、八五郎の名乗りの声だけが、いつまでも響き続けている。
「弥七、これはおかしい。噺の型なら、名前を呼び終えたところで、話は先へ進むはずだ。それが、いつまで経っても、名乗りが終わらない」
五 幾千の長屋、止まった刻
圭馬が継ぎ目守の証を掲げると、長屋の壁が透け、その奥に、幾千もの同じ長屋が、鏡合わせのように連なって見えた。どの継ぎ目でも、誰かが誰かの名を呼び、その名乗りが、いつまでも終わらないまま、時が止まっていた。
「これじゃ、長助や、まだかい……」
うわ言のように名を呼び続ける親たちの姿は、どこも同じだった。
「弥七、見ろ。あちこちの継ぎ目で、名乗りそのものが、終わらない呪いになっちまってる」
六 名呑喰らいの正体
幾千の長屋が収束する先、暗い蔵の奥のような場所に、無数の音の欠片を鱗のように纏った、輪郭の定まらない影が蠢いていた。
「継ぎ目守か。……この身は、幾百幾千の写しで宙に浮いたままだった『言い終わらない名前』から生まれた者。名は名呑喰らい。名を呼ぶ、あの息の長さ、あの焦れったさ――それが何よりの馳走よ」
「お前が、あちこちの継ぎ目で、名乗りを終わらせないようにしてるのか」
「名乗りが終われば、旨みは失せる。ならば、いつまでも終わらせねばよい。呼んでも呼んでも届かぬ、あの焦れったい刻こそが、何よりの糧よ」
弥七が唸った。
「旦那、こいつぁ、八五郎さんの親馬鹿な欲張りさを、逆手にとって食い散らかしてやがる」
七 弥七、名乗りに巻き込まれる
調べを進める中、弥七がふと、幾千の長屋の一つで、誰かの名を呼ぼうとしてしまった。
「おい、そこの――」
言いかけた瞬間、弥七の口から、次から次へと、目出度い言葉の羅列が、止めどなく溢れ出し始めた。
「な……こいつは、口が、勝手に……」
「弥七!」
圭馬がとっさに弥七の口を塞いだ。
「弥七、しっかりしろ。名呑喰らいの縄張りじゃ、うっかり誰かを呼ぶと、名乗りそのものに引きずり込まれちまう」
八 長助の言い分
その時、長屋の奥から、時間の止まった異界の空間を悠々と歩いてくる人影があった。時の歪みの中で歳月を重ねたのか、すっかり成長し、立派な大人になった長助である。ひょっこりと顔を出すと、どこか大人びた笑みを浮かべた。
「継ぎ目守の旦那方、難儀してなさるようだね。一つ、あっしの言い分を聞いちゃもらえやせんか」
「長助さん、あんたの言い分とは」
「なあに、簡単なことでさ。あっしの名前が長ったらしいのは、確かに親父の欲張りのせいだ。だが、あの名前にゃ、ちゃんと『長く生きてほしい』っていう、親心が全部詰まってる。……名前ってのは、呼び終えるためのもんじゃねえ。呼ぶ相手を思う気持ちを、込めるためのもんだ」
「呼ぶ相手を思う気持ち、か」
九 圭馬の啖呵
圭馬は名呑喰らいに向き直し、江戸前の威勢のよさで堂々と啖呵を切った。
「お前の魂胆は分かったよ。名乗りを終わらせず、その焦れったさを食い荒らしてやがったんだな。……だがな、野暮を言っちゃいけねえ。長助さんの言う通り、名前ってのは最後まで言い切らなきゃ届かねえようなケチなもんじゃねえんだ。我が子を思う最初のひと声に、もう溢れるほどの想いが詰まってんだよ!」
「戯言を。呼び終えねば、想いなど届きはせぬ」
「いいや。八五郎さんは、長助のことが心配で心配で、たまらねえから、あの長い名前を、律儀に最後まで呼ぼうとしてるんだ。その心配りそのものが、もう十分に、想いは届いてる」
圭馬は懐から継ぎ目守の証を掲げ、幾千の長屋すべてに向けて、力強く語りかけた。
「八五郎さん、名乗りを最後まで言い切らなくたっていい。あんたが子を呼ぶ、その最初のひと声にだって、もう十分に、親心はこもってるんだ」
十 型を取り戻す
圭馬の言葉が、幾千の継ぎ目すべてに染み渡っていくと、止まっていた時が、少しずつ動き出した。八五郎の呼び声は、途中までしか続かなかったが、それでも長助は、ちゃんと駆けつけてきた。
「おとっつぁん、呼んだかい」
「お、おお、長助。すぐに来てくれたか」
「あたりめえよ。おとっつぁんの声、途中まで聞こえりゃ、あっしにゃ十分でさ」
名呑喰らいは、途中までしか呼ばれなくても、ちゃんと想いが届いてしまうという道理に耐えかね、纏っていた音の鱗を一枚また一枚と剥がされながら、静かに霧散していった。
「ぐ……名乗りを、言い切らずとも、想いが届くとは……身が、痩せて……」
十一 高座にて
幾千の長屋は、一枚また一枚と収束していき、やがて、あの一つの長屋だけが、正しい形で残った。
気づけば圭馬は着物姿で高座に座っていた。扇子をとんとんと畳に置き、客席を見渡す。
「というわけで、寿限無寿限無、五劫の擦り切れ……と、この調子で全部言い終わる頃にゃ、たんこぶも引っ込んじまうってな、実に長閑な噺でございます。ですが、名前ってのは、最後まで言い切らなくたって、その最初のひと声に、もうちゃんと想いはこもってるもんでございます。今日はこの辺りで、お後がよろしいようで」
客席から、盛大な拍手が沸き起こった。
了
あとがき
本作をお読みいただきありがとうございました。刻堕としシリーズも十九作目、今回は「寿限無」という、落語の入門編としても親しまれる、言葉遊びの効いた前座噺を題材にしました。
この噺の面白さは、目出度い言葉を全部欲張って詰め込んだ、その親馬鹿な欲張りさにあると思います。今回はその「言い終わらないほど長い名前」という型そのものが、あちこちの継ぎ目で本物の呪いと化し、名乗りが永遠に終わらなくなるというSF的な事件にしてみました。
長助自身の「名前は呼び終えるためのものではなく、呼ぶ相手を思う気持ちを込めるためのもの」という一言は、この噺が本来持っている、名付けにまつわる親心の温かさを、そのまま言葉にしたものです。名乗りを最後まで言い切らずとも、想いは届く――そんな結末に、シリーズを通じてのテーマを重ねられたのではないかと思います。
早口言葉のような賑やかさと、名付けにまつわる親心、その両方を楽しんでいただけましたら幸いです。それでは、また次の継ぎ目でお会いしましょう。

