盆帰り
――あの日の君に、もう一度だけ会いたかった




まえがき
お盆になると、故郷へ帰る。それは昔から変わらない。
東京で暮らすようになって四十年以上になるが、八月になると、なぜか実家へ帰りたくなる。
父も母ももういない。実家といっても、今では誰も住んでいない古い家だ。それでも盆になると帰る。仏壇に線香を上げ、庭の草を少し抜き、縁側に座って夕暮れを見る。それだけのために。
人間には、理由を説明できない習慣がある。たぶん故郷というのは、そういうものなのだろう。
ところが、六十六歳になった今年の盆。私は夢を見た。
初恋の人が出てきた。五十年以上前の、あの日の姿で。
彼女は笑っていた。そして私の隣に座ると、昔と変わらない声で言った。
「これからは一緒よ」
私は目を覚ました。真夜中だった。胸が、妙に苦しかった。
そして思った。なぜ、今なのだろう。なぜ、彼女なのだろう。なぜ――盆なのだろう。





第一章 隣の家
彼女の名前は、佐伯美奈子という。私と同じ六十六歳になっているはずだ。「なっているはず」という言い方をするのには理由がある。
私は、彼女が今どこにいるのか知らない。結婚したのか。子供がいるのか。どこに住んでいるのか。生きているのか。それすら知らない。最後に会ったのは、三十五年ほど前の同窓会だった。それが最後だった。
けれど、私が彼女を知ったのは、もっとずっと前。小学生の頃だった。
私の家が引っ越した。父の仕事の都合だった。新しい家は、古い木造住宅だった。庭は狭く、隣家との境に低いブロック塀があった。その向こうが、彼女の家だった。
引っ越した翌朝。私は学校へ行こうとして玄関を出た。すると、隣の家の門から女の子が出てきた。
白いブラウス。紺色のスカート。肩まで伸びた髪。ランドセルを背負っていた。
彼女は私を見ると、少しだけ首を傾げた。
「転校生?」
「うん」
「何年?」
「五年」
「同じじゃん」
それが最初だった。たったそれだけ。
けれど子供というのは不思議なものだ。その日から私は、彼女がいることを当たり前のように受け入れた。
朝、家を出る。隣から彼女が出てくる。一緒に学校へ行く。帰りも、だいたい一緒だった。夏休みには、塀越しに話をした。冬になると、彼女の家の窓から漏れる明かりが見えた。
近すぎた。本当に近すぎた。だからこそ、私は何もできなかった。好きだと言うこともできなかった。手を握ることもできなかった。
中学生になっても、それは変わらなかった。むしろ、余計に何も言えなくなった。彼女のことを好きなのだと、自分で気づいてしまったからだ。




第二章 言えなかった言葉
中学三年の冬。卒業が近づいていた。高校は別々になる。私は、それが怖かった。
今まで当たり前に隣にいた人が、突然、人生から消えてしまう。そんなことがあるのだと、その頃初めて知った。
卒業式の日。校門の前で彼女と写真を撮った。彼女は笑っていた。私は笑えなかった。
何か言おうと思った。ずっと好きだった。高校が別々になっても会いたい。そんなことを言いたかった。けれど、言葉が出てこなかった。
彼女が言った。
「じゃあね」
「うん」
それだけだった。その「うん」が、私の初恋の結末になった。
高校に入ると、会わなくなった。電話もしなかった。手紙も書かなかった。
若いというのは、どうしてあんなに不器用なのだろう。会いたければ会えばいい。話したければ話せばいい。好きなら好きと言えばいい。今ならそう思う。けれど、十六歳の私は、そんな簡単なことができなかった。
そして時間が流れた。
大学へ行った。就職した。結婚した。子供が生まれた。仕事に追われた。父が死んだ。母が死んだ。
気づけば、六十六歳になっていた。人生は、思っていたより短い。そして記憶は、思っていたより早く薄くなる。彼女の顔さえ、いつの間にかぼんやりしていた。
それなのに。あの夜。夢の中の彼女だけは、はっきりしていた。




