雨の夜だけ開く店 完結編
〜雨止みの店じまい〜



まえがき
人生には時として、「今すぐここから逃げ出したい」「手っ取り早く希望を叶えたい」と願ってしまう瞬間があります。
『雨の夜だけ開く店』は、そんな人間の弱さや焦りと向き合いながら、不器用ながらも自分の足で歩み直す人々の姿を描いてきました。
本作はその完結編となります。
遠回りや失敗の中にこそ、自分自身の本当の価値や温もりがある――。
雨の音に耳を澄ませながら、五人の物語の結末を最後まで見届けていただければ幸いです。 




序章 五つの灯り
その前の晩、老婆は、ひとりの客に、何も売らなかった。 
母親の病を治す道具が欲しいと訴える若者に向き合い、老婆は初めて「それだけは売れない」と首を振った。代わりに、これまでの客たちの話を、木札越しに聞かせてやった。そして客は、道具を求める代わりに、母親と過ごす明日を選んで、店を去っていった。 
その晩、老婆は、帳面を閉じながら呟いた。 
「これで、ちゃんと終われそうだね」 
そして、残された、ほんのわずかな力を振り絞るようにして、目を閉じた。 
その力は、道具を売ることではなく、かつての五人の客を、もう一度だけ、あの場所へ呼び戻すことに使われた。 
──果たして、それから間もない夜、東京のあちこちで、五人の人間が、ほとんど同時に、同じ夢から目を覚ますことになる。 
雨宮太郎は、耳の奥で「ちりん」という音を聞いた気がして、目を覚ました。芽衣は、赤銅色の鈴の音を、夢の中で聞いた気がして、顔を上げた。陸は、右手のひらに、根付の感触を思い出して、目を覚ました。歩美は、天秤が傾く音を、耳の奥で聞いた気がして、手を止めた。順一は、古びた整理券の紙の匂いを、ふと思い出して、足を止めた。 
五人とも、その夜、外は雨が降っていた。そして五人とも、なぜか、あの路地裏のことを、久しぶりに思い出していた。 
──あの店、まだあるんだろうか。 
理由は、誰にも説明がつかなかった。ただ、なんとなく、今夜、あの場所に行かなければならない気がした。そんな、根拠のない予感だけが、五人の胸の中に、同じ形をして灯っていた。 



第一章 路地裏の再会
太郎が路地裏にたどり着いたとき、そこにはすでに、見覚えのない四人の男女が、傘を差したまま、所在なげに立っていた。 
「あの……もしかして、皆さんも」 
太郎がおずおずと声をかけると、芽衣が驚いた顔で振り返った。 
「え、雨宮さん……ですか? お店の木札に、お名前が」 
「木札?」 
「先客のところに書いてあったんです。私、二話目のお客さんで」 
そこへ、陸が会話に加わった。 
「俺は三話目です。木札、見たことあります。雨宮さん、芽衣さん、俺は陸っていいます」 
歩美と順一も、次々に自己紹介をした。木札の順番通り、太郎、芽衣、陸、歩美、順一の五人が、雨の降る路地裏に、偶然にも同じ夜、勢揃いすることになった。 
「みんな、なんでか分からないけど、今夜、ここに来なきゃって思ったんですよね」 
順一が言うと、他の四人も、一様に頷いた。 
「なんか、呼ばれてる気がしませんでした?」 
歩美が言うと、陸も頷いた。 
「俺もです。根付の感触、急に思い出して」 
五人は、しばらく顔を見合わせたあと、どちらからともなく、路地の奥へと歩き出した。 
灯りは、いつもより、心なしか弱々しく灯っていた。木製の引き戸に、達筆とも悪筆ともつかない字で、こう書かれている。 
「±0螺子店」 
太郎が、代表するように戸を引いた。あっけないほど軽く開いた。 
「……いらっしゃい」 
いつもより、少し掠れた声だった。 



第二章 最後の夜
カウンターの奥に座っていたのは、和装の老婆だった。しかし、五人が驚いたのは、その膝の上にいるはずの招き猫の置物が、今夜は、カウンターの隅に、ちょこんと自分の足で立っていたことだった。右手も左手も、しっかりと挙げている。もう、誰かの膝に乗って支えられる必要のない姿だった。 
「皆さん、揃って……珍しいこともあるもんだね」 
老婆は、そう言って、小さく笑った。その笑顔は、どこか安堵したような、それでいて寂しそうな表情だった。 
「あの、今夜、なんだか呼ばれてる気がして……」 
太郎が言うと、老婆はゆっくりと頷いた。 
「呼んだのは、あたしだよ。正確に言えば、この店の最後の力を使ってね」 
「最後、って」 
芽衣が眉をひそめた。 
老婆は、カウンターの奥から、古い一冊の帳面を取り出した。表紙には、何も書かれていない。ただ、中を開くと、五つの名前が、順番に書き込まれているのが見えた。雨宮太郎、芽衣、陸、歩美、順一。 
「この店はね、もともと、あたし自身の罪滅ぼしのために開いていた店なんだよ」 
老婆は、静かに語り始めた。 
「もう、ずいぶん昔の話さ。あたしにも、大切な人がいた。今、そこに立ってる猫又は、もともと、あたしの連れ合いでね」 
五人は、思わずカウンターの隅に立つ招き猫を見た。招き猫の目が、一瞬、人間のように優しく細められた気がした。 
「あたしたちは、二人で小さな道具屋をやっていたんだ。ある日、連れ合いが、流行り病で倒れてね。あたしは、どうしても諦めきれなくて、禁じられている裏の道具に手を出した。『病を、なかったことにする螺子』ってやつさ。三百円で買えるような、ちゃちな代物じゃなかった。もっと、重たい代償のいる道具だった」 
老婆は、皺だらけの手で、帳面をそっと撫でた。 
「病はなくなった。だが、その代わり、連れ合いの魂の半分が、猫又の姿に変えられちまった。人としての時間を、これ以上進められない体にね。あたしは、自分の身勝手のせいで、大切な人を、中途半端な姿のまま、この世に縛り付けちまったのさ」 



