雨の夜だけ開く店 第六話
〜売らなかった螺子〜
まえがき
誰しも人生の中で、「もしもあの時」と過去を振り返ったり、「どうして自分だけ」と理不尽な運命を呪いたくなったりする夜があります。どうしても自力では抱えきれない迷いや焦りを抱えたとき、ふと逃げ込みたくなるような場所があったなら――そんな想いから、この物語は生まれました。
物語の舞台は、雨の夜にだけ開く「±0螺子店」です。
店に並ぶのは、一見すると奇妙な道具ばかり。しかし本当に人の心を救うのは、魔法のような道具そのものではなく、自分自身の心とどう向き合うかという「小さな気づき」です。
全六話を通し、それぞれの悩みを抱えた訪問者たちが、自分なりの答えを見つけていく姿を描きました。
雨の日の静かな夜に、温かいお茶でも飲みながら、彼らと一緒に路地裏の店を訪れるような気持ちでお楽しみいただければ幸いです。
序章 治せないもの
宮下涼(みやした・りょう)は、二十九歳。都内の総合病院で、看護師として働いている。
涼の母は、半年前に膵臓がんのステージ4だと診断された。担当医からは「積極的な治療をしても、余命は半年から一年」と告げられていた。看護師という職業柄、涼は誰よりもその言葉の意味を正確に理解していた。理解しているからこそ、余訳につらかった。
涼は、病棟で担当する患者たちには、いつも冷静に、優しく接することができた。「大丈夫ですよ」「一緒に頑張りましょう」と、心からの言葉をかけることができた。だが、自分の母のこととなると、その冷静さはあっけないほど簡単に崩れてしまう。
「涼、そんな辛気臭い顔しないの。まだ、そこまで悪くないんだから」
母はいつも明るく振る舞っていた。むしろ涼のほうが、母よりも先に泣きそうになる日が増えていた。
夜勤明けのある日、涼は母の検査結果を担当医から聞かされた。数値は思ったよりも早いペースで悪化していた。「ご家族としては、そろそろ心の準備もしておいたほうが……」という言葉を、涼はうわの空で聞いていた。
病院を出ると、雨が降っていた。傘を差す気力もなく、涼はふらふらと当てもなく歩き続けた。
──治せるものなら、なんでもいいから、治したい。
看護師として、たくさんの「治せない病」を見てきた。だからこそ、その言葉がどれほど無力で、それでも切実なものか、涼は誰よりも分かっていた。
気づけば、見知らぬ路地に迷い込んでいた。
第一章 願いを、口にする
路地の奥に、小さな灯りがぽつんと灯っていた。木製の引き戸に、達筆とも悪筆ともつかない字で、こう書かれている。
「±0螺子店」
涼は藁にもすがる思いで戸を引いた。あっけないほど軽く開いた。
「……いらっしゃい」
いつもより、少し掠れた声だった。カウンターの奥に座っていたのは、和装の老婆だった。膝の上には、右手をしっかりと挙げた小さな招き猫が乗っている。カウンターの端には、小さな木札が五枚、並べて置かれていた。「先客・雨宮太郎様」「先客・芽衣様」「先客・陸様」「先客・歩美様」「先客・順一様」。
「螺子屋さん、ですか」
「そうだよ。だが、今夜は、少し勝手が違うよ」
老婆は涼の顔を、じっと見つめた。
「あんたの願い、聞くまでもなさそうだねえ」
涼は堪えきれずに、声を震わせながら言った。
「母を、治してください。どんな道具でもいい。三百円で買えるなら、いくらでも払います」
老婆はしばらく黙り込んでいた。膝の上の招き猫が、心配そうに老婆の袖を小さく引いた。
「悪いが、それだけは、売れないよ」
第二章 境界線
「なんで、ですか」
涼は思わず声を荒げた。
「これまでの人たちには、道具を売ってきたじゃないですか。人の心を動かす道具があるなら、病気だって……! これまでの願いに比べたら、人の命を救いたいと思うことのどこが変なんですか!」
老婆は、静かに首を振った。
