雨の夜だけ開く店 第二話
〜二匹目のどじょう〜



まえがき

「一度掴んだ幸運を、もう一度だけ手に入れたい」——そう願ったことはありませんか?

人生において、大きな成功や幸福を経験した人ほど、その後の停滞期に「二匹目のどじょうはいないのだろうか」と悩むものです。

本作『雨の夜だけ開く店 第二話 二匹目のどじょう』は、19歳で突然の大ヒット作を生み出しながらも、その後8年間にわたりスランプに苦しみ「一発屋」と呼ばれ続けた一人の女性漫画家の物語です。

雨の降る夜、路地裏に佇む怪しげな「±0螺子店(プラスマイナスゼロネジテン)」で彼女が出会ったのは、逃げた運をもう一度だけ手繰り寄せる不思議な『二匹目の鈴』。

過去の栄光とどう向き合い、これから訪れる未来へどう足を踏み出すのか。ノスタルジックな雰囲気とともに、温かい勇気を届けるファンタジーをお届けします。




序章 一発屋と呼ばれて

芽衣(めい)は、二十七歳になった今でも、名刺代わりに配られる文庫本の帯に「あの『ちいさな逃げ水』の作者」と印刷されるたび、うんざりした気持ちと、どこか懐かしいような気持ちの両方を味わっていた。

十九歳のとき、大学のサークルの合間に描いた読み切り漫画『ちいさな逃げ水』が、ある新人賞をきっかけに火が付き、アニメ化、実写化、海外配信まで飛び火する大ヒットになった。当時の芽衣は、担当編集者に「これは天才の一撃です」とまで言われ、雑誌の表紙を飾り、テレビの情報番組にも呼ばれた。

しかし、その後の八年間、芽衣は一度も同じ規模のヒットを出せていない。

『ちいさな逃げ水』の後に発表した長編は、初速こそ良かったものの尻すぼみで打ち切り。次の作品は編集部の意向でジャンルを変えたが、読者からは「別人が描いたみたい」と酷評された。三作目は、あからさまに前作の焼き直しだと叩かれ、四作目は連載開始前に企画自体が流れた。

業界内で、芽衣にはいつからか「一発屋」という呼び名がついていた。本人のいないところでは、もっと直接的に「二匹目のどじょうがいない人」と言われていることも、風の噂で知っていた。

──二匹目のドジョウはいない。

芽衣自身、この言葉を誰よりも重く受け止めていた。最初の一匹は、確かに釣れた。だが、同じ場所に同じ針を垂らしても、二匹目は絶対に食いつかない。それが、この八年間、身をもって学んだ真実だった。

その日も、芽衣は新しい連載企画のプレゼンで編集会議に落選し、雨の降る夜道をとぼとぼと歩いていた。傘は差していたが、風にあおられて何度も裏返り、ろくに役に立っていなかった。

「またダメだった……」

芽衣はコンビニの前で足を止め、缶チューハイを一本買い、その場でひと口飲んだ。担当編集からは「芽衣さん、正直、もう『逃げ水』の再来を狙うより、まったく違う名前で新人賞に応募し直すくらいの覚悟がいるかもしれません」と言われたばかりだった。

八年前の栄光を、他人事のように「過去の遺産」として片付けられた気がして、芽衣の足はますます重くなった。

いつもなら通らない裏路地に迷い込んだのは、単なる気まぐれか、あるいは雨のせいで方向感覚を失っていたからか。芽衣自身にもよく分からなかった。

ただ、その路地の奥に、小さな灯りがひとつ、ぽつんと灯っているのが見えた。



第一章 鈴を鳴らす店

木製の引き戸に、達筆とも悪筆ともつかない字で、こう書かれていた。

「±0螺子店」

芽衣は首をかしげた。螺子屋、という響きにしては、店構えがどこか甘味処のようだった。軒先には、古い十円玉が何枚もぶら下がり、雨に当たってちりちりと涼しげな音を立てている。

雨宿りのつもりで戸を引くと、あっけないほど軽く開いた。

「いらっしゃい」

カウンターの奥に座っていたのは、和装の老婆だった。膝の上には、右手をしっかりと挙げた招き猫の置物が乗っている。以前は包帯を巻いていたのか、よく見ると前脚のあたりに、うっすらとした跡が残っていた。

「螺子屋さん、ですよね。すみません、螺子は買いに来たわけじゃなくて」

「知ってるよ。あんたが欲しいのは、螺子じゃない」

老婆はカウンターの下から、小さな漆塗りの箱を取り出した。蓋を開けると、中には小さな鈴が入っている。魚の形をした、赤銅色の鈴だった。よく見ると、その魚は、どじょうに似ていた。

