『一曲だけの青春
―夢の中で、僕はもう一度、青春をやり直した―』  


第一幕
―夢の中で、僕はもう一度、青春をやり直した― 

序章 夢には、年齢制限がない 
人間というものは、歳をとると昔のことをよく思い出すようになる。
若い頃には、そんなことは考えもしなかった。
明日が来るのが当たり前で、来年があるのも当たり前。
十年後なんて、あまりに遠すぎて、考えることさえ馬鹿らしかった。 
ところが、ある年齢を越えると違ってくる。
昔の友達の名前を、突然思い出す。
学生時代に住んでいたアパートの間取りを、妙に鮮明に覚えている。
もう何十年も会っていない人の笑い声まで、昨日聞いたように蘇る。 
そして、ときどき思う。
もし、あのとき別の道を選んでいたら。
もし、あのとき声を掛けていたら。
もし、あのとき諦めなかったら。
人生には、「もしも」が多すぎる。 
だからなのかもしれない。
歳をとると、人は夢を見る。
過去へ戻る夢を。
若かった頃の自分に会う夢を。
もう会えない人と、もう一度だけ話す夢を。 
僕も、そんな夢を見た。 
ただし――。
僕の夢は、少しばかり変だった。
いや。少しどころではない。かなり変だった。 
なにしろ僕は、その夜。
サザンオールスターズのメンバーになった。
しかも、正式加入ではない。
「ギターが来ないから、一曲だけ頼む」
という、実にいい加減な理由で。 
そして、その一曲が終わったあと、
「じゃあ、来週からツアーね」
と、当たり前のように言われた。 
さらに、その夢の中では――。
僕はまだ大学生で。
僕の先輩は六年も大学にいて。
教授に単位をねだるために酒を持参し。
渋谷の街には、僕の知らない青春がまだ残っていた。 
そして最後には。
僕自身が、僕に出会った。 
これは、そんな一晩の話である。 



第一部 渋谷の坂道 
第一章 卒業したはずなのに 
渋谷駅の改札を出ると、
「よっ!」
と、後ろから肩を叩かれた。 
振り返る。先輩だった。
「あ……」
僕は思わず声を漏らした。 
先輩は、あの頃のままだった。
少しくたびれたジャケット。伸びかけた髪。片手には、何が入っているのか分からない大きな鞄。
そして、昔と変わらない、妙に人懐っこい笑顔。 
「なんだよ」
先輩が笑う。
「幽霊でも見たみたいな顔して」
「いや……」
僕は先輩の顔をじっと見た。何かがおかしい。ものすごくおかしい。 
「先輩、大学……」
「ああ」
「まだ卒業してないんですか?」
先輩は少しも悪びれず、
「まだだ」
と言った。 
「……何年目です?」
「六年」
「六年?」
「六年」
「同じ大学に?」
「同じ大学だ」 
僕は頭を抱えた。
「僕ですら三年もダブったのに」
「お前は卒業したからいいだろ」
「そうですけど」
「俺だって、もうすぐだ」
「去年もそう言ってました」
「去年は去年だ」
「今年は?」
先輩は少し考えた。
「今年も、もうすぐだ」
「何がもうすぐなんです?」
「卒業」
「単位は?」
先輩は黙った。
「……足りない」
「何単位?」
「少し」
「何単位です?」
「聞くな」 
先輩は歩き出した。僕も仕方なくついていく。
駅から大学までは、緩く長い坂道が続いていた。
歩いているうちに、妙な気分になってきた。
懐かしい。とても懐かしい。 
坂の途中には、昔と同じ店があった。
古い喫茶店。学生向けの定食屋。狭いレコード店。そして、角にある煙草屋。
どれも記憶の中にある。 
僕は立ち止まった。
「……ここ」
「何だ?」
「昔のままですね」
「当たり前だろ」
「いや……」 
先輩は振り返った。
「お前、去年卒業したばっかりだろ?」
「……」 
そうだった。僕の記憶では去年、卒業したはずだ。
三年も留年して、ようやく卒業した。就職して、結婚して、子供もできた。そのはずだった。
なのに。今、僕は学生服ではないにせよ、大学へ向かっている。
しかも、隣には六年目の先輩。 
僕は急に不安になった。
「先輩」
「何だ?」
「僕、本当に卒業しましたよね?」 
先輩は歩きながら言った。
「たぶん」
「たぶん?」
「夢なんだから、細かいこと気にするなよ」 
僕は足を止めた。
「……今、何て言いました?」 
先輩も足を止めた。僕を見る。そして、ニヤッと笑った。
「聞こえたか?」
「はい」
「じゃあ、忘れろ」
「無理ですよ」
「そのうち忘れる」
「何を?」
「全部」 
そう言って先輩は歩き出した。僕は追いかけた。
坂の先に、大きな建物が見えてきた。大学の講堂だった。
今日は創立百周年の記念式典。巨大な講堂には、すでに大勢の人が集まっているらしい。 
「しかし」
僕は言った。
「僕、卒業生ですよね?」
「そうだ」
「なのに、何で今日ここに?」
「招待状が来たんだろ」
「そうですけど」
「じゃあ来ればいい」
「先輩は?」
「教授に会う」
「式典は?」
「それどころじゃない」
「単位ですか?」
「単位だ」 
先輩は鞄を叩いた。ゴトン、と重い音がした。
「何です?」
「ジョニ黒」
「……」
「それから、もう一本。オールドパー」 
僕は呆れた。
「何をするつもりです?」
先輩は真顔で答えた。
「卒業する」
「酒で?」
「人間、最後は誠意だ」
「それを誠意って言うんですか?」
「教授がそう思えば誠意だ」
「思わなかったら?」
「そのときは、もう一本出す」 
僕は笑ってしまった。何も変わっていない。この人だけは、何十年経っても変わらない。
――いや。まだ、何十年も経っていない。
そう思ったところで、また違和感を覚えた。何十年? 僕はいったい、何歳なんだ? 
自分の手を見る。若い。皺がない。指も細い。爪も綺麗だ。僕はいま一度その手を見つめた。 
「どうした?」
先輩が言った。
「……何でもありません」 
僕は手をポケットに入れた。坂道を登る。
すると、講堂の前に人だかりができていた。ものすごい数だった。
学生だけではない。年配の人もいる。報道関係者らしい人もいる。誰かがカメラを構えている。 
僕は先輩の肩越しに覗き込んだ。
「何ですかね?」
「さあ」
先輩が答える。だが、その声が少し変だった。 
「先輩?」
「……桑田か」
「え?」 
先輩は人だかりの向こうを見ていた。そして、ぼそりと言った。
「桑田か……」
「桑田って?」 
先輩は答えなかった。僕も人の隙間から中を覗いた。
その瞬間。時代が一気に巻き戻ったような感覚に襲われた。 
そこにいたのは、若い男だった。
ギターを抱え、サングラスを掛け、少し照れたような笑顔で人々に囲まれている。
僕はその顔を知っていた。テレビで何度も見た。レコード店でも見た。新聞でも見た。 
その人が、ふっとこちらを見た。目が合った。そして、笑った。
「やあ!」 
僕は固まった。桑田さんが人混みをかき分けてこちらへ歩いてくる。まっすぐ僕のところへ。
そして言った。
「待ってたよ」  


