『一曲だけの青春
―夢の中で、僕はもう一度、青春をやり直した―』
第二幕 忘れた名前
第二十七章 写真の裏側
夢を見なくなってから、二週間が過ぎた。
僕は少し安心していた。同時に、少し寂しかった。
夢というものは妙なものだ。見ているときには「早く終わってくれ」と思うくせに、終わってしまうと「もう一度見たい」と思う。人間というのは、つくづく勝手な生き物だ。
そんなある日、押し入れの整理をしていた。カミさんに「いい加減、昔の物を捨てたら?」と言われたからだ。段ボール箱を一つずつ開ける。卒業アルバム、古い手帳、大学時代の写真、映画の半券、喫茶店のマッチ箱。
そして、一枚の写真。僕は手を止めた。
そこには、大学の前で笑っている僕が写っていた。若い。髪が多い。痩せている。今の僕から見れば、別人だった。その隣に、先輩がいる。僕は眉をひそめた。
「……」
写真の裏を見る。そこには、手書きでこう書いてあった。
一九八〇年八月十一日
その下に、もう一行。
YaYaの夜。
僕は息を止めた。「何だ、これ……」
僕は大学の記念式典の夢を思い出した。桑田さん。クロコダイル。一曲だけのサポート。そして、先輩。全部が、この日付に重なっていた。
僕は写真を裏返した。さらに、小さな文字がある。
四人で行った。
四人。僕、先輩、美紀。そして、もう一人。
名前が消されていた。黒いインクで何度も塗り潰されている。
僕は背筋が寒くなった。「誰だ?」
記憶を探したが、何も出てこない。だが、写真の隅、僕の手の後ろにギターケースが写っていた。
第二十八章 大学へ
翌週、僕は母校を訪ねた。創立記念で建て替えられた校舎は、すっかり新しくなっていた。昔の講堂もない。坂道だけが残っている。
僕はゆっくり歩いた。この坂を何度も歩いただろう。授業に遅れて走った。友達とふざけた。美紀と歩いた。先輩と酒を飲んだ。そして、卒業した。いや、卒業できた。
三年も留年したのだから、普通ならとっくに諦めていた。それでも、なぜか卒業できた。
僕は事務室を訪ねた。「卒業生なんですが」
職員が顔を上げる。「何かお探しですか?」
「昔の学生名簿を見たいんです」
「何年度ですか?」
僕は答えた。すると、職員が少し困った顔をした。
「古い資料ですね」
「お願いします」
しばらく待つと、一冊の分厚い名簿が出てきた。僕はページをめくった。自分の名前、友達の名前、美紀の名前。そして、探していた先輩の名前。
「あった……」
僕は指を止めた。しかし、そこに書かれていた名前を見て息が止まった。
該当者なし。
僕は何度も確認した。学籍番号、卒業年度、在籍者名簿。どこにも、先輩の名前がない。
「そんな……」
職員が尋ねる。「どうされました?」
「この人」と僕は紙を指した。「この人、ここにいたはずなんです」
職員は首を傾げる。「お名前は?」
僕は言った。「……分かりません」
「?」
「ずっと、先輩と呼んでいたので」
職員は苦笑した。「そういうこと、ありますよね」
僕は笑えなかった。
帰り際、受付の女性が言った。「でも、昔の写真資料なら、別棟にあるかもしれません」
「見られますか?」
「申請すれば」
僕はその場で申請した。
第二十九章 古いフィルム
写真資料室は、古い建物の地下にあった。職員がフィルムの箱を並べてくれた。大学祭、卒業式、講堂、創立記念。僕は一つずつ確認した。そして、一つの箱を見つけた。
一九八〇年八月 記念行事
僕の手が震えた。フィルムを確認する。古い映像、学生たち、教授たち、ステージ。そして、桑田さん。
僕は驚いた。夢ではなかった。確かに、桑田さんが映っている。その隣に、原さん。そして、僕。
僕は息を呑んだ。映像の中で、桑田さんが僕の肩を叩いている。何か話している。
音声を上げる。雑音、ざあざあという雨音。そして、桑田さんの声。
『待ってたよ』
僕は立ち尽くした。夢と同じだった。