第三章 同窓会
三十五年ほど前。一度だけ、中学の同窓会があった。
私は三十一歳だった。結婚したばかりだった。左手には指輪があった。
会場は駅前のホテルだった。懐かしい顔が並んでいた。
「お前、変わったな」
「そっちこそ」
そんな会話をしていた。
そして彼女が来た。
「久しぶり」
私は、一瞬、何も言えなかった。彼女は笑った。
「やあ」
私も笑った。
「やあ」
彼女の目が、私の左手に落ちた。
「結婚したの?」
「ああ」
それだけ答えた。本当は違うことを言いたかった。「君と結婚したかった」。もちろん、そんなことは言えるはずもない。
彼女は少し笑って、「そうなんだ」と言った。
そして、私は余計なことを言った。
「美奈子も、早く嫁に行かないと」
言った瞬間。自分でも、しまったと思った。
彼女は笑っていた。「うん」。その笑顔が、ほんの少しだけ寂しそうに見えた。
けれど私は、気づかないふりをした。いや。気づきたくなかった。
それからしばらくして、彼女は帰った。私も帰った。そして二度と会わなかった。
だが、その一言だけは残った。「早く嫁に行かないと」。何十年経っても。時々、思い出した。
もし、あのとき。あんなことを言わなかったら。
もし、「君はどうしているの?」と聞いていたら。
もし、「昔から好きだった」と言っていたら。
人生は変わったのだろうか。私は何度も、その「もし」を考えた。




第四章 夢
盆の三日前。私は夢を見た。
夢の中で、私は中学生だった。校庭にいた。夕方だった。校舎の窓が赤く染まっていた。
彼女がいた。制服姿だった。卒業式の日の姿。
彼女は私を見ると笑った。
「遅いよ」
「何が?」
「ずっと待ってた」
私は何も言えなかった。彼女が近づいてきた。そして私の隣に座った。
「これからは一緒よ」
「え?」
「だって、もう離れないから」
彼女は笑った。
私は目を覚ました。午前二時十七分。汗をかいていた。胸が激しく鳴っていた。
そして妙なことに気づいた。夢の中で見た時計。その時刻を、私は知っていた。午前二時十七分。なぜ知っているのか、わからなかった。ただ、嫌な感じがした。
私は台所へ行き、水を飲んだ。窓の外を見る。真っ暗だった。その向こうに、隣家の屋根が見えた。
もちろん、今の隣家だ。あの頃の家は、もうない。取り壊されている。
私は窓を閉めた。そして、眠れなくなった。




第五章 盆帰り
盆になった。私は実家へ帰った。
久しぶりに見る町は、さらに小さくなっていた。子供の頃には広かった道路が、今では狭く感じる。商店街も半分ほどシャッターが下りている。駅前にあった本屋はなくなっていた。駄菓子屋もない。公園の遊具も変わっていた。
けれど、私の家だけは残っていた。古い家だった。
玄関を開ける。空気が違った。誰も住んでいない家には、時間が溜まっている。
私は仏壇に線香を上げた。父と母の写真を見る。
「帰ってきたよ」
そう言った。自分でも、なぜそんなことを言ったのかわからない。
夕方。縁側に座った。蝉の声が聞こえる。遠くで盆踊りの音がしていた。
ふと。隣を見た。昔、彼女の家があった場所。そこには、新しい家が建っていた。誰かが住んでいるらしい。カーテンが閉まっている。
私は立ち上がった。なぜか、胸がざわついた。
そして、その夜。再び夢を見た。




第六章 午前二時十七分
「来たね」
彼女が言った。私は夢の中で、何かがおかしいと思った。
「どこへ?」
「ここ」
「ここって?」
彼女は答えなかった。ただ、私の手を取った。手が温かかった。その温度が、あまりにもリアルだった。
私は言った。
「美奈子」
彼女が振り向く。
「なに?」
「今、何歳?」
彼女は笑った。
「知らない」
「え?」
「あなたは?」
「六十六」
「じゃあ、私も六十六」
「……でも」
彼女は昔のままだった。十六歳の姿。
「これは夢だから?」
私が聞くと、彼女は首を振った。
「夢じゃないよ」
「じゃあ、何?」
彼女は少し考えて、「帰ってきたの」と言った。
その瞬間。世界が揺れた。




