『運のメカニズム』


まえがき
人は誰しも、自分ばかりが損をしているように感じたり、「なぜ自分だけこんなに運が悪いのだろう」と肩を落としたりする夜があります。
この物語の主人公・沢渡陽もまた、そうした不運の渦中で静かに息を潜めて生きている青年です。けれど、彼が背負わされた「世界一の不運」は、巡り巡って誰かの日常を支える不可欠な「重し」になっていました。
私たちが何気なく通り過ぎていく「何事もない一日」。それは、派手な幸運や成功よりもずっと繊細で、誰かの小さな善意や踏ん張りによってギリギリのところで保たれているのかもしれません。
もし今、あなたが少しだけ生きづらさを感じているなら、この物語があなたの足元を静かに照らす灯りとなれば幸いです。
どうぞ、陽とともに「平らな道」を歩む旅をお楽しみください。

献辞
平々凡々な日々を、丁寧に歩むすべての人へ。




第1章 観測史上最低値
誰もがきっと
わずかでも
その 運とやらを
持ち合わせているはずで
――そう聞かされるたび、沢渡陽(さわたり・よう)は、はにかむよりも先に、うっすらと肩をすくめてしまう癖があった。
だってそれは、たぶん嘘だ。少なくとも自分に関しては、絶対の嘘だ。
二〇四七年、六月十四日、火曜日。
朝六時三十二分、目覚まし時計が鳴る前に、彼は目を覚ました。理由は単純で、天井から水が垂れてきたからだ。上階の水漏れ。管理会社は「お盆明けに業者を手配します」と一週間前に言ったきり、音沙汰がない。バケツを敷き直し、寝袋のように丸めた毛布を抱えて、陽は起き上がった。
顔を洗い、髭を剃ろうとしてカミソリの替刃を切らしていることに気づき、ひげ面のまま出勤の支度をした。冷蔵庫の中は、賞味期限切れの卵と、封を切ったまま忘れていた納豆が二パック。納豆を掻き回して啜り、玄関を出た。
玄関を出て三歩目で、頭上に何かが落ちた。
生温い。ぬめっとしている。指で拭って空を見上げると、電線の上でカラスが一羽、こちらを見下ろしていた。目が合った。カラスは翼を広げ、なにごともなかったかのように飛び去った。
「……いつものことだ」
陽は無表情のまま、アパートの共用水道でタオルを濡らし、頭を洗った。二十八年間生きてきて、鳥の糞に当たった回数は数え切れない。もう驚かない。驚かないが、悔しくないと言えば嘘になる。
駅までの道すがら、財布から千円札が一枚、こぼれ落ちた。気づかなかった。気づいたのは、コンビニでおにぎりを買おうとして、財布の中身が三百五十七円しかなかったときだ。おにぎりを棚に戻し、菓子パンの一番安いのを選んだ。
改札を通ろうとしたら、ICカードの残高が足りなかった。チャージ機の前で並んでいたら、前の老人が操作を間違え、五分待たされた。ホームに降りたら、たった今、電車が出て行った直後だった。次の電車は「人身事故のため運転を見合わせております」とアナウンスが流れた。
陽は、ホームのベンチに座って、菓子パンをかじった。あんぱんだった。一口目に、あんが入っていなかった。二口目にも、入っていなかった。全部食べ終わっても、あんは入っていなかった。工場の充填ミスだった。SNSに投稿すれば話題になるかもしれない、と一瞬思ったが、写真を撮る気力もなかった。
派遣先の会社に着いたのは、始業から一時間三十分遅れだった。
「沢渡くん、契約更新の件だけどね」
上司の高木は、陽の顔を見るなり、机の引き出しから封筒を取り出した。中身は聞かなくてもわかる。三ヶ月ごとに更新される派遣契約が、今回で切られるという通告だった。
「今期の予算がね、ちょっと厳しくてね。あと、ほら、君、勤怠がね」
「はい」
「悪気があるわけじゃないのは、わかってるよ」
「はい」
「なんていうか、こう、ツイてないっていうのかな。うん」
高木は、自分でも何を言っているかわからないという顔で、へらへらと笑った。陽は封筒を受け取り、深く一礼して、自分の席に戻った。
パソコンの電源を入れると、モニターに縦線が入って、そのまま動かなくなった。
その日の午後、区役所から一通のハガキが届いていることを、陽は帰宅してから知った。
『無料LQ健康診断のご案内』
LQ、と書かれていた。ラック・クアンタム。運量子。
三年前、東大と理化学研究所の共同チームが発表した「運の素粒子」だ。人間の身体には、生涯を通じて発生する運のゆらぎが、極微の粒子として蓄積・消費されている――そう証明された。以来、社会はあっという間に組み替わった。就職も、結婚も、医療の順番も、住宅ローンの審査も、LQ残高で決まる時代になった。
陽はLQ測定を、これまで一度も受けたことがなかった。受けたところで、良い数値が出るはずがないと知っていたし、測ってしまえば、就職や結婚のときに数値を提出しなければならない場面が増えるだけだ。知らずにいるほうが、まだ生きやすかった。
だが、区役所の無料健診は、生活保護申請の前提条件になっていた。派遣を切られた以上、貯金は二週間ももたない。行くしかなかった。
区役所の三階、LQ健診コーナー。順番待ちの椅子は空いていた。誰も好んで自分の運を測りたいとは思わないのだろう。
「沢渡陽さん、こちらへどうぞ」
案内係の女性は、白衣を着ていた。首から下げたIDカードには「運量子庁 地域相談窓口 詠美(うたみ)」とあった。年の頃は三十歳前後、切れ長の目と、感情の読めない静かな声。
「初めての測定ですね。手のひらを、こちらに」
ルックス・メーター、と呼ばれる測定装置。小さなガラスの円盤の上に手のひらを乗せると、指先の毛細血管を流れる血液から、LQを検出する。
陽は、右手を乗せた。
装置が、低い唸り声を上げ始めた。
唸り声が、徐々に高くなった。
高くなった音が唐突に途切れたかと思うと、また低く唸り始めた。
詠美の眉が、わずかに動いた。
モニターの表示が、ゆっくりと数字を刻んでいった。
 −9
 −99
 −999
 −9,999
 −99,999
 −999,999
 −9,999,999
 −99,999,999
 −999,999,999
 −9,999,999,999
 −99,999,999,999
 −999,999,999,999
 −9,999,999,999,999
そこで、ピタリと止まった。
詠美がモニターに近づき、目を細めた。それから、装置のリセットボタンを押すと、もう一度、陽の手のひらを装置に乗せさせた。
同じ数字が表示された。
「……もう一度、いいですか」
三度目も、全く同じだった。
詠美は無言で立ち上がり、白衣のポケットから携帯端末を取り出した。廊下へ出て数分後に戻ってきたとき、彼女の表情はそれまでの「無」から、一段深い「静けさ」へと変わっていた。
「沢渡さん」
「はい」
「あなたのLQ残高、観測史上最低値です」
「……はあ」
「日本国内、いえ、この装置が全世界に配備されて以来、これほど深いマイナスは一例も報告されていません」
陽は、しばらく黙ってその言葉を咀嚼した。
「……つまり、僕は、世界一運が悪い、と」
「はい」
「賞金は出ますか」
「出ません」
詠美は、真顔で首を振った。
陽は、思わず少し笑った。生まれて初めて、自分の不運がここまで極まっていることを、他人の口から公式に認定された。奇妙な安堵があった。ずっと薄々そうだと思っていたことが証明された安堵。名前をつけられずに苛立っていたものに、名札がついた安堵。
「わたし、少しあなたにお話ししたいことがあります」
詠美は椅子に座り直し、両手を膝の上で組んだ。
「これは区役所の窓口では本来お伝えする範囲を超えます。ですが、あなたのお立場は少し特殊ですので」
「特殊」
「はい」
彼女は、一度深く息を吸った。
「沢渡さん。あなたは、宇宙のバランスの要(キーストーン)です」
