雨の夜だけ開く店 第四話 
〜平等の天秤〜


まえがき
人は誰しも、生きている中で一度は「不公平だ」と心の中で叫んだことがあるのではないでしょうか。
同じように努力をし、同じように汗を流しているはずなのに、生まれ持った環境や、巡り合わせ、あるいは要領の良さひとつで、スタートラインも結果も大きく隔たってしまう。そんな世の中の理不尽に突き当たったとき、「すべてが平等になればいいのに」と願ってしまうのは、ごく自然な人間の感情かもしれません。
本作『平等の天秤』は、そうした日常のささやかな苛立ちや不満を抱える主人公・高橋歩美が、不思議な道具と出会う物語です。
もしも本当に、あらゆる格差や差を「均してしまう道具」が存在したら、世界はどうなるのか。そして、私たちが本当に欲している「平等」とは何なのか──。物語を通して、読者の皆様とともに静かに見つめ直す機会となれば幸いです。




序章 軽く口にする「平等」
高橋歩美(たかはし・あゆみ)は、三十二歳になった今も、「平等」という言葉を誰かが軽い調子で口にするたびに、静かに苛立ちを覚えていた。
歩美は、都内の中堅商社で営業事務を担当している。入社十年、遅刻も欠勤もほとんどなく、資格試験にも自費で挑戦し、後輩の面倒見も良い。上司からの評価も、口頭では悪くない。「歩美さん、いつも頑張ってるよね」とよく言われる。
だが、なぜか昇進の話は、いつも歩美を素通りしていく。
同期入社の遠藤という男は、歩美よりも明らかに仕事は雑で、ミスも多い。しかし、遠藤の父親が取引先の重役と旧知の仲だという理由だけで、若くして係長に抜擢された。歩美が徹夜で仕上げた資料を、遠藤は会議で自分の手柄のように発表することもあった。
「まあ、世の中そんなもんだよ。頑張っていれば、いつか報われるさ」
同僚たちは、そう言って歩美を慰める。だが、歩美はいつも、心の中でこう思っていた。
──いつか、っていつだよ。頑張ってる人が全員報われるなら、この世に不公平なんて言葉、存在しないはずでしょう。
生まれ育った環境も、歩美の中では、ずっと引っかかっている棘だった。遠藤の家は裕福で、幼い頃から塾や習い事に不自由しなかったという。歩美の家は、両親が共働きでぎりぎりの生活をしていて、大学の学費も、自分でアルバイトをしながら工面した。
「生まれ持った環境は、一生ついて回る」
歩美は、そう独りごちるのが癖になっていた。すでに差があるスタートラインに立たされていながら、「頑張れば平等にチャンスがある」などと軽々しく言われることに、心底うんざりしていた。
その日も、遠藤が歩美の作った資料を手柄顔で発表するのを、歩美は会議室の隅で黙って見ていた。会議が終わったあと、上司から「歩美さんも、もう少し前に出ていくといいのに」と悪気なく言われ、歩美の中で何かがぷつりと切れる音がした。
雨の降る夜、歩美は残業を終え、傘も差さずに会社を飛び出した。頭を冷やしたくて、いつもと違う道を選んで歩いた。
気づけば、見知らぬ路地に迷い込んでいた。



第一章 天秤を売る店
路地の奥に、小さな灯りがぽつんと灯っていた。木製の引き戸に、達筆とも悪筆ともつかない字で、こう書かれている。
「±0螺子店」
歩美は雨宿りのつもりで戸を引いた。あっけないほど軽く開いた。
「いらっしゃい」
カウンターの奥に座っていたのは、和装の老婆だった。膝の上には、右手をしっかりと挙げた招き猫の置物が乗っている。カウンターの端には、小さな木札が並べて置かれていた。「先客・雨宮太郎様」「先客・芽衣様」「先客・陸様」。
「螺子屋さん、ですよね」
「そうだよ。だが、あんたが欲しいのは、螺子じゃないねえ」
老婆はカウンターの下から、小さな真鍮の天秤を取り出した。手のひらに乗るほどの大きさで、左右の皿がわずかに揺れている。
「これは『平等の天秤』。あん人と、あんたが不公平だと思ってる誰かとの間で、釣り合いを取ってくれる道具さ」
歩美は思わず身を乗り出した。
「釣り合いって……」
「あんたの努力と、あいつの手柄。あんたの苦労と、あいつの気楽さ。天秤に乗せれば、傾いた分だけ、勝手に均してくれる」
老婆は、金色の目を細めた。
「ただし、忠告しておくよ。天秤ってのは、乗せたものを『同じ重さ』にすることしかできない。何が正しくて、何が間違ってるか、そんなことまでは分からない道具なんだ。使い方を間違えると、とんでもないことになる」
歩美は、遠藤の顔を思い浮かべた。あの、悪びれもせず自分の手柄を語る顔。あの顔が、少しでも「均される」ところを見てみたいと思った。
「三百円だよ」
歩美は財布から、百円玉を三枚取り出した。
「使い方は?」
「その天秤の皿の片方に、あんたの名前を書いた紙切れを乗せる。もう片方に、均したい相手の名前を書いた紙切れを乗せる。あとは、天秤が勝手に、釣り合いを取り始める」