第二章 クロコダイルの約束 
「……僕を?」
桑田さんは笑った。
「そうだよ」
「何で?」
桑田さんは少し首を傾げる。
「約束したじゃない」
「約束?」
「忘れたの?」 
僕は必死に記憶を探した。
クロコダイル。その言葉が頭の中に浮かんだ。
渋谷。ライブハウス。酒。煙草。友達。ギター。そして、若い僕。
何かを叫んでいる。 
――いつか、サザンに入れてください! 
「……」
「思い出した?」
「いや」
桑田さんは笑った。
「言ったんだよ」
「僕が?」
「そう」
「何て?」
「いつかサザンに入れてくれって」 
僕は頭を抱えた。
「そんなこと……」
言った。確かに言った。酔っ払っていた。若かった。怖いものがなかった。
何にでもなれると思っていた。世界が自分を待っているような気がしていた。 
「でも」
僕は言った。
「それは冗談で……」
「そうだっけ?」
「僕、就職しましたし」
「知ってる」
「ギターも、もうほとんど弾いてません」
「それも知ってる」
「じゃあ、何で?」 
桑田さんは少し困った顔をした。
「実はさ」
「はい」
「ギターが一人、抜けるんだ」
「え?」
「今日」
「今日ですか?」
「そう」
「急ですね」
「急なんだよ」
「それで?」
「君に頼もうと思って」 
僕は笑った。
「無理ですよ」
「何で?」
「下手だから」 
桑田さんは少し考えてから言った。
「大丈夫。俺たちもまだ下手だから」 
その言葉を聞いて、僕は笑った。
「それ、本気ですか?」
「もちろん」 
すると、後ろから女性の声がした。
「ちょっと!」
振り返ると、原さんが立っていた。 
「もう始まるわよ!」
「分かってるよ」
「ギターは?」
「来ない」
「だから?」
桑田さんは僕の肩を叩いた。
「代わりを見つけた」 
原さんが僕を見る。僕も原さんを見る。しばらく沈黙があった。
「……この人?」
「そう」
「大丈夫なの?」
「大丈夫」
「本当に?」
「たぶん」
「たぶんって……」 
原さんは呆れた顔をして、僕に言った。
「あなた、弾ける?」
「一応……」
「じゃあ、お願い」
「え?」 
あまりに自然に言われたので、断るタイミングを失った。
そのときだった。先輩が割り込んできた。 
「おい、桑田!」 
空気が変わった。桑田さんが先輩を見る。
「ああ」
「まだ何か用があるのか?」
「いや」
「俺は忘れてないぞ」
「こっちだって忘れてないよ」 
僕は二人を見た。何だ? この二人。絶対に何かある。
「先輩?」
「黙ってろ」
「でも」
「黙ってろ」 
桑田さんが言った。
「お前、まだあのこと根に持ってんの?」
先輩が言う。
「お前こそ」
「俺は悪くない」
「俺だって悪くない」
「じゃあ原さんに聞けば?」 
原さんが二人の間に入った。
「もう、いい加減にして!」 
二人とも黙った。
「……はい」
「……すまん」
先輩が小さく頭を下げた。桑田さんも「悪かった」と言った。 
僕は思った。女で揉めたのだろうか。だが、そんなことを聞ける雰囲気ではなかった。 
そのとき。講堂の中からスタッフが飛び出してきた。
「桑田さん!」
「はい」
「もう時間です!」
「分かってる」
「ギターは?」
桑田さんは僕を見る。
「ここ」
「え?」
スタッフも僕を見る。
「……誰ですか?」
桑田さんは胸を張った。
「今日からメンバー」
「ええっ?」 
僕は思った。夢だ。これは絶対に夢だ。そうでなければ説明がつかない。
だが。夢だと分かっているのに、僕の心臓は猛烈な勢いで鳴っていた。  


