雨の夜だけ開く店 第五話
〜追い越し券〜
まえがき
誰かの後ろに静かに並び、自分の順番が巡ってくるのをじっと待ち続ける。そんな経験は、誰にでもあるのではないでしょうか。
真面目に努力していれば、いつか報われる。順番が回ってくる。そう信じて疑わない人ほど、後から来た誰かに軽々と追い越されたとき、心の中に深い溜め息を抱え込んでしまうものです。
本作の主人公・待野順一もまた、そんな葛藤の中に生きる一人です。
効率やアピールが重視される現代社会において、「真面目に待つこと」の切なさと、そこから一歩踏み出す勇気について描きました。
雨の日の静かな夜に、温かいお茶でも飲みながら、順一と一緒に自分だけの「道」を見つめ直していただければ幸いです。
序章 そろそろ、俺の番だろう
待野順一(まちの・じゅんいち)は、三十五歳になった今も、口癖のように「そろそろ、俺の番だろう」とつぶやく癖が抜けなかった。
新卒で入った建設資材メーカーの営業部で、順一は十三年間、真面目に働いてきた。無遅刻無欠勤、飲み会の幹事も率先して引き受け、後輩の指導も嫌な顔ひとつせずにこなしてきた。上司からは「順一は真面目でいいやつだ」と、いつも褒められる。
だが、係長への昇進の話は、いつも順一の一つ前で止まってしまうのだった。
三年前は、同期の中で一番社歴の浅い男が抜擢された。「若手の抜擢も必要だから」というのが理由だった。去年は、中途採用で入ってきたばかりの女性が昇進した。「即戦力が必要だから」というのが理由だった。今年こそは、と思っていた矢先、今度は他部署からの異動組が、順一の頭越しに係長のポストに座った。「部署間の連携強化のため」という、これまた順一には直接関係のない理由だった。
「順一くん、真面目にコツコツやってれば、そのうち順番が回ってくるよ」
上司にそう言われるたびに、順一は「はい」と頷きながら、心の中で暗い溜め息をついていた。
──そのうち、っていつだよ。順番って、一体誰が決めてるんだ。
恋愛でも、似たようなことが続いていた。学生時代からの友人たちは、次々と結婚し、子どもを授かっていく。順一にも、これまで何度か交際の機会はあった。だが、いつも「もう少し様子を見よう」「そのうち関係が深まるだろう」と待っているうちに、相手には別の人が現れ、気づけば取り残されていた。
順一は二十代の頃、一度だけ交際が長続きした相手がいた。
『一度くらい良いことがあってもいいはずだ』――そう思っていたはずなのに、プロポーズを先延ばしにしているうちに相手から見切りをつけられ、別れることになった。あれ以来、「そろそろ」という言葉が、順一の中でどんどん重く押し込めていくようになった。
いずれにせよ、その「そろそろ」は、まだ一度も本当の形になったことがない。順一はそう思いながら、今日もまた、自分を追い越していった後輩の昇進祝いの飲み会に、幹事として参加していた。
「順一さん、今度こそ、次は順一さんの番ですよ!」
後輩たちにそう励まされるたびに、順一は愛想笑いを浮かべながら、心のどこかで、その言葉をもう何百回聞いただろう、と虚しく数えていた。
雨の降る夜、飲み会の帰り道、順一はいつもと違う道を選んで歩いていた。頭を冷やしたい気分だった。
気づけば、見知らぬ暗い路地に迷い込んでいた。
第一章 追い越し券を売る店
路地の奥に、小さな灯りがぽつんと灯っていた。木製の引き戸に、達筆とも悪筆ともつかない字で、こう書かれている。
「±0螺子店」
順一は雨宿りのつもりで戸を引いた。あっけないほど軽く開いた。
「いらっしゃい」
カウンターの奥に座っていたのは、和装の老婆だった。膝の上には、右手をしっかりと挙げた招き猫の置物が乗っている。カウンターの端には、小さな木札が四枚、並べて置かれていた。「先客・雨宮太郎様」「先客・芽衣様」「先客・陸様」「先客・歩美様」。
「螺子屋さん、ですよね」
「そうだよ。だが、あんたが欲しいのは、螺子じゃないねえ」