第七章 記憶の部屋
私は知らない部屋にいた。
白い壁。白い床。窓がない。
正面に巨大なスクリーンがあった。そこに数字が表示されていた。「2038」。その下に、「TEMPORAL MEMORY INTERFACE」と書かれていた。
「何だ、これ」
彼女が横に立っていた。
「覚えてない?」
「知らないよ」
「そう」
彼女は悲しそうに笑った。
スクリーンに映像が流れた。子供の頃の私。隣の家。ランドセル。夏休み。彼女。私たち二人。
私は息を呑んだ。
「これ……」
「記憶」
「誰の?」
「あなたの」
映像が変わった。中学卒業の日。そして、同窓会。
「ここで止まってる」
彼女が言った。
「何が?」
「私たちの人生」
私は彼女を見た。
「どういう意味?」
彼女は答えなかった。代わりにスクリーンに一行の文字が浮かんだ。
《観測対象:佐伯美奈子》
その下。
《最終観測時刻:2038年8月13日 02:17》
私は固まった。
「2038年?」
「そう」
「今は2026年だぞ」
彼女は頷いた。
「知ってる」
「じゃあ、これは……」
「未来」




第八章 十二年後
私は混乱した。彼女は言った。
「私たちが住んでいる世界には、時間が一つしかないと思ってるでしょう?」
「違うのか?」
「違うかもしれない」
「かもしれない?」
「科学者たちも、まだわかってない」
彼女は笑った。
「でも、人間の記憶には、時間を越える性質があるらしい」
「そんな馬鹿な」
「だから夢なんじゃない?」
私は何も言えなかった。彼女は続けた。
「2038年。私はこの町に戻ってきた」
「なぜ?」
「わからない」
「それで?」
「隣の家を見た」
私は息を止めた。
「私の家?」
「そう」
「でも私は……」
「あなたはまだ生きてる」
「2026年に?」
「そう」
彼女は微笑んだ。
「だから会いに来た」
「十二年後から?」
「うん」
私は頭を抱えた。
「そんなこと、できるわけがない」
「私もそう思った」
彼女は静かに言った。
「でも、人間は死んだ人間に会うことができるでしょう?」
「夢の中で?」
「記憶の中で」




第九章 もう一つの人生
スクリーンに映像が出た。別の人生だった。
私は結婚していない。彼女と一緒に暮らしている。小さな家。二人の子供。犬。庭。
私は笑っていた。彼女も笑っていた。
私はそれを見て、胸が痛くなった。
「これは……」
「もう一つの可能性」
「こんな世界があるのか?」
「ある」
「本当に?」
「少なくとも、観測された」
私は画面から目を離せなかった。別の私、彼女と庭にいた。年を取っていた。それでも幸せそうだった。
私は思った。こっちの人生のほうが、幸せだったのだろうか。
彼女が言った。
「そう思う?」
私は答えられなかった。
「でもね」彼女は続けた。「この世界のあなたにも、幸せはあったでしょう?」
私は頷いた。妻がいた。子供がいた。孫もいる。平凡だった。けれど、幸せだった。
「じゃあ、何が違う?」彼女が聞いた。
私はしばらく考えて言った。
「君がいない」
彼女は笑った。
「私も」




第十章 言葉の修正
「未来から来たなら、過去を変えられるのか?」
私は聞いた。彼女は首を振った。
「変えられない」
「どうして?」
「変えるんじゃなくて、分岐するから」
「分岐?」
「あなたが今ここで、私に好きだと言ったとしても、それは過去のあなたには届かない」
「じゃあ意味がない」
「意味はある」
彼女は私の手を握った。
「あなた自身が、ずっと抱えていた後悔を終わらせることができる」
私は黙った。
「ねえ」彼女が言った。「同窓会の日のこと、覚えてる?」
胸が痛くなった。
「覚えてる」
「私に言ったよね」
「何を?」
彼女は笑った。
「早く嫁に行かないと、って」
私は目を伏せた。
「……悪かった」
「どうして謝るの?」
「ずっと後悔してた」
彼女はしばらく黙っていた。そして言った。
「あの日ね。私は、あなたがそう言ったから、あなたが私のことを何とも思ってないんだと思った」
私は息を呑んだ。
「だから、何も言わなかった」
「……」
「でも」彼女は笑った。「私も好きだったよ」
その瞬間。世界が音を失った。