第三章 一曲だけ 
舞台袖に連れて行かれた。ギターを渡される。
知らないギターだった。だが、手にすると妙に馴染んだ。
スタッフが慌ただしく走っている。照明が動く。客席から拍手が聞こえる。 
僕は震えていた。
「無理です」
桑田さんが言った。
「大丈夫」
「本当に?」
「一曲だけ」
「その一曲で失敗したら?」
「みんな忘れる」
「でも僕は?」
「一生忘れない」 
僕は笑った。
「それ、励ましてます?」
「もちろん」
原さんが笑った。
「頑張って」
「はい」 
僕はステージへ出た。眩しい。客席が見えない。巨大な講堂。満員。老いも若きもいる。
そして、一番前に見覚えのある人がいた。 
僕だった。
若い僕ではない。今の僕。六十を越えた僕。その隣には――妻がいた。 
僕は息を呑んだ。
「どうして……」 
今の僕が、ステージの上の僕を見て笑っていた。そして、口だけを動かした。
「頑張れ」 
僕はギターを握った。桑田さんがマイクの前に立った。
「今日はですね」
客席から歓声が上がる。
「ちょっとした事情で、急遽、こちらの彼に参加してもらうことになりました」
拍手。僕はおじぎをした。
「一曲だけです」
また拍手。 
僕は思った。一曲だけ。それならやってみよう。
桑田さんがこちらを見る。目が合う。頷いた。
そして、音が始まった。 
不思議だった。指が勝手に動いた。僕は弾いていた。しかも、上手い。ものすごく上手い。
「……?」
自分でも驚いた。 
客席が沸く。桑田さんが笑う。原さんも笑う。
先輩は、客席の端で腕を組んでいた。そして、なぜか泣いていた。 
曲が終わった。大歓声だった。僕は呆然としていた。
桑田さんが肩を抱いた。
「ありがとう」
「いえ……」
「助かったよ」
「はい」
「じゃあ」
桑田さんが笑った。
「来週からツアーね」
「え?」
「よろしく」
「いや」
僕は慌てた。
「一曲だけって……今ので終わりですよね?」
「今日の一曲はね」
「じゃあ、来週は?」
「来週は来週」
「……」 
そのとき、会場の後ろから大きな声がした。
「すみませーん!」 
全員が振り返った。一人の男が息を切らしながら走ってきた。ギターケースを抱えている。
「遅れました!」 
桑田さんが目を丸くした。
「お前!」
「すみません!」
男は深々と頭を下げた。
「俺、抜けるなんて言いましたけど」
「言っただろ」
「ハヤトチリでした!」
「……」
「やっぱり、ここにいます!」
そして、土下座した。 
僕はその男を見た。それから桑田さんを見た。原さんを見た。先輩を見た。会場を見た。
何もかもがおかしかった。でも、なぜか笑えてきた。 
「分かりました」
僕は言った。
「あなたが遅れたから、仕方なく僕が手伝ったんですよ」 
桑田さんが笑った。原さんも笑った。先輩は腹を抱えて笑っていた。そして客席も笑った。
その瞬間。講堂の天井が消えた。青空が見えた。雲が流れた。拍手が波のように広がった。 
僕は空を見上げた。すると、空の向こうから誰かの声が聞こえた。
「お前、楽しかったか?」
僕は答えた。
「はい」
「本当に?」
「はい」
「じゃあ、もう帰れ」
「どこへ?」
声は笑った。
「今のところへ」 
その瞬間、世界が真っ白になった。 
第四章 六年目の卒業 
気がつくと、僕は大学の教授室の前にいた。
先輩が隣にいる。手にはジョニ黒。もう一本、オールドパー。 
「先輩」
「何だ?」
「さっきの……」
「何が?」
「サザン」
「知らん」
「え?」 
先輩は真顔だった。
「俺は教授に会いに来たんだ」
「でも……」
「お前、変な夢でも見たんじゃないか?」
「夢?」
「そう」
「先輩も夢ですよね?」
「俺は現実だ」
「六年目なのに?」
「それは現実だ」 
教授室の扉が開いた。教授が顔を出した。
「君か」
「先生」
「卒業したいのか?」
先輩は深く頭を下げた。
「はい」
「単位は?」
「足りません」
「何年目だ?」
「六年目です」 
教授はため息をついた。
「君は去年も来たな」
「はい」
「一昨年も」
「はい」
「その前も」
「はい」
「何年やるつもりだ?」
先輩は答えなかった。 
教授は机の上に置かれた酒瓶を見る。そして、
「……しょうがないな」
「え?」
「特別だぞ」 
先輩の顔が輝いた。
「本当ですか!」
「卒業しろ」
「はい!」 
僕は笑った。何だ、やっぱり夢だ。そう思った。
ところが、教授が僕を見る。
「君は?」
「僕?」
「君も単位が足りないだろ」
「え?」
「三年留年した」
「はい」
「卒業したことになっているが」
「はい」
「本当にそれでいいのか?」 
僕は答えられなかった。教授は続けた。
「君は、何になりたかった?」 
僕は黙った。ギター、音楽、小説、映画、旅、恋。いろんなものが頭に浮かんだ。
けれど、最後に浮かんだのは妻の顔だった。そして、子供の笑顔。 
教授が言った。
「人生は、単位を取ることとは違う」
先輩が横から言った。
「先生、俺は?」
「君はまず卒業しろ」
「はい」 
教授は僕を見る。
「君はもう卒業している」
「……」
「だから、帰りなさい」
「どこへ?」
教授は笑った。
「家へ」 
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が妙に温かくなった。
僕は立ち上がった。先輩が言う。
「またな」
「先輩」
「何だ?」
「卒業、おめでとうございます」
先輩は笑った。
「お前もな」
「僕は去年ですよ」
「知ってる」
「じゃあ」
「じゃあな」 
僕は教授室を出た。廊下を歩く。
大学の景色が、少しずつぼやけていく。
坂道、喫茶店、渋谷駅。そしてステージ、ギター、桑田さん、原さん、先輩。
全部が遠くなっていく。 
最後に、あの曲が聞こえた。遠くから、誰かが歌っている。
若い頃の友達。家族。涙。恋。もう一度だけ戻れたなら。 
僕は振り返った。そこには若い自分がいた。ギターを抱えて笑っていた。
僕は言った。
「頑張れ」
若い僕が答えた。
「そっちもな」 
そして、目が覚めた。 

