『一曲だけの青春
―夢の中で、僕はもう一度、青春をやり直した―』
第九幕 夢を受け継ぐ者
第一二五章 祖父のいない朝
祖父が亡くなってから三年が経った。僕は二十七歳になっていた。
あの人がいなくなったことは、今でもたまに信じられない。特にギターを弾いていると、隣から「そこ、違う」と言われそうな気がする。
もちろん、誰もいない。それでも僕は弾く。一曲、また一曲。
そして最後に必ず、祖父が好きだったコードを鳴らす。
ジャーン。
すると不思議なことに、少しだけ安心する。まるで「それでいい」と言われたような気がするのだ。
第一二六章 YaYaは売れない
僕のバンド「YaYa」は、正直売れていなかった。ライブをやっても客は二十人、多くても五十人。CDを作っても売れず、動画を配信しても再生回数は三桁止まりだった。
メンバーの一人が言った。
「もう、やめようか」
僕は黙っていた。別のメンバーも続く。
「俺もそろそろ就職しないと」
僕は何も言えなかった。みんな生活がある。夢だけでは食べていけない。
祖父なら何と言うだろう。そう考えた瞬間、頭の中で声がした。
――一曲だけ。
僕は思わず笑った。
「またそれかよ」
周囲には誰も意味が分からない。僕はギターを置いた。
「最後に、一回だけライブやろう」
メンバーが僕を見る。
「最後?」
「うん」
「それで?」
「それで、やめるかどうか決めよう」
みんな黙り込んだ。やがて一人が「分かった」と笑い、もう一人も「やろう」と言った。
僕は頷いた。
「じゃあ、一曲だけじゃなく全部やろう」
その夜、僕は祖父のギターをケースから出した。
第一二七章 古いギター
祖父のギターは傷だらけだった。表面には小さな傷、側面には何かをぶつけた跡があり、ネックも少し曲がっている。でも、音は不思議なくらい柔らかかった。
僕は弦を張り替え、チューニングをする。六本、一つずつ音を合わせ、最後の弦のペグを回した。
ピン、と音が鳴った瞬間、僕は妙な感覚に包まれた。誰かが後ろにいる。振り返っても誰もいない。
「おじいちゃん?」
返事はない。僕は笑った。
「いるわけないか」
そしてギターを弾いた。一音、二音、三音。
そのとき、机の上に置いていた古いノートが勝手に開いた。風はない。ページが一枚めくれる。
そこには祖父の字でこう書かれていた。
『YaYaは店ではない。』
その下に、さらに一行。
『だから、閉店もない。』
僕は息を止めた。
第一二八章 ノートの続き
ページをめくった。次のページは何もない。その次も何もない。
最後のページに、小さく文字があった。
『もし私が死んだあと、君がこれを読んでいるなら、一つだけ覚えておいてほしい。』
僕は読む。
『YaYaを有名にする必要はない。大勢の人に知られる必要もない。一人の人間を、もう一度明日に向かわせられたら、それで十分。』
僕はノートを閉じた。しばらく何もできなかった。
そして、泣いた。声を出さずに、ただ泣いた。
祖父は最後までこんなことを書いていたのか。音楽を売るためではなく、誰かを明日へ送るために。
第一二九章 最後のライブ
ライブの日は雨だった。昔から雨の日が多い。
会場は小さなライブハウス。客は三十人。それでも僕はステージに立った。
マイクを握る。
「今日は僕たちYaYaの、最後のライブになるかもしれません」
客席から笑いが起き、僕も笑った。
「でも、一曲だけどうしても聴いてほしい曲があります」
祖父のギターを構える。最初の音、ポーン。客席が静かになる。
僕は歌い始めた。それは祖父が僕に教えてくれた、名前のない曲だった。
曲名は『YaYa』。ただ、それだけだった。
第一三〇章 見知らぬ客
演奏の途中、僕は客席の後ろに一人の老人を見つけた。白いシャツ、眼鏡、帽子。ずっとこちらを見ている。
知らない人だったが、なぜか懐かしい。老人が小さく手を上げる。
「よっ」
僕は歌いながら笑った。
「よっ」
隣のメンバーが僕を見る。
「誰?」
僕は首を振る。分からない。でも知っている、そんな気がした。
曲が終わると拍手が起きた。老人は立ち上がり、ゆっくり出口へ向かう。僕は追いかけた。
「すみません!」
老人が振り返る。
「何?」
「どこかで会ったことありませんか?」
老人は笑った。
「あるよ」
「いつ?」
「ずっと昔」
「どこで?」
老人は少し考えて答えた。
「夢の中」
僕は絶句した。
第一三一章 老人の話
老人は店の外で傘を開いた。
「君の祖父は元気だったか?」
僕は驚いた。
「知ってるんですか?」
「少しね」
「どこで?」
「大学」
「大学?」
老人は笑った。
「昔、君の祖父が一日だけギターを弾いたことがあっただろう」
僕は頷いた。
「はい」
「俺はあの会場にいた」
僕は目を見開いた。