「あんたの願いは、変じゃないよ。むしろ、この世で一番、真っ当な願いさ。だからこそ、売れない」
「意味が分かりません」
老婆はカウンターの上に置いてあった帳面を、そっと開いた。
「うちの道具はね、あくまで生きてる人間の『心の在り方』を、多少強引に動かすためのものなんだ。人生の収支をゼロにするとか、もう一度だけチャンスを引き寄せるとか、そういう類のね」
「それが、母の病とどう違うんですか」
「違うんだよ。命そのものの長さを直接いじる道具は、この店では扱えない。それは……あたし自身が、大昔に一度だけ手を出して、取り返しのつかないことになった代物だからさ」
老婆は、愛おしそうに膝の上の招き猫の頭を優しく撫でた。
「あたしも昔、大切な人の病を、なかったことにしようとしたことがある。結果、その人は……人としての時間を、まともに刻めない体になっちまった。あんたの気持ちは、痛いほど分かる。分かるからこそ、絶対に同じ轍を踏ませるわけにはいかないんだよ」
涼は言葉を失った。
「じゃあ……俺は、どうすればいいんですか。指をくわえて、母が弱っていくのを、見てるしかないんですか」
老婆は優しく、しかしはっきりと言った。
「見てるだけじゃない。傍にいることは、できるだろう」
第三章 木札の話
涼が悔しさと悲しみで俯いていると、老婆はカウンターの端に並んだ五枚の木札を、指でそっと撫でた。
「せっかくだ。少しだけ、この木札の主たちの話を、聞いていくかい」
涼は力なく頷いた。
「太郎さんって人はね、生まれてこの方、一度も良いことがなかったと思い込んでた。人生の収支をゼロに戻す螺子を買ったんだが、結局、螺子なんかなくても、自分の足で立ってることに最後は気づいたのさ」
「芽衣さんって人はね、若い頃の栄光をもう一度だけ取り戻したくて、鈴を買った。でも、同じ場所に針を垂らし続けても二匹目は釣れないと気づいて、新しい川を探しに行った」
「陸さんって人は、二つの恋をどっちも失いたくなくて、根付を買った。二兎を追って体まで二つに分かれちまったが、結局、一羽をちゃんと選び取ることで、本当の意味でその一羽と向き合えるようになった」
「歩美さんって人はね、職場の不公平に苦しんで、天秤を買った。誰かを引きずり下ろすんじゃなく、自分の重さで立つことを選んだ」
「順一さんって人は、いつまでも自分の番が来ないことに苛立って、追い越し券を買った。でも結局、番ってのは待つもんじゃなく、自分で作りに行くもんだって気づいたのさ」
老婆は木札から涼へと視線を移した。
「五人とも、共通してることがあるのに、気づくかい」
涼はしばらく考えてから、静かに答えた。
「……誰も、本当に欲しかったものは、道具じゃなかった、ってことですか」
「そうさ。道具はいつだって、きっかけにすぎない。本当に必要だったものは、みんな、自分自身の中に最初からあったんだよ」
第四章 傍にいるということ
「でも」
涼は絞り出すように言った。
「母の場合は、違います。俺がどんなに強くなっても、母の病気は治らない。俺の中に、答えなんてないんです」
老婆は静かに頷いた。
「その通りさ。病そのものは、あんたの心の在り方じゃどうにもならない。だが、あんたがこの先の時間をどう過ごすかは、あんた次第だ」
老婆は涼の目を、まっすぐに見つめた。
「あんた、看護師なんだろう。患者さんに、いつもどう接してる?」
「……できるだけ、普段通りに。深刻な顔をしすぎないように、心がけてます」
「じゃあ、なんで、自分の母親にはそれができないんだい」
涼は答えに詰まった。
「怖いんだろう。母親を失うことが。だからつい、治すことばかり考えて、今、一緒にいられる時間から目を逸らしちまってる」
老婆の言葉は静かだったが、涼の胸に深く突き刺さった。
