時を纏う人
―――還暦の夜に、纏ったことのない服を―――
まえがき
年齢を重ねるにつれ、私たちは知らず知らずのうちに「もう若くないから」「今更こんなことをしても」と、自分の心に小さなブレーキをかけてしまいがちです。けれど、心の奥底で静かに燃え続ける「自分らしく生きたい」という情熱は、決して消えることはありません。
本作『時を纏う人』は、還暦を迎えた主人公・美冬が、過去の「選ばなかった人生」と向き合いながら、本当の自分を取り戻していく物語です。若さへ執着することと、いくつになっても新しい一歩を踏み出すことの違い。それは、大人になった私たちが誰しも抱える葛藤かもしれません。
この物語が、日々の中でふと足をとめ、ご自身の「これから」に思いを馳せるきっかけとなれば幸いです。どうぞ、美冬の旅路を一緒にお楽しみください。
序章 燻る本音
年齢というものは、いつから服のように重くなったのだろう。
若い頃は気にも留めなかった。二十代の頃、開田美冬(かいだ・みふゆ)はリュックひとつで知らない街に降り立つことに、何のためらいもなかった。言葉の通じない国で道に迷っても、それすらも旅の一部として笑い飛ばせた。
けれど気がつけば、六十年という歳月が彼女の肩にのしかかっていた。還暦。その響きは、まるで扉が静かに閉まる音のように、美冬の耳の奥に残り続けていた。
「もう、そういう歳じゃないから」
その台詞を、この一年でいったい何度口にしただろう。誘われた登山も、通信講座で学び直そうとしていた語学も、若い同僚に誘われた一人旅の相談も、すべて「歳相応に」という見えない糸に絡め取られて、実行に移されることなく消えていった。
けれど、心の奥底では、小さな火種がずっと燻っていた。
――自分はいつまでも、自分でありたい。
その本音は、誰に言うでもなく、ただ美冬の中でじっと燃え続けていた。灰にはならず、かといって燃え上がることもなく。
そんなある雨の夜、美冬はいつもの帰り道で、見たことのない路地に出会うことになる。
第一章 消えた路地
その日は朝から小雨が降っていた。定年退職してから半年、美冬は週に三日、近所の図書館でボランティアの読み聞かせをしていた。子どもたちに絵本を読む声だけは、六十年経っても変わらず若々しいと言われる。それが唯一の慰めだった。
帰り道、いつものように商店街を抜けようとしたとき、ふと視線の先に見慣れない路地が目に入った。
三十年以上住んでいる街だ。この商店街のことなら、どの店がいつ閉店してどの店ができたかまで覚えている。なのに、乾物屋と美容室の間に、こんな路地があっただろうか。
傘を傾け、美冬は路地を覗き込んだ。奥には橙色の灯りがぼんやりと滲んでいる。看板らしきものが揺れているが、文字はかすれていて読めない。
普段の美冬なら、きっと素通りしていただろう。知らない路地に足を踏み入れるなんて、若い頃ならいざ知らず、今の自分には似合わない。そう思う自分と、もう一人の自分がせめぎ合った。
――今日ぐらい、いいじゃない。
気づけば美冬は、傘の柄をきゅっと握り直し、路地の奥へと足を踏み入れていた。
雨音が急に遠くなった。路地は思っていたよりずっと長く、両側の壁には見たこともない蔦の模様が這っている。歩けば歩くほど、商店街の喧騒が薄れていき、代わりに微かな鈴の音のようなものが聞こえてきた。
やがて美冬の目の前に、一軒の店が現れた。
木製の古い扉には、達筆な筆文字でこう書かれていた。
「無何有堂(むかうどう)」
聞いたこともない店の名前だった。窓越しに見える店内には、色とりどりの衣服がずらりと吊るされている。それはコートのようでもあり、着物のようでもあり、宇宙服のようにも見える、奇妙な形をした衣だった。
扉に手をかけようとしたその時、中から声がした。
「お入りください。あなたを、お待ちしておりました」
第二章 無何有堂
扉を開けると、蝋燭の匂いと、古い紙の匂いが入り混じった空気が美冬を包んだ。店内は外から見た以上に広く、天井まで届く棚には、無数の衣服が並んでいる。どれも仕立てが美しく、それでいて見たこともない意匠が施されていた。