「本当に?」
「本当」
「桑田さんと一緒に?」
老人は笑った。
「いや、俺はただの客だよ」
「でも、祖父はあの日のことを何度も話してました」
「そうか」
老人は少し空を見た。
「楽しかった?」
「はい」
「それならよかった」
老人は歩き始めた。僕は呼び止める。
「待ってください! あなたの名前は?」
老人は振り返らずに答えた。
「忘れたよ」
そして、雨の中へ消えていった。
第一三二章 写真
ライブの翌日、僕は祖父のアルバムを探した。古い写真。大学、講堂、卒業式、家族、孫だった僕。
そして、一枚の見覚えのない写真があった。古い講堂に大勢の人。中央には若い祖父がギターを抱えている。
その後ろの人々を拡大してみると、右端に昨日の老人が写っていた。
僕は震える手で写真を持った。裏を見ると、四十年以上前の日付と祖父の字があった。
『この人もあの日一緒に歌っていた。』
名前は書かれていなかった。
第一三三章 もう一つの写真
アルバムの最後にもう一枚、写真があった。
そこには僕の祖父、若い僕、そして知らない青年が三人で同じ場所に立っていた。
僕は息を呑んだ。青年は昨日の老人だった。でも、写真の日付は僕が生まれる十年前なのだ。ありえない。
裏返すと、そこに一言だけ書かれていた。
『夢は時間を守らない。』
僕は椅子から立てなくなった。
第一三四章 教授の娘
僕は黒田教授のところへ行った。教授はすでに亡くなっており、代わりに娘さんが研究室を引き継いでいた。
僕が写真を見せると、彼女はしばらく黙っていた。
「これ……知っていますか?」
「父の研究ノートに同じ写真があります」
驚く僕に、彼女は棚から古いファイルを出してページをめくった。
そこにあった同じ写真では、祖父の隣に若い男、そしてその後ろに生まれてもいない僕が写っていた。
彼女が小さく言った。
「父は最後までこれを説明できませんでした」
「先生は何と言ってました?」
彼女は一枚の紙を渡してくれた。そこにはこう書かれていた。
『時間とは出来事の順番ではない。人が人を思い出す順番なのかもしれない。』
第一三五章 YaYaの正体
僕が聞いた。
「先生はYaYaを何だと思っていたんですか?」
彼女は少し笑った。
「最後には研究対象ではなくなっていました」
「じゃあ?」
「場所。心と心が、一瞬だけ同じ時間になる場所です」
僕は黙った。
「父は最後のノートにこう書いていました」
彼女が読む。
『YaYaとは過去でも未来でもない。現在である。ただし、誰かを大切に思った瞬間だけ。』
僕は目を閉じた。
だから母に会えた。だから若い自分に会えた。だから未来の自分にも会えた。全部「今」だったのだ。
第一三六章 閉店しない店
その夜、僕は一人で雨の街を歩いた。傘を持っていたが差さなかった。濡れても構わなかった。
駅前、交差点、古いビル、そして見覚えのない路地。
僕が立ち止まった先に、小さな店があった。看板には「YaYa」と書いてある。
僕は笑った。
「やっぱりあったんだ」
ドアを開けるとカランと音が鳴る。中には誰もいない。カウンターと古いギター、そして一枚の紙があった。
拾ってみると、そこには『店主は不在です。お好きな席へどうぞ。』と書かれていた。
「自由すぎるだろ」
僕は笑いながらカウンターに座り、ギターを取って弦を鳴らした。ポーン。
すると奥から声がした。
「遅いよ」
「誰だ?」
「分かってるくせに」
振り返ると、そこに祖父がいた。
第一三七章 祖父との再会
若い祖父――いや、僕が知っている一番元気だった頃の祖父がギターを抱えていた。
「久しぶり」
「三年ぶり」
祖父は笑った。
「現実ではな」
「夢では?」
「毎日」
僕は笑った。
「そうだったのか」
「お前が気づかなかっただけだ」
僕も隣に座った。
「聞きたいことがある。YaYaって、結局何なんだ?」
祖父は少し考えて言った。
「俺にも分からん。でも、一つだけ分かる。誰かを思い出したとき、人はその人と一緒にもう一度時間を生きる。それがYaYaだ」
「じゃあ店は?」
「入口だ」
「どこへ?」
祖父は笑った。
「自分の心」
僕も笑った。
「結局そういうことか」
第一三八章 祖父からの頼み
祖父が僕を見る。
「一つ頼みがある。この店を誰かに渡してくれ」
「どうやって?」
「簡単だ。一曲弾かせる」
「それだけ?」
「それだけ。音楽が好きじゃなくても、ギターが弾けなくても、歌が下手でも音痴でもいい」
僕は笑った。
「それ、音楽じゃないだろ」
祖父も笑った。
「人生も音楽じゃないだろ。でも、みんな自分の曲を弾いてる。上手い下手じゃない。最後まで弾くかどうかだ」
僕はギターを見つめた。
第一三九章 一曲だけ
祖父と二人でギターを構えた。
「何を弾く?」