蛍光灯が、じりじりと音を立てて鳴っていた。
窓の外、夕方の空が、鈍い橙色に染まっていた。
陽は詠美の顔を、ぼんやりと見つめていた。
何を言われたのか、まだうまく飲み込めていなかった。
――この時、彼はまだ知らない。この日を境に、彼の「観測史上最低の運」が、ある巨大な均衡の――地球の、そして宇宙そのものの均衡の――最後の錘(おもり)になろうとしていることを。
でも
その 運とやらは
なかなか
都合良く現れない
ならば
それをタイミング良く
ここぞと思うのは常
それでも
そんなわけには行かないから
世の中は面白い



第2章 運量子取引所へようこそ
翌朝、陽の携帯に非通知の着信があった。
「沢渡さんですね。運量子庁の詠美です。昨日の件、正式にお話ししたく、車を差し向けます。三十分後、アパートの前へ」
そう言って、返事も待たずに切れた。
三十分後、アパートの前に停まった車は、黒塗りの車体の低い、しかしどこか値札のつかない類の高級車だった。国産のようだが、ナンバープレートには見たことのない管理番号が振られている。
「乗ってください」
後部座席の詠美は、昨日と同じ白衣ではなく、濃紺のパンツスーツを着ていた。眼鏡もかけている。一見して印象がまるで違った。
「これは、公用車ですか」
「はい。運量子庁本庁の」
「僕、何か犯罪を疑われているんでしょうか」
「まさか」
詠美は、初めてうっすらと微笑んだ。表情の変化がわずかで、笑ったというより口の端が一ミリ動いた、というほうが近い。
車は環八を北上し、内堀通りを回り、霞が関の官庁街に入った。運量子庁は、財務省の南隣、真新しいガラス張りの三十階建てビルに入っていた。三年前まで古い労働関係の合同庁舎があった場所だ。今や運量子経済がすべてを塗り替えていた。
エントランスホールに入ると、天井から床まで届く電光掲示板が、ずらりと数字を流していた。
 +LQ 現在レート 12万3,478円/粒
 −LQ 買取レート 8,942円/粒
 本日出来高 13億5,470万粒
 東証LQ平均 +2.34%
「株みたいなものですか」
「株です。もうそう呼んでも差し支えありません」
詠美は、陽の隣を歩きながら淡々と説明した。
「+LQは、あらゆる成功の触媒です。一粒持っているだけで、あなたが望む出来事のうち、統計的にありえない範囲の幸運がほんのわずかに実現しやすくなる。宝くじの当選率も、就職試験の合否も、健康診断 Result も。逆に−LQは、それを引き受ける負債です。持っていると、望まぬ出来事が統計的にありえない範囲で発生しやすくなる」
「僕は、それを九兆九千九百九十九億粒も負っている、と」
「正確には、九兆九千九百九十九億九千九百九十九万九千九百九十九粒です」
陽は乾いた笑い声を漏らした。
「宝くじで一等が当たっても返せませんね」
「ジャンボ宝くじの一等前後賞合わせて十億円だとすると、+LQに換算しておよそ八千百粒。あなたの負債の――」
詠美は頭の中で素早く計算した。
「――およそ、十二億分の一です」
「……」
「毎年ジャンボを一等連続当選しても、返済に十二億年かかります」
「宇宙の年齢より短いのが救いです」
「宇宙の年齢は百三十八億年です。十二億年は確かにその内側ですね」
詠美は真顔で頷いた。冗談で返したつもりが大真面目に受け止められ、陽はこの人はつくづく大真面目なのだと理解した。
エレベーターは二十九階で停まった。廊下の突き当たりにある無地の扉。詠美がIDカードをかざすと、扉が音もなく開いた。
中は体育館ほどの広さを持つ円形の部屋だった。壁一面がスクリーンで、地球の映像が複数のレイヤーで重ねて投影されている。ひとつは普通の衛星写真。ひとつは青い霧のような+LQの偏在マップ。ひとつは赤黒い霧の−LQの偏在マップ。青は先進国の都市部に濃く、赤は途上国の紛争地域、そして日本国内では都市の周縁やアパート・団地の一角に点状に集まっていた。
そのうちの一点――東京都板橋区の一角に、他とは比べ物にならないほど濃い赤の染みがあった。
「これは、あなたです」
詠美はそう言った。
「私のアパート、板橋にあります」
「はい。宇宙全体のマイナス運量子の、およそ〇・〇〇三パーセントが、あなた一人の中に凝集しています」
「〇・〇〇三」
「はい。地球上の個人としては圧倒的な最大値です。地球外を含めても、これに匹敵する存在は現在の観測技術では発見されていません」
部屋の中央、円卓の向こう側に初老の男が立っていた。白髪を短く刈り込み、黒いスーツに濃紺のネクタイ。ネクタイの結び目が綺麗すぎるほど整っている。
「運量子庁 特別均衡室 室長の八神です」
男は、陽に軽く頭を下げた。
「沢渡さん。単刀直入に申し上げます。あなたには、宇宙のプラスマイナスゼロの法則――我々の用語ではQBL(Quantum Balance Law)ですが――その維持のために、しばらく我々と行動を共にしていただきたい」
「拒否したら」
「拒否できます」
八神は静かに言った。
「ただし拒否した場合、我々はあなたを保護することもできません。あなたのLQ残高はあまりに深すぎて、少しでも均衡が崩れると、あなたの周囲半径数キロメートルの範囲で極端な不運事象が連鎖的に発生する可能性があります。今のところ、あなたご自身がその中心におられるため、外に漏れ出ていないだけなのです」
「外に漏れ出す……」
「はい。あなたが不慮の事故などで亡くなられた場合、抱えていた−LQが周囲に一気に放出されます。板橋区の一部が統計的にありえない不運の連鎖で機能不全に陥り、人命被害も否定できません」
陽は円卓のふちに手を置いた。ひんやりと冷たかった。
「僕、そんな危険物だったんですね」
「危険物ではありません」
八神は初めてわずかに口の端を上げた。それは笑顔というより微苦笑に近かった。
「あなたは要石です。あなたなしでは、この日本列島は遠からず傾きます」
八神はそう言って、円卓の上に一冊の薄い冊子を置いた。
冊子の表紙には、活字ではなく手書きの文字でこう書かれていた。
『運のメカニズム』
陽はその文字をじっと見つめた。
「これは」
「私の拙い手すさびです」
八神は少しばつが悪そうに言った。
「役所勤めのかたわら、詩のようなものを書いておりまして。この職務に就いてから、書かずにはいられなくなったのです」
陽は冊子を手に取り、表紙をめくった。最初のページにこうあった。
誰もがきっと
わずかでも
その 運とやらを
持ち合わせているはずで
――ふ、と陽の口から息が漏れた。
昨日、鳥の糞に当たり、財布から千円を落とし、あんこの入っていないあんぱんを食べ、契約を切られた自分の一日を、この一行が真上から見下ろしているように感じた。
「読ませてください」
「差し上げます。……ただし」
八神は少し声を落とした。
「読み終える前に、決断していただきたい。要石として我々に協力していただけるか。あるいは板橋のアパートに戻り、ご自身のマイナスの中で静かに生きられるか」
陽は冊子を胸のあたりで握りしめた。
「協力すると、僕には何か良いことがありますか」
「特にありません」
八神は正直に答えた。
「悪いこと、なら」
「命の危険が増えます」
「……」
「ですが、ひとつだけ」
八神は円卓の向こうから、まっすぐに陽を見つめた。
「あなたの生涯で初めて、あなたの存在が誰かの役に立ちます。地球規模で」
陽はしばらく黙って、その言葉を反芻した。
生まれてから二十八年間、自分は誰の役にも立ってこなかったと思ってきた。母は自分を産んで三年で家を出た。父は高校に上がる前に病死した。親戚は顔を見ると気まずそうに目を逸らした。恋人はできず、友人と呼べる関係はいつも半年で途切れた。派遣先ではいつも「悪気はないんだけどね」と言われた。
