雨の夜だけ開く店 第一話
〜福は二度こない〜
まえがき
人は誰しも、スタートラインの不平等さを感じたことがあるのではないでしょうか。
「なぜ自分ばかりついていないのか」「なぜあの人ばかり恵まれているのか」。
この物語の主人公・雨宮太郎も、そんな溜息を抱えて生きる43歳のしがない経理マンです。彼が欲しかったのは、宝くじの高額当選でも一攫千金でもなく、ただ「みんなと同じ、ゼロのスタートライン」でした。
運命のネジを回したことで巻き起こる可笑しくも少し切ない騒動を通して、「自分の人生を自分の足で歩むとはどういうことか」を、太郎とともに感じていただければ幸いです。
どうぞ、雨の夜の不思議な路地裏へお入りください。
序章
三日遅れの誕生日
雨宮太郎(あめみや・たろう)という男の話をしよう。
四十三歳、独身、都内の中堅印刷会社で経理を担当している。特技は「損益計算書を一日で締める」ことと、「宝くじを買うと必ず外れる」ことだった。
太郎には、生まれたときから奇妙な癖がひとつある。人が「二度あることは三度ある」と言うたびに、心の中でそっと訂正するのだ。
──いや、それは一度でも良いことがあった人間の台詞だ。
というのも太郎は、物心ついてから一度も「これは幸運だった」と胸を張って言える出来事に恵まれたことがなかった。
たとえば誕生日。太郎の戸籍上の誕生日は五月十四日だが、実際に生まれたのは五月十一日だ。当時、役所の担当者が書類を数日分溜め込んでいたせいで受理が遅れ、なぜか記載までずれてしまった。母が抗議したものの「受理日と出生日は別物ですので」の一点張りで押し切られたという。以来、太郎の家では毎年、本当の誕生日と戸籍の誕生日の両方を「どちらも中途半端に祝わない」という妙な伝統が続いている。
高校の修学旅行のくじ引きでは、太郎だけが「バス酔い確定」と言われる最尾列中央の席を引き当てた。三年間で皆勤賞を逃した唯一の理由はインフルエンザではなく「学級閉鎖の翌日に限って熱を出す」という謎の巡り合わせだった。
就職活動では、第一志望の最終面接へ向かう途中で電車が人身事故で止まり、迂回した先でも事故に巻き込まれ、一時間遅刻して即不採用。今の会社は、滑り止めのそのまた滑り止めだった。
昔、結婚しかけたこともある。相手の名前は美咲といった。婚約指輪を買いに行った帰り、太郎のカバンから指輪の入った小箱だけが忽然と消えた。財布ではなく、指輪だけが。「これは天の意志だと思う」と彼女は静かに去っていった。太郎は今でも、あれは天の意志というよりカバンの縫い目が甘かっただけだと思っている。天に意志があるとしたら、ずいぶん暇な神様だ。
居酒屋で同僚にそんな話をすると、みんな笑って言う。
「雨宮、そろそろ来るんじゃないの。悪いことばかり続くわけないだろ」
太郎はビールの泡を眺めながら答える。
「いや、続くんだよ。一度も来てないものは、二度目もないんだ」
その夜も太郎は決まり文句を吐き、いつも通り終電に一本乗り遅れ、雨の中を歩いて帰る羽目になった。
──ただし、その夜だけは、少し違っていた。
第一章
雨の夜だけ開く店
タクシー代を惜しんだ太郎は、普段は使わない裏路地の近道を選んだ。街灯が少なく、湿った空気が漂う通りだ。
雨脚が強まり軒先を探していると、路地の奥に見慣れない灯りがぽつんと灯っていた。
木製の引き戸に、不思議な味のある字で看板が掲げられている。
「±0螺子店(ぷらまいぜろねじてん)」
軒先には風鈴代わりに古い十円玉がぶら下がり、雨粒を受けてちりちりと涼やかな音を立てていた。雨宿りのつもりで戸を開けると、見た目に反してすんなりと滑った。
「いらっしゃい」