第十一章 遅すぎた告白
私は泣いていた。六十六歳にもなって。夢の中で。十六歳の彼女の前で。
「もっと早く言ってくれよ」
私は笑いながら言った。彼女も笑った。
「あなたもね」
「そうだな」
「お互い様」
「本当に」
二人で笑った。そして私は聞いた。
「今まで、結婚したの?」
彼女は首を振った。
「してない」
「どうして?」
「待ってたわけじゃないよ」
「じゃあ?」
「好きな人ができなかった」
私は何も言えなかった。彼女は続けた。
「あなたは?」
「結婚した」
「うん」
「妻はいい人だった」
「知ってる」
「どうして?」
「あなたの記憶を見たから」
私は笑った。
「なんだ、それ」
「幸せだった?」
私は頷いた。「幸せだった」
彼女も頷いた。「よかった」
その言葉が、なぜか一番悲しかった。




第十二章 妻
目が覚めた。朝だった。
私は布団の中で泣いていた。
妻はもういない。三年前に亡くなった。
私は、彼女のことを愛していた。それは本当だ。だからこそ、初恋の人への気持ちを長い間、胸の奥にしまっていた。罪悪感があった。
けれど、その朝。私は初めて思った。
人間の心には、複数の人生が入ることができるのかもしれない。
妻への愛と。初恋への想い。どちらかが嘘だったわけではない。
人生は、一つしか選べない。けれど心の中には、選ばなかった人生も残っている。そのことを、私は六十六歳になって初めて理解した。




第十三章 隣の家
朝食を食べていると。隣の家から音がした。玄関が開く音。
私は箸を置いた。外へ出た。
隣の家の前に、白髪の女性が立っていた。後ろ姿だった。
私は動けなくなった。女性が振り向いた。
違った。知らない人だった。
私は苦笑した。
「何を期待してるんだ」
家に戻ろうとした。そのとき。ポストに何か入っているのが見えた。
白い封筒。宛名は私だった。
差出人の名前を見て。私は立ち尽くした。
佐伯美奈子。




第十四章 手紙
手が震えた。封筒を開ける。中には一枚の紙。
《久しぶり》
その文字を見ただけで、彼女だとわかった。
《たぶん、あなたは驚いていると思います。私も驚いています。あなたがこの手紙を読む頃、私はもう、この町にはいません》
私は読み進めた。
《あの日のことを、私はずっと覚えていました。同窓会で、あなたが「早く嫁に行かないと」と言ったこと。あの言葉を、私はずっと気にしていました》
私は目を閉じた。
《でも、最後にあなたの夢を見ました。そこで、あなたは私に言いました。ずっと好きだった、と》
私は息を止めた。
《だから、もう十分です。私もずっと好きでした。でも、それぞれの人生を生きてきたことも、間違いではありません。だから、後悔しないでください》
最後に。
《盆になったら、帰ってきてください。あなたが故郷に帰る限り、私はどこかで帰ってきます》
名前の下に。日付があった。
2038年8月13日。
私は紙を落とした。




第十五章 十二年後の手紙
私は震える手で、もう一度日付を見た。2038年。未来の日付だった。
しかし、手紙は今ここにある。あり得ない。そんなことはわかっている。
私は封筒を裏返した。消印があった。2038年8月13日。
そして、もう一つ。小さな文字。
《この手紙は、2026年のあなたへ》
私は笑った。笑うしかなかった。
「なんだよ、それ」
その瞬間。携帯電話が鳴った。知らない番号だった。
出る。
「もしもし」
無言。そして。
「……遅いよ」
私は凍りついた。彼女の声だった。
「美奈子?」
「うん」
「どこにいる?」
「隣」
私は窓を見た。隣の家。カーテンが開いた。誰もいない。
「見えないよ」
「まだね」
「まだ?」
「十二年後なら見える」
電話が切れた。