YaYa
―夢の中で、僕はもう一度、青春をやり直した― 

第二部 目覚めたはずの朝 
第五章 カミさんが二人いる 
目が覚めた。朝だった。窓の外が薄青く明るくなっている。
時計を見る。五時十二分。 
「……」
僕はしばらく天井を見ていた。夢だった。そう思った。
大学、先輩、桑田さん、ギター、ステージ。全部、夢。
そりゃそうだ。現実に僕がサザンのメンバーになるわけがない。
僕は布団の中で小さく笑った。
「変な夢だったな……」 
隣を見る。カミさんが寝ている。いつもの寝顔だ。僕は安心した。
ところが。 
「おはよう」
声がした。
「え?」
振り返る。カミさんが起きていた。
「おはよう」
「お、おはよう」
「どうしたの?」
「いや……」
「変な顔してる」
「夢を見てた」
「どんな?」 
僕は少し考えた。
「サザンに入った」
カミさんは黙った。そして、
「……何で?」
と聞いた。
「知らないよ」
「ギター弾けたの?」
「夢の中では」
「へえ」
カミさんは笑った。
「よかったじゃない」
「うん」
「楽しかった?」
「……うん」 
そう答えた瞬間、カミさんが不思議なことを言った。
「じゃあ、もう一回行ってくれば?」
「え?」
「その夢」
「どうやって?」
「寝ればいいじゃない」
「そんな簡単なものじゃないよ」
「夢なんだから、簡単でしょ」
僕は笑った。
「そうだな」 
布団から出ようとした。そのとき、廊下から声がした。
「お父さん!」 
娘の声だった。僕が振り返ると、娘が立っている。
まだ幼かった。高校生くらい。
「お父さん、何してるの?」
「いや……」
「早くして」
「どこへ?」
娘は怪訝そうな顔をした。
「大学でしょ?」
「……え?」
「今日、創立百周年の式典なんでしょ?」 
僕は固まった。娘が言った。
「お父さん、遅刻するよ」 
僕はカミさんを見る。カミさんは普通の顔をしている。
「……ねえ」
「何?」
「今日って何日?」
カミさんは答えた。
「八月十一日」
「何年?」
カミさんが笑った。
「おかしなこと聞くわね」
そして言った。
「昭和だよ」 
僕は絶叫した。
「えええええっ!」 
その声で目が覚めた。 
……天井。朝。時計。五時十二分。
僕は飛び起きた。
「夢……」
だった。今度こそ、絶対に夢だった。 
「お父さん!」
隣の部屋から声がする。娘の声。
僕は恐る恐る時計を見る。五時十三分。
「……」
「お父さん?」
「はい!」
「何?」
「何でもない!」 
僕は布団をかぶった。しばらくしてカミさんの声。
「何を一人で騒いでるの?」 
僕は答えなかった。怖かった。いや、怖いというよりおかしかった。
夢から覚めたはずなのに、夢の中で、もう一度夢を見た。
これはいったい何なのだろう。  


第六章 新聞の日付 
朝食を食べた。テレビをつけた。ニュースが流れている。
僕はコーヒーを飲みながら、ぼんやり画面を見ていた。するとアナウンサーが言った。
「本日は、大学創立百周年記念式典が――」 
僕はコーヒーを吹いた。
「え?」
カミさんが振り返る。
「どうしたの?」
「今、何て言った?」
「何が?」 
テレビを見る。ニュースキャスターが続けている。
「本日、渋谷区の――」 
僕は立ち上がった。
「ちょっと待って」
「何?」
「テレビ、消して」
「何で?」
「いいから!」 
カミさんがリモコンを持つ。僕は新聞を取った。一面。日付。
そこには「昭和五十四年八月十一日」と書かれていた。 
僕は新聞を落とした。
「……」
「どうしたの?」
カミさんが言う。僕は新聞を拾って、もう一度見た。同じだ。昭和五十四年。
カレンダーを見る。昭和五十四年。テレビを見る。昔の番組。
時計を見る。デジタルではない。全部が昔だった。 
なのに、カミさんは何も不思議に思っていない。娘も普通に学校へ行く準備をしている。 
「お父さん」
娘が言った。
「今日は大学なんでしょ?」
「……」
「何?」
「お前、いくつだ?」
娘が眉をひそめる。
「何言ってるの?」
「いや」
「変なお父さん」
娘は笑った。 
僕はカミさんを見る。カミさんも笑っている。まるで、何も問題がないように。
僕は玄関へ向かった。靴を履く。
すると、玄関の外にギターケースが置いてあった。 
「……」
僕は触れなかった。触ったら、また戻れなくなる気がした。 
そのとき、電話が鳴った。黒いダイヤル式電話。
僕は恐る恐る受話器を取った。
「もしもし」
『おう』 
その声を聞いた瞬間、背筋が凍った。
「……先輩?」
『遅いぞ』
「何が?」
『大学』
「今日は行きません」
『何言ってんだ』
「僕はもう卒業しました」
『知ってるよ』
「じゃあ、何で?」
電話の向こうで先輩が笑った。
『だからだよ』
「どういう意味です?」
『卒業したから来い』
「意味が分からない」
『桑田も待ってる』 
僕は受話器を握ったまま固まった。
『じゃあな』
電話が切れた。受話器を置く。 
カミさんが言った。
「誰?」
「先輩」
「大学の?」
「うん」
「懐かしいわね」
「……知ってるの?」
「もちろん」
「どんな人?」
カミさんは笑った。
「あなたが一番大事にしてた友達じゃない」 
僕は黙った。先輩。一番大事な友達。
だが、僕にはその先輩と過ごした記憶がほとんどない。いや、あるのだ。
でも、それは昨日の夢の中の記憶だった。 
僕はギターケースを見た。そして、玄関を出た。 