カウンターの奥に座っていたのは、和装の老婆だった──ように見えたが、どこか雰囲気が猫に似ている。金色がかった目が、縦に細く光っていた。膝の上には、右手を吊り包帯で固定された招き猫の置物がちょこんと乗っている。置物のくせに、時折ぱちぱちと瞬きをした。
「あの、ここは何のお店ですか」
「螺子屋(ねじや)だよ。家具のじゃない、人生のさ」
太郎は苦笑した。この手の開運商法には引っかからない。
「結構です。俺、そういうのは信じないので」
「信じなくていいよ。うちは信じない客のほうが効くんだから」
老婆は桐箱を取り出し、蓋を開けた。中には長さ二センチほどの古びた螺子が一線、収まっている。錆びた鉄のようでもあり、鈍い金のようでもある光沢を放っていた。
「これは『ぷらまいぜろのねじ』。人生の収支を、いったんゼロに戻す道具だ」
「収支?」
「あんた、生まれたときからずっとマイナスを背負ってると思ってるだろう。持って生まれた巡り合わせの悪ささ。だが、このねじを使えば、マイナスの分だけチャラにできる。プラスにはならないよ。ただのゼロ。それだけは約束する」
太郎は桐箱の螺子を見つめた。
「……いくらですか」
「三百円」
「安すぎませんか」
「高い金を取ると『効果があるはずだ』と必死になって運を無駄遣いする。三百円くらいで缶コーヒーを買う気でゼロに戻す。それがうちのやり方さ」
太郎は小銭入れから百円玉を三枚出した。
「使い方は?」
「おへそに軽く押し当てて、時計回りに一回転さ」
太郎は真顔で老婆を見た。老婆も大真面目だった。膝の上の招き猫だけが、申し訳なさそうな顔でこちらを見上げていた。
第二章
おへそに、ねじを
部屋に帰り着いた太郎は、洗面所の鏡の前で螺子を手に考え込んだ。
正気ではない。だが、あの店の十円玉の風鈴の音と老婆の言葉が、妙に胸に残っていた。
「……どうせ何も起きないさ」
太郎はシャツを捲り、螺子の先をおへそに当てた。ひんやりとした金属の感触。力を込める間もなく、螺子は吸い込まれるようにすっと肌に沈み込んだ。
痛みはない。代わりに体幹の奥深くで「かちり」と、耳ではなく骨で聴くような澄んだ音が響いた。長年噛み合わずにいた歯車が、本来の位置に収まったような感触だった。
翌朝、目覚めは静かだった。
出勤途中、いつもなら確実に引っかかる開かずの踏切が、太郎が近づいた瞬間にすんなりと上がった。
「……たまたまだな」
だが、その日を境に「小さな異変」が重なり始める。
昼休み、自販機で缶コーヒーのボタンを押すと、ことん、ことんと二本落ちてきた。二本目の底には「当たり」のシール。太郎の人生で自販機の当たりなど見たこともなかった。
夕方、経理の締め作業で数字が合わず全員が残業を覚悟したとき、太郎がふと読み直した一行に記載漏れが見つかり、一瞬で解決した。課長が「雨宮、お前今日は冴えてるな」と肩を叩いた。「冴えている」などと言われたのは人生で初めてだった。
帰り道、駅までの七つの信号が、すべて青で繋がった。
──収支を、いったんゼロに戻す。
もし本当にマイナスが消えたのだとしたら。これまで当たり前に存在していた「普通」とは、こんなにも滑らかで滞りのないものだったのか。
その晩、太郎は居ても立ってもいられずあの裏路地へ向かった。しかしそこにあったのは古いシャッターが下りた空き店舗で、看板も風鈴も跡形もなかった。今夜は星が綺麗に晴れていた。
第三章
止まらない歯車
最初の数日、太郎が噛み締めていたのは「平穏」だった。
しかし一週間もすると、事態は「普通」の領域を明らかに踏み越え始めていた。
会社の福引きで特等の温泉ペア宿泊券が当たった。独身の太郎が困っていると、普段はあまり会話のない経理部の若手・佐伯さんが「いいですね」と声をかけてくれ、一緒に行く流れになった。太郎の人生で、若い女性とプライベートの約束が交わされるなど天変地異に近かった。