第十六章 2038年
私はその年の盆を、何度も思い返した。そして十二年が過ぎた。
私は七十八歳になった。身体は弱った。髪はほとんど白くなった。けれど、盆になると故郷へ帰った。
2027年。2028年。2029年。2030年。毎年。何も起きなかった。
それでも帰った。妻の墓参りもした。父母の墓にも行った。そして隣の家を見た。彼女の姿はなかった。
2037年。私はもう、帰れないかもしれないと思った。けれど帰った。
そして2038年。八月十三日。
私は実家の縁側に座っていた。午後二時十七分。
突然。庭の向こうに人影が見えた。
若い女性だった。白いブラウス。紺色のスカート。肩までの髪。
私は立ち上がった。
「美奈子」
女性が笑った。
「やっと会えたね」




第十七章 帰ってきた人
私は歩いた。一歩ずつ。彼女も歩いてくる。近づくほど、顔がはっきりする。十六歳の彼女だった。
「どうして?」
私は聞いた。彼女は笑った。
「お盆だから」
「それだけ?」
「それだけでいいじゃない」
私は泣いた。
「俺、ずっと待ってた」
「知ってる」
「本当に?」
「夢で見てた」
「じゃあ……」
「うん」
彼女は私の隣に座った。昔と同じように。
「これからは一緒よ」
私は笑った。
「遅すぎるよ」
「そう?」
「半世紀以上だぞ」
「でも、会えた」
私は頷いた。




第十八章 観測
その夜。私は奇妙な夢を見た。
白い部屋。巨大なスクリーン。そこに文字が出ていた。
《時間接続終了》
《記憶転送終了》
《観測結果:成功》
私は気づいた。これは彼女の実験なのだ。
彼女は未来の研究者たちとともに、記憶を過去へ送った。けれど、記憶だけではない。「感情」も送れる。
科学者たちはそれをまだ理解していない。人間が持つ強い感情には、時間を越える何かがある。
初恋。後悔。言えなかった言葉。そういうものは、記憶の中で消えない。むしろ時間が経つほど、純粋になる。
スクリーンに最後の文字が出た。
《最も強い時間接続因子:後悔》
私は笑った。
「そんなものが、科学になるのか」
すると声がした。
「なるんだよ」
彼女だった。
「だから会えた」




第十九章 もう一つの盆
夢の中で。私は再び十六歳になっていた。彼女も十六歳。
私たちは並んで歩いていた。昔の通学路。蝉の声。夕方の空。
私は言った。
「なあ」
「なに?」
「好きだった」
彼女が笑った。
「知ってる」
「ずっと」
「うん」
「もっと早く言えばよかった」
「私も」
「ごめん」
「私もごめん」
二人で笑った。そして、彼女が言った。
「でもね」
「うん」
「言えなかったから、ずっと好きだったのかもしれないよ」
私は考えた。確かにそうかもしれない。
叶わなかった恋だからこそ。そこには、誰にも壊せない形が残っている。




第二十章 妻への手紙
目を覚ました。朝だった。
私は机に向かった。そして妻へ手紙を書いた。もう読むことはない。けれど書きたかった。
《君と結婚してよかった。君と生きた人生は、本物だった。そして、私にはもう一つ、選ばなかった人生があった。それも、本物だった》
私はそこで筆を止めた。
初恋の彼女との人生。それは実際には存在しなかった。けれど、私の中には確かに存在した。
人生とは、起きた出来事だけでできているのではない。起きなかった出来事も。言わなかった言葉も。会わなかった人も。選ばなかった道も。全部、心の中では人生なのだ。
私は手紙を畳んだ。仏壇の妻の写真の前に置いた。
「ありがとう」
そう言った。妻の写真、いつものように笑っていた。