自分がここにいることの意味を、誰かに肯定されたことがほとんどなかったのだ。
「協力します」
陽はそう答えた。自分でも拍子抜けするほど、あっさりと。
――そしてこれが、彼の平々凡々な二十八年間を根こそぎ揺さぶることになる決断だった。
成功者たちは
皆 自分の努力を語ることなく
運が良かったと謙遜する
その一節を、陽は八神の冊子から見つけたが、自分にはまだ関係のない話だと思ってしおりを挟むこともなく次のページへ進んだ。彼はまだ、努力の上に運が舞い降りるあの上昇気流のような感覚を知らなかった。



第3章 一日一善のおばちゃん
運量子庁からの帰り道、陽は板橋のアパートまで電車を使わずに歩いた。
正確に言えば、歩こうと思って歩いたわけではなく、駅の改札で公用車の運転手が「ここまでで結構ですか」と丁寧すぎるほど丁寧に確認した際、陽が「ここでいいです」と答えた瞬間、なんとなくまっすぐアパートに帰る気になれなかっただけだった。
八神から手渡された『運のメカニズム』の冊子は、上着の内ポケットに入っている。歩くたびに、心臓の上で薄い紙束が擦れる音がした。
宇宙のバランスの、要石。
その言葉は、聞いた瞬間よりも、駅を出て荒川の土手沿いを歩き始めてから、じわじわと陽の背中を重くした。要石というものが具体的に何なのか、彼にはよくわからない。神社の下に埋まっている石だろうか。地震を鎮めるという、アレだとするなら、自分は鯰の頭を押さえつけている名もない石ということになる。
石は動かない。石は選ばれない。石はただそこにある。
だが、石はいつも地面の下だ。
陽は土手の斜面に生えた雑草を爪先で軽く蹴った。名前を知らない黄色い花が、風に揺れた。
アパートに戻ったのは、日が完全に落ちてからだった。
三〇二号室のドアに鍵を差し込もうとしたとき、隣の三〇一号室のドアが開いた。
「あら、陽くん、おかえりなさい」
原田さんだった。
年の頃は六十を過ぎているはずだが、正確な年齢を陽は知らない。この築三十年の木造アパートに陽より先に住んでいて、引っ越してきた日に玄関のドアの前へラップにくるまれたおにぎりを二個置いておいてくれた人だ。もう五年になる。
「今、お帰り? 遅かったのねえ」
「はい、ちょっと区役所で」
「区役所。生活保護?」
「……いえ、まあ、その、健康診断みたいなもので」
「そう。健康が一番よ」
原田さんはそう言って深く頷いた。両手には青いポリバケツを持っていた。中に雑巾とたわし、洗剤のボトルが入っている。共用廊下の掃除をこれから始めるらしかった。
「原田さん、この時間から掃除ですか」
「うん、朝は忙しくてね。今日は昼にお医者行って、それから買い物行って、洗濯物取り込んで、ご飯食べて、やっと今」
「……」
「歳を取るとね、一日の中で体の動く時間帯がだんだん短くなるの。夜のほうが調子いい日もあるのよ」
原田さんはそう言って笑った。
陽はなんとなく鍵を差し込むのをやめ、鞄を自室の玄関脇に置いてから外に出た。
「手伝います」
「あら、いいのに」
「僕、今日時間があるので」
正確には時間しかない、というのが正しい。派遣は切られた。次の職探しは明日からでも間に合う。
陽は原田さんからたわしを一本受け取り、共用廊下の隅にこびりついた土埃を屈んでこすり始めた。
「陽くん、若いのに腰、大事にしてね」
「はい」
「私ね、五十過ぎたときにぎっくり腰やってね。それからよ、若いうちが本当に大事だと思うようになったのは」
「……」
「若いってね、あるだけで、それが運なのよ」
――そう聞かされた瞬間、陽の手がたわしを持ったままふっと止まった。
若い、ということが運。
彼の身体には九兆九千九百九十九億の−LQが凝集している。地球上の個人としての圧倒的最大値。人類史上最悪の運。
その身体が、それでもここまで五体満足で歩いてこられたこと。二十八年間、大きな病気ひとつせずに、こうしてしゃがんでたわしを動かせていること。
陽は自分の右手の甲をぼんやりと見つめた。関節の皺のひとつひとつが、蛍光灯の下ではっきりと影を落としていた。
原田さんはそんな陽の様子を特に気にする様子もなく、鼻歌のようなものをひらひらと口ずさみながら廊下の反対側を拭いていた。
「原田さん」
「はい」
「原田さんは、なんで毎日こんなことしてるんですか」
「こんなこと、って」
「掃除とか、道の掃き掃除とか、あと、あの、猫」
アパートの裏手に雨よけの箱を作り、原田さんが毎朝餌をやっている茶トラの子猫がいた。首輪はない。誰の猫でもない。原田さんが勝手に「みかん」と呼んでいた。
「みかんちゃん?」
「はい」
「あの子はね、去年の秋に雨の中でぴいぴい鳴いてたのを見つけて。ほっとけなかったのよ」
原田さんは雑巾をバケツの水で絞りながら続けた。
「特に深い理由はないの。理由があってやることって続かないもの」
「続かない、ですか」
「うん。ご褒美とか感謝とかそういうの目当てにするとね、貰えなかったときに腹立っちゃうでしょう」
「はあ」
「腹立てながら善いことするのは、善いことじゃなくて、ただの貸し借りだから」
陽はたわしを動かす手をゆっくり再開した。
「一日一善って言うでしょう」
「はい」
「あれ、私は順番が逆だと思うのよ」
「逆」
「善いことをするから一日になる。一日を、善くする、っていうかね」
原田さんはそう言って、また鼻歌のようなものを口ずさみ始めた。
陽はしばらく無言で廊下の隅を磨いた。
ならば
一日一善
世の為
人の為
自ら何かに加勢出来たら
偽善でも結構
運はそこで味方に付く
――胸ポケットの八神の冊子の中にあるそんな一節を、陽はまだ知らなかった。だが、それに近い温度のものを、この日、この廊下でしゃがんだ姿勢のまま、彼は確かに指先で触れていた。
掃除が終わったのは二十一時を回った頃だった。
原田さんはバケツを片付けながら「ちょっと待ってて」と言い、部屋に戻って白い皿を持って出てきた。皿の上には握られたばかりのおにぎりが二つ乗っていた。
「今日、鮭が安かったからたくさん焼いたの。もらってくれる?」
「あの、いつもすみません」
「いいのよ。私一人じゃ食べきれないんだから」
陽は皿を両手で受け取った。
――そのおにぎりが、あと数日後、彼の存在をこの世界に繋ぎ止める錘(おもり)になることを、まだ誰も知らない。
原田さんは部屋に戻る前に、ふと廊下の窓の外を見た。
「あら、今日の月、綺麗ね」
陽もつられて外を見た。
雲の切れ間に、半月に少し欠けた月が白く滲んでいた。それは彼が今日、区役所と霞が関で見せられた青い霧のマップとも、赤黒い霧のマップとも、まったく別の光だった。ただの月の光だった。
「原田さん」
「うん?」
「僕、しばらく少し留守にするかもしれません」
「あら、旅行?」
「……のようなものです」
「気をつけてね。おにぎりは冷凍しておくと日持ちするから」
原田さんはそう言って、自分の部屋のドアを静かに閉めた。
陽は二つのおにぎりが乗った皿を両手で持ったまま、しばらく廊下に立っていた。皿の熱が、じんわりと指の腹に伝わっていた。
――要石は、いつも地面の下だ。
――だが、要石を上から見下ろしている月は、いつも地面の上にある。
意味のない比喩が、彼の頭の中をゆっくりと通り過ぎていった。



第4章 キーストーンの召喚
三日後の朝、六時。
まだ暗いうちに陽の携帯電話が鳴った。
「沢渡さん。詠美です。今から迎えに上がります。二十分後、アパートの前」
「あの、今日まだ心の準備が」
「その準備の時間を、これから車内で三十分差し上げます」