さらに、映像の端に先輩が映った。僕の隣に立っている。何かを言っている。僕は音量を上げた。
ザーッ。ザーッ。
そして、ほんの一瞬、先輩の声が聞こえた。
「――お前、卒業したら……」
そこで映像が切れた。僕は叫びそうになった。「続きは?」
職員が言う。「テープが劣化してますね」
「修復できませんか?」
「専門業者に出せば可能かもしれません」
僕は立ち上がった。「お願いします」
「大学としては……」
「費用なら僕が出します」
職員は驚いた。「そこまでして?」
僕は答えた。「知りたいんです」
「何を?」
僕は少し考え、そして言った。「僕が何を忘れたのかを」
第三十章 美紀
その夜、美紀の夢を見た。彼女は雨の駅に立っていた。
「やっと来た」
「美紀」
「遅かったね」
「何が?」
「思い出すの」
僕は彼女の前に立った。「先輩は誰なんだ?」
美紀は答えない。
「君は知ってるんだろ?」
「うん」
「教えてくれ」
「まだダメ」
「どうして?」
「あなたが思い出したら、夢が終わるから」
「それでいい」
「本当に?」
「うん」
美紀は少し悲しそうに笑った。「じゃあ」
彼女は僕に一枚の写真を渡した。僕は受け取る。
そこには、四人が写っていた。僕、美紀、先輩、そして、もう一人。
僕はその顔を見て息を呑んだ。「……この人」
知っている。ずっと知っていた。僕の人生の一番近くにいた人。
「誰?」美紀が聞く。
僕は答えられなかった。顔は分かる。声も、笑い方も、癖も、全部知っている。なのに、名前だけが出てこない。
美紀が言った。「あなたが一番忘れたくなかった人」
僕は震えた。「誰なんだ?」
美紀は僕の耳元で名前を囁いた。その瞬間、雨音が消えた。世界が真っ白になった。
第三十一章 母
目が覚めた。朝だった。僕はベッドの上で声を出した。
「……母さん」
それだけだった。涙が出た。僕は思い出した。
大学時代、僕が三年も留年して親に迷惑をかけて、何度も「もう学校を辞める」と言った。そのたびに母は言った。
「卒業なんてしなくてもいい」
「でも?」
「あなたが生きていれば、それでいい」
そして、最後の学費を払った日、母は笑った。
「卒業したら、ギターでも何でも好きなことをしなさい」
僕は、その約束を忘れていた。
先輩は、僕の母だった。正確には、母の言葉を僕の青春の中で何度も繰り返してくれた人だった。
だから名前がなかった。先輩は誰でもなかった。そして、誰でもあった。
僕を送り出した人。僕の肩を叩いた人。「行け」と言ってくれた人。その人が、先輩だった。
僕は泣いた。そして、笑った。「そうだったのか」
窓の外を見る。雨が降っている。僕はギターを取り、母が好きだった曲を一曲だけ弾いた。
第十七部 最後のライブ
第三十二章 六十歳のステージ
それから数か月、僕は小さなライブを開いた。観客は家族、友人、会社の仲間、そして昔の大学の友達。
ステージの上には一本のギター。僕はマイクの前に立った。
「今日は」少し緊張した。「僕の夢の話をします」
客席が静かになる。
「若い頃、僕には音楽をやりたいという夢がありました」
笑い声。
「でも、就職して、結婚して、子供ができて、仕事をして、夢はどこかへ行きました」
僕はギターを構えた。
「ところが最近、夢の中で昔の僕に会いました」
客席から笑い声。
「そして、そいつが言ったんです」
僕は少し間を置いた。
「――まだ下手だな」
会場が笑った。僕も笑った。
「腹が立ちました」さらに笑い。「でも、思いました。ああ、こいつ、まだ生きてるんだなって」
会場が静かになった。
「だから今日は、そいつのために一曲だけ弾きます」
僕はギターを鳴らした。そして歌った。若い頃の歌、友達の歌、家族の歌、人生の歌。最後に、YaYa。
会場には僕の家族がいた。カミさんが泣いている。娘も少しだけ目を赤くしている。
僕は笑った。そして、最後のコードを鳴らした。
第三十三章 拍手