カウンターの奥に立っていたのは、年齢不詳の人物だった。長い黒髪を一本の紐で結び、瞳の色がろうそくの灯りに合わせて金色にも青色にも見える。性別すら判然としない、静謐な佇まいだった。
「わたしは綴(つづり)と申します。この店の主人のようなものです」
「あの……この店は、いつからここに?」
「さあ。それはお客様によって違うのです」美冬の問いに、綴は微笑みながら答えた。「この店は、必要としている方の前にしか現れません」
美冬は困惑しながらも、なぜか恐怖は感じなかった。むしろ、長年探していた場所にようやく辿り着いたような、奇妙な安堵感すらあった。
「この服は……?」
「これは『装(そう)』と呼ばれるものです。人が纏わなかった人生――選ばなかった道、諦めた夢、口にしなかった本音。それらが織り込まれた一着一着です」
綴は棚から一着のコートを取り出した。深い藍色の生地に、銀色の糸で細かな刺繍が施されている。まるで夜空に星々が散らばっているようだった。
「これは、ある方が三十年前に諦めた、遠洋航海士になる夢が織り込まれています。着る人が現れるまで、ずっとここで眠っているのです」
美冬は思わず息を呑んだ。
「その方は……どうなったのですか」
綴は少し目を伏せた。
「もう十年以上前のことです。その方は結局、この装を纏うことなく、店を出て行かれました。『今更、船に乗ったところで、あの頃の自分には戻れない』と仰って」
「戻れない、から諦めた……」
「けれど、装というのは、戻るためのものではないのです。それは後で、あなたにもわかることでしょう」
綴はそう言うと、藍色のコートをそっと棚に戻した。美冬はその仕草に、どこか寂しさのようなものを感じ取った。この店には、纏われることのないまま眠り続ける装が、他にもたくさんあるのだろう。誰にも袖を通されることなく、静かに埃を被っていく無数の「もしも」の人生。それを思うと、美冬の胸は締め付けられた。
「では、他の装は……」
「棚の奥をご覧ください」
促されるまま、美冬は店の奥へと視線をやった。天井近くまで届く棚には、数えきれないほどの装が並んでいた。医師になるはずだった白衣、画家になるはずだった絵の具まみれのエプロン、遠い異国で暮らすはずだった民族衣装。どれもこれも、誰かの人生の欠片だった。
「これほど多くの『もしも』が、この街だけにあるのですか」
「この街だけではありません。無何有堂は、必要とする者がいる場所ならどこにでも現れます。ただ、纏われることを選ぶ方は、実のところ、それほど多くはないのです」
美冬は思わず綴の顔を見た。
「たいていの方は、扉を開けることさえしません。あるいは、扉の前で立ち止まり、そのまま帰ってしまわれます。ここまで足を踏み入れ、装に手を伸ばされたあなたは、実は珍しいお客様なのですよ」
その言葉に、美冬は何かを試されているような、不思議な緊張を覚えた。
「では……私にも、そういう服があるのですか」
綴は答える代わりに、静かに店の奥へと歩いていった。美冬はその後をついていくしかなかった。
奥の部屋には、一着だけ、他とは違う気配を纏った衣が掛けられていた。それは、コートというより、旅装束に近いものだった。使い込まれた革のような質感でありながら、触れると温かく、まるで生きているようだった。
「これは……」
「あなたが二十代の頃、纏うはずだった『冒険』です」
綴の声は、どこまでも静かだった。
「年齢を脱いで、冒険を羽織る――そうおっしゃっていましたね、あなたは」
美冬は目を見開いた。それは、若い頃の自分が、誰かに――いや、自分自身に呟いた言葉だった。誰にも聞かれていないはずのその言葉を、なぜこの人物は知っているのだろう。
第三章 纏った服
「これを、着てもいいのですか」
美冬の問いに、綴はゆっくりと頷いた。
「ただし、一つだけ約束していただきたいことがあります。装を纏っている間、あなたは『纏った時間』の中を生きることになります。それは夢でもなければ、幻でもありません。もう一つの現実です」
「もう一つの……現実」
「そして、装を脱ぐ時間を、ご自身で決めていただく必要があります。長く纏いすぎれば、戻る場所を見失うことがあります」
美冬は少し躊躇した。だが、心の奥で燻り続けていたあの本音が、迷いを押しのけた。