電話は切れた。陽は寝袋のような毛布から抜け出し、冷たい水で顔を洗い、シャツの上に一番まともなジャケットを羽織った。
冷凍庫から原田さんのおにぎりをひとつ取り出した。ラップに包み直し、ジャケットの内ポケットに入れた。反対側の内ポケットには八神の冊子。左右の胸に、それぞれ違う重さの錘を抱えた形になった。
黒塗りの公用車は時間ちょうどに来た。
車内には詠美と、そして後部座席の中央に八神室長が座っていた。八神は今日は黒いスーツではなく、濃いグレーの背広を着ている。ネクタイの結び目はやはり綺麗すぎるほど整っていた。
「沢渡さん、朝早くから申し訳ない」
八神はそう言って車内で軽く頭を下げた。
「事態が想定より早く動きました」
車は環状道路を抜け、首都高速に乗った。窓の外を、まだ青みがかった夜明け前の街が流れていく。
「昨夜、二十三時三十七分。ラクセ・ホールディングスが東京湾上に建設中の〝ラクセ・タワー〟の最終工程を非公式に完了させました」
「ラクセ、タワー」
「はい」
八神の代わりに詠美が説明を引き取った。
「Luck Exchange の頭文字を取ってラクセ、と略します。ラクセ・ホールディングスは日本国内、および東アジアの+LQ市場のおよそ七十四パーセントを握っている財閥です。CEOは神楽坂 誠(かぐらざか・まこと)。表向きは投資会社の会長ですが、実質この国のLQ経済の九割を差配しています」
「そんな人がいたんですね」
「表舞台には出ません。テレビにも新聞にも顔写真は一度も出たことがありません」
「僕、こんな世界に住んでたんですね」
陽は乾いた声で言った。詠美はその皮肉を無視した。
「ラクセ・タワーは公式には〝海上型データセンター〟という名目で建設されてきました。ですが実態は違います」
「実態」
「世界規模のLQオークション会場です」
八神が詠美の言葉を継いだ。
「明日の正午――正確には三十時間後――ラクセ・タワーの最上階で〝グローバル・ラック・オークション〟が開催されます。世界中の+LQ保有者が自分の持ち分を出品し、落札者はたった一人。落札金額の下限は公表されていませんが、我々の試算では地球のGDPのおよそ二・三倍」
「……はあ」
「落札者は事実上、地球上のプラス運量子の九十九パーセントを独占することになります」
車がレインボーブリッジに差し掛かった。まだ夜が明けきっていない海の向こうに、白い塔の先端が朝焼けを反射して点のように光っていた。
あれがラクセ・タワーだ、と詠美が指差した。
「地上二百四十七階、海上高度およそ九百八十メートル。世界一高い建造物です。今朝、完成しました」
「昨日までなかったんですか」
「ありました。ただ最上階の展望フロアが昨夜、湾内から曳航されて上部にドッキングされたのです。完成というのはその意味です」
「便利ですね」
「便利というより常軌を逸しています」
詠美はそう答えた。彼女は時折、真顔で辛辣なことを言う。
車はいつの間にか湾岸のヘリポートに入っていた。専用の待機所に白いヘリコプターが一機、プロペラを回さずに静かに待っている。
「これから我々と一緒にラクセ・タワーに向かっていただきます」
八神が車を降りながらそう言った。
「オークションの、下見ですか」
「いいえ」
八神はヘリのドアを開けながら振り返った。
「あなたが要石として〝場〟の中に立つことで、初めて我々にも神楽坂の狙いが正確に見えるようになります。あなたのマイナスが強すぎて、通常のセンサーでは周辺のプラスが逆に『見えなくなっている』のです」
「見えないほど深い、ということですか」
「はい」
「僕、天体観測でいうとブラックホールみたいなものですね」
「まさにその通りです」
八神はそう言って、初めてはっきりと笑った。
ヘリコプターはゆっくりとプロペラを回し始めた。夜明けの光が湾の水面を少しずつ橙色に染めていく。
陽はシートベルトを締めながら、内ポケットの重さを両手でそっと確かめた。左に原田さんのおにぎり。右に八神の詩集。
――要石が、初めて地面から浮き上がる瞬間だった。
ヘリコプターがラクセ・タワーの上空に近づくにつれ、陽は自分の頭の中に奇妙な違和感が広がるのを感じた。
耳鳴りではない。頭痛でもない。もっと深い場所で、何かがゆっくりと押し寄せてきている。
「感じますか、沢渡さん」
詠美がヘッドセット越しに声をかけた。
「これが+LQの集積です。あなたのマイナスと共鳴しかけています」
「僕、吐きそうです」
「吐かないでください。ヘリの中は狭いので」
詠美の返答は冷徹だった。
タワーは近づくにつれ、その大きさが視覚を圧倒した。地上二百四十七階と聞いても数字はただの数字だ。だが実物の白い塔が朝の海の上にまっすぐ立っている光景は、数字とは次元の違う圧倒感があった。上空から見下ろすと、塔の頭頂部には円盤状の展望フロアが載っていて、まるで細い竿の先に刺された白い月のようだった。
「あの円盤の中でオークションが開かれます」
詠美が指差した。
「今日は下見です。神楽坂はまだ現地入りしていません。オークションは明日の正午。今日は警備の穴を確認します」
「僕、要石ですよね。下見の要石ってなんですか」
「歩く警報装置です」
詠美はそう答えた。
ヘリコプターはタワー中腹の専用ヘリパッドに着陸した。ドアが開くと湾の潮の匂いが鼻先に流れ込んだ。同時に陽の胃の底で、ぐるりと何かが動いた。それは単なる乗り物酔いではなかった。彼の内側にある九兆九千九百九十九億の−LQが、周囲の空気に満ちた+LQに警戒するように身を震わせていたのだ。
タワー内部は白い大理石と透明なガラス、そして金の縁飾りで統一されていた。趣味が悪いのか良いのか陽には判断がつかなかったが、ただ凄まじく金がかかっていることだけは内装のあらゆる細部から匂い立っていた。
「これから幹部フロアの応接室でお待ちいただきます」
八神がそう言った。
「先方の担当者と面談です」
「担当者」
「神楽坂誠その人ではありません。彼の孫娘です」
――八神がそう言った瞬間、陽の頭の中に、なぜか板橋のアパートの裏手にいるあの子猫の姿がふとよぎった。
彼はまだ、その連想の理由を知らなかった。
応接室の扉が、内側から静かに開いた。
「はじめまして、沢渡さん」
現れたのは二十歳前後の、ワンピース姿の細身の女性だった。長い髪をひとつに結び、化粧はほとんどしていない。ラクセ財閥の後継者と聞かされていた陽が想像していた姿とは、まるで違っていた。
「神楽坂 天音(かぐらざか・あまね)と申します」
彼女はそう名乗り、丁寧に深く頭を下げた。
そして頭を上げたとき、彼女は少しはにかむように笑った。
「あの、突然で恐縮ですが」
天音はそう前置きしてから続けた。
「沢渡さんは、もしかして板橋区四丁目のあのアパートにお住まいですか」
陽は自分の耳を疑った。
「……なんでそれを」
「みかんちゃんの」
天音はそう言って、内ポケットから一枚の写真を取り出した。
写真には、原田さんのアパートの裏手で雨よけの箱に丸まっている、あの茶トラの子猫が写っていた。
「みかんちゃんの本当の飼い主が、私なんです」
――要石は地面の下にある。
――だが、地面の下はときどき、思いもよらない場所と繋がっている。
陽の内ポケットで、原田さんのおにぎりが少しだけ重くなった気がした。



第5章 上昇気流
天音の話は単純だった。
一年前の秋、彼女はロンドンの寄宿舎から初めて日本の祖父の家に長期滞在した。祖父の家は東京・松濤にあり、広い庭付きの豪邸で、当然ながら通りには一匹の野良猫もいなかった。
だが、天音は一日だけ、祖父の運転手をつけずに板橋の商店街を歩いたことがあった。祖父が「東京の下町を一度見てきなさい」と珍しく気まぐれを言ったからだった。