拍手が起きた。長かった。僕は頭を下げ、顔を上げる。
客席の一番後ろに、一人の男が立っている。背広、白髪、僕と同じくらいの年齢。
僕は目を疑った。先輩だった。
僕はステージから降り、追いかけて外へ出た。しかし、誰もいない。雨だけが降っている。
地面に一枚の紙。拾うと、古い大学の卒業証書だった。名前を見ると、そこには僕の名前。その下に、赤い文字で『卒業おめでとう』と書かれていた。
僕は笑った。「……今さらかよ」
雨の中、僕は空を見上げた。「ありがとう」
誰もいない。でも、どこかから声がした気がした。
「よっ」
僕は笑った。「よっ」
終幕 青春は、終わらない
家へ帰り、玄関を開ける。
カミさんが言う。「おかえり」
「ただいま」
「楽しかった?」
「うん」
「夢みたいだった?」
僕は笑った。「いや」とギターを壁に立て掛ける。「夢じゃなかった」
カミさんが笑う。「何それ」
僕も笑った。「分からない」
それでいい。分からなくても、人生には説明できないことがある。
夢と現実の間、記憶と忘却の間、若さと老いの間、そして別れと再会の間。その全部を、人は「人生」と呼んでいるのかもしれない。
僕は窓を開けた。夜風が入ってきた。雨の匂い、東京の匂い。遠くで誰かがギターを弾いている。
僕は目を閉じる。そして、あの頃の自分にもう一度だけ声をかける。
――元気か?
返事が聞こえる。
――お前こそ。
僕は笑った。
――まあまあだ。
――なら、いい。
僕はギターを手に取り、もう一度最初のコードを鳴らした。ジャーン。
音は少し外れた。でも、それでいい。完璧じゃなくていい。人生だって、ずっと音を外しながら進んできたのだから。
雨の夜、東京の片隅。一人の男が古いギターを弾いている。その音を、若い頃の僕が聞いて、二人とも笑っている。それだけで十分だった。
YaYa。
青春は終わらない。ただ少しずつ形を変えて、僕たちの中で鳴り続ける。
――完――
YaYa ―夢の中で、僕はもう一度、青春をやり直した―
第十八部 存在しない記録
第三十四章 卒業アルバム
ライブの翌朝、僕は一人で大学の卒業アルバムを開いていた。昨日までならこんなものを見ても懐かしいだけだったが、現在は違う。何かを探している。何を探しているのか、自分でも分からない。
ページをめくる。ゼミ、クラブ、文化祭、卒業式、そして集合写真。
僕は指を止めた。いた。僕がいる。美紀もいる。友人たちもいる。だが、先輩はいない。
「……」
おかしい。僕は確かに先輩と一緒に写った写真を見た。だが、このアルバムにはどこにもいない。僕が写真を拡大するように顔を近づけたそのとき、一人の男が写真の端に立っていることに気づいた。顔がぼやけている。まるで最初から焦点が合っていないようだった。
僕は指でその部分をなぞった。「誰だ?」
すると、ページの間から小さな紙が落ちた。拾うと古いメモだった。そこには僕の字でこう書いてある。
『先輩は写真に写らない』
僕は息を呑んだ。「何だよ、これ……」
裏を見る。さらに一行。
『だから、覚えているのは俺たちだけ』
僕は椅子から立ち上がった。
第十九部 もう一人の僕
第三十五章 電話
その日の午後、電話が鳴った。知らない番号だった。僕は少し迷ってから出た。
「もしもし」
『久しぶり』
男の声。若い。聞き覚えがある。
「誰ですか?」
『忘れた?』
「……」
『俺だよ』
僕は黙った。その声は、若い頃の僕自身の声だった。
「……僕?」
『そう』
「どうして電話なんか」
『頼みがある』
「何?」
『今夜、渋谷に来て』
「どこへ?」
『クロコダイル』
僕は時計を見る。「今夜?」
『そう』
「また夢か?」
『違う』
「じゃあ何?」
少し間があった。
『今度は、俺が夢を見る番だから』
電話が切れた。僕はしばらく受話器を握ったままだった。
第二十部 クロコダイルの夜
第三十六章 階段