「これは『二匹目の鈴』。一度だけ、逃げた運を、もう一度だけ手繰り寄せる道具さ」

芽衣は思わず身を乗り出した。

「二匹目の……それって」

「あんた、心の中でずっと繰り返してるだろう。二匹目のドジョウはいない、二匹目のドジョウはいない、ってね」

図星だった。芽衣は喉の奥が詰まるような感覚を覚えた。

「うちの螺子は、人生の収支をゼロに戻す道具だ。でも、この鈴は少し違う。一度だけ確かに掴んだものを、もう一度だけ、無理やり手繰り寄せる。ただし──」

老婆は、金色の目を細めた。

「無理やり、ってところが肝心だよ。自然に二匹目が来るわけじゃない。一匹目を、もう一度、力ずくで引きずり出すだけなんだ。魚だって、同じ穴から二度も引きずり出されたら、いい迷惑さ」

「代償があるんですね」

「察しがいいね。安心おし、三百円だよ」

芽衣は苦笑した。前回、この店に来た誰かも、同じように三百円を払ったのだろうか、とふと思った。カウンターの端に置かれた小さな木札に、「先客・雨宮太郎様」という文字が、ほとんど消えかけた墨で書かれているのに、芽衣は気づかなかった。

「使い方は?」

「簡単だよ。鈴を、一番大事にしまってあるものの近くで、三回鳴らす」

芽衣の脳裏に、すぐに思い浮かぶものがあった。実家の本棚の奥、初版本と一緒に大切にしまってある、『ちいさな逃げ水』の生原稿だった。



第二章 同じ日が、もう一度

家に帰った芽衣は、実家の物置から取り寄せていた段ボール箱を開け、『ちいさな逃げ水』の生原稿の束を取り出した。八年前、担当編集者と何度も直しては消し、消しては直した、思い出深い原稿だ。

芽衣はその原稿の上に、赤銅色の鈴を置き、震える手で三回鳴らした。

りん。りん。りん。

澄んだ音が部屋に響いたあと、しばらく何も起こらなかった。芽衣は少し拍子抜けして、鈴をそのまま原稿の上に置いたまま眠りについた。

翌朝、担当編集者から電話がかかってきた。

「芽衣さん! 大変です、昨日プレゼンした企画、編集長がひと晩考え直したらしくて、『やっぱり通そう』って言い出しました!」

芽衣は耳を疑った。昨日、確かに落選したはずの企画だった。

「え、でも、昨日ダメだったって……」

「それが不思議なことに、編集長、昨日の会議のこと自体をよく覚えてないみたいで。今日改めて『これ、いい企画じゃないか』って、まるで初めて見たみたいな反応で」

芽衣は電話を切ったあと、しばらく呆然としていた。まるで、昨日という日が、少しだけ書き換わったような感覚だった。

その日を境に、芽衣の周りで、奇妙な「巻き戻り」現象が続いた。

昼、コンビニで缶チューハイを買おうとレジに並ぶと、店員が「あれ、お客さん、さっきも同じの買いませんでした?」と首をかしげた。芽衣はその日、まだ一度もそのコンビニに行っていなかった。

夕方、担当編集者と打ち合わせをしていると、編集者が同じ台詞を、一言一句違わずに、二度繰り返した。本人はまったく気づいていない様子だった。

夜、テレビをつけると、ニュースキャスターが、数時間前に読んだはずのニュース原稿を、まったく同じ抑揚で、もう一度読み上げていた。

芽衣は最初、自分が疲れているせいで、既視感(デジャヴ)を強く感じているだけだと思おうとした。しかし、三日目の朝、事態は「気のせい」では済まされないレベルに達した。



第三章 町中が、同じ一日を繰り返す

その日、芽衣の住む町では、朝から異様な報道が相次いだ。

「本日、都内某所の商店街で、複数の店舗が『まったく同じ客に、まったく同じ商品を、まったく同じ会話とともに二度販売した』という証言が相次いでいます」

芽衣が住む町の宝くじ売り場では、前日にすでに一等が出ていたにもかかわらず、翌日また、まったく同じ番号の組み合わせで一等が発表されるという珍事が起きた。二日連続で同じ番号が一等になるなど、統計的にありえないことだった。

町内の結婚式場では、前日に無事に式を終えたはずの新郎新婦が、翌日また同じ会場に現れ、まったく同じ誓いの言葉を、まったく同じタイミングで、また一から繰り返す羽目になった。新郎は「なぜかもう一度、あの日をやり直している気分だ」と、狐につままれたような顔でインタビューに答えていた。