「知ってるだろ」
僕が最初のコードを弾き、祖父が次のコードを重ねる。
二人、三人、四人――いつの間にか店には人が増えていた。母、先輩、美紀、父、教授、知らない青年、僕の孫、そしてまだ会ったことのない人々。全員が笑っている。
僕は思った。これがYaYaなのだと。誰かが思い出すたび人が増え、そしてまた誰かへ渡っていく。
第一四〇章 夢から夢へ
曲が終わると、祖父が僕に言った。
「じゃあ、帰れ」
「どこへ?」
「現実」
「もう少しいてもいい?」
「駄目だ。お前にはまだやることがある」
祖父が指差した店のドアには、十七歳くらいの少女が立っていた。ギターケースを抱え、泣いている。
「誰?」
「知らん。君が連れてきたんだ」
少女が僕を見る。
「助けてください。私、もう音楽をやめようと思って……」
祖父を見ると、何も言わずただ笑っている。僕は少女の隣に座った。
「一曲、弾くか?」
少女は泣きながら笑った。
「……はい」
ギターを渡すと、少女が構えて最初の音を出した。少し外れた音だった。
僕は笑った。
「いい音だ」
祖父も笑っていた。
第一四一章 目覚める理由
朝、僕はベッドの中で目を覚ました。雨の音、時計は七時。
飛び起きた僕は、夢の内容を忘れないうちに紙を探して書いた。
『YaYaは夢を見るための場所ではない。夢から帰ってくるための場所だ。』
ペンを置き、ギターを手にして一曲弾いた後、バンドのメンバーへ電話をかけた。
「今日、ライブやるぞ。客が一人でもいい」
「え? 何で?」
「一曲、弾きたい奴がいるんだ」
「誰?」
「まだ知らない」
電話を切り、傘を持って玄関へ向かう途中、机の上のノートが開いていることに気づいた。
昨夜まで何もなかった最後のページに、祖父の字で新しい一文が書かれていた。
『店は、今日も開いている。』
僕は笑った。
第一四二章 YaYaは今日も
その夜のライブハウスの客は、僕とメンバー、そして昨日の少女の三人だけだった。
ステージに立った彼女が震えている。
「怖い?」
「はい」
「俺も昔から怖いよ」
少女が笑い、僕も笑った。
「じゃあ一緒だ。一曲だけ」
少女が頷き、最初のポーンという音を鳴らした。少し震えた音だったが、確かに音だった。
僕が隣でギターを弾き、少女が歌う。最初は小さな声が、少しずつ大きくなっていく。
最後の音が消えると、小さな拍手が響いた。三人だけでも、少女は涙を流していた。
「ありがとうございます」
「こっちこそ。今日、YaYaを開けてくれてありがとう」
不思議そうな顔をする少女に、僕は雨の降る外を指差した。遠くに小さく「YaYa」の看板が見える。
「知らなくていいよ。いつか分かるから」
その夜、また一つ夢が生まれた。
第一四三章 未来の記憶
少女はその夜、夢を見た。
大学の講堂、大勢の観客がいるステージで、一人の老人が彼女にギターを渡す。
「一曲だけ」
「また?」
「また」
彼女がギターを受け取った瞬間、老人の顔が若返り、自分と同じくらいの年齢の青年になった。
「あなた、誰?」
「昔の俺。君がこれからなる俺だ」
不思議と怖くはなかった。
「人生は長いよ。でも、一曲ずつだ」
「何の曲?」
「まだ決まってない」
そして、音が始まり出す。
第一四四章 続いていく歌
僕はその夢を知らないし、少女も僕の夢を知らない。孫も祖父も知らない。
それでも音や記憶、約束、雨の日の笑い声は続いている。誰かが思い出すたび「YaYa」が開くから、店は閉じず、看板も消えない。
人生に疲れ、夢を諦めそうになった人が雨の夜に訪れると、店主は何も聞かずにギターを差し出す。
「一曲、どう?」
下手でも間違えてもいい。音が一つ鳴れば、それで「YaYa」は始まるのだ。
最終章 よっ
何年後か、何十年後か。誰かがこの物語を思い出し、雨の夜に夢を見る。
古い坂道、濡れた石畳の先にある小さな店「YaYa」。ドアを開けると一人の老人がギターを持って「遅いよ」と笑う。
「何か弾く? 一曲だけ」
ギターを受け取り指を置いた瞬間、最初の音が響いて店の灯りが明るくなる。そして老人が自分自身であったことに気づくのだ。
過去も未来も、全ての自分が一つの場所にいる。思い出すたびに人生は重なる。
昔の自分に「遅かったな」と言われたら、笑って答えればいい。
「悪かった。ちょっと人生が長引いた」
ゆっくり雨の中を歩いた先に、いつでも明かりのついた店がある。誰かを思い出し、ギターを弾き続ける限り「YaYa」はなくならない。
なぜなら「YaYa」とは店でも歌でもなく、誰かを思い出した瞬間に心の中に灯る小さな明かりなのだから。
今夜雨が降っているなら、少し耳を澄ませてみてほしい。
遠くから聴こえるギターの一音と、「よっ」という声に笑って返してほしい。