「あんたが本当にすべきなのは、治せない病を無理やり治すことじゃない。治せないと分かってるからこそ、残された時間をどう大切に過ごすか。それを考えることなんじゃないのかい」
涼の目から、堪えていた涙がひとすじこぼれ落ちた。
「……俺、ずっと、母の前で笑ってるふりをしてました。弱いところ、見せたくなくて」
「それも必要なときはあるだろうさ。だが、たまにはちゃんと弱いところも見せておやり。あんたの母親は、あんたが思ってるよりずっと、強い人のはずだよ」
終章 もうひとつの贖罪
涼は財布を取り出さないまま、静かに頭を下げた。
「今日は、何も買わずに帰ります。でも、話を聞いてもらえて良かったです」
老婆は優しく笑った。
「それでいい。あんたは今夜、うちで一番いい客だったよ。金は一銭も使わずにね」
涼が店を出る間際、老婆はふと呟いた。
「ありがとうね。あんたのおかげで、あたしもようやく分かったよ」
「……何がですか?」
涼が振り返ると、老婆は膝の上の招き猫を優しく撫でながら、静かに微笑んだ。
「あたしが本当に償わなきゃいけなかったのは、道具を売って人を助けることだけじゃなかった。同じ過ちを、二度と誰にも繰り返させないこと。それも大事な役目だったのさ。今夜、あんたに何も売らずに帰したこと――それがあたしにとって、最後の、そして一番大事な贖罪だったのかもしれないねえ」
涼にはその言葉の本当の意味はよく分からなかった。ただ、老婆の横顔がどこか憑き物が落ちたように穏やかに見えたことだけは、はっきりと覚えていた。
雨はいつのまにか小降りになっていた。涼は傘も差さずに夜道を歩きながら、携帯電話を取り出し、母にメッセージを送った。
「明日、休み取れたから、一緒に出かけない? 前に行きたいって言ってた、あの温泉」
すぐに母から返信が来た。
「あら、珍しい。いいわね、行きましょう」
涼はその短いやり取りに、少しだけ救われた気がした。
*
その夜遅く、路地裏の店では、老婆が静かに帳面を閉じていた。招き猫が膝から飛び降り、カウンターの上に上がると、老婆の手にそっと頭をすり寄せる。
「これで、ちゃんと終われそうだね」
老婆は窓の外の雨音に耳を澄ませながら、小さく息をついた。そして残されたほんのわずかな力を振り絞るようにして、静かに目を閉じた。
路地裏を照らしていた小さな店の灯りが、静かに、しかしどこか温かく消えていく。
その夜、遠く離れた場所で、五人の人間がほとんど同時に同じ夢から目を覚ますことになる。
雨宮太郎は、耳の奥で「ちりん」という音を聞いた気がして。
芽衣は、赤銅色の鈴の音を夢の中で聞いた気がして。
陸は、右手のひらに根付の感触を思い出して。
歩美は、天秤が傾く音を耳の奥で聞いた気がして。
順一は、古びた整理券の紙の匂いをふと思い出して。
それぞれの胸に、根拠のない同じ予感が灯った。
──あの店、まだあるんだろうか。
老婆の最後の力は、道具を売ることではなく、五人をもう一度だけあの場所へ呼び戻すことに使われた。それは彼女なりの、感謝のかたちだったのかもしれない。
(了)
Amazon Kindle
あとがき
「±0螺子店」にやってくるお客たちは、皆それぞれに思い悩み、立ち止まり、誰かや何かに救いを求めようとしていました。けれど彼らが最後に手に入れたのは、特別な道具の効果そのものではなく、「自分の力で一歩を踏み出す覚悟」でした。
ここで描いた「病」や「生きている時間」というテーマは、私自身にとっても非常に深く、大切な問いかけでした。形あるものはいつか変わり、大切な人との時間には限りがあります。だからこそ、今目の前にある日常や、傍にいてくれる人の温もりを大切に重ねていきたい――そんな願いを込めて一筆一筆を紡ぎました。
この作品が、読んでくださったあなたの心にほんの少しでも寄り添い、雨の日の夜に灯るあたたかなあかりのような存在になれたとしたら、とても嬉しく思います。