第二章 傾き始める町
家に帰った歩美は、メモ用紙を二枚ちぎり、片方に「高橋歩美」、もう片方に「遠藤」と書いた。そして、それぞれを天秤の皿に乗せた。
天秤は、最初、大きく歩美側に傾いた。まるで、これまでの歩美の苦労の重みを、正直に映し出しているかのようだった。歩美はその傾きを見て、少し胸がすく思いがした。
しかし、次の瞬間、天秤はゆっくりと動き始め、やがてぴたりと、水平になった。
「……これで、いいのかな」
歩美は半信半疑のまま、天秤をそっと棚の上に置いて、眠りについた。
翌朝、出社した歩美は、社内の様子が明らかにおかしいことに気づいた。
まず、遠藤の机の上に、大量の未処理案件のファイルが積み上がっていた。聞けば、これまで歩美が代わりにこなしていた雑務が、なぜか一夜にして、すべて遠藤の担当に戻されていたのだという。逆に、歩美の机には、これまで遠藤が「自分の手柄」として発表していた案件の企画書が、正式に歩美の名義で回ってきていた。
「なんか知らないけど、上のほうで急に担当割り振りが変わったらしいよ」
同僚がそう教えてくれた。歩美は、天秤の効果だと直感した。
その日を境に、歩美と遠藤の立場は、少しずつ、しかし確実に入れ替わり始めた。遠藤が普段避けていた地味な作業を回され、歩美がこれまで日の目を見なかった企画に、正当な評価が与えられるようになった。
最初のうちは、歩美にとって「ざまあみろ」と思えるような、小気味よい展開だった。しかし、三日目になると、事態は歩美の想像を超えて広がり始めた。
遠藤の父親が経営する会社が、突然、取引先との契約をいくつも打ち切られたのだ。理由は「担当者の対応に不備があった」という、これまでなら握りつぶされていたはずの些細な苦情だった。逆に、歩美の実家では、長年赤字続きだった父の小さな工場に、急に大口の受注が舞い込んだ。
町内では、他にも奇妙な「釣り合い」が起き始めていた。



第三章 均され続ける町
その週末、町内では、奇妙な出来事が相次いだ。
裕福な家庭の子どもが通う私立小学校では、突然、給食費の未払いが多発し、逆に、これまで奨学金でぎりぎり通っていた子どもたちの家庭に、なぜか身に覚えのない臨時収入が振り込まれた。
町内の不動産では、日当たりの良い高級マンションの一室と、日当たりの悪い古い賃貸アパートの一室とで、なぜか住人の記憶や持ち物が、少しずつ入れ替わり始めているという奇妙な噂が広まった。実際に、高級マンションの住人が「なぜか安物の家具にしか愛着が持てなくなった」と証言し、逆にアパートの住人が「急に高級な絵画の目利きができるようになった」と首をかしげていた。
駅前の商店街では、繁盛している老舗の和菓子屋と、閑古鳥が鳴いていた新しいカフェとの間で、客足が奇妙に均され始めた。和菓子屋の常連客が、なぜか急にカフェに足を運ぶようになり、逆にカフェの客が、和菓子屋の暖簾をくぐるようになった。
町の人々は、最初こそ「なんだか最近、いろいろ巡り合わせがいいような、悪いような」と、のんびり噂話をしていた。しかし、次第に、あまりにも露骨な「入れ替わり」に、不安を覚え始めていた。
そして、決定的な事件が起きた。
町内の総合病院で、経験豊富なベテラン外科医と、まだ経験の浅い若手医師との間で、手術中に突然、手の感覚と判断力が入れ替わってしまうという事故が起きたのだ。幸い、周囲の医療スタッフの機転で大事には至らなかったが、ベテラン医師は「まるで、自分の腕が、急に他人のものになったようだった」と、青ざめた顔で語った。
歩美は、その日のニュースを見て、血の気が引いた。
「……私のせいだ」
その夜、歩美の部屋のインターホンが鳴った。開けると、そこには黒いスーツを着た、猫の耳のような髪飾りをつけた若い女性が立っていた。名刺には「幸運管理局 運勢調整課 三日月」とあった。
「歩美様。単刀直入に申し上げます。『平等の天秤』の効果が、想定を超えた範囲にまで及んでいます」