夜、渋谷。僕は地下へ続く階段を降りた。見覚えのある階段。だが、店は閉まっていた。看板もない。ドアには鍵が掛かっている。
「やっぱり夢か」そう呟いた。
すると背後から、「遅い」と声がした。
僕は振り返った。若い僕が立っていた。大学時代の僕。ギターを背負い、髪も黒く、頬も痩せている。
「……お前」
「何だよ」
「どうしてここに?」
「呼んだのは俺だろ」
「そうだったな」
若い僕は笑った。「歳取ったな」
「お前もいつか取る」
「嫌だ」
「すぐだぞ」
「嘘つけ」
二人で笑った。僕は聞いた。「何がしたい?」
若い僕は少し考え、「聞きたいことがある」と言った。
「何?」
「俺は、この先どうなる?」
僕は答えられなかった。若い僕は続ける。
「就職する?」
「する」
「結婚する?」
「する」
「子供は?」
「できる」
「幸せ?」
僕は黙った。
「どうなんだよ?」
僕は笑った。「幸せだよ」
「本当に?」
「うん」
「夢は?」
「……」僕はギターケースを見た。「少し忘れる」
若い僕は笑わなかった。「そっか」
「でも」と僕は言った。「全部じゃない」
「?」
「お前は残る」
若い僕が僕を見る。「俺が?」
「そう」
「どこに?」
「俺の中」
若い僕は少しだけ笑った。「変なの」
「そうだな」
そのとき、階段の上から足音が聞こえた。
第二十一部 四人目
第三十七章 雨の女
階段を下りてきたのは、一人の女性だった。白い傘を持っている。僕はお息を止めた。
「美紀?」
違った。美紀ではない。でも、どこか似ている。女性は僕たちを見て笑った。「やっぱり二人いる」
若い僕が聞く。「誰?」
女性は答えた。「あなたたちを見てきた人」
「誰なんですか?」と僕が聞く。
女性は古いチケットを差し出した。クロコダイル。そこには僕たち三人の名前、そして四人目の名前。
僕はその名前を見て愕然とした。それは、僕の母の名前だった。
「……母さん?」
女性は微笑む。「そう」
若い僕が笑う。「何だよ、母さんか」
僕は若い僕を見る。「知ってたのか?」
「知ってる」
「いつから?」
「最初から」
「じゃあ、何で教えなかった?」
若い僕は少し困った顔をした。「お前が思い出すまで待ってた」
女性が言った。「あなたは、夢の中で何度もお母さんに会っている」
「いつ?」
「先輩として」
僕は目を閉じた。やはりそうだった。あの肩を叩く手、あの声、あの「よっ」という言葉。母だった。
第二十二部 母のライブ
第三十八章 四人目の観客
女性はステージへ上がった。「一曲、弾いて」
若い僕がギターを構える。「何を?」
女性は笑った。「あなたが一番好きな曲」
若い僕が弾き始めた。僕は客席に座った。そこには美紀がいた、桑田さんがいた、原さんがいた、先輩がいた。いや、先輩は母だった。
僕は笑った。「こんなところで、何やってるんだよ」
母が笑う。「あなたの卒業祝い」
「もう卒業したよ」
「そうね」
「何年経ったと思ってる?」
「知らない」母は笑った。「夢の中だから」
僕は少し泣いた。母は昔と同じ顔だった。僕が一番覚えている母の顔。台所で笑っていた顔、玄関で見送ってくれた顔、病院のベッドで「大丈夫」と言っていた顔。全部、ここにある。
「母さん」
「何?」
「ありがとう」
母は笑った。「何が?」
「全部」
「大したことしてないわよ」
「したよ」
「そう?」
「うん」
母は少し考えて、「じゃあ」と言った。「もう一曲」
「何を?」
「あなたの今の歌」
僕は立ち上がり、若い僕からギターを受け取って弾いた。今の僕の歌、家族の歌、仕事の歌、歳を取った歌、そして夢の歌。母はずっと笑っていた。
第二十三部 目覚める前に
第三十九章 母の質問
曲が終わる。母が聞いた。「幸せ?」
僕は答えた。「うん」
「後悔は?」
「ある」
「いっぱい?」
「いっぱい」
母は笑った。「じゃあ、よかった」
「どうして?」
「後悔できるほど、生きたんだから」
僕は泣いた。「母さん」
「何?」