老婆はカウンターの下から、小さな紙の券を取り出した。古びた整理券のような見た目で、表には「特」の文字が、赤い判子で押されていた。
「これは『追い越し券』。あんたが並んでる『順番待ちの列』を、まとめて何人分か、追い越させてくれる道具さ」
順一は思わず身を乗り出した。
「追い越せる……本当に、俺の番が、早く来るんですか」
「来るとも。だが、忠告しておくよ」
老婆は、金色の目を細めた。
「列ってのはね、誰かが前に進めば、その分、誰かが後ろに下がる。追い越すってのは、そういうことなんだ。あんたの番が早く来る分、誰かの番が、その分だけ遠のく」
順一は、少し躊躇した。だが、この十三年間の悔しさと焦燥感が、その躊躇をあっさりと押し流した。
「三百円だよ」
順一は財布から、百円玉を三枚取り出した。
「使い方は?」
「その券を、財布の中にでも入れておくといい。あとは勝手に、あんたの番が、するすると前に進んでいく」
第二章 早く来た順番
家に帰った順一は、券を財布に入れ、そのまま眠りについた。
翌朝、出社すると、すぐに部長に呼び出された。
「順一、来月から係長な。上からも、そろそろお前の番だろうって話が出ててな」
順一は、自分の耳を疑った。あれほど待ち続けた言葉が、あっけないほど簡単に目の前に現れたのだ。
その日を境に、順一の人生は、まるで早送りのように動き始めた。
昇進の話が正式に決まった翌週、順一は取引先の紹介で、ある女性と出会った。会って三度目のデートで、相手のほうから「私たち、そろそろ真剣に将来のこと、考えない?」と切り出された。順一が長年待ち続けていた言葉が、今度は恋愛の場面でも、向こうから飛び込んできたのだった。
最初の数日、順一は舞い上がっていた。ずっと待ち続けていたものが、次々と手に入っていく。「棚から牡丹餅」という感覚とともに、「いや、俺はこれまで真面目に努力してきたんだから、これくらい報われて当然なんだ」と自分に言い聞かせ、誇らしい気持ちに浸っていた。
しかし、五日目の朝、職場で異様な事態に気づいた。
昇進したはずの同僚――去年、他部署から異動してきて係長になった男――が、朝礼で突然、降格を言い渡されていたのだ。理由は「引き継ぎの過程で重大なミスが発覚したため」という、これまでなら見過ごされていたはずの些細な不備だった。男は呆然とした顔で、順一のほうをちらりと見つめた。
さらに、順一の交際相手にも奇妙な影が差し始めた。彼女は以前、別の男性と交際していたのだが、その元交際相手が突然「もう一度、やり直したい」と執拗に連絡を寄越すようになったという。彼女は困惑した様子で、「なんだか急に、あの人が私を追いかけ始めたの」と順一に打ち明けた。
「……順番が、狂ってる」
順一は背筋に冷たいものを感じながら、そう呟いた。
第三章 整列が崩れる町
その週末、順一の周囲だけでなく、町全体で奇妙な「順番の乱れ」が相次ぎ始めた。
通勤途中に見かけた町内の総合病院では、緊急外来の受付順がなぜか次々と入れ替わってしまうという混乱が起きていた。先に受付を済ませて辛そうに待っていた患者が、後から来た軽症の患者に何人も追い越され、一向に治療の順番が回ってこない。看護師たちは「システムが誤作動している」と青ざめていたが、原因は分からないままだった。
駅のホームでも、電車を待つ整然とした列が勝手に順序を変え始めた。整列していた乗客たちが電車が到着するたび、不可解な力で列の後方に押しやられ、後からやってきた人が先に滑り込んでいく。乗客同士の喧嘩が勃発し、駅員が対応に追われていた。
保育園の前を通れば、順番にブランコを使うはずの子どもたちの間で、同じ子が何度も順番を「追い越して」しまう珍事が起き、保育士たちが首をかしげていた。
そして極めつけは、順一の勤める会社で起きた悲劇だった。
順一が係長になった部署で部下として働くことになった、去年降格したばかりの元係長が、ある日突然、取引先とのトラブルの責任をすべて押し付けられる形で退職に追い込まれてしまったのだ。その男は荷物をまとめて去る際、順一に向かってこう静かに言った。