板橋の四丁目、狭い路地の中で、彼女は雨に濡れた生まれたばかりの子猫を拾った。連れて帰りたかったが、松濤の家は祖父が動物アレルギーだった。仕方なく雨よけの箱を作り、そこに子猫を置いて翌朝餌を届けようとしたら、すでに餌が置かれていた。
原田さんが先に見つけていたのだった。
「私、次の日遠くから見てたんです。おばあさんが猫に話しかけながら餌をあげていて」
天音は写真の中のみかんちゃんを、指の腹でそっと撫でるようにした。
「この人にお任せしたほうがこの子は幸せだって思ったんです。祖父の家に連れて行っても、私は寄宿舎に戻ればいなくなってしまうから」
「……そうでしたか」
「時々日本に戻ってきたとき、遠くから様子を見に行っていました。一度、路地の入り口で、あのアパートの三〇二号室の窓から出てくる若い男の人が、みかんちゃんに『おはよう』って声をかけているのを見ました」
陽は、自分がそんなことをした覚えを正直まったく持っていなかった。だが朝、寝ぼけて出勤する道すがら、無意識にそういう言葉を口走っていた可能性は否定できなかった。
「あの方が沢渡さん、ですよね」
「……たぶん」
「今回、祖父の会社の内部資料で『ラクセ・タワー・オークションに政府側から要石が派遣される』という記載を見て、その要石の住所が板橋区四丁目と書かれているのを見つけました」
天音はそこで深く頭を下げた。
「私、あなたにお願いに来たんです」
応接室の空気がしんと静まり返った。窓の外、海の水面が朝日でぎらぎらと光っていた。
「祖父を止めてください」
八神と詠美は応接室の外に控えており、室内にいるのは天音と陽の二人きりだった。
「祖父は五年前から様子がおかしいんです」
天音は静かに語り始めた。
「元々無口な人でした。でも優しい人だった。私が寄宿舎に入る前は、松濤の庭で一緒に樹に虫がつかないよう消毒をしてくれる、そういう人でした」
「はい」
「五年前、祖母が亡くなってから祖父は変わりました。+LQを集めるようになったんです。最初はラクセの経営のためだと言っていました。でもここ二年は違います」
「違う、というと」
「祖父は『寿命』を買いたがっています」
寿命、という言葉が応接室の白い壁にぽつりと置かれた。
「LQは寿命を延ばすと言われているんです。医学的にはまだ確定していません。でも+LQ残高が高い人は統計的に平均寿命が長い。祖父はそれを『延命の切符』だと信じています」
「……」
「祖母はある事故で亡くなりました。祖父はずっとそれを後悔しているんです。もしあのとき+LQを持っていれば、祖母はあの事故に遭わなかった、と」
天音は自分の膝の上で両手を静かに組んだ。
「明日、祖父は地球上のほとんどすべての+LQを独占します。そしてそれを『ある取引先』に売り渡すつもりです」
「取引先」
「地球の外です」
陽はその言葉を聞いた瞬間、応接室のシャンデリアの光が少しだけ揺らいだような気がした。錯覚だ、と自分に言い聞かせた。
「地球の外」
「はい。祖父はその取引先から『永遠の生』を対価として受け取ると契約書に書いています。私、その契約書を祖父の書斎で見ました」
「宇宙人と契約……」
「そう聞くと荒唐無稽ですよね」
天音は自嘲するように笑った。
「私も最初は祖父がおかしくなったのだと思いました。でもラクセ・ホールディングスの監査資料の中に、正体不明の『海外法人』が複数登場するんです。所在地は書類上ケイマン諸島やジブラルタルといった地球上の場所になっています。でも実際に問い合わせると、その住所には何もありません」
「……」
「祖父はそういう表向きの窓口を複数持っています。そして彼らを通じて+LQを地球外に輸出しようとしています。輸出、という言い方が正しいかはわかりませんが」
陽は自分の内ポケットにある原田さんのおにぎりの重さを静かに確認した。
「もしそれが本当だったとして」
陽は慎重に声を発した。
「それが成立したら、地球はどうなるんですか」
天音の目がそこで初めてはっきりと揺れた。
「地球上の+LQは、ほとんどゼロに近くなります。+LQを持たない世界では、良いことは統計的にほとんど起こらなくなります。誰も宝くじに当たらない。誰も良い縁に恵まれない。誰も思わぬ幸運を掴めない」
「……」
「代わりに−LQはそのまま残ります。QBL――プラマイゼロの法則――は、実は地球単体では成立しません。宇宙全体で辻褄を合わせているだけです。+LQだけが外に流出しても宇宙全体ではゼロのままですから、法則は破れません」
「地球だけが」
「地球だけがマイナスの『沈底(しずみ)』になります」
陽は深く息を吸った。
天音の言葉が、彼の内側で少しずつ意味を成し始めた。
彼が二十八年間抱え続けてきた「観測史上最低の運」。それは彼一人の身に起きた個別の不幸のように見えて、実は地球という星が抱える巨大な均衡の、ほんの一部の極端な偏りに過ぎなかったのだ。
もし+LQが地球外に流出したら。
原田さんは朝掃除に出て転倒するかもしれない。
みかんは餌を食べているところを誰かに蹴られるかもしれない。
派遣先でなんとか働いていた同僚たちは、次々と契約を切られるかもしれない。
無数の、平々凡々な、〝わずかに足らずとも安定している〟人生が、一斉に−LQの沈底に沈むかもしれない。
陽の頭の中で、八神の詩の一節がふと浮かんだ。
健康であること
安全に来れたこと
わずかに足らずとも
安定していること
そこそこ足らずとも
カネは回っていること
――そういう目立たない、けれど確かに存在している日常の運たちが、地球から根こそぎ剥がされる。
陽は応接室の窓の外を見た。
海の上に、雲の切れ間から太陽の光がまっすぐに一本降り注いでいた。
その光の柱を見ていると、なぜか彼の胸の内側に、これまで感じたことのない奇妙な感覚がそろりと湧き上がってきた。
怒りではない。正義感でもない。もっと地味な、けれど頑固な何かだった。
「天音さん」
「はい」
「僕、たぶん今、生まれて初めて自分が『要石で良かった』と思いました」
「……」
「二十八年間、僕はずっと鳥の糞に当たり続けてきたんです。財布を落として、電車を止めて、あんこの入っていないあんぱんを食べてきた。それがこういう日のためだったのなら、たぶん悪くない話です」
天音はしばらく陽の顔をじっと見つめていた。それから彼女は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「まだ何もしてません」
「『やる』と決めてくれたことが、もう私にとっては十分です」
応接室の外で、詠美と八神が待っていた。
「決まりましたか」
詠美が静かに訊いた。
「決まりました」
陽はそう答えた。
八神はほんの少しだけ目を細めた。それは笑顔と言うには弱く、けれど無表情と言うには確かに温度のある微妙な表情だった。
「では、明日正午。ラクセ・タワー最上階オークション会場」
「はい」
「あなたには要石として、そこに立っていただきます」
「立って、それから」
「それから、あなたの−LQを解き放ちます」
八神はそう言って、初めて少しだけ声を落とした。
「これは率直にお伝えしなければなりません、沢渡さん」
「はい」
「あなたが九兆九千九百九十九億の−LQを一度に解き放った場合、あなた自身がその反動でどうなるかは我々にも正確に予測できません」
「消えますか」
「消える可能性が六割です」
八神は静かにそう告げた。
陽はそれを聞いて、しばらく廊下の白い壁を見つめていた。やがて、彼は少しだけ笑った。
「六割で消えて、四割で残るんですね」
「はい」
「二十八年間、僕、九割九分悪いことばかりだったんです。四割で残るなら上出来です」
その日の午後、陽はヘリコプターで本土に戻された。