「もう一つ聞きたい」
「どうぞ」
「先輩って」
母が笑う。「うん」
「誰?」
母は僕の頭を軽く叩いた。「あなたが必要だった人」
「それだけ?」
「それだけで十分でしょう」
「……」
「人はね」母が言った。「誰かの人生に必要とされた瞬間、その人の中に残るの」
「死んでも?」
「死んでも」
「夢の中でも?」
「もちろん」母は笑った。「だから、あなたが私を思い出す限り、私は夢の中で先輩になれる」
僕は笑った。「ずいぶん都合がいいな」
「親なんて、そんなものよ」
僕は笑った。母も笑った。そして、ステージの照明が少しずつ暗くなった。
第二十四部 YaYaの意味
第四十章 歌のない歌
「待って」僕は母を呼び止めた。
「何?」
「YaYaって」
母が振り返る。「うん」
「どういう意味なんだ?」
母は少し考えた。「あなたはどう思う?」
「分からない」
「じゃあ」母は笑った。「あなたが決めなさい」
「僕が?」
「うん」
「今日までの人生で?」
「今日からの人生で」
僕は考えた。YaYa。それは昔の歌の名前でも、夢の中の店の名前でも、青春の記号でも、母の声でも、先輩の声でもなかった。きっと、戻れない時間にもう一度だけ触れるための合言葉だった。
僕は母に言った。「じゃあ、僕にとっては」少し考えて、「また会おう、だ」
母は笑った。「いいじゃない」そして、手を振った。「また会いましょう」
「うん」
「夢で」
「うん」
「じゃあね」
「母さん」
「何?」
「今度は、僕が先輩になるよ」
母は声を出して笑った。「まだ早いわよ」
その声と一緒に、世界が白くなった。
第二十五部 現実
第四十一章 朝の電話
目が覚めた。朝だった。雨は降っていない。僕は天井を見た。夢だった。間違いなく、夢。でも、涙が頬を濡らしていた。
僕は起き上がった。そのとき、電話が鳴った。カミさんが出る。
「はい」
少し話して、僕を見る。
「あなたに」
「僕?」
「大学から」
僕は受話器を取った。「もしもし」
『以前、資料を探していた件ですが』大学の職員だった。『見つかりました』
「何が?」
『古い記念行事の映像です』
僕は息を止めた。
『それと』
「はい」
『写真が一枚』
「写真?」
『あなたが探していた先輩と思われる人物が写っています』
僕は立ち上がった。「本当ですか?」
『ただ』
「はい」
『少し変なんです』
「何が?」
『写真には四人いるんですが』
「……」
『三人しか名前が分かりません』
僕は目を閉じた。「四人目は?」
電話の向こうで職員が言った。『あなたのお母さまです』
僕は何も言えなかった。
『それと』
「はい」
『もう一人、妙な人物が写っています』
「誰です?」
『あなたです』
「……」
『今の年齢のあなたが』
電話が切れた。僕は受話器を握ったまま立ち尽くしていた。
第二十六部 写真
第四十二章 未来の僕
大学へ向かった。資料室。机の上に一枚の写真。
僕はそれを見た。四人。若い僕、美紀、母。そして、もう一人、老人。僕はその老人を見て言葉を失った。それは、今の僕だった。
「……」
職員が言う。「おかしいですよね」
僕は答えなかった。
写真の裏を見る。文字がある。
一九八〇年八月十一日。
その下。
『四人で、最後の一曲』
僕は写真を握った。「これは合成じゃない」
職員が言う。「大学の保存資料です」
「誰が撮ったんです?」
「記録がありません」
僕は笑った。「でしょうね」
写真をもう一度見る。若い僕がこちらを見ている。そして、笑っている。まるで今の僕を知っているように。
僕は小さく呟いた。「また会ったな」
写真の中の僕が笑った気がした。
第二十七部 最後の手紙
第四十三章 母へ
その夜、僕は机に向かった。便箋を一枚出し、宛名を書く。
『母さんへ』
もう何年も手紙を書いていない。書いても届かない。それでも書きたかった。
僕はゆっくり言葉を並べた。