第三章 不良品の理由
「それから、あたしと連れ合いは、幸運管理局から、ある罰と、ひとつの役目を与えられた」 
老婆は続けた。 
「罰は、簡単さ。あたしたち自身の力では、二度とまともな道具を作れないようにされた。だから、うちの店で売る道具は、いつも、ちょっとずつ『不良品』になっちまう。あんたたちが経験した通りさ」 
順一が、思わず口を挟んだ。 
「じゃあ、あの追い越し券が暴走したのも……」 
「わざとじゃないよ。だが、避けようもなかった。あたしの作る道具は、必ず、望んだ以上のものを、周りから奪ったり、押し付けたりしちまう。それが、あたしの罪の形なのさ」 
「役目、っていうのは?」 
歩美が尋ねた。 
「望みを、安易な近道で叶えようとする者に、その道具を売ること。そして、その道具が引き起こす騒動を通じて、その人自身に、本当に必要なものを、気づかせること。それが、あたしたちに課された役目だった」 
老婆は、五人の顔を、順に見つめた。 
「太郎さん、あんたは、ゼロからやり直したくて、螺子を買った。芽衣さん、あんたは、もう一度だけ、輝きを取り戻したくて、鈴を買った。陸さん、あんたは、二つとも失いたくなくて、根付を買った。歩美さん、あんたは、不公平を正したくて、天秤を買った。順一さん、あんたは、自分の番を早めたくて、追い越し券を買った」 
「……全員、共通してることがあるんですね」 
太郎が呟いた。 
「そうさ。みんな、何かを、近道で手に入れようとした。だが、それぞれ、ちゃんと、自分の足で、本当の答えにたどり着いた。近道が壊れたあとに残った、あんたたち自身の選択――それこそが、あたしたちに与えられた役目の、本当の成果だったんだよ」 



第四章 解けた約束
そのとき、店の入り口が静かに開き、黒いスーツを着た、猫の耳のような髪飾りをつけた若い女性が入ってきた。三日月だった。 
「皆様、お揃いのようですね」 
三日月は、五人を見渡してから、老婆に向き直った。 
「ご報告です。今しがた、幸運管理局にて、正式に確認が取れました。過去五件の案件、いずれも、装置の暴走を最終的に人の手で正しく収束させ、当事者自身の意思による選択で解決に至ったことが認められました」 
老婆は、静かに目を閉じた。 
「そして、昨夜の一件も、併せてご報告いたします」 
三日月は、続けた。 
「道具を求めた六人目のお客様に、あえて何も売らなかったこと。その判断こそが、審査における最後の要件――『同じ過ちを、二度と誰にも繰り返させない』という誓いの、何よりの証明であると、局として認定いたしました」 
老婆の目じりが、わずかに震えた。 
「これにて、雨宮太郎様、芽衣様、陸様、歩美様、順一様の五名による案件、そして昨夜、道具を売らなかったご判断をもって、規定の贖罪件数と条件を、すべて満たしたことを、正式にお伝えいたします」 
老婆の目じりから、一筋の涙がこぼれた。招き猫が、カウンターから、ふわりと飛び降り、老婆の膝に、そっと頭をすり寄せた。その姿が、一瞬、若い男の輪郭に重なって見えたのは、五人の見間違いではなかったはずだ。 
「長かったねえ……」 
老婆は、招き猫の背を、いつまでも優しく撫でていた。 
「あの、それって……」 
芽衣が、胸の奥を詰まらせるようにして尋ねた。 
「お店、なくなっちゃうんですか」 
三日月は、小さく頷いた。 
「贖罪の役目を終えられたお二人は、明日の朝をもって、本来の姿と時間に戻られます。この『±0螺子店』も、今夜が、最後の営業となります」 