「お前が悪いわけじゃないのは分かってる。でも、なんでだろうな。お前が前に進むたびに、俺だけが、どんどん後ろに下がって影の中に押し込められていく気がするんだ」
順一は胸を強く突かれ、言葉を失った。
その夜、順一の部屋のインターホンが鳴った。扉を開けると、そこには黒いスーツを着た、猫の耳のような髪飾りをつけた若い女性が立っていた。名刺には「幸運管理局 運勢調整課 三日月」と書かれていた。
「順一様。単刀直入に申し上げます。『追い越し券』の効果が、想定を超えた範囲にまで及んでいます」
第四章 順番という名の綱
三日月は順一を近所の静かな児童公園へ案内した。公園の隅にある自動販売機の陰には、右手をしっかりと挙げた招き猫の置物が置かれていた。
「本来、『追い越し券』は、装着者ご本人がごく個人的な事情で足踏みしていた『たったひとつの順番』を、周囲に大きな影響を与えない範囲で少しだけ前倒しにするための道具です。たとえば、混雑したレストランの席を五分だけ早く案内してもらう、といった程度の効果にとどまるはずでした」
「それが……どうしてこんなことに」
「今回、券の製造過程で不具合が生じ、順一様お一人の『そろそろ、俺の番だろう』という積年の強い思いが、周囲一帯のあらゆる『順番』を無差別に繰り上げようとする力に変質してしまいました。簡単に申し上げますと――」
三日月は、少し疲れたような顔で続けた。
「順番というのは、目には見えない一本の綱のようなものです。誰かが前に進めば、その分、必ず誰かが後ろに引っ張られる。今、この町では、順一様が前に進むたびに、その分の『しわ寄せ』が、無関係な誰かに一方的に押し付けられ続けています」
順一は、拳を強く握りしめた。
「俺は、ただ……自分の番がいつまでも来ないことに、疲れてたんです。頑張っていればいつかは順番が回ってくるって、ずっと信じてました。でも、その『いつか』があまりにも遠くて」
「お気持ちは、痛いほど理解できます」
三日月は静かに言葉を返した。
「ですが、券が繰り上げているのは順一様の『番』だけではありません。順一様が追い越すたびに、その分、誰かの『番』が永遠に来なくなる可能性もあるのです。病院の事例のように、命に関わる順番まで無差別に狂わされ始めています」
第五章 列に、戻る
「教えてください」
順一は三日月を直視して言った。
「券を返せば、俺の昇進も、彼女との関係も、全部、元に戻りますか」
「元に戻ります。順一様は再びこれまで通りの、係長になれない立場に戻り、交際関係も白紙に戻る可能性が高いです」
順一はしばらく目を閉じ、夜の静けさの中で深く息を吐いた。
「……それでも、返します」
三日月は少し意外そうな顔をしたあと、静かに尋ねた。
「よろしいのですか。またあの、報われない日々に戻ることになりますが」
「はい」
順一は、はっきりと頷いた。
「この一週間で、よく分かったんです。俺、ずっと『そろそろ俺の番だろう』って、順番が回ってくるのをただ待ってました。でも、本当は順番なんてものは、誰かが決めて勝手に回してくれるものじゃなかったんだと思います」
順一は言葉を噛みしめるように続けた。
「俺が本当にすべきだったのは、列の前のほうに無理やり割り込むことじゃなくて、自分から列を抜けて、新しい道を探すことだったのかもしれません。誰かを押し退けなきゃ前に進めない場所にずっと立ち続けてたこと自体が、間違いだったんです」
三日月は、小さく満足そうに頷いた。
「わかりました。処置いたします」
三日月が懐から取り出したのは、小さな銀色の工具のようなものだった。順一が財布から取り出した券を差し出すと、三日月はためらいなく券の端に触れた。
かちり、と澄んだ金属音が響いた。券はそのまま淡い光の粒となって、夜の空気に溶けるように消えていった。
終章 自分の足で、進む
