雨の夜だけ開く店 第三話
二兎の根付



まえがき
「二兎を追う者は一兎をも得ず」——誰もが知るこの諺ですが、もしも本当に「二羽とも追いかけられる道具」があったとしたら、人は幸せになれるのでしょうか。
本作『雨の夜だけ開く店』第三話では、二人の女性の間で揺れる主人公・陸が、不思議な道具「二兎の根付」と出会うことで巻き起こる騒動を描いています。選択することの怖さと、一つを選び取ることの大切さを、少し不思議でノスタルジックな空気感とともにお楽しみいただければ幸いです。




登場人物

陸(りく)
30歳の会社員。仕事では決断力があるが、私生活では婚約者の望と初恋の桜の間で優柔不断になってしまう。「二兎の根付」によって「陸A(望と向き合う自分)」と「陸B(桜と向き合う自分)」に分裂する。 

望(のぞみ)
陸の婚約者で、同じ会社の総務部勤務。穏やかで理解のある女性。 

桜(さくら)
陸の大学時代の初恋相手。海外留学を経て10年ぶりに帰国し、陸と再会する。 

老婆(±0螺子店 店主)
不思議な路地裏の店で螺子や怪しい道具を扱う和装の老婆。膝の上に招き猫を乗せている。 

三日月(みかづき)
「幸運管理局 運勢調整課」の職員。黒いスーツに猫耳風の髪飾りをつけ、世界の歪みを収束させるために現れる。 



序章 どちらも失いたくない
陸(りく)は、三十歳になった今、自分が優柔不断な人間だとは思っていなかった。むしろ、仕事では即断即決を信条にしている。取引先との商談でも、迷ったら三秒で結論を出す。周囲からは「決断力のある男」と評されることも多い。 
ただし、それはあくまで「仕事では」の話だった。 
陸には今、婚約者がいる。望(のぞみ)という、同じ会社の総務部で働く女性だ。付き合って四年、去年の暮れにプロポーズをして、来年の春には結婚式を挙げる予定になっている。望は穏やかで、陸の仕事の愚痴を黙って聞いてくれる、いわば「一緒にいて疲れない」人だった。 
そこへ、桜(さくら)が帰ってきた。 
桜は、陸の大学時代の初恋の相手だった。当時、告白する勇気が出ないまま、桜は海外の大学院に進学し、そのまま向こうで就職して、十年近く音信不通になっていた。ところが先月、桜が仕事の関係で日本に戻ってくることになり、共通の友人を通じて、久しぶりに連絡が来た。 
「陸くん、元気にしてた? 今度、ご飯でも行かない?」 
その一通のメッセージから、陸の心は、明らかに揺れ始めた。実際に会ってみると、桜は昔と変わらず、いや、昔よりずっと魅力的になっていた。話は尽きず、二軒目、三軒目とはしごをして、気づけば終電を逃していた。 
陸は罪悪感を覚えながらも、桜との時間を「もう一度だけ」「もう一度だけ」と重ねてしまっていた。 
──良い女に出会えたからといって、付き合えるとは限らない。 
陸はそう自分に言い聞かせようとした。だが、心のどこかで、こうも思っていた。 
──もしかしたら、両方、手に入れられるんじゃないか。 
望との結婚も、桜とのやり直しも、どちらも諦めたくない。そんな都合のいい考えが、陸の頭から離れなくなっていた。 
「二兎を追う者は一兎をも得ず、か……」 
陸は、雨の降る夜、会社帰りにひとりごちた。分かってはいる。分かってはいるのだが、どうしても、どちらか一方を切り捨てる決断ができなかった。 
その夜、陸はいつもと違う道を歩いていた。桜と会った帰り、望に嘘の残業理由を告げたばかりで、後ろめたさから、いつもの駅とは反対方向に、当てもなく歩き続けていたのだ。 
気づけば、見知らぬ路地に迷い込んでいた。 