『ありがとう。迷惑をかけた。心配させた。夢を諦めた。でも、今は少しだけ分かる。夢は叶えるものだけじゃない。忘れてしまった夢を、もう一度抱きしめるものでもある。僕は幸せだった。そして、これからも幸せでいようと思う』
最後に一言だけ書いた。
『YaYa』
封筒に入れる。宛先は書かない。そして引き出しにしまった。
その瞬間、机の上のギターから弦が一本、勝手に鳴った。ポーン。
僕は笑った。「母さん?」
返事はない。でも、それでよかった。
第二十八部 雨の夜だけ
第四十四章 あとさき
その夜、久しぶりに雨が降った。僕は傘を持って近所のコンビニまで歩いた。帰り道、見覚えのない路地があった。そこに小さな店。看板には『あとさき』。
僕は立ち止まった。「またか」
ドアを開ける。カラン。
店主の老人が笑った。「いらっしゃい」
僕は席に座る。「コーヒーを」
「砂糖は?」
「いりません」
老人が笑う。「大人になったね」
僕は笑った。「そうですか?」
「うん」
コーヒーが出てくる。一口。苦い。でも美味しい。
老人が聞く。「何か置いていくかい?」
「何を?」
「後悔とか」
僕は考えた。「ありません」
老人が笑う。「本当に?」
「あります」
「どっちだ?」
僕は笑った。「持って帰ります」
「そうか」
「でも」と僕はカップを置いた。「一つだけ置いていきます」
「何を?」
僕は答えた。「怖がっていた自分」
老人は静かに頷いた。「それがいい」
僕は立ち上がった。「いくらです?」
「無料」
「どうして?」
「夢だから」
僕は笑って店を出た。雨が降っている。振り返ると、店はない。そこには古い自動販売機が一台あるだけだった。
僕は笑った。「やっぱり夢か」
でも、ポケットの中に小さな紙が入っていた。取り出すと、そこには『また一曲』と書いてある。
僕は空を見上げた。雨の向こうで、ギターの音がした。
最終部 また一曲
第四十五章 YaYa
家へ戻る。家族は眠っている。僕は一人、リビングでギターを抱える。時計を見る。午前二時。静かな夜。
僕は小さく弾き始める。一つ、二つ、三つ。コードを鳴らす。
すると、遠くから別のギターの音。僕は笑う。若い僕だ。さらにベース、ピアノ、ドラム、そして誰かの歌声。
僕は目を閉じる。渋谷の夜、古いライブハウス、大学の坂道、雨、美紀、母、先輩、桑田さん、原さん、友達、家族。全部が一つの音になる。
僕は思った。人生とは、もしかするとこういうものなのかもしれない。
一人で演奏しているつもりでも、本当はたくさんの人が一緒に演奏してくれている。親、友達、恋人、妻、子供、仕事仲間、知らない誰か、そして過去の自分。みんなが少しずつ自分の人生に音を足してくれる。だから、一人の人生なんて本当はない。
僕は最後のコードを鳴らした。ジャーン。
音が消える。静寂。その静寂の中で誰かが言った。
「よっ」
僕は笑った。「よっ」
もう一度、声がする。
「元気か?」
僕は答えた。「まあまあだ」
「幸せか?」
僕は少し考え、そして答えた。「うん」
「なら、いい」
僕は目を開けた。誰もいない。でも不思議と寂しくなかった。
僕はギターを置き、窓の外を見る。雨が止んでいる。東の空が少し明るい。朝が来る。また、今日が始まる。
僕はゆっくり立ち上がり、最後に一言だけ呟いた。
「YaYa」
その言葉はさよならではなく、ありがとうでもなく、まして過去へ戻るための言葉でもなかった。それは、もう一度生きてみようという小さな合図だった。
僕はカーテンを開けた。朝日が部屋に入ってくる。若い頃の僕が窓の向こうで笑っている。その横に母がいる、美紀がいる、先輩がいる。そして、今の僕の家族がいる。みんな同じ方向を見ている。
僕はその光景を見ながらギターを抱えた。
「じゃあ」僕は笑った。「今日も一曲、やるか」
誰も答えない。でも、どこかで確かに笑い声がした。
YaYa
――人生は、最後の一曲が終わるまで終わらない。――
完
続く… かも?