板橋のアパートに帰る途中、車内で彼は八神の冊子を静かに開いた。真ん中あたりのページに、こういう一節があった。
そう
努力の上に
運が舞い込めば
それは強い味方となって
目の前に訪れた上昇気流に乗り
舞い上がることも出来ようが
――努力の上に、運が舞い込む。
陽は自分の二十八年間を努力と呼べるかどうか、正直自信がなかった。
だが少なくとも、鳥の糞に当たり続けても、財布を落とし続けても、あんこの入っていないあんぱんを食べ続けても、彼は生きるのをやめなかった。
朝、起きた。
夜、眠った。
時々、隣人の掃除を手伝った。
名前も知らない子猫に、寝ぼけて「おはよう」と言った。
それが努力と呼べるかはわからない。けれど少なくとも、彼は『続けて』いた。
――続ける、ということが、努力のいちばん薄い、いちばん静かな形なのかもしれなかった。
車の窓の外で、夕方の風が街路樹の葉をまとめて一方向へ押し流した。
上昇気流、というほどではない。けれど確かに、風が吹いていた。
陽は冊子を閉じ、内ポケットの反対側に入れていた原田さんのおにぎりをそっと握り直した。まだ少しだけ、温度が残っている気がした。



第6章 ラクセ・タワー襲撃
翌日、正午まであと三十分。
陽はラクセ・タワー最上階、円盤状の展望フロアの控え室にいた。窓の外には朝とは打って変わって雲ひとつない青空が広がっている。九百八十メートルの高さから見下ろす海は、皺ひとつない布のように静かだった。
「沢渡さん、これを」
詠美が小さな金属製のブローチを差し出した。羽根を広げた鳥をかたどった地味な意匠だった。
「発信機ですか」
「違います。あなたの−LQの放出タイミングを我々の管制室と同期させるためのキーです。オークションが最高潮に達した瞬間――神楽坂が落札を宣言した、その一秒後――ここを親指で押してください」
「押したら」
「あなたの中の九兆九千九百九十九億が一気に解き放たれます」
陽はブローチを受け取り、ジャケットの襟に留めた。左胸には原田さんのおにぎり。右胸には八神の冊子。そして今、襟に詠美が渡した鳥。三つの重さが彼の身体の輪郭を静かに決めていた。
「八神さんは」
「会場の反対側、来賓のふりをして潜入しています」
「天音さんは」
「祖父の付き添いとして壇上にいます。彼女はあなたと接触したことをまだ祖父に知られていません」
控え室のドアが開き、案内係の男が「そろそろお時間です」と告げた。
展望フロアはドーム状の巨大な空間だった。床は磨き上げられた黒曜石のような石材で、天井は外の青空がそのまま透けて見える強化ガラス。壁際には世界各国の富豪や政府関係者、正体不明の代理人たちがそれぞれの陣営で静かに立っていた。誰も大声を出さず、誰も笑わない。まるで葬儀の会場のようだった。
壇上、中央の演壇に白髪を後ろに撫でつけた痩身の老人が立っていた。神楽坂誠。写真でしか見たことのなかった顔が、初めて実物としてそこにあった。目は落ち窪み頬はこけていたが、背筋だけは不自然なほどまっすぐに伸びている。
その隣に天音が立っていた。彼女は昨日会ったときと同じ静かな表情のまま、会場のどこかに視線を漂わせていた。一瞬、その視線が陽の立つあたりで止まった。
司会者がマイクを取った。
「本日、正午をもちまして『グローバル・ラック・オークション』を開始いたします。出品物は、地球上に現存する+LQ残高の九十九・八パーセント。開始価格は――」
数字が読み上げられた瞬間、会場の空気が目に見えて張り詰めた。壁際の代理人たちが一斉にタブレット端末に視線を落とした。
「開始します」
司会者の声とともに、演壇の背後の巨大スクリーンに青い数字が猛烈な速さで上がり始めた。
陽はその光景を見ながら、自分の中の−LQが周囲の+LQの奔流に静かに、しかし確実に反応しているのを感じた。胃の底から頭の芯まで、細かい振動が這い上がってくる。吐き気に近いがそれだけではない、もっと根源的な「異物感」だった。
彼は、自分がこの空間で唯一の異物なのだとはっきりと自覚した。
――要石とは、異物のことだ。
ふと、そんな言葉が頭をよぎった。
――周囲と馴染まないからこそ、周囲を支えられる。
会場の空気がさらに張り詰めていく。青い数字は地球のGDPの二倍を超え、二・三倍に近づいていた。
そのとき、会場の入口付近で小さな悲鳴が上がった。
黒い制服を着た警備員たちが一斉に扉のほうへ走り出した。天井のスピーカーから緊急放送のアナウンスが流れた。
「関係者以外の立ち入りを確認しました。会場内の皆様は落ち着いて――」
陽は視線を巡らせた。入口から数十人の見覚えのない集団がなだれ込んでくるのが見えた。彼らは腕に青いLQマップの偏在図を印刷した腕章を巻いていた。
「ラクセの独占反対デモ隊です」
いつの間にか陽のすぐ後ろに立っていた八神が囁いた。
「彼らは我々の作戦とは無関係です。純粋な市民団体です。ですが、これは好都合かもしれません」
「好都合」
「会場の混乱は、あなたが−LQを解き放つ瞬間の絶好の目くらましになります」
演壇の神楽坂は、デモ隊の乱入に眉ひとつ動かさなかった。彼は静かにマイクに向かって言った。
「続けなさい。オークションは止めない」
警備員たちがデモ隊を力ずくで排除し始めた。押し合いの中で誰かが転び、悲鳴が上がった。会場の一部が騒然となる。
その混乱の中、陽は天音と目が合った。彼女は小さく頷いた。
――そのとき、演壇の背後のスクリーンで青い数字がピタリと止まった。
「落札されました」
司会者の声が響いた。
「落札者は――神楽坂誠様」
会場が水を打ったように静まり返った。
神楽坂は演壇の上で、静かに両手を広げた。
「地球上の+LQはこれより正式に私、神楽坂誠個人の所有物となります」
その声には勝利の高揚も喜びもなかった。ただ乾いた、確認のような響きだけがあった。
「そして、この所有権は直ちに『取引先』へと移転されます」
神楽坂がそう言った、まさにその瞬間。
「今です、沢渡さん」
詠美の声が雑踏の中、はっきりと陽の耳に届いた。
陽は襟のブローチに親指を押し当てた。
――押した。
世界が一瞬、白くなった。
彼の身体の中心――胸のあたりから、目に見えない、しかし確実に存在する何かが外に向かって放たれていくのを陽は感じた。それは痛みではなかった。ただ二十八年間、彼の内側に静かに積み重なってきたありとあらゆる不運の重みが、一気に彼の輪郭の外へと溢れ出していく感覚だった。
床が大きく揺れた。
天井の強化ガラスに蜘蛛の巣状の亀裂が瞬時に走った。
会場の照明が一斉に明滅した。
壁際の代理人たちのタブレット端末が次々と火花を上げて沈黙した。
そして――演壇の背後のスクリーンに表示されていた青い数字が、みるみるうちに色を失っていった。青は灰色に、灰色はそして赤黒く。
神楽坂の顔が、初めて驚愕に歪んだ。
「――何が」
彼の声はそこで途切れた。
会場全体を包んでいたあのじわじわとした緊張と高揚の気配が、一瞬にして粘度の高い重苦しい沈黙に塗り替えられていった。
陽はその中心に立っていた。両膝が激しく震えていた。
だが、彼は倒れなかった。



第7章 プラマイゼロの真実
会場は混乱の極みにあった。
窓の外の空が、さっきまでの晴天が嘘のように急速に鉛色の雲に覆われていった。強化ガラスの亀裂から細い隙間風がひゅうと音を立てて吹き込んでくる。
「これは、いったい……」
神楽坂は演壇の上で両手を震わせていた。周りに集まっていた側近たちが一斉に後ずさる。
八神が混乱に乗じて演壇の近くまで進み出た。陽も詠美に支えられながらその後を追った。
「神楽坂さん」
八神が静かに声をかけた。