第一章 二匹の兎の根付
路地の奥に、小さな灯りがぽつんと灯っていた。木製の引き戸に、達筆とも悪筆ともつかない字で、こう書かれている。 
「±0螺子店」 
陸は雨宿りのつもりで戸を引いた。あっけないほど軽く開いた。 
「いらっしゃい」 
カウンターの奥に座っていたのは、和装の老婆だった。膝の上には、右手をしっかりと挙げた招き猫の置物が乗っている。カウンターの端には、小さな木札が二枚、並べて置かれていた。「先客・雨宮太郎様」「先客・芽衣様」と書かれている。 
「螺子屋さん、ですか」 
「そうだよ。だが、あんたが欲しいのは、螺子じゃないねえ」 
老婆はカウンターの下から、小さな根付を取り出した。象牙色の根付には、背中合わせに彫られた二匹の兎が、それぞれ違う方向を向いて座っていた。 
「これは『二兎の根付』。追いかけたい二つのものを、両方とも、いっぺんに追いかけられるようにする道具さ」 
陸は思わず身を乗り出した。 
「両方とも……本当に、両方、手に入るんですか」 
「手に入るとは言ってないよ。追いかけられる、と言ったんだ」 
老婆は、金色の目を細めた。 
「この根付をつけると、あんたの体がふたつに分かれる。ひとつは、望さんのもとへ。もうひとつは、桜さんのもとへ。それぞれの人生を、同時に、まるごと生きられるようになる」 
陸は言葉を失った。まさか、心の内をすべて見透かされているとは思わなかった。 
「ただし、忠告しておくよ。兎ってのは、もともと一羽だったものを、無理やり二羽に見せかけているだけなんだ。本体はひとつしかない。二羽を追いかけ続ければ続けるほど、本体そのものが、少しずつ、すり減っていく」 
「すり減るって……」 
「まあ、使ってみりゃ分かるさ。三百円だよ」 
陸は財布から、百円玉を三枚取り出した。頭では「やめておけ」と分かっていながら、指は勝手に硬貨をカウンターに置いていた。 
「使い方は?」 
「その根付を、鞄の内側にでも縫い付けておくといい。あとは勝手に、体が二つに分かれる。心配しなさんな、痛くはないよ」 



第二章 もうひとりの陸
家に帰った陸は、鞄の内ポケットに根付を縫い付け、そのまま眠りについた。 
翌朝、目が覚めると、陸は自分の部屋の天井を二つ、同時に見ているような、奇妙な感覚に襲われた。慌てて体を起こすと、鏡の前に、もうひとりの自分が立っていた。 
「……お前、誰だ」 
陸が問うと、鏡の前の陸も、同時に同じ台詞を口にした。 
「いや、俺だよ。お前だよ。どっちも、俺なんだよ」 
不思議なことに、驚きよりも先に、妙な納得感が陸の中に広がった。まるで、ずっと二つに分かれたがっていた自分の心が、ようやく体という形を得たかのようだった。 
その日から、陸の生活は一変した。 
一方の陸(便宜上、陸Aと呼ぶ)は、いつも通り会社に出社し、望とデートの約束をし、結婚式場の下見に付き合った。もう一方の陸(陸Bと呼ぶ)は、体調不良を理由に会社を休み、桜と一日中、都内をあちこち歩き回った。 
最初の数日は、うまくいっているように見えた。望は、陸Aの態度に何の疑いも抱かなかった。桜も、陸Bとの時間を心から楽しんでいるようだった。陸自身、二人の恋人と、それぞれ十分な時間を過ごせているという充実感に、うっすらと酔いしれていた。 
しかし、五日目の夜、異変が起き始めた。 
陸Aと陸Bが、同じ日の同じ時間に、まったく同じレストランを予約してしまっていたのだ。望との結婚記念日ディナーの予約と、桜との「十年越しの再会を祝う」ディナーの予約が、どちらも同じ店の、同じ個室に重なっていた。 
店員が困惑した様子で、「お客様、本日同じお名前で、ご予約が二件入っておりまして……」と告げた瞬間、陸Aと陸Bは、鏡合わせのような格好で、それぞれの恋人の前に立ち尽くすことになった。 
望と桜が、互いの顔を見て、怪訝そうな表情を浮かべる。 
「……あの、陸くん?」 
望が言った。 
「陸、くん……?」 
桜も、同じタイミングで言った。 
陸Aと陸Bは、慌てて別々の言い訳を口にしようとしたが、二人同時に「いや、これは、その」と、まったく同じ言葉を、まったく同じイントネーションで発してしまい、事態はさらに混乱を極めた。 