――今日ぐらい、いいじゃない。
美冬は旅装束に袖を通した。
瞬間、視界が眩く弾けた。
気がつくと、美冬は見知らぬ港町の石畳の上に立っていた。潮の匂い、遠くで響く汽笛、異国の言葉が飛び交う市場のざわめき。手には使い込まれたリュックサックの紐が握られていて、鏡のような水たまりに映った自分の姿を見て、美冬は言葉を失った。
そこに映っていたのは、二十代の頃の自分だった。
肌の張り、身体の軽さ、何より、瞳の奥に宿る「これから何が起こるかわからない」という高揚感。それは還暦を迎えてから、すっかり失っていたものだった。
「これが……纏う、ということ」
美冬は自分の手を握ったり開いたりしながら、確かめるようにつぶやいた。
その日から、美冬の「もう一つの人生」が始まった。
見知らぬ港町から次の街へ、言葉の通じない市場で身振り手振りで値切り交渉をし、汽車に揺られ、時には道に迷い、見知らぬ人々と食卓を囲んだ。若い身体で駆け抜ける世界は、記憶にあるどんな旅行よりも眩しかった。
港町を出て三日目、美冬は小さな漁村に立ち寄った。そこで出会ったのは、同じように旅をしていた青年、ミハイルという名の考古学者だった。彼は遺跡の発掘調査のためにこの地を訪れているのだと言い、美冬を発掘現場に案内してくれた。
「君のような旅人は珍しいね。まるで、何十年分もの経験を積んだ目をしている」
ミハイルの言葉に、美冬は思わず苦笑した。彼にはもちろん、美冬が本当は六十歳であることなど知る由もない。けれど、その言葉は、美冬の中に眠っていた何かをくすぐった。
「昔は、こんな風に旅をするのが夢だったの」
「昔、って。君はまだ若いじゃないか」
美冬は答えなかった。ただ、夕陽に照らされた遺跡の石組みを眺めながら、静かに微笑んでいた。
その後も、美冬の旅は続いた。砂漠の国では星空の下でキャンプをし、ラクダに乗って何日もかけて隊商とともに移動した。雪深い山村では見知らぬ家族に迎えられ、暖炉を囲んで夜通し語り合った。言葉はほとんど通じなかったが、湯気の立つスープと、身振り手振りの会話だけで、不思議と心は通じ合った。
ある夜、山村の老婆が美冬の手を取り、皺だらけの掌をじっと見つめてこう言った。
「あなたの手には、若い娘の手には似合わない何かが宿っているね。まるで、長い旅をしてきた人の手のようだ」
美冬は驚いて自分の手を見た。若々しい肌の下に、確かに何か――言葉にできない重みのようなものを、老婆は見抜いたようだった。美冬はその夜、なかなか寝付けなかった。
二十代の身体は疲れを知らず、行く先々で新しい出会いがあり、美冬の心は満たされ続けていた。けれど、旅を続けるほどに、ふとした瞬間、心の奥がざわつくことが増えていった。まるで、大切な忘れ物をしたまま、遠くまで来てしまったような、そんな落ち着かなさだった。
けれど美冬は気づいていなかった。装を纏い続けるうちに、少しずつ、現実の記憶が薄れていっていることに。
第四章 消えていく人々
一方、現実の世界では、奇妙な出来事が起き始めていた。
美冬の元教え子で、今は市役所に勤める沙耶(さや)という女性が、ある日を境に姿を消した。家族は「最初からそんな娘はいなかった」と言い張り、沙耶の存在そのものが、まるで最初からなかったことのように、街の記憶から消えかけていた。
沙耶の同僚だった青年、涼介(りょうすけ)だけが、その異変に気づいていた。彼は美冬の教え子でもあり、以前、美冬に不思議な路地の噂を聞いたことがあった。
「先生……無何有堂って店、知りませんか」
涼介は美冬の自宅を訪ねた。しかし応答したのは美冬の隣人だった。
「美冬さん? ああ、少し前から見かけないわねえ。旅行にでも行ったのかしら」
隣人の言葉に、涼介は背筋が冷えるのを感じた。美冬が旅行に出かけるなど、聞いたことがなかったからだ。
涼介は独自に調査を始めた。街のあちこちで、似たような話を耳にするようになった。ある日突然姿を消し、家族すら「最初からいなかった」かのように記録から抜け落ちていく人々。共通するのは、皆一様に、人生のどこかで「諦めた夢」を抱えていたということだった。