「運量子庁、特別均衡室の八神です。あなたの落札した+LQは、いまこの瞬間、彼――沢渡陽さんの−LQと相殺されました」
「相殺……」
神楽坂はその言葉を口の中で繰り返した。
「地球上の+LQの九十九・八パーセント。それに匹敵する量の−LQが、この一瞬で放出されたということですか」
「正確には、彼の−LQは九兆九千九百九十九億九千九百九十九万九千九百九十九粒。あなたが落札した+LQの総量とは桁が違います。それでもその方向性――+から−への急激な傾き――を、彼の存在がこの会場において一時的に押し戻したのです」
八神はそう説明しながら、陽の肩にそっと手を置いた。
「彼は要石です。あなたがこの星のプラス運を地球外に運び出そうとしたまさにその瞬間、彼がこの星のマイナス運をこの会場にまとめて叩きつけたのです」
神楽坂の顔から血の気が引いていった。
「馬鹿な。私は正当な取引を――」
「正当、ですか」
天音がそこで初めて口を開いた。
「おじいさま」
彼女の声は震えていた。だがその視線はまっすぐ祖父を見据えていた。
「私、書斎の契約書を見ました。『地球外』の相手に+LQを輸出する契約」
「天音――」
「対価は、おじいさまの『永遠の生』」
「……」
「おばあさまが亡くなったこと、私辛かったです。おじいさまがそれをずっと後悔してることも知ってます。でも」
天音は拳を握りしめた。
「地球中の人から+LQを根こそぎ奪っていいわけじゃない!」
会場の隅で、亀裂の走った天井からぽつり、ぽつりと雨が漏れ始めていた。鉛色の雲から本物の雨が降り始めていたのだ。
神楽坂はしばらく無言だった。彼は演壇の手すりに両手をついた。その手が微かに震えている。
「……お前は知らないんだ」
やがて、絞り出すように彼は言った。
「妻を失った日。私はその日、朝からずっとツイていなかった。会議室の鍵が開かなかった。車が渋渋滞に巻き込まれた。携帯電話が圏外だった。そして病院に着いたとき、彼女はもう――」
神楽坂の声がそこで詰まった。
「もし――もし私があの日、+LQを少しでも持っていたら。会議室の鍵はすぐに開いた。渋滞には巻き込まれなかった。携帯は圏外にならなかった。私は間に合ったんだ!」
会場に雨の音だけが静かに響いていた。
陽はその言葉を聞きながら、自分の胸の内ポケットにまだ原田さんのおにぎりが入っていることを確かめた。冷凍のままここまで持ってきてしまったそれは、もうとっくに解凍され、柔らかくなっていた。
「神楽坂さん」
陽は震える足で一歩前に出た。
「僕は二十八年間、観測史上最悪の運を抱えて生きてきました」
「……」
「鳥の糞に当たって、財布を落として、あんこの入っていないあんぱんを食べて、契約を切られて。数えきれないくらいツイてなかった」
「それが、何だ」
神楽坂の声はまだ震えていた。
「それでも」
陽は続けた。
「その中で、僕におにぎりをくれる人がいました。理由もなく、ただ『ほっとけなかったから』って猫を拾って餌をやる人が。運が悪くても、隣に誰かがいれば一日は終わるんです」
陽は内ポケットから原田さんのおにぎりを取り出した。ラップの中で形が崩れ、ぐしゃりと潰れていた。それでも彼はそれを両手で大切に持ち上げた。
「あなたの+LQへの執着は、たぶん奥さんを失った悲しみと正比例しています。でもその執着が、地球中の『おにぎりをくれる人』の運を奪うことに繋がっている」
「……」
「奥さんが、それを望むと思いますか」
神楽坂は崩れ落ちた。
演壇の手すりに崩れるように両膝をついた。彼の乾いた頬を涙が一筋伝った。
「私は……」
彼の声は、もう経営者のものではなかった。ただの老いた一人の男の震える声だった。
「私はただ、もう一度彼女に会いたかっただけだ……」
天音が祖父の傍らに跪いた。彼女は何も言わず、ただ老いた祖父の背中にそっと手を添えた。
会場の照明が断続的に明滅していた。天井の亀裂からは雨が絶え間なく降り続けている。
だが、演壇の背後のスクリーンに映っていたあの赤黒く染まった数字が――ゆっくりと色を取り戻し始めていた。
赤黒は灰色に。灰色は青に。



第8章 観測史上最低値の使い道
雨はいつの間にかやんでいた。
会場のスクリーンに映る数字は青に戻ったあと、ゆっくりとゼロに近づいていった。+LQも−LQも極端な偏りをなくし、平準化されていく。誰かが「均衡が戻っていく」と呟いた。
陽は演壇のそばの床に座り込んでいた。全身から力という力が抜けていた。指先が震えてまっすぐ伸ばせない。
「沢渡さん」
詠美がそばに膝をつき、彼の脈を確かめた。
「気分は」
「……最悪です。いつも通り」
陽はそう言って小さく笑った。詠美の表情がわずかに緩んだ。
「六割で消えると聞いていました」
八神が陽の反対側に膝をついた。
「はい」
「消えませんでしたね」
「はい。すみません、期待に添えず」
八神はそこで初めて声を出して笑った。
「謝る理由がどこにもありません」
神楽坂は警備員に付き添われ、会場の奥の応接室に運ばれていった。天音は祖父に付き添いながら、一度だけ振り返って陽に深く頭を下げた。彼女の目にはまだ涙が残っていたが、その表情は来たときよりもずっと静かだった。
オークションは「技術的な不備」という名目で中止が発表され、落札は無効とされた。+LQは地球上にそのまま留まったのだ。
会場を出るとき、陽は床の隅に小さな白い塊が落ちているのに気づいた。
原田さんのおにぎりだった。混乱の中で彼の手から落ちてしまったらしい。ラップは破れ、米粒があたりに散らばっていた。
陽はしゃがみこんで、それを両手でそっと拾い集めた。
「もう食べられませんね、これ」
詠美が隣にしゃがみながら言った。
「はい。でも」
陽は崩れた米粒をラップの上に集めながら言った。
「捨てられないです、なんとなく」
詠美はそれ以上何も言わなかった。ただ陽が崩れたおにぎりを丁寧に、丁寧に拾い集めるのを黙って見つめていた。
その夜、板橋のアパートに帰り着いたのは日付が変わる少し前だった。
三〇二号室のドアの前に、陽はしばらく立っていた。隣の三〇一号室の窓から灯りが漏れている。原田さんはまだ起きているらしかった。
陽はドアをノックしようとしてやめた。今日あったことをどう説明すればいいのか、見当もつかなかった。「要石でした」「地球を救いました」――そんな言葉、誰が信じるだろうか。
代わりに彼は、崩れたおにぎりの残骸――米粒だけを集めた小さな包み――を原田さんの部屋のドアの前にそっと置いた。
メモを一枚添えた。
『いただいたおにぎり、大事なときに力をくれました。ありがとうございました。――陽』
書いてから、「大事なとき」という言葉があまりに漠然としていることに気づいた。だがそれ以上正確に書ける言葉が見つからなかった。
自分の部屋に戻り、鍵を閉め、靴も脱がずに玄関へへたり込んだ。
天井からはまだ水が垂れていた。ぽたり、ぽたり、と。バケツの中に水が静かに溜まっていく音が部屋に響いていた。
――何も変わっていない。
陽はそう思った。
天井はまだ直っていない。冷蔵庫の卵はまだ賞味期限切れのままだろう。派遣先にはもう戻れない。生活は明日からまたゼロから探さなければならない。
けれど。
彼は天井を見上げた。
――僕の観測史上最低値は、今日初めて使い道があった。
そう思うと、垂れてくる水の音さえ少しだけ違って聞こえた。
不運は消えなかった。ただ、それが「誰かの役に立つ」という新しい意味を一度だけ持った。それだけで十分だった。
陽は玄関に座ったまま、いつの間にか眠りに落ちていた。



第9章 後同輩、そんなことだよ
一週間後、陽は新しい派遣先の面接会場にいた。