第四章 均すことと、認めること
三日月は、歩美を近所の児童公園のベンチに案内した。公園の隅の自動販売機の陰には、右手をしっかりと挙げた招き猫の置物が置かれていた。
「本来、『平等の天秤』は、装着者ご本人と、特定の一人との間にある、ごく個人的な『納得のいかなさ』を、当事者二人の間だけで、緩やかに均すための道具です。たとえば、長年こき使われてきた部下と、楽をしてきた上司との間で、一日だけ立場を入れ替えて、互いの苦労を体感させる、といった程度の、限定的な効果にとどまるはずでした」
「それが……」
「今回、天秤の製造過程で不具合が生じ、歩美様お一人の『不公平だ』という感情が、周囲一帯のあらゆる格差を、無差別に均しようとする力に変質してしまいました。簡単に申し上げますと──」
三日月は、少し疲れたような声で続けた。
「今、この町では、努力や才能、積み重ねてきた経験の違いまでもが、意味のあるものとして扱われなくなりつつあります。裕福な家庭も、貧しい家庭も、優れた技術を持つ人も、そうでない人も、すべてが強制的に『同じ重さ』へと均されようとしています」
歩美は、俯いた。
「私、遠藤に、ちょっと痛い目を見てほしかっただけなんです。私が積み上げてきた努力を、あいつが横取りするのが、許せなかった」
「お気持ちは、理解できます」
三日月は、静かに言った。
「ですが、天秤が均しようとしているのは、遠藤様の『ずるさ』だけではありません。歩美様がこれまで積み重ねてきた『努力そのもの』も、天秤にとっては、単なる『重さ』のひとつにすぎないのです。ズルい手柄だけじゃなく、自分が苦労して積み上げた価値まで削られてしまう……このまま放置すれば、いずれ歩美様ご自身の努力の記憶や、そこから得た自信までもが、周囲と均され、意味を失っていくでしょう」
「……努力の記憶が、なくなる?」
「平等というのは、本来、誰もが同じ出発点に立てる『機会』を指す言葉のはずです。しかし天秤は、出発点だけでなく、その後の道のりや、そこで積み上げたものまで、すべて均そうとしてしまいます。それは、平等ではなく、単なる均一化です」



第五章 天秤を、外す
「教えてください」
歩美は言った。
「天秤を外せば、遠藤の家族が受けた不利益も、私の実家の受注も、全部、元に戻りますか」
「元に戻ります。遠藤様は、再びこれまで通りの立場に戻り、歩美様は、再び正当に評価されない日々に戻る可能性が高いです」
歩美は、拳を握りしめた。
「それでも、外してください」
三日月は、少し驚いたような顔をしたあと、静かに尋ねた。
「よろしいのですか。またあの、報われない日々に戻ることになりますが」
「はい」
歩美は、はっきりと言った。
「この一週間で、分かったことがあるんです。私、遠藤に、私と同じ苦労をしてほしかった。でも、それって結局、遠藤を均したいんじゃなくて、私の苦労を、誰かに分かってほしかっただけなんだと思います」
歩美は、続けた。
「天秤は、私の努力と、遠藤のずるさを、同じ重さにしてしまいました。でも、それじゃダメなんです。私の努力は、遠藤のずるさとは、違う種類のものだから。同じ重さにされたら、私の努力そのものが、意味をなくしてしまう」
歩美は、公園の街灯を見上げた。
「私が本当に欲しかったのは、遠藤を引きずり下ろすことじゃなくて、私の努力を、私の努力として、ちゃんと見てもらうことだったんです。天秤で均すんじゃなくて、正当に評価される道を、自分で探すべきだったんだと思います」
三日月は、小さく頷いた。
「わかりました。処置いたします」
三日月が懐から取り出したのは、小さな工具だった。歩美が天秤を差し出すと、三日月はためらいなく、天秤の中心にある小さな留め具を外した。
かちり、と澄んだ音がした。