市役所の同僚だった沙耶の机には、彼女が最後に書いていたメモが残されていた。「乾物屋と美容室の間」――それだけが走り書きされていた。涼介はそのメモを頼りに、何日も商店街を歩き回った。
三日目の夜、雨が降り出した頃、涼介はようやくあの路地を見つけた。奇妙なことに、路地はいつも同じ場所にあるわけではなかった。ある日は乾物屋と美容室の間に、またある日は本屋と喫茶店の間に、まるで気まぐれのように現れては消えていた。涼介はそれに気づくまでに、随分と時間を無駄にしてしまった。
商店街のシャッターがひとつ、またひとつと閉まっていく中、涼介は傘も差さずに走った。もし今夜、路地を見失えば、次にいつ現れるかわからない。沙耶を、そして――胸の奥で、涼介は美冬の名前を思い浮かべていた。あの日から美冬にも会えていないことに、彼はようやく気づいたのだった。
涼介は古い商店街を歩き回り、ついにあの路地を見つけ出した。
雨の降る夜、涼介は傘も差さずに路地を駆け抜けた。
第五章 綴の正体
「あなたが、涼介さんですね」
無何有堂の扉を開けた涼介を、綴は静かに迎えた。
「沙耶を……美冬先生を、返してください」
涼介の声は震えていた。綴はしばらく沈黙した後、ゆっくりと語り始めた。
「わたしは、この宇宙のどこにも属さない者です。人々が選ばなかった可能性――量子的な分岐の中で、実現されることのなかった無数の『人生の断片』を集め、それを衣として編み上げる役目を負っています」
綴は棚に並ぶ無数の装を見渡した。
「本来、装は『纏う』ためのものではありません。人が心の奥にしまい込んだ後悔を、ほんの束の間だけ追体験し、そして手放すための儀式の道具です。装を纏った者は、いずれ自らの意志で脱ぎ、現実へと戻ってくるはずでした」
「はずでした、というのは……」
「ここ最近、装の織り目に綻びが生じているのです。装の力が強くなりすぎ、纏った者たちが、現実に戻る意志そのものを失いつつある。彼らは分岐した世界――もう一つの人生の中に、留まり続けてしまっている」
綴の瞳に、初めて憂いの色が浮かんだ。
「わたし自身、この綻びの原因を掴みかねています。ですが、このまま放っておけば、纏った方々は元の世界から完全に消え、世界の記憶からも消去されてしまうでしょう。既にお二人ほど、その兆候が」
「沙耶と……美冬先生」
涼介は拳を握りしめた。
「先生を、助ける方法はあるんですか」
綴は少し考えた後、静かに頷いた。
「一つだけ。装を纏ったまま分岐世界に深く入り込んだ者を引き戻すには、現実世界とその者を繋ぐ『まだ燻っている本音』――いわば未練の糸を、外側から手繰り寄せる必要があります。それができるのは、わたしではなく、その方を大切に想う、現実世界の人間だけです」
第六章 もう一つの世界
美冬は、いくつもの街を巡っていた。
砂漠の国では星空の下でキャンプをし、雪深い山村では見知らぬ家族に迎えられ、暖炉を囲んで夜通し語り合った。二十代の身体は疲れを知らず、行く先々で新しい出会いがあり、美冬の心は満たされ続けていた。
けれど、ある夜、山小屋の窓に映った自分の顔を見て、美冬はふと違和感を覚えた。
――わたしは、誰だったろう。
一瞬、名前が出てこなかった。図書館で読み聞かせをしていたことも、隣に住む猫好きの老婦人のことも、記憶の輪郭がぼやけ始めていた。ただ、この旅の高揚感だけが、鮮明に残っていた。
「おかしいわ……」
美冬は自分の頬に触れた。若々しい肌の感触。けれど、その下にあるはずの、六十年分の記憶が、まるで薄い紙のように透けて消えかけていた。
そのとき、遠くから声が聞こえた気がした。
「先生」
聞き覚えのある声。誰だったか、思い出せない。けれど、その声を聞いた瞬間、美冬の胸の奥で、小さな灯りが揺れた。
「先生っ、美冬先生!」
美冬は目を閉じた。頭の中に、断片的な光景が蘇り始める。図書館の絵本の匂い。子どもたちの笑い声。隣人のお婆さんが淹れてくれるお茶。そして――
「涼介……くん?」
名前を思い出した瞬間、美冬を包んでいた旅の景色が、ガラスのようにひび割れ始めた。
第七章 綻び
現実世界。無何有堂の奥の部屋で、涼介は綴に導かれ、美冬が最初に袖を通した旅装束の残り布に手を触れていた。