第三章 増え続ける町
その夜以降、事態は陸個人の問題では収まらなくなっていった。 
翌日、陸Aと陸Bが勤める会社では、経理部の人員がなぜか二倍に増えていた。同じ顔、同じ名札をつけた社員が、それぞれ別のデスクで、同じ書類を処理していた。誰もそれを不思議に思っていない様子だったが、給与計算の際、同一人物への給与が二重に振り込まれるという珍事が発生し、経理担当者が頭を抱えることになった。 
町内のスーパーでは、レジに並ぶ客の列が、なぜか鏡写しのようにもう一列、店の反対側にも出現していた。同じ商品を同じ順番でカゴに入れている客たちが、互いの存在にまったく気づかないまま、会計を済ませていく。 
駅のホームでは、同じ車両に、まったく同じ服装の乗客が、二人一組で乗り込んでくる光景が目撃されるようになった。SNSには「双子だらけの町」「うちの近所、なんか変」といった投稿が相次いだ。 
町内会の掲示板には、「本日の盆踊り大会、参加者多数につき、会場を急遽二か所に増設します」という貼り紙が出た。実際には、参加者の数そのものが二倍に膨れ上がっていたのだ。 
そして極めつけは、陸Aと陸Bが、それぞれ別の場所で、まったく同時に望と桜にプロポーズしてしまうという事件だった。陸Aは結婚式場の下見の帰りに、改めて望に指輪を差し出し、陸Bは桜との散歩の途中、思わず口をついて出た勢いで、桜に指輪を差し出していた。 
二つの指輪は、不気味なほど、まったく同じデザインだった。 
その夜、陸の部屋のインターホンが鳴った。開けると、そこには黒いスーツを着た、猫の耳のような髪飾りをつけた若い女性が立っていた。名刺には「幸運管理局 運勢調整課 三日月」とあった。 
「陸様。単刀直入に申し上げます。『二兎の根付』の効果が、想定を超えた範囲にまで及んでいます」 



第四章 すり減る本体
三日月は、陸A、陸Bの両方を、近所の児童公園のベンチに呼び出した。公園の隅には、右手をしっかりと挙げた招き猫の置物が置かれていた。 
「本来、『二兎の根付』は、装着者の中にある、ごく個人的な『二つの選択肢』への未練を、一時的に、しかも自覚的な範囲でのみ可視化するための道具です。両方の可能性を、じっくり比較検討するための、いわば思考実験の装置にすぎませんでした」 
「それが……」 
「今回、根付の製造過程で不具合が生じ、陸様お一人の『どちらも失いたくない』という強い執着が、実際に肉体そのものを分裂させるほどの力に変質してしまいました。さらに問題なのは──」 
三日月は、陸AとBを交互に見た。 
「分裂した肉体は、それぞれが『本物』であろうとするあまり、周囲の人間関係、物質、さらには時間そのものまでも、無理やり複製し始めています。この状態が続けば、いずれ町全体が、際限なく自己複製を繰り返す『増殖ループ』に陥り、誰も、何が本物で何が複製なのか、区別がつかなくなります」 
陸AとBは、顔を見合わせた。同じ顔なので、鏡を見ているようだった。 
「もうひとつ、申し上げにくいことがあります」 
三日月は、静かに続けた。 
「陸様の『本体』──最初にこの世に生まれた、たったひとつの陸様の存在そのものが、分裂を繰り返すたびに、少しずつ、すり減っています。このまま放置すれば、どちらの陸様も、本物としての実感を失い、いずれは望様の記憶からも、桜様の記憶からも、輪郭のぼやけた存在になり果てるでしょう」 
陸AもBも、言葉を失った。 