買い物のレジでは前の客のクーポンが偶然適用され、商店街の抽選でも米二十キロが当たった。
あきらかにおかしい、と太郎は首をひねった。ゼロに戻るどころか、運勢が猛烈な勢いでプラスへ跳ね上がっている。
そんな折、太郎の携帯に奇妙な着信があった。
『雨宮太郎様のお電話でしょうか。私、幸運管理局・運勢調整課の三日月と申します』
鈴の転がるような声だが、どこか事務的だ。詐欺かと思い切ろうとすると、相手は太郎が三百円で螺子を買ったこと、雨の日の店舗、招き猫の怪我まで正確に口にした。
『単刀直入に申し上げます。雨宮様が装着された『ぷらまいぜろのねじ』は、本来、装着者ご本人のマイナスだけを相殺する道具です。しかし……』
三日月の声が少し低くなった。
『螺子の製造工程に初期不良があり、雨宮様お一人のみならず、周囲のエリア一帯の「運の収支」を巻き込んで吸い上げてしまっていることが判明いたしました。言うなれば、現在の雨宮様は周囲の運を吸い寄せるダイソン状態です』
「ダイソン……? ちょっと待ってください、どういうことです」
『このまま放置されますと、近々このエリアで大規模な「運勢の崩壊」が発生いたします』
第四章
街が引っくり返る日
異変は唐突に訪れた。
週末の朝、太郎の住む街で、事故など起きたことのない交差点にて高級車が垣根に突っ込んだ。運転していたのは、地元で「強運」と名高かった不動産会社の社長だった。社長は同時に長年買い続けていた株の大暴落に見舞われた。
太郎の会社では、一番の優良顧客から突然の契約解除が入る一方、新人が誤送信したメールがきっかけで奇跡的な超大型案件が成立した。社内は歓喜と悲鳴が同時に飛び交う混乱に包まれた。
スーパーではシステム障害で全商品が10円で決済され、隣町の同系列店では逆に全商品が10倍の値段で請求されるトラブルが発生した。
テレビのニュースでは「都内某所で相次ぐ不可解な確率の偏り」として取り上げられ始めていた。
その日の夜、太郎の部屋のインターホンが鳴った。
ドアを開けると、黒いスーツを着た小柄な女性が立っていた。髪飾りがどことなく猫の耳の形をしている。名刺には『幸運管理局 運勢調整課 三日月』とあった。
「雨宮様。見ての通り、事態は深刻です」
三日月は部屋に入るなり、重々しく告げた。
「あなたにプラスが集中している歪みのしわ寄せが、街全体に及んでいます。生涯病気をしないはずだった人が急病に倒れたり、逆に幸運に恵まれるはずだった人の運気が打消されたりしています。運の収支は、どこかで必ず釣り合いを取ろうとするのです」
太郎は息をのんだ。
温泉チケットも、佐伯さんとの会話も、思いがけない褒め言葉も。すべて、誰かが払うはずだった幸運を自分が横取りしていた結果だったのか。
第五章
選ぶべきもの
三日月は太郎を近所の公園へと誘った。ブランコのかたわらには、あの路地裏にいた招き猫が、今度は両手を所在なさげにブラブラさせながら座っていた。
「選択肢はふたつあります」
三日月の髪飾りが、街灯の光を受けてかすかに揺れた。
「ひとつは、螺子を抜くこと。抜き方は簡単です。反時計回りに回せば外れます。ただし……外した瞬間、あなたの運勢は元の『マイナス』に戻ります。この一週間で吸い上げたプラスは街へ還元されますが、あなたは再び、損ばかりの人生を生きていくことになります」
太郎は街頭の明かりを見つめた。夜風が頬を撫でる。
「もうひとつの選択肢は?」
「このまま螺子を挿し続けることです。そうすれば、あなたはこれからも幸運を享受し続けられます。ですが、街の運勢バランスは完全に崩壊し、誰がどんな不運を背負わされるか分からない、無秩序な状態が続きます」
太郎は自分の胸、そしておへそにあてがった手に視線を落とした。