「よっ」
それだけでまた一曲始められる。あなたの曲はまだ途中なのだから。
最後の一音が消えたとき、誰かが肩を叩いて「よっ」と言うだろう。
「待ってたよ」と答えて、二人でドアを開ければいい。
雨の夜、古いギター、コーヒーの香り。また新しい一曲が始まる。
YaYa――人生は終わった物語ではない。誰かが思い出すたび、続きを始める物語なのだ。
(おしまい……ではなく、またどこかの雨の夜に)
ーーーーーーーーーー
第十幕 町じゅうが夢を見た夜
第一四五章 午前二時十三分
その夜、雨は朝から降り続いていた。
強くもない、弱くもない、ただずっと降っている。
時計が午前二時十三分を指した。
その瞬間、町の明かりが一斉に消えた。停電だった。
信号も、コンビニも、マンションも、全部真っ暗。
ところが、一軒だけ明るかった。
駅裏の古いライブハウス。看板には見慣れない文字で「YaYa」とあった。
誰もその店を知らない。少なくとも昼間には存在していない。
それなのに、午前二時十三分だけ灯りがついた。
第一四六章 同じ夢
翌朝、町の人たちは妙な話を始めた。
「昨日、変な夢を見た」
「俺も」「私も」「え?」
最初は偶然だと思った。でも夢の内容を聞くと、ほとんど同じだった。
古い坂道、雨、小さな店、ギター、そして一人の老人。
老人はみんなに同じことを言った。
「遅いよ」
ある会社員は「すみません」と答えた。
女子高生は「誰?」と答えた。
八十歳の老人は「何十年も待たせたな」と答えた。
三歳の男の子は「おじいちゃん?」と答えた。
返事はみんな違ったが、最後だけは全員同じだった。
老人がギターを渡し、「一曲だけ」と言う。
その瞬間、目が覚めた。
第一四七章 ニュースになる
昼過ぎ、テレビ局がやってきた。
「昨夜の停電についてですが、何か変わったことはありませんでしたか?」
レポーターがマイクを向けると、町の人が答える。
「夢を見ました」
「どんな?」
「店」
「店?」
「YaYaという」
レポーターが眉をひそめる。
「その店はどこにあるんですか?」
町の人が指差す。
「駅裏です」
スタッフが確認するが、そこには古い倉庫しかない。店などない。
テレビ局が混乱する。
ところが夜、また雨が降った。
そして午前二時十三分、カメラに一瞬だけ店が映った。
第一四八章 動画
その動画は翌朝、SNSに投稿された。たった十秒。
暗い路地、雨、揺れるカメラ。
そして画面の奥に小さな店の看板――「YaYa」。
ドアがカランと開き、中から誰かが顔を出す。
老人だ。笑っている。そして一言。
「よっ」
動画はそこで終わる。
再生回数は一時間で十万、三時間で百万、翌朝には一千万に達した。
コメント欄は大騒ぎになった。
「CG?」「合成?」「誰?」「怖い」「懐かしい」
そして一番多かったコメントは――
「この人、私の夢にも出てきた」
第一四九章 孫のところへ
その動画を僕の孫を見ていた。
今では三十代、音楽活動を続けている。「YaYa」という名前もまだ使っている。
彼は動画を見て黙り込んだ。
「……」
隣にいた妻が聞く。
「どうしたの?」
「この人」
「知ってる?」
「知ってる」
「誰?」
孫は答えなかった。代わりに祖父の古い写真を取り出した。
そこに写っている若い祖父、ギター、講堂、そしてあの老人。
孫は動画と写真を並べた。同じ顔だった。ただ、動画の老人のほう pillow(写真)より少し若い。
孫は呟いた。
「やっぱり、まだいるんだ」
妻が聞く。
「誰が?」
孫は笑った。
「じいちゃん」
その夜、孫は雨の中を駅裏へ向かった。
第一五〇章 存在しない店
駅裏。昼間そこには古い倉庫しかない。
孫は何度も来たが何もない。
でもその夜は雨が降っていた。
時計は午前二時十二分。孫は立っていた。
二時十三分。街灯が消える。
そして目の前に灯り。小さな店。看板「YaYa」。
孫は笑った。
「やっとか」
ドアを開ける。カラン。
店内には古いギター、カウンター、コーヒー、そして老人。
「遅いよ」
孫は笑った。
「三年待った」
老人は首を振る。
「違う」
「何が?」
「三十年」
孫は黙った。
「俺はまだ三十代だけど」
老人は笑う。
「ここでは時間は関係ない」
孫は椅子に座った。
「じいちゃん?」
「そうとも言える」
「死んだんじゃ?」
「現実では」
「じゃあ、ここは?」
老人は答えた。
「夢」
孫は笑った。
「やっぱり」
そして聞いた。
「何で町じゅうが夢を見てるの?」
老人はギターを置いた。
第一五一章 夢の理由
「町に必要な時が来たから」
「何が?」
「一曲」
孫は眉をひそめる。
「また?」
「また」
「誰のため?」
老人は店の外を見た。雨。
「町の人たち」
「全員?」
「そう」