第五章 最後の質問
「せっかくだから、最後に、何か聞きたいことがあれば、聞いておいき」 
老婆は、涙を拭いながら、いつもの調子で笑った。 
太郎が、まず口を開いた。 
「俺、あれから、ちゃんと家族を持てました。でも、たまに、今の生活が、本当に自分の実力なのか、不安になることがあります」 
老婆は、優しく答えた。 
「あんたが今持ってるものはね、螺子とは何の関係もないよ。あんたが、あの一週間のあと、毎日、自分の足で歩き続けた結果さ」 
芽衣が、続けて尋ねた。 
「私、新しい連載、まだヒットするかどうか分かりません。また『二匹目はいない』って言われるかもしれません」 
「言われるだろうさ。だが、あんたはもう、同じ場所に針を垂らしちゃいないだろう」 
芽衣は、小さく頷いた。 
陸は、少し言葉を選びながら聞いた。 
「俺、望と結婚して、幸せです。でも、たまに、桜のことを思い出すことがあります。それって、望への裏切りになりますか」 
老婆は、首を横に振った。 
「思い出と、今を生きることは、両立できるよ。両立できないのは、どっちも同時に『恋人』にしようとしたときだけさ」 
歩美は、少し悔しそうに尋ねた。 
「私の職場、まだ完全に平等とは言えません。それでも、頑張り続ける意味、あるんでしょうか」 
「平等な結果は、誰にも約束できない。だが、正当に評価される道を探し続けることは、あんた自身の重さを、ちゃんと保ち続けることになる。それだけは、揺るがないよ」 
最後に、順一が尋ねた。 
「俺、今度こそ、ちゃんと自分から動いて、番を作っていくつもりです。でも、それでも、また誰かに追い越されることは、あると思います」 
老婆は、優しく笑った。 
「あるだろうね。でも、あんたはもう、追い越されても、列に並び続けられる人間になった。それが、あの券を買う前のあんたと、一番違うところさ」 



終章 雨上がりの朝
五人は、それぞれの答えを胸に、静かに頷いた。 
「最後に、何か買っていくかい? 今夜だけは、ちゃんとした、正常な品を用意できるんだけどね」 
老婆が、いたずらっぽく笑った。 
五人は、顔を見合わせ、それから、ほとんど同時に、首を横に振った。 
「いえ」 
太郎が、代表するように言った。 
「今日は、何も買いません。俺たち、もう、近道は必要ないので」 
老婆は、心底嬉しそうに笑った。 
「それが、うちで一番いい買い物の仕方だって、みんな、ちゃんと分かってるんだねえ」 
五人は、店を出た。雨は、いつのまにか、小降りになっていた。 
「またお会いできますか」 
芽衣が振り返って尋ねると、老婆は、静かに首を振った。 
「この場所には、もう、来られないだろうね。でも」 
老婆は、五人の顔を、順に見つめた。 
「あんたたちが、これから先、誰かの『近道したい気持ち』に出会うことがあったら――そのときは、あんたたち自身が、あたしの代わりに、ちゃんと本当のことを、伝えてやっておくれ」 
五人は、それぞれに、深く頷いた。 
路地を出ると、雨は完全に上がっていた。夜明け前の空に、薄い雲の切れ間から、星がひとつ、瞬いていた。 
翌朝、五人がそれぞれ、もう一度あの路地裏を訪れてみると、そこにあったのは、古びたシャッターの下りた、ただの空き店舗だった。「±0螺子店」の看板も、十円玉の風鈴も、跡形もなかった。 
それから五人は、月に一度、示し合わせたように、あの路地裏近くの喫茶店に集まるようになった。互いの近況を報告し合い、時には、誰かが「近道したい気持ち」に負けそうになっていると、他の四人が、順番に、あの夜、老婆から聞いた言葉を、少しずつ分けて聞かせてやった。 
数年後のある雨の夜、順一は、仕事帰りに、ふと懐かしくなって、あの路地に足を向けてみた。空き店舗は、相変わらず、シャッターが下りたままだった。 
だが、ふと、少し離れた別の路地の奥に、小さな灯りが、ぽつんと灯っているのに気づいた。 
近づいてみると、木製の引き戸に、まだ真新しい、しかし見覚えのある字で、こう書かれていた。 
「±0螺子店」 
戸の隙間から、中の様子がうっすらと見えた。 
カウンターの向こうに座っていたのは、老婆ではなく、あの夜、母親のために店を訪れ、道具を買わずに立ち去った見覚えのある若い男の影だった。その膝の上には、元気に右手を挙げた、小さな招き猫の置物が乗っている。 
順一は、その横顔に、思わず息を呑んだ。 
だが、声をかけるのはやめておいた。誰かが、また同じ夜、同じ雨の中で、この店の戸を開けるのを、静かに待っているような気がしたからだ。 
順一は、傘も差さずに、その灯りに背を向けて、ゆっくりと歩き出した。 
雨は、もう、上がっていた。 





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あとがき
自分の力で歩むことの難しさと、その先にある確かな救い。この物語を通じて、読者の皆様の心が少しでも軽く、暖かくなっていただけたなら、とても嬉しく思います。

遠回りの人生も、決して捨てたものではありません。ふと立ち止まりたくなった夜に、またこの本を開いていただければ幸いです。