第三部 消えた青春 
第七章 先輩の秘密 
大学へ向かう坂道は昨日と同じだった。いや、昨日ではない。何十年も前の景色。
それなのに、僕の足は道を覚えていた。 
坂を上る。喫茶店、定食屋、煙草屋。全部ある。
僕が店先に立つと、店主が僕を見て「ああ、久しぶり」と言った。 
僕は驚いた。
「僕を知ってるんですか?」
「何言ってるんだ」店主が笑う。「毎日来てただろ」
「毎日?」
「そうだよ」 
僕は店内を見る。壁に写真があった。
若い僕、先輩、そして知らない女の子。三人で笑っている。 
「……誰?」
店主は答えず、ただ「忘れたのか」と言った。 
僕は写真を見つめた。女の子の顔に見覚えがある。でも、名前が出てこない。
その瞬間、後ろから声がした。
「やっぱり忘れてるな」 
先輩だった。
「先輩……」
「お前、記憶が悪くなったな」
「この人、誰です?」
先輩は写真を見る。
「お前が好きだった女」
「……」
「本当に忘れたのか?」 
僕は頭を抱えた。胸の奥が痛い。何かを忘れている。ものすごく大切なものを。
「先輩」
「何だ?」
「この人……名前は?」 
僕は答えられない。先輩は小さくため息をついた。
「美紀」 
その名前を聞いた瞬間、頭の中に雨が降った。
駅、傘、制服、笑顔。
「また明日ね」という彼女の声。 
僕はその場にしゃがみ込んだ。
「……思い出した」
先輩は黙っていた。
「どうして忘れてたんだ?」
「お前が忘れたかったからだ」
「何で?」
「彼女がいなくなったから」 
僕は顔を上げた。
「死んだの?」
先輩は答えない。
「事故?」
沈黙。
「病気?」
先輩は首を振った。
「じゃあ、どこへ?」
先輩は言った。
「未来へ」
「……」
「お前より先に」 
意味が分からなかった。先輩は歩き出した。
「来い」
「どこへ?」
「講堂」
「桑田さん?」
「そうだ」
「また?」
「今日は違う」
「何が?」
先輩は振り返った。
「お前が、何を忘れたのかを教えてもらう」 
僕は後を追った。  


第八章 講堂の地下 
講堂に着くと、桑田さんが待っていた。昨日とは違う服装でギターを抱えている。
「来たね」
「はい」
「美紀のこと、思い出した?」 
僕は驚いた。
「知ってるんですか?」
「もちろん」
「何で?」
「この夢を作ったのは、僕じゃないからね」
「……え?」
桑田さんは笑った。
「僕も呼ばれただけ」
「誰に?」 
桑田さんは講堂の地下を指差した。
「下」
「地下?」
「行ってみな」 
僕たちは階段を降りた。地下には古い部屋があった。壁一面に写真が貼られている。
僕の人生だった。大学、就職、結婚、子供、家族旅行。そして、美紀。 
写真を見ていると、自分の知らない記憶が次々に蘇ってきた。
美紀とは大学時代に付き合っていた。僕は彼女と結婚するつもりだった。
だが、僕は夢を追うことを恐れた。音楽も、小説も、何もかも。安定した仕事を選んだ。 
美紀は言った。
「それでいいの?」
僕は答えた。
「いいんだ」
「本当に?」
「うん」 
その数日後、美紀は遠くへ行った。別れた。それだけだと思っていた。
だが、記憶の最後に一枚の写真があった。
美紀が笑っている。その隣に僕がいる。そして、写真の裏に文字があった。 
『また、夢で会おう』 
僕は震えた。
「これは……」
桑田さんが言った。
「お前が忘れた約束」
「美紀と?」
「そう」
「でも、僕は……」 
先輩が言った。珍しく真面目な顔だった。
「人生ってのはな。忘れたから消えるんじゃない」
「……」
「忘れたことにして、生きていくんだ」 
僕は何も言えなかった。
そのとき、部屋の奥からピアノの音がした。
一音。また一音。誰かが弾いている。 
僕は振り返った。そこには若い美紀がいた。 

 
第四部 もう一度だけ 
第九章 美紀 
「久しぶり」
美紀が笑った。僕は言葉が出なかった。何十年ぶりだろう。
いや、夢の中ではほんの数日前なのかもしれない。時間というものが完全に壊れていた。 
「老けたね」
美紀が言った。
「……そっちも」
「嘘」
「夢だから」
「そうね」彼女は笑った。「夢って便利ね」
僕も笑った。 
「どうしてここに?」
「あなたが呼んだから」
「僕が?」
「そう」
「いつ?」
「ずっと」 
僕は黙った。美紀がピアノの前から立ち上がった。
「あなた、幸せ?」
突然だった。僕は答えた。
「幸せだよ」
「本当に?」
「うん」
「奥さんは?」
「いる」
「子供は?」
「いる」
「じゃあ、どうしてここに来たの?」 
僕は答えられなかった。美紀は笑った。
「やっぱり」
「何が?」
「少しだけ、昔に戻りたかったんでしょう?」 
僕は窓の外を見る。雨が降っている。渋谷の雨。若かった頃の雨。
「うん」
「どうだった?」
「楽しかった」
「サザンに入った?」
僕も笑った。
「入った」
「一曲だけ?」
「一曲だけ」
「じゃあ、十分ね」 
美紀は言った。
「人生なんて、一曲あれば十分なのかもしれない」
「どういう意味?」
「一生忘れない一曲があれば、それでいいのよ」 
僕の胸が詰まった。
「美紀」
「何?」
「ごめん」
「何で謝るの?」
「もっと……」
言葉が続かなかった。美紀は首を振った。 
「あなたは、あなたの人生を生きた」
「……」
「私も、私の人生を生きた」
「そうだね」
「だから」彼女は笑った。「もう、戻らなくていいよ」 
その瞬間、講堂の外から大きな音がした。ドラム、ギター、ベース。
そして、桑田さんの声。
「おーい!」 
美紀が笑った。
「呼ばれてるわよ」
「どこへ?」
「最後の一曲」 
僕は立ち上がった。  