第五章 一羽を選ぶ
「教えてください」 
陸Aが言った。 
「根付を外せば、俺は、どうなりますか」 
「根付の効力を解除すれば、分裂した肉体はひとつに戻ります。ただし、戻る際に、どちらか一方の選択──望様との未来か、桜様との未来か──を、明確に選び取っていただく必要があります。両方を、なかったことにはできません」 
陸Bが、うつむいたまま尋ねた。 
「もし、選べなかったら」 
「そのときは、根付の効力が完全に暴走し、陸様ご自身が、どちらの人生にも属さない、輪郭のない存在として、この町の増殖ループの中に永遠に取り込まれることになります」 
陸AとBは、しばらく黙り込んだ。 
やがて陸A(結婚式場の下見をしていたほう)が、ぽつりと言った。 
「なあ。俺たち、そもそも、なんで根付なんか使ったんだろうな」 
陸Bが答えた。 
「怖かったんだよ。どっちかを選んだら、選ばなかったほうを、一生後悔する気がして」 
「うん」 
「でも、この一週間で分かった。俺たち、二人分の人生を生きてるつもりで、実際は、望さんにも桜さんにも、半分ずつしか、向き合えてなかった」 
陸Aは、自分の胸に手を当てた。心臓のあたりが、確かに、少しずつ薄れていくような感覚があった。 
「俺、望と生きていきたい」 
陸Aは、静かに、はっきりと言った。 
「桜のことは、大切な思い出だ。でも、思い出のままにしておきたい。あの頃、告白する勇気がなかった自分ごと、今の望との人生を選びたいんだ」 
陸Bは、少しの間、目を閉じていた。そして、小さく頷いた。 
「……分かった。それでいい」 
「お前は?」 
「俺は、お前だよ。お前が選んだなら、それが、俺の答えでもある」 
二人の陸は、静かに頷き合うと、三日月のほうを見た。 
「根付を、外してください」 



終章 一羽になって
三日月が根付の内側にある小さな留め具を外すと、かちり、と澄んだ音がした。その瞬間、陸の体を、生ぬるい風のようなものが吹き抜けた。 
気づけば、陸は自分の部屋のベッドの上で、ひとりで目を覚ましていた。鏡には、もう一人分の自分は映っていなかった。 
翌日、陸は望に、すべてを正直に打ち明けることにした。桜と会っていたこと、心が揺れたこと、そして最後には、望との未来を選んだこと。望はしばらく黙って聞いたあと、静かに言った。 
「正直、傷ついた。でも、ちゃんと話してくれて、よかった」 
それから、望との関係が完全に元通りになるまでには、それなりの時間がかかった。だが、少なくとも、陸の心の中で、望への気持ちは、以前よりもずっと、はっきりとした輪郭を持つようになっていた。 
桜には、後日、改めて連絡を取った。 
「ごめん。俺、望と生きていくことにした」 
桜は、電話の向こうで、少し寂しそうに、でも柔らかく笑った。 
「うん、知ってた。なんとなく、あの日のディナーの騒動で」 
「……悪かった」 
「ううん。むしろ、はっきり言ってくれて、ありがとう。私も、次に進めるから」 
数か月後の雨の夜、陸は仕事の帰り道、あの路地裏を久しぶりに通りかかった。 
「±0螺子店」の看板が、また灯っていた。 
「よう、久しぶりだね」 
老婆はカウンターの向こうで、相変わらず招き猫を膝に乗せていた。カウンターの端の木札には、「先客・雨宮太郎様」「先客・芽衣様」に並んで、新しく「先客・陸様」の一枚が加わっていた。 
「あの根付、大変な騒ぎになりましたよ」 
「聞いたよ。すまなかったね、また不良品を売っちまって」 
老婆は悪びれる様子もなく笑った。 
「今日は何を買いに来たんだい」 
老婆が尋ねた。 
陸は首を振った。 
「今日は、何も買いません。ただ、ちゃんと一羽で立ってられてるか、確かめに来ただけです」 
老婆は目を細めて笑った。 
「それも、うちで一番いい買い物の仕方だね。金がかからない」 
陸は店を出て、傘を差さずに、少しだけ夜空を見上げた。雨はまだ降っていたが、不思議と、体が軽く感じられた。 
二兎を追う者は、一兎をも得ず。 
けれど、一兎を選び取った者だけが、その一兎と、本当の意味で向き合える。 
陸は、そう思いながら、望の待つ家へと、まっすぐに歩き出した。 



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あとがき
人生には「もしあの時、別の道を選んでいたら」という思いや、「どちらも諦めたくない」という局面が何度も訪れます。
主人公の陸は、怪しげな「二兎の根付」によって二つの人生を同時に手に入れますが、身体や存在そのものがすり減っていく中で、「二つを選ぶことは、結局どちらにも半分しか向き合えていないことと同じだ」という事実に気づかされます。
何かを選ぶということは、他の何かを手放すということでもあります。一見すると寂しい決断に見えますが、一つの選択肢に自分の足でしっかりと立つことこそが、相手や自分自身に対する誠実さなのだというメッセージを込めました。
『雨の夜だけ開く店』では、これからも人間の小さくも愛おしい欲望や迷いを映し出す道具たちが登場します。また雨の夜にお会いしましょう。最後までお読みいただき、ありがとうございました。