「何で?」
老人は少しだけ真面目な顔になった。
「みんな、忙しすぎる」
孫は笑った。
「それだけ?」
「それだけじゃない」
「じゃあ?」
「みんな、昔の自分を置いてきた」
孫は黙った。老人は続ける。
「子供の頃の夢、昔の友達、好きだった人、やりたかったこと、言えなかった言葉……全部置いてきた」
「それを?」
「一度だけ、取りに行かせる」
孫はギターを見る。
「そのためのYaYa?」
「そう」
「じゃあ、俺は何をすれば?」
老人が笑った。
「弾け」
「一人で?」
「いや」
店のドアが開いた。
第一五二章 次々と来る人々
カラン。
一人、二人、三人。次々と人が入ってくる。
会社員、女子高生、八十歳の老人、主婦、外国人、サラリーマン、小学生。
誰もが不思議そうな顔をしているが、誰も帰らない。
老人が言う。
「みんな、一曲だけ」
会社員が聞く。
「何を弾けば?」
「好きな曲」
女子高生が言う。
「私、ギター弾けません」
「歌えばいい」
八十歳の老人が言う。
「俺は歌えん」
「聞けばいい」
小学生が言う。
「僕は?」
「手を叩け」
孫は笑った。
「何でもありだな」
老人も笑う。
「人生もそうだろ」
第一五三章 奇妙なバンド
その夜、奇妙なバンドができた。
ギター一人、歌二人、タンバリン一人、手拍子十人、口笛三人、何もできない人多数。
でも、音は不思議とまとまった。
孫がギターを弾き、老人が隣で弾く。そして町の人々が歌う。
最初は小さかった声が、次第に大きくなる。
誰かが泣き、誰かが笑い、誰かが肩を組む。
八十歳の老人が女子高生に「昔は俺も若かったんだ」と言うと、女子高生が「知ってますよ」と笑う。
「本当か?」「顔に書いてある」「失礼だな」
店中に笑い声が溢れた。
老人が僕の孫を見る。
「これでいい」
孫は頷いた。
第一五四章 店の外
午前四時、演奏が終わった。
店のドアを開けると、外は雨上がりで空が少し明るくなっていた。
町の人々が外へ出る。誰も何も言わない。ただ歩いて、それぞれ自分の家へ、自分の人生へ戻っていく。
女子高生は駅へ、会社員は自宅へ、八十歳の老人は妻の待つ家へ、小学生は夢の中へ。
孫だけが残った。老人と二人きり。
「これで終わり?」
孫が聞くと、老人は首を振った。
「始まり」
「何が?」
「町の人たちが、明日から少しだけ変わる」
「どう変わる?」
老人は笑った。
「それは自分で見るんだ」
第一五五章 現実
朝、町はいつも通りだった。でも、ほんの少し違っていた。
会社員は会社へ行く前に父親へ電話した。
女子高生は昔喧嘩した友達へメッセージを送った。
八十歳の老人は妻に「昔、好きだった」と突然言った。
妻は「今は?」と笑い、老人は「今も」と答えた。
小学生は学校へギターを持っていった。
先生が「それ、何?」と驚くと、「夢でもらった」と少年は笑った。
「変な夢だな」「うん」
でもその日から、少年は音楽を始めた。
第一五六章 町の変化
一週間後、町の中で小さな変化が起き始めた。
閉店していた古い喫茶店が再開し、小さなレコード店が営業を始めた。
駅前にストリートミュージシャンが増え、老人たちが公園で歌い始めた。若者たちは昔の歌を聴き始めた。
そして誰かが言った。
「この町、昔より少しだけ明るくなったね」
誰も理由を知らない。
ただ雨の日になると、駅裏へ向かう人が少しずつ増えていた。
第一五七章 記録
孫はすべてを記録し始めた。
夢を見た人、夢の内容、その後何が起きたか。
そして一つのことに気づいた。
YaYaの夢を見た人は、必ず誰かと再会している。
電話、手紙、偶然、街角、SNS――方法は違っても、「再会」それだけは共通していた。
孫はノートに書いた。
YaYaは人を再会させる。
その下に、さらに書き加える。
しかし、本当に再会しているのは相手なのか、それとも自分自身なのか。
そこまで書いて、ペンを止めた。
第一五八章 祖父からの答え
その夜、また夢で「YaYa」を訪れた。
孫が店に入ると、祖父がカウンターにいた。
「じいちゃん」
「おう」
「聞きたいことがある」
「何?」
「YaYaは人を再会させるの?」
「違う」
「じゃあ?」
「思い出させる」
「何を?」
祖父は孫を見る。
「自分が、まだ生きているってこと」
孫は黙った。祖父が続ける。
「人は失敗すると過去に自分を置いてくる。失恋するとあの頃の自分を捨て、夢を諦めると夢を見ていた自分を捨て、大人になると子供だった自分を捨てる」
祖父はギターを弾く。
「でも本当は、全部自分なんだ」
孫は頷いた。
「だから、会いに行く?」
「そう」
「自分に?」
「そう」
祖父が笑う。
「それがYaYa」
第一五九章 帰り道
孫は店を出た。雨が降っていた。