第五部 最後のステージ 
第十章 YaYa 
ステージに上がる。客席は満員だった。
先輩がいる。原さんがいる。桑田さんがいる。
そして、客席の最前列には妻がいた。その隣に娘。さらに、幼い頃の僕。 
僕は笑った。
「みんな、いるんだ」
桑田さんが言った。
「人生だからね」
「人生?」
「全部、いるんだよ」 
僕はギターを持った。桑田さんがマイクを握る。
「最後に一曲。これはね、昔を思い出してる人たちに」 
会場が静かになる。僕がギターを構えると、先輩が叫んだ。
「おい!」
「何です?」
「間違えるなよ!」
「先輩こそ、単位間違えるな!」 
客席が笑った。先輩も、桑田さんも、原さんも、僕も笑った。
そして、音が始まった。 
懐かしいメロディ。若かった頃、友達、家族、涙、恋、失ったもの、手に入れたもの。全部が一つになっていく。 
僕は演奏しながら思った。
人生は、やり直せない。だからこそ、人生なのだ。
もしも戻れたとしても、僕は結局同じ場所へ帰ってくるのだろう。
妻のいる場所へ。家族のいる場所へ。今の僕がいる場所へ。 
曲が終わった。長い拍手。
僕は客席を見た。若い僕が立ち上がって笑っていた。
「ありがとう」僕は言った。
若い僕が答える。「こちらこそ」 
照明が落ち、真っ暗になる。どこからか声が聞こえた。
「帰る時間だよ」
僕は目を閉じた。  


エピローグ 朝五時十二分 
目が覚めた。朝だった。時計を見る。五時十二分。昨日と同じ。
僕は天井を見た。隣ではカミさんが眠っている。静かな寝息。
窓の外には、まだ薄暗い東京。僕は布団の中で笑った。
「……楽しい夢だった」 
それだけ言うと、隣から声がした。
「何が?」
驚いて振り返ると、カミさんが目を開けていた。
「夢」
「また?」
「うん」
「今度は何?」
僕が「サザンに入った」と言うと、カミさんは笑った。
「よかったじゃない」
「一曲だけ」
「じゃあ、十分ね」
僕も笑った。「そうだな」 
起き上がり、窓を開ける。朝の空気が入ってくる。
昔の渋谷とは違う、今の東京の匂い。 
コーヒーを淹れてテレビをつけると、サザンの曲が流れてきた。
僕は立ち止まり、画面を見ながら思わず口ずさんだ。 
昔の友達、家族、涙、恋。もしも、もう一度だけ戻れたなら。
僕は戻らない。戻らなくていい。あの頃は、あの頃のままでいい。
だって、あの頃があったから今の僕がいる。 
カミさんが台所から声を掛けた。
「何、ニヤニヤしてるの?」
「いや、昔の夢を見てたんだ」
「どんな夢?」
僕は窓の外の朝日を見ながら小さく笑った。
「一曲だけ、バンドマンになった夢」
「へえ」カミさんは笑った。「じゃあ、今日から練習すれば?」
「今から?」
「夢じゃなくて現実で」
「そうだな」 
そして心の中で、もう一度だけあの頃の自分に言った。
――ありがとう。 
遠い記憶の向こうから、若い僕が笑った気がした。 
I remember younger days.
My friends and the family.
There were tears.
And yes— I fell in love.
If I could only go back once more. 
僕はコーヒーを飲んだ。少し苦かったけれど、妙に美味かった。 
おわり 

―夢の中で、僕はもう一度、青春をやり直した― 

第六部 夢の続き 
第十一章 朝のギター 
その日の朝、僕は久しぶりにギターケースを開けた。
なぜそうしたのか自分でも分からない。昨日までならそんなことはしなかった。
ギターは何年も押し入れの奥にしまってあったものだ。若い頃に買った。 
弦は錆びていて、ケースには古いステッカーが貼ってある。大学時代のものだ。
その中に、一枚だけ見覚えのないステッカーがあった。小さな雨傘の絵。 
「こんなの、貼ったっけ?」
カミさんが台所から言った。
「それ、昔から貼ってあったじゃない」
「そう?」
「あなた、忘れたの?」 
僕は黙った。昨日からこの言葉を何度聞ただろう。
忘れた。その言葉が妙に引っかかった。 
僕はギターを膝に乗せ、弦を一本弾いてみる。ビーン。ひどい音だった。
「下手になったな」自分で笑った。 
するとスマートフォンが鳴った。知らない番号からだった。
「もしもし?」
『おう』 
その声に、僕は固まった。
「……先輩?」
『何だ、寝ぼけてるのか?』
「先輩……?」
『そうだよ』
「どうして?」
『どうしてって、お前が電話番号を教えたんだろ』
「いつ?」
『夢の中で』 
電話が切れた。僕はスマートフォンを見つめた。履歴を見ると、確かに番号が残っている。
名前には「先輩」と表示されていた。 
僕はカミさんを見る。
「ねえ」
「何?」
「昨日、僕、誰かと電話した?」
「してないわよ」
「本当に?」
「ずっと寝てたじゃない」 
僕は黙った。するとギターのケースの中から何かが落ちた。小さな紙だった。
拾うと、古いライブハウスのチケットだった。
そこには「CROCODILE」と書かれていた。日付は昭和五十四年八月十一日。今日と同じ日だった。 