佐伯さんと笑い合った時間の温もりを思い出す。それは太郎にとって、生まれて初めて味わう「まぶしい日々」だった。手放したくない、という欲望が胸をかすめたのは事実だ。
だが──。
「……俺が欲しかったのは、勝ち組の運じゃない」
太郎の口から、静かな言葉が漏れた。
「みんなと同じ、ゼロの場所だった。誰かの運を奪ってまで手に入れた幸運なんて、履き慣れない高級靴を履いて走ってるみたいで、ずっとそわそわしてたんです」
三日月は目を見張り、それから柔らかく微笑んだ。
「外してください」
太郎はまっすぐに三日月を見た。
「元に戻るだけです。もともと、俺の人生だったんですから」
第六章
三日月とねじと
三日月は懐から小さな工具を取り出すと、太郎のおへそに当て、静かに反時計回りへ回した。
かちり。
骨の奥で、またあの音がした。
今度は歯車が解き放たれるような、寂しくも清々しい感触だった。体に溜まっていた暖かな気が、夜空に向かって一気に解き放たれていく。
遠くの街の灯りが、一瞬だけパチパチと瞬いた気がした。
翌朝。
太郎はいつも通りアラームを聞き逃して寝坊した。踏切は開かず、10分待たされた。自販機のコーヒーは1本しか出ず、会社の伝票は計算が合わずに1時間頭を抱えた。
「……戻ったな」
苦笑いしながらも、太郎の胸底にあったのは深い安堵だった。
だが、すべてが失われたわけではなかった。
数日後、あの不動産会社の社長から丁寧な礼状と品物が届いた。実は事故の夜、動転する社長と家主の間に入り、穏便に現場をまとめたのは太郎だった。運に関係なく、太郎の「根が親切で骨を折る性格」そのものは消えていなかったのだ。
そして佐伯さんとも、温泉チケットが流れたあとも普通に昼食を共にする関係が続いていた。「温泉は残念でしたけど、また美味しいお店教えてくださいね」と彼女は笑っていた。
手に入れた幸運は消えても、太郎自身が紡いだ人間関係は、何ひとつ消えていなかった。
終章
それから
半年後の雨の夕方。太郎はふと思い立って、あの裏路地を歩いた。
「±0螺子店」の看板に、再び灯りがともっていた。
「やあ、久しぶりだね」
老婆は相変わらず招き猫を膝に乗せていた。招き猫の右手の包帯は外れ、元気に上を向いていた。
「あの螺子、大変な欠陥品でしたよ」
「すまなかったねぇ。でも、おかげで何か見つかったかい」
太郎はポケットから百円玉を三枚出した。
「同じものをください。今度は、ちゃんとした±0のやつを」
老婆は片眉を上げた。
「懲りないね。今度のは正真正銘、ただのゼロだよ。プラスにはならない」
「それでいいんです」
太郎は笑った。
「誰かのせいにしないで、自分の足で歩くためのスタートラインが欲しいんです。マイナスからじゃなく、ゼロから」
老婆は嬉しそうに目を細め、桐箱を差し出した。
「気に入ったよ。持って行きな」
店を出ると、雨はまだ降り続いていた。
太郎は持ち帰った螺子をおへそには刺さず、部屋のデスクの引き出しの奥、大切な印鑑のとなりにそっとしまった。
「いつでもゼロに戻せる」
その選択肢が手元にあるということだけで、太郎の心は不思議と軽く、力強かった。
二度目の幸運は、まだ来ていない。
けれど太郎は、もう「一度も来ない」と決めつけるのをやめた。
スタートラインがどこであろうと、そこからどっちへ向かって歩き出すかは、いつだって自分で選べるのだから。
了
あとがき
物語の主人公・雨宮太郎のように、私たちは時に「自分だけが損をしているのではないか」という思いにとらわれることがあります。しかし、人生の「プラスとマイナス」をどう捉え、引き出しの中にどんな準備をしておくかで、今日という日の景色は少しだけ変わるのかもしれません。
太郎が引き出しにしまった小さな螺子が、読者の皆様の心にも、ささやかな「心のゆとり」として届いていれば幸いです。