でも今回は振り返らなかった。もう知っている。店は後ろにあるのではない。自分の中にある。だからどこへでも持っていける。
駅へ向かう途中、一人の少女がギターを抱えて立ち止まり、困っていた。
孫は声をかける。
「弾ける?」
少女は首を振る。
「全然」
孫は笑った。
「じゃあ、一曲だけ」
少女が笑う。
「何を?」
「まだ決まってない」
二人で笑った。
雨が少し強くなり、孫は傘を開いて少女にも入るよう言った。二人並んで歩く。
その後ろ、雨の向こうで一瞬だけ小さな店が見えた。
「YaYa」の看板が灯る。
そして、誰かが肩を叩いた。
「よっ」
孫は振り返らない。ただ笑って応えた。
「よっ」
ーーーーーーーーーー
第十一幕 そして、僕たちは
時代が、変わっていく。
音楽も、街も、人も変わる。
でも、変わらないものが一つだけある。
誰かを思い出すこと。
昔の自分を思い出すこと。
そして、その自分に「まだ終わってないぞ」と言ってやること。
YaYaは、そのためにある。
雨の夜、眠りにつく。目を閉じる。
そして、もしどこかに小さな店が見えたら、入ってみればいい。
店主はきっと笑っている。そして、いつものように言う。
「遅いよ」
あなたは笑って答える。
「悪い。ちょっと、人生が長引いた」
店主も笑う。
「それなら、よかった」
ギターが差し出される。
「一曲だけ」
「何の曲?」
「君の曲」
あなたはギターを取り、弦に指を置く。
最初の音。ポーン。
その音を、誰かが遠くで聞いている。
その誰かが、また夢を見る。
そして、またYaYaへ来る。
店は、今日も開いている。
明日も開いている。
百年後も、きっと開いている。
誰かが誰かを、思い出す限り。
そして今日もどこかで、誰かが一曲、始めている。
YaYa。
――夢は、終わるために見るものではない。
――忘れていた自分を、もう一度迎えに行くために見るものだ。
雨が止む。朝が来る。
そして、新しい一日。
その一日をどう生きるか。
それは夢ではなく、あなたが決めること。
だから、歩こう。一歩、また一歩。
もし途中で疲れたら、少しだけ休めばいい。
雨が降ったら、YaYaへ。一曲だけ弾きに行けばいい。
そしてまた、現実へ帰ればいい。
なぜなら、人生とは夢と現実の間を何度も行ったり来たりしながら、自分の曲を完成させていくことなのだから。
そして、最後まで曲を弾き終えたら、誰かがきっと肩を叩く。
「よっ」
その声に、笑って答える。
「よっ」
――それで、いい。
YaYa。また、雨の夜に。
ーーーーーーーーーー
第十二幕 最初の客
第一六〇章 古い録音テープ
それから。僕の孫は、YaYaについて調べ続けた。
もちろん誰かに頼まれたわけではない。ただ知りたかった。あの店はいつから存在していたのか。誰が最初に「YaYa」と呼んだのか。そして、なぜ雨の夜にしか現れないのか。
古い写真、新聞記事、大学の記念誌、卒業アルバム、図書館の資料、何年も前の音楽雑誌……あらゆるものを探した。
そしてある日、実家の物置で一本のカセットテープを見つけた。
ラベルには祖父の字で、たった一言。
「一九八一年・雨」
僕は古いカセットデッキを引っ張り出した。テープを入れ、再生を押す。
ザー……ザー……。
雨の音。そして遠くからギターの音と、誰かの笑い声。
「もう一回!」
若い男の声。そして別の声が応じる。
「無理だよ。指が痛い」
また笑い声。僕は息を止めた。聞いたことがある。その声は、祖父だった。
第一六一章 知らない会話
録音は大学の講堂ではなかった。もっと狭い場所、誰かの部屋のようだった。
「で。どうする?」と祖父。
「どうするって?」
「本当に東京へ行くのか?」
「行くよ」
「音楽で食えると思う?」
「思わない」
「じゃあ何で?」
しばらくの沈黙。そして、祖父が笑った。
「一回くらい、やってみたいじゃん」
別の男が笑う。「馬鹿だな」
「お前もだろ」
二人で笑い合うところへ、女性の声が割り込んできた。
「二人とも、くだらない」
僕は思わず立ち上がった。この声も知っている。写真に写っていた、祖父の隣にいた女性。そして後の原さんだ。
さらに、もう一人の若い男が言った。
「じゃあ、約束しよう」
「何を?」と祖父。
「いつか大きなステージに立ったら、今日のことを忘れない」
女性が笑う。「そんな日、来るわけないじゃない」
「来るよ」祖父は即答した。
「絶対?」
「絶対」
そして、もう一人の男が言った。
「じゃあ、店を作ろう」
「店?」
「そう。いつでも帰ってこられる店」
僕は息を呑んだ。YaYaという名前は、まだ出てきていない。
第一六二章 名前の由来
テープが少し途切れる。
ザー……ザー……。
そして、女性の声。
「名前は?」
「YaYa」と男が答える。