駅前の交差点では、前日に危うく事故になりかけた自転車と自動車が、翌日また同じ場所で、同じタイミングで、同じようにヒヤリとする場面を繰り返した。幸い、双方とも「なぜか今日は妙に注意深くなっていた」ため、大事には至らなかったが、目撃した歩行者たちは口々に「昨日と同じ光景を見た」と証言した。

そして極めつけは、芽衣自身の身に起きたことだった。

編集長に「通そう」と言わせたはずの企画の会議が、まったく同じメンバー、まったく同じ議題で、もう一度開催されることになったのだ。編集長は「あれ、これ、この間もやらなかったっけ?」と首をひねりながらも、結局また同じ結論に至り、同じ言葉で企画を承認した。

芽衣にとって、それは喜ばしいことのはずだった。だが、同時に、拭いきれない違和感があった。

──これは、前に進んでいるんじゃない。ただ、同じ一日を、無理やりもう一度なぞっているだけだ。

その夜、芽衣の部屋のインターホンが鳴った。開けると、そこには黒いスーツを着た、猫の耳のような髪飾りをつけた若い女性が立っていた。名刺には「幸運管理局 運勢調整課 三日月」とあった。

「芽衣様。単刀直入に申し上げます。『二匹目の鈴』の効果が、想定を超えた範囲にまで及んでいます」



第四章 もう一匹のどじょう

三日月は、芽衣を近所の児童公園のベンチに案内した。公園の隅の自動販売機の陰には、右手をしっかりと挙げた招き猫の置物が置かれていた。

「本来、『二匹目の鈴』は、装着者本人が過去に一度だけ手にした、ごく個人的な幸運を、もう一度だけ、限定的に呼び戻すための道具です。たとえば、若い頃に叶わなかった恋を、もう一度だけ告白し直すチャンスを与える、といった程度の、ごく小規模な効果にとどまるはずでした」

「それが……」

「今回、鈴の製造過程で不具合が生じ、芽衣様お一人の『二匹目』への渇望が、周囲一帯の時間の流れそのものを巻き込み、『特に幸運だった一日』を無限に繰り返そうとする力に変質してしまいました。簡単に申し上げますと──」

三日月は、少し疲れたような声で続けた。

「この町は今、緩やかに『同じ一日』へと巻き戻され続けています。放っておけば、いずれ町全体が、ある特定の『良かった一日』のループに完全に固定され、誰も、二度とその先の未来へ進めなくなります」

芽衣は息をのんだ。

「じゃあ……私が今、企画を通してもらえたのも」

「その企画が『通った』という事実そのものが、本当の意味での前進ではなく、過去の成功をなぞっているだけの状態です。芽衣様は今、八年前のご自身の栄光を、無理やりもう一度体験し直しているにすぎません」

芽衣の胸に、鈍い痛みが走った。八年間、喉から手が出るほど欲しかった「二匹目」が、ようやく手に入ったと思ったのに。それは、前に進むための二匹目ではなく、ただ一匹目を、もう一度水槽に戻しただけの、まがい物だったのだ。

「鈴を返せば、元に戻りますか」

「鈴の効力を解除することは可能です。ただし──」

三日月は言葉を切った。

「解除した瞬間、この町で起きていた『二度目の幸運』はすべて、もとの一度きりの出来事に巻き戻ります。今日通ったはずの企画も、白紙に戻る可能性が高いです。そして、芽衣様ご自身も、また『一発屋』と呼ばれていた、あの八年間の続きに戻ることになります」



第五章 もう一度、針を垂らす

芽衣は、公園の街灯を見上げた。虫が数匹、頼りない光の周りをくるくると回っている。

「教えてください。鈴を使い続けたら、この先、私はどうなりますか」

「町全体が『あの一日』のループに固定されたあと、時間が経つにつれ、ループの精度は次第に粗くなっていきます。同じ会話、同じ出来事が、少しずつズレを起こし、やがて誰も、何が本物の記憶で、何がループの中の出来事なのか、区別がつかなくなるでしょう。芽衣様ご自身も、いずれ『ちいさな逃げ水』を描いた十九歳のあの瞬間から、一歩も進めなくなるかもしれません」