翌朝、順一は部長に呼び出され、係長昇進の話が正式に取り消されたことを告げられた。「悪いな、上の意向で急に変更があってな」と部長は申し訳なさそうに頭を下げた。順一は「いえ、大丈夫です」と穏やかな笑顔で答えた。
交際相手との関係も、あっさりと終わりを迎えた。彼女は元の恋人とやり直す決断をしたという。順一の心に悔しさはなく、不思議なほどすっきりとした納得感だけがあった。
数日後、順一は自分から部長に声をかけた。
「昇進の順番を待つだけじゃなくて、資格を取ったり、新しい企画を提案したり、自分から積極的に動いてみたいんです」
部長は一瞬驚いた顔を見せた後、「そうか……それは頼もしいな」と、これまでになく温かい眼差しで順一を評価してくれた。
会社を去った元係長の男には、後日、順一から連絡を取って飲みに行った。「あの時はすみませんでした」と頭を下げると、男は「お前のせいじゃないさ」と笑い、「実は昔からの夢だった独立に向けて、新しい事務所を開く準備を始めたんだ。自分の足でやり直すよ」と晴れやかな顔で語ってくれた。彼もまた、既存の列を抜け出し、自分の道を進み始めていたのだ。
数か月後の雨の夜、順一は仕事帰り、あの路地裏を通りかかった。
「±0螺子店」の木製看板が、また小さく灯っていた。
「よう、久しぶりだね」
老婆はカウンターの向こうで、相変わらず招き猫を膝に乗せて座っていた。カウンターの端の木札には、「先客・雨宮太郎様」「先客・芽衣様」「先客・陸様」「先客・歩美様」に並んで、新しく「先客・順一様」の一枚がしっかりと加わっていた。
「あの券、大変な騒ぎになりましたよ」
「聞いたよ。すまなかったね、また不良品を売っちまって」
老婆は悪びれる様子もなく、目を細めて笑った。
「そういえば、ずっと気になってたんですけど」順一は尋ねた。「この店、なんで『順番を早める券』を売ってるんですか。それも、いつも不良品ばかり」
老婆は招き猫の頭を優しく撫でながら答えた。
「順番ってのはね、待っていれば来るもんでも、誰かを追い越して奪うもんでもないんだよ。自分の足で、次の列を探しに行く。そのための、ちょっとした後押しをしてるだけさ。まあ、後押しが強すぎて、いつも壊れちまうんだけどね」
順一は思わず苦笑した。
「今日は何を買いに来たんだい」老婆が尋ねた。
順一は静かに首を振った。
「今日は何も買いません。ただ、ちゃんと自分の足で新しい列を探せてるか、確かめに来ただけです」
老婆は満足そうに目を細めた。
「それは、うちで一番いい買い物の仕方だね。金がかからない」
順一は店を出て、あえて傘を差さずに夜空を見上げた。雨は静かに降り続いていたが、その雫すら心地よく、足取りは驚くほど軽かった。
『そろそろ、俺の番だろう』
その言葉は、もう順一の口癖ではなくなっていた。代わりに、心の中で力強くこう誓っていた。
──俺の番は、待ってて来るもんじゃない。自分で、作りに行くものだ。
順一は、雨の街へまっすぐ前を向いて歩き出した。
(了)
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あとがき
最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。
「順番を待つ」ということは、一見すると謙虚で美しい姿に見えますが、時に自分自身の可能性や選択肢を「他者任せ」にしてしまう罠でもあります。
主人公の順一が最後に見つけた答えは、「他人の作った列で割り込むこと」ではなく「自分の足で新しい列を作りに行くこと」でした。
人生の様々な場面で「自分の番が来ない」と焦ったり落胆したりしている方に、少しでも温かい励ましとなれば幸いです。
また、本作は「雨の夜だけ開く店」シリーズの第五話にあたります。カウンターに並んだ木札(雨宮太郎様、芽衣様、陸様、歩美様)のように、不思議な螺子店を訪れた他の客たちの物語も続いておりますので、機会がございましたら併せてお楽しみいただければ嬉しい限りです。