「何それ?」
「意味はない」
「意味ないの?」
「意味なんて、後からつければいい」
祖父が笑う。「いいな」
女性も笑った。「じゃあ、YaYa」
その瞬間、テープが終わった。
僕は呆然とした。YaYaは祖父が死ぬ前に作った夢ではない。もっとずっと昔、彼らが若者だった頃に生まれていたのだ。
第一六三章 最初の約束
僕は古い写真をもう一度見返した。
あの三人――祖父、原さん、そしてもう一人の男。名前が分からない。写真の裏には何も書いておらず、ただ小さく数字だけが記されていた。
「3」
僕はその数字が気になった。三人で約束したから「3」なのか。
そう思ったが、もう一枚写真が出てきた。そこには四人。祖父、原さん、知らない男、そしてもう一人の若い女性。写真の裏の数字は「4」。
さらに五人が写った写真には「5」。
僕は背筋が寒くなった。数字は人数ではなかったのだ。
写真を年代順に並べる。一、二、三、四、五……。
そして最後の写真に書かれていた数字は「0」だった。
僕は意味が分からなかった。
第一六四章 ゼロ
その写真には誰も写っていなかった。ただ、雨の路地と小さな店、そして「YaYa」という看板。
僕は写真を見ながら呟いた。
「これが最初……?」
すると背後から声がした。「違う」
振り返ったが、誰もいない。
「誰?」
返事はない。僕は写真を凝視した。看板の横にある小さな文字を拡大する。そこには祖父の字で、こう書いてあった。
――0は、誰もいないという意味ではない。まだ誰にも出会っていない。
僕はしばらく、その言葉を見つめていた。
第一六五章 最初の客
その夜、夢を見た。いつものYaYaだ。
でも少し違う。店も椅子も新しく、ギターも新品だった。祖父もおらず、カウンターにも誰もいない。
僕は店内を見回して「誰もいない」と言った。
するとドアが開いた。カラン。
一人の男が入ってきた。二十歳くらいで若い。びしょ濡れで、髪から雨が落ちている。
男は僕を見る。「ここ、YaYa?」
僕は頷く。「そう」
「誰かいますか?」
僕は周りを見て、「僕だけ」と答えた。
男は笑った。「そうですか」
そしてカウンターに座り、「一杯ください」と言った。
「何を?」と困る僕に、男は少し考えて「コーヒー」と言った。
僕が淹れたコーヒーを一口飲み、男はため息をついた。「美味い」
「ありがとうございます」
「ここ、いつから?」
僕が答えられずにいると、男は笑った。「まだ始まったばかりなんですね」
僕は尋ねた。「あなたは?」
男は「僕?」と言って、少し恥ずかしそうに笑った。
「僕は、人生をどうすればいいのか分からない人です」
僕が黙っていると、男は続けた。
「音楽をやりたい。でも怖いんです。失敗するのが」
僕は笑った。「失敗なら、僕もいっぱいしたよ」
男も笑った。「そうですか」
「うん」
「じゃあ、一曲弾いてもいいですか?」
僕はギターを渡した。男が弦に指を置き、一音を鳴らす。ポーン……。
その瞬間、店の奥から拍手が聞こえた。誰もいないはずなのに、拍手だけが聞こえる。一人、二人、三人……やがて店中が拍手で満たされた。
男は泣いていた。僕も泣いた。
そのとき分かった。この人が最初の客だ。
第一六六章 店主のいない店
目が覚めた。朝だった。
僕は飛び起き、夢を忘れないうちに書き留めた。そしてひとつ気づいた。
YaYaには店主がいない。祖父も、僕も店主ではない。では誰が店を開けているのか。
答えは簡単だった。客だ。
YaYaは、誰かが必要としたとき、その人自身が開ける店なのだ。
第一六七章 現実の老人
その日の午後、僕は駅前で一人の老人に会った。見覚えがあった。写真で見た、若い頃の祖父の友人だ。
僕は声をかけた。「すみません」
老人が振り返る。「何?」
「YaYaって、知っていますか?」
老人の顔が変わった。「……誰から聞いた?」
「祖父です」
「そうか」
老人はしばらく黙ったあと、言った。「まだ続いてるのか」
「知ってるんですか?」
老人は笑った。「俺は最初の一人だった」
僕は言葉を失った。「最初の客……?」
「違う」老人は首を振る。「最初の店主」
「店主?」
老人は遠くを見た。「YaYaを最初に開けたのは、君の祖父じゃない」
「じゃあ誰?」
老人は笑った。「俺だよ」
第一六八章 四十年前の店
老人は話してくれた。
大学を卒業したあと、四人はそれぞれ違う道へ進んだ。音楽、会社、教師、家庭……夢は少しずつ離れていった。
そしてある雨の夜、老人は小さな店を借りた。看板は自分で作った。「YaYa」。
理由はなかった。ただ昔、四人で決めた名前だった。
「店を始めたんですか?」
「そう」
「何の店?」
老人は笑った。「何でも屋。コーヒー、酒、音楽、相談、愚痴、恋愛相談、離婚相談、就職相談……何でも聞いた」