芽衣は、自分の手のひらを見つめた。

思えば、この八年間、芽衣がずっと恐れていたのは、「二匹目が釣れないこと」ではなかったのかもしれない。本当に恐れていたのは、一匹目の輝きを、自分自身の手で汚してしまうこと。だからこそ、無意識のうちに、同じ川の同じ場所にばかり針を垂らし続け、新しい川を探そうとしてこなかったのではないか。

「鈴を、返します」

芽衣ははっきりと言った。

「本当によろしいのですか。今、通っている企画も、白紙に戻るかもしれません」

「それでいいんです」

芽衣は静かに続けた。

「私、ずっと『二匹目のドジョウはいない』って言われるのが怖くて、同じ場所にばかり針を垂らしてました。でも、今回のことで分かったんです。二匹目がいないんじゃない。同じ場所に、同じ餌で、同じ時間に、って条件をつけすぎてたから、釣れなかっただけなんだって」

三日月は、少し驚いたような顔をしたあと、小さく頷いた。

「わかりました。処置いたします」

三日月が懐から取り出したのは、小さな工具だった。芽衣が鈴を差し出すと、三日月はためらいなく、鈴の内側にある小さな留め具を外した。

かちり、と澄んだ音がした。

その瞬間、芽衣の体を、生ぬるい風のようなものが吹き抜けた気がした。町の方角から、遠く、複数の家の窓明かりが一斉に揺らめいたように見えたのは、気のせいだろうか。



終章 新しい川

翌朝、芽衣の携帯に、担当編集者から電話がかかってきた。

「芽衣さん、すみません、やっぱり昨日の企画、編集長がもう一度考え直したいと言っていまして……」

芽衣は電話越しに、思わず笑ってしまった。

「大丈夫です。むしろ、白紙に戻してもらえて助かりました」

「え?」

「その企画、実はあんまりしっくり来てなかったんです。もう一回、ちゃんと新しいの考えます」

電話を切ったあと、芽衣は久しぶりに、まっさらな原稿用紙を机に広げた。『ちいさな逃げ水』の続編でも、二番煎じの焼き直しでもない、まったく新しい主人公の名前を、ゆっくりと書き始めた。

数か月後の雨の夜、芽衣は打ち合わせの帰り道、あの路地裏を久しぶりに通りかかった。

「±0螺子店」の看板が、また灯っていた。

「よう、久しぶりだね」

老婆はカウンターの向こうで、相変わらず招き猫を膝に乗せていた。

「あの鈴、大変な騒ぎになりましたよ」

「聞いたよ。すまなかったね、また不良品を売っちまって」

老婆は悪びれる様子もなく笑った。

「そういえば」と芽衣は尋ねた。「前にもお客さん、いましたよね。カウンターの木札に、名前が書いてあって」

「ああ、雨宮さんかい。半年くらい前に、螺子を買いにきた男だよ。今は元気にやってるみたいだね、風の噂じゃ」

芽衣は少し笑った。同じ雨の夜だけ開くこの店に、自分と同じように、何かを取り戻したくてやってきた人が、他にもいたのだと思うと、不思議と心強かった。

「今日は何を買いに来たんだい」

老婆が尋ねた。

芽衣は首を振った。

「今日は、何も買いません。ただ、ちゃんと前に進めてるか、確かめに来ただけです」

老婆は目を細めて笑った。

「それは、うちで一番いい買い物の仕方だね。金がかからない」

芽衣は店を出て、傘も差さずに、少しだけ夜空を見上げた。雨はまだ降っていたが、不思議と、寒さは感じなかった。

二匹目のどじょうは、同じ穴からは釣れない。

けれど、新しい川に、新しい針を垂らせば、そこには、まだ誰も見たことのない魚が待っているかもしれない。

芽衣は、そう思いながら、家路を急いだ。机の上には、まだ何も書かれていない、まっさらな原稿用紙が、彼女の帰りを待っていた。

(了)



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あとがき

「二匹目のどじょうを狙う」という言葉には、どこか安易な柳の下の泥泥しさがつきまといます。しかし、一匹目を捕まえた経験があるからこそ、「もう一度あの輝きを」と願ってしまうのは、表現者や何かを志す人にとってごく自然な感情ではないでしょうか。
主人公の芽衣が気づいたように、二匹目が釣れないのは「同じ場所、同じ餌、同じ時間」にこだわりすぎてしまっているからかもしれません。過去の成功体験に縛られず、思い切って新しい川へ竿を伸ばしたとき、そこにはまた新しい出会いや挑戦が待っているのだと思います。
雨の夜の静けさとともに、この物語が皆さまの日常に小さな前向きさをもたらせたなら幸いです。
また雨が降る夜に、別の物語でお会いしましょう。