第十二章 クロコダイル 
渋谷へ向かった。理由は分からない。ただ、行かなければならない気がした。
街は変わっている。当然だ、何十年も経っているのだから。
なのに、ある角を曲がると、そこだけ昔の景色が残っていた。
古い看板、細い階段、地下へ続く入口。 
看板には「CROCODILE」とある。
「……」
夢だ、そう思った。だが階段を降りると、ドアの前に先輩がいた。 
「遅い」
「……先輩」
「来ると思ってた」
「ここは?」
「店」
「見れば分かります」
「じゃあ入れ」 
ドアを開けると、中には誰もいなかった。ただ、ステージの上にギターが一本置かれていた。
先輩が言った。
「覚えてるか?」
「何を?」
「ここでお前が言ったこと」 
僕はギターを見る。
「サザンに入りたい」
「違う」
「じゃあ?」
先輩は笑った。
「音楽をやりたい、だ」 
僕は黙った。
「お前は、あの日」先輩が続けた。「本気だった。でも翌朝になったら怖くなった。就職して、ギターを置いて、普通に生きた」 
僕が「それが悪いことですか?」と尋ねると、先輩は「悪くない」と言った。
「俺だってそうだ。俺は大学を卒業しなかった」
「それは……」
「しなかったんじゃない。できなかった」 
先輩は珍しく寂しそうだった。
「俺には、卒業したら終わるものがあった。青春だ。だから六年もいた。馬鹿だろ?」
僕も笑った。「馬鹿ですね」
「お前もだ」
「僕は卒業しました」
「だからお前はもっと馬鹿だ。青春を卒業したからだ」 
僕は言葉を失った。先輩はギターを手に取り、「弾け、何でもいい」と僕に渡した。
受け取って弦を鳴らす。昨日より、少しだけいい音がした。 

第十三章 美紀の手紙 
ギターの音が消えると、客席の奥から誰かが拍手した。振り返ると美紀だった。
「久しぶり」
「……美紀」
彼女は笑っている。大学時代の顔だ。 
「また会ったね」
「夢なの?」
「そう」
「じゃあ、僕は寝てる?」
「たぶん」
「どこで?」
「分からない」美紀は笑った。「夢って、住所がないから」 
先輩が「二人で話せ」と言って店の外へ出ていった。 
「美紀、僕たちはどうして別れたんだ?」
「あなたが怖がったから。私と一緒に生きること」
僕は息を呑んだ。
「違う。僕は君を好きだった」
「知ってる」
「今でも?」
美紀は少し考えて言った。「夢の中なら。昔の気持ちは消えないから」 
美紀は鞄から封筒を取り出した。
「これ。あなたが読まなかった手紙」
開けると、そこには短くこう書かれていた。 
『あなたが夢を諦めても、私はあなたの夢まで嫌いになったわけじゃない』 
僕は目を閉じた。
「……どうして渡してくれなかった?」
「渡したわ。あなたが読まなかったの。机の引き出しに入れたでしょ」 
記憶を探すと確かにあった。怖くて開けず、そのまま引っ越して忘れたのだ。
「ごめん」
「だから、もういいって。あなたにはあなたの人生がある。奥さん、大事にしてる?」
「うん」
「子供は?」
「大事だよ」
「なら、それでいい」 
美紀は窓の外の降り始めた雨を見て言った。
「雨の日だけ会える場所があったら、面白いと思わない?」
「どこ?」と聞いても、美紀は「もうすぐ」とだけ答えた。 

第七部 雨の店 
第十四章 雨宿り 
店を出ると、そこは渋谷ではなく見たことのない町だった。細い路地、古い商店、軒先の雨。
「ここ、どこ?」
「雨宿町。戻りたい人が来る店よ」美紀が言った。 
通りの先に「あとさき」という小さな店があった。
中に入るとカウンターがあり、壁には雨の日の人々の写真が飾られていた。 
カウンターの奥から現れた老人が言う。
「いらっしゃい。ここは『戻らなかった人生』を少しだけ飲む店です。コーヒーにしますか?」 
運ばれたコーヒーを一口飲むと、苦く、そして懐かしく、なぜか涙が出た。
「何で泣くんだろう」
美紀が言った。「思い出したからよ。あなたがちゃんと生きてきたことを」 
老人が語りかける。
「人生は選ばなかった道を消してはくれません。ただ見えなくするだけです。夢とは、その見えなくなった道を夜だけ照らす灯りですよ」 
その瞬間、外で大きな雷が鳴り、店の明かりが消えた。
遠くから懐かしい歌声が聞こえ、次に目を開けたとき、僕はまたステージの上にいた。 

第八部 もう一度だけ 
第十五章 僕たちのバンド 
ステージには桑田さん、原さん、先輩、美紀、そして若い僕がいた。
客席には友人、家族、妻、娘、そして僕の人生で擦れ違ってきたすべての人々がいた。 
桑田さんが言った。
「人間、一人で生きてると思ったら大間違いだよ。最後は『YaYa』を全員でやろう。お前が弾け」 
原さんが鍵盤、先輩がベース、美紀がコーラス、そして若い僕と僕の二人でギターを持った。
音が始まり、過去と現在、若さと老い、夢と現実が溶け合っていく。 
青春とは、戻ることではない。忘れないこと、そして忘れていた自分をもう一度抱きしめることだ。 
曲が終わり、若い僕が「もう行けよ、お前の人生へ」と言った。僕も頷き、ギターを置いた。 

エピローグ 雨が止む 
目が覚めると朝五時十二分。僕は小さく笑った。
起きて窓を開けると夏の雨。僕はギターの弦を張り替えようとケースを開けた。 
台所から「コーヒー飲む?」と妻の声。
「うん。今日は苦いのがいい」 
雨が弱まり、雲の切れ間から光が差す。光の中に若い自分が笑って手を振っている気がした。
僕も小さく手を振ると、彼は消えた。 
コーヒーを飲む。苦いけれど美味しかった。
もう一度戻りたいと思える過去があることは、きっと悪い人生じゃなかったということだ。 
雨が止み、僕は誰もいない部屋でギターを鳴らした。ジャーン。少し音が外れた。
どこからか「俺たちも、まだ下手だから」と声が聞こえた気がして、僕はもう一度ギターを鳴らした。 
おわり 