面接官は四十代半ばの疲れた顔の男だった。履歴書をぱらぱらとめくりながら、「前職、三ヶ月で契約終了ですか」と無感情に確認してきた。
「はい」
「理由は」
「予算の都合と聞いています」
面接官はそれ以上深くは突っ込んでこなかった。よくある話、という顔をしていた。
面接の帰り道、駅の改札でICカードの残高がまた足りなかった。チャージ機の前でまた少し並んだ。
――変わらない。
陽はそう思いながら小さく笑った。
要石としての一件のあと、詠美から一度だけ連絡があった。「あなたのLQ残高は、あの日の放出により観測史上最低値から『単なる最低値』程度にまで緩和されました」と事務的な口調で報告された。
「単なる最低値、というのは」
「まだ日本国内で最下位です。ですが『観測史上』という枕詞は外れました」
「それは良くなったということですか」
「はい。統計的には」
陽は電話越しに、詠美が少しだけ口の端を上げているのを想像した。
「詠美さん」
「はい」
「原田さんに、ラクセ・タワーであったこと正直に話してもいいですか」
「守秘義務違反になります」
「じゃあ話しません」
「……ただ、個人的には」
詠美はそこで少し間を置いた。
「あなたが誰に何を話すかは、あなたの自由だと思います」
派遣会社から新しい仕事の紹介が来たのは、その三日後だった。運送会社の倉庫管理。特に変わったところのないごく普通の時給の仕事だった。
面接の合否連絡が来た日、陽は原田さんの部屋のドアを初めて自分からノックした。
「あら、陽くん」
「原田さん、あの、少しお話ししてもいいですか」
「いいわよ。上がっていく?」
陽は原田さんの部屋の小さな座卓の前に正正座した。原田さんはお茶を淹れてくれた。
「あの日置いていったメモ、読みました」
原田さんが湯呑みを陽の前に置きながら言った。
「『大事なときに力をくれました』って、あれどういうこと?」
「……信じてもらえるかわからないんですけど」
陽は湯呑みを両手で包むように持った。
「僕、少し前まで『要石』っていうのをやってました」
「要石」
「はい。地球の運のバランスを保つための、なんていうか、錘みたいなもので」
原田さんは目を丸くした。
「陽くん、それ本当?」
「本当です。信じてもらえないと思うんですけど」
原田さんはしばらく陽の顔をじっと見ていた。それから、ふふ、と笑った。
「信じるわよ」
「え」
「陽くんね、嘘をつくのが下手なんだもの。表情に全部出ちゃう」
「……」
「それに私思うのよ。この世の中、要石みたいな人がどこかにいなきゃ成り立たないって」
原田さんは湯呑みを両手で持ちながら続けた。
「私だってね、掃除もみかんちゃんの世話も誰かに褒められたくてやってるわけじゃないの。でもそれがこの廊下のどこかで誰かの支えになってるのかもしれない。そういう名前のつかない仕事って、世の中にいっぱいあるのよ」
「……」
「陽くんの要石も、たぶんその大きいバージョンなんじゃないかしら」
陽は湯呑みをじっと見つめた。湯気が静かに立ち上っていた。
「原田さん」
「はい」
「新しい仕事が決まりました。運送会社の倉庫の仕事です」
「あら、良かったじゃない」
「時給は前とそんなに変わらないです。特に面白い仕事でもないです」
「うん」
「でも、なんかちゃんと続けてみようと思います」
原田さんはまた、ふふ、と笑った。
「後同輩、そんなことだよ」
「え」
「後から続く人たちに伝えたいことなんて、結局そんなことだけなのよ。ちゃんと続けなさいって」
陽はその言葉の意味を正確には理解できなかった。だがなぜか、胸の奥に静かに落ちてくるものがあった。
湯呑みの中の茶を、陽はゆっくりと飲み干した。



第10章 平な道
半年後。
陽は倉庫の朝礼を終え、フォークリフトの点検簿に判子を押していた。同僚の一人が「沢渡さん、今日荷物多いっすね」と声をかけてきた。「そうだね」と陽は短く答えた。
三ヶ月ごとの契約更新は、この半年で二回無事に続いていた。特に目立った成果があったわけではない。ただ遅刻もせず無断欠勤もせず、淡々と積み荷を運び続けていた。
昼休み、休憩室のベンチで陽はコンビニのおにぎりを頬張っていた。鮭のおにぎりだった。中身にはちゃんと鮭が入っている。
「あんこの入ってないあんぱん、あれから食べてないな」
誰にともなくそう呟いて、陽は小さく笑った。
アパートの天井の水漏れは、あれから二週間後に業者が来て直った。管理会社からは詫び状代わりに商品券が届いた。金額は五千円。安すぎると思ったが、もらえるだけましだった。
三〇一号室の原田さんは相変わらず朝の掃除を続けている。みかんは少し大きくなった。天音は月に一度くらい、こっそりみかんの様子を見にきているらしい。時々陽と路地ですれ違う。彼女はその度に静かに会釈をする。会話はほとんどしない。それで十分だった。
神楽坂誠はラクセ・ホールディングスの経営から退き、天音が後を継いだという話を詠美から聞いた。会社の方針は大きく変わったらしい。「+LQの独占」から「+LQの公平な分配」へ。地味な、けれど確実な方向転換だった。
詠美とはあれから半年で三度連絡があった。二度は業務上の確認。一度は彼女のほうから「近くまで来たので」と板橋の商店街のコロッケ屋の前で待ち合わせた。ただコロッケを二人で立ち食いしただけだった。それ以上のことはまだ何もない。だが、それで十分だった。
ある日の夜、陽は押し入れの奥から八神の冊子――『運のメカニズム』を久しぶりに取り出した。ページをめくると、まだ読んでいなかった最後のほうのページに、こう書かれていた。
平々凡々な日々は
きっと
特別な日々よりも
歩くのが難しい
なぜなら
平な道には
迎え風も
追い風もなく
ただ
自分の足だけが
頼りだから
けれど
その道を
一歩ずつ
歩き続けられることこそ
本当の 運の
使い方なのかもしれない
陽はその一節を何度も読み返した。
観測史上最低値だった彼のLQ残高は、いまも日本国内で最下位のままだ。宝くじはまだ一度も当たったことがない。契約はいつまた切られるかわからない。あんこの入っていないあんぱんは、そのうちまた彼に当たるかもしれない。
それでも。
陽は冊子を閉じ、窓の外を見た。
半月に少し満ちてきた月が、白く静かに浮かんでいた。あの日、ラクセ・タワーの上から見た赤黒い霧のマップも、青い霧のマップも、今はどこにも見えない。ただいつもと変わらない板橋の夜空がそこにあるだけだった。
要石は、いまも地面の下にある。
けれど地面の上を、彼は今日も一歩ずつ歩いている。
平な道を、ただまっすぐに。
――完――


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あとがき
本作『運のメカニズム』は、「運」という目に見えないあやふやな存在が、もし目に見える数値として社会を支配するようになったらどうなるだろう、というささやかな疑問から生まれました。
私たちは日々の生活の中で、思い通りにいかないことや理不尽なトラブルに見舞われると、つい「自分はなんて運が悪いのだろう」と投げやりになってしまうことがあります。しかし、一見すると何の役にも立たないように思える日々の忍耐や、報われない穏やかな善意が、実は巡り巡って誰かの日常を支える目立たない柱になっているのかもしれない――そんな願いを込めて、主人公・沢渡陽の物語を紡ぎました。
派手なヒーローのような解決はできなくとも、不運の中でも腐らず、隣人に少しだけ優しくし、今日一日を愚直に生き抜く。それこそが、この不確実な世界を生きる私たちが持ち得る最高の「力」なのではないかと思います。
作品の中に登場する八神室長の言葉や詩のように、皆様の歩む「平らな道」が、どうか静かで穏やかなものでありますように。