第二十一章 最後の盆
それから十年。私は八十八歳になった。
身体はすっかり弱った。けれど盆だけは、故郷へ帰った。
ある年。実家の庭で、私は彼女を見た。昔と同じ姿だった。
私は笑った。
「また来たのか」
「あなたこそ」
「俺は毎年帰ってる」
「知ってる」
「じゃあ、君も毎年?」
「うん」
「どこから?」
彼女は空を見上げた。
「少し遠いところ」
私は笑った。
「未来?」
「そう」
「何年?」
「秘密」
「なんだよ、それ」
彼女は笑った。そして私の隣に座った。
私は言った。
「来年も来る?」
彼女は答えなかった。ただ、私の手を握った。温かかった。




第二十二章 盆帰り
その夜。私は夢を見た。
若い私がいた。隣に彼女がいた。二人は並んで歩いていた。
何も言わなかった。ただ歩いた。昔の道を。
家の前まで来る。彼女が立ち止まった。
「じゃあね」
私は言った。
「また来年」
彼女は笑った。
「うん」
目を覚ます。朝だった。蝉の声が聞こえた。
私は窓を開けた。隣の家が見える。もう誰も住んでいない。庭も荒れている。
それでも。塀の向こうから。声が聞こえた気がした。
「早く帰ってきて」
私は笑った。
「わかった」
そして、もう一度目を閉じた。




終章 それとも……
盆が終わる。私は東京へ戻る。
実家の鍵を閉める。最後に振り返る。
隣の家。昔、彼女が住んでいた家。
そこに。一瞬だけ。人影が見えた。
少女だった。白いブラウス。紺色のスカート。肩までの髪。
彼女が笑った。私は手を振った。少女も手を振った。そして消えた。
私は思う。あれは夢だったのか。未来から送られてきた記憶だったのか。それとも。お盆だから、帰ってきたのか。
答えは、わからない。
ただ。人生には、ときどき。科学では説明できないものがある。
忘れたはずの声。消えたはずの面影。言えなかった言葉。
そして。半世紀を越えて届く、たった一つの「好きだった」。
私は駅へ向かって歩き出す。振り返らない。もう、後悔はしていない。
あの日。「早く嫁に行かないと」と言ってしまった自分も。何も言えなかった十六歳の自分も。全部、私だった。
そして彼女も。きっと同じように。あの日の私を、どこかで待っていたのだ。
だから。盆になると、帰る。帰ってくる。
どこからなのかは、もうわからない。過去からなのか。未来からなのか。それとも。人の心の、時間のない場所からなのか。
ただ一つだけ。私は知っている。
初恋は、終わらない。
叶わなかった恋だけが、時間の向こう側で、ずっと生きていることがある。
今年もまた。盆が来る。私は帰る。
隣の家に、彼女の姿はあるだろうか。
それとも――もう、私のほうが、彼女のいる場所へ帰っていくのだろうか。
盆帰り。そう呼ぶことにした。
それで、いい気がした。






Amazon Kindle



あとがき
お盆の時期になると、誰もいなくなった故郷の家へと足が向きます。縁側に座り、暮れていく空を眺めていると、かつて過ごした時間や、かつてそこにいた人々の気配が静かに蘇ってくる感覚を覚えます。
誰の人生にも、思い返すたびに小さな痛みを伴う「言えなかった言葉」や「選ばなかった道」が存在するのではないでしょうか。十六歳の青さゆえに手放してしまった初恋、三十代の同窓会でかけてしまった余計な一言――それらは長い月日を経てもなお、胸の奥底で消えることはありません。
本作『盆帰り』は、そうした人生の後悔や切なさを、少しのファンタジーとSFの要素を交えて描いた物語です。過去を変えることはできません。けれど、心の深い場所で過去と向き合い、そっと受け入れることはできるのではないか。そんな思いを込めて執筆いたしました。
選んだ人生も、選ばなかった人生も、どちらも大切な自分の物語です。このささやかな物語が、お読みいただいた皆様の記憶のどこかにそっと寄り添うことができれば、とても嬉しく思います。