第九部 夢から持ち帰ったもの 
第十六章 弦を張る 
ギターの弦を張り替えるのに三時間もかかった。若い頃なら三十分で終わったのに、老眼鏡をかけても手元が見えづらい。 
「何してるの?」とカミさん。
「弦を張ってる」
「バンドでも始めたの?」
「今から?」僕は笑った。 
ふと、夢の中で美紀に「奥さん、大事にしてる?」と聞かれたことを思い出し、小さく「大事にしてるよ」と呟いた。 
カミさんが「夢の中で誰かに会っても、最後に帰ってくるのはここ(日常)でしょ? ならいいじゃない」と言ってくれた。
この人と結婚してよかった、と心から思った。
人生とは何かを手に入れるだけでなく、選ばなかった道を後から許していくことでもあるのだ。 

第十七章 先輩からの葉書 
三日後、差出人「先輩」とだけ書かれた葉書が届いた。
封を開けると、たった一行。 
『卒業おめでとう。今度は留年するなよ。追伸:桑田によろしく』 
吹き出してしまうと同時に寒気がした。僕は先輩の本名を知らない。いつも「先輩」と呼んでいただけだったからだ。 

第十部 六年目の先輩 
第十八章 名前のない男 
夢の中で先輩に名前を聞くと、「名前を付けるとその人が一人になっちまう。俺はお前の先輩だった、それだけで十分だ」と言われた。
先輩は「お前の忘れた青春を思い出すために出てきたんだ」と笑った。  


第十九章 最後のクロコダイル 
地下のクロコダイルで、先輩は「今度は一人で歌え」と僕をステージへ促した。
客席には大切な人たちが勢揃いしている。僕が『YaYa』を歌い上げると、先輩が「卒業おめでとう」と肩を叩いた。
その瞬間、先輩の姿が光の中に溶けていった。 

 
第十一部 名前 
第二十章 カトウ 
目が覚めると五時十二分。机の上の葉書を見ると『カトウへ。俺の名前はお前が決めてくれ』と書かれていた。
僕がペンで『青春』と書き込むと、文字はそのまま綺麗に消えていった。 
最終部 YaYa  


第二十一章 もう一度だけ 
一年後、渋谷の坂道を歩く。講堂のあった場所には新しいビルが建っていた。
後ろから「よっ!」と声がした気がして振り返るが、誰もいない。 
スマホにメッセージが届く。『一曲、やるか?』
僕は笑って『一曲だけなら』と返信した。 
空を見上げると、若い僕、美紀、先輩、桑田さんたちが笑いながら坂道を下っていく幻が見えた。
僕は追いかけない。彼らは僕の中で生きているからだ。 
家へ帰り、妻とコーヒーを飲む。
窓を開け、雨上がりの空に向かってギターをもう一度鳴らす。
ジャーン。音は若い日の東京まで届いた気がした。 
「ありがとう」
そう呟くと、遠くから「よっ!」と笑い声が聞こえた。 
終章 If I could only go back once more 
歳をとるとは、過去を増やすこと。
過去は荷物ではなく、自分自身そのものだった。 
雨の夜には、どこかでギターの音がする気がする。
「一曲だけ、やるか?」
「ああ、一曲だけ」 
人生も一曲の音楽のようなものだ。最後の音が消えるまで、僕たちは演奏を続けている。 
雨の向こうで笑う仲間たちに手を振り、僕は今日も生きている。次の一音を鳴らすために。 
YaYa
おわり  


第十二部 夢を見る人 
第二十二章 知らない老人 
それから、しばらく夢を見なかった。
正確に言えば、夢を覚えていなかった。朝起きても何も思い出さない。 
ある日、渋谷の坂道で「YaYa」という見覚えのない喫茶店に入った。
カウンターには老人が一人。壁の写真には、若い頃の僕、先輩、美紀、そして「少し若い頃のその老人」が写っていた。 
老人は言った。「夢の時間は現実の時間と違う。ここは君の心が選んだ場所だ」  


第二十三章 人生のレンタル 
老人は『人生貸出帳』というノートを見せてくれた。
「人は一人では生きられない。だから困ったとき、誰かの人生を少しずつ借りて生きている。恋をしたとき、家族ができたとき、友と別れたとき。君が見た夢は、返却期限が来た人生の確認だよ」  


第十三部 先輩の卒業式 
第二十四章 六年目の答え 
夢の中の卒業式。壇上で先輩が卒業証書を受け取り、振り返って笑った。
僕が「名前は!?」と叫ぶと、先輩は口だけを動かして何かを言ったが、大拍手に消されて聞こえなかった。  


第十四部 名前を思い出せない 
第二十五章 朝食 
目が覚めて朝食を食べる。普通で変わらない朝の愛おしさ。
妻に「いつもありがとう」と言うと、「変なの」と笑われた。  


第十五部 最後の手紙 
第二十六章 美紀からのメール 
スマホに『あなたが選んだ人生を、私は好きです』と一文だけのメールが届く。
送信元不明で返信はエラーになったが、僕も心の中で「僕も好きだよ」と答えた。  


第十六部 桑田さんからの電話 
その夜、電話で桑田さんが「一曲、やらない? 今度は一生分」と誘ってくれた。
僕は「今の自分の人生で弾きます」と答えた。桑田さんは嬉しそうに笑って電話を切った。  


最終章 YaYa 
朝、五時十二分。
窓の外の雨上がりの光の中に、かつての仲間たちが笑って立っていた。
彼らは坂を下り、僕は自分の道を歩く。 
妻が「今日は何するの?」と聞く。
僕は「ギターの練習。一曲だけね」と答えて笑った。 
部屋いっぱいに響くギターの音。過去も未来も、大切な人も全部ここにいる。
あの日々に感謝を込めて、僕は次の一音を鳴らすのだった。   


YaYa

完  


いや、続く…


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