終章 自分の重さで立つ
翌朝、町の様子は、少しずつもとに戻っていった。遠藤は再び係長として振る舞い始め、歩美の実家の工場は、また元通り、ぎりぎりの経営状態に戻った。ニュースでは、病院の一件について「一時的な人為的ミスだった」という、あっさりとした続報が流れた。
歩美は、悔しさがなかったと言えば嘘になる。だが、なぜか、以前より少しだけ、心が軽かった。
数日後、歩美は思い切って、上司に直談判をした。「これまで自分が担当してきた案件の実績を、正式に評価してほしい」と。すぐに結果が出たわけではなかったが、上司は初めて、歩美の話を最後まで、真剣に聞いてくれた。
遠藤との関係は、劇的には変わらなかった。ただ、歩美は、遠藤の手柄を黙って見過ごすのをやめ、必要なときには、はっきりと「それ、私が作った資料です」と言うようになった。小さな変化だったが、歩美にとっては、大きな一歩だった。
数か月後の雨の夜、歩美は残業帰り、あの路地裏を久しぶりに通りかかった。
「±0螺子店」の看板が、また灯っていた。
「よう、久しぶりだね」
老婆はカウンターの向こうで、相変わらず招き猫を膝に乗せていた。カウンターの端の木札には、「先客・雨宮太郎様」「先客・芽衣様」「先客・陸様」に並んで、新しく「先客・歩美様」の一枚が加わっていた。
「あの天秤、大変な騒ぎになりましたよ」
「聞いたよ。すまなかったね、また不良品を売っちまって」
老婆は悪びれる様子もなく笑った。
「そういえば、ずっと気になってたんですけど」
歩美は尋ねた。
「この店、なんで『平等』を売らずに、『天秤』なんて回りくどいものを売るんですか」
老婆は、金色の目を細めて笑った。
「平等ってのはね、誰かが誰かに与えるもんじゃないんだよ。天秤は、傾きを見せてやることしかできない。そこから先、どう釣り合いを取るかは、結局、自分の手でやるしかないのさ」
歩美は、その言葉を、しばらく黙って噛みしめた。
「今日は何を買いに来たんだい」
老婆が尋ねた。
歩美は首を振った。
「今日は、何も買いません。ただ、自分の重さで、ちゃんと立ってられてるか、確かめに来ただけです」
老婆は目を細めて笑った。
「それは、うちで一番いい買い物の仕方だね。金がかからない」
歩美は店を出て、傘を差さずに、少しだけ夜空を見上げた。雨はまだ降っていたが、不思議と、足取りは軽かった。
生まれ持ったスタートラインの差は、誰かの天秤で、簡単に均せるものではない。
けれど、その差をどう受け止め、自分の重さで、どこへ向かって歩き出すかだけは、いつだって、自分で選べる。
歩美は、そう思いながら、まっすぐ前を向いて、家路についた。

(了)


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あとがき
連作短編『雨の夜だけ開く店』シリーズも、第四話となりました。これまでの物語を通してお付き合いいただいている読者の皆様にも、今回初めて『±0螺子店』の扉を開けてくださった読者の皆様にも、心より感謝申し上げます。
今回のテーマである「平等」は、私たちの日々の暮らしや仕事、人間関係の中で、絶えず頭を悩ませる大きな問いです。公平でありたいと願いつつも、目に見える格差や理不尽に直面したとき、人はどうしても心を痛めてしまいます。作中の主人公・歩美が見出したように、「自分の価値や努力を他人の物差しで均さないこと」の大切さが、少しでも皆様の心に温かく響けば幸いです。