「この布には、美冬先生の想いが、まだ僅かに残っています。あなたが心から先生を想う気持ちを込めて、この布に語りかけてください。それが、先生を引き戻す糸になります」
涼介は目を閉じ、記憶を辿った。
高校生の頃、美冬先生に勧められて読んだ本のこと。進路に迷っていたとき、先生が「あなたが本当にやりたいことを、諦めないで」と言ってくれたこと。あの時の言葉が、今の自分を作ってくれたこと。
「先生……先生がいなくなったら、俺、あの時の言葉に応えられなくなる。先生は、俺に『諦めるな』って言ったじゃないですか。なのに、先生自身が、こっちの世界を諦めるなんて、ずるいですよ」
涼介の声が震えた。
「先生の読み聞かせの声、俺、好きでした。子どもの頃、母が忙しくて、先生の図書館の時間だけが、俺の居場所だったんです。だから――帰ってきてください」
布がぼんやりと光り始めた。綴は静かにその様子を見守っていた。
「これで、糸は繋がりました。あとは、美冬さんご自身の選択次第です」
第八章 選択
もう一つの世界で、美冬は雪山の斜面に立ち尽くしていた。目の前には、二つの道が見えていた。
一つは、このまま旅を続ける道。二十代の身体のまま、世界中を旅し、誰にも縛られず、思うままに生きる人生。もう後悔することも、諦めることもない。
もう一つは、六十年分の記憶と、皺と、白髪と、そして涼介の声が待つ、あの現実の道。
美冬は長い間、その場に立ち尽くしていた。
――ここに残れば、もう「歳相応に」なんて言葉に縛られることはない。ずっと、あの頃のままの自分でいられる。
けれど、ふと美冬の脳裏に、還暦を迎えたあの夜の自分の姿が浮かんだ。鏡の前で白髪を数えながら、それでも「自分はいつまでも自分でありたい」と、静かに燻っていたあの本音。
――あれは、二十代に戻りたいという願いだったのだろうか。
違う、と美冬は気づいた。
あの燻る本音は、若さそのものを求めていたのではなかった。ただ、今の自分のまま、纏ったことのない服を纏う勇気が欲しかっただけだった。二十代の身体を借りて、二十代の人生をやり直すことではなく、六十歳の自分のままで、新しい冒険に踏み出したかっただけなのだ。
「わたしは……」
美冬は雪の中に立ったまま、静かに目を閉じた。
「わたしは、逃げたかったんじゃない。取り戻したかったんだ」
その言葉と共に、美冬を包んでいた旅装束が、ふわりと解けていくのを感じた。
第九章 今日という日
意識が戻ったとき、美冬は無何有堂の奥の部屋の椅子に座っていた。目の前には、涙目の涼介と、静かに微笑む綴の姿があった。
「先生……! よかった、本当に……」
「涼介くん……ありがとう」
美冬は自分の手を見た。皺の刻まれた、見慣れた六十歳の手だった。けれど、なぜだろう、その手を見つめる美冬の心は、これまでにないほど軽やかだった。
「沙耶さんは?」
「先生が戻られたことで、綻びが少し塞がったようです。彼女もまもなく、目を覚ますでしょう」綴が静かに答えた。
美冬は綴に向き直った。
「綴さん。装というのは、結局のところ、何だったのでしょうか」
綴はしばらく考えた後、答えた。
「装は、失われた可能性そのものです。けれど、それは決して『戻るべき場所』ではありません。あなた方が本当に取り戻すべきものは、装の中にではなく、あなた方自身の、これから先の時間の中にあるのです」
美冬は静かに頷いた。
「わたし、わかった気がします。年齢を脱いで冒険を羽織るというのは、若返ることじゃなかった。今のわたしのままで、新しい服に袖を通す勇気を持つことだったんです」
綴は微笑んだ。その微笑みは、初めて見せる、どこか安堵したような表情だった。
「その通りです、美冬さん」
終章 纏ったことのない服
数日後、無何有堂は静かに姿を消した。あの路地も、乾物屋と美容室の間から跡形もなく消え去り、まるで最初から存在しなかったかのようだった。
沙耶は無事に目を覚まし、あの数日間の記憶は曖昧なまま、それでも「何かとても大切なことに気づいた気がする」と、涼介に語った。
美冬は、あの日以来、少しずつ変わり始めていた。
通信講座で諦めていたスペイン語の勉強を再開し、来月には近所の登山サークルに体験参加することにした。子どもの頃から憧れていた遠くの街への一人旅も、来年の春に計画している。