「……儲かりました?」
「全然」老人は笑った。「だから一年で潰れた」
僕も笑った。「じゃあ、YaYaは?」
老人は雨を見た。
「店は潰れた。でも、夢だけが残った」
その瞬間、僕はすべてがつながった気がした。
第一六九章 夢の店
YaYaは建物ではない。
誰かが誰かの話を聞く。誰かが誰かに一曲弾かせる。誰かがもう一度明日へ進む。その瞬間、YaYaは開く。
だから大学の講堂にも、ライブハウスにも、僕の夢にも、孫の夢にも、そして町の夢にも存在したのだ。
老人は言った。「お前の祖父は、YaYaをずっと守っていた」
「どうやって?」
「人に渡したんだ」
「渡した?」
「そう。自分のものにしなかった」
僕は黙って聞いていた。
「それが一番大事なんだ」老人は笑った。「店は誰かのものになった瞬間、終わる。誰のものでもないから、続くんだ」
第一七〇章 最後の秘密
老人は僕に一枚の黄ばんだ古い封筒を渡した。表には僕の名前がある。
「これ……?」
「君の祖父から」
「いつ?」
「四十年前」
僕は驚いた。「僕、まだ生まれてません」
「知ってる」
「じゃあ、なんで?」
老人は笑った。「夢だから」
僕は封筒を開けた。中には一枚の紙。祖父の字だった。
――お前がこれを読む頃、俺はもういないだろう。
でも、YaYaは残っている。
もし、いつか店を見つけたら、店主になろうとするな。
客になれ。
そして、次の人に一曲だけ渡せ。
僕は紙を握りしめた。
老人が言う。「それで、終わりだ」
「終わり?」
「そう」
「本当に?」
老人は笑った。
「いや。ここからが、始まりだ」
ーーーーーーーーーー
第十三幕 僕の一曲
その夜。
僕はギターを持って雨の中へ出た。
目的地は決まっている。
駅裏。
古い倉庫。
誰も知らない場所。
午前二時十三分。
街灯が消える。
僕の前に店が現れる。
YaYa。
僕はドアを開ける。
カラン。
中には誰もいない。
僕はカウンターに座る。
ギターを置く。
そして一人で弾き始める。
祖父の曲。
父の曲。
孫の曲。
少女の曲。
名前のない人の曲。
全部混ざる。
最後に僕は自分の曲を弾いた。
まだ名前はない。
でもこれでいい。
曲は誰かに名前をつけてもらうものではない。
生きている間に少しずつ自分で名前をつけていけばいい。
最後の音。
ポーン。
静寂。
すると後ろから拍手。
一人。
二人。
三人。
振り返る。
そこに祖父、父、知らない老人、少女、そしてもっとたくさんの人。
僕は笑った。
「今日は客なんですけど」
祖父が笑う。
「知ってる」
「じゃあ誰が店主?」
祖父が指を差す。
僕の後ろ。
そこには一人の少年。
ギターを抱えて立っている。
少年は僕を見る。
「すみません」
「何?」
「一曲、弾いてもいいですか?」
僕は笑った。
「もちろん」
ギターを渡す。
少年が弦に指を置く。
少し震えている。
僕は言った。
「大丈夫」
少年が見る。
「下手でも?」
「うん」
「間違えても?」
「うん」
「笑われても?」
僕は笑った。
「それでも弾けばいい」
少年が頷く。
そして一音。
ポーン。
YaYaの灯りが少しだけ明るくなる。
エピローグ
翌朝。
僕は自宅のベッドで目を覚ました。
雨は止んでいる。
机の上。
祖父のノート。
最後のページ。
昨日まで何もなかった。
そこに新しい文字。
たった一行。
――次は、お前が待つ番だ。
僕は笑った。
窓を開ける。
朝の空気。
鳥の声。
街の音。
普通の朝。
でももう普通ではない。
僕はギターを持つ。
玄関へ。
妻が聞く。
「どこ行くの?」
僕は答える。
「ちょっと、一曲だけ」
「朝から?」
「うん」
妻が笑う。
「また?」
「また」
僕も笑う。
ドアを開ける。
外は晴れている。
それでも遠くで小さな雨音が聞こえた。
僕は振り返る。
誰もいない。
でも肩に何かが触れた気がした。
「よっ」
僕は笑った。
「よっ」
そして歩き出す。
YaYaはもう店ではない。
夢でもない。
過去でもない。
未来でもない。
誰かが誰かに一曲を渡す。
その瞬間、YaYaは生まれる。
だからこの物語にも終わりはない。
あなたが誰かを思い出したとき。
あなたが昔の自分に「元気だったか?」と声をかけたとき。
あなたが諦めかけた夢をもう一度だけ抱きしめたとき。
きっとどこかで小さな店の灯りがつく。
カラン。
ドアが開く。
そして誰かが言う。
「遅いよ」
そのときは急가なくていい。
笑こう答えればいい。
「悪い。ちょっとだけ人生を楽しんでた」
そして店の中へ一歩入ればいい。
ギターが一本置いてある。
あなたのためにずっと待っていた。
YaYa。
――一曲だけ。
――人生を、もう一度。
つづく… と思う