還暦という言葉は、もう美冬を縛る鎖ではなくなっていた。それはただの、通過点の名前に過ぎなかった。
沙耶は目を覚ました後、市役所を辞め、以前から興味を持っていた地域の子育て支援NPOで働き始めた。「なんだか、雪山で誰かに背中を押されたような気がするんです」と、彼女は照れくさそうに涼介に語ったという。もちろん、その「誰か」が美冬であったことを、沙耶自身は知らない。
涼介は、あの夜のことを誰にも話さなかった。話したところで、誰も信じないだろうとわかっていたからだ。けれど、彼の中で何かが確かに変わっていた。それまで「安定しているから」という理由だけで続けていた仕事を辞め、以前からやりたいと思っていた、子ども向けの科学教室を開く準備を始めていた。
「先生に、諦めるなって言われましたから」
久しぶりに図書館を訪れた涼介は、そう言って笑った。美冬はその笑顔を見て、目頭が熱くなるのを感じた。かつて自分が誰かに掛けた言葉が、巡り巡って、今度は自分自身を救う糸になっていたのだと、美冬はようやく理解した。
ある日の夕方、図書館での読み聞かせを終えた美冬は、いつもの商店街を歩きながら、ふと乾物屋と美容室の間に目をやった。もちろん、そこにあの路地はない。ただの、狭い隙間があるだけだった。
美冬は小さく笑った。
「また、いつか会えるかしらね」
誰に言うでもなく呟いたその言葉は、夕暮れの風に溶けて消えていった。
家に帰り着いた美冬は、鏡の前に立った。白髪の増えた髪、目尻の皺、けれど、その奥に宿る瞳の輝きは、あの旅装束を纏った二十代の自分と、何一つ変わらなかった。
「さあ、行こう」
美冬はクローゼットを開けた。そこには、ずっと着ることを躊躇っていた、鮮やかな色のジャケットが掛かっていた。娘が誕生日にプレゼントしてくれたものだった。「派手すぎる」と一度も袖を通したことのなかったそのジャケットに、美冬はゆっくりと腕を通した。
来年には、また一つ齢を取る。
けれど、今日という日は、これから先の人生の中で、一番若い日なのだ。
美冬は玄関のドアを開け、夕暮れの街へと、新しい一歩を踏み出した。
数か月後、美冬はついに念願だった一人旅に出た。行き先は、若い頃に一度だけ写真集で見て憧れた、遠い異国の港町だった。飛行機に乗るのは十数年ぶりで、搭乗ゲートで少し手が震えたけれど、それすらも愛おしく思えた。
到着した港町の石畳を歩きながら、美冬はふと、あの旅装束を纏って歩いた景色を思い出していた。あれは幻だったのだろうか、それとも、確かに存在したもう一つの現実だったのだろうか。今となっては、確かめる術はない。ただ、あの旅で感じた高揚感だけは、六十歳の美冬の胸の中に、確かに息づいていた。
港の市場で、美冬は一枚のスカーフを買った。鮮やかな藍色に、銀色の刺繍が施された、どこか見覚えのあるスカーフだった。店主に尋ねても、いつからこの店にあったのか誰も覚えていないという。美冬はそのスカーフを首に巻き、潮風に吹かれながら、静かに微笑んだ。
「また会えたわね」
誰に言うでもなく呟いたその言葉は、遠い異国の風に溶けて、青い海の彼方へと消えていった。
美冬の新しい一歩は、まだ始まったばかりだった。この先も、纏ったことのない服が、きっといくつも待っている。それがどんな形をしていようと、どんな色をしていようと、美冬はもう恐れることなく、その袖に腕を通すだろう。
なぜなら、今日という日は――いつだって、これから先の人生で、一番若い日なのだから。
―――完―――
あとがき
「今日という日は、これからの人生の中で一番若い日」――作中で美冬が辿り着いたこの言葉は、私自身が日々の暮らしの中で切実に実感している思いでもあります。
過去を振り返って後悔したり、もしもの選択に心を残したりすることは誰にでもあります。しかし、どれほど時間を巻き戻したくとも、真に大切なのは「今の自分のままで、新しい衣服に袖を通す勇気」なのだと、美冬の物語を通じて改めて教えられた気がします。
読者のみなさまの明日が、新しい一歩を踏み出す鮮やかな一日に彩られますように。心からの感謝を込めて。

